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2023年9月4日月曜日

子供のお稽古事はどの程度、必要なのか?

  


 私が子供の頃、やっていたお稽古事は、ピアノくらいなもので、英語は習っていたというよりも、母が教えてくれていたので、お稽古事という感じではありませんでした。

 まあ、時代も国も違うので、今の日本の子供たちがどんなお稽古事をしているのかはわかりませんが、お稽古事をさせる親の立場になってみると、フランスでは年度初めの9月に色々なスケジューの都合をつけて、申し込みをしたり。必要なものを揃えたりと忙しい時期でした。

 なんといっても、私が娘にさせていた最優先にしていたお稽古事?は、日本語(公文)でした。パリの公文の教室は小学校のお休みに合わせて、水曜日と土曜日の午後、好きな時間に行って、みんながそれぞれの課題をやって、それぞれが学習している間を先生が見て下さり、帰りには宿題をもらって帰ってくるというものでした。

 水曜日と土曜日の2日間を公文だけに時間を割いてしまうというのもキツいので、我が家は週1回だけ連れて行って、1週間分の宿題を頂いてくる感じでした。公文が大変だったのは、教室に連れていくことよりも、どちらかというと、その宿題を毎日やらせることで、私は仕事終わりに娘を迎えに行き、学校から帰ってくると私は食事の支度をしながら、公文の宿題を監督するという日々の繰り返しがなかなか根気がいることで、しかし、私は娘の日本語だけは、絶対にあきらめないと思っていたので、他のことは娘にうるさく言ったことはありませんでしたが、このルーティーンだけはけっこう頑なに守っていました。

 フランスの小学校は、この学校以外のアクティビティーのためにということで、水曜日をお休みにしているのですが、実際にお稽古事などの他のアクティビティ・お稽古事などに時間を割いている子供の割合がどのくらいいるのだろうか?と疑問にも思います。

 だいたい、小学生の場合は、どこへ行くにも送り迎えが必要で、送り迎えができない場合はお稽古事に行かせることもできないわけです。私は休日出勤したりした場合の代休は水曜日に充ててもらうようにしていましたが、さりとて、毎週毎週決まって水曜日に休めるわけでもなく、そうなると、水曜日に娘のお稽古事の予定を入れるわけにもいかなくて、どうしても、お稽古事は土曜日に集中することになり、土曜日には、もう一つやらせていたバレエと公文の教室のハシゴをしていました。

 とにかく、平日の学校(月・火・木・金)は、16時半までで、その後は希望者にはエチュードという学校の宿題などを見てもらえる時間があり、それが18時まで、もう時間はいっぱいいっぱいで、他のお稽古事のための時間はありませんでしたし、それ以上、増やすつもりもありませんでした。

 なので、私も水曜日が休める日は、多くの場合はプールに連れて行って、水泳は私が教えました。というと、聞こえはいい?のですが、娘はあっという間に泳げるようになったので、娘をプールに連れていくのは、私自身も泳ぎたかったことや、エネルギーがありあまっている娘をどうにかして、疲れさせることが目的でした。

 バレエは私が小さい頃になんとなく憧れていたので、パリということもあり、また地域のバレエの教室の先生がなんとパリ・オペラ座のソロのダンサーだったというカッコいい先生で、こんな先生に教えてもらえるチャンスなんて、そうそうあることではない!と、娘が4歳くらいの時から通うことにしたのですが、娘はけっこう、気に入って、10年くらいはやっていたのではないでしょうか?

 結局、お稽古事らしいことは、バレエと公文くらいのもので、それ以外は、学校で行った乗馬の合宿がきっかけで、春休みになると、乗馬の合宿に参加したりもしていましたが、これは、不定期なもので、挙句の果てには、もっと別のスポーツをやってみたいと、他のものに移行していきました。

 夫が他界したこともあって、それ以降は、うんざりするほど多い学校のお休みは、とても私一人で面倒を見きれるものではなく、私がお休みをとれる1ヶ月程度を除いた彼女の学校のバカンスを、結局は、彼女がやりたいというスポーツの合宿で埋めることになり、結果的に後になってから考えれば、このおかげで彼女は乗馬、スキー、サーフィン、ダイビング、カヌー、ハイドロスピードなどなど、彼女の年齢にしたら考えられないほどたくさんの体験をすることができてきました。

 お金もかかりましたが、それでも幸いなことにこれらの合宿に参加するための遺族補助金のようなものが国から出ていて、それでも、かなりの出費ではありましたが、私は娘に物を買い与える代わりにこれらの体験をさせることにお金を使いました。

 具体的に何の役に立つというものでもありませんが、多すぎる学校のバカンス期間を休みがとり切れずに仕事に行っている母親を待って退屈しながら時間を過ごすのは、無駄だし、毒だと思っていたのです。

 子供にしろ、大人にしろ、暇だったり、退屈したりしているとロクなことにはなりません。

 娘のお稽古事に関して、一つだけちょっと残念に思うのは、私が小さいときから当たり前のように習っていたピアノを教え続けることができなかったことです。私自身が親からしてもらったことは、当然のように自分の子供にもしようと思って、私は彼女が小さいときにピアノを教え始めたのですが、どんなに走っても疲れない娘がピアノの練習となると、すぐに「手が痛くなってきちゃった・・」とか言い出すので、私は、この子は、そんなにピアノが好きではないんだろうな・・無理矢理やらせるのも労力の無駄・・と早々に辞めてしまったことです。

 しかし、まあ思い返すに、私も仕事をしながらの子育てで、もうスケジュールはいっぱいいっぱいで、あれ以上はムリだったな・・とも思います。

 子供の頃は、言語にしろ、スポーツにしろ、飲み込みが早くて、大人になってからやるよりも、ずっと効率もよいので、好き嫌い、向き不向きがわかるだけでもやってみるということは結構、大事で、どんなことにしても、子供の頃、若い頃に、ちょっとでもやったことがあるということは、その後、大人になってから、再開するにしても、ハードルが下がるものでもあります。

 子供の個性によっても、様々な事情によっても、できること、できないことはありますが、色々なことを体験するという意味では、お稽古事は決して悪くはないかも・・と、思うのです。


子供のお稽古事


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2023年4月25日火曜日

日本人なのに日本語がほとんど話せない海外育ちの従弟の子供

 


 娘が日本で就職して、あっという間に1年が経ちました。彼女が生まれてから、私は彼女の日本語教育には、ことのほかしつこく、根気よく、かなり労力を費やしてきました。

 フランスで生活しつつ、私は彼女とは日本語だけで会話を続け、ある程度の年齢までは、家にいるときは、日本語のテレビ(ビデオやDVDなど)しか見せず、小さい時は、日本語の単語のカードを作って遊みたばせてみたり、毎晩、寝る前には、日本語の絵本の読み聞かせを続け、会話だけでなく、日本語の読み書きもできるようになってほしかったので、日本語をできるだけ億劫に感じることがないように、フランスの学校に通い始める前に、2歳になるかならないかのうちに、公文に通い始め、日本語で彼女に接してくれる私以外の人のいる環境にも定期的に身を置き、簡単な読み書きを教え始めました。

 親子だと、どうしても煮詰まってしまうこともあるので、公文には本当に助けられました。その後、結局9年くらい公文には通い、毎晩、学校が終わって家に帰宅後、私は食事の支度をしながら、公文の宿題を5枚やらせるというのが、日課になっていました。

 途中、夫が亡くなってしまったことで、正直、私も仕事と学校の送り迎えであっぷあっぷで、やはり本業?の現地校の学校での勉強を優先にしなければと思い、その時点で公文はやめてしまいましたが、その後、バカロレアのオプションに日本語を選択するとかで、高校生になってから、また別の学校に個人授業を受けに通わせたりしていました。

 小さい頃は必ず1年に一度は日本に連れていき、日本の小学校に一時的に編入させていただいたこともありました。毎年毎年、娘は日本に行くのが何よりの楽しみで、「日本語が出来ない子は日本には行けないよ!」と私に言われて、彼女には、日本行きが日本語のお勉強の大きなモチベーションになっていたと思います。

 そんなわけで、彼女は今では日本で仕事ができるほどに、日本語を習得することができたので、私としては大変、満足な結果を得ることができたのですが、もともとは、彼女に私の家族と普通に話ができるようになってほしかった・・コミュニケーションがとれるようになってほしかったというのが、一番、シンプルな私の願いでした。

 現在、日本で生活している娘は、友人もできて、小さい頃から日本に行くたびに可愛がってくれていた日本の叔父や叔母や私の従妹たちとも、時々、会ったりして、楽しく生活しているようです。

 先日、カナダに住む従妹の娘が日本に来ているというので、娘にもお声がかかって会いに行ってきたというのですが、どうにも従弟の娘は日本語がほぼ話せないようで、周囲とはほぼコミュニケーションがとれずに、「なんだか、とっても暗い雰囲気だった・・みんなもあんまり英語話さないし・・だから、私が呼ばれたのかな? あれじゃ、日本に来ても楽しくないだろうね・・」などと話していました。

 カナダに住んでいる従弟の娘のママは、もう従弟とは離婚してしまっていて、従弟は別の人と再婚して、再婚相手との間にも子供がいるので、少々、複雑な境遇でもあります。彼女のママは、日本人ではあるのですが、父親が外交官で海外を転々として育ってきたので、それこそ日本語があまり得意ではなく、子供が生まれた時点で、ほぼ、日本語を教えることを放棄していたのです。

 せっかくバイリンガルにできる機会なのにもったいないな・・と思ったものの、私が強制するのもおかしな話なので黙っていましたが、結果的に日本にいる家族とはろくにコミュニケーションが取れないという事態になってしまっているようです。それでも、英語なので、周囲とて、なんとか話ができないわけではないのですが、やはり、日常的に話つけていないと会話は弾まないのです。

 私は、娘がこんな状況に陥ることをとても恐れていましたし、また、我が家の場合はフランス語・・日本だとフランス語を話す人となると、英語以上にハードルが高くなるので、これはもう日本語ができなかった場合は絶望的な状態になり、結局、疎遠になってしまいがちでもあります。

 娘は、幸いにもそんなことにはならず、周囲の叔父や叔母や従妹たちとも普通に接することができていて、そんな親戚の集まりにも、ごちそうにつられて時々、顔を出しているようです。

 唯一の私の誤算といえば、一番、彼女を可愛がってくれていた私の両親が思っていたよりも早くに亡くなってしまったことで、今、両親が生きていてくれたら、彼女が日本で生活していることをどんなに喜んでくれたかと思うと残念ではあります。

