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2024年3月10日日曜日

「実家に帰らせていただきます」とは言えなかった海外生活

  


 昔の日本のドラマを見ていたら、「実家に帰らせていただきます・・」みたいなシーンが出てきて、そういえば、私には、そういう選択肢はなかったな・・考えたこともなかった・・と思いました。

 なにしろ、実家に帰るといっても、そうそう簡単には帰ることはできないのです。帰るとなったら、仕事も何もかも捨てて・・ということになってしまうのですから、そうそう簡単に口にできる話でもなく、自ずと私の意識からは、排除されていたのだと思います。

 そもそも、昔のドラマなので、今の時代、日本でもそういうセリフを叩きつけて実家に帰ってしまうというようなことがあるのかどうかもよくわかりませんが、そんなことが簡単にできなかった環境に結局は救われたのかも?という気持ちと、夫婦喧嘩をして、気安く実家に帰れる環境が羨ましいような、そんな両方の気持ちがありました。

 夫とは、そんなに派手で壊滅的な喧嘩をした記憶はありませんが、それでも波風が全くたたなかったわけでもなく、言い合いをしたり、喧嘩をしたこともありました。たいていは、ヒートアップしてくると、もう彼の方は、普段はわかりやすく、ゆっくりめに話してくれるフランス語も早口になり、語調も強くなり、私の方は、もう語彙の少ないフランス語や英語では、足りなくなり、ついには怒りを日本語で爆発させることになるので、途中からは相手の話を聞くということよりも、自分の言いたいことを言うということになるので、お互いにとことん芯から傷つけたり、傷つくこともなく、時間がたてば、忘れてしまうことが多かったような気がします。

 どちらにしても、そもそも、今となっては、喧嘩の原因が何だったのかすら、思い出せないくらいの些細な事が原因なので、それで済んでしまってきたところもあるのですが、数回は、少し時間をおいてから、とことん話し合ったこともありました。

 私の両親などのケースを思い返してみれば、父も母もそれぞれの実家との繋がりがとても強く、そもそも父は、兄弟で隣同士というか、同じ敷地内にそれぞれが家を建てて住んでいたし、母の実家も車で10分ほどのところにあり、祖母(母にとっての母)は、毎晩のように電話をしてきていたし、母は父と喧嘩をして、実家に帰るというようなことはなかったものの、頻繁に実家に出入りしていたので、二人とも、すごく実家と近い距離を保っていたと思います。

 今から思い返せば、特に母に関しては、とてもしっかりしている人であったけど、その根底には、実家との繋がりが頑強であったことがあったのかもしれない・・と今になって思うのです。

 その結果というのか、私の両親はすでに他界していますが、私の日本の親戚のネットワークは、未だかなり強力なもので、その親戚づきあいの緊密さが、たまに帰る日本では、一気に集中し、周囲の友人などからは「今どき、珍しいね・・」と驚かされるのです。

 とはいえ、私が私自身の実家との繋がりが頑強であったかどうかというのは、また別の話で、そもそもたとえ、私が日本に住んでいたとしても、頻繁に帰りたいと思う実家ではありませんでした。

 おそらく、そんなところが私自身が精神的に今一つ強くないところなのかもしれない、繋がりのたしかな家庭というものが人にとってすごく大切なことなのかもしれないな・・と最近になって思うのです。

 ところで、私と夫のフランス語×日本語の喧嘩については、そばで目にしていたどちらの言語も理解している、まだ幼かった娘のみが冷静に話を聞いていて、パパとママ、全然違う話をしてるんだよね・・とつぶやいていたのには、私としては大いに気恥ずかしさを覚え、娘のバイリンガルの悲哀を感じたものの、そんなことが娘の歳のわりには、妙に冷静な性格を培っていたかもしれません。

 


実家に帰らせていただきます


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2023年9月18日月曜日

言ってはいけない言葉

  


 夫が亡くなってしまったとき、突然のことだったし、まったく予想にさえしていなかったdできことに、みっともないことに、私は、少なからず取り乱し、落ち込み、途方に暮れて、あの頃のことは、思い出すのも怖いくらい、一日、一日をどう過ごしていたのか? はっきり思い出せないことと、やけに鮮明に覚えていることとが混ざりあっています。

 私は、胃に蓋がされたかのように、全く空腹というものを感じなくなり、食べられなくなり、眠れなくなりました。家中に何も変わらずそのままに残っている夫の洋服や靴、その他、買い物好きの彼が世界中で買い集めた奇妙な骨董品のようなものなどに囲まれて、ことあるごとに夫を思い出しては、涙があふれてくるのをとめられず、眠れない夜でありながら、このまま夜が明けなければいいのになどと思ったりもしました。

 私のそんな状態とは裏腹に、当時まだ10歳だった娘は、激しく感情を乱す様子もなく、葬儀が終わってすぐに、学校生活に戻り、私も仕事に復帰しました。

 夫のいない家にいるよりも職場や学校の空間にいた方が気が紛れて助かったということもありましたが、やはり、娘のことは、それはそれは心配で、学校に復帰した娘を迎えに行ったときは、再び、無事に学校生活に彼女が戻れたかどうか、どきどきして、先生に娘の様子を尋ねたりもしました。

 彼女の行っていた学校では、夫が亡くなってすぐに、病院から娘を迎えに行き、普段は保護者たりとも学校に立ち入れないところを事情を説明して学校に入れてもらい、彼女のいる教室に授業中にもかかわらず、急に入って行って娘を連れ帰ったこともあり、あっという間に夫の亡くなったことは学校中に知れ渡ることになり、その後は、学校のディレクトリスから直接電話をもらったり、葬儀が終わるまでの間、学校を休んでいた彼女に同級生のお友達のパパやママたちが子供を連れて、学校の授業に遅れないようにと、ノートを届けてくれたり、学校がお休みの水曜日には、自分たちの子供と一緒に預かってくれたりと、これからも学校生活が送れるように一致団結して助けてくれました。

 しかし、人から助けてもらうばかりで、自分は他の人のために何もできないことは、それはそれで、辛いことでもありました。

 最初は特に、もう一日一日を過ごしていくことに必死で、夫の死後の煩わしい手続きに追われながら、精神的にも張りつめていて、また実際にも、これまで夫と手分けしてやっていた様々なことを一人でやってかなければならなくなったため、また、行く先々で、新しい生活環境に変わった事情を説明しなければならなかったりと、生活のリズムを取り戻していくのには、時間もかかりました。

 ことあるごとに涙を流していた私と違って、娘はそのようなことはなかったのが逆に心配なほどで、泣かない娘を心配して、ママ友に相談したりしたこともありました。

 しかし、それからしばらくして、ある日、娘が目に涙をいっぱいにためて、「かわいそうな子だと言われたくない・・」と私に打ち明けてくれたことがありました。

 彼女の言葉に私はハッとさせられて、そんな彼女の気持ちに胸が痛くなったことがありました。「かわいそうに・・」という言葉は、一見、人を傷つける言葉には聞こえないし、暴力的な言葉でもありません。また、ごくごく身内の本当に近い存在の人だったらば、いたわりの言葉にもなりうる言葉でもあるかもしれません。

 しかし、人々が何気に口にしかねない「かわいそうに・・」という言葉は、実は、けっこう人を傷つける言葉ではないかとその時に思いました。実際にかわいそうなことになっていても、かわいそうだと思われたくないのは心情です。

 でも、このことがあって、私は、より、しっかりしていかなければいけないと思ったし、彼女にこれまで以上の愛情を注がなければ・・、そして、今まで以上に色々な経験をさせてあげたいと思ったことも事実だし、また、彼女自身もそんなことを言われないように、彼女なりの努力をしてきたと思います。

 あれから、もう10年以上が経って、おそらく彼女のことをかわいそうだと思う人は、あんまりいないんじゃないかな?と思っています。


言葉 禁句


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2023年8月11日金曜日

今は亡き夫の友達だったパリの動物園にいるオランウータンに会いに行った 

 


 私には、長い間、ずっと行きたかった場所がありました。パリ市内でもあるし、別に行こうと思えばいつでも行ける場所ではあるのですが、なんとなく、行きそびれているまま、もう10年以上は経ってしまっていました。

 それは、パリ5区にあるジャルダン・デ・プラント(JARDIN DES PLANTES)の中にある動物園で、よくバスで通りがかるくらいの、家からもそんなに遠くない場所にあります。

 ジャルダン・デ・プラント(JARDIN DES PLANTES)の大きな庭園(敷地)の中には、名前どおりの植物園や温室、自然史博物館や植物学の学校などに加えて動物園があります。

 ここには、これまでに2回来たことがあって、1回は家族で動物園に、そして、もう1回は、日本から家族連れで来た友人がここの自然史博物館の恐竜を見にやってきました。

 私がここにずっと来たいと思っていたのは、ここの動物園の方で、パリには、ヴァンセンヌに1つ、そして、このジャルダン・デ・プラント(JARDIN DES PLANTES)の中にもう一つの動物園があります。

 この動物園には、私たち家族にとって、特別な思い出があり、まだ、娘も小さかった頃に、ある休日の日にどこかに散歩に行こうと、最初は植物園に来たつもりが、中に動物園があることを発見し、何気なく立ち寄った場所でした。

 実際には、この動物園、ヴァンセンヌの動物園に比べて規模は小さいものの、世界で最も古い歴史を持つ動物園のひとつでもあるそうで、この植物園全体の中にもいくつもの歴史的な建造物が惜しげもなく、ポコポコ建っている感じです。

 動物園は、もうはっきりと記憶もないくらいだったのですが、さすがに10年以上経って、以前に比べると、ずいぶん整備された感じで、私は、動物園に入ると、園内の地図を片手にオランウータンを探しながら、歩き始めました。

 私がこの動物園に来たかったのは、以前、家族で訪れたときに、この中にいた一匹のWATANA(ワタナ)というオランウータンが夫のことをとても気に入ったらしく、お腹が空いただろうとでもいいたげに、なんだか、最初に小さな木のかけらを投げてよこし、口に指をあてて、これ食べない?みたいにアクションをしかけてきたのです。

 その後、自分が遊びに使っていた布切れを網の向こうから垂らして、夫とひっぱりっこをして遊び始めたのです。動物園の飼育員ならいざ知らず、見ず知らずの人間と大きなオランウータンがこんなことをして遊ぶなんて、ちょっと考えられないことで、私たちの周りには、人だかりができたほどでした。

 夫は、もう亡くなってしまいましたが、この動物園のことを思い出すたびに、WATANA(ワタナ)はどうしているだろうか? 会いたいな・・とずっと思っていたのです。オランウータンの寿命は飼育下では、50年程度ということですが、あの時、ワタナは一体、何歳だったのかもわかりません。まだ彼女は生きているのだろうか?それとも、もう亡くなってしまっているのでしょうか?

 動物園の地図には、オランウータンの場所は記載されていなくて、それでも、どこかにはいるはず・・と思いつつ、ようやくオランウータンの檻を見つけると、その檻はすっかり整備されて、網ではなく、ガラス張りになっていました。




 中にいるオランウータンの顔写真と名前が書いた看板を見ると、ワタナの名前と写真はありませんでした。実際、ワタナの顔だって、正直、私も全然、覚えていません。

 その日は、その中には3匹の親子と見られるオランウータンがいて、けっこう人気で人が集まっていました。やっぱり他の動物と比べると、人間に近いせいか、見ているとそれぞれのキャラクターがわかってきて、1日眺めていても飽きない感じもしました。

 しばらくすると、飼育員がやってきて、オランウータンについての解説を始め、オランウータンは、どこからやってきたのか?とか、その習性とか、子育てとか、飼育にあたっての健康管理についてなどの説明をしてくれました。



 他の動物についても、全部ではありませんが、こうして、頃合いを見て、飼育員が人を集めて解説していました。こんな解説などでも、フランス人はほんとうにお話が上手だな・・と感心してしまいます。

 動物園のオランウータンは、通常は、野菜しか食べさせてもらえないそうで、最近の果物は、食物繊維も減少しているうえに糖分過多なのだとか・・なんだか、自分に言われている気がしてしまったほどです。果物をあげるのは、嫌な検査をするときとか、薬を飲ませるときなどのご褒美がわりに与えているそうです。

 こうして食事をはじめとした健康管理は、ふつうの人間以上に行われているようで、健康状態には、常に気を配り、異常があった場合には、素早い対応を・・まさに早期発見、早期治療・・と人間さながらの健康管理です。

 また、メスのオランウータンの出産は、一生のうちに多くて3回程度だということで、だいたいこの辺も人間と似ているな・・などと思いながら、彼の説明を聞いていました。

 彼の説明が終わったところで、何か質問は?とみんなに質問を募っていたのですが、私が聞きたいのは、WATANAのことで、あまりに個人的?な質問ゆえ、説明大会が終了したところで、彼をつかまえて、「あの・・つかぬことをお伺いしますが、あなたは、WATANAを知っていますか?」と聞いてみたのです。

