2019年10月31日木曜日

涙もろいパパのギャップと夫婦の距離



 主人は、ガタイが良くて、どちらかというと、いかつくて、チョット見は、怖い感じさえするのですが、実は、すごく感情が豊かで、情に厚いというか、もろいところがあります。

 ホームレスなどが、路上で座り込んでいたりすると、黙って、通り過ぎることはできずに、自分があまり、お金を持っていないときでも、必ず、お金を渡してきたりするのです。

 感情表現が豊かなのですが、気難しいところもあり、一見、とても社交的なのですが、常に周りの誰とでもワイワイするようなことは、好きではなく、職場のお昼時なども、みんなで揃って食事に行ったりするのは、嫌いで、キャンティーンなども大勢で込み合う時間帯は、避けて、一人、新聞を片手に食事をしているらしいのです。

 家では、夕食後などは、テレビの前で、小さい娘を横にはべらせて、娘に番組を解説したりしながら、くつろぎ、サッカーはあまり好きではないと言いつつ、W杯などがあったりする際には、アパート中、響き渡るような声で、応援に興じます。

 でも、普段は、とても厳しいパパで、怒ると、声も大きく、とても怖いのですが、甘いところは、メロメロに甘いパパなのです。

 娘がまだ、小さかった頃に、おもちゃのキーボードで、初めて、かえるのうたを弾いた時には、感激して泣いてしまったほどです。

 いつだったか、主人の誕生日に、家の近くにあるフランスの俳優さんが自ら経営している、こじんまりとしたレストランに私が招待して、私がお店の人に今日は、主人の誕生日なんですと何気に話したら、お店の人がサプライズで、バースデイソングとともに、食事の最後にデザートのケーキにろうそくを立てて、サービスしてくれた時も、主人の目は、みるみる、うるうるして、真っ赤になっていました。

 そんな風に、とても愛に溢れた人ですが、同時に家庭の中でも、たまに、真夜中のひとときに、一人でいたい時間というものがあり、その時間を侵されることをとても嫌います。

 また、逆に、私自身が、たまに、真夜中の時間を一人で、考え事をしていたりする時間に決して、割り込んできたりすることもありません。

 家族をとても、愛おしみつつ、お互いが、一人の時間を侵さず、侵されない、そのあたりの、ギャップと距離感が、私には、とても心地よいのです。



 

 

 












 

2019年10月30日水曜日

パリに住む変な日本人




 パリに住んでいると、たまに、「変だな〜〜?」「何で? 」と思う日本人に会うことがあります。

 相手が日本人だとわかっているだろうに、頑なに、フランス語で推し通して、話し続ける日本人です。フランスで生まれ育って、日本語が話せないというのなら、まだしも、明らかにネイティブのフランス語ではないのです。

 一緒にフランス人がいる場合とか、周りの人にもわかるようにというシチュエーションならばわかりますが、一対一の場合は、意味がわかりません。

 せっかく、異国の地で、同じ、日本人同士なのに、なぜ、日本語を話すことを嫌うのか、そういう人に出会うと、(例えば、お店などで買い物をする場合など)一応、フランス語で要件を済ませるのですが、後には、妙なモヤモヤした気持ちが残ります。

 最近は、減りましたが、メトロの中などで、目があったりして、相手が日本人だとわかると睨みつけるような日本人もいます。

 フランス人は、一見、感じ悪くて、冷たい印象を受けることもありますが、メトロなどで、偶然、目があったりすることがあれば、たとえ、知らない人でも、ニッコリとしてくれます。

 それなのに、なぜ、同じ日本人を敵対視するような態度を取るのか、わかりません。

 これは、あくまでも、私の推測ですが、そういう人は、きっとプライドが高く、「パリに住む自分像」を頑なに持っているのではないかと思うのです。その自分像に、日本人は、邪魔な存在なのかもしれません。

 また、これは、その人の置かれた状況や教育に対する考え方などによる場合もあるかもしれないので、一概に否定はできませんが、一対一でも、自分の子供と変なフランス語で話している日本人のお母さんです。

 これは、意外と少なくないのにも驚きます。

 公文などに、日本語を習わせに来ているお母さんの中にもそういう人は、いるのです。日本語を学ばせようとしているにも関わらず、子供とは、変なフランス語で話す。まずは、お母さんと日本語を話すことでしょ!と思うのです。

 これでは、もう、公文は、ただのポーズのような、お稽古事でしかありえず、お母さんが子供と日本語を話すということをしなければ、日本語を話す機会は、ごくごく限られてしまうのです。

 子供が大きくなって、日本語が話せなくなってしまった場合は、もう、仕方がないことなのかもしれませんが、まだ、小さい自分の子供相手に、日本語で話すことを捨ててしまっているのは、私には、理解し難いことです。

 自分がフランス語を習得するために、フランス語を話そうとしていると、考えられないこともないのですが、まずは、子供が先でしょ!と思ってしまうのです。

 周囲が皆、フランス語を話しているときに、日本語を話せと言っているわけではありません。せめて、子供と一対一でいる時くらい、子供が身近に日本語に触れる機会を作ってあげたらいいのに・・と思うのです。

 私は、他のブログでも、さんざん、書いてきましたが、子供が日本語を話せなくなるということは、日本にいる自分の家族ともコミニュケーションが取れなくなるということなのです。

 小さい頃は、それでも、日本へ行っても、可愛い〜可愛い〜で済んでしまうから、良いかもしれませんが、大きくなるに連れて、会話が成立しなければ、関係を繋げて行くことは、困難になっていきます。

 日本語を捨てるということは、その子供の将来の日本の家族、日本との繋がりを切ってしまうことにもなりかねないのです。

 ここに挙げた二つの例に共通することは、日本人でありながら、日本語、そして、日本を捨ててしまっている、捨てようとしているということです。

 私が、感じる違和感は、そこだったのだと改めて感じています。














 

2019年10月29日火曜日

日本人とフランス人の子供との話し方の違い




 娘を初めて、日本に連れて行ったのは、娘が2歳になったばかりの時でした。

 久しぶりの日本行きで、一番、妙に感じたのは、日本人の女性が子供に話しかける時の、極端に高い声のトーンでした。

 特に、日本の航空会社のCAさんなどは、その最たるものです。

 日本にいた頃は、私には、まだ、子供がいなかったので、そんなことを、特に気に留めたこともなかったのですが、子供ができて、初めての里帰り、パリから、日本行きの飛行機に乗った時に、初めて、気付いたのです。

 CAさんが高い声のトーンで、「○○ちゃ〜ん!」と、娘に話しかける時、声も高ければ、テンションまで高いような感じで、なんだか2歳の娘の方が低い声で落ち着いているかのように感じたほどです。

 シートベルトのサインが出た時などは、「○○ちゃ〜ん!ちゃんとお座りしててね!」という、CAさんに、しらっと、娘が、「あなたもね!」と返した時には、なんだかな〜〜?? と、苦笑してしまいました。

 日本の育児書などには、子供には、赤ちゃん言葉で語りかけた方が、子供の語彙力がより、発達する。」などと、書かれているものもあるようですが、子育ての最初をフランスで始めてしまった私には、日本人の子供との話し方にとても違和感を感じてしまったのです。

