2024年12月3日火曜日

ノートルダム大聖堂の再開には厳重警戒体制が敷かれるらしい・・

  


 約5年ぶりのパリ・ノートルダム大聖堂の再開は、「混雑するだろうな・・」くらいに軽く考えていたのですが、どうやら、「混雑するだろうな・・」くらいでは済まないようで、パリ市はこのために厳重警戒体制を敷くことを発表しています。

 この厳重警戒体制には、6,000人の警察官・憲兵隊が動員され、高所からの狙撃兵を要するBRI(調査介入旅団)も出動する予定です。周囲一帯の道路・駅などが閉鎖され、このゾーンへの通行する人々も制限される非常に高いレベルのテロ警戒体制になるようです。

 もっともこれは、12月7日(土)と8日(日)の祝賀行事のためのもののようですが、それにしても、周囲の交通規制などは、早いところでは、水曜日から始まります。

 水曜日の午後12時から規制が始まるのは、ポン・ドゥ・ラ・トゥルネ橋とポン・ヌフ橋の間の左岸岸壁での自動車の通行が禁止され、迂回になります。自動車道も通行止めになりますが、歩行者のみが自由に通行できます。

 土曜日からはさらに制限が強化され、国内安全保障テロ境界線が設けられ、これは、シテ島全体といくつかの橋が含まれます。

 また、シテ島の全ての店舗は全店休業、左岸の高岸壁では、土曜日の午後3時以降はテラス席は禁止。地雷撤去のためブキニストは水曜夕方から休業。

 右岸の岸壁では道路通行は維持されますが、土曜日の午後5時から午後5時まで、コンコルドからアレクサンドル3世橋からポンヌフまでの国家元首の行列の通行を警備するため、時折通行止めが計画されています。

 パリ市警察は日曜日の午前9時から午後2時まで警察本部はパリ市内中心部での運転を避けるよう勧告しています。

 また、このゾーン内にバスが通らなくなります。

 4号線とRER B:サンミッシェル駅とシテ駅は土曜日は終日閉鎖され、日曜日は午後8時まで閉鎖されます。電車は走りますが、これらの駅には止まりません。

 7 号線: ポンヌフ駅は土曜日の午後 5 時から午後 11 時までと日曜日の午前 9 時から午後 2 時 30 分まで閉鎖されます。

 RER C: オーステルリッツ駅とオルセー美術館間の交通は土曜日の午後 12 時から午後 10 時まで完全に遮断され、日曜日には通常に戻ります。

 なんだか、この厳重警戒体制の様子を見ると、ずいぶん閉鎖的な感じがしないでもありませんが、そんな印象を払拭するためか、式典の様子を一般の人が見られるよう、左岸の岸壁に複数の巨大スクリーンが設置されます。

 ホームに設置されたボックスには 40,000 人が収容可能です(オリンピックの開会式に設置されたボックスと同様)。土曜日の午後 3 時からは空き状況に応じて無料でアクセスできます。(空いてるわけないと思うけど・・)

 どちらにしても、以前は気軽に行けていたノートルダム大聖堂ですが、当分の間は大混雑が予想され、お目にかかれるのは、当分、先のことになりそうな気がしてきました。

 パリ・オリンピックの厳重警戒体制ですっかりこの手の警備には自信を持った感じのパリ市、ただし、今回はオリンピックの時に比べれば、規制される範囲もずっと狭いので、そこまで、混乱することはないとは思います。

 しかし、土日にかけて閉店しなければならない店舗などは、この年末の稼ぎ時の週末終日休業は痛い話・・と嘆きの声をあげています。たしかに12月に入り、パリ市内は街中もキラキラしてきて、いつもよりも人出が多い感じで、やっぱりノエル前はみんながお金を使う時期だなぁと感じるので小さな商店などは12月の週末終日休業はけっこう辛い話かもしれません。

 ただし、このノートルダム大聖堂周辺の店舗に関しては、これから大聖堂の再開で、これまでの何倍ものお客さんを期待でき、おそらく、長いかき入れ時が続きそうな気もします。

 人混みが大嫌いな私は、当分、無理かもしれません。


ノートルダム大聖堂のための厳重警戒体制


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2024年12月2日月曜日

大炎上しているマクロン大統領夫人の発言

  