 すると、彼は、ちょっとビックリした様子で「WATANA?」と言い直してから、「知ってます!」と。でもすぐに、「Elle est parti」(彼女は旅立った)と言ったので、私は、てっきり亡くなってしまったとばかり思って、「あ~残念・・」と。

 彼の話によると、彼がここで働き始めたのは、6年前からのことで、WATANAがここにいたのは、8年くらい前までのことだそうで、それでも、WATANAの話は聞いたことがあるので知っています・・と。

 私はてっきり、ワタナは亡くなってしまったとばかり思っていたので、「ワタナは何歳まで生きていたのですか?」と聞いたら、「彼女は亡くなったわけではなくて、まだ生きていますよ!」、「今は、スペインの動物園にいるはずです・・」と。

 詳しいことはわからないけど、マッチング?が上手くいかなくて、子供がなかなかできなかったので、違う動物園に行くことになったのだとか・・。普通、他の動物園に移った動物でも、もしも、亡くなったりした場合は連絡があるはずなので、ワタナについては、そういう話を聞いていないから、まだ生きていると思うよ・・と。

 予想外のワタナの消息に、まだ、ワタナは元気で生きてるんだ!となんだか、すぐにでもスペインの動物園に飛んでいきたいような気持ちになりましたが、残念ながら、彼には、スペインのどこの動物園なのか、わからずに、私がワタナに会いに行くことはできそうにありません。

 しかし、まだ、あの彼女がスペインで生きていてくれるという話だけで、なんだか私はとっても嬉しくなり、とても満たされた気持ちで動物園を後にしたのでした。


ジャルダン・デ・プラント(JARDIN DES PLANTES)動物園 オランウータン

🌟JARDIN DES PLANTES  57 Rue Cuvier 75005 Paris


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2023年7月24日月曜日

亡き夫の誕生日 夫の思い出

  


 そういえば、昨日は亡き夫のお誕生日でした。もう彼が亡くなって、ずいぶん経つので、お祝いをすることもありませんが、なぜか、命日よりも、お誕生日を思い出すのはなんだか不思議なことです。

 しかし、正直、だんだん年齢を重ねていくと、見送った人も増えてきたので、誕生日に加えて、どんどん、命日が増えてきて、そういえば、〇月だったな・・くらいで、命日の方はあんまり正確には覚えていません。

 それに比べて、お誕生日の方は、両親や家族、友人なども、若い頃に覚えたことだからなのか、いつまでも、わりとちゃんと覚えています。

 これが、もしも日本にいたら、何周忌とかいう法要があったりして、記憶として植え付けられていくこともあるのでしょうが、なにせ、そういった法事なども海外にいると、否応なしに、義理を欠き続けているし、両親に関しても、母が亡くなった1年後に「偲ぶ会」なるものを父と弟が開いてくれたのですが、母の命日は9月で、フランスでは新年度が始まったばかりのタイミングで、私は参加することができなかったし、父の時に至っては、葬儀以降、父の兄弟姉妹は全滅していたこともあり、何もやりませんでした。

 夫に関しても、葬儀のあとは、別に何の行事もやっておらず、だいたいそういうことをやる習慣もなく(少なくとも私の周りでは・・)、正直、娘をかかえて仕事しながら生きていくのが精一杯で、それどころではありませんでした。

 夫が逝ってしまってから、時間が経って思い出すのは、圧倒的にお誕生日の時のことで、たしか、最後のお誕生日は、家からわりと近所にある夫がお気に入りのフレンチのレストランに家族3人で行ったような気がします。

 今から思い返してみると、海外生活が長かった彼は、フランス人にしては、外国語が堪能(失礼!私の偏見です)で、けっこう、フランスに対しても辛口のことを言い、外国の人やものに対して鷹揚で、娘には、何が何でも日本語をきっちり習得させたいという私の執念に近い思いも、「それはとても大切なことだよ・・」と理解してくれていたのですが、よくよく考えてみると、やっぱり、基本的にはフランスを愛している、古いタイプのフランス人だったな・・と、あらためて思い当たることも多いのです。

 例えば、彼の最後のお誕生日に行ったレストランも、フランスの有名な声優さんだか俳優さんだかが経営しているお店ということもあったのですが、基本的に彼が好きなレストランは、白いテーブルクロスがかかった銀食器がきれいに並んでいるようなレストランで、そういうレストランには、きちんとネクタイをして行く・・というような、今の世代から考えたら、「いつの時代の人?」と言われそうな人だったのです。

 また、外国のものに対して鷹揚とはいうものの、ハンバーガーやポップコーンなどを目の敵にして、見下すようなところがあり、要は、アメリカのものを毛嫌いするようなところもありました。

 本当は、ハンバーガーもポップコーンも大好きなくせに、なんで、そんなに目の敵にするんだろうか?と思っていましたが、これは、フランス人のかなり年配の人にある傾向で、おじいちゃんになる前から(というか、おじいちゃんになる前に亡くなってしまいましたが・・)、おじいちゃんみたいな・・そんなところがある人でした。

 また、議論好きなところも、フランス人らしいところで、話出したら止まらず、結構、長電話、きれいに手紙をわざわざ手書きしたり、まめにカードを送ったり、けっこうおせっかいとも思うくらいに困っている人に手を差し伸べ、黙っていないところも、フランス人あるあるだったな・・と今になって思います。

 また、良い言い方をすれば、感情表現が豊かというか、喜ぶときも、怒るときも派手で、かと思うと怒りもあまりひきずることはなく、妙に涙もろいところもあり、最後のお誕生日も、まさか、あれが最後の誕生日になるとは、誰も思っていませんでしたが、お店の人がサプライズで出してくれたお誕生日のケーキにうるうるしたかと思うと、お店のオーナーと意気投合して、仲良くなったり・・。

 まだ、50代という若さで亡くなってしまって、本当だったら、あれから何度、お誕生日のお祝いができたかと思うと残念ですが、喧嘩もたくさんしたけど、今はもう、嫌なところは、あんまり思い出さなくて、楽しかったこと、良い思い出ばかりを思い出す、そんな彼のお誕生日です。


お誕生日と命日


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2023年7月4日火曜日

子育ての恐ろしさ やっぱり親の責任は大きい

  


 このところのフランスの若者たちの暴動を見ていると、あらためて、子育ての恐ろしさと親の責任の重さを感じています。

 私はそんなに強い志を持って、子供を持ったわけではなく、漠然と、「やっぱり一度くらいは、自分の子供というものがほしいし、子育てというものをしてみたい・・」と思っていただけなのです。

 ただ、私の場合の子育ては、結果的には、さんざん自分のやりたいことをやってからのことになったので、もう、しばらくの間は子供に縛られる生活になっても、やりたいことをやってきたので、まあ、子育て期間は子供中心の生活でもいいかな?という、ある程度の覚悟はありました。

 ただ、娘が生まれた瞬間に、実際の子供をて最初に思ったのは、「これは大変なことをしてしまった!」「この子がどうにか、まともに育てるというのは大変な責任だ!」ということでした。

 もちろん、その子どもの性格や素質などもあるでしょうが、親の育て方、どんな環境で育てるかによって、その子は大きく変わっていくわけで、優秀な子供に・・とかいう以前に、「ひと様に迷惑をかけたり、犯罪者になってしまったら、大変なことだ・・」と思ったのです。

 その当時、日本でも金属バット事件とか、少年犯罪も増えている時期でもあったので、親戚の教育に携わる仕事をしている叔母などに「どうしたら、そういうことを避けられる?」などと相談してみたこともあり、その時は、「とにかく、身体を動かすこと、スポーツなどをさせて、発散させることよ!・・」などと言われて、常に娘にはスポーツをする習慣をつけさせたりもしました。

 今、フランスで起こっている若者による非道極まりない暴力、破壊、略奪、放火などの暴動を見ていると、やっぱりこの子たちの親は何をしているんだろう?と思ってしまいます。

 実際に破壊・略奪・放火などが行われている時間帯が夜中の2時3時だったり、そんな状況の中、最も被害の大きい地域などは、夜間〇〇時以降は外出禁止・・特に未成年は・・などというのも、考えてみればおかしな話だとも思うのです。

 そんなこと、別に市町村に決められるまでもなく、子供がそんな時間に出歩くことを放置しているというのも、正直言って、私には意味のわからない話。でも、子供が勝手に夜中に出歩くことが、その子たち(や家族)の間では、不思議なことではない生活をしているのかもしれません。

 フランスで子育てを始めたばかりの頃、周囲にいた先輩ママさんたちから、「フランスは、クズは限りなくクズ・・学校はちゃんと選ばなければダメよ! そういう仲間ができたらおしまいよ!」、「朱に交われば赤くなる・・」、とか、「水は低い方に流れる・・」などと、さんざん、脅かされ、事実、職場の近くにあった学校のどうしようもない生徒たちの行動を見ていると、うなずけることも多く、娘は小学校から私立の学校に入れたのでした。

 子供たち同志の関係、またその学校の教育方針、しいては、その家族の子供に対する向き合い方で、なにが、あたりまえなのか?ということは、自然と身についていくもので、また、娘が通っていた学校(小学校から高校まで)というのが、「これ?フランス?」と思うくらい、なかなか厳しい学校で、学業はもちろんのこと、言葉遣いから、先生に対する態度、目上の人に対する態度など、特に小・中学校はかなり厳しかったような気がします。

 しかし、実際には、この「自由」と「権利」をやたらと主張する国で、かなり厳しめに正しいことを教えようとする姿勢は大切なことだと思ったのも事実です。

 でも、そんなことを思ったのは、娘を学校に入れて、しばらくの間だけのことで、そんな学校が私たちにとっては、「あたりまえのこと」になってしまっていて、そのあとは、それこそ、「こんなにしっかりした教育をしているのにフランスってどうしてこうなんだろう?」と思ってしまったりもしたのですが、どちらかと言えば、娘の通っていた学校の方が例外的で、ごくごく一般的な公立の学校は全く違うのだということに気が付いた瞬間もありました。

 どんな環境にあっても、頑張れる子はいるのでしょうが、その環境によって、流されてしまうことは多いのです。結局は、ここでも分断とか、格差とかいう話になってしまうのですが、フランスの場合、私立といえども、そこまで極端にお金がかかるわけでもなく、我が家とて、それほど余裕のある家庭でもなかったので、親が子供をどのような環境におくのか? 親がどのように子供を見守るのか?ということを考えれば、さほど無理難題でもないような気もするのです。

 今回の暴動を起こしている子供たち、若者たちの詳しい背景は知りませんが、親、保護者の責任は大きいと思います。若者ゆえ、暴走することもあるとはいえ、今、彼らがやっていることは、立派な犯罪です。やってよいことと悪いことの区別もつかないように育てたのは、社会というよりも、親なのです。

 これまでも、私はかなりしつこく書いてきましたが、娘に関しては、本当に学校に助けられてきたし、あの学校に入れたことは、彼女にとって、大きな人生の分岐点だったような気がしています。

 こんなことが起こる国で、一歩、間違っていたら、もしかしたら、こんなことをする子になってしまったかもしれないと思うと、今になってから、よくも無事に育ってくれた・・と、今さらのようにヒヤヒヤする思いがしているのです。


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2023年6月30日金曜日

フランスに住んでいる日本人の2回の成人式のステップ

  


 パリにいる友人の息子さんが20歳になり、成人になったという話を聞いて、そういえば、成人という区切りが我が家にも2回あったな・・ということを思い出しました。

 フランスでは18歳で成人となり、一応、大人として扱われるようになるので、日本のような成人式はないにせよ、家族や親戚を集めて、派手にお祝いをしたりする家もありますが、我が家では、たしかお兄ちゃんたちがお誕生日のお祝いに来てくれたくらいで、まだ、受験を控えていたこともあったりで、特別なことはしませんでした。

 日本人の私にとっては、どうしても成人=20歳というあたまがあって、18歳はフランスでは成人でも、20歳になるまでの2年間はまだ、どことなく、娘はまだ成人ではないような気分が半分以上ありました。

 とはいえ、フランスで18歳となれば、一番に思いつくのが犯罪などの際の扱いなど、日本よりも一足先に法的に成人です。同じ人がフランスでは成人、日本では未成年と妙な2年間です。