 フランスでは、ある程度の赤ちゃん言葉は、あるものの、大人が子供に対して、猫なで声を出して、話すことは、あまり、ありません。

 特に他人の子供に対してならば、なおさらのことです。

 同じ、航空会社で比較するなら、一般的なサービスの良し悪しは、別として、フランスの航空会社のCAさんは、決して、子供に高いトーンで話したりすることは、ありません。

 大人と同じように、普通に話します。

 妙に、子供扱いしないというか、大人は、子供に対しても、対等な姿勢で話をします。

 なんだか、冷たいような印象を受けるかもしれませんが、猫なで声を出して、子供扱いをすることが、愛情表現ではないように思うのです。

 フランス人だって、子供に対しても、テンションが高い時もありますが、それは、あくまで、同等にテンションの高い時であって、子供に対してだからということではなく、一緒に感情を分かち合うということで、決して、一方通行ではない気がするのです。

 娘が大きくなった今でも、飛行機の中で、声のトーンをあげて、子供に話しかけている日本の航空会社のCAさんを見かけると、なんとなく、普通に話せないのかな?と思ってしまいます。

 そして、CAさんに、「○○ちゃ〜ん!お座りしててね〜!」と言われて、しらっと「あなたもお座りね!」と冷静に言っていた娘の姿を思い出します。

 もちろん、愛情を持って、子供に接してくださっているのは、わかるのですが、私は、どうにも苦手なのです。

 あの頭のてっぺんから出すような声で子供に話しかけている様子が・・・。

 









2019年10月28日月曜日

フランス人の夫との離婚の危機




 思い出というものは、嫌なことは、どんどん忘れて、楽しかったことばかり、覚えている私ですが、そういえば、私も、もう、主人とは、別れて、日本に帰ろうと思ったことがありました。

 アフリカからフランスへ転勤になり、海外では、外交官生活を送っていた主人が、その外交官生活を終え、フランスの財務省に戻った頃のことでした。

 主人は、まだまだ、海外生活を続けるつもりで、頑張って、仕事をしていたのですが、突如、フランスに転勤ということになり、フランスに戻って、しばらくは、うつ病のようになってしまった頃のことです。

 あの頃は、すべてがうまく行かずに、アパートもなかなか見つからず、親戚の持っていたアパートに仮住まいをし、娘の出生証明書は、アフリカで、発行してもらったものの、出生証明書に不備があったり、国籍の再申請をしたり、私のビザの手続きなどなど、すんなり進まない手続きに、気を揉みながら、なすすべもなく、ひたすら、時間のかかる手続きを待ちながら、毎日を過ごしていました。

 娘は、生まれて3ヵ月でパリにやってきましたので、まだ、ほんの赤ちゃんでした。

 何と言っても、私が一番、困ったのは、主人の鬱状態と、情緒不安定な生活でした。

 転勤先の仕事にも、行ったり行かなかったり、二人でさんざん話し合っても、やはり、主人の状態は、なかなか、好転せず、気分が上向きの時は、良いのですが、鬱状態になると、急に怒り出したり、起きられなかったりという日が長く続いていました。

 私のビザが取れて、娘を預ける保育園が決まって、私が仕事を始めた頃も、まだ、主人は、朝、起きれず、後から行くと言っていたのに、私が娘を連れて仕事に出かけて帰ってくると、結局、今日も仕事に行っていなかった・・という日が頻繁にありました。

 そんな主人の姿を見るにつけ、最初は、怒っていた私もだんだんと言葉を無くし、不安にかられる日が続きましたが、何もわからずに成長していく娘を放っておくことはできず、娘に対してできることを黙々と積み重ねる日々でした。

 幸いにも、義兄夫婦である家族が比較的、近くに住んでいましたので、折りに触れ、相談に乗ってもらったり、気分転換させてもらっていましたので、結果的には、ずいぶんと救われました。

 それでも、生まれたばかりの娘を、父親のいない子供にはしたくないと思いながらも、小さい子供を抱えて、働きながら、外国の地で暮らしていくのに、この主人の状態で、乗り切っていけるだろうか? と、少なからず不安ばかりが募り、一度は、もう主人とは、別れて、日本へ帰ろうと思ったことがありました。

 日本の両親も心配して、電話やファックスを送ってくれたりして、「もう、ダメだと思うなら、子供を連れて、もう日本へ帰ってきた方がいい。ただ、色々な書類だけは、きっちりしてきなさい。」と言われていました。

 困難な状態が続いて、さんざん悩んで、私も心身ともに疲れきって、意を決して、いざ、私が、「もう日本へ帰ろうと思う。」と母に話した時、電話口の母から帰ってきた言葉は意外なものでした。

 「日本へ帰ってくるのは、構わないけれど、あなたたちは、家で一緒に暮らせると思ってもらっては困る。」

 その時の母の真意は、わかりませんが、「子連れで、出もどりだ・・」と考えていた私には、いざとなると、世間体を気にする母に、少なからず、ショックを受けました。

 義姉からも、「しばらくは、日本のママのところに帰って、休んだ方がいいかもしれない。」と言われていたので、母から言われた言葉をそのまま義姉に伝えると、首をひねりながらも、「それでは、こちらでなんとか頑張るしかないわね・・。」と言われて、私も、「私には、もう、帰るところは、ないのだ。」と腹をくくって、フランスに留まることにしたのです。

 それから、しばらくして、パリにアパートが見つかり、様々な手続きも済み、娘も幼稚園に通い始めた頃に、ようやく、主人の鬱状態も回復し始め、仕事にも毎日、行けるようになり、なんとか、日常生活も順当に運ぶようになりました。

 それでも、毎日の生活は、仕事と子育てで、いっぱいいっぱいで、ささやかな娘の成長を糧に暮らしているうちに、時は過ぎて、いつの間にか、主人と別れようと思っていたことなどは、忘れていました。

 あの時の母の言葉の真意は、問いただすのも怖くて、母には、一生聞けず仕舞いで、母は、亡くなってしまいましたが、母が本当に、世間体を気にしてそう言ったのか、それとも、私をもう一度、奮い立たせるためにそう言ったのかは、今でもわからないままなのです。
















2019年10月27日日曜日

サマータイムの終わり




 2019年のサマータイムは、3月31日 am 2:00から、10月27日 am 3:00 までです。

 サマータイムの始まりは、1時間早くなるので、前日の夜、寝る前に1時間時計を進め、サマータイムが終わるときには、1時間時計を戻して寝ます。

 最近は、デジタル化が進み、テレビやパソコンや携帯電話などは、自動的に時間が変わりますが、家の中の時計は、デジタルのものばかりではないので、家中の時計をなおして歩きます。

 いつも、日曜日にかかるので、日曜日の1日を時差の調整をしながら、過ごすことになります。うっかりすると、時間がずれたことを忘れていて、日曜日に出勤しなければならなかったときに、一時間、早く出勤してしまって、呆然としたこともありました。

 もともと、サマータイムは、夏の電気消費量を少なくすることや、早い時間に仕事を終わらせ、余暇を充実させるために始められた制度だそうですが、時間を変えたところで、フランス(ヨーロッパ)の夏と冬の極端な日照時間の違いは、変わるわけではなく、子供や家族を抱えて、日常のルーティーンを淡々とこなして生活している分には、1時間早くなろうと、余暇に時間を当てるなどということは、出来るはずもなく、たった1時間の違いであろうとも、軽い時差には違いなく、身体が1時間の時差に慣れ、しゃんとするには、約一週間かかります。

 旅行したわけでもないのに、同じ国にいて、時間がたとえ、1時間でも、ずれるという軽い時差というのは、思いのほか、しんどいものなのです。

 それでも、夏から冬になるときには、1時間遅くなるので、慣れやすいのですが、夏になるときは、1時間早起きになるので、とても辛いです。

 ただでさえ、フランスは、夏は、朝5時には、明るくなり、夜は21時半から22時くらいまで明るく、子供を寝かすために、窓のシャッターを下ろして寝かせます。

 逆に、冬には、日が出るのは、8時半過ぎで、16時半には、もう暗くなってしまいます。ですから、まだ、暗いうちに起きて、子供を学校に送っていくのもまだ暗いうちで、帰ってくる時には、もう真っ暗になっています。

