2019年9月30日月曜日

アフリカにいた日本人の美容師さん




 私がアフリカで、生活をしていた中で、困ったことの一つが美容院でした。

 なぜならば、一度、アビジャン市内の美容院に行ったら、どういうものか、カットの前のシャンプーで、シャンプーをひと瓶まるまる使い切るが如く、髪をゴシゴシと何度も洗われて、髪の毛からは最低限必要な油分も全て洗い落とされて、頭皮はカサカサになり、髪の毛がガビガビになってしまい、カットの出来がどうとかいう以前の問題で、これなら、自分で、切った方がマシ!二度と行くまい!と思ったからです。

 そこで、知り合いのツテをたどって、自宅に出張で髪を切りに来てくれるという日本人の美容師さんを知り、それからは、彼女に来てもらうことになったのです。

 彼女は、日本の公的機関に勤める現地の男性と結婚し、子供を二人持ちながら、自宅を廻る出張美容師さんをしていました。

 当時、アフリカで出会う日本人といえば、駐在員の奥さん連中(私は、あまりお付き合いはありませんでしたが・・)か、フランス語の勉強のために通っていた大学で知り合った、海外青年協力隊の一員として来ている人くらいでしたので、彼女の存在は、そのどちらにも当てはまらず、アフリカで仕事をしながら、しっかりと家庭を持って、強く、生きている女性でした。

 アフリカは、パリなどとは違って、日本人を含めて、外国人の多くは、長期で滞在している場合でも、期間限定の転勤族です。私自身の場合もそうでした。

 今から思うに、転勤族と、その土地に根を張って、家庭を持ち、子供を育てている人は、意識も生活の仕方も違うのは、当然です。

 しかも、アフリカのように外国といえども、治安も行政も日本とはかけ離れた発展途上国での厳しい暮らしの中では、なおさらでしょう。

 よほどの覚悟と強さがなければ、そう簡単にできることではありません。

 小柄な彼女は、明るく、バイタリティーに溢れ、非常に大らかな女性でしたが、その芯には、確固とした強さが感じられる素敵な女性でした。

 その方は、私の髪の毛を切りながら、ご主人との馴れ初めや、ちょうど妊娠中だった私に、自分が子供を産んで、まるで、自分自身も生まれ変わったようで、自分の表情が変わったことが自分でもわかるほどだと、少し興奮気味に話をしてくれました。

 当時、初めての出産、しかも、アフリカでの出産に少し不安を感じでいた私は、彼女の言葉に元気をもらいました。

 私が、アフリカを去ることが決まったとき、彼女は、お別れにと言って、自分でしめた鶏を丸焼きにして、わざわざ家に届けてくれました。

 その後、フランスに来てしまってからは、お付き合いは、続いていませんが、フランスとはいえ、その後、転勤族ではない、海外暮らしを長くしてきた今の私だったら、もっともっと彼女と話したいことがあったと、最近になって思うのです。

 

 

 

 

2019年9月29日日曜日

イクメンと家族サービス




 最近、日本では、「イクメン」という言葉が生まれて、フランスで子育てをしてきた私には、とても、妙な印象を受けます。

 だいたい、「イクメン」という、育児という当然のことをしている男性のことを褒め称えるような言葉自体に、とても違和感を持っています。

 少なくとも、フランス語で「イクメン」に当たるような言葉はありません。

 私が、「イクメン」と同じくらい嫌いなのが、「家族サービス」という言葉です。

 たとえ、女性が働いていたとしても、家族に対してすることを「家族サービス」という言い方はしないと思います。それを男性側から「家族サービス」などと言われたら、気分が悪いことこの上ないでしょう。

 「家族サービス」は、家族と一緒に出かけたり、旅行に出たり、父親が自分も一緒に楽しむはずのことを、どこか、上から目線で、まるで、自分は、家族の一員であるというよりも、どこか違う位置付けにいる人のような言い方です。

 フランスは、ダメダメなところもたくさんありますが、こと家庭、家族のあり方に関しては、個人差はあるにしても、育児に男性が関わることも、家族で出かけたり、家族としての過ごし方も、父親も同じように家族の一員であり、家族みんなで楽しんでいます。

 そこには、「家族サービス」という観念はありません。

 それでも、日本でも、昭和世代の家庭よりは、改善されてきて、実際に「イクメン」も増えてはいるのでしょうが、「イクメン」という言葉が生まれるあたり、やはり、それは、「イクメン」ではない人が多いからこそ生まれる言葉なのだと思ってしまいます。

 また、日本でも、女性の社会進出が増えているとはいえ、やはり、女性に対してのハンディは大きく、ましてや仕事をしながら、子育てをするとなると、さらにハードルは上がります。

 子供を預ける保育施設なども充分ではないのでしょう。

 私の日本の実家の近くに、ほんの小さなスペースのみの保育所がずいぶん前にできて、こんなに狭い、施設としても、粗末なもので、すぐに潰れてしまうだろうと思っていましたが、現在でも、その施設は続いています。

 それだけ、正規の保育園が足りていないということだと思います。

 その上、日本の教育費は、驚くほどに高額です。

 子供を育てていくために、また、子供の将来の教育費のためにも、富裕層でなければ、女性も働かずに子供を育てていくことは、大変な事だと思います。

 フランスでも、より豊かな教育を子供に受けさせようと思えば、それなりにお金はかかりますが、特に大学などに関しては、フランスの教育費は、日本に比べると桁違いに安いのです。

 それに加えて、フランスは、各家庭の子供の数が増えれば、(特に三人以上の子供を持った場合)働いている親に対しても税制上の大きなメリットがあります。

 この日本とフランスの子育て環境、事情を比べてみただけでも、なぜ、日本が少子化の一途を辿り、フランスが少子化の問題を克服したのかもうなずけます。

 女性の社会進出を推進する一方、男性も育児を含めた家事を負担すべきであるということが、社会的な責務であるとされる風潮はある一方、それは、どこか、中途半端で、女性側に、より負担が大きくなる傾向があるように思えてなりません。

 そもそも、育児や、家庭を築くことは、手伝うことでも、サービスでもなく、男性も女性も主体的に関わるべきものだと思うのです。

 


2019年9月28日土曜日

ハーフの娘の祖国 アイデンティティーの帰属




 アフリカで生まれ、フランスで育ち、フランス人の父を持ち、日本人の母を持つ娘の祖国は、どこなのでしょうか?

 祖国を生まれた国とするならば、アフリカですが、育ってきた国とするならば、フランスです。

 祖国と母国という言葉は、似ているようで、微妙にニュアンスが違います。
 
 彼女の母国はフランスです。
 
 母国語という言葉がありますが、彼女はバイリンガルではありますが、彼女の母国語は、フランス語です。

 それに対して、祖国というのは、その人の家族である祖先も含んだ歴史的、文化的な背景も多く含みます。

 フランスでは、主人の両親がすでに他界していたこともあり、彼女が物心ついてからは、祖先、親戚といえば、日本にいる私の家族や親戚との関わりが多く、日本に住んだことはないものの、幼い頃から日本語も話し、日本語の勉強も続け、日本にいる祖父母や親戚とも関わり、日本の絵本も読み、日本のテレビ番組を見て(これは、私が日本語を覚えさせるために意図的に、テレビは、一部のフランスの番組を除いて、日本の番組のみとしていました)、日本食も食べて、育ってきた娘の中での日本という国は、彼女にとって、大きな位置付けを持ってきたと思います。

 ですから、彼女にとっての祖国は、フランスであると同時に、その一部は、日本でもあるのです。

 彼女のキャラクターを見る限り、フランス人のキャラクターが濃いと思うのですが、彼女は、フランス人に対しても、日本人に対しても、その良いところも悪いところも、どこか、客観的に、冷静に、眺めているようなところがあります。

 それは、人種的、文化的なアイデンティティーの帰属感を二つの国に対して持っている人間のサガのようなものなのかもしれません。

 私の両親も他界してしまった今、私より上の世代や、私の世代は、どんどんいなくなっていくことを見越している娘は、自ら、日本にいる、自分と同世代の人とのつながりを繋ぎ、保っていこうとしています。

 それは、きっと、これから将来、彼女がどこで生活しようとも、彼女の中での、フランス以外のもう一つの祖国をどこか繋ぎとめておきたい気持ちの現れなのだと私は、どこかしんとした気持ちで見つめています。

 








 

2019年9月27日金曜日

子供の可能性を遮る親になってはいけない




 私には、一緒に、イタリアを旅行した友人で、イタリアが大好きで、イタリア語も独学で勉強してマスターし、イタリアの文化や歴史も熟知してる人がいます。

 でも、彼女は、イタリアに留学経験や長期滞在の経験があるわけでもないのです。

 彼女は、日本で仕事をしながらも、あまりに頻繁にイタリアへ旅行するので、彼女ほどのイタリアへの愛情と、イタリア語のレベルをもってしたら、イタリアでの生活もありえるのではないか?と思い、それをしない理由を尋ねたことがありました。

 すると、彼女は、自分自身を吹っ切るように答えたのです。
” うちの母親は、私がいないとダメになってしまうから・・” と。

 一度、彼女がせっせと貯金をして、イタリア留学を試みた時のこと、彼女の母親が半狂乱になって、彼女を止めたのだそう。彼女曰く、その時の母親の反応から、母親の人格崩壊への恐怖と懸念を抱いたのだそうです。

 それ以来、彼女は、留学や移住の長期の海外滞在は、母親のために、諦めて、代わりに短期の旅行は、思う存分することにしたのだとか・・。

 ですから、彼女は、自分の境遇の中での彼女の道を選んで、彼女なりの人生を歩んでいるのです。それもまた、彼女の生き方ですし、何が正解なのかは、わかりません。

 私自身も、なんだか、他人事ながら、モヤモヤとしたのを覚えています。

 というのも、そんな話を聞くのは、彼女が初めてではなかったからです。
 そういう親というのは、結構、いるものなのです。

 私が最初に留学したいと母親に話した時、私の母は、自分自身も、若い頃に、留学願望があったため、” どうぞ、いってらっしゃい!” と、寛容に私のやりたいことを受けとめてくれました。今となっては、そんな母には、感謝ばかりです。

 留学に関わらず、子供の可能性を狭めて、遮ってしまう親というのは、結構いるものです。大切に育てた我が子、自分のそばにいて欲しい気持ちは、痛いほどわかります。

 それでも、私は、イタリアに行くことを断念した彼女と彼女の母親の話を聞いて、思ったのです。” これは、いけない!!・・” と。

 経済的な問題等のある場合は別として、若いうちにしか出来ない経験を親が遮ってはいけない、すべきではないと、親となった今、私は、誰よりも自分自身を戒めているのです。

 逆に、私の従姉妹の家庭では、母親の方が、子供たちに留学してみたらと勧めているにも関わらず、頑として、日本を離れたくないと言うのだそうです。まあ、これは、これで、その子たちの選択なので、もったいないなぁ・・と思いつつも、私が口を挟むことでもありません。

 可愛い子には、旅をさせよ!と言いますが、今は、旅をしたがらない子供も少なくないようなのです。



 

 



 











2019年9月26日木曜日

海外在住の日本人の子供には優秀な子が多い




 パリに住んでいる、私の知っている日本人の子供は、なぜか、進学先も軒なみレベルのかなり高い学校に進んでおり、結果、医者、法律家、エンジニアなどのいわゆるエリートになっている場合が多いのです。

 フランスで生まれ育ち、フランスで大学を出てから、日本の大学や、大学院を卒業した子供(もはや子供ではないが・・)も数名、知っています。日本の大学や大学院に入学できるということは、日本語のレベルも日本に住んでいる日本人と変わりないほどなのでしょう。