 しかし、日本で生まれ育った日本人の私としては、どうしても二十歳が成人という気持ちが強く、それが私の中では区切りではあったのです。

 とはいえ、フランスでの成人というのも、我が家にとっては大きなことでもありました。

 それは母子家庭であったということが関係しています。

 夫が亡くなったのが娘が10歳のときのことで、誰が通報したのか?夫が亡くなって、まもなくして、児童裁判所に呼び出されたことがありました。

 子供を取り上げられてしまうのでは?という懸念があり、夫の元同僚の女性が裁判所には付き添ってくれて、よく説明してくれたので、子供を取り上げられることはありませんでしたが、それから、成人するまでの間、私たち親子は一応、市の児童裁判所の監督下におかれることになり、私になにか落ち度があれば、娘は取り上げられてしまうという恐怖が私にはいつも付きまとい、娘が18歳になるまでは絶対死ねないし、絶対に子供を1人にして放置して出かけたりすることはできないし、うっかり病気をして入院もできないし・・と大変な気負いがありました。

 年に一度、裁判所から送られてくる、報告書のようなものを提出しなければならなかったし、私の中で、娘が18歳になるまでは・・という気持ちも大きくあったのです。

 一応、18歳になった時点で、児童裁判所からも解放され、私は大きく肩の荷を一つおろした気持ちになったものの、娘はまだ学生で、日本ではまだ未成年。成人式のために日本に帰国することはできなくても、一応、娘には振袖を着せて、写真屋さんでちゃんとした写真を撮ってもらい、私の大好きだった祖父母のお墓まいりに行き、ごくごく近い日本の親戚に挨拶に行き、それをもって、成人式の区切りとしたのでした。

 真夏の暑さの中、私の希望で振袖を着せられる娘も気の毒でしたが、そのために私が成人式の時に来た着物は、その後、従妹のところを転々としたあと、行方不明になってしまっていて、実家をひっくり返したら、母が結婚式の時に着た振袖が出てきたので、それを娘には着てもらい、また別の意味で感慨無量でした。

 できることなら、母に見せたかったけど、私の中ではこの娘の真夏の振袖姿が娘の成人の区切りになりました。

 2回の成人式を通過する海外在住の日本人の子供、2段階の成人式も悪くないような気もしているのです。


フランスの成人式と日本の成人式


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2023年6月17日土曜日

暑い日はプールへ フランスのプール事情

  

 

 最近?旅行をするたびに、体力の衰えを著しく感じて、日頃から鍛えていなければ、いつまでも旅行を楽しむことができなくなる・・という危機感を感じるようになりました。年齢を重ねるごとに哀しいかな、何もしないでいると、みるみる体力は衰えて、現在の状況を維持するだけでも、なにか定期的な運動をしなければ維持できません。

 日頃から、ロクに動かずにゴロゴロしている我が家の猫などは、こんなに動かずにいても、時たま、ものすごい脚力や瞬発力を見せたりするので、身体能力すごいな・・などと、猫に嫉妬したりもします。

 しかし、私の場合、努力しないと衰える一方なので、こころして、歩ける区間はできるだけ歩き、せめて週1回は泳ぎに行くと決めています。

 以前は、スポーツクラブに入っていたので、快適に運動ができていた・・といっても、結局、時間に追われて仕事帰りにジムに寄っても、結局はサウナかハマムに入るだけというお風呂屋さんのような使い方が多かったけど、たまには、トレーナーさんが組み立ててくれた最低限のマシンを使っての一通りのメニューをこなして、たまにはプールで泳ぐといったことができていました。

 施設もきれいで、おしゃれな空間で、子供がいない大人だけの空間が心地よく感じたりもして、とても気に入っていました。

 しかし、パンデミックを機に、ぱったりと行かなくなって、また再開しようと思った時には、パンデミックの煽りを受けて、そのクラブは潰れてしまっていました。

 他に探せば、ジムはいくらでもあるのですが、やはり定期的に通うとなったら、通いやすい場所にあってほしいもので、もろもろを考えるとジムは断念し、最近、改装された市民プールに週1で通っています。

 手軽にできる縄跳びをしたりしていたこともあったのですが、別にひねったとか、くじいたとかいう覚えはないのに、いつの間にか骨折したりしたこともあって、痛い思いをしたためにこれは断念。

 何だか知らないけど、ちょっとうっかり運動すると、転んだり、怪我したりもするので、私にとっては泳ぐことが一番、安全でもあるのです。

 それでも、週1回泳ぐだけでは、充分ではなく、(私の場合は食べることを諦めたくないため)とにかく、とりあえずは、できるだけ歩くことにはしていたのですが、ここのところ、パリはちょっとヨレヨレしてしまうくらい暑くて、ふつうに歩くだけでもしんどいような気候になってきました。

 これなら、週1と定めずに暑いならばプールに行けばよいと、ここのところ、時間があけば、プールに通っています。

 しかし、市営プールは、近隣の小学校の生徒が使用する時間帯が決まっており、バカンス時期でなければ、小学生が使わない時間が一般公開になっているので、いつでも行けるというわけではないのです。

 どんな学校にもあたりまえのようにプールがある日本と違って、フランスの学校には、公立、私立ともにプールがないのがふつうで(最初は驚きました)、一年を通して(屋内プールであるため)近隣の学校に割り当てられていて、水泳の授業の時間は、生徒たちが市営プールに出むくのです。

 なので、一時は娘の学校の水泳の授業は真冬の寒い時期に割り当てられたりしていた時もあって、真冬で極寒なのにもかかわらず、「水泳の授業の日はタイツを履かせて来ないでください(脱いだり着たりするのに時間がかかるため)!」などという先生がいて、「風邪ひいちゃうでしょ!ふつう、逆じゃないの?」と憤慨したりしたこともありました。

 そのために、我が家の近所の市営プールが一般公開される時間帯は限られていて、早朝7時から8時半までか、昼休みの時間帯12時から13時半までか、夕方17時から20時までとか限られた時間、あるいは小学校が休みの水曜日の午後か土曜日になるのです。

 先日、あまりに暑くて昼休みの時間に泳ぎに行ったら、限られた時間だというのに、えらい混んでいて、こんなにアグレッシブに運動しようとしている人が沢山いるのかと驚かされました。まあ、暑いので、ちょっと水浴びがわりという私のような人もいるのかもしれませんが、ちょっとびっくりした次第です。

 日本はフランスとは逆のようで、この間、娘が来た時に聞いたら、実家近くの区立の中学校のプールが夜、一般公開されていると聞いて、昔はそんなサービスはなかったのに、日本も変わったのだなぁ・・フランスとは、全く逆なんだな・・と思いました。

 あたりまえのように、どんな学校にもプールがある日本は、そういう意味ではずいぶん恵まれていて、それをより多くの人が使えるようになっていることは、スゴいことだな・・とちょっと感心しました。

 数少ない市営プールを市民と学校でシェアしているフランスとは絶対的にプールの数が違います。

 今の小学校はどうなっているのかわかりませんが、大昔、私が小学生だったころは、夏休みでさえも、学校のプールに通っていた記憶があり、ということは、先生がその期間も働いているということで、これはフランスの学校だったら、「バカンスを侵害する!」とストライキでもおこりそうな、あり得ないことではありますが、そんな日本の学校のプールのおかげで、私は、泳げるようになりました。

 「日本の学校は・・日本の教育は・・」と嘆く話をよく聞く気がしますが、とりあえず、水泳に関しては、日本の学校はすごいな・・と思うのです。


フランスのプール


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2023年6月11日日曜日

日本に帰っていった娘 親離れ・子離れ

 


 転職を機に、パリに一時帰国?していた娘が日本に帰っていきました。2週間程度の滞在でしたが、その間、彼女は時間を惜しんでパリにいる友人と会ったり、私とも一緒にパリで買い物して歩いたり、食事に行ったり、イタリアに旅行したりと私にとっても、楽しい時間でした。

 私は子育ての過程において、かねてから、子供は、ある程度の年齢になったら、家を出て、独立した生活を経験するべきだと思っていたし、娘の場合は、彼女のエコールがボルドーにあったために、以前にも1人暮らし(といってもシェアハウスのようなところでしたが・・)をしていた期間がありました。

 途中、パンデミックで予定が狂ったりして、海外への留学がキャンセルになったりして、その間は、ボルドーを引き払って家に帰ってきて、パリでスタージュをしたりしている間は、家に戻っていましたが、就職先に日本にある会社を選んだことで、パリの家からは、出ていくことになりました。

 彼女が最初にボルドーで一人暮らしを始めるときは、親元を離れて生活するということが初めてだったので、日本っぽいとか、少々、親バカかとも思いつつ、どんなところで彼女がこれから生活するのかも見ておきたかったし、大家さんにも一応、挨拶をしておこうと思って、日帰りですが、一緒についていったし、また、日本で生活を始めるにあたっても、日本には何度も行ったことがあるとはいえ、日本で生活するのは初めてのことなので、住民票のこととか、銀行のこと、また、空き家になっていた私の実家で生活するために、家に不具合はないかとか、周囲の親戚や、私の友人など、色々な人に一応、声をかけておこうと、親として、私が彼女にしてあげられる最後のこと・・と思って、最初だけ一緒に日本に行き、その後、私は1人でパリに帰ってきました。

 彼女が日本で仕事をし、一人暮らしを始めて、1年とちょっとが経ち、今回、彼女がパリに帰ってきて、普段、時々、電話で話したり、メッセージを送りあったりしているものの、ゆっくり話をするのは、久しぶりで、彼女の様子から、日本とフランスの違いを肌で感じながら、着々と1人での生活を確立していっている様子が見えて、もともとしっかりした娘ではありましたが、またワンステップ、人として、成長した様子が見えて、やっぱりよかったな・・とそんな気持ちでいます。

 経済的にも、今の彼女はけっこう稼いでいるにもかかわらず、旅行などはけっこうしているらしいものの、実生活は、かなりガッチリとしていて相変わらずのケチケチ生活をしているようで、そんなところも、自分の生活を自分で営んでいるところが垣間見えて、微笑ましい限りです。

 正直、夫が亡くなって以来、親一人子一人の生活をずっと続けてきて、私は、これまでは何よりも娘のことを優先に生活してきたし、当初は、私も自分だけのために何かをするというリズムをすっかり忘れていましたが、今では、すっかり自分のリズムで生活することに慣れてしまいました。

 多少、寂しい気もすることはありますが、やっぱり、ある程度の年齢になったら、親から独立することは、必要なことだと思っています。

 私が彼女くらいの年齢の時は、時代も国も違うので、必ずしも、比較の対象にはなりませんが、父親がうるさくて、女の子が一人暮らしをするとか、あり得ない感じだったし、夜、出かけるにも、旅行に行くにも、いちいち親がうるさくて、かといっても、なんだかんだいって、自分は親がかりの生活を抜け出す勇気もなかなかなくて、どこか不満に思いながらも中途半端だったなぁと思います。

 日本は成人しても親元に居続けることが珍しくもないし、親の方も子供を独立させたがらないので、その時は、そのことをあまり、おかしいとも思っていなかったのですが、こうして海外に出てみると、子供が成人したら、わりと普通に独立していくのを見るにつけ、ある程度の年齢になったら、男女問わず、親離れ・子離れしていくことは、親にとっても、子供にとっても、人間として大事な成長の過程であると思うようになりました。

 海外での子育ては本当に大変でしたが、思い返すと本当に楽しかったし、子供がいなければできなかったであろう、このうえない経験を沢山させてもらいました。本当に楽しかったし、子供を産んで育てるという経験ができて、本当に有難い経験でした。

 しかし、この先もズルズルと親も子も、もたれかかりあう生活はどちらのためにもならないとも思い、区切りをつけることも必要だと私は自分に言い聞かせるようにしています。

 私の両親はもう他界してしまっているので、私は親の介護という問題からも卒業?し、今のところは、私が介護してもらうような状態でもないので、今は私は一応、子育ても卒業し、自分自身の生活を有意義に過ごせるように楽しみながら生活し、娘は娘でこれから彼女が自分自身の家庭を持つまでは、独身生活を謳歌しながら送っていくと思います。

 もともと、私は、彼女が生まれた時から、娘には国際人になってほしいと思っており、彼女には、日本にも海外にも共通に存在する名前をつけました。日本語も必死で一生懸命教えてきたし(英語はほんの少しだけだったけど・・)、こうして、今、色々な国の人々と仕事をし、海外を自由自在に行き来している彼女の姿は私の理想にかなり近かったかもしれないとも思います。

 彼女の今回の来仏は、できるだけ安いチケットを探したと言っていて、ベトナム経由のフライトを選び、ついでにベトナムにも数日、滞在するとかで、その体力とバイタリティには、感心するやら羨ましいやら・・。今、私にもそんな自由はあるものの、とても体力的に無理になってしまいました。

 とはいえ、離れて生活している以上、いつ何があるかもわからないし、「あれが最後だった・・」なんてことにもなりかねないため、空港までは送って行って、「次は私が日本に行くね・・元気でね・・」とお見送りをしてきました。

