2020年2月29日土曜日

日本での「おフランス」の高級イメージ商法





 高いからこそ、価値があり、高いことによって、ますますその価値が上がるという不思議な現象があります。多くのフランスの製品は、その「おフランス」とも揶揄される漠然としたイメージから、高級品扱いされ、実際に高価になってしまっているものが、多いです。

 ルイ・ヴィトン、シャネル、エルメス、ディオールなどのブランド品などは、実際のデザインやクオリティーも優れていますが、果たして、それらにつけられる値段には、イメージという不確かなものも、上乗せされています。

 それは、モードやファッション、化粧品や香水などばかりではなく、身近なところでは、食料品などにも及びます。

 日本に行って、見て歩くのは、ファッションなどのブランド品ではなく、もっぱら、食料品ばかりの私ですが、フランスの食料品の値段には、ちょっとびっくりさせられます。

 いやいや、ちょっとじゃなくて、だいぶです。

 チョコレートやマカロンなどの洋菓子類、これらは、もともと、フランスでも、かなりのお値段なので、まずまず、まだ、理解できる範疇ではありますが、こと、乳製品、バターやチーズに至っては、日本での値段は、ちょっと常軌を逸しています。

 もちろん、輸入品扱いになるわけですから、関税がかけられていることもありますが、それにしても、その値段は、とても関税分がプラスされているだけとは思えず、最も日本に出回っているであろうカマンベールチーズでさえ、フランスでは、2ユーロ程度のものが、2000円以上で売られており、10倍近い値段です。

 その他、日本人に人気のエシレバターなども同程度の値段の開きがあります。

 一体、そんな値段のバターやチーズをどんな人が買うのかと思いますが、たとえ一部ではあっても、売り場を占領してでも置いてあるということは、必ず買っている人がいるわけで、ファッションなどのブランド品に比べれば、値段は、大したことはないにせよ、日頃、フランスでの値段を見ているだけに、ちょっと理解し難い値段です。

 日本に行って、外食をする度に、ユーロに換算しては、その安さに驚いて、感激するのですが、(値段に対してのクオリティー、いわゆるコスパが抜群)、逆にフランスの乳製品の値段には、びっくりするくらい高価な値段がつけられているのです。

 日本では、高価なものと安価なものの差が極端なような気がします。

 エシレバターの「エシレ」などは、もはや、立派なブランドであり、「エシレ」と名が付くだけで、パンでもアイスクリームでも、驚くほどの値段に跳ね上がり、たちまち行列ができます。

 フランスのパン屋さんも、進出していますし、日本で見かけるパン屋さんは、たとえフランスには、ないお店であっても、高級なパン屋さんには、フランス語の名前が付いていることが多いです。

 「おフランス」の高級なイメージは、実際のフランス以上に、日本では、至る所に商売に使われていることに、日本へ行く度に、驚かされるのです。

 

 

2020年2月28日金曜日

コロナウィルス騒動の中の日本からの帰国 




 毎回、毎回、どうして、こんなに帰り際になって、バタバタしてしまうのかと思う、日本からの帰国。これもひとえに、その大きな原因の一つは、日本から持って帰ってくるほぼ食料の荷物の調整に他なりません。

 日本滞在中に、これでもかと言わんばかりに食べまくりながら、買い集めた食料と、お土産などにいただいた食料、そして、それプラス、それをなんとか、少しでも合理的に済まそうと、株主優待で、注文した食料が家に届くのを待って、荷造りをするために、最後の最後まで、計量を重ねつつ、必死で、包装してある箱を取り除いて、ジップロックに詰めてみたり、荷物を出したり入れたりと、出発前日は、その繰り返しと、それでも買い忘れていたものの買い足しなどに追われるのです。

 今回は、株主優待で頼んでいたお米が前日にギリギリに届き、待っていたウナギがとうとう、届きませんでした。

 もうスーツケースに入りきらず、重量もオーバーなので、私の洋服などは何枚も重ね着する羽目に・・。羽田のチェックインの際に、計量をなんとか済ませて、荷物を預けた頃には、もう汗だくで、今度は、汗だくになって、真っ赤な顔をしている自分に気づいて、コロナウィルス感染者と間違われるのではないかと心配になり、慌てて、トイレに行って、重ね着した洋服を脱いで、手荷物に入れ、はたと、我に戻ると、自分で、一体、いい年をして、何をやっているのだろうかといい加減、自分の強欲さに嫌気がさしてきます。

 今回は、フランスに日本人は、バイ菌扱いされて、入国拒否?なんてこともあるかと心配していましたが、チェックインの際にも確認し、実際にフランス入国の際には、いつもとなんら変わりはありませんでした。

 でも、帰りの飛行機は、さすがに空いていて、ほぼほぼ日本人ばかりでしたし、半分くらい?空席でした。私も前に席のない位置の座席を予約していましたが、3席を一人で使って、右側の席にテーブルを出し、左側の席に映画用のスクリーンを出し、真ん中の席に陣取って、ビジネスクラス並み?それ以上の楽なフライトとなりました。

 逆にビジネスクラスの方が席が埋まっていて、窮屈そうでした。

 意外にも、驚いたのが、ツアーとみられるグループが何本かいたことで、最近、とんと見かけなくなった日本人の団体旅行客、しかも、このコロナウィルス騒ぎの中、ツアーで旅行する人がいるのにビックリしました。

 前々から、予約していて、キャンセルすることが躊躇われたのか?卒業旅行のシーズンでもあり、比較的、中年以降の人もいたりして、むしろ、日本よりフランスの方が安全だと思っているのか?これだけ、日本で騒いでいる中、ちょっと意外でした。

 空港からは、タクシーで家に帰りましたが、「デモやストライキはどうなっているの?」などと、明日、誕生日だという運転手さんとおしゃべりしながら、家に戻ると、猫のポニョがお出迎え。

 いつもは、日本から戻っても、ツンデレを貫こうとしつつも、甘えたいのを抑えきれない感じのポニョが、今回は、なぜか、もう何もかもかなぐり捨てての「お留守番は、嫌だった!」という抗議か、ニャーニャーではなく、ギャーギャー鳴いて、私の後をついて回り、家について、荷物を開けて、冷蔵庫、冷凍庫に入れるものだけをなんとか、収めて、あとは、もう眠くて眠くて我慢できずに寝てしまったら、夜中の2時半に目が覚めて、トイレに行こうとしたら、私の部屋のドアのところで、まるで、私を見張っていたかのように待っていて、トイレにまで、ギャーギャー言いながら、着いてくる始末。

 なんか、可愛いのを通り越して、どんなにか寂しい思いをしたのかと思うとかわいそうな気持ちにさせられました。

 色々な人に会えて、用事もひととおり、ひとまず済んで、美味しいものも食べまくった日本滞在。

 ポニョ、またしばらく、日本には、行かないから、安心してね。

2020年2月26日水曜日

フランスとは、大違い!日本の配送事情はやっぱりスゴい!




 日頃から・・といっても、普段は、日本で生活をしていないので、偉そうには、語れませんが、日本の郵便、配送事情は、素晴らしいと思ってきました。実際に、日本の配送システムは、その安全さ、正確さから見ても、おそらく世界でもトップレベルの水準なのではないかと思います。

 コンビニでも配送を請け負ってくれるようになって以来、24時間体制で、配送は、受け付けられ、受け取ることもでき、また、紛失したとかいうことも聞いたことも、経験したこともありませんし、不在通知に対する対応も、再配達についても、細かく時間指定ができるようになっていて、感動しました。

 フランスの配送事情の悲惨さは、過去、何度か書いてきましたが、まあ、まともに届かないと思っていた方が精神衛生上よろしい感じで、ましてや不在通知など、不在でなくても置いていくこともしばしばで、まず、郵便物、配送品などの問い合わせの電話からして、日本なら、フリーダイヤル、フランスだと、普通の電話料金以上になにやら、課金されるシステムの電話。

 その上、なかなか繋がらず、繋がったと思っても、延々と電話口で待たされて、ようやく出てきたと思ったら、「近いんだから、取りに来い!」と言われることもあり、「配送料金を払っているんだから、届けろ!」と、たちまち戦闘体制になるのです。

 しかし、今回、日本に帰国して、「ほんとうに日本の配送業者はありがたい・・」と、ツイートしたとたん、不在通知が入っていた郵便物の再配送を○日の午前中と、お願いしていたのに、午前中いっぱい待っても、なんと郵便物が来なかったのです。

 まさか、日本で、こんなこと!帰国が迫って、焦っていることもあり、郵便物を待って、出かける予定にしていた私は、フランスの呪いがかかっているのか?と、一瞬、青ざめました。

 すぐに、コールセンターに電話すると、「大変、申し訳ございません。すぐにお調べ致します。」と言われて、10分後、「た〜いへん、も〜しわけございません!ただいま、混み合っておりまして、少々、遅れております。すでに、配達に出ておりますので、少しお待ちください。」と平身低頭。

 そして、その5分後に、郵便物は、届いたのでした。

 もし、私自身が大して急いでいなければ、多分、問題のないところでしたが、問い合わせの電話をした途端に届くあたり、日本の配送システムは、やはり、スゴいなぁと思ったのです。

 そして、むしろ、寒い中、「遅くなって、申し訳ございませんでした。」と、慌てて、届けてくれたおじさんが、気の毒な気さえしてしまうのでした。

2020年2月25日火曜日

日本はとにかく美味しい




 娘がまだ、小さい頃は、せめて、年に一度くらいは、日本のパピーとマミー(フランス語でおじいさんとおばあさんという意味です。)に会わせるため、また、日本語に少しでも、触れさせようと、小学校低学年までは、必ず、実家の近所の小学校に体験入学させていただくために、日本へ帰国するようにしていました。

 娘が成長した今、そして、両親も亡くなってしまった現在は、銀行等の諸用や、運転免許証の書き換え、実家の片付けなどの大義名分がいくつか重なった時に帰ってくるのですが、実際のところは、食べるために帰ってきているといっても過言ではありません。

 日本に帰国を決めると、まず、持って行く、お土産の調達をし、到着翌日に、日本の美容院の予約を入れ、それから、まず、手続き等に時間がかかりそうなものから、手をつけ始め、目処がついたところで、会いたい友人との予定を入れ込み、友人には、食べたいものをリクエストしておくと、お店を選んでおいてくれるので、(とは言っても、日本(東京)での私の行動エリアは、限られているので、まあ、毎回、似通った場所になります。)食べること最優先で、動きます。

 食べたいものは、何も、高級なレストランばかりではありません。誰かと一緒ではなくても、お一人様でも、全然OKです。時には、それが王将の餃子であったり、来るたびに登場している新製品のお菓子だったり、冷凍食品などであったりもします。

 ですから、スーパーマーケットに買い物に行くだけでも、美味しそうなもの、珍しいものなどに溢れていて、かなりの興奮状態に陥ります。一緒に買い物に付き合ってくれる友人や親戚の面々などは、もはや私のそんな様子には、慣れているとはいえ、相変わらずの私の日本の食品への向き合い方に「目が血走っている!!!」などと笑います。

 しかし、滞在日数を逆算して、滞在中に食べられるものを買うと同時に、パリへ持って帰る食料の調達も真剣勝負なので、帰国の荷物の重量の加減を考え、あらかじめ、買って帰るものリストに基づいて、着々と買い集めていきます。