 しかし、海外で普通に生活しているまま、そのまま放置していれば、両親が日本人だろうが、日本語はしっかり身につかないということは、忘れてはなりません。そして、それは日本の家族とのコミュニケーションがとれなくなるということで、疎遠になってしまうということに他ならないのです。


バイリンガル教育 日本語教育


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2022年8月15日月曜日

バイリンガルになった娘の就職

  

日本に行きたいがためにママに公文の宿題を毎日やらされていた頃の娘



 子供ができたとわかった時から、私はなぜか、お腹の中の子供は女の子だと思い込んでいて、産婦人科のお医者さんにエコーで診てもらった結果、「手足の長い女の子ですよ!」と言われて、「やっぱり!・・よかった!」と思いました。

 名前も、フランスにも日本にも、英語圏にもある名前にしようと前から決めていました。正直、私は名前はひらがなでもいいな・・と思っていたのですが、パパが「日本にはせっかく漢字があるんだから、漢字の名前をつけてあげなければ可哀想だ・・」などと言い出し、そうなると、今度は実家の母が「せっかく漢字にするなら、画数のいい字を選んだ方がいい・・」などと名前の画数の本などをわざわざ送ってきてくれたりしたので、検討の結果、かなり画数の多い難しい漢字を選ぶことになりました。

 しかし、私としては、フランスにも日本にも英語圏にもある名前ということで満足していて、将来、娘が国際人になってほしいという思いを込めてつけた名前でした。

 娘が生まれて(アフリカで)すぐにフランスに引っ越してきて、パパはフランス人で生活の基盤はフランスになることから、フランス語に関しては、あまり心配していませんでしたが、とにかく私は娘に日本語がしっかりできるようになってほしいと、彼女が生まれて以来、日本語を教えることに、とにかく一生懸命でした。

 パパがフランス人でママが日本人だったら、自動的にバイリンガルになるわけではないので、私はひたすら娘には日本語だけで話すようにしてきました。せっかくの環境、これを無駄にしてはいけないと思ってきましたが、それは、そんなに簡単なことではありませんでした。しかし、今から思うに私にしては、かなりしつこく日本語教育にはこだわってきました。

 私は単に彼女が日本語を話せるだけでなく、読み書きもしっかりできるようになってほしいと思っていたので、毎晩、寝る前には絵本を読み聞かせ、2歳になってすぐにフランスでの学校が始まる前に(日本語が面倒臭いと感じないように)、公文に通わせ始め、えんぴつの持ち方から公文の先生に教えていただきました。

 教えていただくことも、もちろんのことでしたが、その頃の娘にとってはフランスでは私以外の日本人と接する機会がなかったので、公文に通って、日本人との接点ができるということも大きな役割を果たしてくれていました。

 毎日毎日、学校から帰ると私は食事の支度をしながら公文の宿題を監督し、バタバタと毎日が過ぎていきました。娘が音を上げそうになっても、「公文をやらない子、日本語ができない子は日本には行けないよ・・」と日本行きをちらつかせて、続けさせてきました。

 小学校の頃には夏休みに短期間、日本の小学校の体験入学をさせていただいたこともありました。

 結局、公文は10歳まで続けましたが、その後、パパが亡くなって、私も仕事と、一人で学校の送り迎えとでいっぱいいっぱいで(フランスの場合、小学生まではどこに行くにも送り迎えが必要)、まずは学校が最優先と、公文は一時、諦めていましたが、日本語そのものは諦めたわけではなく、父や叔母などが日本から送ってくれる日本語のテレビ番組などは、常に家で流し続けてきました。

 彼女がバカロレアを取得する年齢になった頃、オプションの科目の一つを日本語にしたいと言い出した時、今度は天理のやっている日本語のクラスに通い始め、1〜2年は通ったでしょうか? その頃になると、彼女はもう自分で勉強ができるようになっていたので、私は、あまり口は出さずに、出すのはお金だけでした。

 その後、彼女は無事に高校を卒業し、プレパー、グランゼコールへと進み、グランゼコール在学中に日本の大学に留学する予定にしていましたが、パンデミックのために2度にわたってキャンセルになり、結局、日本への留学は叶いませんでした。

 そして、グランゼコールの卒業が決まって、さて就職となった時、しばらく彼女はいくつかの進路に迷っている様子で、この先、また次のエコールにという選択肢などもあったのですが、結局、彼女が選択したのは、イギリスの会社の日本支社という道でした。

 「日本には家もあり、住むところもあるし、留学できなかった分、仕事ができて、お金ももらえて、日本で生活するという体験もできて、よかったけど、なんで、この道を選んだの?」と聞いたら、「他の色々な就職先の中で、自分のやりたい仕事の中で、条件が一番よかったから・・」というのが彼女の解答でした。

 彼女の専攻は生命工学で、それを活かした仕事の中で、日本語ができるということが彼女のスキルの一つに加わって、彼女の新しい生活の一歩を踏み出せたことは、私にとっては、本当に何よりも嬉しい、感慨深いことでした。

 たしかに、彼女の言うとおり、ほとんどがリモートワークで、初任給としたら破格のお給料を頂き、かなり自由に時間も使えるかなり条件のよい職場のようです。

 彼女が日本語でリモートで、今や専門用語などを含めて、私でさえ理解不能な日本語まで使って仕事をしているのが聞こえてきて、「うわぁ〜!日本語で仕事してる!」と、小さい頃から必死で日本語を教えてきた母としては、うるうるしてしまいそうになりました。

 皮肉なことに、現在の仕事では英語と日本語のみで、フランス語を使うことのない生活のようですが、彼女にとって、やはり母国語はフランス語、フランス語を忘れることはないでしょう。バイリンガルのつもりがいつのまにか、トリリンガルです。

 日本には、日本独特の社会があるので、フランスで育ってきた彼女にとっては、理解し難い難しいこともあるでしょうが、そこは、ひとまず日本にある会社とはいえ、イギリスの会社ということで、いきなり日本の会社というよりはハードルが低いかもしれない・・とも思っています。

 とはいえ、日本支社ゆえ、一緒に仕事(といってもほとんどリモート)をしているのは、ほとんどが日本人。最初に日本に行って、「プレゼンが終わって、「お疲れ様でした・・」と言われた時は、なんて言ったらいいのかな? ほんとに疲れたんだけど・・」などと聞いてくる娘にホッコリしてしまいました。

 これまで私は娘に対しては使うことのなかった「お疲れ様でした・・」という日本独特の挨拶?など、これからまだまだ彼女が学んでいくことはあるでしょうし、このまま、ずっとこの仕事を続けるのかどうかもわかりませんが、とりあえず、私は彼女が日本語を活かした仕事に就くことができて、これまで私が頑張って、娘に日本語を教え続けてきたことが報われた気がして、とても嬉しく思っています。

 日本語というのは、どこでも通用する言語ではないにしても、とりあえず、自分のルーツの一つでもある日本という国でも生きていける術を持ってくれたことがとても嬉しいのです。

 私の両親はすでに他界しているので、そんな彼女を見てもらえなくて、残念ではありますが、周囲の私の親戚、叔父、叔母、従姉妹たちや私の友人たちも彼女を見守ってくれています。

 小さい時から、日本行きを餌?に日本語を教えて、日本に行くたびに、親戚に会うにも、友人に会うにもいつも一緒に連れて歩いていたので、親戚はもちろんのこと、私の友人たちも彼女が小さい時からよく知っているおばちゃんたちなのです。

 もう彼女が仕事を始めてから半年近く経ちますが、その間、出社したのは3回くらいだけということで、つい先日も2日半だけお休みをとって、2週間くらいパリに来ていました。

 リモートワークなので、パリに来ても、日本時間、イギリス時間に合わせさえすれば、仕事ができているのは、たしかに条件がいいといえば、いい仕事なのかもしれません。

 以前、私がイギリスに留学する時に、父が言語(英語)は目的ではなく、あくまで手段だ・・というようなことを言われたことを思い出しましたが、まさに彼女にとって、日本語は彼女にとっての大きな手段の一つとなったことをしみじみと感じています。

 

バイリンガル教育


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2021年11月24日水曜日

娘の卒業式

   


 これまでずっと入学式も卒業式もなかったフランスの学校で、最後の最後のグランゼコールには、卒業式がありました。卒業式といっても日本のような式典とは違い、ディプロムの贈呈式のようなものです。

 娘が10歳の時に主人が亡くなり、その直後は、「到底、フランスで一人で子育てなど無理・・もう日本へ帰ろう!」と思ったのですが、周囲の方々の支えもあり、結局、娘の教育を考えてフランスに残ることにしてから13年間、娘は当時、通っていた、こちら(フランス)の私立の学校に高校まで通い、その後、プレパー(グランゼコール進学のための準備学校)、グランゼコールへと進み、晴れて卒業致しました。

 娘が通っていたグランゼコールは、ボルドーにあり、ボルドーで2年間生活した後の一年間は、イギリス、日本へと留学予定にしておりましたが、パンデミックの煽りをもろに受け、それでもイギリス留学はリモートで授業を受けることができましたが、日本の国立大学への留学は延期された挙句に結局、キャンセルになり、その間、フランス国内の会社や研究所でのスタージュに切り替えた過程を終了し、ついに卒業式の日を迎えました。

 卒業式が11月という話を聞いて、フランスの学校事情に疎い私は、「なぜ?11月?」と思いましたが、家族も参加する場合は予め人数を申告する必要があったため、「ママ、行く? 私、自分自身も行っても、行かなくてもどっちでもいいと思ってるんだけど、どうしようかな??」などと言うので、「卒業式に行かないなんて、そんな・・ママも絶対行くよ!」と出席予定にしていたのでした。

 卒業式の日程が決まったのは数ヶ月前で、娘もそんな具合で、えらく冷めた感じだったので、なんとなく、今ひとつ、気持ちが盛り上がることもないまま参加した卒業式でした。

 日本の卒業式のようなセレモニーとは違いましたが、40人前後の卒業生が一人一人、呼び上げられながら、一人一人壇上でディプロムと卒業記念の四角いフサのついた帽子をもらい、サインしていく様子には、派手な演出がない分、余計にじんとくるものでした。

 娘のスライドが流され、ディプロムを受け取っている様子を見ながら、娘が生まれてからこれまでのこと、特に主人が亡くなってからの様々な出来事が走馬灯のように蘇り、「よくぞ、ここまで頑張ってくれた。本当によく頑張ったね。えらかったね・・。」とこれほど感慨深いこともなかなかなく、座席から見ていた私は、感極まって、溢れてくる涙を止めるばかりか、号泣しそうになるのをこらえるのが大変なくらいでした。

 ごくごく普通のフランス人の家庭で育った人でさえ、そう簡単には取得できないエンジニアのディプロムです。我が家のように、フランス人の父親を亡くし、私のような頼りない日本人(外国人)の母親のもとで育った娘にとっては、どれだけのハンディがあったかと思うと、感慨も一入(ひとしお)でした。