 今回、彼女がパリに着いた時に、エスカレーターが壊れていて、「フランスに帰ってきたなぁ・・」と実感していた彼女でしたが、彼女を見送って、早々に電車で帰ろうとした私は、不審な荷物があるとのことで、空港の駅が閉鎖・・。

 どうにか、違う駅まで移動して、もう娘の飛行機は出ている頃だろうな・・ヤレヤレ・・と家に帰ってくると、娘からメッセージで「飛行機が遅れていて、まだ出ていない・・」と。飛行機は結局1時間半も遅れて離陸し、彼女は、行きも帰りもフランスらしさを満喫することになったようです。

 彼女の選んだフライトは、ベトナムエアラインで日本への直行便ではないのに、「日本人観光客がいっぱいで、乗り継ぎに間に合わなくなると日本人が騒いでいる!」と・・。

 多くの日本人観光客も同じエアラインを選んでいるということは、やっぱり今、ベトナム経由が安いのかも??などと、思ったりしました。

 そんなわけで、彼女は今、フランス、イタリアに次ぎ、ベトナムでのプチバカンスを楽しんでいます。パリを出る時にスーツケースの計量とともに、自分の体重を測りながら、「ヤバい!4キロも増えてる!」と焦っていた娘・・ベトナムに着いても、「食べ物が美味しくて、しかも安い!これで4ユーロ!」などと写真を送ってきています。

 彼女のダイエットは日本に帰ってからになりそうです。


親離れ 子離れ


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2023年5月26日金曜日

娘の友人関係に見るフランスの社会構造

  


 現在、日本で就職した娘がフランスに一時帰国しており、彼女は久しぶりのフランスで日頃、会うことができていない友人に会ったり、買い物をしたり、私が日本に一時帰国した時と同じようなことをして楽しんでいます。

 まあ、違う点といえば、彼女はそもそもフランスで育ったというのに、フランス料理はあまり好きではなく、圧倒的に日本の食生活に満足しており、私が日本に行った時のように、ここぞとばかりに日本の食料を買い集めて持って帰ろうとするようにフランスの食べ物を買い集めたりすることはなく、日本では、探すのが難しい、彼女の体型に合った洋服などを悠々と探していることで、私が日本に帰った時のように食べ物に対してガツガツした姿勢がないことくらいです。

 日本で生活を始めて約1年半が経ち、日本でもそれなりに友人ができ始めたようで、当初は私が心配していた人間関係も概ね好調のようで、彼女にとっては、特に彼女とほぼ同じような境遇、フランス人と日本人のハーフでパリ育ちで現在、日本で就職して、日本で一人暮らしをし、親はフランスにいる・・という女の子と仲良くなったことは彼女にとっては大きなことだったようです。

 今後のことはわかりませんが、現段階では、フランスで育ってきた彼女にとってはフランスの方が長く知り合っている友人はフランスの方が多いわけで、そんな友人たちに会えることは、何より楽しいことのようです。

 彼女は小学校から高校までは、近所の私立の学校に通っていたので、その学校での友人との付き合いは長く、また、その後、プレパー、グランエゼコールと進む中でも、それなりに友人ができていったのですが、彼女の友人たちの近況を彼女から伝え聞くにつけ、世の中で騒いでいる生活が苦しい学生の話や貧しい若者たちの話などとは、まるで無縁の世界に突入していて、すべて、うまいように人生が転がって行っている感じで、人生は早い時点でその道筋がついてしまっているのかもしれない・・と思わずにはいられない感じがしています。

 とはいえ、皆、仕事を始めて、まだそんなに経っていないので、これからどんな落とし穴が待っているかはわかりませんが、彼女の友人たちは皆、よい就職先に就き、けっこうな高収入を得て、順調にキャリアを積んでいるようで、特にグランゼコールを卒業した子たちなどは、話には、聞いていましたが、普通の人たちが何年もかけて昇格していくところをいきなり管理職だったりするのには、唖然とさせられます。

 私自身は、フランスの学校のシステムをよく理解していたわけでもなく、特に唯一の頼みの綱だった夫が亡くなってからは、彼女にそれらしいアドバイスができていたわけでもなく、なので当然、それを目指して教育してきたわけではないのですが、結局、彼女を小学校から通わせていた私立の学校へ入学させたことが、今から思い返せば、大きな分かれ道だったような気がしています。

 彼女たちは、まだ、20代前半(中盤?)なので、これからも色々なことがあるでしょうが、教育というものは、大変なものだ・・良くも悪くも、人生を全く違うものにするものなんだな・・と実感しています。

 彼女が通っていた私立の学校は、とりあえず、家から近いということで選んだ学校だったのですが、これが、たまたま結構な受験校(フランスには実際に受験らしい受験はないので、受験校という言い方はふさわしくなく、教育熱心な学校という方がよいかもしれない・・)高校卒業時点でプレパー(グランゼコール準備学校)に進む人も少なくないような学校だったのです。

 ですから、そんな学校の中で育てば、負けず嫌いな娘は上を目指すようになったのですが、実際のところ、世間一般の社会の中では、フランス人でもグランゼコールというものを知らない人もいるのには、驚いたことがありました。

 むしろ、在仏日本人の方が、結構、子供がグランゼコールに行っていたとか、ポリテクニック( École polytechnique)に行っていたとか、シアンスポ(Sciences-po)に行っていたとかいう話は、そこここで、よく聞く話なので、そんな学校の存在をフランス人でさえ知らない人がいるということは、もっと知らないはずの日本人の私にとっては、びっくりだったのです。

 ということは、もうその親からして、まるでそういう学校とは無縁の人生を送ってきたということで、家族もろとも、別世界を生きているのだと思わざるを得ません。

 これまでのフランスでの生活で、私自身は、ロクにフランス語もできていないような状況なので、圏外みたいなものですが、話には聞いていた格差社会は根深いものだという裏付けが娘やその友人たちを通して見えるような気がしています。


フランスの社会構造 格差社会


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2023年5月23日火曜日

もしも彼らが生きていたら・・移り変わる家族環境

   


 今、私の友人の多くは介護とまでは言わなくとも、高齢の親を抱えていて、なかなか自由に旅行したりすることができないという人が多いのです。私の友人には、なぜか独身か、結婚していても子供がいないという人が多く、日本の少子化を現状を物語っているような感じがしますが、それでも、彼女たちにはなかなか自由は訪れないようです。

 私の世代では、20代後半から30代にかけて、親からの「早く嫁に行け!結婚しろ!」プレッシャーはなかなかなものでしたが、もう親も歳をとるにつれ、それがぴったりと止むどころか、逆にいつのまにか「行ってほしくない」に変わっていたのです。

 なので、親子(母娘)二人暮らしという人も結構、いて、親子関係にもよるでしょうが、母親にとったら、高齢になって、娘と二人暮らしというのは一番心強いのだとも思いますが、さすがにその娘の方もかなり年齢を重ねていくと、体力的にも精神的にもきつくなることがあるようです。

 私の母が亡くなったのはもう17年前のことで、そんな友人のぼやきを聞いても、今でも親が生きていてくれるなんて羨ましいと思ってしまうのですが、今後、必ずやってくる親を見送る時が実際に自分が体力的、精神的に衰えた時にやってくるのも、それはそれで、さぞかし辛いことではないか?と思ったりもします。

 それと一緒で、結婚している友人は、相変わらず夫の生活にびっちりと合わせて生活している様子が垣間見れて、こっちの方は、夫を失って、シングルの生活に慣れきってしまっている私には、夫の死後、否応なしに仕事と娘の生活には合わせてきたものの、娘も独立した今、人に合わせて生活するということが、窮屈そうに見えてしまうこともあります。

 しかし、天気の良い日に公園などを老夫婦が仲良く手を繋いで散歩していたりする様子をみるにつけ、羨ましいな・・今も夫が生きていてくれたら私も夫と仲良く手を繋いで散歩でもしてみたかったな・・と思ったりもするのですが、日々の生活の毎日には、仲良く手を繋いで散歩するだけではないだろうと、ちょっと捻たことを考えたりもします。

 これまでに、夫が生きていてくれたら・・とどれだけ思ったことかわかりませんが、そんなことは言っても仕方のないことでもあるし、生きていたら生きていたで猛烈にケンカしていたかもしれません。

 特に夫は比較的、年齢も若く、現役中に亡くなってしまったので、夫の退職後の生活というものを私は体験しておらず、今、もしも生きていたら、そろそろ定年退職を迎えていたであろう生活はまるで想像がつきません。

 フランス人だけあって、初めて定年退職のポイントの通知(現在、何ポイントで満期になるまであと何ポイントとかいう予定表のようなもの)が届いた時には、大喜びで、「やっぱりこの人、フランス人だわ・・」と呆れたのを覚えていますが、結局、彼は定年を迎える前に亡くなってしまったので、亡くなってしまった時には、あんなに定年を楽しみにしていたのに・・と思ったくらいです。

 夫は定年退職後のことをよく語っていて、定年になっても、まだしばらく働くつもりだとか、日本に住みたいとか、ジンバブエに住みたいとか、わけのわからないことを言っていましたが、結局はどれも実現はしませんでした。

 最近はよく、同年代の日本人の女性がつぶやいている、子供が独立して、夫が定年になる生活が苦痛・・というのも、それまでの生活の仕方や夫婦関係にもよるだろうし、それこそ、人それぞれだとは思いますが、一般的には概して日本人男性の方が大変そうだな・・と勝手なことを思ったりもしますが、いずれにしても、私としては、自分が体験できなかったことでもあり、そんなボヤキも含めて羨ましいと思ってしまうのです。

 両親にしても、夫にしても、もしも、彼らのうち誰かひとりでも生きていたら、私の生活は全然、違うものになっていたと思うと、自分が選べることではありませんが、周囲の家族の状態というのも大きく人生を左右するものには違いなく、今は自分は自分に与えられた状況をできるだけ楽しく快適に過ごせるように心がけるのみと思っています。


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「これまで何回かあった日本に本帰国する機会」

2023年5月18日木曜日

これまで何回かあった日本に本帰国する機会

  


 海外に出て、もう四半世紀が過ぎようとしていますが、私はこれまで、一度たりとも、海外に永住しようと決意したことはありません。逆に常に、何かあったら、日本へ帰ろうと思っていました。

 しかし、結果として、これまでは、何かあっても、日本に帰りませんでした。もちろん、両親もいて、娘もまだ小さかった頃は毎年のように、バカンスで日本に一時帰国はしていましたが、本帰国となると、そんなに簡単ではありません。

 最初に日本に帰ろうか?という機会は、アフリカにいた頃の話で、妊娠して、「出産するのは日本の方がいいんじゃないの?」というタイミングでしたが、これは、どちらかというと私の方が子供の誕生と育児という一大事をスタートから夫とともに経験したいと考えていたため、夫の仕事の都合上、日本で生活するということは全く選択肢になく、日本には帰りませんでした。もっとも、もしも、この時に帰国したとしても、本帰国と言う話ではありませんでした。

 その後、夫の仕事の都合上、私たちはフランスに転居し、フランスでの生活がスタートし、1年弱かかって、ビザがおり、私もフランスで仕事を始め、娘はフランスの保育園、小学校・・とフランスで教育を受け始めました。

 次に日本への本帰国を考えたのは、夫が突然、亡くなってしまった時のことで、直後はもう私は本気で日本に帰ろうと思っていました。しかし、帰国するといっても、夫の死後の手続きはかなり煩雑で、しかも時間がかかり、その間、私は仕事を再開し、娘もそれまで通っていた私立の小学校に通っていました。

 その時、最も助けてくれたのは、夫の元同僚だった女性と娘の学校の先生やママ友たちでした。数日前に倒れた夫が集中治療室に入ってはいたものの、前日には面会もできて、話もできていたので、そんなに急なことになるとは思っていなかったので、夫が亡くなったその日も娘は学校に行っていました。

 私はしばらく、仕事に行けないので会社の鍵(私が毎朝、会社を開けていたので・・)鍵を渡しに行って、家に帰ると病院から電話で危篤だと電話があり、病院に駆けつけると、夫はもう息絶えていました。

 その後、私は娘を迎えに学校へ行ったのですが、学校に夫が亡くなったことを告げたのはその時、担任の先生に話しただけなのに、その後、学校の校長先生から電話があって、今後、お嬢さんの学費はカトリックの支援機関が負担するように手続きができましたから、落ち着いたら、学費のことは心配しないで、娘さんを学校に来させてくださいと伝えてくれました。

 また、あの時の周囲のママ友たちの団結力は、ちょっと驚くほどのもので、それまで私自身は、学校のことは夫にほぼ、任せて切っていたため、正確には、その時点では、彼女たちはパパのママ友たち(パパ友も・・)でしたが、彼女たちが、夫の葬儀のためにしばらく学校を休んでいる娘の学校の勉強を子供を連れて教えにきてくれたり、学校やお稽古事(バレエや水泳など)の送り迎えを手伝ってくれたり、皆が声をかけあって、助けてくれました。