 ところが、ここ数年、食べられる量も減り、食事をしていても、買い物をしていても、まず、目が食べたいものをどんどん捉えるのですが、胃がそれに追いつきません。

 今日も従姉妹と一緒に、帰国した際には、必ず行く、近所の洋食屋さんへ行ったのですが、(そのお店は、美味しい上に、盛りがかなり良いことでも有名なお店で)、オーダーして、出てきたお皿を見て、「これ!凄い量だね・・」などと言いながらも、楽しくおしゃべりをしながら、結局、全て食べきってしまって、精算を済ませて、家路について、二人で歩き出して、少ししてから、二人とも、ものすごい満腹であることに気づく始末で、我ながら、ここのところの自分の満腹中枢のイカれぶりには、苦笑するしかありません。

 帰国の際の荷物に関しても、今回は、特に、私一人で来たために、持てる荷物がいつもの半分で、いつもの感が鈍り、もうすでに荷物は、ヤバい状態で、もう何も買えない状態で、買い物のペース配分をしくじり、とても悔しい思いをしています。

 それもこれも、とにかく日本には、美味しいものがたくさんで、単に和食だけでなく、イタリアンもフレンチも中華料理もどんな料理も美味しいものが溢れているからです。

 毎回、同じなのですが、これで、パリに戻って、最初にカルフールに買い物に行った時の失望感といったら、ありません。

 もはや、失望感を通り越して、腹立たしささえ感じるのです。

 今回は、あと残りわずか・・最後まで、思いっきり食べたいと思います。

 次回は、日本に来る前に、胃の筋トレをしたいくらい!!です。












 

2020年2月24日月曜日

休日(祝日)の日本の風景




 日本滞在もあと、数日に迫った日に、叔父と二人で、お墓参りに行ってきました。その日は、日曜日で、日本は、祝日でもあり、車から眺める景色に、日の丸の旗がなびいていることに、改めて、どこか、懐かしいような気持ちになりました。

 日々、見かける風景ではないにしろ、かつて、見慣れていた風景の中にところどころ、変化が見られる街中に、日の丸の旗が加わるだけで、どこか、違う趣を感じるあたり、私も日本人だな・・と思うのです。

 コロナウィルス騒ぎで、渋谷などの雑踏は、どこか、人が少ない印象でしたが、都内にある祖父母が眠るお寺は、まずまずの人出でした。

 日曜、祝日であるにも関わらず、お店が開いていることにも、日本では、当然のことながら、どこか、休日ではないような錯覚に陥ることも、自分の中では、どこか、収まりの悪い妙な感覚です。

 しかし、もし、日本がフランスのように日曜・祝日にお店が閉まっていたら、それはそれで、想像すらつかず、日本ではないような気がすることでしょう。

 日本での平日と休日の店舗の違いといえば、家族連れ、子供や男性が平日よりも多いところで、夕方に立ち寄った薬局?で、お店の入り口に置いてあったガチャガチャをどうしてもやりたいと駄々をこねて、泣き叫んでいる子供がいて、これも、日本ならではの・・というか、フランスでは、あまり見ない光景だと思いました。

 かなりの勢いで泣きながら、「どうしても、これ、今やりたい!!」と叫び続ける男の子に困り果てたお父さんが、子供を抱いて、駐車場へ連れ出していましたが、私が買い物を終えて、駐車場へ戻ると、男の子は、まだ、泣き叫び続けていました。

 こうなったら、親と子供の根気比べなのでしょうが、それにしても、このエネルギーと根気は、凄いものだと思ったのです。このガチャガチャに対して、これほどの情熱とエネルギーを注ぎ続けられることにも、逆に、なんだか、この男の子、凄いエネルギーを持っているんだな・・と妙に感心するとともに、このお父さんが子供に対して毅然とした態度を取れないことにも、疑問を感じました。

 フランスでは、大人(親)は、子供に対して、マナーは、なかなか厳しく、こうした公共の場で大声で泣き叫びながら、駄々をこねる子どもというのを見たことがありません。

 子供からしても、日頃の親の態度の中に、頑張り続ければ、どうにか自分の言い分が通ることを察して、隙があることを見抜いて泣き叫び続けるのです。子供は、なかなか利口ですから、絶対に無理だと思えば、意外と無駄に泣き叫び続けたりはしないものです。

 門前に飾られる日の丸の旗や、駄々を捏ねる子供の様子など、思わぬところで、日本を感じる1日でした。
















2020年2月23日日曜日

帰仏、出国の際の不安




 日本の一時帰国も、もうすでに、半分以上が過ぎ、時差ボケもようやく、やっと、なんとか、克服しつつある中、これから先は、もう帰仏へ向けての準備まっしぐらで、毎日が進んでいきます。

 片付けていた実家も、ずいぶんと今回でも、色々なものを処分したとはいえ、まだまだ、処分しきれずに残っているものを再び、収めるところに収めつつ、家をひと通り掃除して、フランスに持って帰る荷物の調整をしなければなりません。

 もう買い物は、出かける度に、着々と進めているので、あとは、買い逃している買い物を忘れないように、買い足して、荷物の重さを調整していきます。

 今回の帰国は、銀行の用事や、実家の片付けなどの目的もありましたが、日本での食材の調達も大きな目的の一つで、荷物制限の重さ、ギリギリまで、持って帰ることは、真剣勝負なのです。

 荷物は、今回は、23キロのスーツケースが二つ分、重量制限内に収まるかどうかは、前日まで、ギリギリの段階、最悪、当日の朝までドキドキで毎回の不安の一つでもあります。

 過去に荷物以外で、パスポートの残存有効期限がギリギリで、あわや出国できないかも・・・といったケースに陥ったことがありました。

 フランスは、シェンゲン協定加盟国で、パスポートの有効期限が3ヵ月以上ない場合、入国できないという規定があり、また、パスポート査証欄の空白ページが見開き2ページ以上あることが必要になります。

 その時の私のパスポートは、有効期限が三ヵ月ギリギリで、羽田のチェックインカウンターで、すったもんだの挙句、フランスの滞在許可証を提示し、結局、出国することができました。しかし、結局、フランスに到着して、入国審査の際は、パスポートのチェックもほとんどなく、あまりにあっさりと入国できたのには、拍子抜けしました。

 フランス入国に際して、フランス当局よりも、羽田のチェックの方が厳しいのも、さもありなんという気もしました。兎にも角にも、無事に済んで、助かりました。

 今回の帰仏に関しては、私は、密かにもう一つ、不安に感じていることがあります。

 日々、感染者が拡大しているコロナウィルスの蔓延により、フランスでは、多くの企業や学校が日本への出張等を禁じている事態です。日本発の便からの乗客をすんなり、入国させてくれるのかどうか、少し不安に感じています。

 今回の帰国便は、日本の航空会社の直行便なので、まさか、フランスで受け入れないとなれば、予め、航空会社から連絡があるか、その便自体が飛ばないということになると思うので、その場合は、しばらく日本に滞在しなければなりません。

 家があるので、それも致し方ないとは、思いつつ、とかく、フランスに近寄れば、トラブルがつきまとうことがわかりつつも、家に残してきている猫のポニョも心配で、やはり、予定どおり、なんとか、無事に、パリの家に帰れることを祈っています。

 


  

2020年2月22日土曜日

日本でフランス人を見かけるとちょっと嬉しい不思議




 現在、日本に一時帰国していて、今日は、久しぶりに学生時代の友人に会い、これまた、久しぶりに表参道の街を歩いてきました。毎年のように日本に来ていても、表参道に立ち寄るのは、本当に久しぶりだったのです。

 駅の構内のとあるお店で待ち合わせをしたのですが、もう表参道に行くのも10年以上ぶりで、全くもって、おのぼりさん状態なので、駅の構内で、さまよい歩くのも嫌だと、予め、ネットで表参道の駅の構内をチェックしてみました。

 すると、駅の構内の見取り図には、いくつかのスペースに分類されていて、そのネーミングが、ESPACE TOUJOURS(エスパス・トゥジュール)、MARCHE DE METRO ( マルシェ・ドゥ・メトロ )、ESPACE APPÉTIT(エスパス・アペティー)、ESPACE MODE(エスパス・モード)、ESPACE BEAUTÉ(エスパス・ボーテ)と全て、フランス語になっているので、ビックリしました。

 これまで、帰国した際にもデパートを歩いていたりすると、やたらとフランス語の名前のお店があり、名前だけでなく、フランスのお店も多いことには、気付いていましたが、まさか、久しぶりの表参道で、駅の構内までに、フランス語が使われていることに、驚かされたとともに、ちょっと嬉しい気持ちがしたのです。

 今回も、日本に帰ってきて以来、毎日のように美味しいものを食べ歩き、今日も表参道の街を歩きながら、美味しいお蕎麦を食べ、日本を満喫して、私は、どっぷり日本に浸かっているような気になっていたのです。

 表参道は、フランスのブランドの路面店も多い中、適当に外からウィンドーを眺めながら、歩いていると、フランスの冷凍食品のお店、PICARD(ピカール)があるではありませんか?

 「話には、聞いていたけど、日本のピカールは、どんな感じなんだろう?」と思い、思わず、立ち寄ってしまいました。

 すると、お店に入るなり、フランス人の店員さんが、「パン・オ・ショコラの試食は、いかがですか?」と近づいて来たのです。ここは、日本ですから、店員さんも、日本語で話しかけてくださったのですが、この人は、間違いなく、フランス人だ!と思い、「フランス人ですか?」と思わず聞いてしまいました。

 すると、彼女は、嬉しそうに、「はい!フランス人です!」と答えてくださったので、そこからは、自分もなんだか、嬉しくなって、フランス語で少し彼女とお話をしました。

 友人も一緒だったので、ほんの短い会話でしたが、なんだか、思わぬところで、フランス人に遭遇して、知らない人ながら、少し話せて、なんだか、とても嬉しくなっている自分にビックリしました。

 日頃、フランスでは、なかなか文句もタラタラで、ましてや見知らぬフランス人と話したからといって、別に何の感情も持たないのですが、日本という場所で、不意に、日本で生活をしているフランス人と話をちょっとしただけで、不思議な嬉しさが湧いてくることに、自分でも、ちょっと驚いたのです。

 現在、日本に一時帰国していて、今日は、久しぶりに学生時代の友人に会い、これまた、久しぶりに表参道の街を歩いてきました。毎年のように日本に来ていても、表参道に立ち寄るのは、本当に久しぶりだったのです。

 駅の構内のとあるお店で待ち合わせをしたのですが、もう表参道に行くのも10年以上ぶりで、全くもって、おのぼりさん状態なので、駅の構内で、さまよい歩くのも嫌だと、予め、ネットで表参道の駅の構内をチェックしてみました。

 すると、駅の構内の見取り図には、いくつかのスペースに分類されていて、そのネーミングが、ESPACE TOUJOURS(エスパス・トゥジュール)、MARCHE DE METRO ( マルシェ・ドゥ・メトロ )、ESPACE APPÉTIT(エスパス・アペティー)、ESPACE MODE(エスパス・モード)、ESPACE BEAUTÉ(エスパス・ボーテ)と全て、フランス語になっているので、ビックリしました。

 これまで、帰国した際にもデパートを歩いていたりすると、やたらとフランス語の名前のお店があり、名前だけでなく、フランスのお店も多いことには、気付いていましたが、まさか、久しぶりの表参道で、駅の構内までに、フランス語が使われていることに、驚かされたとともに、ちょっと嬉しい気持ちがしたのです。

 今回も、日本に帰ってきて以来、毎日のように美味しいものを食べ歩き、今日も表参道の街を歩きながら、美味しいお蕎麦を食べ、日本を満喫して、私は、どっぷり日本に浸かっているような気になっていたのです。

 表参道は、フランスのブランドの路面店も多い中、適当に外からウィンドーを眺めながら、歩いていると、フランスの冷凍食品のお店、PICARD(ピカール)があるではありませんか?