 夏は、気分も明るくなり、冬は、朝、暗いうちに起きて、仕事が終わるともう真っ暗・・という生活は、何だか、虚無感に襲われます。

 いつか、日本から、花火を持ってきたのですが、夏は、いつまでも暗くならず、冬の寒い時期にする気分でもなく、結局、やれずじまいになってしまっています。

 しかし、サマータイムで1時間ずらしたところで、この日照時間は、変わらないので、私個人的には、何のメリットも感じられないどころか、年に2回の軽い時差ボケ状態は、身体的に苦痛でしかありません。

 冬時刻になれば、日本との時差も7時間から8時間になり、日本と関わりがある仕事をしている人には、やはり、それなりの調整が必要になります。

 なんなら、ずっとサマータイムのままにしておいてもらえれば、少しでも日本との時差が少ないので、いいのになぁと思ったりもします。

 いくら、デジタル化が進もうと、人間の身体は、自動的には、簡単にリズムを変えられないので、もう、いい加減、やめて欲しいです。

 

































2019年10月26日土曜日

海外生活は、お金がかかる




 海外生活というと、優雅な生活をイメージされる方も多いかもしれませんが、実際は、全然、そんなことはありません。

 海外で生活していると、何かとお金がかかります。
私の薄給は、ほぼほぼ、日本への里帰りと、娘のために消えていました。

 日本でも、子供の教育費には、とても、お金がかかるのだと思いますが、日本に住んでいれば、ないであろう、学校や習い事などの教育費以外の出費は、子供の保育園の保育時間外のベビーシッターのお金と、長いバカンスの間を有効に使わせるための学校以外の時間を過ごさせるためのお金です。

 日本であれば、ちょっと、母に預かってもらって・・などということもできたと思うのですが、こちらには、当てにできる存在はなく、誰かにお金を払って、頼むしかありません。

 なにせ、フランスの学校は、バカンス期間が長いので、この長い期間をいかに有効に使うか、私自身が取れるバカンスの期間は限られていますから、それ以外の期間をなるべくバカンス期間だからこそできることを経験させようと思っていました。

 幸いにも主人の勤め先の運営する子供キャンプのようなものがあり、普通よりは、安い金額で、スキーやサーフィン、乗馬、ダイビングなどなど、あらゆるスポーツを体験させてもらえたので、私がお休みを取れない期間は、そのキャンプに参加させていました。

 黙々と仕事に行く私とは裏腹に、彼女は、そのキャンプに参加して、色々な場所を旅し、あらゆるスポーツをして、長いバカンスを過ごしていました。

 私は、娘に物を買い与えることよりも、何かを体験させることにお金を費やしてきました。
 
 あとは、何といっても、里帰り、つまり、日本へ行くのにお金がかかるのです。

 せっかく、行くのならば、少しでも、娘のバカンスが長い夏の期間、しかも、小学校の頃は、できたら、日本の小学校にも体験入学をさせたいと思っていたので、こちらの学校がバカンスに入って、まだ、日本の学校は夏休みに入る前の期間だったので、だいたい、日本に行くのは、夏でした。

 日本行きのチケットは、夏場は最も高く、安くても一人1200ユーロ、(15万円くらい)、(限られた私の休みを有効に使うために直行便を選んでいました。日本は遠いのです。)その他、日本で、行く先々(親戚や友人など)で、必ず、頂き物をすることを考えると、手ぶらで行くというわけにもいかず、お土産代も結構、かさみます。

 だいたい、娘と二人で、日本に行けば、一回、少なくとも50万〜60万、三人で行けば、100万くらいは、最低でもかかります。

 両親も年に一回の私たちの帰郷をとても楽しみにしてくれていましたし、私たちも家族と触れ合える短い期間でしたので、その時間を何よりも大切に思っていました。

 両親の晩年などは、特に、生きている間に、あと何回、会えるのだろうか?と、いつも思っていました。

 また、母が入院したとか、父の具合が悪いとかいうことが起こると、できる限りは、日本へ行っていましたので、1年に2回〜3回、となった年もありました。

 日本へ行かずにヨーロッパの中を旅行するならば、ずいぶん、色々なところへも行けただろうとも思いましたが、その時にしかできないこともあるのです。

 両親の介護の問題になった時などは、本当に心が痛みましたが、こちらに生活に基盤を置いてしまうと、お金の問題だけではなく、そうそう簡単に行くこともできません。

 親不孝と思いながらも、その時にできることをできる限りやっていくしかなく、状況は、いざとなれば、待ったなしの状況になるので、その時々でも、あまり、選択肢は、ありませんでした。

 そんなこんなで、海外生活をしている我が家は、常に自転車操業のような状態でした。

 しかし、私は、その時々にしてきたことに後悔はありません。

 

 

 











2019年10月25日金曜日

フランス人と車




 フランス人の車の運転の荒さは、有名です。

 特に、信号なしに複数の方角から、車が合流する地点などは、事故なしに、割り込んで車を進めていくところなどは、フランス人の性格の悪さが出るな・・と思われるほど、強引に前へ前へ出ていかなければ、前に進めません。

 中でも、パリの凱旋門の周りの車線なし、信号なしの道路から、放射状に伸びている12本の通りと繋がる通りから、入ったり出たりする車を縫って運転するのは、初めて見た時には、一生、ぐるぐると凱旋門の周りを走り続けるのではないかと思ったほどです。

 また、パリの路上の駐車スペースに、時には、バンパーで、前の車と後ろの車をぶつけながらでも、器用に?車を停める光景は、まるで、バンパーは、そのために存在するものとでも言いたげに見えます。(確かに、そう思っている人は、いるはず・・。)

 だからだとばかりも言えませんが、フランス人の多くは、中古車をよく利用します。

 この辺にもフランス人の経済観念、締り屋具合がよく現れています。車は、ある程度、走行距離を重ねたものの方が車の調子がいい・・などということをとうとうと語り出したりします。

 しかし、この点においては、パリでは、最近は、大気汚染対策のために、数年以内の新車でなくてはならない、さもなくば、毎年の車検などの厳しい規制が敷かれています。

 また、マニュアル車を好むのも、フランス人の車好きの特徴です。

 そして、愛国心旺盛なフランス人は、ルノー、シトロエン、プジョーなどのフランスの車を好みます。また、パリ市内は特に、駐車スペースの問題もあり、小型車が多いのにも驚かされます。

 パリ市内ならば、バスやメトロなどの交通機関が張り巡らされているので、(故障やストライキは多いですが・・)本当は、車など必要ないのですが、何よりもバカンスを大切にする彼らには、たとえ、中古車であっても、車は、必需品なのです。

 まるで、引っ越しをするが如く、たくさんの荷物を車に詰め込んで、自転車まで屋根に積んで、長期のバカンス、または、週末にセカンドハウスに出かけたりするのです。

 また、パリという街は、実際は、小さい街で、パリを少しだけ外れるだけでも、たちまち田園風景が広がります。郊外に住む人にとっては、車は、買い物に行くのも、通勤するのにも必需品です。

 最近は、日本では、運転免許をとる若者が減ったという話を聞きますが、こちらの若者は、現在でも、運転免許を取る人は多く、18歳になって、早々に、高校を卒業する前から、免許を取ってしまう人もいます。