 それまで、私はフランス人は利己的で冷たい・・などという勝手な印象を持っていたのですが、ここぞというときは、団結して助けてくれる暖かさと強い行動力を持った人々であったことを思い知らされました。

 彼女たちは、私が日本に帰国しようとしていることなど、そんなことは全くあり得ないことだと言い張り、「パパを亡くした○○ちゃんから、学校や友達、そして彼女からフランスと言う国を奪うつもりなの?大変なことはたくさんあるだろうけど、私たちが助けるから・・」と言ってくれました。

 言われてみれば、娘にとっては、パパを亡くして、そのうえ、友達もなくして、学校も変わって、国まで変わるということは、かなりな負担になることは間違いないことで、私もそれからしばらく考えました。

 それでも、もしも、すぐに帰国できる状況であったならば、この時ばかりは私も本当に日本に帰ってしまったかもしれないのですが、夫の死後の手続きにかなり時間がかかったこともあって、その間にママ友たちが言ってくれたことなども心に響き、私もフランスで仕事をしているし、娘のことを考えたら、やっぱりフランスに残った方がよいだろうと思い直して、結局、日本へ帰国するのはやめたのです。

 この時に最も印象的だったのは、ここぞという時のフランス人の優しさと団結力と愛国心で、中でも「娘からフランスと言う国を奪うつもりか!?」という言葉はちょっと日本人には出てきそうにない言葉だな・・と思いました。

 その後、日本にいる父がかなり弱ってきて、一人で生活するのが厳しくなり始めた頃、父は、私に日本に帰ってきてほしいと言い出しました。しかし、ちょうど娘の受験の時期と重なり、ここまで頑張ってきたのに、娘のフランスでの教育を実らせてあげたい、ここで台無しにするわけにはいかない・・と、ひとまず受験が終わるまでは、フランスに残りたいので、それまでは頑張って!と父に話しました。

 しかし、結局、父はその前に逝ってしまいました。親不孝なことです。

 結局、これまでに、何回かは日本に帰ろうと思ったこともあったのですが、結果的には、タイミングがよかったのか?悪かったのか?日本に帰ることにはなりませんでした。

 今、もしも、両親のどちらかでも生きていれば、私は今度こそ、本当に日本に帰っていたと思うのですが、今では帰ることができないわけでもないのですが、特に帰る理由もない感じになりました。

 最近、パリにいる日本人の友人には、「子供も巣立って、夫婦で日本に帰ろうか迷っている・・」と話している人もいれば、もうすっかり日本には帰るつもりはなく、しっかり終活をして、準備をしている人もいます。

 私は今のところは、結局、どちらにも決めきれず、まあ、もう少し考えようと、決断することを先延ばしにしています。私の理想はフランスと日本、半々の生活です。


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2022年11月20日日曜日

離婚率も高いが再婚率も高いフランス 子育て期間も長くなる

  


 フランス人の友人、知人、同僚などには、子供の年齢が結構、離れていることがある場合があって、私とそんなに年齢が変わらないと思っていた人に意外とまだ小さい子供がいたりして、驚かされたりすることがあります。

 彼女たちと世間話をしていると、子供の話題になることも少なくないのですが、そんな子供の話になって、「えっ?まだ、そんなに小さい子がいたんだ・・」と驚くと、「私だって、ほんとは、もう子供はいらなかったんだけど・・」などと、こちらが恐縮するようなことを言い出したりするので、びっくりさせられるのです。

 また、そこまで詳細な家族構成がわからずにいて、子供は現在、同居している子供だけだと思っていたら、「これがこの間、ブルターニュで生まれた私の孫で・・」などと写真を見せられたりして、逆にそんなに大きい子供さんもいたんだ・・」と驚かされることもあります。当然、これは前の夫との子供の子供(孫)で、ママであると同時にマミー(おばあさん)でもあるわけです。

 というのも、年齢の離れた子供を持っている人は、たいてい再婚をしていて、最初の結婚での子供に加えて、再婚相手との子供もいるので、おのずと子供の年齢が離れていることになるわけで、それだけ長期間にわたって子育てをしているわけです。

 フランスは離婚率が高くても、再婚率も高いわけで、その全部の子供たちと同居しているかどうかは別として、一度、離婚しても、懲りずに再婚して子供もいる場合も多いのです。

 考えてみれば、娘の友人などでも、異母兄弟を持つ人は少なくなくて、そういう我が夫も再婚だったので、娘にも異母兄弟がいるので、その例外ではないかもしれません。

 娘の友人の両親で、3人の子供がいて、パパが浮気をしているのが見つかって、家を出て行った・・別居・・かと思うと、いつのまにか、またパパが戻ってきた・・と何度か別居と復縁を繰り返していたと思ったら、ついに離婚。かと思ったら、今度は、ママの新しい恋人があっという間に同居・・と、日本的?な感覚からしたら、子供たちは新しいママの恋人をどうやって受け入れているのだろうか?と思ったりもするのですが、それはそれなりに成立しているようで、やはり、ここまでするのは、バイタリティーあるなぁ・・と感心させられたりもするのです。

 私だったら、双方に気を使って疲れ果ててしまいそうで、そんな面倒臭いことはゴメンだと思ってしまいます。

 そもそも、フランスには、PACSのような事実婚の形態も存在しているので、結婚せずに子供を持つ場合も少なくないこともあると思いますが、一度の離婚くらいではめげない、よく言えばバイタリティや奔放さ、自由さがフランス人にはあるのかもしれません。

 それに比べて、日本にいる私の友人、知人は、再婚どころか独身の人も多く、もちろん彼女らには子供はおらず、結婚していても、子供がいない人が圧倒的に多く、逆に私に1人でも子供がいることが奇跡的に感じるほどで、なるほど日本は少子化の一途を辿るわけだ・・とも思います。

 私は、離婚したわけではなく、死別だったこともあるのか、もう懲り懲りで、(また死なれるのはたくさん)全く再婚するつもりはない私は、やっぱり日本人なのかもしれません。


フランス人の離婚 再婚 子供


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2022年11月2日水曜日

トゥーサンのお墓参り フランスのお墓のこと 夫が亡くなった時のこと

 

トゥーサンの時期の墓地の近くのお花屋さんの店先

 

 今はトゥーサン(万聖節・諸聖人の祝日)のバカンスで、フランスでは皆がお墓参りをする時期です。我が家にとって、このトゥーサンのバカンスは、夫の命日が近いタイミングでもあり、もう10年以上が経った今でも季節的にあの頃のことを思い出してしまう複雑な季節でもあります。

 当時、ちょうどトゥーサンのバカンスが終わった翌日に、夫は職場で倒れて入院し、その後、数日のうちに亡くなってしまったので、本当に急なことで、茫然自失の状態でした。娘がバカンスで学校が休みの間は、水族館に行ったり、ムードンの森に栗拾いに行ったりと、ごくごく普通の生活を送っていた私たちにとっては、晴天の霹靂でした。

 それまでも、何回か夫が入院したことはあったので、まさか、そんなことになるとは思わず、入院した日も夫は夜、家に電話をかけてきて、「2〜3日入院するから、娘を学校に連れて行ってあげられないからお願いね・・」と言っており(それまでは、朝、夫が娘を学校に送り、夜、私が迎えに行っていました)、仕事をしながら、朝も夜も一人で送り迎え・・シングルマザー生活大変だ・・くらいに思っていて(結局は、それ以来、本当のシングルマザー生活に突入してしまったのですが・・)、「平日は病院には行けないから、週末、必要なものを持って病院に行くから・・」と話していました。

 週末になって、娘を連れて病院に行くと、夫は集中治療室に入っていたために、娘はまだ集中治療室に入れてもらえない年齢ということで、夫に会うことはできず、「夫の方も一般病棟に移れたら、またすぐ会えるのだから・・」と話していました。

 それが翌日、再び病院に行くと、容態は前日より悪化しており、お医者さんから、「命の危険がある」と告げられました。命の危険があると言われて、真っ青になり、とりあえず会社の上司に電話をして、しばらく会社を休ませてもらうことにしたのですが、私は会社の入り口の鍵を預かっていたので、それを誰かに渡さなければならず、翌朝、朝いちで会社に行って、同僚の一人に鍵を渡し、家に帰るとすぐに病院から「危篤だからすぐ来てほしい」という電話が入りました。

 慌てて、タクシーを拾って、病院に着いた時には、もう夫の息はなく、彼の最期には間に合いませんでした。「お医者さんから解剖をさせていただけたら・・しかし、強制ではありませんが・・」と言われて、今回ばかりは、こんなに急に亡くなってしまって、全くわけがわからず、納得もできなかったので、迷うことなく、「是非、お願いします」と答え、できることなら、自分でやりたいくらいだと思いました。

 その後、娘を学校に迎えに行って、病院に連れてきたことまでは覚えているのですが、その後、数日のことは詳しくは覚えていません。

 葬儀の手配等は、彼の息子たちが全部やってくれたので、とどこおりなく終わり、夫のパソコンの裏に貼り付けてあった、簡単な書き置きのようなものの中に「お墓は家から一番近いところにしてほしい」という一文があったため、近所の墓地に埋葬することになりました。

 夫の両親のお墓は、彼がお金を出して何やら立派なお墓を義理兄夫婦の家の近くにたてていたのですが、なぜ、そこには一緒に入らずに、家の近所に別にしてほしかったのかは、わかりませんが、そんなことはずっと先の話だと思っていたので、彼と直接、そんな話をしたことはなかったのです。

 市営墓地なので、年契約で場所を借り取る感じなので、我が家の場合はたしか、とりあえず30年契約にしたと思います。棺とともに霊柩車に乗って、墓地に着くと、もう場所が用意されていて、思ったよりもずっとずっと深い穴が掘られていて、土葬というものが初めてな私にとっては、それもかなりショッキングでした。

 私は普段はあまり感情表現が激しい方ではないのですが、その時ばかりは声をあげて大泣きしたことは、覚えているのですが、娘に言わせると、「ママの泣き声は、墓地の塀の外にまで聞こえていたと思うよ・・」と言われたので、私が取り乱したことは、娘にとってショックだったようで、後になってみると、娘には申し訳なかったと思います。

 周囲の風景はなに一つ変わることはないのに、私はもう半分、あちらの世界にいるように現実感がなく、私がどうにかこちらの世界にひき戻されたのは、娘を一人で育てていかなければならないという現実でした。

 深い深い穴に埋められた棺の上には山盛りの土が盛られ、その上にお花が山のように盛られましたが、墓石を置くのは数ヶ月経って、少し土が沈んでからの方がよいとのことで、数ヶ月後に、墓地のそばにある墓石屋さんで墓石を注文し、とりあえず、私が入る場合も考えて、二人分の名前を入れて、ちょうどいいスペースをとって名前を刻んでもらいました。

 まさかフランスで墓石を買うことになるとは・・思ってもみない大きな買い物でした。フランスでお墓を買う日本人もそうそういないだろうな・・とぼんやり思いました。

 夫が眠っている墓地は、家から歩いて20分ほどのところにあるのですが、亡くなってすぐの頃は、毎週のように行っていたのですが、今では、こんなに近いのに、滅多に行くことはなく、トゥーサンの時には必ず行くようにはしているものの、それでも年に数回です。

 以前は、お墓中がお花に包まれるような感じだったのですが、どうやら、ここ数年、ハロウィンにおされているのか、お花が減ったような気がします。



 それでも、お墓の上に乗り切らないほどのお花が乗っているお墓などを見ると、なんとなく、ほっこりさせられたりもします。

 しかし、私自身は、お墓にはあまりこだわりはないので、なんなら、海にでも撒いてくれてもいいけど・・と思っているのですが、娘には、「その時に一番簡単な方法でいいよ・・」(フランスにいる時に死んだら、フランスのお墓に、日本にいる時に死んだら日本の実家のお墓に・・)と頼んでいるのですが、どちらにしても人ひとりが亡くなるということは、お墓だけではなく、大変な手続きが必要で、できるだけ迷惑をかけないように、今のうちから、できるだけシンプルに済むように身辺を整理しておかなければと思っています。

 あれから、もう長い時が経ちましたが、「もしも、夫が生きていてくれたら・・」と何度思ったかわかりませんが、結局、今日もお墓に行って、一人で夫とそんな話をしながら、私や娘の近況報告をしてきた1日でした。

 パートナーのいらっしゃる方、まだまだ先のことだと思っても、一応、話しておいた方がよいことかもしれません。


フランスのお墓


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2022年10月31日月曜日

海外生活を送る日本人ママは頑張り屋さんが多い

  