 日本人は、あまり、努力を表に見せないので、はたからは、一見、その努力がわかりづらいのですが、その努力は、相当なものだったと思います。

 これは、やはり、日本人の生真面目な生活ぶりと、親の教育への向き合い方のような気がするのです。

 また、外国で暮らしても、たとえ、読み書きは危うくても、子供をバイリンガルに育てようとしている場合も多く、バイリンガルの子供たちが、他の学業においても優秀である確率が少なくありません。

 脳科学的にバイリンガルが脳の働きにどう影響するのかというような、専門的なことは、わかりませんが、あながち、無関係とも言えないのではないかと思うのです。

 少なくとも、一日の時間は、限られているわけですから、子供といえども、現地の学校の勉強に加えて、日本語の勉強をするわけですから、自ずと、効率よく、勉強をする習慣がつくのです。

 それは、大きくなればなるほど、色々な教科の勉強を効率的に、こなしていかなければならないうえで、とても重要なことです。

 たとえば、誰かに、仕事を頼む時に、忙しい人に頼んだ方が、素早く、的確に仕事が進むのと似ているような気がします。

 なかには、例外的な場合もあるでしょう。

 しかし、海外にいて、フランス人をはじめ、様々な国の人と接しているからこそ思うのは、日本人の教育に対する意識の高さと真面目さなのです。








 











 

2019年9月25日水曜日

子供の急病




 娘は、幸いにも、とても健康に生まれて、健康に育ち、どんなに動いても疲れるということを知らず、虫歯の一本もなく、どちらかというと、溢れるエネルギーを発散させるのに苦労するほど元気に育ちました。

 ただ、一度だけ、あわや、入院!?という病気にかかったことがありました。

 それは、娘がまだ5歳くらいの頃でした。

 そのころ学校では、なわとびが流行っていて、暇さえあれば、ぴょんぴょんと家でも、なわとび、また、学校でも大流行していたようで、なわとび片手に通学し、休み時間になると、こぞって、みんなで、なわとびをやっているようでした。

 ある朝、起きたら、娘が足が痛いと言いだして、私たちは、てっきり、なわとびのやり過ぎだろうと思っていましたので、なわとびは、いい加減にしておきなさい!と注意して、そのまま、学校へ行かせました。

 ところが、なわとびをやめても、娘の足の痛みは治ることなく、治るどころか、翌朝、起きた時には、まるで、小児麻痺の子供のような、独特な足の引きずり方で歩くようになっていたのです。

 娘の歩き方を見て、焦った私たちは、慌てて、近所のかかりつけのお医者さんに連れて行きました。すると、彼女は、厳しい顔をして、”これは、救急で、病院に行った方がいいから・・”と言って、パリの12区にある小児病院への紹介状を書いてくれました。

 救急で、小児病院へなどと、思ってもみないことを言われて、私たちは、ビックリして、娘を車に乗せて、慌てて病院の救急へ向かいました。

 症状を見たお医者さまが、検査のために、軽い麻酔をしますからと、娘の口に、プラスチック性の簡易マスクを当てた時には、私よりも主人の方が動揺していました。

 私も、それなりにショックでしたが、娘の病状とともに、大きななりをして、娘が麻酔用のマスクを当てられただけで、卒倒しそうになってしまう主人にも、情けないと思う気持ちと、心底、娘を大切に思っている主人の気持ちの深さとが交錯する複雑な気持ちでした。

 結局、娘は、リュームダンシュという、日本語にすると腰風邪という病気で、風邪のウィルスが体内の腰の部分に入って引き起こされる病気で、投薬治療と、できる限り安静にということでした。

 お医者さまに、入院しますか?ご自宅に帰られますか?(まあ、どちらでもいいですよということだったのだとは思いますが・・。)と聞かれて、当然、私は、病院で見ていただいた方が安心だと思っていたのですが、主人が、まるで、不本意に娘を取り上げられるとでも言わんばかりに、半ば、強引に家に連れて帰ると言い張り、お医者さまも、”それでは、薬をちゃんと飲んで、できるだけ、歩かせないように・・。”とおっしゃって下さり、その日のうちに、娘を連れて、家に帰ってきました。

 タダでさえ、動き回ることが好きな娘も、さすがに、なわとびどころではなく、学校も一週間は、休み、家の中でさえ、できるだけ、歩かない生活を強いられました。

 私と主人も交代で休みを取りながら、なんとか、娘についていましたが、1日だけ、どうしても、数時間、娘が一人でいる時間ができてしまったのです。

 その日は、休みを取るはずだった主人が、どうしても空けられない仕事が入り、午後の数時間、私が早めに退社するまでの時間だったので、まあ、大丈夫だろうと思いつつも、私が、急いで、家に帰ってみると、珍しく、娘は、リビングの大きなソファに座って、” 寂しい・・” と言いながら、一人でシクシク泣いていました。

 こうやって書いていて、ああ、そういえば、彼女も泣いたことがあったんだな・・と思うくらい、普段は、明るく元気な娘でしたので、あの時の彼女の様子は、彼女自身も、急に足が痛くなったり、大きな病院に急に連れて行かれたり、自分の周りで大人たちがバタバタしたりと、それなりに不安定な気持ちだったのでしょう。

 幸いにも、その後は順調に回復し、以来、これまで、大きな病気もせずに元気に育ってくれました。

 子供は、やっぱり、元気すぎるくらいの方が良いと、心底、思わさせられた出来事でした。

 それにしても、あの時の主人の情けない動揺ぶりは、一生忘れません。

 









 

 

















2019年9月24日火曜日

フランス人と日本人のハーフの青年




 私がフランスで仕事を始めた時に、同じ日に入社した青年がいました。

 その青年は、当時、20代後半くらいだったでしょうか? お母さんは、日本人で、お父さんは、フランス人のハーフの青年でした。

 お母さんが日本人で、お父さんがフランス人のハーフということで、私は、最初、どこか、娘の将来をダブらせるような目で彼の様子を見ていました。

 彼は、親元を独立して、パリで一人暮らしをしているということでしたが、予想に反して、なんだか、ふらふらした青年で、日本語も、ほとんど話せず、(まあ、ここは、フランスなので、別に日本語ができないことは、本当は、問題ではないのですが、)忘れ物をしたら、母親が職場まで届けに来たり、何かあると、トイレにこもって、携帯をいじっているような青年でした。

 そんな様子でしたから、彼は、数ヶ月で、すぐに会社を辞めていきました。

 私は、そんな彼を見て、強い危機感を感じたのです。

 言い方は悪いですが、娘がこんなになってしまったら、大変だ!!と。

 放っておいたら、彼のように日本語も話せなくなってしまうし、甘やかしていたら、こんなにフラフラとした人間になってしまうのだと・・・。

 彼の容貌は、明らかに日本人ではなく、背も高くスラッとしていていて、見た目は悪くないのです。

 そして、親元を離れて、一見、自立しているようにも見えます。

 しかし、実のところは、家賃は親がかりで、ブランド物のバッグなどをチャラチャラと持ち歩いて、口から出るのは、ヨーロッパのデザイナーの話ばかりで、ロクに働かずに職を転々とし、ふらふらと生きているのです。

 最初は、お母さんが日本人なのに、日本語が話せないことにビックリした私でしたが、実は、彼のダメなところは、単に、日本語が話せないだけでなく、生き方からして、ダメダメなのでした。

 私は、実際には、彼とは、仕事上の接点は、ほとんどなかったので、あまり、直接話した記憶もほとんどないくらいなので、詳しい彼の生い立ちはわかりませんが、経済的には、かなりゆとりのある家庭なのでしょう。

 しかし、私は、彼を見るに、フランスと日本の間で、ちょうど悪い具合に掛け合わさって、育って来たように思えてならないのです。

 フランス人のように、イッパシの主張と言い訳は、ハッキリとし、親とは、同居せずに、独立している風でありながら、実のところは、親が甘やかして、いい歳をした子供にお金を出し続けているのです。

 どこの時点で、彼がそうなっていってしまったのかは、わかりませんし、現在、彼がどうしているかもわかりません。

 ただ、私は、彼と出会えたことをとても感謝しています。

 なぜなら、彼の存在は、反面教師として、私の子育てに大きな警鐘を鳴らしてくれたからです。

 私は、娘に、読み書きも含めて、しっかりと日本語を教え、「高校以上は、勉強をしたくなければ、しなくてもいい。けれど、何もせずにふらふらとしていてはいけない、しっかり、働いてもらいます!」と、小さい時から、きっぱりと言い続けて来ました。

 そんな娘は、現在、大学院大学に通っています。

 

 














2019年9月23日月曜日

フランスの貧乏大学生の質素な生活




 フランスでは、18歳で成人となるので、高校を卒業と同時に、これまでの全面的な親の庇護のもとでの生活から、少しずつ、巣立ちのステップを歩み始めます。

 進路によっては、さらに厳しい学業が控えている場合もありますが、多くは、大学に進むか、専門の道を進むか、いずれにせよ、大人への階段を登り始めます。

 フランスでは、よっぽどの良家の子女ならいざ知らず、一般的な家庭は、親は、学費は、負担しても、大学生以上の子供に対して、必要最低限以上のお金を出すことはありません。

 よって、フランスでは、学生は、概して、お金がなく、質素な暮らしをしています。

 大学にもよりますが、時間的には、少し余裕ができても、日本のように、学業を優先しつつも、学生が自分の空き時間に、都合よくできるようなアルバイトは、少なく、(夏休みのような期間は別として)せいぜい、マクドナルド、ウーバーイーツ、それでも、優秀な人は、家庭教師などの口にありつけますが、それも、ごく僅かで限られています。

 ですから、フランスには、学生割引のようなものが、多く存在します。映画館、美術館、博物館、プール、公共交通機関、マクドナルドなどのファストフード等、が、学生の恩恵を受けて、安く利用できます。

 とはいえ、学生は、限られた少ないお金で遊ぶわけですから、当然、その遊び方も質素です。おしゃれの仕方なども、お金をかけずとも、安くても良いものを探して、上手にコーディネートを楽しんでいます。

 外食が高いフランス(特にパリ)では、高いレストランなどでは、食事せず、せいぜい、ピザかパスタ、あとは、マクドナルドやケバブなどのファストフード、サンドイッチを買って、公園でピクニック・・なんてことになります。

 飲みに行くのも、ハッピーアワーとよばれる安い時間帯以外は、コップもいらず、値段も安いビールとポテトチップスなどのスナック類を買って、公園か、セーヌ川沿いや図書館のテラスや友人の家に持ち寄りです。

 日本は、安い居酒屋もあるし、低価格で遊べる場所もたくさんあるので、それなりに、比較的、お手軽に遊ぶことができます。

 きっと、日本の学生が、こちらの学生の様子を見たら、なんだか、貧乏くさくて、味気ないように感じると思います。

 でも、私は、こちらの生活をしてみて思うのです。

 人から与えられた場所でお金を出して楽しむことよりも、シンプルでも、自分たちなりの楽しみ方で、過ごす時間の方がどれだけ豊かな時間だろうかと。














 

2019年9月22日日曜日

フランス人の嫉妬心と日本人の嫉妬心 一時帰国の際の娘の日本の小学校への編入時のいじめ




 日本に一時帰国した際は、日頃、日本人と関わる機会があまりないので、親戚や友人に会うのも、必ず、娘を一緒に連れて歩きました。

 行く先々で、娘は、まるで、誕生日か、クリスマスのように、みんなから、色々なプレゼントを頂くので、連れて歩いている私としては、これでは、まるで猿回しのようだと思ったものです。