 ル・モンド紙の紙面に掲載されたブリジット・マクロン(マクロン大統領夫人)の発言が俄かにSNS上で大炎上しています。

 X(旧Twitter)上のトレンドにマクロン大統領ならばともかく、「Brigitte Macron」が入っていたので、「何ごと?」と思って見てみたところ、どうやら彼女の発言が物議を醸し、フランス人を怒らせている模様。

 これは、この発言をしている映像が流れているわけではなく、真偽のほどは確かではない気もするのですが、一応、フランスでは一流紙の「ル・モンド紙」の記事で、そこまでいい加減な話は書けそうもない気もしますが、話の流れのうえでの誤解でしょうか?

 この記事によると、この発言は2024年6月にミシェル・サルドゥ(フランスのシンガー)に国家功労勲章の記章を授与する際になされたものとされていますが、6月の出来事がなぜ?今ごろ?と思わないでもありません。この授与式にはサルドゥを含めて8人のゲストが招かれていました。

 本来ならば、国家功労章を授与するような席だったら、この賞を受賞する人々を讃えるような発言が飛び出すだろうし、実際に、マクロン大統領自身は、彼らにこの賞を授与しながら、一人一人に彼らの業績を讃える言葉を投げかけていたようです。

 その中で、どういう文脈で彼女のこの発言が出てきたのかわかりませんが、「フランス人は夫(有能な)に値しない」と言い放ったとのことで、これだけ聞くと、大統領夫人としては、ちょっと唖然とさせられるような発言です。

 もしかしたら、なにかの話の文脈の中での「切り取り」がなされたもの?と考えられないわけでもありませんが、どう切り取られたとしても、やはり、大統領夫人として公の場で言うべきことではありません。

 これでは、国民のための大統領であるはずが、大統領のためのフランス国民で、その国民が大統領のレベルにふさわしくない・・と受け取られても仕方ありません。

 どうにも今年に入って、雲行きの怪しいマクロン政権、マクロン大統領を嫌う人が増えていると思われる中、この彼女の発言により、「火薬に火がつけられた」と評する人も少なくありません。

 この類の発言は、2022年にマクロン大統領の父親が地方紙のインタビューに答えて、「息子(マクロン大統領)の働きに対して、フランス人はあまりにも恩知らずだと思うが、これは今に始まったことではない・・」と発言し、これまたプチ炎上しましたが、さすがにこれは、地方紙のインタビューでの話で、公の席でもありません。(それでさえも、地方紙のメディアとはいえ、公表されることを知ってのうえでなかなかな話だとは思う・・)

 そのうえ、父親というのは、どんな家庭でも、まあ、まだ親バカ・・ということで、少々、薄められる感じを受けなくもありませんが、大統領夫人となると、なぜか反感はさらに強くなります。

 マクロン大統領のような超エリートでやり手?の人々は、多かれ少なかれ、内心は似たようなことを思っているのではないかと感じないでもありませんが、口にしていいこと、悪いこと・・というよりも、こんなことを言って、プラスになることは一つもないのに・・と思います。

 案の定、SNS上では、これに反発する声が溢れていて、「親愛なるマクロン大統領夫人、たしかに私たちには、これほど傲慢で無能な大統領を迎える資格はありません!」などという言葉が飛び交っています。

 ちょっとした発言の大炎上・・。

 まあ、炎上には慣れているであろうけど、あまり良い話ではありません。


マクロン大統領夫人発言 大炎上


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2024年12月1日日曜日

最近、とみに思うことの一つ 母と話したい・・

  


 私の母親との関係は、そんなにべったりした親子関係ではなかったけれど、かといって、全く、冷たい関係などではなく、むしろ、特に幼少時は母はしっかり私を教育してくれていたし、その最たるものは母が私にしてくれた英語教育で、本当に私が幼稚園くらいの時から母は自分が英語好きであったということもあって、母自らが私に英語を教え、英語に慣れ親しめる生活を送らせてくれていました。

 母は私に英語を教え始めたことをきっかけに、近所の子どもたちにも英語を教えるようになり、その後は英語のワークブックを出版したりまでして、しまいには、英語教育をする人向けの講演会などまで開催するようになり、主婦業、家事とともに忙しい生活を送っていました。