 「話には、聞いていたけど、日本のピカールは、どんな感じなんだろう?」と思い、思わず、立ち寄ってしまいました。

 すると、お店に入るなり、フランス人の店員さんが、「パン・オ・ショコラの試食は、いかがですか?」と近づいて来たのです。ここは、日本ですから、店員さんも、日本語で話しかけてくださったのですが、この人は、間違いなく、フランス人だ!と思い、「フランス人ですか?」と思わず聞いてしまいました。

 すると、彼女は、嬉しそうに、「はい!フランス人です!」と答えてくださったので、そこからは、自分もなんだか、嬉しくなって、フランス語で少し彼女とお話をしました。

 友人も一緒だったので、ほんの短い会話でしたが、なんだか、思わぬところで、フランス人に遭遇して、知らない人ながら、少し話せて、なんだか、とても嬉しくなっている自分にビックリしました。

 日頃、フランスでは、なかなか文句もタラタラで、ましてや見知らぬフランス人と話したからといって、別に何の感情も持たないのですが、日本という場所で、不意に、日本で生活をしているフランス人と話をちょっとしただけで、不思議な嬉しさが湧いてくることに、自分でも、ちょっと驚いたのです。

 日本にいるフランス人とフランスにいる日本人、真逆の環境ではありますが、なんか、日本の社会の中で、幾ばくかの居心地の悪さを感じつつも、順応している彼女の姿が、妙な同士のような感覚が一瞬、芽生えて、私は、妙に、嬉しかったのです。










2020年2月21日金曜日

日本の買い取り業社いろいろ




 父が亡くなった後に、空き家になった実家の片付けにあたって、これまで、日本の出張買い取り業者に随分と家に来て頂きました。おそらく、これまでに、10社以上は、来て頂いたと思います。

 まず、ネットで検索して、ある程度、あたりをつけて、種類別に、絵画・骨董、食器、着物、家電、家具、などなど、お店によって、買い取り品目にも、それぞれの得意分野があり、特典や持ち味も違います。

 少しずつ、処分していく場合は、お店に持ち込みをするということもできますが、我が家のように、ほとんどを処分したい場合で、私のように一時帰国をしている限られた期間の中で処分しようと思う場合は、買い取り業社に自宅に来て頂くのが一番効率的です。

 ほとんどのものが、二束三文になる場合が多いのですが、その年によって、時代の潮流というものもあるので、前年は、もっと高い値段で査定されていたのに、今年になったら、ガックリ値が下がってしまった・・なんていうものもあります。

 要は、需要と供給の関係なのですが、トレンドで、こういうものを大量に買いたがっている中国人が多い・・などとなったりすると、少し値段が上がったりするので、同じものでも、値段は、年によって、変動します。

 中には、他のものを(例えば、着物や食器類などと)、ネット上の広告で歌っていても、結局は、貴金属狙いの買い取りであったりする場合も多いので、その見分けは、必要です。

 また、電気製品などは、最近の法律で、購入してから、5年以上経っている電気製品については、規制があり、なかなか、買い取ってもらうのが、難しく、たとえ、ほとんど使っていない製品であっても、買い取ってもらうのは、大変です。

 しかし、出張に来てくださる方から、少しずつ、情報を仕入れて、だんだんと買い取りの相場や、逆に、これは、フランスで売った方が良い・・こういうものは、ここの買い取り屋さんに頼んでみた方がいいなどと教えてもらえたりもします。

 また、お話していると、買い取りとは、関係のない、その人の人となりが覗けて、なかなか、それぞれに個性豊かで、やはり、人と人とのやりとりですから、相性もあり、会社自体のやり方は、もちろんですが、買い取りに来てくださるその人によって、関係性も変わってくるので、良い人に当たると、楽しくなります。

 私は、このところ、エコリングという会社のAさんという方をとても頼りにしており、帰国するたびに、ご指名で、自宅に来て頂いています。

 エコリングの良いところは、とにかく、かなり、広範囲のものを引き取ってくださることで、どんなものでも捨てずに無駄にしないで済むので、使えるものを捨てるという罪悪感から救われます。また、色々な業者から見ても、価格のつけ方も、なかなか妥当で、信頼できます。

 ご本人の専門でない分野に関しては、写真をとって、本部の鑑定士に送って、鑑定してもらえるのも、便利です。(これは、どこの買い取り業者も同じ方法をとっていますが・・。)

 彼は、とても、誠実な人で、どちらかというと、一見、いじられキャラのような感じを受けますが、なかなか芯はしっかりしていて、人当たりも良く、ここ数年で、みるみる成績をあげているらしく、地方から出てきて、都内の店舗を担当するようになり、我が家の近辺の担当になったと思ったら、現在は、渋谷、松濤への進出を請け負っており、どんどん、出世しています。

 今では、もう、帰国するたびに、会える友人のような、親戚のような、そんな気分です。

 今日、彼が家に買い取りに来てくれている間にも、他の買い取り業者からのセールスの電話があり、買い取り業者もなかなか生き残り競争が激しく大変なようです。

 買い取り業者は、5〜6年前に全盛期を迎え、その数も爆発的に増えましたが、ここ数年は、減少の傾向にある中、エコリングは、まだまだ、店舗を増やしていて、なかなか、頑張っています。

 中には、買い取り業者を名乗って、なんとか家に入り込み、詐欺を働いたりする事例もあるので、決して、油断はできません。

 実家の片付けから、思わぬ世界を垣間見て、また、新しい人との繋がりができて、それなりに楽しんでいます。

 今は、Aさんに、なんとか、会社の藩領を拡大して、なんとか、パリに来てくれるように頼んでいます。(笑)(調べてみたら、エコリングは、すでにフランスに進出している模様で、パリに帰ったら、フランス支社に連絡してみようと思っています。)

 他の買い取り業者さんから聞いた、フランスの方が高く売れると聞いた結城紬などの着物は、毎回、持って帰りたい莫大な量の食料に負けて、私の帰国の荷物には、入れず、なかなか、フランスに飛び立つことができずにいます。

 

2020年2月20日木曜日

メルカリは、フランスでは、不可能だ。




 前回に、日本に帰国した際に、メルカリに初チャレンジして、売れ残ったものは、出品停止にして、そのまま、アカウントをキープしたままにしていったので、そのまま、そのアカウントが使えるのかどうか、定かではなかったので、特に、今回は、メルカリに出品するための品物を持ってきてはいませんでした。

 それでも、前回、売れ残ったものは、そのまま、実家に置いておき、今回、日本に来た際に、メルカリのサイトを開いて、自分のアカウントを再公開して、データとして残っていた商品を再度、出品しておきました。

 数日間は、何の反応もなかったので、出品している商品を一つ一つ、「編集する」として、値段をほんの少し下げたりして、再出品したところ、あっという間に、セリーヌのバックとモノプリのエコバッグが売れました。

 どちらも自分のいらないものを、他の人が同じようなものをメルカリに出品している値段を参考にして、値段を設定し、大して、期待もせずに、載せていたのです。

 これで、何食かまた、美味しいものが食べられます。(笑)

 日頃、パリでも、メルカリと似たようなシステムの leboncoin(ルボンカン)というサイトを使って、不用品を売っているのですが、やはり、メルカリは、システムが上手くできていて、leboncoinに比べると、非常に楽で、簡単です。

 メルカリは、仲介手数料が取られますが、手数料を考えても、あまりある便利さ、簡単さ、安全さで、改めて、メルカリがフランスにもできてくれないかと切に思いました。

 しかし、メルカリの便利さの大きな要因の一つは、セブンイレブンなどのコンビニで、24時間発送を受け付けてくれることで、手続きをスマホで済ませると、携帯にQRコードを読み込んで、相手の住所やこちらの住所なども知らせることなく、すぐに発送できることで、支払いも、ある程度の金額が貯まると銀行口座に振り込まれることになっている点です。

 フランスの場合は、この郵送にまず、問題があり、スムーズに郵便物が届く可能性がかなり未知数だということです。メルカリがもし、フランスに参入しても、日本のようなスムーズなやり取りは、この郵送の時点で、はっきり言って、無理です。

 実際に、メルカリは、イギリスに進出して、失敗しています。それには、やはり、この流通の問題が大きく日本と異なっていることも大きいと思います。日本の流通事情は、世界的にもかなり優れているのです。

 ユニクロがフランスに出店した際に、日本のような、スムーズなレジのシステムや店内の整頓やストックの管理を浸透させるのには、大変な努力をして、フランス人の教育をしたと言われています。

 実際に、一般のフランスの店舗に比べて、ユニクロのレジは、現在は、非常にスムーズに日本に近い形になっていますし、店内も整頓されて状態を保っているのは、フランス人のスタッフをとことん教育したすごい結果だと思います。当初は、ユニクロに入社しても、すぐに音を上げて辞めてしまうフランス人が続出して、四六時中、スタッフを募集していました。

 しかし、メルカリの場合は、底辺で働くことになるのは、郵便局、または、配送会社の人たちです。その膨大な人材をメルカリのために教育し直すことなど、ハッキリ言って、不可能です。

 たまに日本に帰ってくると、改めて、感心することに溢れていますが、このメルカリのシステムに再び触れて、改めて、日本ってスゴいと思ったのです。

2020年2月19日水曜日

母が亡くなった日の夜




 時差ボケで、夜中に目が覚めて、キッチンのテーブルに座ったら、母が亡くなった日の夜のことを思い出しました。

 あの日も私は、夜中に、ここに、こうして座っていたことを。

 母が例年どおり、夏の間、父と山荘に出かけていて、その山荘で倒れ、山荘の近くの病院に運ばれて、どうにか、すぐに致命的なことには、ならずに取り敢えずは、落ち着いているという報せを受けて、夏休みの前半に日本に帰国し、新学期が始まったばかりだった私は、心配しながらも、再帰国することをためらいながら、様子を伺っていました。

 アメリカに転勤になったばかりだった弟は、すぐに帰国して、母の容態を見守り、どうにか、東京の病院に転院させるまでしてくれて、アメリカへ帰って行きました。

 しかし、元から、心臓病を患っていた母の心臓は、もはや限界状態で、私は、パリで日常生活を送りながらも、心配で、心配で、毎日、泣きながら過ごしていました。当時、8才だった娘に、「そんなに心配なら、どうして、行かないの?」と言われ、職場の上司にも、電話をして、相談したところ、「まだ、お嬢さんも、少し学校を休んでも、それほど学業にダメージを受ける年齢でもないし、仕事は、休んでいいから、お母様の元へ行ってあげなさい。」と言われて、ようやく、私も決心がつき、急遽、日本行きのチケットをとり、娘を連れて、日本へ行くことにしたのでした。

 本当に、それは、ギリギリのタイミングで、一時は、強心剤により、回復しかけたかに見えた母も、私が飛行機に乗っている間に、再び、病院で心筋梗塞の発作を起こし、意識不明の状態になっていたのです。