 その中で、ぼんぼりのついたキティちゃんの毛糸の帽子を頂いたことがありました。

 フランスに戻って、その帽子を、学校にかぶって行ったら、それを羨ましく思った同級生の子に無残にも、ぼんぼりを引きちぎられて帰ってきたことがあるので、それ以来、キティちゃんのものは、学校に持って行くことができなくなってしまいました。

 余計なことで、周りの子の嫉妬心を煽ってはいけないと思ったからです。

 正直、私は、フランスの子供の嫉妬心というのは、ずいぶんとダイレクトに行動に現れるものなのだと驚いてしまいました。しかし、まあ、帽子が羨ましくて、思わず、帽子を引きちぎってしまうなどということは、乱暴ではありますが、ある意味、わかりやすくて、シンプルです。

 娘が小学校、3年生くらいまでは、日本へ帰国する度に、私の実家の近所の小学校に、ほんの2週間程度でしたが、一時的に編入させて頂いていました。

 最初の1〜2年目くらいまでは、まるで、動物園にやってきたパンダのような感じで、娘は、日本の小学生にとっても、珍しい存在だったようです。

 2年目に、最初の日に学校に挨拶に行った際には、校長室で教頭先生と娘と三人で話をしていると、校長室の前には、”また、あの子が来てる!”と、校長室の前には、人だかりができるほど、一部の子供たちからは、珍しいパンダのようにチヤホヤされていました。

 そうして、チヤホヤされたりしていると、また、一部の女の子の中には、嫉妬して、娘をいじめようとする女の子も出てきたりしました。

 取り巻きを集めて、いつも同じ靴を履いているとか、ランドセルをもっていないとか、しょうもないことを影でコソコソと言い始め、娘を仲間ハズレにしようとしていた女の子がいたのです。ハッキリと本人には、告げずに、周りからジワジワと追い詰めていくような感じです。

 もともと、せいぜい、2週間程度の通学ですから、大したイジメに発展することもありませんでしたが、帽子が羨ましくて、取り合いになって、終いには、帽子を引きちぎってしまうフランス人に比べると、どうにも、日本人の子供の嫉妬心の方が、陰湿な気がします。

 状況と立場を変えて考えれば、それは、日本のママたちや、大人たちに、起こっていることと同じなのかもしれません。

 私自身は、日本の小学校でのママ友の世界に顔を出すことはありませんでしたので、巷に流れているニュースなどでしか、状況を知ることはできませんが、子育てにおいても、また、その他のことに関しても、自分と違うもの、自分がこうするべきだと思うことから外れている者を影からじんわりと攻撃して、自分の正当性を保とうとするやり方が子供のイジメと、とても似ているなあと思ったのです。

 これらのことも、自分と違うことを堂々とやろうとしている人への嫉妬心の裏返しで、陰湿で、結果的には、お互いの首を絞めあっているように思えてならないのです。

 日本人の美徳であるはずの、言わずとも相手の気持ちを読み図るとか、慎ましく、感情を露わにしないということや、個性的であることよりも、人の和を重んずる日本の教育が、逆に、日本人を息苦しくさせてしまっているように思えてならないのです。

 海外生活が長くなって、意見の違う人に対しても、はっきりと言うべきことは言い、他の意見をそのまま受け入れずとも、一応、相手を尊重はし、他は、他であるということを受け入れ、たとえ、意見が違ったとしても、とりあえず、放っておくということが習慣になってきてしまっている私としては、日本のお互いが首を絞め合うような息苦しさが、なんだか、とても、辛そうに思えて、ならないのです。

 

 








 

2019年9月21日土曜日

突如、現れた金融警察に衝撃!




 通常、朝の出勤時には、警備上、二人以上で鍵を開けることになっていました。私は、時間に遅れるのが、とても嫌いなので、パリのメトロなどの交通事情を信用していないこともあり、だいたい、20分前には、到着して、もう一人がやってくるのを待っていました。

 会社の鍵を開ける時には、まず、1枚目のドアを鍵で開けると、内側にもう一つの扉があり、暗証コードを入れて、もう一つの鍵を開けるようになっていました。

 暗証コードを間違えて、鍵を開けようとすると、サイレンのような、警報機が響き渡り、すぐに、警備会社から電話がかかってきます。私も一度、バカンス明けで、ボケっとしていて、間違えて、自分の銀行の暗証ナンバーを押してしまい、サイレンを鳴らしてしまったことがありました。

 警備会社からの電話では、合言葉のようなものが決められていて、どうして、サイレンが鳴ってしまったのかを話して、合言葉を言えば、警備会社の方で、すぐにサイレンを止めてくれるようになっていました。

 その日は、たまたま、会社の鍵を開ける時に、3〜4人いたでしょうか? はっきりとは、覚えていませんが、2枚目のドアを開けたところで、ものものしい4〜5人の制服姿の銃を持った一団がドーッとなだれ込んできて、” Police Financiere (金融警察)です。みなさん、すぐに、IDカードを出してください。” と、周りを取り囲まれました。

 鍵を開けている時には、まるで、その存在にも気付かなかった、ものものしい一団の突然の登場に、その場にいた者たちは、皆、騒然となりました。

 言われるままに、それぞれが、IDカードを提示して、それぞれの役職などを聞かれました。何の目的でその人たちが突然、やってきたのかは、わかりません。会社の責任者は誰か?と尋ねられましたが、ちょうど、その週は、社長も出張中で、パリを不在にしていたので、代わりに、社長の直属であったフランス人の女性が同行を求められ、一緒に出かけて行きました。

 映画のような、衝撃的なシーンに一同、何ごとだろうかとざわつきましたが、結局、その日は、彼女は、会社に戻ることなく、皆、彼女も直接、自宅に戻ったのだろうと思っていて、会社の業務は、通常どおりで、一日が終わりました。

 翌朝になって、出勤すると、連れていかれた彼女のパートナーの男性が、彼女が昨晩、帰って来なかった。連絡も全く取れない・・と、会社に駆け込んできました。携帯も持っているはずなのに、外と連絡を一切とらせてもらえないなんて・・怖い・・。

 結局、翌日になって、彼女は、げっそりとした顔をして、出勤してきましたが、何を聞かれたのかは、一切、口にすることは、ありませんでした。

 その翌週になって、社長がパリに戻った頃には、すっかり騒ぎは、落ち着いたようで、まるで、何もなかったかのように、金融警察の突入事件は、忘れ去られて行きました。

 私たち、下々の者には、結局のところ、何だったのかは、わかりませんでしたが、あの金融警察の突入の様子は、未だに忘れることはできません。

 普段、街で見かけるスリや泥棒を捕まえる警察とは違う、もっと、威圧的な感じの圧倒的な存在感のある警察もあるのだと、日常では、なかなか見ることのないフランスの一面を見た思いでした。

 





















 

2019年9月20日金曜日

ケタ外れに負けず嫌いな娘の話 親が心配すること




 娘が、10歳くらいのことだったでしょうか?

 いつもの通り、学校へ娘を迎えに行き、帰り道を、二人で、歩いていると、何やら、うつむきがちに歩いている娘の様子がおかしくて、顔を覗き込んでみると、ポロポロと泣いているではありませんか!

 娘は、比較的、情緒が安定している子で、娘が泣くことは、それまで、ほとんど、ありませんでした。なので、学校の帰り道に一人でうつむきながら、ポロポロと泣き出してしまったのには、とてもびっくりしました。

 これは、いじめにあっているのではないか? 先生にキツく叱られたのではないか? 私の方もハラハラしながら、娘に尋ねました。” どうしたの? " と。
すると、娘は、” 思っていた成績が取れなかった・・。” と答えたのです。

 それで、泣くのかい!と思いながら、その答えを聞いて、内心、私は、ホッとしていました。

 正直、私は、テストの点数よりも、学校でイジメにあったり、先生や、周りのお友達とうまくいかなくなってしまうことの方が、断然、心配なことだったからです。

 私は、娘の成績について、とやかく言ったことは、一度もありませんし、それでも、彼女は、いつでも、成績には、問題なかったので、何も言うことはありませんでした。

 私自身は、その子、その子に合った道があるのだから、成績は良いには越したことはないけれど、成績自体が何よりも重要だとは、思っていません。

 しかし、彼女は、点数が振るわないことを親や先生に叱られるからと言って、泣いているのではなく、自分が思っている点数を取れなかったこと、自分が思う実力を発揮できなかった自分が許せなくて泣いているのです。まだ、10歳なのに・・。

 何しろ、その負けず嫌いは、小さい頃から、今の今まで続いています。
これは、その子の個性としか言いようがありません。

 むしろ、彼女は、競争のある世界でなければ、面白くなくて、やる気が起きないと言うのです。

 彼女が高校まで、通っていた私立の学校は、これがフランス?と思うくらい、かなり、教育熱心な学校で、また、こまごまとテストのたびに点数や順位をネット配信で通知するような学校で、皆、休み時間には、自分の成績が 0.1上がったとか下がったとかを一喜一憂するような感じだったので、その学校の方針に見事に煽られた結果、娘の負けず嫌いは、ますます加速したとも言うことができるかもしれません。

 しかし、同じ学校に行きながらも、できないことをさほど気にせず、ほどほど(とは言っても、一般的にはかなり上のレベルではありますが)のところで満足している子もたくさんいます。

 彼女の負けず嫌いは、決して勉強だけではないのです。
スポーツにしても、日常生活の些細なことでも、できないと言うことが悔しくてたまらないのです。

 できないことは、できるまでやる。このしつこさ、まあ、よく言えば、粘り強さは、相当なものです。これは、彼女の個性です。

 高校卒業時のバカロレアの試験の際には、もうすでに、次の進学先は、決まっていましたので、” まあ、落とさなければ、良いから、気楽に行ってらっしゃい!" とプレッシャーを与えないように声をかけたのですが、娘は、大真面目に、” 私が落とすくらいなら、バカロレアをパスする人はいないから! どのランクで受かるかが問題なのであって、受かるかどうかは、心配してない!” と軽く交わされてしまいました。

 今となっては、彼女の、この自信過剰と過信が何よりも心配です。

 社会に出れば、本人だけの努力では、どうにもならないこともたくさんあります。
何もかもできる人など、いないのです。

 人は、己の力を過信して、慢心した時、ろくなことにはならないことを、これからの彼女がどうやって学んでいけるのか、今は、そんなことを心配しています。

 




2019年9月19日木曜日

フランス人は、小学生から万年筆を使う





 現代は、ボールペンだろうと、万年筆だろうと、もはや、手書きをすること自体が少なくなっている時代ではありますが、娘の通っていたフランスの学校では、小学生から万年筆を使わせていました。

 もちろん、ボールペンや、鉛筆なども使っていましたが、メインは、万年筆なのでした。その話を以前、弟にしたら、”さすが、おフランス!小学生から万年筆!” とからかわれたことがありますが、まさに、これも、おフランスの一部分なのではないかと、私は、思っています。

 万年筆を重用し、小学生から授業に使わせたりするのは、きっとフランス人の美学の一つでもあると思うのです。フランス人でも、年長になればなるほど、その類の美学は強いのではないかと思います。我が家にもその年長者が約一名。

 カッコいいスーツに身を纏った男性が、胸元からスッと万年筆を出して、サラサラ〜ッとサインする・・なんか、スマートで素敵ではありませんか?