 グランゼコールを卒業し、この大層なディプロムを取得するこの卒業式には、卒業生以上にその家族総動員で参加している人も少なくなく、卒業生以上にその家族の人数の方が多く、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、兄弟姉妹たちまで来ていて、しかも、他の家族同士が他の生徒でさえも、暖かく見守って、讃えあうような暖かい卒業式でした。

 娘の晴れ姿を誰よりも見たかったであろう彼女の父親も、娘の成長を何よりも楽しみにしていた私の両親も全てもうこの世にはおらず、誰一人、この卒業式には参加することができなかったのは、返す返すも残念で、その一人一人が遠くから、彼女を見ていてくれたのではないかと遠い空を見上げる私の目からは涙が止まらなかったのです。

 こちらの大学・グランゼコールならではの、四角い帽子を被った卒業生、そして、映画で見るような、みんなで一斉に帽子を投げるシーンなどは、まことに晴れやかな光景でした。

 その後、校内の一角での簡単なカクテルパーティーでは、ふんだんに用意されたシャンパンやプティフール(一口サイズのスイーツやおつまみ)、ボルドーならではのカヌレなどが用意され、卒業生やその家族との会話は永遠に続くのではないかと思われるほどの盛り上がりぶりでした。 


 最後の日になって、校内がその家族にも公開され、おそらく値段を聞いたら驚愕するであろう研究設備など(娘の専攻は生命工学)が揃っているいくつもの部屋を見学し、フランスがどれだけ国費を投じて学生を教育しているのかを目の当たりにし、あらためてフランス恐るべし・・と実感させられました。

 娘にとっては、卒業式は、これまでの学生生活の締めくくりであるとともに、あらたな人生のスタート地点でもあります。

 ここまで私たちが無事にフランスで生活してこれたのは、周囲の方々の支えがあってのことで、私たちだけでは、とてもここまでくることはできませんでした。

 特に主人が亡くなった時点での周囲のフランス人のママ友やパパ友たちは、それまで漠然と勝手にこっそり抱いていた「フランス人は冷たい・・」という印象を私から見事に拭い去り、想像以上に結束して私たちを暖かく支えてくれました。

 今はいない私の両親も日本にいる叔父、叔母たち、従姉妹たち、友人たちも遠くからいつも応援してくれていました。

 この場をお借りして、これまでお世話になってきた方々には、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。そして、これからもどうぞ娘を暖かく見守ってやってください。

 このブログを読んでくださっている、私たちを直接、ご存じない方々にも、いつも、私のつたない文章をお読みくださり、ありがとうございます。


グランゼコール 卒業式 ディプロム


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2021年10月2日土曜日

バイリンガル教育は簡単じゃないけど、頑張れば、その子の一生の財産になる

   


 国際結婚の場合、子供はハーフでバイリンガルになる・・と、簡単に思われがちですが、バイリンガル教育は、考えているほど簡単なことではありません。

 二つの国(あるいはそれ以上)の国籍を持っており(日本の場合は22歳までにどちらかの国籍を選択しなければなりません)、両親の母国語が二カ国語に渡る場合でも、生活の基盤は、どちらかの国(あるいは、それ以外の国)に置くことになるわけで、どうしても生活の基盤のある国の言語に引っ張られます。

 我が家の場合は、主人がフランス人、私が日本人で、フランスで生活しています。普通のフランスの学校に通っている娘にとって、フランスで生活する上では、娘にとって、日本語は全く必要はありません。

 現在はフランスも以前より、少しはマシになりましたが、フランス人は愛国心旺盛なあまりに外国語に対して排他的な感じもあり、娘が小学校入学の面接の時などは、私が日本人と知って、「うちはフランス語だけですよ!」と念を押されたことがあり、「そんなこと!わかってるわい!」とムッとした覚えがあります。

 ですから、余程、親が心して、日本語を教えようとしなければ、容易に日本語は切り捨てられてしまいます。実際に、フランスにいる日仏ハーフの子供でも日本語がほとんどできない子供もたくさんいます。

 しかし、一般的に普通に外国語を習得しようとするよりは、日仏家庭(国際結婚の家庭)やはり恵まれた環境であることは間違いありません。

 私は、娘が生まれた時から、「必ず娘が日本語を理解し、話し、読み書きまでできるようにする!」と強く思っていたので、私は、娘が言葉を覚え始める頃から、娘とは、一切、フランス語は使わず、日本語だけを押し通し、娘はパパとはフランス語、ママとは日本語、三人で話す時には、それに英語も混ざったごちゃごちゃの言語の中で育ってきました。

 もちろん、小さい頃は、彼女は英語は理解できていませんでしたが、パパとママが内緒話をする英語をいつの間にか彼女も理解するようになり、その話にフランス語で参加するようになりました。やはり、彼女は日本語もできるとはいえ、彼女の母国語がフランス語であることを私は、その時に思い知らされることになりました。

 それはバイリンガルとはいえ、どちらかの言語に軸を置くということは、その子のアイデンティティの形成上にも必要なことでもあります。

 しかし、絶対に娘にしっかり習得させると考えていた私は、母が私が子供の頃に英語を教えてくれたように、日本語のカードなどを作って、日本語を教え、毎晩、毎晩、寝る前には、日本語の絵本を読み聞かせることを続けていました。

 そして、日本語の読み書きを億劫に感じ辛くするために、フランスの学校に就学する前に、まず日本語の読み書きを教えようと、娘が2歳になった頃から、公文に通わせ始め、鉛筆の持ち方から、公文の先生に教えて頂きました。それは、私以外の日本人に接する機会を作りたかったこともありました。

 家では、10歳くらいまでは、テレビは日本語のビデオ・DVDのみ(私も仕事をしていたので、家で過ごす時間は限られていたので・・)、娘は、日本のテレビ番組(ドラマやアニメ、バラエティ番組など)で多くの日本語を覚えました。

 少し字がわかるようになってからは、日本のバラエティ番組は、話していることが字幕テロップのように入るので、わかりやすく、これはこんな字を書くのか〜などと勉強になると言っていました。(まあ、それらしいことを言ってテレビをゲラゲラ見ていることを正当化していたのかもしれませんが・・)

 小さい子供のスゴいところは、気に入ったドラマなどは、何回も何回もセリフごと覚えてしまうほど、飽きずに見続けることができることです。

 そして、毎日、毎日、学校が終わり、家に帰ってくると、私は食事の支度をしながら、公文の宿題を毎日5枚ずつ、やらせ続けました。毎年、夏には日本に娘を連れて行っていましたが、娘には、「日本語の勉強をしない子は、日本には行けないよ!」と夏の日本行きを人参のように目の前にチラつかせながら、どうにか、小学生のうちは、それを続けてきました。

 フランスの小学校では、学校の授業が終わった後に、親がお迎えに行く時間まで、エチュードといって、学校の宿題は、その時間に見てもらえるので、ある程度の年齢までは、娘はほとんど学校の勉強は、家ではせず、夜は日本語の時間にあてることができたのです。

 とはいえ、毎日毎日のこと、あまり興味のない題材のこともあれば、面倒になってしまうことも少なくありませんでした。そこは、ひたすら、親の根気です。褒めたり、宥めたりしながら、忍耐の毎日でした。

 小学校に入った頃には、夏の帰国の際には、こちらの学校がお休みになってすぐに日本へ行き、毎年、2週間ほどですが、日本の小学校に編入させていただいてもいました。同年代の日本人の子供と接することや、日本の学校の様子を体験させたかったこともありました。

 中学生になった頃、こちらの(フランスの)学校も忙しくなり、また、他の事情も多少あり、一時、公文はお休みしていた期間がありましたが、その間も、ずっと日本のテレビ番組を見ることだけは続け、変わらず私とは日本語だけの生活をしていました。

 そして、やがて、バカロレア(高校卒業資格試験)が近くなり、オプションの科目に日本語を選択することにした娘は、日本語の勉強を再び再開し、公文ではない他の日本語学校に週一回通い始めました。

 バカロレアのオプションの日本語の試験は、ある程度、日本語の下地のある子供にとっては、満点をとり、点数稼ぎができる絶好の科目でもあるのです。

 その頃になると、親がやいのやいの言わなくても自分で勉強するようになっていましたので、それから先は、彼女自身の点取虫根性が追い風となってくれました。

 そして、そんなこんなで、どうにか娘は、バイリンガルになりました。

 親の私としては、思い返せば、色々工夫したりした楽しい思い出ではありますが、同時になかなか険しい道のりでもあった、大変だったな〜と思うのに、当の本人は、日本語を覚えるために、大した苦労をしたとは全く思っていません。

 実際にある程度の年齢になってから、外国語を習得するのは、大変な努力が必要ですが、物心つく前から覚え始めた言語に関しては、あまり苦にすることなく、習得することができるのです。

 現在進行形でバイリンガル教育を続けていらっしゃる方も多いと思いますが、時には、くじけそうになることもあると思いますが、そんな時は、テレビやYouTubeでも、今はいくらでも日本語に楽しく触れることができるツールがあります。

 とにかく、どんな形でも、たとえ、ほんの少しずつでも、継続することはとても大切です。

 それは、その子にとって、一生の大変な財産になります。

 そして、一つ理解できる言語が増えることで子供の世界は広がります。

 私自身は、バイリンガルと言い切れる程ではありませんが、母が子供の頃から英語を教えてくれていたことで、英語を苦労して覚えたという記憶はありません。そんな母が私にしてくれた英語教育が私が娘に日本語を根気強く教えることを自然に植え付けてくれてくれたのかもしれません。

 いつか娘が子供を持った時、同じように子供に複数言語を教えてくれるようになることを私は、心から祈っています。


バイリンガル教育


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2021年9月9日木曜日

フランス人の子供の流行りの名前と名前の刷り込み

   


 子供の名前というものは、どこの国でも流行りがあるようで、日本でもキラキラネームなどと言われて、この子たち、おじいさん、おばあさんになっても、この名前??と思うような名前が流行った時期もありましたね。

 名前の流行は、フランスでもあるようで、毎年、毎年、男の子・女の子別の人気の名前のランキングなるものが発表されたりしています。

 ちなみに今年のフランス人の子供の名前のランキング(2021年)は、男の子で、1)Léo(レオ)、2)Gabriel(ガブリエル)、3)Raphaél(ラファエル)、4)Arthur(アーチュー)、5)Louis(ルイ)、6)Jules(ジュール)、7)Adam(アダム)などで、女の子は、1)Jade(ジャドゥ)、2)Louise(ルイーズ)、3)Emma(エマ)、4)Alice(アリス)、5)Ambre(アンブル)、6)Lina(リナ)、7)Rose(ローズ)などが挙げられています。

