2019年10月28日月曜日

フランス人の夫との離婚の危機




 思い出というものは、嫌なことは、どんどん忘れて、楽しかったことばかり、覚えている私ですが、そういえば、私も、もう、主人とは、別れて、日本に帰ろうと思ったことがありました。

 アフリカからフランスへ転勤になり、海外では、外交官生活を送っていた主人が、その外交官生活を終え、フランスの財務省に戻った頃のことでした。

 主人は、まだまだ、海外生活を続けるつもりで、頑張って、仕事をしていたのですが、突如、フランスに転勤ということになり、フランスに戻って、しばらくは、うつ病のようになってしまった頃のことです。

 あの頃は、すべてがうまく行かずに、アパートもなかなか見つからず、親戚の持っていたアパートに仮住まいをし、娘の出生証明書は、アフリカで、発行してもらったものの、出生証明書に不備があったり、国籍の再申請をしたり、私のビザの手続きなどなど、すんなり進まない手続きに、気を揉みながら、なすすべもなく、ひたすら、時間のかかる手続きを待ちながら、毎日を過ごしていました。

 娘は、生まれて3ヵ月でパリにやってきましたので、まだ、ほんの赤ちゃんでした。

 何と言っても、私が一番、困ったのは、主人の鬱状態と、情緒不安定な生活でした。

 転勤先の仕事にも、行ったり行かなかったり、二人でさんざん話し合っても、やはり、主人の状態は、なかなか、好転せず、気分が上向きの時は、良いのですが、鬱状態になると、急に怒り出したり、起きられなかったりという日が長く続いていました。

 私のビザが取れて、娘を預ける保育園が決まって、私が仕事を始めた頃も、まだ、主人は、朝、起きれず、後から行くと言っていたのに、私が娘を連れて仕事に出かけて帰ってくると、結局、今日も仕事に行っていなかった・・という日が頻繁にありました。

 そんな主人の姿を見るにつけ、最初は、怒っていた私もだんだんと言葉を無くし、不安にかられる日が続きましたが、何もわからずに成長していく娘を放っておくことはできず、娘に対してできることを黙々と積み重ねる日々でした。

 幸いにも、義兄夫婦である家族が比較的、近くに住んでいましたので、折りに触れ、相談に乗ってもらったり、気分転換させてもらっていましたので、結果的には、ずいぶんと救われました。

 それでも、生まれたばかりの娘を、父親のいない子供にはしたくないと思いながらも、小さい子供を抱えて、働きながら、外国の地で暮らしていくのに、この主人の状態で、乗り切っていけるだろうか? と、少なからず不安ばかりが募り、一度は、もう主人とは、別れて、日本へ帰ろうと思ったことがありました。

 日本の両親も心配して、電話やファックスを送ってくれたりして、「もう、ダメだと思うなら、子供を連れて、もう日本へ帰ってきた方がいい。ただ、色々な書類だけは、きっちりしてきなさい。」と言われていました。

 困難な状態が続いて、さんざん悩んで、私も心身ともに疲れきって、意を決して、いざ、私が、「もう日本へ帰ろうと思う。」と母に話した時、電話口の母から帰ってきた言葉は意外なものでした。

 「日本へ帰ってくるのは、構わないけれど、あなたたちは、家で一緒に暮らせると思ってもらっては困る。」

 その時の母の真意は、わかりませんが、「子連れで、出もどりだ・・」と考えていた私には、いざとなると、世間体を気にする母に、少なからず、ショックを受けました。

 義姉からも、「しばらくは、日本のママのところに帰って、休んだ方がいいかもしれない。」と言われていたので、母から言われた言葉をそのまま義姉に伝えると、首をひねりながらも、「それでは、こちらでなんとか頑張るしかないわね・・。」と言われて、私も、「私には、もう、帰るところは、ないのだ。」と腹をくくって、フランスに留まることにしたのです。

 それから、しばらくして、パリにアパートが見つかり、様々な手続きも済み、娘も幼稚園に通い始めた頃に、ようやく、主人の鬱状態も回復し始め、仕事にも毎日、行けるようになり、なんとか、日常生活も順当に運ぶようになりました。

 それでも、毎日の生活は、仕事と子育てで、いっぱいいっぱいで、ささやかな娘の成長を糧に暮らしているうちに、時は過ぎて、いつの間にか、主人と別れようと思っていたことなどは、忘れていました。

 あの時の母の言葉の真意は、問いただすのも怖くて、母には、一生聞けず仕舞いで、母は、亡くなってしまいましたが、母が本当に、世間体を気にしてそう言ったのか、それとも、私をもう一度、奮い立たせるためにそう言ったのかは、今でもわからないままなのです。
















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