 もちろん、女性とて同じです。私のかかりつけの美しい女医さんも革張りの下敷きにペーパーを乗せて、処方箋を万年筆で書いてくれています。

 しかし、ことさら、女性と比べて、アクセサリー類をつけることが少ない男性にとって、また、特に、ある一定の年齢以上の男性の間では、万年筆は、ひとつのおしゃれなのではないかと、私は、思っています。

 まあ、実際には、それがピッタリと似合う人にも、なかなかお目にかかれないのも事実ですが・・。

 でも、たまに見かけると、ちょっと気を引かれます。

 私の主人などは、仕事にはパソコンを使って、資料を作ったりは、していますが、大事な人に書く手紙やカードなどは、万年筆の手書きです。主人が使っているのは、そんなに高級でおしゃれな万年筆ではありませんが・・万年筆で書くということに、こだわりがあるようなのです。

 しかも、色にもこだわりがあり、ブルー、ブルーブラック、黒、濃い紫色など、相手や、手紙の内容などによって、色まで使い分けています。しかも、主人の外観には、およそ似つかわしくない、繊細で綺麗な字を書くのです。

 まったくもって、字は体を表してはいないのです。

 主人は、SNSも使いますが、敢えて、手書きで手紙を書くことも少なくありません。

 特に子供には、下手くそな絵などを混じえて、よく手紙を書いています。

 また、本を買ってくると、必ず、本の裏表紙に日付と子供の名前を入れて自分のサインも残したりもします。これも万年筆です。

 このITの時代に、なんともアナログな話ですが、私は、決して嫌いではありません。

 

 




2019年9月18日水曜日

一人暮らしのフランス人の若い世代は料理をしない




 娘が一人暮らしを始めて、一年が過ぎました。

 家では、ほとんど家事らしいことは、してこなかった娘ですが、一人となると、何から何まで、自分でやらなければなりません。

 家にいれば、何もしない娘で、全く一人暮らしなど、憧れていたわけでもなかったようですが、いざとなれば、仕方ありません。

 特に、食い意地の張ったDNAを受け継いでいる彼女は、一人暮らしを始めても、何をおいても、食べ物には、決して、妥協せず、(もともと彼女は、ファーストフードなどが嫌いなのです)自分の好みにあったものを栄養のバランスを考えながら、月々のやりくりをしながら、頑張ってやっているようです。

 娘は、シェアハウスのようなところに住んでいるので、部屋はそれぞれ独立してはいるものの、キッチンやテラス等は、共有なので、必然的に、周りの同居人の食事にも度々、遭遇するのです。

 彼女が驚いているのは、フランス人の若い子の一人暮らしは、ほとんど、料理らしい料理をせずに、野菜などは、ほとんど食べずに、非常にバランスの悪い食事をしているということでした。

 若い子に限らず、フランス人の一般家庭の食事は、とても、質素なのです。

 日本人の食卓は、世界的にもレベルも高くて、非常にハイスペックだということが話題にもなっていますが、彼女は、それを家の外に出て、目の当たりにしたようです。

 私が最初に、引っ越しの際に大家さんに挨拶がてらに、そのシェアハウスを見に行った時も、キッチンや冷蔵庫の中をのぞいて、???と思った印象が実際にそのとおりだったわけです。

 私がのぞいた時には、みんなの共有だという冷蔵庫には、たくさんのペットボトルに入った水と、中をくり抜いたスイカの皮と(なぜ、これを取っているのだろうかと思いましたが)リンゴがいくつか入っているだけでした。

 娘によれば、みんな、朝は、パンかセレアル(シリアル)、夜もハムかパンとスープ、作ったとしても、パスタ、パスタを茹でて、バターかチーズをかけるだけ、良くて、市販のソースをかけるだけ、たまに、見かけるとすれば、カルボナーラ(フランス人の好きなベーコンとバターや生クリームまみれにしたもの)なのだそうです。

 あとは、テイクアウトのファーストフード、(そうは言っても、日本のように、ちょっと出れば、コンビニやお弁当屋さんがあるわけでもない)や、ウーバーイーツ頼り。

 彼女曰く、みんな、あまり、食べることに興味がないみたい・・なのだそうです。

 「美食の国、フランス」などと言われていますが、実際は、こんなもんです。

 

2019年9月17日火曜日

隣人のフランス人のおばさん




 そういえば、私は、彼女の名前も知りません。
お隣のおばさん。うちでは、彼女のことを、そう呼んでいます。

 私たちが、今のアパートに引っ越してきたときには、彼女は、もうすでにそこに住んでいましたが、その時に、初めて見かけた女性は、彼女ではありませんでした。

 引っ越してきて、早々に、エレベーターの前で、たまたま鉢合わせした女性は、" ここには、3人の女性が住んでいるのよ!" と言っていましたが、それは、彼女ではありませんでした。

 しかし、実際の家主の隣人は、パリ市内の病院に勤務しているという年配の女性でした。彼女は、離婚していて、もうすでに独立している息子さんが、時々訪ねていらっしゃるのですが、ちょっと風変わりな息子さんで、とても、優秀ではあるらしいのですが、メンタルな問題で入院歴があるとかいう話を主人がどこからか、聞きつけてきて、少し、気をつけた方がいいなどと言うので、あまり、近づかずに適当な距離をとっていました。

 一方、彼女の方は、そんな様子は、微塵も見せずに、なぜか、私と朝の出勤時間や帰宅時間がかち合うことも多く、世間話をする機会が度々ありました。

 彼女は、独特なオリエンタルな感じのファッションに身を包み、部屋着はサテンか何かでできたアジアティックな着物のようなものを着て、不思議な雰囲気を醸し出している人でしたが、これまで彼女に対して、嫌な感じを抱いたことは一度もありません。

 人の好き嫌いが激しく、大変、気難しく、家を出たがらない猫のポニョは、お隣だけは、別のようで、まるで、自分のセカンドハウスのように、ベランダ伝いにお隣の家に勝手に上がりこんだりしていて、ポニョだけは、頻繁にお隣に出入りしていました。

 おばさんも猫好きで、結構、ポニョのことを可愛がって下さっているようでした。

 ある、日曜日に、我が家は、主人と娘と三人で、ヴァンセンヌの森に散歩に出かけて、手漕ぎボートに乗っていた時のことでした。

 池にかかった橋の上から、「ヴォアザーン(お隣さ〜ん)!」と大声で誰かが叫んでいるではありませんか? 
 振り返ると、橋の上から、彼女が友達と一緒に大きく手を振っていました。

 改めて、彼女の大らかさに、なんだか、ほっこりとした気持ちになりました。

 何年かすると、3人いると言っていたお隣の住民の女性二人はいなくなり、彼女だけになっていましたが、彼女には、頻繁に訪れてくるお友達が何人かおりました。その中には、ボーイフレンドもいたようです。

 たまに、私が気が向いて、ピアノを弾いたりしていると、お友達ともども、ベランダに出てきて、弾き終わると、”ブラボー!!” などと、声をかけてくれたりしました。私としては、子供の頃のお稽古事の延長のようなピアノのレベルなので、とても恐縮したものです。

 そんな彼女が数ヶ月前に、突然、引っ越すことにしたと言いにきました。もう、リタイアするので、ノルマンディーの方に持っている家の方に移るとのことでした。

 長いこと、付かず離れずで、良い関係を保ってきたので、とても残念でしたが、これも仕方ありません。彼女は、私たちがバカンスに出ている間に引っ越して行きました。

 そして、夏のバカンスが終わってまもなく、新しい隣人が引っ越してきました。
どうやら三人家族のようですが、顔を合わせれば、たまに挨拶をする程度で、まだ、詳しいことは、わかりません。

 初めは、もしかしたら、動物嫌いの人かもしれないし、ポニョが今までのように、図々しくお隣に入り込んだりしては大変と思って気をつけていたのですが、予想に反して、ポニョは、パッタリと隣の家には、行かなくなり、ベランダにさえ、出ないようになってしまいました。

 ポニョが何を察知しているかはわかりませんが、ポニョの様子を見て、私まで、なんか少し警戒してしまっています。

 隣人は選べないので、ご近所トラブルは、ご免被りたいのです。

 こうなってみると、あのヴァンセンヌの橋の上から”ヴォアザーン!(お隣さーん)”と手を振ってくれた大らかなお隣のおばさんが懐かしく思えてくるのです。












2019年9月16日月曜日

アカの他人の外国人のオッサンと暮らしている不思議




 私は、今でも娘によく言われます。「ママは、どうしてパパなんかと・・・。」と。

 その人の娘にして、パパなんか・・と言わせるのには、理由がいくつか思い当たりますが、まずは、主人が私とは、けっこう年の離れたオッサンだということがあるのだと思います。

 先日、「アカの他人のオッサンと暮らす人」という記事のタイトルを見て、ああ、そう言えば、私もアカの他人のオッサンだった人と暮らしている・・と思ったのです。

 まあ、言い方は悪いですが、大抵の場合、誰でも最初は、アカの他人です。
それが、オッサンかどうかは別として・・。
 
 私が主人と出会ったのは、青山で行われていた在日の外国人が集まるパーティーでのことで、私は、イギリスから戻った後に、英語を使う機会を持ち続け、何とか、英語のレベルを落とさないようにと思って、時々、顔を出すようにしていました。

 そこで、私が驚いたのは、来ている外国人たちが、あまりにも日本語が上手なことでした。その中でも主人は、ひときわオッサンで、ガタイも良く、派手で、最初は、” このオッサン、マフィアかい!”と思ったほどで、日本語が下手、というよりも日本語をほとんど話しませんでした。

 パーティーがお開きになって、その中の数名と、次へ行こう!という話になり、何人かと出かけたうちの一人だったのです。

 周りのイングリッシュネイティブの人に比べて、英語もあまり上手でもなく、英語圏の人ではないなと思っただけで、(自分の英語のことは、棚あげにして。)(後から考えれば、フランス語訛りの英語でした。)どこの国の人かということも、私は、あまり興味もなく、ただ、顔を合わせたら、話すという程度でした。

 しかし、何回か話すうちに、そのオッサンとは、英語で話しているにも関わらず、話が次から次へと出てきて、いくらでも話すことができたのです。

 普段、あまり、饒舌でもない私が、見ず知らずのアカの他人の外国人のオッサンと、こんなに話が弾むことが、だんだんと楽しくなっていったのです。

 主人は、別に、特にブサイクと言うわけではありませんでしたが、なんといってもオッサンでしたから、私が主人と親しくなったのも、私が特に面食いでもなかったこともあったかもしれません。

 その頃は、私は、フランス語の知識は、ほぼ、ゼロに等しいくらいだったので、電話をしてきて、”アロー”(フランス語は、Hを発音しないために、ハローではなく、アローと発音します)とかいう主人に、”この人、ハローも言えないんだ・・”などと思っているくらい、フランスにも、フランス語に関しても、無知でした。

 むしろ、私は、フランス語は、どんな言語よりも苦手で、フランス語だけは、絶対やるまいと思っていたくらいです。最初から、主人がフランス人だとわかっていたら、あまり、話すこともなかったかもしれないくらいです。

 最初のきっかけは、そんなでしたが、紆余曲折を経て、私は、アカの他人のオッサンだった主人と一緒に暮らすようになり、結局は、フランスで今も暮らしているのです。

 今、冷静に考えれば、どこの国の人かもわからない、アカの他人のオッサンと海外暮らしをするなんて、私もどうかしていたとも思うのですが、その時点では、アカの他人であることも、その人がオッサンであることも、気にならなくなっていたのですから、人生は、わかりません。

 娘が改めて、不思議そうに言うことが、もうひとつあります。
” パパは、自分のことが、すごくカッコいいと思っているよね。どうしてだろう?” と。

 娘にとっては、私が、アカの他人の外人のオッサンをパートナーとして選んだのと同じくらい、不思議なことのようです。



 

























 