 なるほど、世代を超えて、使われている名前も混ざりながらも、フランスでの子供の名前というものも、時代に連れて、やはり、古臭いと感じられる名前もあるようで、上記に挙げられた名前は、時々、娘から漏れ聞こえてくる、友人にもちらほら見られる名前でもあり、明らかに娘の周りを取り巻く友人たちの多くは、圧倒的に現代的?な名前のようです。

 逆に私はフランスで生まれ育ったわけでもないので、知っているフランス人の数は娘に比べるとかなり少ないわけですが、(必ずしもフランス人ではない場合も多い)、娘に言わせれば、もちろん、私の付き合いのあるフランス人は、それなりに私と同年代、あるいは、私より年上の人が多く、そんな人たちの名前を聞いて、例えば、「Annette(アネット)??Jean-Pierre(ジャン・ピエール)??」そんな名前、スゴい年寄り臭い名前〜〜〜〜などと言うのです。

 私には、その辺のフランス人の名前が古臭いとか、そういった感覚がなく、それが苗字に至っては、さらに酷くて、そういえば、あの人の苗字・・そういえば、知らないや・・などということも多く、苗字で誰かを呼ぶのは、むしろ、仕事上などで、それほど個人的にはあまり親しくない人の場合のみで、大抵がファーストネームで呼び合っているので、そもそも苗字をあまり知らないのです。

 時々、ニュース番組に出てきたりするフランス人の苗字を見て、娘が「あ・・これは、お金持ちの上流階級の名前・・」などと言うのを、「ほ〜〜なるほど・・」などと、感心してみたりしていたのでした。

 要するに私には、フランス人の名前に対する感覚が薄く、刷り込みがあまりされていないわけです。

 しかし、逆に、先日、私が最近、仕事上で連絡を取り合っていた人の名前が「○○まさのり」と書いてあり、「へぇ〜あの人、まさのりさんって言うんだ・・」と呟いたら、娘がすかさず、「何それ?猫みたいな名前だね・・」と言うので、爆笑してしまいました。

 「まさのり」という名前は、別に日本ではそれほど珍しい名前でも目立つ名前でもないと思いますが、以前、私が学生の頃に好きだった日本の歌手の名前で、当時、私が日本で飼っていた猫に「まさのり」と言う名前をつけて呼んでいたのです。

 娘は、その「まさのり」という猫には会ったこともないのですが、私や父から昔、家で飼っていた「まさのり」と言う名前の猫の話を漏れ聞いて記憶しており、逆に日本人の名前にあまり接することのない娘には、「まさのり」という名前は「猫の名前」として刷り込まれていたのです。

 およそ猫らしくない名前でありながら、「まさのり」と言う名前が猫の名前として娘に刷り込まれていたことに、驚愕! 幼い頃から娘には、必死で日本語を教え続け、会話はもちろんのこと、日本語の読み書きまできちんとできる立派な?バイリンガル?に育ったと思っていた娘にとって、日本人の名前は、意外な落とし穴でした・・。


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2021年2月9日火曜日

パリで、たまに見かける子供に日本語を教えようとしない日本人の親 バイリンガル教育

  



 娘が生まれて以来、私は、何の疑問もなく、娘に日本語を教えることを自分の使命のように思っていました。日常では、私以外には、日本語を使う人がいない環境で、私が娘に日本語を教えることを諦めてしまえば、絶対に娘は日本語を話すことはできなくなってしまいます。

 日本語ができないということは、日本の私の家族や親戚、友人たちとも関わりを持てない、日本人でありながら、日本人ではないような、日本から一枚の壁を隔てた存在になってしまうということです。

 そして、私が娘にできる教育の中で、日本語を教えるということは、とりあえずは、私にしかできない、私ができることの中で、最も有意義な教育だとも思っていたのです。

 私自身は、やはり日本が大好きですし、海外に出てみれば、余計に、日本の良いところも優れているところも実感し、日本人であることを誇りに思っています。

 言語の習得には、適した年齢というものもあり、言葉を覚えていくときに、それを日常の言語として、自然に覚えていくことができれば、本人にとっては、こんなに楽に言語を習得する機会は、なかなかありません。

 そんな機会をみすみす逃す手はありません。

 それでも、一歩、家を出れば、100%フランス語の世界で、日本語を自然に話すことができるようにするのは、親の側からすると、なかなか根気のいることでもあります。

 私との会話は、日本語のみ、娘が小さい時は、家でのテレビは、ビデオやDVDでの日本の番組のみ、2歳になった頃から公文に通い、フランスの学校に行って、フランス語の読み書きを始める前から日本語の読み書きを始めました。

 毎日、仕事が終わって娘を迎えに行って、帰宅してから、食事の支度をしながら、公文の宿題を5枚ずつやらせるのが、日課でした。大変でしたが、公文をやらない子は日本には、行けない・・と、日本行きを餌にして、ずっと続けてさせてきました。

 そんな娘への日本語教育は、ほとんど私の執念に近いものでもありました。

 娘自身は、日本語を苦労して覚えたという感覚は全くなく、今では、ほぼ普通の日本人と遜色ないほどに日本語を話し、読み書きもできるようになりました。

 結果から見れば、当たり前のことが当たり前にできるようになっただけなのですが、海外在住の場合、子供を放置しておいては、あっさりと日本語ができない子になってしまいます。だって、日常生活には、必要ないのですから・・。

 それでも私は、自分の子供に日本語を教えることは、当然のことだし、私の義務であると思っていました。

 ところが、パリの街中では、たまに、小さい子供連れの日本人で、子供にフランス語で話している人を見かけます。日本語は、教えないとはっきりと言い切る人もいてびっくりすることもあります。

 自分の家族が日本にいながら、子供と自分の家族との繋がりを断ち切ってしまうのでしょうか? それぞれに事情はあるので、一概に否定もできませんが、子供の可能性を奪ってしまっているようで、どうにも残念に思います。

 子供が自然に言語を覚えるには、ある一定の期間しかないのです。もちろん、ある程度の年齢になってから、自分で勉強して語学を習得することはできますが、より楽に確実にできる機会を逃してしまっているのです。

 パリには、日本人でありながら、日本が嫌いな人もいるのも確かですが、海外で生まれ育った自分の子供を自ら、日本から隔離してしまうような状況に追い込むことには、不自然な気もします。何より、自分の生まれ育った国をそこまで嫌うのは、気の毒な気さえしてしまいます。

 また、科学的なデータに基づくものではありませんが、日本語のみに関わらず、複数言語を話す子供には、優秀な子供が多い気もします。これは、私の周りの外国人とその子供を見ていて感じることです。

 それだけ、親が子供の教育に対して熱心であるということもあるかもしれませんが、かなりの割合で概して学校の成績も良い子が多いのです。脳の発達などとも関係があるのかもしれません。

 パリの街中で、自分の子供にフランス語で話しかけている日本人を見かけるたびに、私は、もったいないなぁ〜と思ってしまうのです。


バイリンガル教育

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2020年9月9日水曜日

娘には幼少期の記憶がほとんどない! 小さい頃は可愛かったのに・・

 

             ペコちゃんと同じサイズだったのに・・


 最近、このコロナ渦の中、娘もスタージュがリモートワークになったりして、彼女とこんなに一緒にいるのは、幼少期の頃以来のことです。私は、娘が1歳になると同時に仕事を始めたこともあり、彼女の幼少期には、仕事以外の時間は、ほとんど彼女と一緒の時間を過ごしてきました。

 私にとっては、初めての子育て、しかも海外で仕事をしながら・・。私のような人間が、子供を持ってしまった・・出産の時に、まさに赤ちゃんの頭が出ようにもなかなか出なかった時くらいから、もしかしたら、私は、大変なことをしてしまった・・一人の存在しなかった人間が私から生まれて、この子をどうにかまともに育てるまでは、重大な私の責任だ・・。

 そんなことをまず、思ったものでした。

 娘が生まれた頃には、なんだか青少年犯罪が多く、わけもわからず、小さい子を誘拐して殺してしまったり、家で暴れて家族を殺してしまったとか・・そんなニュースばかりが目につきました。「とにかく、身体を動かして、発散させること・・」そんな助言を叔母からもらって、とにかく私は、彼女のエネルギーを発散させることに懸命でした。

 同時に、日本語を教えることにも一生懸命でした。私が休みの日は、出来るだけ一緒に時間を過ごして、日本語での時間を出来るだけ増やすように、やることもいっぱいで時間を惜しむような気持ちでしたし、預かってくれる実家も遠く、とにかく、どこへ行くにもず〜っと一緒だったような気がします。

 思い返せば、彼女は、かなり変わった子供で、おかしな逸話が山ほどあります。よく言えば、個性的なのですが、やけに調子よく自分を納得させて、世渡りしているかと思えば、強情で、こうと思ったら、なかなか譲らないところもあったので、今から思えば、型にはまりがちな日本の学校に行っていたら、反発していたりしたかもしれません。

 いわゆる子供用のおもちゃには興味がなく、石を集めてみたり、ボールで遊ぶよりもビニール袋を自分で膨らまして遊ぶのが好きだったり、子供用の電動の乗り物(遊具)を怖がったり、遊園地が嫌いだったり・・負けず嫌いで、競争することが好きで、別に競ってないのに、駅などでは、私がエスカレーターに乗っているところを隣の階段を駆け上って、私が上に到達した頃には、得意げな顔をして、上で待ち構えていたりしました。

 ブランコが好きで、好きで、日本に行くと近くの公園に毎日でもブランコに乗りに通いました。(フランスには、あまりブランコがないのです。)

 とにかくピンクが好きで、洋服のコーディネートは自分でしないと気が済まず、パンツの色まで合わせないと気が済まないので、出かけてみたら、パンツを履いていなくて、「どうしてパンツはいてないの??」と聞くと、この服に合うパンツがなかったから、履いてこなかった・・などなど・・。

 そんな逸話がいくつもある娘ですが、このところ、彼女の小さい頃のことを話すと、彼女は、自分の幼少期をほとんど覚えていないことに驚きます。彼女には、5歳以下の記憶がほぼ、ないのです。

 日本行きの飛行機の話をしていて、昔は、JALのファミリーサービスとかで、子供を連れていると、優先搭乗をさせてくれた・・という話をしたら、「飛行機にさっさと乗る人の気持ちがわからない・・狭いところで長い時間待つだけでしょ!」と娘が偉そうに言うので、「一体、誰のおかげで早く乗らなければならなかったか? 飛行機に乗ってシートベルトをすれば、あなたがチョロチョロもう動かないからでしょ!」と、こんな具合です。