 私がフランスで生活を始めてから20年以上が経ちますが、そんなにたくさんの日本人の知り合いがいるわけでもありませんが、それでもこれだけ長くいれば、そこそこに日本人を見かけることはあるわけで、海外生活を送る日本人ママは、みんな頑張り屋さんだなぁ〜と思うのです。

 だいたい、自分の育った文化とは違う国で生活するということだけでも大変なのに、異国で仕事をし、家庭を持ち、子供を育てながら家事もこなすということは、並大抵のことではありません。

 しかし、彼女たちは、言葉と文化の壁という障害を抱えながらも、たくましく仕事をし、子供を育てながら暮らしています。フランスの場合は共働きがあたりまえなので、日本人ママにしても、働いている場合が多いと思います。

 近くに子供の面倒を見てくれる実家があるわけでもなく、自分のルーツでもある日本の文化もできるだけ子供には伝えながら、(季節ごとの行事などもフランスのものと日本のものと両方・・)日本語を教え、フランスの学校に送り迎えをしながら通わせて、家事とて、手を抜くことなく、栄養のバランスを考えながら、手作りのものを食卓に並べます。

 日本食を作りたいと思えば、簡単にお惣菜を買ってきて食卓に並べるということもできないので、食材を買い集め、工夫しながら日本食も作ります。フランス人の家庭などは、日頃は、子供の食事は簡単に、ハム(あるいは肉でも焼いて)に茹で野菜やスープにパンとチーズなどの乳製品で終わりという家庭も少なくないので、それから考えると日本食などは、驚くほど手間がかかります。

 バカンスの多いフランスの学校の中で子供のバカンス期間のスケジュールの調整をし、お稽古ごとに通わせている人も多いです。

 海外で育つ子供に日本語を教えることは根気のいることですが、レベルも様々ですが、日本人ママのいる家庭で、全く日本語がわからない子供は少ないのではないかと思います。

 日仏家庭でも家庭それぞれで、子供の育て方も家事の分担もそれぞれだとは思いますし、概して、フランス人の男性は家のことには協力的な人が多いような気もしますが、それでもなお、日本人ママの負担はけっこう大きいのではないかと思います。それをさしてきびしい顔もせずに、あざやかにやってのけている人が多く、まさにスーパーママだな!と思うのです。

 そして、なぜか、日本人の子供は優秀な子供が多いような気もするのです。私の知り合いの子供は、なぜか、軒並み高学歴で、医者、弁護士、エンジニアなどの見事な仕上がりの子供が多いのです。

 一部には、子供の頃から、2ヶ国語以上の言語を使うことが脳の発達に影響するという話を聞いたこともありますが、基本的には、日本人が培ってきた真面目さにあると思っています。

 子供に日本人の基本的な生活習慣を教えながら、教育していくという観点からしても、それは海外にあっては、決して当たり前のことではなく、自分たちがあたりまえのように受けてきた教育をあたりまえのようにコツコツとこなしていくことは、海外ではすでに上レベルのことなのかもしれません。

 それにしても、彼女たちの日々の努力には、頭が下がることが多く、忙しいのに、そんなものまで手作り!?(自分で納豆を作ってみたり、お味噌を仕込んでみたり、ケーキを焼いたり・・)と驚かされることも多く、以前の職場にいた日本人の先輩のお弁当などを見るにつけ、彩ゆたかに品数も多く、家族の世話を細やかにやいていることは、そのお弁当からも垣間見られ、感心したものです。

 子供の教育に関しても、こういうことには気をつけた方がいいとか、日本語を教えるのは根気よく、諦めたらいけないとか、多くを彼女たちに教わりました。

 現在の私は子育ても終わり、全然、頑張らない生活になり、もっとずっと忙しくしていた頃には、逆にもっと、マメに色々なことをしていたような気もしていますが、現在、小さい子供を抱えて頑張っている日本人ママさんたちの様子を見るにつけ、やっぱり日本人ママってすごいなぁと思うのです。


日本人ママは努力家 頑張り屋さん


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2022年10月26日水曜日

義理の家族と嫁姑の関係

  


 私が夫と出会った時には、すでに夫の両親は他界していたので、私には、日本でいうところのお舅さんやお姑さんという人がいませんでした。しかし、夫には、歳の離れた兄夫婦がおり、特にそのお義姉さんは、夫の母親代わりのような感じで、非常に夫のことを可愛がっているのが傍目からもわかり、憎まれ口をききながらも、一方では、かなり甘やかしているようなところもあり、夫も好き勝手なことを言っているわりには、甘えたり、面倒をみたりもしていたので、ある意味、私にとってもお義母さんのような存在でもありました。

 とはいえ、本当のお姑さんではないので、また違うところもあるのでしょうし、彼女たちにはたくさんの子供や孫もいて、その全部を包み込んでくれるように優しさで、ほどほどの心地よい距離を保っている人でした。

 彼女は、お料理上手で、家の中ではいつでも何かしらの家事をしていて、いつも何かをしながら話をしている印象で、特に私たちがフランスに来たばかりの頃、まだ娘も赤ちゃんで、さまざまな書類の問題や私のビザの問題、職場を変わって、少しうつ状態だった夫など、問題が山積みしていた時に、彼らの存在は、私にとっては救いで、お義姉さんの存在がなかったら、そのままフランスにい続けてこれたかわかりません。

 しかし、姑がいなかった代わりに、夫には、前妻との間に3人の息子がおり、彼らは私にとっては、義理の家族ではありました。上の二人の男の子たちは、すでに大きかったのでクリスマスなどに家に来たりすることはありましたが、せいぜい、顔を合わせるのも年に数回でしたが、一番下の男の子は、隔週おきの週末には家に遊びにきていたので、一緒に出かけたりすることも多かったような気がします。

 日常的に同居しているわけではないので、そんなに負担ではありませんでしたが、いわば彼らにとって、私は継母なわけで、私の方は最初はけっこう身構えていましたが、彼らは、思っていたよりも全然、普通で、自然な態度で、逆に言えば、遠慮というものも全く感じられず、和気あいあいとした感じでした。

 日本の私の両親には、弟のお嫁さんがいて、彼らが日本にいた頃は、娘を連れて、顔を出したりしていたようですが、弟もある時から海外勤務になり、一時帰国時には、お嫁さんと子供は彼女の実家に滞在し、弟だけが実家に滞在するという奇妙なような、一方ではしごく当然のような感じで、私の実家と弟のお嫁さんは、別に険悪というわけではなくとも、最低限のつきあいという感じであまり深い関わりはなかったと思います。

 何より、父が大変、気難しい人だったので、弟が警戒してあまり近づけなかったというのが正直なところかもしれません。

 私の母や叔母と祖母(彼女たちにとっての姑)の関係を見ているとずいぶん違うな・・とも思いますが、それはそれぞれの家庭環境や時代の違いもあるのかもしれません。

 母は、お嫁さんとも、そんなに気を使わずにいられると言っていましたが、私がアフリカにいたり、出産後、しばらく日本に帰れなかった数年間ののち、日本に帰った時に、「今まで、お嫁さんにそんなに気を使っているとは思ってなかったけど、娘は楽ね・・」などともらしたことがあったので、それなりにお互いに気を使いながら、無難に過ごしていた気がします。

 しかし、母が心臓の発作を起こして入院した時、転勤でアメリカに行ったばかりだった弟たちが、トンボ帰りのように日本に帰国して、一時、どうにか症状が落ち着いたかに思われた母を見届けて、アメリカに帰る前に、母がベッドの上に座りなおして、お嫁さんに「息子をよろしくお願いします」と頼んだという話を母の死後に聞いて、この義理の親子の関係というものは、どういうものだろうか? 母はどんな気持ちだったのだろうか?と、そんな嫁に向けての最期の挨拶の仕方がかえって二人の距離を感じさせるような、複雑な思いをしたものです。

 私の義母は、義姉さんの話によると、かなり存在感のあるダイナミックな人だったようで、会ってみたかったな・・フランスのお姑さんというのも体験してみたかったとも思うのですが、こればかりは仕方ありません。

 家族それぞれにある家族関係、もともと違う環境で育った二人ですが、国も文化も違えばなおさらのこと、それがよいことも悪いこともあるかもしれませんが、結局は人と人との繋がり、相性もあるかもしれません。


義理の家族 嫁 姑


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2022年10月22日土曜日

海外で仕事を続けている義理の息子の久しぶりの訪問

  


 私が彼に最初に会ったのは、たしか彼が9歳の時だったと思います。彼は夫の前妻との子供の一人で、三人いる娘の義理のお兄ちゃんの一人でもあります。当時は、まだ、あどけない感じもあって、1週間おきに家に来ていましたし、ヴァカンスの間はしばらく家にいたりして、彼のママが教会べったりで、かなり自由な生活を制限されていたりしたこともあり、我が家が避難所のような時期もあり、彼の好きなゲームや本などは、家に保管してあったりもしました。

 なので、娘の3人のお兄ちゃんの中では、私にとっては、一番、身近な感じもしていましたが、彼は早々に家を出たかったこともあり、高校から全寮制の学校に入ってからは、すっかり顔を見る機会も減ってしまいました。

 しかし、彼はなかなか優秀でもあり、夫の息子たちの中では、夫の希望の星のようなところもあり、夫も何かと世話を焼いていて、遠くに住む彼の引っ越しなどには車で手伝いに出かけたりしていました。

 夫が亡くなった時には、ちょうど試験の真っ最中で彼にとっては試験中に大きな精神的な痛手で大変なハンディでもあったと思いますが、彼はグランゼコールに進みました。

 グランゼコールを卒業してからは、しばらくフランスの研究所で働いたあと、スイスで博士号を取得、今はドイツで原子力関係の研究所に勤務しているのだそうです。そんな感じなので、彼はパリどころか、長年、フランスにいることがない生活をしてきたので、あまり会う機会はありませんでした。

 それでも、かなり前にひょっこり、ノエルの時に来てくれたり、娘の誕生日に来てくれたりしたことはありましたが、たまにメールをくれたりすることはあっても、なんだか彼は遠い人になりつつありました。

 それが、先日、パリに行く機会があるので、「ちょっと家に寄ってもいい?」というので、久しぶりに懐かしく、食事をしながら、楽しい時を過ごしました。

 これまでじっくり聞くことがなかったスイスでの話、ドイツでの現在の生活、それぞれの国について、仕事についてなど、複数の国で生活した経験を持つ人の話は楽しいなと思いました。

 彼は研究者の道を選んだわけですが、最初はフランスの国の研究所、その後、スイスでPhdを取ったあとに、現在は大きな企業の中の研究所にいるのですが、彼の話を聞いていると、優秀な研究者の多くは外国(フランス国外)へ出て行ってしまうのではないか?と思いました。

 彼曰く、フランスは上に上がっていく機会がかなり限られている上に、時間もプロセスもかかり、そのうえ、報酬もパッとせず、話をきいていると彼がフランスに戻ってくる日はあるのだろうか?と思ってしまいました。

 彼がスイスに行ったばかりの頃は、スイスの物価の高さを嘆いていましたが、実際に働いてみるといくら物価が2倍だとしても、給料は3倍、もはや、フランスにいることは考えられないと言っています。

 だからといって、仕事はお金のためだけではないけれど、自分のやりたい研究が思うようにはできない、一企業人としての葛藤やだからといって、大学などには、十分な予算もないなど・・現在の仕事には満足はしているものの、生涯、同じところにはいなそうな気配。

 しかし、フランスで高等教育を受けた彼のような人々をフランスは、逃してしまっているのだな・・と娘とも重ねて、考えたのでした。

 専攻は違いますが、理系の道を進んだ娘も研究者になるか、それとも就職するのか、悩んでいた時期もありましたが、結局、色々、イレギュラーな出来事(パンデミック)なども重なって、きっとすんなり学生生活を過ごした場合とは違ったであろう道に進んだであろうと思います。

 しかし、結果的にフランスから出てしまっていることを考えると、なんだか、国が多額の負担を負って教育をしている結果をフランスが使いきれていないのはもったいないな・・などと、思います。

 それにしても、外国といっても、生活してみなければわからないこともたくさんあるわけで、スイスはほとんどストライキがないとか、かなり排他的な国民性、口で注意することなく、少しのことでイキナリすぐに通報されるとか、ドイツの鉄道事情が最悪だとか、保険のシステムが簡単な診療を妨げているとか、私がこれまで抱いていた両国のイメージとは違うもので、まぁどこの国も一長一短かな?と思います。

 現在、まだ独身の彼は、将来、結婚して、子供を育てていくとなると、子供のこともあるので、また、別の意味で仕事も仕事をする国も考えなければいけないな・・と言っていましたが、それにしても、今の私なら、色々、考えるところはあるにせよ、私が彼の年齢には、まるでそんなことを考えてこなかったにもかかわらず、よくも無事にここまで生きながらえてきたと思うのでした。