2019年9月15日日曜日

フランス人の離婚と再婚 ママ母の気持ち




 フランスは、離婚率の高い国で、約30%、3組のうち1組、パリでは、約50%、2組に1組が離婚すると言われています。

 しかし、その離婚した人たちの四分の一は再婚するとも言われているのです。

 つまり、離婚もするが、再婚もする、懲りない人たちなわけです。

 そう言われてみると、私の知っているフランス人女性にも再婚組の人が何人かいて、それぞれの結婚で、子供を産んでいます。話を聞いていると、一回目の結婚での子供だったか、2回目の結婚での子供だったか、わからなくなることさえあります。

 ただ、よくよく聞いていると、子供の年齢に年の開きがあったりするので、そこで、何んとなく、わかることになりますが、まあ、結果的に2度とも離婚している彼女にとったら、もはや、それが、どちらの子供だったのか?ということは、さして、問題にしていない風でさえあります。

 日本人だったら、子供のために、仲の悪い夫婦が離婚しないでいるという話は、よく聞きますが、フランス人の場合は、仲の悪い夫婦は、一緒にいないようです。

 そういう我が家も、主人には、前の奥さんとの間に3人の男の子がいて、上の二人は、かなり年が上なので、滅多に家に顔を出すこともありませんでしたが、下の男の子は、私たちがフランスに来た時点では、まだ小学生で、月に2回、週末は、主人が会いに行くか、その子が家に来ていました。

 主人の前の奥さんは、かなり、宗教にのめり込んでいる方だったらしく、離婚の理由もそんなところにもあったようですが、普段は、一緒に住んでいる子供たちも、かなり宗教の縛りを受けていて、日々のお祈りはもちろん、週末の礼拝などの宗教活動、慈善活動、テレビ、雑誌、ゲーム類は、一切禁止という規制の多い生活を強いられていたせいか、家に来た時には、のびのびと、好きなテレビを見たり、ゲームをやったり、お父さんに会えるということだけでなく、のびのびと自分の好きなことをやれるという楽しみがあったようです。
 お母さんに見つかると取り上げられてしまうために、家に持って帰れないゲームなどは、家に置いたままになっていました。

 その子の方もカラッとしたもので、大して遠慮するということもなく、かえって、こちらも気兼ねなくいられて、いいなぁなどと感じていました。

 ところが、私も仕事を始めて、だんだんと仕事も忙しくなり、娘もだんだんと成長してきて、休みの日などは、娘のお稽古事の予定がびっしりと入るようになってからは、その送り迎えもなかなか大変で、家の中でも休みの日には、やることが山積みで、私にも余裕がなくなっていた頃でした。

 連休かなにかで、家に彼が家に泊まりに来ていた時のこと、私は、彼の存在が、なんだか煩わしいなと思う気持ちが私の中で芽生えていることに気が付いたのです。自分の中のそんな感情に気付いた時に、これってママ母の気持ちなのかな? これがエスカレートすると、ママ母イジメみたいなことが起こるのかしら?と思い、ハッとさせられたことがありました。

 これは、いけないと思った私は、自分の余裕のない状態をそのまま主人に話し、主人もそれを納得してくれたことで、私も気分がスッキリして、事態は、それまでよりも好転し、私も普通に接することができるようになりました。

 同じことでも、主人が理解してくれると思うだけで、気持ちの向きが変わってくるものです。

 それにしても、色々煩わしいことが付随してくるにもかかわらず、離婚、再婚を繰り返すフランス人の逞しさには、感心させられるばかりであります。



























2019年9月14日土曜日

パリのガイドさんのリッチな生活




私は、パリの日本人のガイドさんを少し、知っています。

 といっても、私の知っているガイドさんの多くは、すでに引退されている方が多いのですが、その世代のガイドさんは、日本のバブル期の日本からの観光客を一手に担っていた方々なので、大きな財産を築かれました。

 もともと、パリのガイド料金は、高いことでも有名です。
 それが、大きなツアーでは、ひとグループ30人くらいのグループが1日に、何十本もひっきりなしに来て、ガイドさんもパリ市内観光を午前、午後のダブルヘッダーで働いていたのですから、パリの日本人観光業界も、それは、それは、バブルに湧いていたのだと思います。

 実際のガイド料ではなく、ツアーにまつわるチップやコミッションだけでも、十分に生活できるほどであったのではないかと思います。

 もとより、フランス政府の公認のガイドのライセンスを取得するのは、そう簡単なことではありません。フランス語の能力はもちろんのこと、英語、正しい日本語、マナー、それから、フランスの歴史、美術史、代表的な歴史的建造物に関する知識も必要です。

 ですから、ガイドさんには、日本でも高学歴な方も多く、プライドも高く、独特な世界観を持たれている方が多いです。

 男性、女性ともに、きちんとした身なりではあるのですが、特に、女性は、そのメイクやファッションにも独特なものがありました。なかなか、日本では、見かけないような、メイクやおしゃれの仕方です。

 経済観念もしっかりされている方が多く、不動産投資をして、パリに何軒もアパートを持っていらっしゃる方や、ガイド御殿と揶揄されるほどの素晴らしいアパートに住まわれていたり、ニースやビアリッツなどに別荘を持っていらしたり、引退した今でも、悠々とした生活を送られています。

 現在では、日本のバブルも弾けて久しく、日本人の団体観光客も少しずつ減り、その旅行の仕方も代わり、旅行会社も経費節約で、ツアーでも、パリ市内観光などでは、ガイドさんをつけずに、日本から同行する添乗員さんがガイドを代行するものが多くなりました。

 現在のガイドさんのことは、よくわかりませんが、今、ツアーの需要が多いのは、モンサンミッシェルへの日帰り。

 モンサンミッシェルは、世界各国からの観光客の中でも、日本人が最も多いと言われるフランスの観光地ですが、パリからの距離を考えると、普通、フランス人なら、とても日帰りする距離ではありません。

 それを日本のツアーの多くは、日帰りで、朝早くにパリを出て、延々とバスに揺られて現地にいるのは、昼食も入れての2時間ほどで、パリに戻るのは夜になります。
まあ、言い方は悪いですが、ほとんどバスに乗りに行くようなものです。

 当然、パリ市内観光などと比べると、ガイドさんの拘束時間も長くなり、体力的にもキツいと思います。実際に、若いガイドさんが、もう、モンサンミッシェル日帰りツアーは、きつくて大変!と言っていたのを聞いたことがあります。

 しかし、時代の波というのは、スゴいものです。

 その一期間の潮流に乗れたガイドさんたちは、今では、悠々とした老後を送っていらっしゃるのですから。




















2019年9月13日金曜日

子育ての不安




 初めてのお産、子育てとなれば、誰でも不安なことがいっぱいあるのは、当然です。
 私も少なからず、不安はありました。

 ましてや、私の場合、お産は、アフリカでしたし、実家も遠いし、病院も、日本のように、母親学級や、詳しいお産の説明もなく、一応、万が一に備えて、一応、遺言めいたことまで書いたりしました。

 しかしながら、私は、妊娠中は、ひたすら眠くて、寝てばかりいましたので、あまり、深刻に考え込むということもなく、ひたすら、お腹の子供に話しかけていました。

 そして、実際に産まれてみれば、赤ちゃんというものを触るのも初めてだった私は、おっかなびっくりで、うっかり落としたら大変!などと思いつつも、アフリカで天気も良いし、洗濯してくれるボーイさんもいるのだから布のオムツにしよう!などと、思いついてしまって、特に、最初の一ヶ月は、そのオムツとミルクのルーティーンに慣れるだけでも必死でした。

 しかし、慣れてくると、うるさく言う外野もいないので、かえって、自分のペースで、周りの赤ちゃんやお母さんとも比べることもなく、まあ、こんなもんかな〜?と構えていました。

 そして、何よりの私の強い味方は、偶然、知り合いになった助産師さんをしていた日本人の女性の存在でした。

 彼女が必要なことだけを的確に教えてくれたおかげで、私は、余計な心配はせずにいられたのです。大らかな彼女がゆったりと構えていてくれたおかげで、当事者である私もなんだか、ゆったりしていられたのだと思います。

 まあ、育てる環境や子供の個性にもよるので、人それぞれではあるとは思うのですが、あまりに、情報が多すぎると、少しでも、その情報と違ったりすると不安になるものです。

 子供があまりミルクを飲まないとか、寝ないとか、体重が何キロ増えたとか減ったとか、極端な場合は、別として、お腹がすけば、ミルクも飲むし、疲れれば、眠くなって寝るのです。

 もう少し、大きくなってからも、娘は、なぜか、なかなか髪の毛が伸びず、歯も2歳になるまで一本も生えてきませんでした。

 それでも私は、髪の毛は、伸びなければ切らずに済むし、歯に関しては、生えてくるまでは、虫歯にもならないし、歯はなくとも娘は、ワシワシと何でも食べていたので、まあ、いつか生えてくるだろうと全く心配しませんでした。

 案の定、娘の歯は、2歳になると同時に一気にドバッと生えてきました。

 また、娘は、寝るのが何よりも嫌いで、お昼寝もしたことがありませんでした。何とか疲れて寝てもらうために、日中にエネルギーを発散させるのに苦労しました。結果、それが、ますます彼女を鍛える結果となり、生半可なことでは、疲れて寝ないようになってしまいました。

 育児と仕事に疲れ気味で私の方がお昼寝をしたくても、”娘に寝ないで〜!寝ちゃダメ〜!” などと揺り起こされるのは、拷問のようだと思ったこともありました。

 しかし、のちになってみると、それが、体力、気力、学力にも繋がり、良い結果となりました。フランスのバカロレアの試験などは、一科目4時間のテストです。体力のない子は、集中力も長時間、続きません。

 それより、私が何よりも心配だったのは、子供が情緒不安定になって、バットを振り回して暴れたり、人を傷つけるようなことをする子供になったら、どうしよう? ということでした。

 私の親戚に、保育の専門家がいて、そのことだけは、聞いたことがありました。

 それは、ハッキリとは、原因も対策も言えないけれど、子供のうちは、とにかく身体を動かして、エネルギーを発散させること!とのことでした。

 ですから、私は、心して、娘をスポーツに駆り立て、主人が休みの時には、グラウンドに連れて行って走らせ、私が休みの時には、プールに連れて行って、水の力までも借りて、娘のエネルギーの発散に努めていました。

 さらに大きくなってから、私が気をつけたことは、娘を人と比べないということでした。人と比べて良いとか、悪いとか言われても、子供は、何が良いのかわからなくなってしまいます。

 親が、いちいち他の子供と比べて一喜一憂していては、子供もたまったものではありません。

 子育てには、その段階ごとに、それなりに不安はあるものです。
 しかし、心配しすぎは禁物です。

 だいじょうぶ、だいじょうぶ。

 親が子供を愛していること、一番大切な存在だということが伝われば、子供は、しっかり育ちますから。










 

 

 











 

2019年9月12日木曜日

パパのダイエット メガネをかけた大きなねずみ




 私の主人は、体格が良くて・・というのは、かなり、控えめな言い方ですが、要するに、ダイエットが必要な体型です。

 とにかく食べることが大好きで、また、好きなものが高カロリーのものが多く、そして、フランス人らしく、ことさら好きなものがチーズとパンで、食べるとなると、半端ない量を食べてしまうので、チーズの買い置きなどは、全くもって出来ません。

 私は、自分の父が食べ物に関しては、とても、うるさくこだわる人で、自分の口に合わないものがあると、クソミソにけなすので、一緒に食卓についていた私たちまで、嫌な気持ちになるような環境で育ったので、とにかく、何でも、美味しい美味しいと言って、楽しく食事ができる主人のような人は、とても、いいなぁと思ったのです。