 しかし、結局のところ、母の本業?というか、もっとも大事にしていたのは、自分自身が子どもに英語を教えることで、それは晩年まで続けていました。

 母は心臓病を抱えていたので、晩年は、入院さえしなかったものの、家で安静にする生活をしていたものの、子どもに英語を教えることだけは続けようとしていたのですが、他の生活を制限までしているのに、自分の仕事を続けるのは無理だろうという周囲の意見もあって、本当に最後の2~3年は、その仕事も諦めてしまいました。

 我が家は母が幼少期から私たち子どもに英語を教育してくれたおかげ?もあって、私たちは二人とも海外生活をすることになり(といっても私はフランス語圏なのですが・・)、結果的に母は寂しかっただろうと思う反面、私が職場で「英語、上手だね(フランスでだけど)・・とほめられたよ!おかげさまで・・」などと報告すると、とてもうれしそうに満足気にしていました。

 私は、現在はあんまり英語を使う生活ではありませんが、弟などは、ほぼ英語で仕事をしているので、やはり母にはとても感謝していると思います。

 歳を重ねるにつけ、女性特有?の体調の変化や体力の衰えを感じ始めると、たびたび、母がいてくれたら、色々と聞いてみたかったな・・そういえば、母が体調について、こんなことを言っていたな・・などということを思い出したりすることが増えてきました。

 先輩の女性としたら、私にはけっこう今でも仲良くさせていただいている叔母たちもいて、話そうと思えば話はできるのですが、そこはやっぱり母の方がいいな・・と思ってしまうのは、年がいもないことですが、やっぱり今さらながら親子の距離感なんだな・・。

 母が亡くなってしまってから、もうそろそろ20年近くなるし、その2年後には、夫が急逝してしまったので、特に夫が亡くなってしまったときなどは、「母が生きていてくれたら、絶対に何をおいてもかけつけてくれただろうに・・」などと恨みがましく思ったりもしました。私にとっては、あの時の2~3年は本当にダブルチョップを受けた感じでボロボロでした。

 あれから徐々に更年期やら、体調の変化に気付くたびに、たぶん、あの時、母が言っていたことは、こういうことだったんだろうな・・と思うことが度々ありましたが、最近は、また別の意味で、最後まで母が子どもに英語を教えることをやめたくなかったことがわかるような気がする・・というより、やらせてあげればよかった・・と思うようになりました。

 最近、自分の体調がいま一つであったりすることもあるのですが、一応、夫が亡くなって以来、一人で子育てしてきた娘もどうにか自立し、これまで娘のことを第一に暮らしてきたので、しばらくはなんだかぽっかりとした気分でもいましたが、自分のためだけの生活というものの心地よさも、すっかり、しっかり楽しめるようになりました。

 しかし、これを死ぬまで続けていくのかと思うとなんとなく虚しい気もしないこともなく、これで夫でもいれば、まだ、二人で何かするということもあったのでしょうが、本当に半分余生のような気がしないでもありません。

 まあ、考えてみれば、高齢の人々はたいていそんな感じなんでしょうが、みんなどんな感じで暮らしているんだろう?などと思ったりもします。

 そんなとき、母が最後まで体調を押してまで子どもに英語を教えることを続けたかった気持ちが今では、なんとなくわかる気がするし、そばに私がいたら、それに協力してあげることもできただろうに・・とそんな気持ちになっています。

 母は、今の日本人の平均寿命からするとかなり早くに他界してしまったので、余計に母との時間は短かったとは思いますが、海外生活をしていた分も母との時間が少なくなってしまいました。

 最後の数年間は、今のようなネットでいつでも電話できるというわけではなかったのですが、それでも一週間に一度は必ず母に電話するのが習慣になっていて、もしかしたら、下手に同じ日本にいるよりも話はしたかもしれません。

 私は父とは、険悪とは言わないまでも、あまり良い関係とも言い難い分、母方に傾く傾向があったかもしれませんが、母娘というのは、やっぱり特別な関係でもっともっと一緒の時間を過ごしたかったな・・もっともっと話をしたかったな・・と年齢を重ねた今、とみに思うようになっています。


母との時間


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