 考えてみれば、私自身も自分の幼少期をそれほど覚えているわけでもないので、当然のことかもしれませんが、親として、色々なことをやらせてあげようと、頑張ってやってきたことを彼女がほとんど覚えていないことは、なかなかガッカリなことです。

 あくまで記憶があるのは、写真やビデオの記憶ですが、そんな写真やビデオもめったに見るわけではないので、本人もまるで別人のビデオを見るような気分で見ているようです。

 小さい頃は可愛かった・・ので、ほんとうにみんなに可愛がってもらったし、「あなた、小さい頃だけでも可愛くて、みんなに可愛がられてよかったね・・」と言っても、「そんなに可愛がられた覚えがない・・」と言う・・。

 親というのは、こんなに不甲斐ないものなのか・・と思いますが、これも順番、実際に私自身もそんなに自分の子供の頃のことを覚えているわけではありません。

 幸い娘は、横道に逸れることも犯罪者になることもなく育ち、今では、偉そうな顔をしていて、腹立たしい事ばかり言いますが、ドキドキしながら、時には怒りながら、思いがけないことを言ったりやったりする娘に笑わせられながら毎日を必死に過ごしていた頃が懐かしいなと思うのです。

 小さい頃は、可愛かった・・雰囲気が、今となっては微塵もない娘ですが、今でも、本当はブランコが大好きで、人目さえなければ、ブランコに乗りたくてたまらないし、嬉しいことがあるとついスキップしてしまう癖だけは残っていることに、どこか、ホッとさせられるのです。


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2020年9月4日金曜日

日本は海外に住んでいても教科書を無料でくれる

 


 新年度に入って、学校が始まれば、フランスの学校でも、一年の始めには教科書が配布されます。しかし、それは、ほとんどの場合、一年間、教科書を借りるということで、新年度には、その一年間お借りする教科書のブックカバーをする仕事が待っています。

 借り物なので、汚したり、破損したり、紛失したりした場合は、弁償しなければなりません。一年の始めには、学校からクラスごとに揃えなければならないノートやファイル、ペン、定規、計算機などの細かいリストが配られ、そのリストに従って、一通りの買い物をしなければなりません。

 ノートの大きさ、ページ数、様式など、細かい指定で、だいたいカーフールなどのスーパーマーケットには、新年度の前になると、リストを片手に買い物をする人で溢れます。品切れのものや売っていないものなどが必ずあって、たいていは、一度の買い物では済みません。結構な手間と時間がかかります。

 さしずめ、日本ならば、同じものを揃えるならば、学校側が業者に委託して販売すると思われますが、学校側の仕事が増えるのが嫌なのでしょうか? この不思議なフランスの風習?は、毎年のように続いています。

 教科書をカバーする透明のシートも一緒に買ってきて、色々な持ち物に名前をつけるのと同時に一冊一冊、教科書にカバーをするのですが、以前、娘の友達が家に来て、一緒に教科書のカバーをするのを手伝っていたら、不器用なフランス人の本のカバーの無様なことにびっくりしたことがありました。

 同じく、娘の友人のお誕生日会に呼ばれていた時に、一緒に行こうと言っていたママ友が「ちょっと、まだ、プレゼント、買ってないから、付き合って!」と言われて、付き合って、彼女がプレゼントをプレゼント用の紙に包むのを見て、あまりの杜撰さに驚いたこともありました。フランス人は、概して、不器用な人が多いのです。というか、大雑把で、日本のようにきっちりしていないのかもしれません。

 話は、それましたが、そんな風にフランスでは、教科書は、一年間、お借りするもので、一年の終わりには、きっちりお返しすることになっています。教科書は、まあ、一年が終わってしまえば、手元にあっても、もう使わないことも多いので、フランスらしい合理的といえば、合理的なシステムです。

 そんな中、日本は、日本国籍を持っている子供には、海外に住んでいても、義務教育の間は、希望者には、教科書を無料で配布してくれます。教科書は、科目によっては、一年に2回、上巻・下巻と配布されるので、(前もって予約が必要ですが・・)私は、娘が小学校・中学校の9年間、年に2回、教科書を受け取りに通いました。(以前は、在仏日本人会が請け負っていましたが、今は、大使館で配布しています)

 たいていは、平日の時間帯なので、教科書をもらいに行くときは、昼休みをずらして取って、(昼休みは大使館は、休みなので)メトロで数駅、バタバタと大使館に駆け込んでは、仕事に戻る、そんなことを一年に2回ずつ、続けていました。

 きれいな新品の教科書を海外にいても、無料で配布してくれる国など、そうそうあるものではありません。私の職場には、色々な国からの外人もいましたが、そんな話は、聞いたことはありません。

 自分が育った頃とは違う、今の教科書は、なかなか自分自身が読んでも興味深いものですし、私は、特に娘に日本語をしっかり学んで欲しかったので、これは逃すものかと9年間分の教科書を全て頂いてきました。

 これらの本を自分で調達するとなったら、個人としたら、相当な負担になるはずのものなので、とても助かりました。

 教科書は、今でもほとんど取ってあり、娘が日本語検定を受験したりした際には、日本語の勉強に使っていましたし、今、自分の専門分野である生物の教科書などは、日本語では、こういう言葉を使うんだ・・などと、中学校の教科書を開いたりもしています。

 日本の学校の様子や社会の仕組みなどもわかりやすく書いてあるので、今さらではあっても、大人になってから読んでも結構、勉強になります。

 私は、日本のそんなところは、やっぱり日本は、凄いな・・と、誇らしくもあり、ありがたくも思っています。海外にいても、日本人としての教育を配慮してもらえることがとても嬉しいのです。そんな国は、そうそうないのです。

 海外在住の方で、このシステムをご存知ない方は、ぜひ、せっかくの機会を利用しては、いかがですか?

 国によって、配布方法は違うと思われますが、フランスは、大使館がやっているので(もしかしたら、場所を提供しているだけかもしれませんが・・)大使館に問い合わせれば、わかると思います。


<関連>「フランス人は不器用なのか?」

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2020年8月11日火曜日

子供のために使うお金 フランスのコロニー(子供の合宿・サマーキャンプ)


 フランスは、今は、バカンス真っ盛りですが、とにかく学校のバカンスが多くて、特に夏は、2ヶ月間、ほとんど、まるまるお休みなので、その期間を子供にどう過ごさせるかというのは、大問題でした。

 娘が小さい頃(小学校低学年の頃)は、7月の最初の週にフランスの学校がお休みになると同時に日本へ一緒に行って、日本の小学校が夏休みに入るまでの少しの間、日本の実家の近所の区立の小学校に一時編入をさせてもらっていました。

 いくら、フランスの会社がバカンスを取れるとは言っても、せいぜい一ヶ月、子供の学校のお休みは夏に2ヶ月間、ハロウィンの頃に2週間、ノエル(クリスマスから年末にかけて2週間)、冬休み2週間、イースターに2週間と、とても子供のお休みに合わせて、全て休んでいるわけにはいきません。

 そんな子供のためにバカンス中に子供のレクリエーションをさせながら、子供を預かってくれる Centre de loisirs(サントロ・ド・ロワジール)という機関があるのですが、娘が小さい頃は、自分のバカンスでまかないきれないお休みの時期は、ここでお世話になっていました。

 ここでも、色々なアクティビティやスポーツをさせてくれたり、遠足のようにバスなどで日帰りで地方のお城などに連れて行ってくれたり、「もう、お城はいい・・」と言い出すほどに色々なところに連れて行ってもらっていました。

 やがて、娘が大きくなるにつれて、私も仕事がどんどん忙しくなり、夏に長期のバカンスが取れなくなった頃、コロニーという合宿のようなもの(スポーツや観光など、様々なプログラムがあります)があることを知り、私が子供のバカンスの時期にお休みを取れない期間には、このコロニーに随分とお世話になりました。

 主人は、公務員でしたので、ハロウィンとノエルのお休み以外は、財務省の主催するコロニーがあり、国からの援助なども出るため、最大限、利用させてもらいました。

 おかげで娘は、冬にはスキー、春には乗馬、夏には、ダイビングやサーフィン、カヌー、カヤック、ハイドロスピード、クライミングなどなど、ありとあらゆるスポーツをフランス国内だけではなく、スペインやギリシャなどの、ちょっと普通では観光できないようなこの世とは思えないような美しい砂漠や小さな無人島なども旅して、キャンプをしたり、砂浜で寝たり、決して贅沢ではない旅ではありましたが、この上なく楽しい体験をしてきました。

 夏のコロニーは3〜4週間、それ以外は、1週間の合宿です。

 私は、仕事で、娘の長いバカンスに付き合えなくなってしまったことを、最初は、娘に気の毒なように感じていましたが、それは、すぐに私の思い上がりであったことがわかりました。実際のところ、親がしてあげられることは、限られたことであって、思っているよりも大したことではなく、子供が未知の体験をする、その機会を与えてあげる方が良いこともある、むしろ、その方が良いのだと思うようになりました。

 時には、ドッキリしたハプニングもありましたが、それも良い経験でした。

 フランス人は、かなり裕福な家庭でさえも、子供にさほど贅沢なものを買い与えることはありませんが、自分たちがバカンスにお金を使うように、子供に何かを体験させることには、比較的、出し惜しみはしません。


 我が家も、洋服などは、頂き物が多かったし、贅沢な物を買い与えたことは、ありませんでしたが、娘の、コロニーや、スポーツなどには、(特に、夏の間は、私の少ないお給料がすっ飛ぶくらいに)惜しみなく、使ってきました。

 娘が行っていた財務省主催のコロニーは、フランス全土の財務省の職員の子供たちが集まって出かけるコロニーで、(たくさんの種類があり、場所や自分のやりたいスポーツなどを選べるようになっています)小学校から高校まで同じ学校に通っていた娘の狭い世界から、同じ年頃でも色々な地域、世界の子供たちに出会うことができ、また、親が付き合いきれないようなスポーツなども体験できて、かけがえのない経験となりました。


 それに加えて、学校からの合宿やドイツへの交換留学なども加えると、彼女は高校生までは、ほぼ3ヶ月に一度くらいの割合で旅行をしていました。

 そのコロニーには、年齢制限があるために、今は、もう参加することはできませんが、娘は、今になっても、コロニーは、本当に楽しかった・・ちょっと普通ではなかなかできないスポーツがたくさんできた!行けなくなって残念・・と懐かしそうに振り返っています。


 これから先は、自分で稼ぐようになったら、いくらでもどこにでも行けると思いますが、歳を取ればとるほど、一度やったことがあることには、抵抗なく、再開できるものです。

 私は、子供に使うお金は、贅沢な物を買い与えるのではなく、何か身に付けること、体験することに使うべきだと、フランスのコロニーに参加させてもらった娘を見ていて、強く思うようになりました。