 しかし、主人は、その度を越しており、健康に差し障りのあるレベルになってしまったのです。

 もともと、主人は、私と出会うずいぶん前に、大きな交通事故に遭っており、その際に脾臓を摘出している上に、輸血の際に肝炎にかかってしまっていたのです。

 その上、これは、家系から来ていると言っていましたが、糖尿病でもあり、インシュリンの注射もしていました。

 ですから、本当は、ワインもダメ、塩分、糖分なども、かなり抑えなければならず、厳しいダイエットをお医者さまからも言い渡されていました。

 体調を崩して入院した後には、病院の管理栄養士の方から、指導を受け、何やら、サーモンピンクの色をしたお皿を買ってきて、これに少しずつのポーションに分けて食べるようにと言われたとかで、最初のうちは、子供のように、満足そうにそのお皿を使って、得意げに食事をしていましたが、そのうち、それでは、飽き足らずに、野菜スープをせっせと作っては、カサ増しをしていました。

 私も、紫のキャベツが良いと言われれば、せっせと紫キャベツを細かく刻んで茹でて用意したり、味の薄い肉なしポトフのようなものをお鍋いっぱいに、作り置きをしたりしていました。

 その、あまりの量に、私は、動物園の飼育員にでもなったような気持ちでした。

 それでも、育ち盛りの娘には、そんな食事をさせるわけにもいかず、私としても、和食が恋しかったりして、同じテーブルを囲んで、違うものを食べたりするのも気まずく、何と言っても、大の大人に食べ物の制限をするのは、とても嫌なことでした。

 しかし、夜中になると、主人は、ゴソゴソと冷蔵庫を漁ったりしていましたので、その度に、翌朝になって、「あ〜!また、ネズミにやられた〜!!」などと、半分怒りながらも、家では、笑い話にしていました。

 ある日、娘の幼稚園で、親子面談があり、主人と娘が二人揃って、出かけて行きました。その席で、ひとしきり、先生が、幼稚園での娘の様子などを話したあとで、主人に対して、「ご家庭で、何か問題になっていることは、ありますか?」と尋ねられたのです。

 すると、すかさず、娘が先生に向かって、大真面目な顔をして、「うちには、大きなネズミが出るんです!」と言ったのです。

 先生は、困惑して、黙ってしまったそうです。

 内心、なんて、不衛生な家なのだろうと思ったのかもしれません。

 困惑している先生に、主人は、「メガネをかけた、大きなネズミなんです。」とバツ悪く白状したそうです。

 











2019年9月11日水曜日

義兄夫婦のフランス人の家族




 主人には、血の繋がりのない歳の離れた兄がいて、パリ郊外に暮らしています。

 血の繋がりがないというのは、主人のご両親に長いこと子供ができずにいたため、養子縁組をしたお兄さんだからなのです。

 ところが、養子を迎えて、しばらくした後に、ひょっこり子供ができたのだそうです。それが、主人です。ですから、主人とお兄さんは、全く似ていません。

 主人は、大きくて、体格も良く、(良すぎて多少問題あり)どちらかというとイカつい感じなのですが、お義兄さんは、小柄で優しい感じの人です。

 フランスでは、子供のいないカップルが養子を取るケースは、日本に比べると、少なくありません。娘の高校まで、仲良くしていたクラスメイトにも、養子として引き取られて育った女の子がいます。

 お義兄さんの奥様、つまり、お義姉さんは、彼女が若い頃に、彼のお母様に見初められてお義兄さんと結婚したのだそうです。

 ですから、主人は、学生の頃から、独立するまでの間、ご両親とお義兄さん夫婦と、長いこと、一緒に暮らしてきたので、ある意味、お義姉さんは、主人にとっては、お母さんのような存在で、歳をとってもなお、お母さんに対して、わざと偉そうに振る舞いながらも甘えているダメ息子のようでもあり、また、お義姉さんの方も何かと主人を甘やかすようなところがありました。

 私が主人と出会った頃には、もう、主人のご両親は亡くなられていたので、私にとっても、お義兄さん夫婦の家は、主人の実家のような存在でもありました。

 お義兄さんは、主人と顔かたちが似ていないだけでなく、生活の仕方もまるで違っていました。

 主人と義兄が歳がかなり離れていた上に、主人と私もわりと歳が離れているので、主人の甥や姪が私と同じ年頃でした。

 海外を飛び回って仕事をしていた主人とは違って、義兄は、工場勤めで、フランスをほぼ出ない生活で、お義姉さんは、事情で親が育てられない子供を家で預かる仕事をしていました。

 二人で広い庭のある大きな家を構えて、今はもう独立している自分の子供たち4人を車ですぐの場所に住まわせて、日曜日や事あるごとに、家族みんなが子供を連れて、集まってくるというような生活を送っていました。

 子供たちは、皆、学校を卒業とともに、地元の銀行やRATPや警察官といった手堅い安定した仕事につき、早々に結婚し、子供を持ち、それぞれの家を構え、両親を囲むように、さらに大きな家族になって幸せに暮らしています。

 私たちも、フランスに来て、しばらくの間は、彼らの家の近くに住んでいました。

 フランスに来たばかりで右も左もわからなかった私も、まだ赤ちゃんだった娘を抱えて、主人も体調が悪かったりもして、辛かった頃、何かとお義兄さん夫婦の家にお邪魔しては、ご馳走になったり、お料理を教わったりして、どれだけ彼らに救われたかわかりません。

 特にお義姉さんは懐が大きく、とても暖かい人でした。
 いつも、たくさんの食事を用意して、淡々と家事をこなし、いつも笑顔で、少しも威張ることがなく、私たちが行くと、いつも、” 食べなさい!食べなさい!” と食事を促し、自分も一緒に食事をとり、なぜか、バゲットは中の白い部分さえ食べなければ太らないと思っているような可愛いところもある人でした。

 ですが、私が仕事を始めてしばらくして、私も主人も勤め先がパリだったこともあり、フランスの交通事情もあり、通勤が大変で、娘の学校や教育のことなども考え、今の家に引っ越してからは、彼らの家に行く機会も減ってしまいました。

 主人とお義兄さんは、同じ家庭に育ちながら、生活の仕方も子供の教育に対する考え方などもまるで違います。しかし、決して、仲が悪いわけでもなく、何かあれば、連絡をとって、お互いに、支え合っていました。

 生活や考え方などが違っても、そして、たとえ本当は、血縁関係さえなくとも、やっぱり、家族であるということを思うに、家族というものは、血のつながりではなく、一緒に過ごしてきた時間なのではないだろうか?と、義兄と主人との関係を見る度に、つくづく思わされるのです。












2019年9月10日火曜日

外交官生活の後にうつ病になったフランス人の夫 普通のおじさんになれなくて・・




 私の夫は、長いこと外地勤務をしていたフランス人の外交官で、私が主人と出会った時も、彼は、日本のフランス大使館に勤務していました。

 とはいえ、外務省からの外交官ではなく、財務省から派遣されている一人の公務員で、いつかは、フランスに戻らなければならない身でした。

 と言っても、外国勤務の間の肩書きは、外交官なわけで、外交官待遇の生活を長くしてきていたのです。

 日本勤務を終えた後は、アフリカの勤務になったわけですが、数年のアフリカ勤務の後には、元のフランスの財務省に戻ることになったのです。

 私自身が、大使館勤務をしていたわけではないので、詳細は、はっきりとは、わかりませんが、大使館というのは、外国にありながら、本国同然の治外法権の領域であり、その中での外交官特権と言われるものは、外国にいながら、かなり、特別な位置付けになるのです。

 また、本人も仕事に対しても、かなりの力の入れようで、日本にいる間などは、本当に日本人以上に昼夜なく働き、自分の仕事にもやりがいと誇りを持っていたのだと思います。

 パスポートも一般人とは違い、車も日本で言えば、ブルーのナンバープレートを付けている車は、外交官の特権で守られた車で、税金などの扱いも違っています。

 アフリカにいた頃には、DIP(DIPLOMA)SHOPという外交官専用の、食料品から食器、電気製品などの広範囲にわたる外国の製品を多く扱うお店があり、一般の人は、買い物をすることが出来ません。

 とにかく、そんな生活を長くしてきた主人は、フランスの財務省に戻ることがショックなのと同時に、普通の一般人に戻るのに酷く抵抗があり、側にいる私としては、” なんて不遜な人なの?"、 ” 一体、あなたは、なに様のつもりなのですか?” と、どれだけ、夫と話し合いをしたことでしょうか?

 フランスに戻って、半年から一年くらいの間は、主人は、うつ病のような状態で、普通のおじさんの生活に戻るのには、かなりの時間がかかりました。

 娘が産まれたばかりだというのに、主人は、鬱々として、夜中に息苦しさを訴え、救急車騒ぎで入院したりしたこともありました。病院では、鬱状態からくる呼吸困難との診断で、本人も苦しかったと思います。

 仕事も休みがちで、それに輪をかけるように、娘の国籍のことなど、アフリカでの出生証明書の不備などもあって、難航し、外国で産まれたフランス人の子供の国籍の扱いは、全て、ナント(フランスの西部、ロワール川河畔に位置する都市)の管轄で、なかなか進まない手続きに業を煮やして、ナントまで、夫の兄夫婦と共に車で出かけたこともありました。

 問題は、山積みで、主人が鬱状態から回復するには、それなりに時間がかかりました。

 それでも、娘は、まだ、赤ちゃんで、毎日毎日の生活は、淡々と続いていきました。

 娘は、そんな中でも、無邪気に成長し、そんな娘の成長が私たちを救ってくれました。

 娘の国籍問題が解決して、私もどうにか仕事を見つけた頃から、ようやく主人は、普通のおじさんの生活に戻り始めました。

 娘の保育園、学校などに顔を出すようになると、すっかり元のフランス人のおじさんに戻っていきました。

 人間、特別扱いを受けるには、本当に心して、自分を戒めなければならないと身をもって感じさせられた次第です。

 普通が一番。

 普通の生活を当たり前に送れることが一番、幸せなのです。

 
















2019年9月9日月曜日

パリに住む外国人の同僚たち




フランス、特にパリには、もはや、純粋なフランス人よりも、外国人の方が多い気さえするほど、外国人の多い国ではありますが、あえて、ここでは、国籍というよりも、出身としてお話しすることにさせて頂きます。

 ちなみに、やたらとフランス国籍を取りたがる外国人が多いのにも、驚きでした。
(特に中国人は、フランス国籍を取ることが前提、当たり前というような感覚なのには、驚きました。)

 もちろん、フランスに住んでいれば、確かに、フランス国籍を持っていた方が暮らしやすいということもあるのですが、私は、国籍、パスポートは一つで充分です。
 日本は、二重国籍が認められていませんし、日本で充分に満足しています。

 私の職場には、フランス人だけではなく、やはり、多くの外国人が働いていました。
ですから、みんなの共通語はフランス語ですが、一緒に仕事をしていると、それぞれのお国柄が垣間見れることが、多々ありました。

 ロシア人は、比較的、大人しくて、日本人と遠くないものがあるなという印象を持ちました。彼らは、意外にもフランス語が上手な人が多いことと、(これは、ロシアの学校教育によるものらしい)反面、英語があまり得意ではないこと、美しい人が多いこと、DVの被害にあっているらしい人がいたことが印象に残っています。
(これは、たまたまかもしれませんが、何人か同じ会社にいたロシア人の中で数人見かけたので、そんな印象を持ってしまいました。)