 その頃は、パリー成田便しかなく、成田に着いた途端に空港のアナウンスで呼び出され、叔母からのメッセージで、すぐに、叔母の家に電話するようにとのこと。慌てて電話をすると、母が意識不明の状態で、何とか、人工呼吸器で生命は、保たれているものの、残念ながら、もう時間がないから、成田から、タクシーで病院に直行しなさいとのことでした。

 慌てて、病院に走り込んだ私と娘は、病院の入り口で待っていてくれた叔父と叔母に誘導されて、スーツケースも入り口に放り出したまま、母のいる集中治療室に駆け込みました。

 集中治療室に案内される時に、医師からは、「もう意識もなく、瞳孔も半分開いている状態です。」と説明を受けました。

 それでも、聴覚だけは、最後まで残るということを本で読んで、信じていましたので、母のそばに駆け寄り、娘にもせっついて、二人で、「ママ〜!!マミ〜!!」と何度も叫びました。すると、意識不明と言われていた母は、急にパッチリと目を開けて、何かを私たちに、言おうとしましたが、呼吸器が繋がれていたために何を言おうとしているのかは、わかりませんでした。

 それから数日間、午前、午後の20分間の面会に通いましたが、心臓の機能を安定させる薬を投薬されていた母は、目を覚ますことはありませんでしたが、その間、手をさすったり、足をさすったりしながら、一生懸命に母に話しかけていました。

 最後に面会できた際には、弟の再帰国が決まっていたので、「もうすぐ、弟が帰ってくるから、もう少し、頑張って!」と声をかけました。すると、母は、眉をしかめて、涙をツーっと流しました。母にしてみれば、初めて外国に転勤になったばかりの弟に、いきなり日本に二度も帰国させ、迷惑をかけることを辛いと思っていたのだと思います。

 その日の晩に、病院から電話で、「危篤状態です。すぐに来てください。」という連絡があり、父と娘、隣に住んでいる従姉妹に運転を頼んで、病院に駆けつけましたが、もう、母の最後には、間に合いませんでした。

 あっという間に大勢の親戚も病院に駆けつけてくれましたので、母の遺体を家に連れて帰るか、病院に解剖を頼んで、預かってもらい、直接、母の通っていた教会に葬儀の段に直に運んでもらうかの話し合いになりましたが、結局、父が母の解剖と教会への直の搬送を希望したため、母がこの家に再び、帰ってくることは、ありませんでした。

 その後、一人で、この家で生活しなければならない父にとって、亡くなってしまった母の残像がこの家に残ることは、父にとって、それはそれは酷なことだと思いましたので、私もそれに賛成しました。

 その夜、家に戻って、父は、自分の寝室に入り、娘も寝てしまった後に、私は、このキッチンのテーブルに座り、母の魂がどこか、このキッチンに帰って来ているような気がして、悲しみに少し、気持ちが高ぶらせながら、一人で、少し、上の方を眺めながら、心の中で、母に話しかけながら、しばらく、お酒を飲んでいました。

 今日、夜中に目を覚まして、なぜか、その時のことを鮮明に思い出しました。

 





2020年2月18日火曜日

来る度に、みるみる景色が変わっていく日本 ー世代交代ー




 つい最近、銀座線の駅の移転が週末のうちに完了したというニュースに驚いたばかりですが、ここのところ、帰国するたびに、実家の近所の景色がみるみる変わっていきます。

 当主が亡くなり、それまで、一軒家だった家が、みるみる小綺麗なマンションになっていきます。これまで、ひと家族で住んでいた場所がマンションのような集合住宅に変わっていくのですから、日本全体は、少子化問題を抱え、人口は、減少しているにも関わらず、明らかにうちの実家の近所は、人口が増えていると思います。

 今回も、当主が亡くなり、家が壊され、長いこと空き地になっていた場所にマンションの建設が始まり、今年の4月には、完成の予定だそうです。

 日頃、パリにいて、工事がなかなか進まない様子を見ながら、暮らしている私にとっては、日本の工期の速さには、改めて、驚かされるばかりです。

 また、長いこと、うちの母も贔屓にしていたお肉屋さんが、忽然と消えていて、近くの商店の人に尋ねたら、今年の3月にお引越しをなさいました・・とのことで、帰国するたびに、必ず食べていた、そのお肉屋さんの美味しいコロッケが、もう食べられなくなりました。

 ほんとうに、家族で地道にやっている昔ながらのお肉屋さんで、スーパーマーケットが隆盛の中、どうやって、やっていけるのかと思っていましたが、近所の公立の小学校の学校給食等に卸しているとかで、それならば、ずっと続けてやっていけるのだろうと安心していたところでした。

 せいぜい、一年に1〜2度しか、帰ってこない私が文句を言える立場ではありませんが、それでも、母が長いこと通って、私たちのことまで、おしゃべりしていたらしく、私が娘を連れて買い物に行くと、「パリにいらっしゃるお嬢さんとお孫さんですね。」などと、歓待してくれていたので、残念でなりません。

 その同じ通りにあった、長いこと閉店したままになっていた薬屋さんも、いつの間にか、さら地になっていて、何か、新しいものが建設される兆し。昨年、来た時には、あったのに・・。きっと、次回、帰国する際には、また、新しいものができていることでしょう。

 そうやって消えていく店舗の代わりには、介護センターや保育園ができ、個人商店は、消えていきます。

 我が家は、父が子供の頃から住んでいて、それなりに、ご近所さんも残ってはいるのですが、留守中にどんどん変わっていく地元の街の様子にどこか、寂しさを感じます。

 そこへ行くと、パリには、一軒家というものは、ほとんどなく、古くからのアパートがそのまま残されていて、外観もほとんど変わることがないので、街の景観が極端に変わるということはありません。

 街自体が綺麗に区画整理されて、旧建築も残されていくので、改めて、こうして、外に出てパリを思うと、工期が遅かろうと何だろうと、日頃、文句タラタラに暮らしていても、パリのそんなところは、悪くないなと思うのです。















2020年2月17日月曜日

時差ボケの苦しみと胃の容量を上回る食欲との闘い




  日本とフランスの時差は、冬時間で8時間。夏時間で7時間です。

 フランスで、夏時間から、冬時間に変わる、たった1時間でも、それはそれで、大変で、私など、慣れるのに、約一週間かかります。

 それが、日本に来た時には、8時間ズレるわけですから、それはもう、しんどくて、もうヘロヘロです。それが、年齢のせいか、年々、酷くなる気がします。

 パリからの直行便で、約12時間、パリを現地時刻の夕方に出て、日付を超えて、だいたい、翌日の夕方に日本に到着します。

 ですから、飛行機に乗って、一杯飲んで、食事をして、一息ついてから寝て、日本に着いたら、夜、食事をしてから寝れば、比較的、スムーズに時差を克服しやすいはずなのですが、このところ、年々、時差ボケが酷くなり、到着した翌日には、早朝?3時とか4時に目覚め、その日の午後のある時間帯に猛烈に眠くなります。

 眠いだけではなく、脳が膨張して、前頭葉から視神経にかけて鈍い痛みとともに、どよーんとした感じで頭がボーッとして、身の置き所がないような感じに襲われます。その時間帯が時差どおりに8時間ズレて起こるわけではなく、日によって、違う時間帯に起こるのが時差ボケたるところ、もう、ボケ対応に本当にしんどい思いをします。

 日本では、期間が限られているために、バカンスというよりも、用事が立て込んでいて、なんとか、滞在期間中に済ませなければならないことも多いので、眠くなったら、寝る・・ということもできずに、スケジュールに追われることになるので、とても、しんどいのです。

 娘が小さい頃には、着いた途端に、現地時刻にあっさり順応していたのを見て、本当に感心しましたが、その娘でさえ、年齢とともに、人並みに時差ボケを感じるようになり、年齢は、時差に順応していく能力を奪っていくのではないかと思います。

 また、日本に来れば、どうしても食べて帰りたいものの予定も立て込んでおり、時差ボケでボーッとしつつも、もう、常に満腹状態。

 それでも、気持ちは、逸って、胃が食欲に追いつかない状態。この際は、多少の体重の増加は、後にパリに戻ってから調整することで、目をつぶるのですが、あれも食べたい、これも食べたいという食い意地に胃が追いつかなくなってきて、地団駄をふむ状態に陥ります。

 ですから、日本帰国時は、少しでも消化を助けてくれる胃薬を常に携帯しているのです。

 忙しい日程の中、時差ボケと、胃の容量を上回る食い意地に苛まれながら、胃薬を飲みながら、次の食事の予定を考える。

 あさましいなぁと思いながらも、美味しい日本を時差ボケでヘロヘロしながら、楽しんでいます。






















2020年2月16日日曜日

遺産相続




 父の死亡に伴い、遺産の相続手続きの必要がありました。

 父は、特別に遺言書も残しておらず、私も弟も、とりあえず、父の暮らしていた家があることは、承知していても、その他に、一体、父の財産が、どこに、どれだけあるのかもわからず、また、二人とも海外で生活していることから、容易に手続きを進めることも、なかなか困難で、相続手続きには、一応、相続税の申告期限があるために、そのまま、なあなあにして、放置することもできずに、親戚の伝手を辿って、大手の信託銀行にお願いすることになりました。

 また、私たちには、相続に関する法律的な知識もなく、また、その法律も度々、変わるため、その時の法律や優遇措置など、まずは、父が所有していた財産の把握ですら、個人で滞りなく進めることは、とても難しいことです。

 私も弟にも、日本には、持ち家がないため、家を相続する場合の優遇措置があることもその時に、銀行の方に教えていただきました。

 相続にまつわる、家族間での相続争いなどという話も世間では、よくある話と聞きますが、我が家の場合は、そんなに、大金持ちの相続ではないので、もともと、揉め事になる心配もないのですが、事務的に、法廷どおりに、私と弟は、きっちりと半分ずつ父からの遺産を相続しました。

 幸いにも、プロに手続きをお願いしたために、トラブルもなく、滞りなく、相続手続きは、進み、その間には、一度、銀行からの説明や相談のために一度、帰国しただけで、あとの書類は、銀行からパリの自宅へ郵送してもらってサインしたり、必要な書類は、大使館で発行してもらって、それを郵送することで、全て、完了しました。

 やれやれとホッとしていると、しばらくして、日本の税務署から、パリの自宅宛に弟と半々に相続した実家の固定資産税の請求が来ました。税務署がパリの自宅まで把握していることにも驚きましたが、税金には、支払い期限もあり、銀行に問い合わせるよりも、直接、税務署に一度は、出向いて、きっちりと自分も状況を把握した上で、自動引き落としにしてもらった方が良いと、その際は、慌てて、日本に帰国したこともありました。

 いくばくかの財産を相続させてもらえたことは、とても有り難いと思っていますが、なかでも、私が、両親に最も感謝していることは、何よりも、親戚とのつながりを私たちに繋いで、残していってくれたことです。

 我が家は、両親ともに兄弟が多く、父方、母方ともに、叔父や叔母、従姉妹、従兄弟もたくさんおり、子供の頃から、頻繁に親戚付き合いをしてきました。私は、子供の頃は、どちらかというと、引っ込み思案で、親戚づきあいというのは、はっきり言って、あまり好きではありませんでした。

 それでも、今、家に残された写真を片付けて、眺めていたりするにつけ、親戚の集まりの食事会や旅行などの写真が山ほど残されており、それなりに楽しい時間を共有してきたことを改めて、思い起こします。