 特に、地方の学生などは、質素な暮らしをしながらも、古い車を買って、乗っています。

 そもそも、昨年から、世間を騒がせている「黄色いベスト運動」のデモも、一年近く経つ今では、論点がずれてきている感もありますが、元はと言えば、燃料価格の上昇に端を発しているもので、フランス人と車の関係の深さが垣間見えます。

 

 

2019年10月24日木曜日

アフリカでの出産で・・・陣痛促進剤2日間の産みの苦しみ




 私は、初めてのお産を、言葉も満足に伝わらないアフリカでという、かなり冒険的な体験をしました。言葉が満足に伝わらないと言っても、フランス語は、通じるので、単に、当時の私のフランス語力が足りなかっただけの話です。

 初めての出産、しかも、海外、そして、よりによってアフリカ・・・。
なのに、私は、出産に関して、あまり不安を感じていませんでした。

 病院も一応、フランス人や現地の政府高官が使うという、総合病院で、先生もフランスとアフリカのハーフのとても聡明な感じのベテランのど〜んと構えている、頼もしい感じの女医さんでした。

 とはいえ、日本でのお産のように、母親学級のようなものがあるわけでもなく(日本でお産をしたことがないので、詳しくは、わかりませんが・・)、月一回の定期検診と、出産前に2回くらい、出産の時の呼吸法の練習に行ったくらいでしょうか??

 出産間近の検診の際に、「じゃあ、この日は、祝日だから、その翌日の○日、出産にしましょう!朝、8時までに病院に来て下さい!」「はっ・・ハイ・・。」

 こんな感じに誕生日が決まるものなのか?とも思いましたが逆らえず、そのままになりました。

 それでも、私には、一人だけ、強い味方の日本人の助産婦さんだった方が付いていてくれたのです。彼女は、ちょうど、現地に赴任している日本人の男性と結婚したばかりで、まるで、私の出産に合わせるがごとくのタイミングでアフリカにやってきてくれたのです。

 約束の出産の日に、私は、主人に付き添ってもらって、病院へ行きました。

 当時は、10キロ以上体重が増えるとお産がキツくなるというので、私は、何としても、10キロ以上は増やすまい!と心に決めて、体重の増加を10キロ以内に留めてきました。

 苦しい思いをするのは、嫌だったので・・。

 そのせいか、出産前のエコーの検査では、「少し小さめの赤ちゃんかもしれませんね。」などと、言われて、内心、「よしよし・・」と思っていたのです。

 当日、陣痛促進剤を打たれて、お腹が痛くて痛くて、ずっと、のたうちまわりました。しかし、よほど、私のお腹の居心地が良かったのか、赤ちゃんは、1日経っても、産まれてきませんでした。

 夕方になって、女医さんもあきらめて、「じゃあ、また、明日の朝から、頑張りましょう!」などと言われて、彼女は、さっさと帰って行きました。陣痛促進剤がおさまると、痛みはスーッとひきましたが、一日、のたうちまわった疲れから、その晩は、疲れ切って、グッスリ眠りました。

 翌朝、叩き起こされるようにして(アフリカの看護婦さんは、日本の看護婦さんのようにソフトに起こしてはくれない)目覚めて、また、陣痛促進剤。

 正直、昨日の苦しみを、またかと思うともう、本当に気が進まなかったのですが、このまま病院にいる訳にもいかなので、仕方ない・・という、感じでした。

 それから、また二日目の陣痛促進剤を打つと、再び、痛みが始まりました。ようやく赤ちゃんの頭が出かかって、それからがまた、長くかかり、本当に途中でやめられるものなら、やめたいと思いましたが、そうはいきません。

 しまいには、吸引機のようなものを赤ちゃんの頭に当てて出てきたので、しばらく、娘の頭はちょっと、とんがっていました。

 それでも、午後、2時過ぎにやっと、娘は、産まれてきました。

 産まれてきた赤ちゃんは、ちっとも小さめではなく、3400グラムもありました。
私の体重も10キロ以上は、増えていなかったし、お腹だって、そんなにすごく大きくなっていたわけでもなかったのに、一体、どうやって入っていたの? という感じでした。

 とにかく、小さく楽にお産をしようと思っていたのに、それどころか、二日間も苦しむ羽目になって、一緒に付いていてくれた日本人の助産婦さんに、「これ、難産って言うよね!」と聞いたら、「これは、難産ってほどでは、ないと思うよ。」とあっさり。

 一緒に立ち会ってくれると言っていた主人は、身体に合うサイズの手術着のようなものがなく、結局、入れず仕舞いで、待ちぼうけでした。

 それでも、結果的には、主人よりも、助産婦さんだった彼女が付いていてくれたことの方がどれだけありがたかったことか・・。

 赤ちゃんが出てきて、女医さんが、「おめでとう。女の子ですよ。」と私のお腹の上に赤ちゃんを乗せて見せてくれて、何だか、まだ、ベチョベチョに濡れていて、「えっ??なんだか、赤いサルみたい・・赤ちゃんて、ホントに赤いんだなぁ・・」などと思いながらも、なぜか、手と足の指がちゃんと5本ずつあるかを数えたことを覚えています。

 そして、その翌日、私は、早々に退院しました。

 2週間後の病院の赤ちゃん検診で、新生児黄疸の症状が出ていると、言われて、あわや、入院かという大騒ぎになりました。新生児黄疸は、日本人に特有のもので、ほとんど、黒人、たまに白人の赤ちゃんしか、扱ったことのない病院は、そのことを知らなかったのです。(私も知らなかったけど・・)

 そこは、頼りになる助産婦さんの彼女が、お医者様に、これは、日本人特有のものだと説明してくれて、事なきを得たのです。

 出産は、日本の方が・・などと言われたりもしたのですが、私は、最初から、主人と二人で子育てをしたかったので、頑として、アフリカでお産をすることにこだわったのです。

 結局は、私にとって、女神のような、日本人の助産婦さんの存在もあり、無事に娘は、産まれてきたのです。

 お産が終わってすぐに、女医さんに、どうだった?と言われて、私は、うんざりした顔をして、「もう、懲り懲りです。」と言いましたが、彼女は、笑って、「みんな、そう言いながら、また、戻ってくるわよ!」と余裕の笑顔で仰いました。

 しかし、今になって思うと、私もずいぶんと無茶なことをしたものです。


 














 

2019年10月23日水曜日

娘のアルバム




 娘が生まれて、私にとっては、初めての子供で、やたらと写真を撮っていました。

 娘は、平成生まれですが、それでも、彼女が生まれた頃は、まだ、カメラにフィルムを入れて、写真を撮ると、フィルムをカメラから出して、写真屋さんに現像をしてもらい、その中でよく撮れているものを選んで、焼き増ししてもらうという、今では、考えられないようなことをしていたわけです。

 母がよく、娘の洋服を送ってくれていたので、その洋服を着せては、写真を撮って、郵便で送るということをずっとしていたわけです。普段は、会えない孫の写真が郵便で届くのを日本の両親や家族は、とても楽しみにしていました。

 そんなわけで、娘の幼少期の写真は、やたらと沢山あり、アルバムも随分とたくさんあります。

 ところが、カメラはみるみる進化し、カードに保存して、メールなどで送れるようになって、それから間も無く、スマホで写真が撮れるようになり、そのまま、すぐにスマホで写真が送れるようになり、写真を現像するということもなくなり、アルバムは、スマホやパソコンの中に保存するものになりました。

 ですから、娘の現像した写真のアルバムもパッタリと途中で途切れて、それ以降の彼女の人生の大半の写真は、スマホのアルバムの中に保存されています。

 最近で、現像した写真といったら、証明写真以外は、成人式で着物を着せた時に写真屋さんで撮った写真くらいです。

 しかし、アルバムの写真というものは、実際、見やすくて、家族の歴史としては、やはり、積み重なっていく感じが良いなぁ・・と感じる私は、古い人間なのでしょうか?