 中国人に関しては、入れ替わりも激しかったので、特に印象に残っている人たちに関してですが、私が一緒に働いていたのは、いわゆる中国での一人っ子政策時代の人たちだったためか、とても大切に育てられてきた感じで、優秀でもありました。
 とても前向きで、我慢強く、頑張り屋さんのイメージです。

 ブラジル出身の人は、大らかで、姉御肌の人で、とにかく明るく、感情表現が派手。

 そんな、色々な国から来ている人たちが集まる職場では、お昼どきになると、皆、ランチを、持参してくる人が多かったので、各国のお料理にもずいぶんとお目にかかる機会がありました。

 日頃、レストランでは、お目にかかれないような、各国の家庭料理のようなものにお目にかかれて、とても楽しい時間でした。

 だいたい皆、忙しく働いているので、持参するのは、前日の食事の際に多めに作ったものが多いのですが、やはり、フランスに住んでいても、自分の国の食事を食材などを、何とか苦労して手に入れたり、工夫したりしながら、自分たちで作っているのだということを目の当たりにして、何だか、ほっこりするような気持ちでした。

 それぞれが、”それ何? ちょっと、それ、味見させて! どうぞどうぞ、食べてみて!” とか言いながら、和気あいあいとしながら、食事の時間を楽しんでいました。

 タイ人などは、ビックリするくらい辛いものを平気で食べ、ほんの小さな子供の頃から、辛いものを食べているのだとか・・・。

 そんな光景を見ていると、外国に来て働いていても、皆、それぞれが、その国のコミュニティーに少なからず、依存し合いながら、特に食事に関しては、そのルーツを追求しつつ、懸命に生きていることを愛おしく感じます。

 そして、どこの国の人がどうということではなく、同じ、外国人としてフランスに住む者同士の連帯感さえ感じることもあります。だって、外人として他の国に住むということは、それぞれ、皆、多少の差はあるにせよ、色々な苦労があるからです。

 例にもれず、私も工夫しながら、フランスでも日本食をせっせと作っています。

 そんな中にいると、フランスでは、当たり前に手に入るもので、見慣れているせいもあるのかもしれませんが、フランス人の持ってくるランチが、一番つまらなく感じたりもするのであります。









2019年9月7日土曜日

入学式も卒業式もないフランスの学校





 フランスの学校の新年度は、9月に始まります。

 8月に入ると、スーパーマーケットなどでは、新年度用の学用品売り場のコーナーが設けられ、子供連れの親たちが、学校から、配られている学用品のリストを片手に買い物する光景が見られます。

 フランスでは、ノートや筆記用具等の文房具類を学校で一律に揃えるということはなく、各自が○ページある○行のノートとか、マス目が○ミリの用紙だとか、○色のボールペンだとか、それは、細かく指定されている新年度の学用品集めは、ひと仕事です。
 
 一定の量の同じものが必要ならば、まとめて学校が仕入れるか、業者が参入しても良さそうなものに思いますが、いつまでも変わらない、長い間のフランスのしきたりのような行事の一つです。

 そんな、フランスの学校には、入学式も卒業式もありません。
しれ〜っと、始まって、いつの間にか終わっている・・。そんな感じです。

 娘の小学校の入学のときは、私は、そんなことも知らずに、学校が始まる当日の朝に、主人と学校まで娘を送って行って、ちょっと顔を出して、そのまま、仕事に行くつもりでいました。

 学校の門の前には、先生が数名、” ここから先は、子供以外は入れません ! " と、父兄の前に立ちはだかっていました。

 ちょうど、その時、娘は、よりにもよって、顔が赤くかぶれてしまっていて、不憫に思っていたこともあり、さぞかし、心細いだろうと、私の方が、うるうるしてしまいました。

 主人も前日から、娘の洋服にアイロンをかけたり、学校へ持っていくものを揃えたり、靴を磨いたりと大張りきりだったのに、娘があっさりと、すたすた、こちらを少しも振り返ることもなく、学校へ入って行ったのには、大いに、物足りなさそうな感じでした。

 考えてみれば、フランスの学校には、日本の学校にある、入学式、卒業式はもちろんのこと、始業式、終業式、というものもありません。

 合理的といえば、合理的です。

 逆に考えてみれば、日本は、やたらと式典が多いですね。

 最初は、なんだか、区切りがつかない感じだと思っていましたが、慣れてしまえば、いちいち親が顔を出すこともなく、かえって、楽チンだと思うようになりました。

 その度に、仕事の休みをとったり、遅刻をしたりというのもなかなか大変ですから。

 フランスの学校では、特別な行事の時以外は、親ですら、気軽に学校に立ち入ることは、できません。授業参観というようなことも一度もありませんでした。

 ただ、二回だけ、ブルベ(中学卒業時の試験)とバカロレア(高校卒業時の試験)の成績優秀者の表彰式というのだけは、親も参加できました。

 特に、バカロレアのときは、娘の学年がその学校で始まって以来の高成績で、なんと、半数以上がトレビアン(5段階の最高の成績)をとり、親よりも生徒よりも、校長先生が有頂天だったのが印象的でした。

 こう考えると、こちらに慣れてしまえば、日本の学校の式典の多さだけでも、それを準備する先生とその度に参加する親の負担がいかに大きいかがわかります。

 フランスは、実にシンプルで、日本では、親までもが、子供の入学式コーデなんていう特集がファッション誌を飾ったりしているのが、不思議なほどです。

 お国柄といえば、それまでですが、国が違うと学校のあり方もずいぶんと違うものです。学校の入学式や卒業式などのセレモニーなどは、学校の始めに見せつけられるフランスと日本の大きな違いです。

 

 





















2019年9月6日金曜日

フランスの雇用問題






 昨年末、フランス全土に拡大した黄色いベスト運動(gilets jaunnes ジレ・ジョンヌ)と呼ばれるデモが世間を騒がせ、一部は、暴徒化し、大問題となりました。

 もともとは、自動車燃料税の引き上げに反対するものでしたが、次第に反政府デモへの様相を呈したデモへと変貌していきました。

 失業率の高い事でも有名なフランスですが、特に、若者の失業率が高いのもまた、特徴的で、このデモの暴徒化の中心となっていったのも、その若年層であるとも言われています。

 フランスでは、雇用形態や労働者の処遇、賃金、労働時間、解雇に至るまで、厳しい労働法の規制があります。

 この厳しい労働法の規制から、アルバイトのような職でさえ、安易に得ることも、また、賃金と物価の兼ね合いも、若者同様、外国人である私たちにとっても、とても厳しいものであることに違いありません。

 また、職を得ることが難しい反面、一旦、正規雇用として、雇われてしまえば、その労働者の権利というものも、その法律によって、大きく守られていることも現実なのです。

 公務員などは、その最たるものです。

 私は、フランスで、雇用主になったことはありませんが、自分の処遇に関しても、少なからず不満があったものの、同時に、同じ会社にいる、長くいることで、高給を取りつつも、ロクに働かずに、年金の計算ばかりしている人間を容易に解雇することもできずに、高給を払い続けなければならない、雇用主側の現実にも、憤りを感じたものです。

 雇用主は雇用主で、税金や保険料などで、労働者が実際に受け取る額を遥かに上回る金額を支払わなければならず、うっかり解雇しようものなら、たちまち訴えられて、その多くは、労働者側の勝訴になるのです。

 つまり、正当に働く権利を守るはずの労働法は、現実は、働かない労働者をも守る労働法になってしまっているのです。

 すでに職を得ている労働者が、法律に守られて、気に入らないことがあると、デモだ、ストライキだ、裁判だ!と、のうのうと暮らしている一方で、新規に参入してくる若者や、弱い立場の人たちが、その分のしわ寄せをまともに受けているのです。

 フランスの場合、新卒者を採用すると同時に、あくまで個人の能力や職務経験によって採用される即戦力重視の採用方法にも重きを置いています。

 しかし、そう事は、単純ではありません。

 弱い立場の人々が、職務経験を重ねて、キャリアを積んでいく一方で、高学歴の人は、それを何段も飛び越して、卒業して、いきなり管理職に着くのもフランスの超学歴社会の現実でもあります。

 高学歴の人には、それはそれで、一般のフランス人には、想像もつかない努力をして勝ち得た学歴でもあるので、その格差に歩み寄る気持ちが、本当は、ないのが正直なところだという現実が、今回のデモのような摩擦に繋がるのでしょう。

 何れにせよ、外人の私から見ても、フランスの労働法、雇用形態が社会全体を上向きにするために、うまく機能しているとは、到底、思えないのであります。













2019年9月5日木曜日

宅配便をしてくれていた大学教授の叔父






 うちの家族は、両親ともに兄弟が多く、それぞれに、なかなか結束も硬く、仲が良く、皆、都内のそれほど遠くない距離に住んでいることもあって、親戚の集まりも多く、子供の頃には、けっこう、それが煩わしくもありました。

 父の兄弟は、ほぼ、全滅してしまいましたが、その下の世代の従姉妹たちとも、相変わらず仲良くお付き合いが続いています。

 母の兄弟姉妹の方は、母以外は、まだ、全員、なんとか健康で暮らしており、叔父、叔母とも、変わらずにお付き合いを続けて頂いています。

 特に、母方の親戚は、私の祖父母が存命の頃から、祖父母の兄弟に亘ってまでの、付き合いがあり、子供の頃は、もう誰が誰だかわからず、引っ込み思案だった私は、とても、そんな集まりが苦痛でした。

 それでも、祖父母を中心とした家族の繋がりは、今から思い返せば、ありがたいものだったと思っています。

 誰かの誕生日、父の日、母の日、こどもの日、敬老の日、お正月などなど、事あるごとに、祖父母の家の庭でみんなでバーベキューをしたり、どこかのレストランを予約して、みんなで食事をしたりと、頻繁に顔を合わせていたおかげで、祖母が亡くなる時には、皆で交代で約半年、看病しあい、こうして今でも、お付き合いが続いているのです。

 特に、母の一番下の妹の叔母は、母よりも私の方が年が近く、私にとっては、どこか、姉のような存在ですらありました。

 娘が生まれた時も自分の孫のように可愛がってくれ、娘の洋服などは、ほとんど彼女が用意してくれていましたし、母の病状が思わしくない時、母の様子を逐一、知らせてくれたのも、私の帰国のタイミングを測ってくれたりしたのも彼女でした。

 そんな彼女の夫は、ある私大の理系の教授で、フランスの大学の教授と交流があり、研究室の生徒を連れて、学生に論文発表の機会を設けるために毎年、フランスに来ていました。

 そんな、叔父は、私たちにとっては、サンタクロースのような存在で、叔母が山のように用意してくれる日本の食料品を、その度に私たちの元に運んできてくれました。

 偉い大学教授の叔父も、私たちにとっては、宅配便のような存在でしたが、こちらで、娘がどうやら理系の道を選ぶとなってから、こちらの大学の事情にも詳しい叔父には、色々と相談に乗ってもらうようになりました。

 叔父がパリに荷物の宅配にパリに来てくれた時は、彼の滞在している、私たちが普段は、立ち寄ることのないような立派なホテルに荷物を受け取りに行き、一緒にお食事をし、パリの街を歩きました。

 娘の将来を見据える進路の選択に差し掛かった折、叔父は、こう言いました。

 「進路の選択は、将来、どんな形で、自分が社会に貢献できるかということを考えたらいいんだよ。」と。

 宅配便だった、叔父の教育者としての立派な一面を思い知らされた、彼の賢明なアドバイスでした。

 

 



























 