 それなりにお金もかかっていただろうし、そのための時間も多く費やして来れたことは、今になってみると、とても有り難い、大切な積み重ねであったと思います。

 こうして、同じ時間を過ごしてきた従姉妹たちや、叔父や叔母たちが、両親のいなくなった今も、私や娘を支えてくれています。

 彼らは、私たちが、日本に帰ってくるたびに、ここぞとばかりに美味しいものを用意して、振舞ってくれたり、困ったことがあれば、親身になって、相談にも乗ってくれます。

 私たちが、両親が残してくれた、最も貴重な遺産相続は、これまで両親が積み重ねつつ、私たちに繋いでくれた、一日にしては、築くことができない、親戚との繋がりであったと思っています。

 

2020年2月15日土曜日

涙・涙の空き家の片付け




 父が亡くなって、実家が空き家になって、はや3年が経とうとしています。

 母が亡くなって、約10年間、父は、この家で、一人で生活していました。

 なので、母が亡くなったあとは、父は、一人で少しずつ、ある程度、母のものを整理していたようです。

 父が生きている間は、夏休みの間など、日本へ帰国することはあっても、銀行などの用事、日本の運転免許の書き換え、日頃、会えない日本の友人や親戚に会ったり、食べたいものを食べまくったり、持って帰る食料の買い出しをしたりと、娘と二人、バタバタと嵐のようにやってきて、嵐のように帰って行く・・そんな感じの日本滞在でした。

 父と食事に行ったり、私が家で料理して食卓を囲むことはあっても、母の遺品を整理するということはなく、むしろ、父は、何も触らないで欲しいと言っていたので、父の生活する家、父の思いどおりにしたらいいと思っていましたので、私も母のものは、あまり触れないままでいました。

 もともと、母は、心臓の病気でしたので、自分である程度、覚悟していたと思われるくらい、かなり、自分のものは、自分で減らしていたようです。

 それが、父が亡くなって、まるまる家一軒分の荷物が残り、以来、帰国する度に、片付けているのです。それは、それは、大変ではありますが、もういなくなってしまった父や母に触れる最後の機会でもあるのです。

 今になってみると、父が母のものには、触れないで欲しい、自分の手で、一つ一つ片付けたいと言っていた気持ちがとてもよく分かります。

 遺品整理というのは、辛い喪の作業ではありますが、同時に亡くなった人に丁寧に向き合うことのできる優しい時間でもあるからです。父は、父なりのやり方で、先立ってしまった母と向き合いたかったのかもしれません。

 とはいえ、小さな家ではありますが、長い間、家族4人が暮らした一軒家に残されたものの量と言ったら、半端な量ではありません。

 山ほどのゴミと、その中に隠れている父や母の思いに触れる品物に、心を激しく揺さぶられます。私たちが子供の頃の家族の写真や子供の頃に書いた絵などは、もちろん、母が亡くなった際に、母の友人が父宛に送った手紙などが、大切そうに綺麗な箱に入れて保管されていたり、今日は、弟が生まれた日の新聞と弟のへその緒や学生証、中学、高校時代の弟の写真が入った古びた茶封筒を見つけました。

 それらを保管していた父や母のそれぞれの気持ちに触れ、改めて、母が亡くなった後の父の気持ちや、子供を愛おしく育ててくれた母の気持ちに心が震えます。

 また、私にとっては、祖父にあたる母の父親の対談の記事が載った新聞の切り抜きや、生い立ちの記されたファイルも見つかり、私が見てきた祖父と母の関係とは、また違った、母の自分の父親に対する思いなども目の当たりにしました。

 一つの家族であったそれぞれが、それぞれの思いと歴史を刻んできたことを空き家になった家から発見しています。

 今はもう、いなくなってしまった両親の心に触れられる、このような時間を私は、心底、大切に思っています。

 時には、ぶつかることもありましたが、過ぎてしまうと、嫌なことは、どんどん忘れて良いことばかり思い出します。

 私にとって、思い出は、美化される傾向にあります。
























2020年2月14日金曜日

日本行きの飛行機からフランス人が消えた




 ここ数年、日本へ行くたびに、日本行きの飛行機の機内は、9割がたフランス人で占められていて、フランス人の日本人気を年々、思い知らされてきました。

 と、同時に、日本人がフランスに来なくなってしまったことも、とても残念に思っていました。フランスは、テロや、デモ、ストライキと世間を騒がせるニュースは、どれも物騒で、感心しないことばかり、これでは、観光客も来なくなるよな・・と思っていました。

 ところが、今回、日本に来るにあたって、なんと、フランス人がほとんどいない!9割がたの乗客が日本人だったことに驚いたのです。

 中には、最近、ほんとうに見かけることが少なくなった、団体旅行のグループまでいたりして、さらにビックリ!!

 コロナウィルス騒ぎで、やはり、フランス人がアジア全体を恐れていることを、まざまざと見せつけられた思いでした。そして、逆に、日本人が、こんなにフランスに来ていたんだということにも、ちょっとビックリしました。

 機内で、CAさんに、聞いてみたところ、コロナウィルス騒動以来、フランス人の日本への観光客は、みるみるいなくなってしまったとか・・。

 こういう時は、フランスは、政府の対応共々、早いのです。

 東日本大震災の際も、震災そのものよりも、原子力発電所から漏れていると言われていた放射能を嫌い、エアフランスの乗務員が日本行きの便に乗ることを拒否し、エアフランスは、しばらく日本行きの便をストップしました。

 今回は、エアフランスは、とりあえずは、日本行きの便に対して、まだ、アクションを起こしてはいませんが、乗客の方が早々に日本行きをストップしているようです。


 CAさんに、うるさいフランス人がいなくて、お行儀の良い、日本人ばかりのフライトだと楽なんじゃないすか?と、なかば、冗談で尋ねた私に、彼女は、ちょっと顔を曇らせて言いました。

 「日本人は、マナーは良いのですが、求めるサービスの基準が高くて、それはそれで、大変なんです・・」と。

 なるほど、これには、私もビックリしました。

 以前、パリのガイドさんにも聞いたことがあります。日本人のお客さんは、日本人に対しては、非常に厳しい・・と。ガイドさんもフランス人の場合は、極端にクレームが少なく、こと日本人のガイドさんに対しては、言いたい放題のクレームがやってくる・・と。

 これは、単に、言葉の問題で、フランス語を話せないお客さんがフランス人に対して、クレームがつけにくいということもありますが、日本人をガイドする場合は、日本語が話せることは、必須なので、彼らは、実に流暢に日本語を話します。

 ですから、彼らに日本語でクレームを入れることも可能なはずなのです。

 しかし、実際には、フランス人には、クレームは、まず入りにくいのです。

 外人に対して、モノを申しにくいという日本人ならではの、クレームの法則があるのです。

 日々、日本人とフランス人を交互に応対されているみなさん。
切り替えと共存が大変なのですね。













 

2020年2月13日木曜日

フランス人のワイン離れ




 今、フランスの若者の間で最も飲まれているアルコールは、ビールなのです。
フランスなのに、ワインじゃないの? と思われる方も多いかもしれません。

 その手軽さと値段の安さから、若者が一番飲むのは、ビールなのです。
 外食が高いフランスでは、気候の良い時には、ビール片手に公園で友達とおしゃべり、なんてことも少なくはなく、手軽に買えて、手軽に飲め、しかも安いビールが一番人気なのです。

 フランスでは、税金の掛け方が違うのでしょうか? なぜか、ビールは、とても、安いのです。日本からの輸入品である日本のメーカーのビールでさえも、日本で買うより、もしかしたら安い?と思えるくらいの値段ですから、フランスのビールやヨーロッパ内のビールなら、なおさらのことです。

 ワインならば、オープナーなしには、開けられず、また、開けたところで、ラッパ飲みというわけにもいかず、ビールならば、グラスもなしに飲めます。

 休日のメトロなどでは、なかなかのイケメンの若者が小瓶の瓶ビールを片手にちびちび飲みながら、話していたりするのを見かけたりもします。

 これは、明らかにカッコつけてる感じで、そんなちっちゃなビールを手で握りしめて、あっためて、チビチビ飲んでんじゃねーよ!と思わず、突っ込みたくなる感じですが、まあ、なんか、小瓶の瓶ビールをラッパ飲みして、ちょっとカッコつけたいお年頃なのかもしれません。

 そして、ウォッカの人気も上昇中です。
 私は、以前は、ウォッカが好きで、よく炭酸で割って飲んでいました。娘が小さい頃は、スーパーマーケットに行くと、娘が、ウォッカの置いてある場所にいち早く、駆けて行って、「ママ〜!オッカ!オッカ、あったよ〜!」と大きな声で叫んで教えてくれたのには、赤面しながら、フランス人には、オッカの意味がわからなくて良かった・・とこっそりと思ったものです。

 最近、ウォッカが若者に人気なのは、何か他の飲み物(炭酸飲料やジュースなど)と割って飲むことができることから、人気なのだと思われます。

 割って飲むといえば、ウィスキーの人気もここのところ、急上昇中です。スーバーマーケットなどでも、やたらとウィスキーを見かけるようになりました。中でも、日本のウィスキーは、かなりの人気のようですし、漢字が全面にドーンと書いてあるいかにも日本!という感じの、でも、実は、日本では、あまり見かけないような、ちょっと胡散臭いウィスキーなどでさえ、売れているのですから、驚くばかりです。

 私がフランスに来たばかりの頃には、私がウィスキーも飲みます・・などと、うっかり言うと、フランス人からは、「あんなにアルコール度数が高い、強いお酒を飲むの?」とびっくりされたものでした。

 ウィスキーをソーダや水で割って飲むということが、フランス人に知れ渡ったのは、最近のことだと思われます。

 しかし、圧倒的な消費量を誇るのは、やはり、ワインであることには、変わりはないし、コスパを考えると、フランスでは、私としては、やはり、ワインを選んでしまうことが多いです。

 フランスでのワインの消費のほぼ半分は、50歳〜64歳の年配の人に支えられており、35歳以下の若者に至っては、ワインの消費量が年々、著しく、少なくなり、一時、モヒート(ミントの葉、ライムにラムとシロップとソーダ水を加えたもの)が大流行していて、パリの夕暮れのカフェのテーブルは、モヒートだらけだったことがあります。

 それでも、スーパーマーケットなどには、ワイン用のCAVE(カーブ)と呼ばれるスペースが、他のどのお酒よりも大きな場所を占めているのですが、これも、フランスと言えども、今の若年層が歳を取っていくに従って、変わっていくのかもしれません。

 基本的には、保守的で食べるものも、新しいものは、あまり受け入れないし、お酒も変わらずワインという年配の人は、変わらず、ワインを飲み続けているのですが、この世代が消えていってしまった時、フランスのワインは、どうなるのか? ちょっと、不安で、寂しい気がしています。

フランスのスーパーマーケットのワインの棚の一部
酒瓶が並ぶ眺めはいいものです。


  

 

2020年2月11日火曜日

渡航の荷物




 旅行の際の荷造りは、いつも、面倒で、気が重いのです。
日本へ帰国の際は、ほとんどがお土産で、自分の荷物は、極力、最低限です。

 バターなどは、凍らせて、保冷剤がわりにし、要冷蔵の物と一緒に保冷袋に入れて、スーツケースに入れてしまえば、スーツケースを預けてしまえば、飛行時間は、ほぼ、冷蔵庫状態なわけですから、無事に持って帰ることができます。