 写真の現像とともに、消え去りつつあるのは、手紙です。

 スマホやメールにより、こと足りてしまうどころか、遠い国に住んでいても一瞬のうちにメッセージを送れてしまうのですから、今では、時差の方が気になるくらいです。

 その上、早くて便利で安上がりですから、どうしても、メールやメッセージになってしまいます。

 私は、海外で生活し始めてからは特に、随分と手紙を書いていましたが、今では、ペンを持って字を書くということ自体も稀になってしまいました。

 字は、書かなくなると、書けなくなり、特に一筆書きで書けるような、アルファベットの文字ばかり書いていると、漢字という画数の多い複雑な文字を書くのがとても億劫になってしまいます。

 ペンを取って、思い入れを込めて、手書きで手紙を書くというのは、時代遅れなのかもしれませんが、その人の字体などにも人柄や気持ちが表れていて、なかなか味のあるものです。

 最近、母の残してくれた手紙を見ていて、私の一時期の手帳に書いてある文字にあまりにそっくりで、これ、確かに私が書いたんだよな〜、まさか、母が書くわけないしな〜、と考え込んでしまったほどです。

 でも、親子で、いつしか同じような字を書いていたことにも何かホッコリとしたものを感じるのです。

 いつか、私が旅立った時、娘が私を思い出してくれるものは、全て、スマホの中というのは、なんだか寂しい気がするのです。

 











 

2019年10月22日火曜日

ストライキ大国・フランス




 言わずと知れたストライキ大国であるフランス。

 公共交通機関であるパリの営団地下鉄や国鉄、飛行機、タクシーなどから、学校まで、四六時中、どこかがストライキをやっているような印象があります。

 私もフランスに住んで長くなり、一通りのストライキによる被害を被ってきました。

 だいたい、フランスの交通機関などは、ストライキをやらずとも四六時中、テクニカルプロブレムだとか、危険物があるとか言って、ストップするし、TGV(フランス国鉄の新幹線)などでさえも、大幅に時間遅れがあたりまえで、電車が2〜3分遅れただけで、「深くお詫び致します。」などとアナウンスの入る日本から考えたら、通常の状態がもうすでに、ストライキのような状態なのです。

 これだから、パリに通勤するとなると、日本なら、一時間以内の通勤圏は、余裕で大丈夫なところですが、しょっちゅう起こるストライキのことを考えると、郊外線などは、1時間に1〜2本のみという間引き運転になるため、車内は大混乱、通常、一時間の通勤時間のところが、その倍近く、時間を見積もって出かけなければならないのです。

 ましてや満員電車に慣れていないフランス人のすし詰め状態は、恐ろしいものです。

 それでも、パリは、家賃が高く、郊外に住んでいるフランス人はたくさんいるのです。

 私もパリに引っ越してくる前までは、郊外線を使って通勤しており、一ヶ月近く、ストライキが続いた時には、本当にヘトヘトになりました。

 SNCF(フランス国鉄)やRATP(パリ営団地下鉄)の職員よりも、ずっと悪い条件で働いている人たちが苦しめられて、どうなっているの? と思います。
 
 周りの乗客も長く続くストライキに積み重なる疲労と怒りでストレスが溜まりきっていました。

 そのストライキが終わって、すぐに、涼しい顔をして、検札にやってきた国鉄の職員は、乗客に「お前ら、さんざんストライキをやっておいて、検札とは、何事だ!!」と周りを囲まれて袋叩きにあい(手を出されていたわけではありませんが)、次の駅でトボトボと降りていったのを目撃したこともありました。

 また、娘が幼稚園(公立)の頃に、幼稚園が一ヶ月近く、ストライキで閉まり、子供を預けるのに右往左往したこともあります。

 そのおかげで、小学校からは、絶対にストライキをやらない私立の学校に入れました。

 日本にエアフランスで行った際、ストライキの予定の日にちをずらして、チケットを取ったのに、数日前のストライキの煽りを受けて、取っていたはずの直行便が変更になり、経由便になってしまったこともあります。

 また、日本から帰ってきた際に、空港からの交通機関は、全てストップ、タクシーですら、ストライキをやっていた・・ということもありました。

 どうにもならなくて、知り合いの運転手さんに電話をして、急遽、奥さんの車で迎えに来てもらったこともありました。

 もし、個人でフランスに旅行に来ている人だったら、そんな時はどうするのでしょうか? 考えただけでも恐ろしいことです。

 本当に、ありとあらゆることを予測して、対応できなければ、フランスで生活するのは、大変です。

 それでも、私がフランスに来たばかりの頃に、主人の友人に会った時、フランスの印象は? と聞かれて、「ストライキ!」と言った私の答えに、彼は、大変、満足そうに得意げな様子だったことは、今でも、忘れられません。

 その主人の友人だって、少なからず、ストライキの被害を被っているはずなのに、そうして、あくまで「主張」することを、どこか、誇りにしているフランス人なのです。

 











2019年10月21日月曜日

旅行先に着いた途端にスリ被害で一文無しになったらどうするか?




 パリでは、日常茶飯事のように起きているスリ被害ですが、私は、パリでスリの被害にあったことは、ありません。

 パリでの行動には、もう、周りの話をさんざん聞かされているので、注意して歩くことが習慣になっているのかもしれません。

 一度、母がパリに来てくれた時に、母がメトロの中で、ショルダーバッグから、お財布を抜かれたことがありましたが、それ一回のみ、しかも、私ではありません。

 しかし、そんな私も一度だけ、スリにあったことがありました。

 それは、リスボンへ旅行した時のことでした。

 ホテルへチェックインするには、少し、時間が早かったので、ホテルに行くまで、少し、観光しようとベレンの塔へ行った時のことです。

 早朝の飛行機で、パリを出発し、一旦、ホテルへ寄って、荷物を預けて、一息ついてから出かければ良かったのですが、小さなキャリーバッグとはいえ、荷物をゴロゴロと転がしながら、観光していたのです。

 これでは、旅行者丸出しですよね。

 途中、橋の上で、偽ブランド物を売りつける人が寄ってきて、頑なに、断り続けたのは、良かったのですが、多分、その時にやられたのだと思います。

 お財布を丸々、擦られてしまったのです。

 気が付いた時には、私は、一文無しで、飛行機の中で、お金も一部は、別に分けて持っておこうと思っていたのに、それも忘れていて、丸々、カードも現金も一切合切、取られてしまったのです。

 パスポートは無事だったものの、まだ、着いたばかりで、無一文でバスやタクシーにさえ乗れない!これから数日間、どうやって過ごしたらいいのか、娘を連れて、私は、途方に暮れました。

 トボトボと娘とリスボンの街を歩きながら、ジェロニモス修道院のあたりで、ようやく警察官をつかまえて、事情を話すと、とりあえず、街の中心にある警察署まで、パトカーで送ってくれました。

 戻ってくることはないと思いつつも、一応、保険等のために、被害届を作ってもらい、その担当をしてくれた警察官の人に、タクシー代の5ユーロを借りて、ホテルにどうにか、たどり着きました。