2019年9月4日水曜日

フランス人の夫のヤキモチ




 以前、同じ会社に勤めていた30代半ばくらいのロシア人の女性の同僚がいました。

 彼女は、結婚していましたが、まだ、子供はおらず、退社時刻になると、毎日、毎日、少し年の離れたロシア人のご主人が会社までお迎えに来るのでした。

 普通なら、子供がいてもおかしくない年代で、もし、そうなら、普通は、自分が子供を迎えに行く立場です。

 まあ、子供もいないことだし、ご主人が毎日毎日、お迎えに来ると言うことは、さぞかし夫婦円満で、ラブラブなのかなあと思っていました。

 でも、日を重ねるに連れて、周りのみんなも、いくらラブラブでも、毎日、お迎えって、なんか、ちょっと、じと〜っとしたものを感じるね・・と言い始めました。

 私も、家に帰って、彼女のお迎えの話を主人にしたところ、” それは、間違いなく、ジェラシー、物凄く嫉妬深い男なんだよ!” と即答していました。

 そんな夫も、けっこう妙なヤキモチの焼き方をする人で、一緒に外出したりして、周囲の人が私のことを ” ちょっとあの子いいね!" などと、褒めてくれたりするのをとても、めざとく聞いています。

 お世辞半分なことにも、とても、敏感に反応して、喜んでみたかと思うと、勝手に、それがヤキモチに変わっていたりするのです。

 私が、娘と二人で楽しそうにしていたり、友達と電話で話したりしていても、除け者にされた気がするのか、ちょっかいを出してきたりします。小学校5年生男子くらいのレベルです。(失笑)

 以前、私が、お気に入りだった日本の俳優さんのドラマのDVD を友人に借りてきては、家でよく見ていたことがありました。

 最初は、私は、何も気にせずに、ウキウキしながら、楽しく見ていたのですが、そのうち、私がそのドラマを見ていると、主人の機嫌が露骨に悪くなるようになりました。

 なんと、主人は、その俳優さんにヤキモチを焼いていたのです。

 それからというもの、私は、なんだか、こそこそと、悪いことでもしているように、DVDを見るようになってしまいました。

 DVDを見ている最中に主人が帰ってくると、” あ!パパが帰ってきたよ!” と娘まで気を使うようになる始末。

 ある日、主人が、何やら思いつめた様子で、私のところにやってきて、” 食事だけなら、僕が招待するから、行ってきてもいいから・・” と言い始めたのです。

 最初は、なんのことだかわかりませんでした。

 しかし、すぐに、それが、あのドラマの中の彼であることがわかって、返す言葉も見つかりませんでした。

 本当に、できるものなら、彼と一緒にお食事に招待していただきたいものです。

 












 

2019年9月3日火曜日

フランス人は、不器用なのか?



子供が小さい頃は、やたらと頻繁にお呼ばれするお誕生日会。
その度に、プレゼント持参で、何かと気も使うし、お金も使います。

 ある、お誕生日会に行く時に、娘のお友達と、そのママ友と一緒に行こうということになり、私たちは、すでに、プレゼントは、用意していたのですが、そのママは、まだプレゼントを用意していなかったので、プレゼントを買いに寄りたいから、一緒に付き合って!というので、おもちゃ屋さんに一緒に寄りました。

 プレゼントを選んで、会計を済ませて、急いでいるから(プレゼント用に包装を頼むとすごく時間がかかって、待たされるので)自分で、包むからと言って、包装紙をお店でもらって、プレゼント用の包装を始めたのです。

 (日本は、とかく、包装過剰と言われますが、フランスでは、特別に頼まないと包装はしてくれません。)

 そのおもちゃ屋さんには、自分でパッケージする人のためのスペースも設けられていました。

 一応、子供用とはいえ、プレゼントなのですから、私は、家で、工夫して、可愛いリボンなどをつけて、パッケージをしてきていました。

 ところが、そのママさん、(ちなみに彼女の職業はお医者さんです)、なんとも、雑!
ハッキリ言って、キタナい!とりあえず、包む・・という感じなのです。

 せっかくのプレゼント、紙は歪んで、テープも斜めにはみ出しでいます。
 それでも、本人は、さっぱりしたもので、” ハイ!出来上がり!じゃあ、行こうか!”と 言うので、” それ、ちょっとヒドくない?” と言うほどには、親しくもなかったので、この人、ホントにお医者さんなの?と、ただただ呆気にとられたものでした。

 また、フランスでは、教科書を借りるという形を取っているため、年度始めには、本を汚さないように、その年に使う、全ての本にプラスチックでカバーをしなくてはなりません。
 年度終わりには、そのプラスチックを剥がして、返却しなければならないからです。

 これは、フランスでは、子供が学校に行っている間の年中行事のようなものです。

 これも、いつだったか、娘のお友達が家にやってきて、一緒にやったことがあるのですが、これまたヒドい!何だかうるさい小姑のようですが、返す時に本をキレイな状態のまま、返すのが目的なのに、プラスチックをかける段階で、もう、すでに本にダメージを与えている感じなのです。

 キレイにきちんとやろうという気持ちがないのか? はたまた、不器用なのか?
 あまり、細かいことには、こだわらない、よく言えば、大らかなのです。

 しかし、おしゃれには、気を使うのに・・。

 大して、几帳面でもない私でさえ、こんなの、日本人だったら、ありえない・・と思うのですが、それで、何の問題もないのがフランス。

 まあ、それくらいのユルさが、今の日本には、必要なのかな?と、頭をかすめたりもするのであります。












2019年9月2日月曜日

フランス人特有のジェスチャー




 以前、日本人だけれど、お父様が外交官だった関係で、世界を転々と暮らし、ほとんど日本に住んだことがない、海外暮らしの長い、従兄弟の奥さんに会った時、彼女は、日本語が苦手で、あまり、周りの日本人と話そうとしませんでした。

 彼女の両親は日本人なので、日本語もわかるは、わかるのですが、どうも、話す方は、あまり、自信がなかったようです。

 しかし、うちの娘が相手だと、娘も似たような立場だったこともあって、まだ小さかった娘を相手に、日本語で話をしてくれていました。

 彼女は、普段は、英語圏で暮らしているので、母国語は、英語なのですが、フランスでも暮らしていたことがあったらしく、そんな彼女が私に言いました。

「お嬢さん、日本語も上手だけど、日本語を話していても、身振り手振りがフランス人でかわいい!」と。

 世界を転々としていた彼女だからこそ、娘の身振り手振りがフランス人特有のものであることに、すぐに気が付いたのです。

 それまで、私は、毎日、あたりまえのように、娘と過ごし、周りのフランス人とも普通に接していて、フランス人独特のジェスチャーというものを、特に意識はしていなかったのです。

 ところが、考えてみたら、フランス人のジェスチャーは、第二のフランス語ともいうべく、共通にフランス人が使っているものであったのです。

 きっと、日本で一番有名な、フランス人のジェスチャーは「ノンノンノン!」と垂直に伸ばした人差し指を左右に振る相手の発言を打ち消すポーズかもしれません。

 また、「アタンシオン!(気をつけなさい!)」など、相手に注意を促す時には、同じく垂直に伸ばした人差し指を相手に向けて、2〜3回、縦に振ります。
 きっと、慣れていない人は、威圧感を感じることでしょう。

 「まあまあ・・・」特に良いとも悪いとも言えない時、「コムスィ・コムサ」、ギリギリ、スレスレであることを示す時には、「セ・アンプ・ジュスト」と指を伸ばした手のひらを下に向けて、右に左に幾度か半回転させます。

 きっと、フランスの街中で、何かを尋ねた時、一番、多く目にする機会があるのは、口をちょっとすぼめて、両肩をすくめるようにちょっと上げて、両手の平を上にして、相手に向けるポーズ。

 相手や自分の期待通りにできない状況に置かれて、仕方がないと諦めたり、「ジ・プ・リアン」「セ・パ」など、どうしろというのだと開き直るポーズでしょう。

 その開き直るジェスチャーなどは、フランス人の感じの悪さをより一層、引き立てている気がします。

 とにかく、フランス人は、話をする時に身振り手振りが多く、そのひとつひとつに言葉なみの表現が含まれていて、気をつけて見ていると、とても、面白いものです。

 だから、娘のように、たとえ、日本語を話していても、言語自体は切り替わっていても、身振り手振りは、フランス仕様のままという現象が起こるのです。

 フランスに長く生活している方や、バイリンガルのお子さんなどは、日本語を話している時にも、無意識にフランス仕様のジェスチャーになっているかもしれません。

 「知らない!」と思ったりした瞬間に、両肩をすくめて上げたりしていませんか?

 私は、時々、そんな自分の無意識の動作に気づいて、ハッとしたりしています。
 

 


































 

2019年9月1日日曜日

ピンクのお年頃


ピンクが何より好きだった頃の娘


 3〜4才くらいの女の子にありがちの、とにかく可愛くしたい願望。

 髪の毛を結んで欲しいとか、こんな洋服が欲しいとか、こんな組み合わせにしたいとか、とにかく世界で一番、かわいくしたいと思っている、ちょっぴりナルシストが入った微笑ましくも厄介なお年頃です。

 そんな中でも、彼女は、色へのこだわりが強く、色の組み合わせにもうるさく、とにかく、基本、ピンク色のものがお好みで、また、あま〜い、日本にいるマミー(おばあちゃん=私の母)などが、娘がピンクが好きだということを知ると、ピンク色のものをせっせと送ってくれたりしていたので、娘のピンク狂に拍車がかかることになりました。

 なにかというと、” ローズ "。(ピンク色のことをフランス語では、”ローズ”と言います。)その頃の彼女から、自信満々の ”ローズ!" という言葉をどれだけ聞いたことでしょう。その頃の彼女の持ち物は、何から何までローズで、彼女の部屋はピンク色のもので溢れていました。

 また、洋服の組み合わせにも強いこだわりがあって、毎日の洋服は、自分で選び、自分で着たい年頃でした。

 それは、スカート、Tシャツ、セーターから、靴下、タイツ、靴からパンツに至るまで、何やら自分で好きなようにコーディネートをしたがっていたので、私も彼女のやりたいようにさせていました。

 とはいえ、まだまだかわいいもので、洋服の着方などは、親に言われたとおりに素直に従っていました。

 例えば、どんどん成長して、洋服も、あっという間に小さくなってしまうため、私は、セーターなどの比較的、融通のきく服は、いつも大きめのものを買って、腕まくりをさせて着させていました。

 なので、たまにちょうどいい袖丈の服を頂いたりすると、” ママ!これ、折るとこないよ!” などと、言い出すので、苦笑してしまうこともありました。

 それは、日本に一時帰国した際に、親戚の家に出かけた時のことでした。
日本に持ってきている限られた服の中から、彼女は、自分で服を選んで、自分で着替えて家を出たのです。

 家の中で、おてんばを始めた娘に、睨みを効かせた時、私は、目を疑ったのです。

 おてんばをして、チラッとスカートがめくれたのです。
 
 なんと、彼女は、スカートとパンツの色が合わないからとパンツを履いてきていなかったのです。慌てて、叔母が買い置きしてあったパンツを借りて、履かせて、” いくら色が合わないからといっても、パンツは履いてでるもの!” と言い聞かせたのでした。

 ピンクを世界一かわいい色だと信じて、世界一可愛くしたいと思っていた彼女は、色のあうパンツがないからといって、パンツを履かずに出かけてしまうという奇行に走ってしまったのです。

 大きくなった今はもう、彼女のワードローブは、地味な色の服が大半をしめ、逆に、私がたまには、いいんじゃない?と頼んでも、彼女はピンクの服などは、着てはくれなくなりました。

 ピンクへの憧れは、多くの女の子が通る、あの年頃の麻疹(はしか)のようなものだったのかもしれません。