 何より、持っていくことよりも、持って帰る時のことを考えての、行きからの荷造りです。

 これまで、パリから日本行きの便で、荷物が紛失したことはありませんが、イタリア行き、帰りの便は、スーツケースの鍵を壊されたり、自分たちと同じ便に荷物を乗せてもらえなかったりしたこともあります。

 たしか、サルディニアに行った時だったと思いますが、空港に着いて、やけにバゲージュクレームの看板の多いことに気がついて、嫌な予感がしましたが、嫌な予感は、的中し、到着便の荷物が出てくる場所に行って、荷物が出てくるのを待ったのですが、最後の一個を見届けても、私たちの荷物は出てきませんでした。

 仕方なく、他の数名の荷物を受け取れなかった人たちと一緒に、バゲージュクレームに行って、荷物が出てこなかったことを話すと、あたかも、必ずしも、人と同じ便に荷物が乗っていなくても、別に問題はないような口ぶりで、次の便で、多分届きますから、明日には、ホテルに届けます・・とのこと。

 「え〜〜??」と争う私たちにも、何の抵抗も示さずに、「明日には、届くんだから、いいじゃない!ノープロブレム!」で、アッサリ済ます、空港職員。何を言っても糠に釘です。

 怒っても仕方ないので、その晩は、着替えもなく、化粧品もなく、何とも居心地の悪い一晩を過ごしたのでした。それ以来、イタリアへ行くときは、極力、荷物は、少なくして、スーツケースは、預けることなく、機内持ち込みができる範囲に抑えることにしました。

 すると、今度は、化粧品等の液体の持ち込みが問題となり、容器に残りわずかしか入っていない化粧水を咎められ、機内持ち込みできる量だと言っても、容器には、200mlと書いてあると、わけのわからないことを言われて、取り上げられてしまったこともありました。

 今回は、日本行きだし、急なフライトの変更で、直行便になったので、荷物の心配は、あまりありませんが、手荷物検査は、ゴーン氏やコロナウィルスのおかげで厳しくなっているのではないかと、今から、少々気が重いです。

 ただでさえ、液体がどうの、電子機器は、別にしろとかで、その度に、携帯電話やパソコン、ipad、ipodなど、ごそごそと取り出し、下手をすると、空港の感じの悪い職員に横柄な態度で、靴まで脱げと言われるのには、毎度のことながら辟易します。

 どうして、彼らはあんなに感じ悪いのでしょうか?

 そこへ行くと、やはり、羽田空港は素晴らしい。綺麗で、きちんとしていて、礼儀正しい。やっぱり、これだよ!これ!さすが日本!と羽田に着くと、毎回、思うのです。

2020年2月10日月曜日

突然の飛行機のキャンセル




 今週、日本への一時帰国の予定で、本当は、明日、出発の予定でした。

 今回は、一人だし、ちょっとケチって、行きは、経由便を予約していました。
ところが、今日になって、ルフトハンザから、「あなたの予約している明日の便は、キャンセルになりました」と突然、SMSで連絡が入りました。

 今日は、1日、必死で、家の中を片付け、荷作りをしていたので、メッセージが来ていることに、気が付いたのは、夜になってからのことで、焦りました。

 メッセージについていたサイトを開くのも、初期画面がドイツ語で出てきたので、慌てて、ドギマギしながら、サイトを開き、予約が、1日遅れのANAの直行便のフライトに変更になっていることを確認しました。

 まったく、こんなことって!!

 経由便から直行便にしてくれるのは、良いのですが、1日、到着が遅れるために、日本に着いて、すぐ翌日から、急いで片付けるはずの1日目の予定が全てキャンセル。

 以前にも、日本から帰国する時に、直行便のエアフランスの予約が前日になって、ストライキのために、変更になり、半日、出発の早い、BAの経由便に変わってしまったことがありました。

 だからもう、エアフランスは、いつ何時、ストライキになるかわからないし・・と思い、今回は、エアフランスは、避けたのです。

 しかも、その時は、変更の連絡がうまくついていなくて、羽田のカウンターで、まさかの「予約が入っていません。」と言われ、エアフランスに確認を頼むも、エアフランスは、まだ職員が出勤しておらずに確認が取れずに、「この便にどうしても乗りたいなら、正規の運賃を払ってください。」とまで、言われてしまいました。

 それでも、どうにか、確認をとってもらうように粘りに粘って、ギリギリの時間で滑り込みセーフでなんとか乗れて、やっと乗ったと思ったら、飛行機の出発は、遅れて、機内で長々と待たせられ、ロンドンに着いた時には、パリへの乗り換え便まで、時間があまりなく、広いヒースロー空港の中を走る走る・・しかも、乗り換えのため、また手荷物検査を受け、持っていた日本のお茶などは、取り上げられ、滑り込みセーフでパリ行きの便に乗り、ゼーゼー言いながら、パリに帰ったことがありました。

 それ以来、エアフランスは、もう嫌だ!!日本から帰って来る時は、荷物も多いので、(機内持ち込みでさえ多い)経由便は、もう絶対に嫌だ!!と思っていたのです。

 それが、今回、行きは、荷物もさほど多くないし・・と思って、行きだけ経由便にしたところが、これです。結果、直行便に変更になったとはいえ、1日のロス。

 喜ぶのは、1日、留守番の日が減ったポニョ(猫)くらいなもんです。

 ルフトハンザがなぜ、キャンセルになったのか、理由もわからないので、余計にモヤモヤが残ります。

 とかく、ストレスがつきまとう海外生活。

 経由便はダメ! エアフランスもダメ!ということは、やっぱりJALかANAの日本の航空会社に頼るしかないのでしょうか?

 日本への帰国も楽ではありません。










2020年2月9日日曜日

お兄ちゃんの婚約




 娘には、年の離れた腹違いのお兄さんが三人もいて、三者三様で、まったく似ていない三人です。三人ともいい年をしているのに(うち二人はアラフォー)、まだ独身です。

 一番下のお兄さんが一番まともで、しっかりしているのですが、仕事の都合上、スイスに住んでいるので、一番、会う機会が少ないです。彼には、長く付き合っている彼女がいますが、遠距離恋愛を続けています。

 一番上のお兄さんは、敬虔なクリスチャンで、神のため、人のために生きている人で、仕事もキリスト教関係の学校の先生をしているとかで、収入もあまりないのに、教師の仕事以外にも教会関係の仕事で何だか、いつも、忙しそうですが、本人が信念を持って生きているので、とても、充実した生活のようです。

 もう一人のお兄さんが、一番、曲者で、高校を卒業後、いくつかの学校に行っては、その度に、違う仕事につくのですが、長続きせずに、滅多に会うこともないのですが、もう、いちいち、今、何の仕事をしているのか? 聞くこともしないようになりました。

 優秀なお兄さんと弟に挟まれて、どれだけ、複雑な思いで育ったのだろうかと思いきや、なぜか、いつも根拠不明の自信満々で、なかなか手がつけられない感じで、なぜか、いつでも、誰に対してでも、上から目線で、なかなかなクズぶりで、私としては、できるだけ、距離を置くようにしていました。

 考えてみれば、その強気の態度もコンプレックスの裏返しなのかもしれません。

 娘とも、「一番上のお兄さんは、まともな収入がないので、教会関係の人以外との結婚は、無理そうだし、二番目のお兄さんも、あの調子じゃ、二人とも、無理だよね〜」と、見通しが暗そうなお兄さんたちの結婚について、話していたのです。

 それでも、昨年のノエルの前に、上の二人のお兄さんが、娘を映画に誘ってくれて、三人で会う機会がありました。

 映画から帰ってきた娘は、開口一番、映画の感想は、そっちのけで、「バンジャマンに彼女ができた!!」というのには、びっくりしました。

 私が冗談半分で、「まさかネットで知り合ったとか言うんじゃないでしょうね・・」と言ったら、まさかの大当たり!しかし、とにかくラブラブで、彼女は一緒には、来ていなかったものの、まだ、知り合って、一週間も立たないと言うのに、寸暇を惜しんで電話で甘い言葉を囁いていると言うのです。

 まあ、「彼のことだから、どうせ、長続きしないでしょ!」と娘と話していましたが、つい先日、娘から、「バンジャマン、婚約したんだって!!」と驚愕のニュース。

 嬉しさを抑えきれずに、娘にまで、報告してくるところが、彼の興奮ぶりを伺わせるところですが、出会って(しかもネットで)、わずか一ヶ月での電撃婚約。

 情熱的にくっついたり、離れたりするイメージのフランス人に、ネットでの出会いというのは、思ってもみませんでしたが、周りに聞いてみると、これが意外と少なくないのが、現代のフランスです。しかも、こんなに身近なところで・・。

 奇跡的に掴んだ幸せ、波乱含みでは、ありそうですが、彼は、もともと、優しくて、面倒見が良いところもあり、この恋愛・婚約で、その彼の良いところが、膨らんでいってくれるとよいなと思っています。

 

 

















2020年2月8日土曜日

宗教の教育




 私が未だに、考えさせられ続けている日本の事件のひとつに、オウム真理教の事件があります。私は、当時、日本の通信社におり、ニュースの一部始終を毎日毎日、どんなに小さなニュースも漏らさずに、全部を毎日毎日、見ていたこともあるかもしれません。

 教祖をはじめとした事件の死刑囚の刑が執行され、平成という時代が終わり、事件は終わったような片付けられ方をしていますが、実際のところ、肝心なところは、解明されていないように思います。
 首謀者である教祖や側近の幹部たちが、多くを語らないまま刑が執行されてしまったからです。

 なぜ、どのように、オウム真理教は、作られていったのか?、なぜ、あんなにも信者が増えたのか? そんなに多くの若者を惹きつけたものは、何だったのか? 私には、どこか、他人事では、済まされないような要素を感じているのです。

 日本は、神道、仏教が多くを締める国だと言われていますが、実際のところ、本当に信仰のある人は、どの程度なのか、甚だ疑問です。結婚式やお葬式などのセレモニーの際のみの、実質、無宗教の人が多いのではないかと思います。

 日本の教育の中で、圧倒的に足りないのは、宗教の教育だと思います。

 娘が通っていたフランスの学校は、カトリック系のキリスト教の学校でしたが、信仰を強制するものではなく、礼拝なども参加は、自由でした。

 しかし、学校では、宗教全般に関する「宗教」の授業がありました。「宗教」の授業では、キリスト教の他、いくつかの宗教について、また、宗教を信仰するということについての授業が行われており、宗教への向き合い方、宗教とはどういうものか?を学びます。

 その先の選択は、自由ですが、ある程度、宗教に対する知識や心構えを学ぶことができます。これは、私は、とても大切な教育であると思っています。

 日本人は、宗教に関して、免疫がなさすぎるのです。オウム真理教のような、新興宗教が爆発的に拡大したのも、そんなところにも理由があると思います。時代は変わっても、現代の若者が、オウム真理教のような危険な新興宗教に入ってしまうような不確かな、危険な側面は、現代の社会にも潜んでいます。

 私自身は、無宗教ですが、信仰があったら、どんなに楽だろうかと思うことはあります。大学で、お世話になっていた教授がキリスト教の神父さまでもあったので、キリスト教の講義も受けましたし、個人的に教授に相談に行ったこともありました。

 「キリスト教理論などは、理解はできるけれど、どうしても信じることができません。」と言う私に、教授は、静かにおっしゃいました。「必要ならば、その時が来ます。焦る必要はありません」と。