 ネット予約していたために、すでに、ホテル代は、支払いが済んでいましたので、最悪、ホテルに缶詰になっていれば、どうにか、帰りの飛行機までは、過ごすことはできますが、それでは、食事もできません。

 ホテルのジムにおいてあるリンゴを食べて過ごそうかとまで、一瞬、考えたぐらいです。

 そこで、私は、ホテルのフロントの人に事情を話して、控えてあったカードナンバーから、ホテルで、お金を引き落としてもらって、現金を手に入れてから、カードを止めることを思いついたのです。

 ホテルのフロントの人がとても、親切な人で、カードの手数料がかかるので、その分を負担していただければ・・ということで、快く引き受けて下さいました。

 そして、彼は、「ポルトガル人として、この国に訪れて下さったの方の中に、こんな被害に会う方が出てしまうことをとても恥ずかしく思います。」と言ってくれました。

 翌日、借りた5ユーロを返しに、警察に行き、前日に貸してくれた警官にお金を返しました。彼は、「お金を貸したと言っても、本当に返しに来てくれるとは、思っていなかった・・」と言い、お金もなんとか、カードから引き出すことができたと言ったら、そのことをとても、喜んでくれました。

 取られたカードもカード会社に電話して、ストップした時点で、使われている形跡はないことが確認できて、その後の観光は、なんとか、続けることができたのです。

 それにしても、日頃、パリでは気をつけていたのに、旅行先では、やはり、旅行者として、狙われてしまうのだと、旅行の際もますます、気を引き締めなければと学んだ、高い授業料でした。

 


























2019年10月20日日曜日

お金は、人を幸せにできるのか? ナタリーの話

 


 私の勤めていた会社のフランス人の社長は、とても、女癖の悪いことで有名な人で、結婚は、しているものの、常に複数の女性がいて、家庭は、崩壊状態のようでした。

 彼には、私とほぼ、同じくらいの年齢のナタリーという娘がいました。

 ナタリーのお母さんは、そんな旦那との日常の生活のストレスからか、アル中で、身体を壊して、亡くなってしまい、ナタリーは、軽い障害を抱えていることもあり、仕事には、付いていませんでした。

 しかし、金銭的には、何の不自由もなく、パリにアパートを持ち、一人で暮らしていましたが、彼女には、友人らしい友人もなく、孤独で、自殺未遂騒ぎを起こしたこともありました。

 そんな、彼女の孤独を紛らわせていたのは、買い物でした。

 羽振り良く買い物をすれば、店員は、機嫌をとって、その時だけは、優しくしてくれるからです。彼女の部屋には、買い物をして、持て余して、部屋に収まり切らなくなり、封さえ切られていない、山のような洋服や、バッグや小物類などが、あったのです。

 近づいてくる男の人も、明らかにお金が目当てで、たまに、ナタリーは、ここが私のお父さんの会社だと、妙な男性を会社に連れてくることもありました。

 それでも、男性とは、長続きするわけはなく、結局は、一人になってしまうのでした。

 そうなると、相手にしてくれるのは、父親の会社の人くらいで、彼女が会社に来れば、ある程度、皆、挨拶くらいはするし、会社に電話をしてきたりもするので、たまたま、電話を取ってしまえば、私も時々は、世間話の相手になったりもしていました。

 もう、とっくに成人している彼女ですから、父親が彼女に積極的に関わらないのも、わからないではありませんが、お金だけ無尽蔵に与えて、彼女に向き合おうとしない親子というのも、理解できません。

 現在は、もう社長も引退し、アメリカで別の女性と暮らしているそうで、パリにも滅多に現れることはありません。ナタリーが自殺未遂を起こしてからは、彼女の相手をしてくれる彼女より少し年下の女性を父親が雇い、それからは、少し彼女も落ち着いたようです。

 しかし、彼女は、このまま、一生をそんな風に送って行くのでしょうか?

 彼女にお金をかけるなら、彼女自身にお金を与えたり、その場しのぎの、退屈を紛らわす世話係のような人を雇うのではなく、まずは、彼女の精神的なケアーをしてくれる病院や専門家を探すことだったろうに・・と思うのです。

 社長は、先見の明も商才もあり、経営者としては、莫大な財産を築きましたが、幸せな家庭は、築くことができませんでした。彼は、お金に頼り、人任せにして、自分で家族と向き合わないことで、家族を傷つけ続けてきたのです。

 いくら、お金があっても、そのお金を上手に使えなければ、幸せにはなれません。
むしろ、お金がありすぎるから、不幸になることもあるのです。

 お金があるからこそ、不幸になることもあるのだというような話を聞くたびに、私は、ナタリーのことを思い出すのです。

 

 

 

  











2019年10月19日土曜日

日本の母からの小包




 私がフランスに来て以来、母は、毎月一度、小包を送ってくれていました。

 そして、母の体調が悪くなってからは、母の妹である叔母が、ずっと、その代わりをしてくれていました。

 当初は、フランスの郵便事情の悪さも、あまりピンと来ていなかったので、自宅宛で、日中は、仕事で家にいなかったため、その多くは、留守中に、不在通知が入っていて、休みの日に、郵便局に取りに行くことが多かったのです。

 私も娘も、とても、日本からの小包を楽しみにしていましたので、私が、お休みの日に、娘に、「今日は、どこに、お散歩に行きたい?」と尋ねると、迷わず、「郵便局!」と答えるほどでした。

 小さい頃の娘は、郵便局をドラえもんのポケットのように思っていたのです。

 毎月のことでしたので、大きな小包ではありませんでしたが、それでも、母は工夫して、娘の大好物の高野豆腐やひじき、切り干し大根、佃煮、おせんべいなどの日本の食品、日本のテレビ番組を録画したDVD、娘の洋服など、どれも、重量軽減のために、箱などは、取り除かれていて、クッションがわりに鰹節のパックや靴下などが使われていて、
小さいスペースにギッシリと詰められていました。

 小包には、必ず、母の短い手紙、時には、その時に庭に咲いていた花のスケッチなどが添えられていました。

 だんだんと、フランスの郵便事情などがわかり始め、紛失して届かなかったりしてしまったこともあり、小包は、私の勤めていた会社宛に送ってもらうようにしました。

 日中は、必ず、誰かがいるし、パリの中心地にある会社宛ての方が、国際郵便物の取り扱いにも慣れていて、紛失したりすることが、少なくなりました。

 それでも、クリスマスの時期などは、無くなってしまったこともありましたが・・。

 私の方からも、毎月とは言えないまでも、ずいぶんと母に小包を送りました。

 新しいシリーズの母に良さそうだと思われるお化粧品や、新作のスカーフ、マフラー、セーターなど、母に似合いそうなものを見つけると、必ずストックしておいたものです。

 そして、母や叔母の送ってくれた娘の洋服などを娘に着せては、せっせと写真を撮って、小包に忍ばせておきました。

 母の方も、出かける時などは、それを身につけて、娘が送ってくれたのよ!と嬉しそうに、孫の写真とともに、自慢していたのだそうです。

 今では、母も亡くなって、日本に帰国するたびに、少しずつ、実家の片付けをしています。私が母に送った洋服やスカーフ、マフラーなどを見つけるたびに、その頃のことを思い出しています。

 そして、私が母に送った走り書きのような手紙や、娘の写真なども残らず、大切に、箱に収められてあり、胸が熱くなりました。

 私の方も、母が小包にしのばせてくれていた手紙は残らずとってあります。

 私と母の往復書簡ならぬ往復小包でしたが、それは、離れていても、お互いのことを思って、品物を選び、短い言葉を手紙にしたためていた、親子の大切な軌跡のようなものであったのだと、実家の片付けをしながら、しみじみと思うのであります。