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「おたくのお嬢さんが刺されそうになりました⁈・・バカンス中のサマーキャンプでの話」

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2020年6月30日火曜日

バイリンガルになった娘の日本語 複数言語を使う生活




 娘がパリに戻ってきて、約2ヶ月が経ちました。彼女は、2年間、彼女の希望の地方のエコールに通うために、生まれて初めて親元を離れて、一人暮らしをしていました。一人暮らしといっても、シェアハウスのようなところで、数人の同居人のいる中での生活でした。

 もちろん、周りはフランス人ばかりですから、フランス語一色の生活で、2年間を過ごしてきたのです。本来ならば、エコールは、もう一年あるのですが、残りの一年は、スタージュやら留学の予定が入っているために、パリの自宅に戻ってきたのです。

 とはいっても、大部分の彼女の荷物は、パリの自宅においたままだったので、バカンスのたびに、衣替えも兼ねて、何かと言えば、戻ってきては、一週間くらい、滞在し、夏休みなどの長い休みの間は、パリの自宅からスタージュに通っていました。

 私は、彼女が生まれた時から、彼女には、日本語がきちんとできるようになってほしいと、他の勉強については、うるさく言ったことは、一度もありませんでしたが、日本語については、かなり厳しく教えてきました。何しろ、フランスで普通に生活をしていれば、日本語は、全く必要のない言語、かなり意識的に強要しなければ、日本語ができるようにはなりません。

 家の中でも、パパとはフランス語でも、私とは日本語だけ、小さい頃は、テレビは、日本語のDVDのみ、フランスの学校が始まって日本語の勉強をすることが億劫にならないようにと、2歳から公文に通わせて、鉛筆の持ち方から日本人に日本語で教えていただきました。

 夜寝る前には、毎日、必ず日本語の絵本の読み聞かせも欠かさずに続け、毎年、夏休みには、日本へ連れて行き、日本語ができない子は、日本へは連れていけないと、娘の鼻先に日本行きという人参をぶら下げていました。

 私もフルタイムでの仕事があり、送り迎えが大変で、公文は、週に一回しか行けませんでしたが、必ず一週間分の宿題をもらって、毎日、学校から帰ると私は食事の支度をしながら彼女の公文の宿題を見ていました。彼女には、日本語を話すだけでなく、ちゃんと読み書きもできるようになって欲しかったからです。

 10年くらい続けたでしょうか? 送り迎えも、夕方のバタバタした時間に宿題を見てあげるのも大変でしたが、おかげで彼女は、人並みに日本語ができるようになり、つい先日、CVに書き加えることを増やしたいからと日本語検定試験の一級を受験して合格しました。

 ところが、この3ヶ月間のロックダウンでパリに戻ってくることができず、たまに私と電話で話す以外は、全く日本語を使わない日が続き、パリに戻ってきたときには、日本語のレベルが明らかに落ちていました。「よく、それで日本語検定受かったね〜!」というほど、以前は、スラスラと言葉があとをついて出てきたのが、言葉に詰まってしまうことが増えてしまっていたのです。

 パリに戻って2ヶ月経って、彼女の日本語は、すっかり元どおりに戻りました。言語は、使っていないと錆び付くのをロックダウンでまざまざと思い知らされました。

 現在、彼女は、ロンドンの大学にスタージュに行くはずが、これまたコロナのためにロンドンには行けず、家でロンドンの大学の先生と連絡を取りながら、リモートワークをしています。彼女が小さい頃に日本語と並行して英語のカードなどを使って英語を教えようとしたこともありましたが、そのうち英語にまでは手が回らなくなって、彼女の英語は、どんななのか聞いたことがありません。

 一緒に旅行に行って、フランス語が通じない国に行くと、英語で話すしかないのですが、練習だから、話してごらん!と言っても、決して私の前で英語を話すことはありませんでした。今もロンドンとテレワークしている様子は見せてくれません。

 そんな生活なので、彼女は、パリで、私とは、日本語で、友達とはフランス語で連絡をとりながら、仕事は英語でしています。先日、英語での仕事中に私が日本語で声をかけたら、「Ah Oui(ア〜ウィ!)」と答えたので、思わず笑ってしまったら、なんだか、彼女も自分で「ア〜ウィー」と言ってしまったことが、わけがわからない様子でバツが悪い顔をしていました。

 複数言語を使っている場合、私も切り替えがうまく行かないことがあります。日本語を話していてもフランス語の単語を平気で混ぜて話していたり、特にフランス語と英語に関しては、似たような単語も多く、これ?フランス語だった?英語だった?と迷うことがあります。

 でも、私は、このいくつかの言語を使う生活が結構、気に入っています。使っている言語によって、自分のテンションも変わったりもします。そんな自分自身の変化も楽しんでいます。

 先日、テレビを見ながら、娘が、「フランス人は毛深い人が多いけど、日本人は毛浅いもんね・・」と言いました。「深い」の反対は、「浅い」と思って、使ったようです。また、「塵も積もれば・・何になるんだっけ??」とか言っています。私は、冗談で、「ゴミ!」と答えましたが、すぐに、「あ〜山だったね・・」と気付いたようです。

 すっかり元に戻ったと思った彼女の日本語、まだまだお勉強が必要なようです。


バイリンガル


<関連>
「バイリンガルに育てる方法」
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「フランスの教育・学校・バイリンガル教育」
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2020年1月25日土曜日

娘の日本語教育と赤ちゃん言葉




 娘は、アフリカで産まれて、三ヶ月ほどで、主人の転勤で、フランスに引っ越して来て以来、ずっと、フランスで育ってきました。

 私にとっても、初めての子育てで、赤ちゃんというものを触ったこともなかった私にとっては、手探りの子育てで、抱っこして、ミルクをあげるだけでも、今になって写真を見ると、私が娘にミルクを飲ませている写真は、かなり、どことなく、ぎこちなく、ミルクを飲む娘の方が苦労したのではないかと思われるような有様でした。

 産まれたばかりの頃は、早く、首が座ってくれれば・・、座れるようになってくれれば・・、と、成長を見守っていましたが、ハイハイを始めたと思ったら、後ろにしか進まなかったり、髪の毛がのびなかったり、歯がなかなか生えてこなかったりしましたが、私は、まあ、髪の毛も歯も、そのうち、生えてくるだろうと、大して心配することもなく、悠々と構えていました。

 それよりも、私の頭を占めていたのは、娘になんとか、日本語を教えることでした。

 私以外は、日本語を話す人間のいない、圧倒的にフランス語の環境で、私は、ひたすら、娘には、日本語で話しかけ、日本語の絵本を読み、日本語のテレビを見せて過ごしました。

 私は、娘が一歳になった頃、まだ、娘がフランス語も日本語も発しない段階で、フルタイムで仕事を始めてしまったので、預ける保育園も、もちろん、フランス語で、私と過ごす時間=娘が日本語に触れる時間は、ますますもって1日のうちの、ごくごく限られた時間になってしまったため、余計に、日本語を教えることに一生懸命になり、正しい日本語を話すようにしていました。

 ですから、まだ、幼い娘に対しても、赤ちゃん言葉で話すことはせず、「あなたは、どうしたいの?」、「あなたと一緒に行きましょう。」など、主語は、「あなた」と「私」で通し、できるだけ、娘とは、きれいな日本語で話すことを心がけました。

 何しろ、日本語のサンプルは、私だけなのですから責任重大です。

 もともと、私は、赤ちゃん言葉というものがあまり好きではなく、子供とも普通に話すのが良いと思っていましたし、フランス語にも赤ちゃん言葉がないわけではないのですが、比較的、フランスでは、子供に対しても、同等に話をする傾向にあり、主人も娘に対して、フランス語でも、赤ちゃん言葉を使うことはありませんでした。

 娘が初めて日本へ行って、大勢の日本人と話す機会を持ったのは、娘が2歳の時でしたので、その頃は、年相応の日本語での意思の疎通は、できるようになっていましたし、多少のアクセントはあるものの、日本語で会話をすることもできるようになっていました。

 ところが、いつも、私としか、話していなかった娘は、相手に対しては、誰にでも「あなた」を使って話す、なんとも、こまっしゃくれた感じで、「あなた」「あなた」の大連発。

 また、娘が、いっぺんで気に入ってしまった、私の叔母が自分の家に帰ろうとした時には、「あなたといたい・・」と、うるうるとした目で訴え、妙な哀願の仕方に思わず叔母もドッキリ、ドギマギ。

 普段は、意識もせずに使っている日本語、「あなた」という言葉も、使い方によっては、上からの物言いのような感じになり、また、妙な色っぽさを感じさせる、微妙な言葉であるということを思い知らされたのです。

 こういう時には、〇〇ちゃんとか、名前や、おねえさんと呼ぶのよ・・と教えましたが、やはり、一対一だけの会話では、気付かなかった言葉のバリエーションを私自身も改めて思い知らされたのです。

 










2019年11月14日木曜日

パリの公文 やってて良かった!




