2020年2月2日日曜日

死ぬ覚悟と死なせる覚悟




 「俺は、のたれ死んでもいいから、家にいたい。」父は、最後のギリギリまで、そう言って、粘っていました。父は、幼少期から、最後のギリギリまで、同じ土地に住んで、子供の頃に父親の転勤で、外地に数年いたことがありましたが、それ以外は、生涯のほとんどを同じ土地に暮らしてきました。

 父は、母が亡くなってからも、結局、10年間、同じ家に一人暮らしをしていました。
我が家は、私も弟も海外で生活していたため、一緒に生活するどころか、近くにいて、満足に世話をしてあげることもできませんでした。

 父は、脳梗塞を起こしたり、心臓の手術をしたりしたこともありましたが、最後の数年は、間質性肺炎という病気を患っていて、最後の一年間で、急速に弱っていきました。

 母が亡くなった当初は、それまで、家事らしい家事もしたことがなく、わがままに暮らしてきた父が、一人暮らしになることは、どうなることかと思っていたのですが、思いの外、父は、かなりの年齢になっての初めての一人暮らしをなんとか、過ごしてきました。

 もちろん、一人暮らしといっても、同じ敷地内に父の兄家族が住んでおり、叔母やその娘(私の従姉妹にあたります)が、こまめに家をのぞいてくれたり、食事を届けてくれたりしたことが、大きかったと思います。叔母と従姉妹には、本当に感謝しかありません。

 母の生前に、家に来てくださっていたヘルパーさんが、そのまま、父の介護として、来て下さるようになったことも、大変、幸運でした。

 父の死後、家を片付けていると、残された沢山の写真から、意外にも父には、度々、友人と旅行に出かけたりもしており、年齢のわりには、パソコンやインターネットをよく勉強し、それなりに使いこなしていたこともわかり、自分の生活を楽しんでいたと思います。

 しかし、持病の悪化と老化とで、急速に弱り始めてからは、度々、父は、入院した先で、トラブルを起こしたり、家に戻っても、食事を取れなくなったり、苦しくなって、隣に住んでいる私の従姉妹を呼びつけたり、周囲も手に負えなくなっていきました。

 弟も帰国時に宅配のサービスの契約をして、バランスの取れた食事を手配したりしてくれましたが、それとて、父の生活のごくごく一部でしかなく、父の急速な衰えを止めることは、できませんでした。

 父の方も、「周りには、迷惑をかけない!俺のことは、放っておいてくれていい!たとえ、のたれ死んでもいいから、家にいる!」と言って、ケアーホームに入ることを拒否し続けるわりには、心細くなって、結局、周りに頼る状態が続いていました。

 私も帰国時にケアーホームの個室の状態の下見に行って、食べ物には、殊更うるさい父の要望で、食事のメニューまで、見てきたりしましたが、結局、父がしぶしぶ、体調が改善されるまでという条件付きで、入所した時には、何も食べられない状態になっていて、最後の数ヶ月は、誤嚥性肺炎を恐れて、胃ろう(チューブでの経管栄養を施す)の処置をして、何も食べられない苦しい拷問のような数ヶ月を過ごしました。

 父の人生で、最も苦しかった数ヶ月だったと思います。

 それもこれも、父にも、死ぬ覚悟、私たちにも、死なせる覚悟が足りなかったことを今となっては、とても後悔しています。

 いざ、その時になれば、死に直面することを避けてしまい、とりあえずできる処置に頼ってしまいます。特に私たちのように、海外生活を送っていて、離れた状況にあれば、その決断に猶予はありません。

 余程、日頃から、真剣に死と向き合って、覚悟を決めておかなければ、いざという時に決断ができないのです。

 父は、従姉妹が施設に見舞ってくれる度に、「アイスクリームが食べたい。アイスクリームを食べさせて!」と何回も頼み込んでいたようですが、従姉妹にしても、医者から禁じられていることをするわけにもいかずに困ったと言っていました。

 食べることが何よりも好きで、貪欲だった父の最後の数ヶ月をこのようにしてしまったことは、残念でなりません。そばにいられなかった私が言えることではありませんが、アイスクリームを食べさせて、死なせてあげられればよかったと、今になってから、思うのです。

 人間、食べられなくなったら、もう生きてはいけないのだから、その時が来たら、自分も潔く、覚悟を決められるように、私自身も常に、自分の死の迎え方を真剣に考え続けることを自分に戒めています。

 






 

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