 日本では、宗教の話は、どちらかと言うとタブー視されているので、宗教について、語る機会があまりありません。フランスでは、キリスト教をはじめ、イスラム教やユダヤ教など、実際に礼拝や行事に参加している人は多いですから、宗教に触れる機会は日本よりも多いと思います。

 「宗教」を信仰したことがない私ですが、宗教とは、心の拠り所だと思っています。それがあるかないかは、その人の人生にとって、大きいことです。今のところ、私は、神様を信じることはできないのですが、人間ではない、大自然の力とか、何か、大きなものの力に委ねられていると感じることはあります。


 子供の成長過程で、宗教に関する教育を受けることは、生きていく上での、とても大切なことだと思うのです。












2020年2月7日金曜日

海外の日本人社会は、日本社会の縮図



海外で生活していれば、同じ国の人間として、その文化や習慣が理解しやすい日本人同士で助け合ったりして生きていこうとするのは、至極、当然のことだと思います。

 私は、日本人会に入ったことは、ありませんが、それでも、パリで出会った日本人から、「フランスって、〜〜なんだよ〜!」とか、「こちらの子供の学校は、〜〜なんだよ〜!」とか、日本とは、違うこちらの事情や、それには、どうしたらいいかなど、ずいぶんと教わり、とても、助けられてきました。

 何よりも、とりあえず、自分が生まれ育った環境とは違うことで、戸惑うので、たとえ、フランス人との関わりがあっても、フランス人にとっては、当たり前のことでも、私たちにとっては、びっくりするようなことだったりするのです。

 パリのような一応、都会で、日本人も多く、比較的、出歩くことも自由にできる街で、それぞれの生活から、自分自身の行動範囲を広げていくことも可能な都市ならば、あまり、必要はないかもしれませんが、それでも、日本人会や駐在員の社会などは、それぞれ存在しています。

 よほどの辺境の地でない限り、どこかしらに日本人はいるもので、私が以前いたアフリカのコートジボアールでさえ、日本人がおり、日本人会というものがありました。

 アフリカのような、日本人が一人で行動するのが、比較的、簡単ではない地域になればなるほど、日本人会なるものの繋がりは、濃くなります。

 アフリカでは、駐在員の奥様方が現地で仕事をしているというケースは、ほぼなかったので、夫の職種や地位がそのまま、奥様方の地位の優劣に直結している感があり、今から思うと、ホント、勘弁してもらいたい感じでした。(とはいえ、私は、一度、お茶会に参加させて頂いただけでしたが・・)

 先日、日本人は、外国人から、黙ってガマンすると思われているが、そのことを一番、利用しているのは、結局、日本人経営者が日本人を使う時だという記事を書きましたが、それは、実は、日本国内でも行われていることで、考えてみれば、海外で日本人同士の社会で起こることは、実際の日本の社会の縮図のようなものになっていることに気付かされます。

 海外というある意味、逃げ場の少ない不自由な環境が、それをさらに、凝縮したものにするのですが、それが、お互いに、純粋に助け合うだけの状態の場合は、良いのですが、ついつい、マウンティングになっていったり、見栄の張り合いになったり、いじめになったりもするのです。

 また、自分と違うものに対して不寛容になりやすく、攻撃的になりがちという側面も、海外での広そうで、実は、狭い日本人社会においては、時に悲惨な状況を生みます。

 私は、逆に日本でのママ友事情や、周囲の人とのお付き合いの事情は、具体的には、わかりませんが、きっと、同じようなことが起こっているのではないかと想像がつきます。

 ところ変われど、日本人が、寄り集まれば、同じような反応を起こすことに、国民性、気質などの根強さを思い知らされるのです。














2020年2月6日木曜日

フランスのゴミの収集 フランス人の衛生観念


フランス人には箱を潰して捨てるとか、そういう観念はない


 以前から、フランスのゴミの扱いについては、色々と疑問に思うことも多かったのですが、ここへ来て、コロナウィルス騒ぎの最中に、そのゴミ収集のストライキという、信じ難いことが起こっています。

 今は、アジア人が咳をするだけで、周りの人がさーっと避けていくとまで、言われている状況下で、ゴミ収集をせずにいれば、衛生上の問題は、それは、アジア人の咳どころではない不衛生な状況を生むわけで、日頃は、ストライキ・デモ・主張することを誇りとしているフランス人を、これもフランスの文化だと、どこか、諦めて眺めている私も、今度ばかりは、この状況の中のゴミ収集のストライキには、神経を疑います。

 コロナウィルスを恐れて、アジア人差別のようなことをやりながら、ゴミは放置して、ストライキを断行するのには、「おまえら、命がけなのかい!」と言いたくなります。でも、ゴミの収集とウィルス問題対策として結びつけて考えることができないフランス人の衛生観念は、極めて低いと考えざるを得ません。

 日頃から、駅のトイレや駅自体の汚さや、ネズミの多さなどから、間違ってもパリが清潔で衛生的な街であるとは、思っていませんでしたが、これは、やはり衛生に関する意識が根本的に欠如していると思わざるを得ません。

 普段のゴミの分別なども、なかなか大雑把で、箱などは、崩さずにそのまま捨てるし、きちんと仕分けされていないことを不満に思っていましたが、まだ、ゴミをゴミとして出すだけでもマシなのかもしれません。

 実際に、フランス人が日本へ行くと、街中にゴミ箱が少ないことを非常に不思議に思うようです。日本が、ゴミ箱を安易に設置しないのは、ゴミの分別をキッチリとするためなのでしょうか?

 そこへ行くと、日本のゴミ出しは、本当に大変です。ここのところ、日本へ行くと、家の片付けをしていることもあり、まず、チェックするのがゴミの収集日の確認です。

 曜日によって、ゴミを分別して出さなければならないし、しかも、ゴミの種類によって、やけに早い時間帯に来たり、昼近くまで、来なかったり、ゴミの収集車が来る時間帯も違ったりするので、下手をすると、ゴミを出そうとした時には、もうすでにゴミの収集車は行ってしまった後・・なんてこともあるので、慣れない私には、とても、複雑で厄介な作業です。

 私でさえ感じるのだから、高齢者にとっては、かなりの負担を伴う作業だと思います。

 日本では、ゴミにカラス除けのネットを被せたりしていますが、フランスでは、ゴミに寄ってくるのは、人間で、特に、粗大ゴミ、家具などが捨ててある場合は、驚くほどの速さで、ゴミ収集車が来る前に、誰かが拾っていきます。
 そして、いよいよゴミ収集車が来る頃には、ほんとうにどうしようもないものだけが残されています。

 フランスは、壊れても、古いものでも、直して使う人が多いのです。
これは、無駄を嫌い、古いものでも修理しながら、使うフランス人の考え方は、悪くはないと思うのですが、ゴミがなくなるスピードには、目を見張るものがあります。

 ですから、私がゴミを捨てる時には、もしかして、まだ使う人がいるかもしれないと思われるものに関しては、普通のゴミからは、よけて捨てるようにして、その自分の出したゴミが、あっという間に消え去っていることを見て、なんだか、無駄にせずに済んだと、妙な満足感を味わっています。

 それにしても、こんな日常のゴミ問題にもお国柄が現れるものだなあと思うのです。

 

 


2020年2月5日水曜日

まずいイギリスの食事の懐かしく甘い記憶




 今、娘が今年の夏のイギリスでのスタージュのために、ロンドンのアパートを探しています。しかも、娘の行く学校が、以前に、私自身がスタージュのためにロンドンで生活をしていた South Kensington(サウス・ケンジントン)という場所だという偶然も手伝って、最近は、もう、娘がどこへ行くとしても、あまり、首を突っ込まない私も、懐かしさもあって、娘のロンドンでのアパート探しの様子にちょっと首を突っ込んだりしました。

 アパートといっても、スタージュは、3ヵ月だけなので、短期の賃貸を見ていると、ロンドンは、物価も高く、なかなか手頃な物件が見つからない中、娘が学生向けのレジデンスのような物件に目をつけて、しかも、学校まで歩いて行けそうで、かつ手頃な値段の物件を探し出し、ジムなども付いていて、しかも、2食、3食付きとあるのに、ビックリしたのです。

 この値段で、2食、3食付き・・2食は、まだ理解できるとしても、3食とも、家で食事する人って、老人用のケアーホームじゃあるまいし、どんな生活を送る人なんだろうか? とか、この値段での3食って、想像するだけでも、恐ろしい食事だろうと思ったのです。

 イギリスでの食事を思い浮かべた時に、私には、以前、自分が体験したイギリスのまずい食事の記憶が鮮明に蘇ったのです。

 私がイギリスに渡って、最初の一ヵ月は、ホームステイで、イギリスの家庭の食事にほんとうにウンザリした記憶があり、その時のウンザリした食事をまざまざと思い出したのです。

 後にも先にも、あんなに食事にウンザリした記憶はなく、朝のカリカリに焼いたトーストやベークドビーンズや卵、ふにゃふにゃしたソーセージは、まだ、良いとしても、夕食の焼いたか煮たかわからないような、オレンジ色がかった茶色いソースがかかった肉に、溶けて半分、粉状になったようなグリンピース、噛めば、ジャリジャリと音がするようなケーキのデザートなど、1日も早く自炊できるアパートをと必死にアパート探しをしたものです。

 しかし、今から考えてみると、あれだけまずい未知の食事の経験は、決して、嫌な記憶ではなく、むしろ、長い一生のうちに、期間限定であるならば、後から、振り返ると、若い時だからこそできる、なかなか良い経験だったと思うのです。

 その後、一人暮らしを初めてからも、どうしたら、こんなにまずいものが出来上がるんだろうか?と不思議になるほどまずいカップヌードルや、何の肉を使っているのかわからないようなスコッチエッグなど、数々のまずいものに遭遇しましたが、今では、そんな、イギリスならではのまずい食べ物にも、おかしな郷愁を持っています。

 私が、未だに、パリでも、M&S(マークスアンドスペンサー)(イギリスのスーパーマーケット)が好きなのは、あの頃のことを懐かしく思う気持ちがあるからなのだと思います。

 とはいえ、M&Sは、それでも、高級な部類のスーパーマーケットで、しかも、その中から、自分の許容範囲内で懐かしい食品やクッキーなどを買うだけですが・・。

 しかし、あの頃のまずい記憶が、若い頃に体験した、一種の甘い記憶となっていることが、若い頃に、一定期間を異文化で生活した自分の中でのかけがえのない一生の思い出となっていることに、今、私は、しみじみと喜びを感じるのです。














 

2020年2月4日火曜日

日本人は、黙って我慢すると思われている




 私が、フランス人に対して、あまりにいちいち、突っかかって、モノ申すのを見て、「おまえら、やることやってから、言えっつーの!」と思うのと同じくらい、フランス人から見たら、日本人は、言うべきことを言わず、黙って我慢していて、「これだから、日本人は、ダメなんだ・・」と度々、フランス人の同僚から言われたものです。

 私など、「黙って我慢する」・・と言えば、聞こえは、いいのですが、相手に隙を付け込まれないように、キッチリとやることをやって、相手を追い込んでから、言うことを言うという、見方によっては、勝気で、たちの悪いものではあるのですが、とにかく、何か、あれば、瞬発力よく、言いたいことを言うフランス人には、理解しがたいことであり、これだから、日本人は・・と、日本人がバカにされている一面でもあります。