 私は、娘が生まれた時から、とにかく、日本語は、しっかりできる子供にしたいという気持ちがとても強く、主人もそのことに関しては、快く賛同してくれていたので、娘が生まれて以来、物心ついた頃から、パパは娘とフランス語で話し、フランス語を教え、私は、娘とは、日本語で話し、自分で、カードを作ったりして、日本語を教えていました。

 それでも、パリにいる日本人の先輩ママなどの話を聞き、フランスは、他言語に対して、かなり排他的であることや、パパがフランス人、ママが日本人とはいえ、放っておいたら、日本語は、どんどん、面倒臭い言語になってしまう、だって、こちらの生活では、必要ないんだから・・などという話を聞くにつれ、これは、私、一人だけで、日本語を教えるのではなく、誰か、他人の手を借りた方がいいと思うようになりました。

 私が、娘に望んでいたのは、ただ、日本語が話せるだけではなく、きちんと文章も読めて、書けるようになって欲しかったのです。

 周りの助言もあり、フランスの学校(実際には、幼稚園ですが、2才から始まります)で、フランス語を始める前に、(多少なりとも日本語を始めた方が、日本語を億劫に感じにくいだろう)ということで、2才から、娘を公文の日本語教室に通わせ始めました。

 当時は、公文は、シャンゼリゼにあった、日本人会の中の一室にあり、そこへ、毎週、土曜日、週一回、通い始めました。本当は、同じ料金で、水曜日と土曜日、どちらも行くことができるのですが、さすがに、私も仕事をしながら、両方は、無理なので、土曜日だけにしていました。

 最初は、本当に、鉛筆の持ち方から、線をなぞるような、お遊びのようなものでしたが、それでも、他に、日本人の子供に会う機会、私以外に日本語を話している人に会う機会のなかった娘にとっては、良い刺激になったと思います。

 そのうち、オペラ近辺にも教室があることがわかり、教室を変わりましたが、それこそ、幼稚園から上は、中高生まで、一緒の教室で、それぞれが違うレベルのプリントを黙々とやる中、数名の先生が、生徒の間をまわって、少しずつ見て下さるのです。

 大半は、日本語を学びに来ている現地校に通う小学生でしたが、中には、数学と日本語の二本立てをこなし、日本語とともにスラスラと計算問題をこなして行く子もいたりして、内心、舌を巻いていました。

 本当なら、数学もできたらとも思ったのですが、消化不良を起こしては、いけないと日本語だけをお願いしていました。毎週、土曜日の14時から17時までの時間帯の好きな時間に行って良いので、午後、バレエのレッスンが終わると、飛ぶようにして、公文に移動していたものです。

 土曜日の授業の他に、次の一週間分の宿題のプリントをもらうので、一週間、毎日、学校から帰ると公文の宿題をするのが日課になっていました。

 それでも、大きくなるにつれて、駐在でパリに来ている人の子供たちは、日本へ帰ってしまったりして、いつの間にか消えていき、フランスの学校の授業が大変になってくるとやはり続かないのか、高学年になるにつれて、生徒さんは、少なくなっていきました。

 結局、娘は、10年間くらい通ったでしょうか? 一時、日本語の勉強は、ストップした時期もありましたが、高校生になってから、再び、バカロレア(高校卒業資格試験のようなもの)の第二外国語のオプションを日本語で取ることに決めてから、再び、別の日本語の教室で勉強を再開しました。

 しかし、継続は力なりとは、よく言ったもので、毎日、少しずつでも、10年間、続ければ、おかげさまで、そこそこの読み書きもできるようになりました。

 親子二人きりでは、ここまで続けることは、できなかったと思います。

 お世話になった先生方には、とても感謝しています。

 今では、公文もすっかり立派になり、全世界に50ヶ国以上の国にあるそうで、パリ市内には、4ケ所、パリ近郊を合わせると6ヶ所もあるようです。

 以前は、日本人の生徒がほとんどでしたが、今は、数学、英語なども加えて、フランス人に向けても、METHOD KUMON (公文メソード)として、手広く、生徒を集めているようです。

 海外にお住いの方は、それぞれの国で、公文にお子さんを通わせている方も多いと思いますが、あまり、無理せず、続けられることが一番です。

 私は、公文のまわし者ではありませんが、本当に、CMどおり、「やってて良かった!公文!」です。












2019年7月11日木曜日

夏の一時帰国時の日本の学校への編入体験 バイリンガル教育の生体験







 私は、娘が生まれた時から、いや、生まれる前から、娘にパパの母国語であるフランス語と私の母国語である日本語をしっかりと話せる人になってほしいと思っていました。

 ですから、娘が生まれてから、すぐにフランスに引っ越して、いよいよ、娘の母国語の基盤は、フランス語となっていきましたが、私は、娘には、常に日本語で話し、”ママは、日本語しか話しません。” を通してきました。

 また、単に会話だけではなく、読み書きもきちんとできるように、日本語を学ぶことが億劫に感じないように、フランス語の読み書きを学校で習い始める前に、日本語の読み書きも教え始めました。

 だいたい、フランスに普通に暮らしている分には、日本語は必要ないわけですから、娘が日本語なんて、いらない!と思わないように、先手先手を打っていきました。

 小学校就学の学年になると、日本国籍を持っている子供は、義務教育の間の9年間は、予め申し込みをしておけば、日本の教科書を無料でもらうことができます。一年に2回、(教科書の上巻と下巻)9年間に亘って、大使館に受け取りに行っていました。

 これは、日本のすごいところです。一体、世界中のどのくらいの国がこのような、教科書の無料配布を海外在住者にも行っているでしょうか?

 さて、話は、小学校の編入体験についてに戻ります。
手続きは、簡単でした。通わせたい学校(私の場合は、実家の学区域内の近所の小学校でした)の教頭先生に、予め、連絡をとり、子供の名前、年齢、学年、住んでいる国、言語、通わせたい期間等の連絡をします。

 当日、学校へ行って、所定の用紙に書き込みをしたり、登校する日にち分の給食費を支払い、登下校時に着用が義務付けられている帽子と防犯ブザーを買い、準備は、ほぼ完了。教科書などは、フランスで頂いていた教科書とは、違うものだったので、その期間だけ、学校から貸していただきました。

 私は、先生との打ち合わせの中で、フランスの学校にはない、給食係や、掃除当番などもお客様扱いはせずに、やらせてほしいとお願いしました。些細なことではありますが、給食係や掃除当番などの仕事は、フランスの学校にはなく、(フランスでは、給食は、キャンティーンの仕事をする大人が、また、お掃除は、お掃除の仕事をする大人がやるので、生徒は一切関わることがありません)これも、日本の文化の一つだと思ったからです。

 それは、ほんのわずかなことですが、後になって、たとえ、外からでも日本人を見るときに、日本人がこのように教育されて育ってきている人たちなのだということが何か一つのヒントとして、わずかでも、娘の中に刻まれていればと思ったのです。

 実際に、教頭先生も最初から、とても、好意的、良心的で、最初にお話をした時も、快く、受け入れてくださり、逆に、”フランスですか〜 フランス語かあ〜 英語ができる教師はいるんですが・・”と、あくまで、寄り添ってくださる姿勢で、こちらの方が恐縮し、”  日本語は、話せますから、大丈夫です。日本語での生活を同世代の子供たちと経験するために、お願いするのですから・・全て、日本語でお願いします。”とお話ししたのでした。

 実際の学校生活では、日本語で困ることは、なかったようですが、近所の同じ学校に通う子供が一緒に登校してくれたり、クラス内で、”ボンジュール!”という挨拶が流行ったりと、クラスのみんなも半分フランス人の娘が珍しいのもあってか、ともに楽しい時間を過ごしてくれたようです。

 こうして、娘は、日本の同学年の子供たちが、どんな風に学校生活を送っているのか、名前を苗字で呼び合うことや、給食や体育の着替えや授業までを全て同じ教室でやることなど、フランスではない生活を日本語で身をもって体験させていただいたのでした。

 そこから、彼女の中に何が残ったのかは、わかりませんが、違う国の学校を体験することなんて、そうそうできるものではありません。夏の間にお子さんを連れて、日本に帰るご予定の皆さま、ぜひ、体験させてあげては、いかがですか?

 その年頃にしか、できない、貴重な経験となると思います。

 












 

 













2019年7月4日木曜日

ハーフだって楽じゃない・・・ハーフの子



 最近、着物屋さんの広告で、「ハーフの子を産みたい方に・・」というコピーが炎上していましたが、そもそも、「ハーフ」というのは、どういう位置付けをされているのだろうかと考えてしまいました。うちにも、一人、ハーフがいますので・・。

 このコピーの是非をどうこう言うつもりはありませんが、まあ、私、個人的には、大騒ぎしすぎじゃない??と思います。

 しかし、このような広告を打つからには、もともと、広告主は、ハーフの子をプラスに考えてのことだったと思うのですが、ハーフだって、いいことばかりじゃありません。

 だいたい、必ずしも、美男美女というわけでもありませんし、バイリンガルになるのだって、簡単なことではありません。まあ、実際には、生活する国、場所の方に大きく偏るのが普通だと思うのですが・・。

 そして、両親のバラバラの文化の不均衡を埋めながら、育ちます。

 私は、フランスに住んでいるので、日仏ハーフの子供(フランスでは、なぜか franco-japonais フランコ・ジャポネと言います。)
(なぜ、双方の呼び方が自国を先に持ってきた言い方なのかは、不明です。)の話になってしまいますが、実際にフランスに住んでいる日仏ハーフの場合、多分、日本語を捨てて、フランス語で生活している子の方が多いでしょう。

 多少の日本語ができる場合は、まあまあ、あるでしょうが、読み書きとまでいくと、かなり、割合はグンと下がると思います。実際、娘も小学生の頃は、公文に通わせていて、小さい時は、かなりの人数の子供が来ていましたが、学年が上がるにつれて、みるみる減っていきました。

 やはり、学年が上がるにつれて、本業!?の学校の勉強が大変になっていくので、そちらが優先ということになるのでしょう。

 娘は、一時、別の理由で、日本語の勉強は、中断したこともありましたが、また、バカロレアのオプションの科目を日本語で取ることにしてから、しばらく、別の日本語の学校にかなり集中して通いました。

 また、バイリンガルになったとしても、母国語というものは、そのどちらか一つに重心をおいた形が理想だといいます。
 言葉というのは、単なるツールだけではなく、その背景には、その国の文化や習慣を纏ったものだからです。
 ですから、どちらかが、しっかりしていないと、その子のアイデンティティーがぐらついてしまいます。

 実際に、小さい頃の娘がよく言っていました。それは、日本に行っても、外人、フランスにいても外人と言われることです。”日本でも外人、フランスでも外人”って、一体、私は、なに人なの?と娘はよく、ボヤいていました。

 つまり、日本人は、”ハーフ” と呼びながらも、実際には、ハーフは、外人扱いなのです。それでも、フランスでは、元々が、純粋なフランス人の方が少ないくらいの多民族国家なので、外人扱いは、日本ほどではなかったようですが・・。

 そんな、娘のボヤキに対して、私は、”両方だよ。あなたは、あなたなんだから、なに人かということは、そんなに気にしなくてもいいんじゃない!?と言葉を濁していました。

 普通は、小さい頃は、自分がなに人かなんて、あまり考えません。いや、小さい子供ではなくとも、日本にだけ住んでいれば、あまり、自分が日本人であることを意識せずに暮らしています。
 しかし、そう考えていくことは、決して悪いことではないと思うのです。それぞれの国を彼女なりの視点で見つめて育つわけですから、それぞれの国の良いところ、悪いところを案外、冷静に見ています。

 ”フランスは、これだからダメなんだ!・・” とか、" 日本はスゴい国だけど、相当、歪んでいるところもあるね・・" とか、両方の国を俯瞰して見ているようなところがあります。

 もう、大きくなって、そうやって、偉そうに話している娘を見ると、こちらの方が、あなたは、なに人なの?と言いたくなるくらいです。

ハーフ 

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2019年6月14日金曜日

バイリンガルのスイッチ




 娘が二歳から十歳までは、毎年、夏休みには、日本に行っていました。そして、日本でいう小学校就学の年齢からは、ほんの1〜2週間でしたが、実家の近くの公立の小学校に通わせていただいておりました。

