宅配便をしてくれていた大学教授の叔父
うちの家族は、両親ともに兄弟が多く、それぞれに、なかなか結束も硬く、仲が良く、皆、都内のそれほど遠くない距離に住んでいることもあって、親戚の集まりも多く、子供の頃には、けっこう、それが煩わしくもありました。
父の兄弟は、ほぼ、全滅してしまいましたが、その下の世代の従姉妹たちとも、相変わらず仲良くお付き合いが続いています。
母の兄弟姉妹の方は、母以外は、まだ、全員、なんとか健康で暮らしており、叔父、叔母とも、変わらずにお付き合いを続けて頂いています。
特に、母方の親戚は、私の祖父母が存命の頃から、祖父母の兄弟に亘ってまでの、付き合いがあり、子供の頃は、もう誰が誰だかわからず、引っ込み思案だった私は、とても、そんな集まりが苦痛でした。
それでも、祖父母を中心とした家族の繋がりは、今から思い返せば、ありがたいものだったと思っています。
誰かの誕生日、父の日、母の日、こどもの日、敬老の日、お正月などなど、事あるごとに、祖父母の家の庭でみんなでバーベキューをしたり、どこかのレストランを予約して、みんなで食事をしたりと、頻繁に顔を合わせていたおかげで、祖母が亡くなる時には、皆で交代で約半年、看病しあい、こうして今でも、お付き合いが続いているのです。
特に、母の一番下の妹の叔母は、母よりも私の方が年が近く、私にとっては、どこか、姉のような存在ですらありました。
娘が生まれた時も自分の孫のように可愛がってくれ、娘の洋服などは、ほとんど彼女が用意してくれていましたし、母の病状が思わしくない時、母の様子を逐一、知らせてくれたのも、私の帰国のタイミングを測ってくれたりしたのも彼女でした。
そんな彼女の夫は、ある私大の理系の教授で、フランスの大学の教授と交流があり、研究室の生徒を連れて、学生に論文発表の機会を設けるために毎年、フランスに来ていました。
そんな、叔父は、私たちにとっては、サンタクロースのような存在で、叔母が山のように用意してくれる日本の食料品を、その度に私たちの元に運んできてくれました。
偉い大学教授の叔父も、私たちにとっては、宅配便のような存在でしたが、こちらで、娘がどうやら理系の道を選ぶとなってから、こちらの大学の事情にも詳しい叔父には、色々と相談に乗ってもらうようになりました。
叔父がパリに荷物の宅配にパリに来てくれた時は、彼の滞在している、私たちが普段は、立ち寄ることのないような立派なホテルに荷物を受け取りに行き、一緒にお食事をし、パリの街を歩きました。
娘の将来を見据える進路の選択に差し掛かった折、叔父は、こう言いました。
「進路の選択は、将来、どんな形で、自分が社会に貢献できるかということを考えたらいいんだよ。」と。
宅配便だった、叔父の教育者としての立派な一面を思い知らされた、彼の賢明なアドバイスでした。
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