 義理の仲ではありますが、それぞれに歴史を知り合っている人と色々な話ができることは、大変、幸いなことであります。あんなに小さかった彼が立派に成長した姿がちょっと眩しいくらいです。


フランスの研究者


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2022年8月15日月曜日

バイリンガルになった娘の就職

  

日本に行きたいがためにママに公文の宿題を毎日やらされていた頃の娘



 子供ができたとわかった時から、私はなぜか、お腹の中の子供は女の子だと思い込んでいて、産婦人科のお医者さんにエコーで診てもらった結果、「手足の長い女の子ですよ!」と言われて、「やっぱり!・・よかった!」と思いました。

 名前も、フランスにも日本にも、英語圏にもある名前にしようと前から決めていました。正直、私は名前はひらがなでもいいな・・と思っていたのですが、パパが「日本にはせっかく漢字があるんだから、漢字の名前をつけてあげなければ可哀想だ・・」などと言い出し、そうなると、今度は実家の母が「せっかく漢字にするなら、画数のいい字を選んだ方がいい・・」などと名前の画数の本などをわざわざ送ってきてくれたりしたので、検討の結果、かなり画数の多い難しい漢字を選ぶことになりました。

 しかし、私としては、フランスにも日本にも英語圏にもある名前ということで満足していて、将来、娘が国際人になってほしいという思いを込めてつけた名前でした。

 娘が生まれて(アフリカで)すぐにフランスに引っ越してきて、パパはフランス人で生活の基盤はフランスになることから、フランス語に関しては、あまり心配していませんでしたが、とにかく私は娘に日本語がしっかりできるようになってほしいと、彼女が生まれて以来、日本語を教えることに、とにかく一生懸命でした。

 パパがフランス人でママが日本人だったら、自動的にバイリンガルになるわけではないので、私はひたすら娘には日本語だけで話すようにしてきました。せっかくの環境、これを無駄にしてはいけないと思ってきましたが、それは、そんなに簡単なことではありませんでした。しかし、今から思うに私にしては、かなりしつこく日本語教育にはこだわってきました。

 私は単に彼女が日本語を話せるだけでなく、読み書きもしっかりできるようになってほしいと思っていたので、毎晩、寝る前には絵本を読み聞かせ、2歳になってすぐにフランスでの学校が始まる前に(日本語が面倒臭いと感じないように)、公文に通わせ始め、えんぴつの持ち方から公文の先生に教えていただきました。

 教えていただくことも、もちろんのことでしたが、その頃の娘にとってはフランスでは私以外の日本人と接する機会がなかったので、公文に通って、日本人との接点ができるということも大きな役割を果たしてくれていました。

 毎日毎日、学校から帰ると私は食事の支度をしながら公文の宿題を監督し、バタバタと毎日が過ぎていきました。娘が音を上げそうになっても、「公文をやらない子、日本語ができない子は日本には行けないよ・・」と日本行きをちらつかせて、続けさせてきました。

 小学校の頃には夏休みに短期間、日本の小学校の体験入学をさせていただいたこともありました。

 結局、公文は10歳まで続けましたが、その後、パパが亡くなって、私も仕事と、一人で学校の送り迎えとでいっぱいいっぱいで(フランスの場合、小学生まではどこに行くにも送り迎えが必要)、まずは学校が最優先と、公文は一時、諦めていましたが、日本語そのものは諦めたわけではなく、父や叔母などが日本から送ってくれる日本語のテレビ番組などは、常に家で流し続けてきました。

 彼女がバカロレアを取得する年齢になった頃、オプションの科目の一つを日本語にしたいと言い出した時、今度は天理のやっている日本語のクラスに通い始め、1〜2年は通ったでしょうか? その頃になると、彼女はもう自分で勉強ができるようになっていたので、私は、あまり口は出さずに、出すのはお金だけでした。

 その後、彼女は無事に高校を卒業し、プレパー、グランゼコールへと進み、グランゼコール在学中に日本の大学に留学する予定にしていましたが、パンデミックのために2度にわたってキャンセルになり、結局、日本への留学は叶いませんでした。

 そして、グランゼコールの卒業が決まって、さて就職となった時、しばらく彼女はいくつかの進路に迷っている様子で、この先、また次のエコールにという選択肢などもあったのですが、結局、彼女が選択したのは、イギリスの会社の日本支社という道でした。

 「日本には家もあり、住むところもあるし、留学できなかった分、仕事ができて、お金ももらえて、日本で生活するという体験もできて、よかったけど、なんで、この道を選んだの?」と聞いたら、「他の色々な就職先の中で、自分のやりたい仕事の中で、条件が一番よかったから・・」というのが彼女の解答でした。

 彼女の専攻は生命工学で、それを活かした仕事の中で、日本語ができるということが彼女のスキルの一つに加わって、彼女の新しい生活の一歩を踏み出せたことは、私にとっては、本当に何よりも嬉しい、感慨深いことでした。

 たしかに、彼女の言うとおり、ほとんどがリモートワークで、初任給としたら破格のお給料を頂き、かなり自由に時間も使えるかなり条件のよい職場のようです。

 彼女が日本語でリモートで、今や専門用語などを含めて、私でさえ理解不能な日本語まで使って仕事をしているのが聞こえてきて、「うわぁ〜!日本語で仕事してる!」と、小さい頃から必死で日本語を教えてきた母としては、うるうるしてしまいそうになりました。

 皮肉なことに、現在の仕事では英語と日本語のみで、フランス語を使うことのない生活のようですが、彼女にとって、やはり母国語はフランス語、フランス語を忘れることはないでしょう。バイリンガルのつもりがいつのまにか、トリリンガルです。

 日本には、日本独特の社会があるので、フランスで育ってきた彼女にとっては、理解し難い難しいこともあるでしょうが、そこは、ひとまず日本にある会社とはいえ、イギリスの会社ということで、いきなり日本の会社というよりはハードルが低いかもしれない・・とも思っています。

 とはいえ、日本支社ゆえ、一緒に仕事(といってもほとんどリモート)をしているのは、ほとんどが日本人。最初に日本に行って、「プレゼンが終わって、「お疲れ様でした・・」と言われた時は、なんて言ったらいいのかな? ほんとに疲れたんだけど・・」などと聞いてくる娘にホッコリしてしまいました。

 これまで私は娘に対しては使うことのなかった「お疲れ様でした・・」という日本独特の挨拶?など、これからまだまだ彼女が学んでいくことはあるでしょうし、このまま、ずっとこの仕事を続けるのかどうかもわかりませんが、とりあえず、私は彼女が日本語を活かした仕事に就くことができて、これまで私が頑張って、娘に日本語を教え続けてきたことが報われた気がして、とても嬉しく思っています。

 日本語というのは、どこでも通用する言語ではないにしても、とりあえず、自分のルーツの一つでもある日本という国でも生きていける術を持ってくれたことがとても嬉しいのです。

 私の両親はすでに他界しているので、そんな彼女を見てもらえなくて、残念ではありますが、周囲の私の親戚、叔父、叔母、従姉妹たちや私の友人たちも彼女を見守ってくれています。

 小さい時から、日本行きを餌?に日本語を教えて、日本に行くたびに、親戚に会うにも、友人に会うにもいつも一緒に連れて歩いていたので、親戚はもちろんのこと、私の友人たちも彼女が小さい時からよく知っているおばちゃんたちなのです。

 もう彼女が仕事を始めてから半年近く経ちますが、その間、出社したのは3回くらいだけということで、つい先日も2日半だけお休みをとって、2週間くらいパリに来ていました。

 リモートワークなので、パリに来ても、日本時間、イギリス時間に合わせさえすれば、仕事ができているのは、たしかに条件がいいといえば、いい仕事なのかもしれません。

 以前、私がイギリスに留学する時に、父が言語(英語)は目的ではなく、あくまで手段だ・・というようなことを言われたことを思い出しましたが、まさに彼女にとって、日本語は彼女にとっての大きな手段の一つとなったことをしみじみと感じています。

 

バイリンガル教育


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2021年10月2日土曜日

バイリンガル教育は簡単じゃないけど、頑張れば、その子の一生の財産になる

   


 国際結婚の場合、子供はハーフでバイリンガルになる・・と、簡単に思われがちですが、バイリンガル教育は、考えているほど簡単なことではありません。

 二つの国(あるいはそれ以上)の国籍を持っており(日本の場合は22歳までにどちらかの国籍を選択しなければなりません)、両親の母国語が二カ国語に渡る場合でも、生活の基盤は、どちらかの国(あるいは、それ以外の国)に置くことになるわけで、どうしても生活の基盤のある国の言語に引っ張られます。

 我が家の場合は、主人がフランス人、私が日本人で、フランスで生活しています。普通のフランスの学校に通っている娘にとって、フランスで生活する上では、娘にとって、日本語は全く必要はありません。

 現在はフランスも以前より、少しはマシになりましたが、フランス人は愛国心旺盛なあまりに外国語に対して排他的な感じもあり、娘が小学校入学の面接の時などは、私が日本人と知って、「うちはフランス語だけですよ!」と念を押されたことがあり、「そんなこと!わかってるわい!」とムッとした覚えがあります。

 ですから、余程、親が心して、日本語を教えようとしなければ、容易に日本語は切り捨てられてしまいます。実際に、フランスにいる日仏ハーフの子供でも日本語がほとんどできない子供もたくさんいます。

 しかし、一般的に普通に外国語を習得しようとするよりは、日仏家庭(国際結婚の家庭)やはり恵まれた環境であることは間違いありません。

 私は、娘が生まれた時から、「必ず娘が日本語を理解し、話し、読み書きまでできるようにする!」と強く思っていたので、私は、娘が言葉を覚え始める頃から、娘とは、一切、フランス語は使わず、日本語だけを押し通し、娘はパパとはフランス語、ママとは日本語、三人で話す時には、それに英語も混ざったごちゃごちゃの言語の中で育ってきました。

 もちろん、小さい頃は、彼女は英語は理解できていませんでしたが、パパとママが内緒話をする英語をいつの間にか彼女も理解するようになり、その話にフランス語で参加するようになりました。やはり、彼女は日本語もできるとはいえ、彼女の母国語がフランス語であることを私は、その時に思い知らされることになりました。

 それはバイリンガルとはいえ、どちらかの言語に軸を置くということは、その子のアイデンティティの形成上にも必要なことでもあります。

 しかし、絶対に娘にしっかり習得させると考えていた私は、母が私が子供の頃に英語を教えてくれたように、日本語のカードなどを作って、日本語を教え、毎晩、毎晩、寝る前には、日本語の絵本を読み聞かせることを続けていました。

 そして、日本語の読み書きを億劫に感じ辛くするために、フランスの学校に就学する前に、まず日本語の読み書きを教えようと、娘が2歳になった頃から、公文に通わせ始め、鉛筆の持ち方から、公文の先生に教えて頂きました。それは、私以外の日本人に接する機会を作りたかったこともありました。

 家では、10歳くらいまでは、テレビは日本語のビデオ・DVDのみ(私も仕事をしていたので、家で過ごす時間は限られていたので・・)、娘は、日本のテレビ番組(ドラマやアニメ、バラエティ番組など)で多くの日本語を覚えました。

 少し字がわかるようになってからは、日本のバラエティ番組は、話していることが字幕テロップのように入るので、わかりやすく、これはこんな字を書くのか〜などと勉強になると言っていました。(まあ、それらしいことを言ってテレビをゲラゲラ見ていることを正当化していたのかもしれませんが・・)

 小さい子供のスゴいところは、気に入ったドラマなどは、何回も何回もセリフごと覚えてしまうほど、飽きずに見続けることができることです。

 そして、毎日、毎日、学校が終わり、家に帰ってくると、私は食事の支度をしながら、公文の宿題を毎日5枚ずつ、やらせ続けました。毎年、夏には日本に娘を連れて行っていましたが、娘には、「日本語の勉強をしない子は、日本には行けないよ!」と夏の日本行きを人参のように目の前にチラつかせながら、どうにか、小学生のうちは、それを続けてきました。

 フランスの小学校では、学校の授業が終わった後に、親がお迎えに行く時間まで、エチュードといって、学校の宿題は、その時間に見てもらえるので、ある程度の年齢までは、娘はほとんど学校の勉強は、家ではせず、夜は日本語の時間にあてることができたのです。

 とはいえ、毎日毎日のこと、あまり興味のない題材のこともあれば、面倒になってしまうことも少なくありませんでした。そこは、ひたすら、親の根気です。褒めたり、宥めたりしながら、忍耐の毎日でした。

 小学校に入った頃には、夏の帰国の際には、こちらの学校がお休みになってすぐに日本へ行き、毎年、2週間ほどですが、日本の小学校に編入させていただいてもいました。同年代の日本人の子供と接することや、日本の学校の様子を体験させたかったこともありました。