 やはり、どんなに絵本を読み聞かせようと、ビデオを見せようと、テキストをやらせようと、実際の日本語社会に浸ることには叶いません。

実際の生の日本語の世界に2〜3週間浸ることで、娘の日本語は、格段に上達しました。

 短期間の日本滞在にもかかわらず、娘の日本語は、みるみる上達し、私の日頃の努力がバカバカしく感じられ、母に嘆いたこともありました。母は、”あなたが頑張ってきた下地があるからこそよ・・”と励ましてくれましたが、やはり、見るもの聞くもの全て日本語という世界は、スポンジのような吸収力を持った年頃の子供には、多大な効果をもたらしたと思います。

 私の両親をはじめ、親戚から私の友人まで、それはそれは、娘のことを可愛がってくれたので、娘も日本にいるのが楽しくて仕方ないようでしたし、”ちょっとフランス語、喋ってみてよ!”などと言われても、娘は日本では、決して、人前でフランス語を話すことはありませんでした。

 それでも、時々、トイレやお風呂に一人で入っているときに、ブツブツとフランス語で独り言が聞こえてくることがありました。やはり、日本語だけの世界というのもそれなりのストレスが彼女なりにあったのだと思います。それが、トイレとお風呂って、何だか笑えちゃいますよね。

 そして、楽しい日本滞在もあっという間に終わって、パリに戻ると、空港には、パパがウキウキと迎えに来てくれていました。しかし、娘は、まるで、”お前のせいで、フランスに帰らなくちゃいけなかったんだ!”と言わんばかりの仏頂面で、帰りの車の中では、時差ボケもあるのか、パパが話しかけても、一言も口をききませんでした。

 困ったもんだと呆れていると、家に着いて、アパートのドアを開けた途端にペラペラとフランス語を話し始めたのです。普段、生活しているアパートの中の風景が彼女のフランス語のスイッチを入れたような感じでした。

 まだ、幼かった彼女は、彼女なりに車の中の時間は日本語とフランス語のスイッチの切り替えに必要な時間だったのかもしれません。

バイリンガル

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2019年6月12日水曜日

バイリンガルに育てる方法




 娘は、フランスに育ちながら、日本が大好きな子供に育ってくれました。娘が初めて日本に行ったのは、彼女が二歳になったばかりの頃でしたが、それまでは、私とは、日本語のみで会話していましたし、その他は絵本とビデオで日本語を覚えていきました。

 ビデオは、お母さんと一緒などの子供用の番組やサザエさん、ちびまる子ちゃん、そして、私が見ていた日本のドラマなども一緒に見ていました。
 
 ちょうど、二歳くらいだったでしょうか? ある日、番組の最後に流れるスポンサーの告知、”この番組はライオンの提供でお送りしました。”というフレーズを聞いて、娘が一瞬固まったように、”ラ・イ・オ・ン・・”と呟いて、呆然と驚いていた様子に笑ってしまったことがありました。
 
 しかし、その時、同時に、娘はライオンという言葉を聞き取って、理解したからこそ、ビックリしたことに気がついて、何となく嬉しく、ホッコリしたことを覚えています。

 また、色々なビデオを見ても、その全てを理解していたわけではないにせよ、時々は、ビックリするような言葉を覚えていることもありました。
 
 ある日、私の従姉妹の話をしていて、”〇〇ちゃんは、結婚しないのかしら?”と話していたら、娘が普通に、その会話に割り込んできて、”〇〇ちゃんは独身主義でしょ!”と言ったのです。私がビックリして、どうして”独身主義”なんていう言葉を知ってるの?と聞いたら、娘がしたり顔をして、”だって、カツオくんが独身主義だったことがあるのよ!”と言ったのです。何と、娘はサザエさんから、独身主義という言葉を学んでいたのです。

 それでも、7〜8才になると、娘がビデオで見るのはドラマが中心になっていきました。それも、気に入ったドラマを何回も何回も繰り返し見るのです。ここが子供のすごいところです。同じものを繰り返して見ることに何の抵抗もないどころか、それが楽しくて仕方ないのです。

 お気に入りのドラマは、もうそれこそビデオが擦り切れるほど、セリフ全部入ってます!っていうくらい見ていました。それは、気の強い女性が主人公の言いたいことをハッキリ言って、その場を納めるというような内容のドラマが多く、それは、彼女のキャラクターに近いものが多かったことに気が付いたのは、後になってからでした。

 また、バラエティー番組も読み書きを覚え始めた頃からは、特に一生懸命に見るようになりました。バラエティー番組の多くはその会話の多くに字幕テロップが日本語で同時に画面に流れるからです。聞き取り損ねそうになった言葉や、これは、こういう感じを書くのか・・など、子供はどんどん自分で学んでいくのです。

 大人になってからの言語習得は本当に大変です。子供のうちなら、子供の方はさして、苦労を感じずに言葉を覚える事ができるのです。この機会を逃す手はありません。

 脳科学など学術的なことは、私には、良くわかりませんが、私の周りのバイリンガルの子供たちを見ていると、その他の学業の成績も良い子が多いように感じます。脳の発達にバイリンガル教育は、良い影響があるような、私は、そんな身勝手な解釈をしています。


バイリンガル


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よろしければ、<YouTube動画>「バイリンガルの子供を育てよう!」もご覧ください。
https://youtu.be/WcGdfe2ZNMU
 

2019年6月7日金曜日

フランスの教育・学校・バイリンガル教育 ①




 私の娘は、運よく、カトリック系の私立の学校に小学校から、高校まで通わせて頂きました。そもそも、私たちが今のアパートに引っ越して来てすぐは、近所の事情もあまりわからずに、ひとまず、公立の ecole maternelle エコール・マテルネル(日本でいう幼稚園の年齢ですが、こちらでは、学校扱い)に通わせていました。

 ご存知の通り、フランスは、ストライキの盛んな国で、それは、学校までにも及び、その年は、学校で一ヶ月にもわたるストライキがあり、働いている私としては、学校がというよりも、託児所がなくて、途方に暮れるという感じでした。

 また、私の職場の近くに、たまたま、かなりレベルの低いと思われる学校があり、その学校の子供たちの様子を見るにつけ、こんな学校に入ってしまったら、大変だ!!という危機感が常にありました。

 そんな、きっかけもあり、家の近くの私立の学校(私立の学校はストライキをしません)を探したところ、私たちの住む地域には、一つしかなく、せめて、ecole primaire (エコール・プリメール)(小学校)からでも、入学させてもらいたいと、申し込みをしましたが、すでに、その時点では、定員オーバーとのことで、ウェイティングリストに載せておきます、との返事が帰って来ました。

 こちらの学校では、小学校の時点では、日本のような、お受験はないのですが、たまたま、その頃、マテルネルで、彼女の中での最高の成績表を取って来たので、(学校扱いなので、幼稚園の段階から成績表があります)主人と ” これを送ってみよう!!”と試しに送ってみたところ、希望を出していた学校から、面接に来てくださいと連絡があり、入学することができたのです。本当にラッキーでした。
 
 今から考えると、それが娘の人生の大きな分岐点になったかもしれません。

 面接に行く道すがら、その学校の生徒たちを見て、一目で思いました。
あの学校の子たちとは、顔つきが全然違う!!と。(あの学校とは、私の職場の隣の学校ですが) 
 その子たちの顔を見て、私は、これなら、大丈夫、と思ったものです。

 そして、面接に行くと、ディレクトリス(校長先生)が毅然と座っていらして、無邪気に”ボンジュール!”と挨拶した娘に、しっかりと、娘の目を見て、”ボンジュール、マダム”というのですよ。”と静かに、おっしゃいました。
 なんとなく、ピンと張った背筋がさらに伸びる感じがしました。

 そんな過程を経て、娘は、小学校からその学校に通学することになり、結局、高校卒業までお世話になりました。入学してから知ったのですが、その学校は、結構な進学校で、バカロレアの合格率が100バーセントを誇る学校で、逆に考えれば、できない子は、容赦なく、追い出されるということです。なんとか、追い出されることなく、高校までその学校にいられますように・・と祈るような気持ちでした。

 当時は、パパはフランス人なので、学校全般担当、私は、学校ももちろんでしたが、むしろ、娘の日本語教育に必死でした。とにかく、私は娘との会話は、日本語のみ。テレビは一部を除いて日本のビデオのみ。日本語のカードを作ったり、絵本も毎晩読んで聞かせました。

 読み書きも日本語の読み書きを出来るだけ、億劫に感じないように、学校でフランス語の勉強を始める前に、そして、私以外の日本人との接触の機会も与えられるようにと公文に通わせて、鉛筆の持ち方から、公文の先生に教わりました。

 仕事から帰ると娘を迎えに行き、食事の支度をしながら、娘の公文の宿題を見て、夜には日本語の本を読んで寝かせつける。全く、怠け者の私が今、振り返るとよく頑張ったと思います。

 私が娘の日本語教育に必死になったのは、私がこちらで仕事を始めた際に職場にいた、日本人とフランス人のハーフの若い男の子のおかげ!?でした。その子がお母さんが日本人にも関わらず、全くといっていいほど、日本語ができなかったのです。

 そうなんです。このような機会(フランス語も日本語もできるようになれる環境)があるのに、それをしようとしない親が結構いるのです。私としては、これには、本当にビックリでした。だって、自分の子どもに自分の母国語を教えるのは、当然だと思っていたからです。

 周りにいた日本人の同僚にも、ずいぶんと言われました。
 ”放っておいたら、日本語、できなくなっちゃうよ!”と。
 ”だって、普通にフランスで生活しているんだから、日本語は必要ないんだから !”とも。そう言えば、そうですよね・・。

 特に、フランスは、他の国の言語に対して排他的なところがありますから。
 そんなわけで、その頃の私は、とりあえずは、娘に日本語を植え付けることに一生懸命でした。

 私の母は、英語が好きで、得意で、小さい頃から私に英語を教えてくれていました。おかげさまで、私は、ネイティブとは言えませんが、あまり、英語で苦労した記憶がありません。娘も恐らく、日本語を苦労して覚えたとは、感じていないことでしょう。

 やはり、ある一定の年齢の期間なら、最も効率的に苦労を感じずに言語を習得できるという時があるのです。これを活かさないのは、あまりにもったいないと思いませんか?

 言語は、その子の世界を広げる一つの大切なツールです。そのツールを持つことで、その子の世界は、グッと広がります。同時に可能性も広がるのです。
小さい子を持つ親御さん! 頑張ってみませんか?

 今日は、この辺で、子育て、教育の話はまだまだ、続きます。

 続きは、後日、また、書きますね。

バイリンガル

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