 

2019年10月18日金曜日

フランスのベビーシッターと子供のお迎え



 パリに引っ越してくる前の数年は、私たちは、パリ郊外の街に住んでいました。

 子供が一歳になったと同時に仕事を始めた私は、クレッシュ(保育園)に子供を預けて働き始めましたが、仕事場がパリだった私も主人も、保育園が終わる時間に迎えに行く事が、なかなか厳しかったので、代わりに保育園に迎えに行ってもらって、私が戻るまで、預かっていてもらうベビーシッターさんを頼んでいました。

 安い私のお給料で、クレッシュにベビーシッターを頼むのは、かなりの出費でしたが、後々は、パリに引っ越すことにしていたので、それまでの間は、仕方ないと考えていました。

 ベビーシッターさんは、クレッシュに掲示してあった広告で、主人が探してきました。彼女は、小学生二人を持つモロッコ出身の主婦で、とても、快く、お迎えという仕事を引き受けてくれました。

 パリであれば、日本人の留学生の方などを探せたのでしょうが、パリ郊外ともなると、そういうわけにもいきません。

 それから、一年くらいは、彼女にお願いをしていたでしょうか? 

 しかし、慣れてくると、馴れ合いというか、甘いことを考え始めたりするのかもしれませんが、ある時、何をきっかけだったかは、忘れてしまいましたが、彼女が小学生の自分の子供にお迎えをさせていたことが、発覚し、今から思えば、小学生の子供に子供を渡してしまうクレッシュもどうかとも思うのですが、すでに、その子供も母親と共に娘のお迎えに付いて行ったりしていたことで、顔見知りになっていたのでしょう。

 とにかく、近所とはいえ、何かあった時に、当時、小学校低学年だった彼女の子供に対応できるとは、思えませんし、彼女の、その責任感のなさに憤慨した私たちは、急遽、他のベビーシッターさんにお願いすることにしたのでした。

 それから、一ヶ月間くらいでしょうか? やめてもらったベビーシッターさんから、夜中に嫌がらせの電話が鳴り止まず、娘に何か仕返し等をされても怖いと思い、警察に通報し、ようやく、嫌がらせの電話はおさまりました。

 しかし、後になって、今度は、我が家の方が、あの家庭は、子供を放置して、学校(幼稚園)にも行かせていないと、警察に通報され、児童保護担当の警察が我が家にやってきたこともありました。

 そんなことは、学校の出席状況を調べればすぐ分かることですし、お休みの日なども、彼女のお稽古事などで、私もびっちり彼女とずっと一緒にいましたので、証人もたくさんおり、まるっきり、問題にはなりませんでしたが、全く、面倒なことをしてくれる人がいるものだと思いましたが、(通報した人の名前は教えてもらえませんでしたが、)考えてみれば、彼女の嫌がらせの通報だったかもしれません。

 私の同僚にも子供を持ちながら、働いている人がほとんどで、そんな話を職場ですると、皆、色々と苦労話を聞かせてくれました。

 ある人は、子供が幼稚園に通っている頃、ベビーシッターさんに子供を預けていたところ、家に帰ってから、子供が鼻水を垂らしていて、風邪を引きかけてしまったようだったので、子供に、” 今日は、何をしていたの?” と聞いたところ、子供は、無邪気に、”シッターさんと一緒に郵便屋さんごっこをしたんだ!” と言ったのだそうです。

 最初は、何の疑問も感じずに子供との会話を続けていた彼女ですが、それがあまりに具体的で、おかしい??と感じはじめ、子供を問い詰めると、何と、チラシをポストに入れて歩く仕事を子供に手伝わせていたことが判明し、即刻、シッターさんを変えたとの事でした。

 まあ、シッターさんからしたら、子供と一緒にいたのだからいいだろうと考えたのかもしれませんが、倫理観の違いとでもいうのでしょうか? 他人事ながら、全く呆れた話で、ベビーシッターさん選びも、気をつけて、子供から出来るだけ、話を聞きださなければいけないと痛感したものです。

 パリに引っ越してからは、学校のエチュード(学校の授業が終わった後に宿題等を見てくれる時間)の時間の終わりには、何とかギリギリで間に合うようになったので、ベビーシッターさんは、雇わなくてもいいようになりましたが、仕事が終わるのがギリギリになってしまったり、途中のバスが渋滞して、遅れてしまったり、ハラハラ、ドキドキの毎日でした。

 フランス人は、時間を守らないくせに、学校が終わる時間だけは、きっちりしていて、時間に少しでも遅れてしまうと、おっかない顔をして、”セ・パ・ポッシブル!!(ありえない!)マダム!” などと怒られ、こんな時だけ、時間を守るフランス人を恨めしく思ったこともありました。

 私自身は、時間には、キッチリしている方ですが、パリの交通事情は、そんなに生易しいものではありません。

 遅れそうになって、メトロの駅のエスカレーターを駆け上がって、転んで、すぐには、立ち上がれずに、転んだ状態のまま、ズルズルとエレベーターで、上に辿り着いた時の恥ずかしさは、今でも忘れられません。

 パリでは、普通は、子供が小学校卒業までは、子供の送り迎えが求められます。

 その年齢までは、送り迎えが求められるということは、それだけ、危険に遭遇する可能性があるということなのです。

 生まれたばかりの頃は、早く、首が座ればいい、次は、歩けるようになったら・・トイレに行けるようになったら・・と、次々と子供の成長を願いますが、本当に大変だった子供の送り迎え。

 子供が一人で学校へ行って、帰って来れるようになったら・・と、どれだけ思ったことでしょうか?

 でも、今から思えば、必死で送り迎えをしていた頃が、大変だったけど、一番、子供との濃密な時間を過ごせた期間だったのかもしれません。









 




























2019年10月17日木曜日

便利な生活がもたらすもの フランスへの修行ツアーのススメ




 フランスに長く住んでいて、日本に一時帰国すると、忘れかけていた日本の生活の便利さ、快適さを身に染みて感じます。

 当たり前のように届く郵便物や配送品、銀行や郵便局などの手続きのスムーズさ、時間通りに来る電車やバスなどの交通機関、感じ良く、親切な接客、そして、いつでもどこでも簡単に手に入る日本食、日本食材。

 日本に一時帰国時に、ある程度のスケジュールを立てて、銀行などの複数の諸手続きに、午前中・・などと、つい、フランスの感じで時間を見積もっていると、あっという間に用事が済んで、自分自身、えっ??と、呆気に取られてしまうこともあります。

 また、スーパーのレジなどでも、これ、ちょっと傷んでいますから、取り替えましょうね・・などと、言ってもらえて、思わず、” うわ〜ん!!親切〜〜!!” と叫んでしまったこともあります。

 フランスのレジなどでは、下手をすると、持って行った野菜に、レジの人の方から、”これ、何という野菜?" などと聞かれるくらいですから、もう比較の対象にすらなりません。

 日本では、ちょっとでも、まごついたりしたら、” お待たせいたしました。失礼いたしました。申し訳ございませんでした。” 、別にそんなこと、いいのに・・と思うことにまで、すぐに謝られます。

 一方、フランスでは、待たせることなど、何とも思っていませんので、そんなことでは、絶対に謝らないし、それ以上のことでさえ、まず、謝りません。

 何かの工事を頼んでいたり、家に水道・電気などの点検が入るという通知があったりしても、なかなかの確率で、時間に大幅に遅れたり、すっぽかされたりします。

 人間、便利で楽な環境に慣れるのは、簡単で、あっという間です。
 そして、もっと便利に、もっと快適にと、更に、上のサービスを求めるようになります。

 日本は、世界基準でも、ちょっと類稀なる、サービスが享受できる国です。

 と、同時に、日本は、クレーム大国でもあるのです。

 ファストフードやチェーン店、コンビニなどの挨拶がマニュアル通りで、目が笑っていない・・とか、ちょっと前に、猛暑の最中に運転しながら水を飲むバスの運転手さんに対してまで、クレームが入ったとか・・。

 マニュアル通りだろうが何だろうが、ちゃんと挨拶しているのだし、猛暑の中でも、ちゃんときっちり運転してくれているのではありませんか?