 中学生になった頃、こちらの(フランスの)学校も忙しくなり、また、他の事情も多少あり、一時、公文はお休みしていた期間がありましたが、その間も、ずっと日本のテレビ番組を見ることだけは続け、変わらず私とは日本語だけの生活をしていました。

 そして、やがて、バカロレア(高校卒業資格試験)が近くなり、オプションの科目に日本語を選択することにした娘は、日本語の勉強を再び再開し、公文ではない他の日本語学校に週一回通い始めました。

 バカロレアのオプションの日本語の試験は、ある程度、日本語の下地のある子供にとっては、満点をとり、点数稼ぎができる絶好の科目でもあるのです。

 その頃になると、親がやいのやいの言わなくても自分で勉強するようになっていましたので、それから先は、彼女自身の点取虫根性が追い風となってくれました。

 そして、そんなこんなで、どうにか娘は、バイリンガルになりました。

 親の私としては、思い返せば、色々工夫したりした楽しい思い出ではありますが、同時になかなか険しい道のりでもあった、大変だったな〜と思うのに、当の本人は、日本語を覚えるために、大した苦労をしたとは全く思っていません。

 実際にある程度の年齢になってから、外国語を習得するのは、大変な努力が必要ですが、物心つく前から覚え始めた言語に関しては、あまり苦にすることなく、習得することができるのです。

 現在進行形でバイリンガル教育を続けていらっしゃる方も多いと思いますが、時には、くじけそうになることもあると思いますが、そんな時は、テレビやYouTubeでも、今はいくらでも日本語に楽しく触れることができるツールがあります。

 とにかく、どんな形でも、たとえ、ほんの少しずつでも、継続することはとても大切です。

 それは、その子にとって、一生の大変な財産になります。

 そして、一つ理解できる言語が増えることで子供の世界は広がります。

 私自身は、バイリンガルと言い切れる程ではありませんが、母が子供の頃から英語を教えてくれていたことで、英語を苦労して覚えたという記憶はありません。そんな母が私にしてくれた英語教育が私が娘に日本語を根気強く教えることを自然に植え付けてくれてくれたのかもしれません。

 いつか娘が子供を持った時、同じように子供に複数言語を教えてくれるようになることを私は、心から祈っています。


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2021年7月31日土曜日

パリのラーメン一杯の値段 パリのラーメン屋さん


一見、ラーメン屋さんには、見えない小洒落たラーメン屋さん


 パリに旅行に来たときに、日本の食べ物が恋しくなって、思わず気軽に食べられるラーメン屋さんに入ったことのある人は、少なくないのではないか?と思います。

 私も以前、イギリスに住んでいた頃、当時は、イギリスにもそんなに日本食屋さんがたくさんあったわけでもなく、パリに旅行に来たときに、ラーメン屋さんに駆け込んだことがありました。

 しかし、パリのラーメン屋さんは、意外な落とし穴でもあり、そんなに高級なラーメン屋さんでなくとも、二人でラーメンと餃子を食べて、それにビールでも頼めば、あっという間に1万円近くなることもあり、旅行中で通貨が違って金銭感覚が麻痺していることも手伝って、なんだか、後から考えてみたら、やけに高かったと思うこともあるかもしれません。

 私は、特にラーメンが好きというわけではありませんが、パリに来たばかりの頃は、今ほどラーメン屋さんもパリにたくさんあったわけではないので、何となく、ラーメン屋さんの近くに用事があったりすると、思わず食べに入ったりしたこともありましたが、最近は、ラーメンは、あっという間にフランス人の間で人気になり、昼時などは、並ぶのが嫌いなはずのフランス人がどこのお店の前にも行列を作っているので、並んでまでは行かなくてもいいかな・・と、逆にすっかり寄り付かなくなっていたのです。

 まだまだ今のような日本食ブームになる前までは、パリのサンタンヌ通りとその近辺にある数軒のみで、ひぐま、北海道、来々軒、サッポロラーメン、金太郎など、ごくごく限られたお店だけでした。

 中には、クォリティも今ひとつのところもあったりして、麺がこれ、ラーメンの麺?とか、スープもイマイチだったり、酷いところになると、猫舌のフランス人仕様になっているのか?湯気のたっていないラーメンだったりすることさえありました。

 ところが、今や、すっかり、ラーメンは定着し、本格的なラーメンの店舗がパリに進出するにつれ、パリのラーメン屋さんのクォリティも上がってきました。

 しかし、上がったのは、クォリティだけでなく、値段もうなぎのぼりで、先日、人気のラーメン屋さんの前を通ったので、ちょっと覗いて、メニューを見て、その値段にびっくり!ラーメン一杯で、13ユーロ〜19ユーロ(約1,700円〜2,500円)でした。

  


 もともとパリでの外食は、高いので、外食してこの値段で済むのは、決して高い方ではないのですが、それにしてもラーメン一杯の値段としては、ちょっと日本円に換算すると、なかなか抵抗のある値段です。

 それでもお客さんがひっきりなしに入るのですから、すごいものです。それは、他の外食の値段がそれにも増して高く、しっかりしたクォリティの、しかも、ちょっと小洒落たお店だったりすれば、フランス人はイチコロな訳で、物珍しいラーメンという食べ物は、この程度の値段のものであるという認識がフランス人には定着してしまったわけですから、日本でのラーメンのだいたいの値段を刷り込まれている私のような在仏邦人にとっては、なかなか抵抗があります。

 しかし、おそらくパリで最も古い部類に入るラーメン屋さん「ひぐま」などは、シンプルに塩、みそ、醤油ラーメンは8ユーロ(約1,000円程度)とまだ許容範囲内です。

 もともとケチなフランス人も、つまらない外食にも結構なお金を使う独特な文化に支えられ、パリのラーメン屋さんは、今や大繁盛の堂々たる地位を獲得しているのです。

 それでもフランスで育ったのに大の日本食党の娘(フランス料理が苦手)などは、この値段で必ず美味しいラーメン屋さんは、決して悪くない・・などと、かなり好意的です。

 私でさえも、生まれ育った日本ではどちらかというとお蕎麦派で、ラーメン屋さんというものには、数えるほどしか行ったことがなく、一時帰国で日本に帰った時も限られた食事の回数の中で、ラーメン屋さんは、私の食べたいものリストには、入ってはおらず、私の人生においては、結果的にパリでの方がラーメン屋さんに行った回数は多いという皮肉な結果です。


パリ ラーメン屋

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2021年7月17日土曜日

夏休みの日本への一時帰国 日本の小学校体験入学

   


 ここ一年半以上、日本には、一時帰国はできていませんが、もう20年以上にもなる在仏生活の中で、夏休み(夏ではない時もあったけど・・)の日本への一時帰国には、色々なことがありました。

 フランスに来て以来、初めて日本へ行ったのは、娘がちょうど2歳になったばかりの頃で、それまで孫に一度も直にあったことのなかった両親の喜びようは、大変なものでした。その2人の喜びように、今まで私がどんなに親孝行しても(とはいっても大してしてないけど・・)、孫の存在には、叶わないんだな・・などと思ったものです。

 私が娘をバイリンガルにしたかったのは、日本にいる家族ともコミニュケーションがとれるようにという思いもあってのことで、娘が生まれた時から他に日本語を使う人がいない環境で、私は娘とは日本語のみで接してきたので、その頃は、娘もろくな言葉は話せませんでしたが、周囲の言っていることは理解し、初めて会うパピーやマミー(フランス語ではおじいさん、おばあさんのことをパピー、マミーと呼びます)ともすぐに打ち解けました。

 やがて、娘が小学校に入る年頃になると、フランスの学校がお休みになるとすぐに日本に連れていって、実家近くの公立の小学校に2週間ほどですが、編入させていただき、日本の小学校生活も体験させて頂いていました。

 予め、受け入れ先の小学校の教頭先生に連絡をとっておくと、帰国後、すぐに編入させてもらえます。学校に最初に電話した時などは、素晴らしく好意的な印象で、「フランス語ですか〜、英語なら話せる教師はいるんですが・・」などと親身になって考えてくださり、「日本語は、ある程度はできるので、日本語に接する機会でもあるので、ぜひ日本語だけでお願いします」と念を押したくらいです。

 フランスの学校に入学した時などは、面接の際に私が日本人だと知ると、「うちはフランス語だけですからね!」と逆に念を押されたくらいで、その時は、「そんなことわかってるわよ!」とムッとしたくらいだったので、たった2週間の編入のために、気遣ってくださる日本の先生が「日本人て、なんて、優しいんだろう!」と感動したくらいです。

 フランスの学校にはない給食当番や掃除当番なども体験させてみたかったので、「どうぞ、お客様扱いせずにやらせてください」とお願いしました。

 両親が元気なうちは、一緒に山荘に出かけたりもしましたが、やがて、母の心臓病が悪化し始めてからは、母は家にいても寝たり起きたりの生活になり、急に入院して、駆けつけた時にも階段の登り下りが心臓に負担がかかるということで、母のベッドを階下に移したり、寒くないように(その時は冬だった)フローリングの床にカーペットを敷いたり、介護保険の手続きをしたり、日頃、側にはいられない分、なんとか日本にいるうちにできるだけ色々なことをしていこうと、日本への一時帰国は、楽しいだけでなく、かなり忙しいスケジュールギチギチのものになって行きました。

 そのうち、母が亡くなり、父一人の生活になってから、こちらの生活でも色々なことがあり、また、私が夏に休みを取れなくなって、しばらく日本には、帰れない年もありました。

 また、しばらくして、日本に行き始めてからは、一人の生活の父の食事の用意や、父の病院に付き添って、担当の先生に話を聞いたり、いつも父がお世話になっている人々にお土産を渡しがてら挨拶に行ったり、その間に友人と会ったり、買い物をしたり、帰るときには、後で父が少しずつ食べられそうなものを作り置きを小分けにして、冷凍したり、楽しい半分、家を出てフランス行きの飛行機に乗った頃には、正直、半分、ホッとするようなところもありました。

 日本への一時帰国は、美味しいものもたくさん食べられて、会いたい人にも会える楽しいものであると同時に、期間が限られているからこそ、両親(高齢になってから)のために頑張ってしまう期間でもあり、はっきり言って、バカンスとは言い難く、どうしても、忙しく動き回らざるを得なくなってしまい、楽しいことばかりでもありません。

 今は、両親ともに亡くなり、そんな日々が懐かしく、二人がいなくなった家を片付けるくらいで、日本の家では、あまりお料理をすることもなくなりましたが、日頃、側にいられない負い目もあって、できるときには、できるだけのことをしてあげたいと思って忙しく動き回っていた日本への一時帰国をもう何もしてあげることができなくなってしまった今になって、もっともっと、色々してあげたかったと寂しく思うのです。

 現在は、小さなお子様をお持ちのお母さん方も日本の学校に一時的に編入させてあげたくても、2週間の隔離生活が必要なので、きっと日本の学校への編入は難しいと思います。今、ご両親が日本にいて、病気だったりしても、すぐに飛んで行って看病することも、万が一のことが起こっても、駆けつけることはできません。

 日本の学校への編入体験も限られた年齢でしか難しいだろうし、ましてや病気の親に付き添えなかったり、最期の時にも会えなかったり、節目節目の大切な瞬間でさえも、ただでさえ、遠くて困難なところを長引くパンデミックがさらに日本を遠ざけています。

 海外で生活をすると選んだ時点で、ある程度は覚悟はしていたものの、そのような思いをされている方々にとっては、本当に心が張り裂けんばかりの悲しさだと思います。

 1日も早く、元の生活が戻って、行こうと思えば、翌日でも日本に飛んで行くことができる・・そんな世の中に戻って欲しいと思っています。

  


 現在、外務省及び厚生省から、「変異株指定国・地域に指定した国および感染症危険情報レベル3対象国・地域・国については、帰(再入)国を前提とした短期渡航について、当分の間、中止するよう改めて強く要請致します。」という書面が出入国管理庁から出ています。

 私は、現在、無理して日本へ行こうとは思っていませんが、世界各国からオリンピックのために、多くの人が入国している中、日本国民に対して、帰国するなという通達には、反発を感じます。

 海外在住者には、ワクチン接種済みの人も多く、しかも2週間の隔離期間はきっちり守る日本国民なのです。

 これは、オリンピックのための措置に他ならないと思いますが、「日本人を閉め出してまで、そこまでしてオリンピックをやるのか?」と思ってしまいます。

 それならば、せめて、オリンピック関係で入国している人々には、「海外在住の日本人も帰国を許されない中、オリンピックが行われている」ということをしっかり通達し、それほど危険な状態であることをちゃんと知っていてもらいたいと思います。


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