 とにかく、自分のことは、棚に上げて、言うことは言うフランス人の言うことを、説得力がない・・と私は、感じてしまいますが、海外のスタンダードにおいては、「とりあえず、やることやってから」よりも、「とりあえず、モノ申す」方が、世間を渡っていきやすいのかもしれません。

 とにかく、すぐに、「訴える!」とかいうことになるので、特に、フランスで雇用関係にあれば、雇用形態にもよりますが、正規採用の場合は、圧倒的に、雇われる側の方が強く、雇う側も訴えられることを常に恐れています。

 日本人は、和を重んじ、何かモノ申せば、その後、職場で気まずくなるとか、そんなことを考えがちですが、フランス人は、そんなことは、一向に憂慮している様子はなく、言いたいことを言った後は、意外にあっけらかんとしているのも、フランス人の気質なのだと思わされます。

 そして、モノ申すことに対しての瞬発力と粘り強いエネルギー、度々、行われるデモや長期間にわたるストライキなども、一体、この人たちのどこにそんなパワーが潜んでいるのかと思いますが、何より、彼らにとっては、主張するこそが誇りであり、そんなプライドが彼らのパワーの源なのです。

 訴えるとか、訴訟ということに、日本人は、慣れないということもありますが、日本人が、とりあえず、黙って我慢するというのは、ある種の傾向として、事実であり、そのように日本人が見られ、バカにされているのも事実です。

 そして、そんな、日本人が泣きを見るのは、意外にも、フランスの企業ではなく、フランスにある、日本人経営の会社に多いことも、また、悲しい現実です。

 フランスの企業は、とは言っても、日本人をそこまで知るわけではなく、フランスの法律は、尊守しているので、そこまで酷いことにはなりませんが、日本人を誰よりも知っている日本人経営者の方が、海外というある種、生きづらい環境と、日本人の「黙って我慢する気質」を利用して、横暴なことをする傾向にあります。

 「日本人は、黙って我慢する」ということを、一番利用しているのは、実は、日本人であったりもするのです。

 








2020年2月3日月曜日

コンビニのない世界




 フランスに、コンビニは、ありません。コンビニどころか、大抵のお店は、日曜日は、お休みです。コンビニもどきのお店はあっても、それは、ごくごくパリの街中のチェーンのスーパーマーケットのミニチュア版か、アラブ系の人がやっている種々雑多なものがおいてあるお店のことで、たいていは、日曜もやっているというだけのことで、大して、便利でもありません。

 フランスに来た当初は、日曜にお店が閉まっているということだけで、信じがたく、ほとんどの女性が働いているフランスで、どうして、お店を日曜日に閉めるのか、理解に苦しんだものです。

 どうやら、労働組合が強いフランスでは、日曜出勤を組合側が反対しており、なかなか、解禁にならないようです。これだけ失業者が多い国なのですから、日曜だけ働くという人を雇っても良さそうなものですが、そんなことも進まない国なのです。

 そこへ行くと、日本のコンビニは、凄まじいものがあります。始まりは、セブンイレブン=朝の7時から夜の11時までの営業だったコンビニが、あっという間に24時間営業、しかも、年中無休になり、しかも、その数もびっくりするほど増えて、そのサービスも、お金の振り込みから、荷物の配送まで、銀行や郵便局の代わりにもなる、本当に便利なものです。

 私が、海外に出て、20年以上が経ちますが、当時の日本は、ここまでではなかったにせよ、海外にでた当初は、コンビニどころか、生活ひとつひとつが全て不便で、しかも、ストレス満載でした。

 しかし、すっかり、そんな生活に慣れてしまった今では、日本帰国時には、「あ〜そうか・・日曜日もやっているんだ・・・」と、いつの間にか、思うようになっていました。

 日曜日にお店が休みなら、違う日に買い物を済ませて、日曜日には、他のことをすれば良いのです。代わりに日曜日には、家族とゆったり過ごす時間が得られます。

 「無ければ、無いなりに、なんとかする。」のは、海外生活の基本で、日本のような便利な国は、世界中、どこを探したって、そうそうあるものではないのです。

 必ずしも便利ではない暮らしだからこそ、代わりに得られるものがあることに、私は、最近になって、気付き始めているのです。






 

2020年2月2日日曜日

死ぬ覚悟と死なせる覚悟




 「俺は、のたれ死んでもいいから、家にいたい。」父は、最後のギリギリまで、そう言って、粘っていました。父は、幼少期から、最後のギリギリまで、同じ土地に住んで、子供の頃に父親の転勤で、外地に数年いたことがありましたが、それ以外は、生涯のほとんどを同じ土地に暮らしてきました。

 父は、母が亡くなってからも、結局、10年間、同じ家に一人暮らしをしていました。
我が家は、私も弟も海外で生活していたため、一緒に生活するどころか、近くにいて、満足に世話をしてあげることもできませんでした。

 父は、脳梗塞を起こしたり、心臓の手術をしたりしたこともありましたが、最後の数年は、間質性肺炎という病気を患っていて、最後の一年間で、急速に弱っていきました。

 母が亡くなった当初は、それまで、家事らしい家事もしたことがなく、わがままに暮らしてきた父が、一人暮らしになることは、どうなることかと思っていたのですが、思いの外、父は、かなりの年齢になっての初めての一人暮らしをなんとか、過ごしてきました。

 もちろん、一人暮らしといっても、同じ敷地内に父の兄家族が住んでおり、叔母やその娘(私の従姉妹にあたります)が、こまめに家をのぞいてくれたり、食事を届けてくれたりしたことが、大きかったと思います。叔母と従姉妹には、本当に感謝しかありません。

 母の生前に、家に来てくださっていたヘルパーさんが、そのまま、父の介護として、来て下さるようになったことも、大変、幸運でした。

 父の死後、家を片付けていると、残された沢山の写真から、意外にも父には、度々、友人と旅行に出かけたりもしており、年齢のわりには、パソコンやインターネットをよく勉強し、それなりに使いこなしていたこともわかり、自分の生活を楽しんでいたと思います。

 しかし、持病の悪化と老化とで、急速に弱り始めてからは、度々、父は、入院した先で、トラブルを起こしたり、家に戻っても、食事を取れなくなったり、苦しくなって、隣に住んでいる私の従姉妹を呼びつけたり、周囲も手に負えなくなっていきました。

 弟も帰国時に宅配のサービスの契約をして、バランスの取れた食事を手配したりしてくれましたが、それとて、父の生活のごくごく一部でしかなく、父の急速な衰えを止めることは、できませんでした。

 父の方も、「周りには、迷惑をかけない!俺のことは、放っておいてくれていい!たとえ、のたれ死んでもいいから、家にいる!」と言って、ケアーホームに入ることを拒否し続けるわりには、心細くなって、結局、周りに頼る状態が続いていました。

 私も帰国時にケアーホームの個室の状態の下見に行って、食べ物には、殊更うるさい父の要望で、食事のメニューまで、見てきたりしましたが、結局、父がしぶしぶ、体調が改善されるまでという条件付きで、入所した時には、何も食べられない状態になっていて、最後の数ヶ月は、誤嚥性肺炎を恐れて、胃ろう(チューブでの経管栄養を施す)の処置をして、何も食べられない苦しい拷問のような数ヶ月を過ごしました。

 父の人生で、最も苦しかった数ヶ月だったと思います。

 それもこれも、父にも、死ぬ覚悟、私たちにも、死なせる覚悟が足りなかったことを今となっては、とても後悔しています。

 いざ、その時になれば、死に直面することを避けてしまい、とりあえずできる処置に頼ってしまいます。特に私たちのように、海外生活を送っていて、離れた状況にあれば、その決断に猶予はありません。

 余程、日頃から、真剣に死と向き合って、覚悟を決めておかなければ、いざという時に決断ができないのです。

 父は、従姉妹が施設に見舞ってくれる度に、「アイスクリームが食べたい。アイスクリームを食べさせて!」と何回も頼み込んでいたようですが、従姉妹にしても、医者から禁じられていることをするわけにもいかずに困ったと言っていました。

 食べることが何よりも好きで、貪欲だった父の最後の数ヶ月をこのようにしてしまったことは、残念でなりません。そばにいられなかった私が言えることではありませんが、アイスクリームを食べさせて、死なせてあげられればよかったと、今になってから、思うのです。

 人間、食べられなくなったら、もう生きてはいけないのだから、その時が来たら、自分も潔く、覚悟を決められるように、私自身も常に、自分の死の迎え方を真剣に考え続けることを自分に戒めています。

 






 

2020年2月1日土曜日

災害に免疫のないフランス人がパニックを起こして、アジア人全体を傷つけている

 

 
 出勤前の朝の時間は、食事の支度をしたり、夕飯の下ごしらえをしたり、バタバタしている中、我が家のキッチンのテレビが、つけっぱなしになっていて、ほとんど、ラジオのような状態になっていた中、「Japon(ジャポン)、Japon!」という単語が連呼され、朝から、トップニュースで日本について報じられることなど、珍しいので、何事か? と画面をふと見ると、波に流される車の映像が流されていました。

 一瞬、目を疑うような、映画でさえも、現実味がないような映像に、唖然として、突如、座り直して、ニュースを見たのが、東日本大震災の時のことでした。

 東日本大震災は、そのように、フランスでも、ニュースとして、大々的に取り扱われていましたので、フランス人の中でも、大変な話題となっていました。

 震災直後の避難所の様子なども含めたドキュメンタリーなども、テレビで放送されて、あのような災害時においても、決して騒がずに、礼儀正しく、配給される食料の列に並んだりしている我慢強い東北の人々に、胸に込み上げるものがありました。

 当時、私が、通っていたジムのサウナの中で、見知らぬ女性に、「あなた、日本人? ご家族は、大丈夫だった?」などと、話しかけられ、「日本人は、素晴らしいわね。あんな状況でも、礼儀正しくて!フランスだったら、きっと、殺し合いになるわよ!」と言われたことがありました。

 まさに、地震などの災害に慣れていないフランス人にとって、自分の身を脅かされるような状況に陥ることは、滅多になく、慣れていないこともあり、ストライキ等で間引き運転になって、混雑したメトロの中でさえも、譲り合うということをせずに、我れ先にと乗り込もうとする様子は、まるで、地獄絵図を見るようです。

 もともと、我が強く、感情的で、パニック状態をコントロールすることが苦手な人たちですから、実際に、危機的状況になると、本当に怖いことになるだろうと、その時の私は、思ったものです。

 それが、今回のコロナウィルスの騒ぎで、彼らは、パニック状態になりつつあり、中国人を初めとしたアジア人を極端に避け、緊急電話への電話相談が殺到していると言います。

 中国人のレストランで食事をしたが、大丈夫だろうか? 中国からの郵便物が届いたが、大丈夫だろうか? 中国人とすれ違ったが、大丈夫だろうか? 子供の先生がアジア人だが、大丈夫だろうか?

 私は、聞きたい! あなたたちの頭は、大丈夫だろうか?
 アジア人だろうが、あなたたちと同じようにフランスで生活している人たちなのです。
 自分たちの行動が人を傷つけていると、省みることは、できないのか?

 フランスでも、マスクが飛ぶように売れているというわりには、マスクをしている人は、それほどいるわけでもなく、(とりあえず、買ったはいいが、使っていないのだと思います。)イタズラにアジア人を避けるばかりのフランス人のパニックぶりは、どうにも理解しがたいのです。

 ウィルスが怖いのなら、正確な情報を収集し、自分で、できる限りの防御を淡々とするしかないのです。