 お客様は、神様で、神様の声への対応を求められ、神様は、まるで、世直しでもしているかのごとく、踏ん反り返る、恐ろしい悪循環です。

 フランスでは、頼んだ荷物が届くかどうかがまず、不確かなフランスに住んでいると、日本で、宅配便の配送をしている人が走っているのには、仰天してしまいます。

 フランスの、このサービスの悪さもどうかと思いますが、日本のもっともっと便利で快適なものを求め続ける果てのクレームの蔓延も異常です。

 フランスで暮らすようになって、当初は、いちいち、腹を立てていた私ですが、いくら腹を立てても、仕方ないので、予め、不測の事態に備える、ないものは、自分で作る!という姿勢にシフトチェンジしました。

 すんなり、事が運んだだけでも万々歳です。

 より便利で快適さを求める生活は、人間から忍耐力と寛容さを奪います。
 すぐに、キレて、すぐに、クレームです。

 そして、その生活を支えているサービスを提供している、走って配達をしている宅配便の配達をしている人たちがいるのです。

 私は、いっそのこと、日本のクレーマーを集めて、フランスでの不便な生活の体験ツアーをせめて、一ヶ月くらいでいいから、やってみたらどうかと思うのです。

 きっと、どれだけ、日本のサービスが優れて、ありがたいものかを実感として、感じる事ができるでしょう。

 


















2019年10月16日水曜日

男尊女卑 日本人が思いがちな、男性だから・・女性だから・・という感覚





 私が、フランスで育った娘と話をしていて、時々、スイッチが入ったように、娘が怒りを示すことがあります。

 それは、日本人によくある、「男性だから・・」、「女性だから・・」という観念が、話の中に見え隠れした時です。

 彼女の中のセンサーは、実にその観点に敏感に反応します。

 彼女が以前に見ていた日本のドラマで、猛烈に働く女性を描いたドラマがあったのですが、その主人公が仕事モードに入る時、” 男スイッチが入って、寝食を忘れて働き出す。" というナレーションが入るのですが、”なぜ、猛然と働くのは、男スイッチなのか?” というのです。

 確かに、そのナレーションには、社会で、猛烈に働くのは、男性であるというニュアンスが含まれているのかもしれません。

 私も、娘に言われるまで気がつかなかったのですが、娘に言わせてみれば、そのことを見過ごしてしまう時点で、それが当然のことと思って、そのことを受け入れている!というのです。

 また、彼女が高校まで通っていた学校で、私が、泣いている子を見たことがあるのは、男の子ばかりだ・・という話をした時も、それは、ママの中で、男が人前で泣くなんて・・という固定観念があるから、男の子が泣いている場面が、特に印象に残っているのだ・・女の子だって泣いていることはある!と言われたこともあります。

 確かに、「男だから・・」、「女だから・・」という観念は、私の中に存在しているのかもしれません。それは、日本の社会で育ってきた私だからか、また、時代背景もあるのかもしれません。

 主人などは、古い世代の人間なので、フランス人でも、「男たるものは、女性を守らなくてはならない・・」というような観念が、あるようなので、一概に、フランス人は・・と決めつけることもできません。

 それでも、私自身は、自分では、長く海外生活を送る中で、男だから、女だから、という考え方は、ずいぶんと日本で生活していた時に比べると、少なくなっていると思っているのです。

 いずれにせよ、フランスで育ち、教育を受けてきた、今の世代を生きている娘には、男尊女卑とまでは行かないまでも、日本の男性、女性に対する固定観念のようなものに、とても違和感を感じるようなのです。

 フランスでも、全てが、男女平等とは、言えないとは思いますが、少なくとも、専業主婦というものが少ないことからも、女性も社会に出て働き、家事も男女が、分担して行い、家族は、男女二人で築き上げるもの、そして、男だから・・女だから・・という考え方は、ナンセンスだという意識が彼女には、根付いています。

 先日、日本で発覚した医学部の女性受験者に対する点数の差し引き問題なども、彼女は、非常に厳しい目で見ています。

 そのようなことが、まかり通ってきた日本は歪んでいる・・と。

 彼女も、実際に社会に出れば、日本ほどではないにせよ、フランスでも、少なからず、女性に対するハンディに遭遇することがあると思います。

 しかし、現時点では、男性だから、女性だから、こうあらなければならないということを激しく拒否する彼女ですが、そもそも、男性と女性というものは、違う性別を持っているもので、男らしさとか、女らしさとかいうものを彼女は、どう捉えているのか? と、ふと思うのであります。

 別の観点ではありますが、私としては、男らしさや、女らしさも、人間としての魅力のひとつだと思うのですけどね・・。

2019年10月15日火曜日

エチュードの講師のアルバイトをする娘とフランスの中・高校生




 娘は、現在、学生ですが、学業のかたわら、アルバイトをしています。

 日本では、学生のアルバイトというのは、珍しくないことだと思いますが、失業率の高いフランスでは、大学にもよりますが、時間的には、少し余裕ができても、日本のように、学業を優先しつつも、学生が自分の空き時間に、都合よくできるようなアルバイトは、少ないのです。

 彼女は、現在、週に1〜2回、エチュードといって、学校の授業が終わった後に、宿題や補習をする授業の講師のアルバイトをしています。

 フランスなら、おそらく、どこの学校にも、学校の授業とは、別に、エチュードという時間が設けられていると思いますが、これは、授業の単位とは関係のないもので、強制的に参加しなければならないものではありません。

 また、そのあり方も様々で、彼女自身が通っていた中学・高校では、エチュードの時間はあったものの、その時間帯を監督する人がいるだけで、特別に勉強を教えてくれるわけではなく、あくまで、自習のような時間でした。

 しかし、現在、彼女がアルバイトに行っている私立の学校は、学校が場所を提供して、学校側と、その講師を派遣している会社とが契約をして、その学校の生徒の希望者に実際に勉強を教えてくれる人を雇っているのです。

 そんなシステムを取っているくらいですから、その学校自体も地域では、なかなかのレベルの学校なのです。

 保護者がそのために払っている金額も決して、安くはありません。

 彼女が担当しているのは、中学2〜3年生の生徒で、彼女は、やる気がない生徒が少なからずいることを嘆いています。

 科目は、特に決められてはいないようですが、基本的には、個々の生徒の宿題を見て、その問題の解き方や勉強の仕方を教えるのだそうです。

 中には、真剣に取り組んでいる子供もいますが、ダメな子に限って、アドバイスを聞きません。

 サボることばかり考えて、時間中もふらふら歩き回ったり、消しゴムを投げて遊んだりして、トイレは授業の前に済ませるように、そして、実際に授業を始める前にもトイレは、大丈夫ですね・・と確認しているにも関わらず、授業の途中で、トイレに行きたいというので、仕方なく許可したところ、いつまでたっても戻ってこないと思ったら、校庭で遊んでいるというのです。

 頃合いを見計らって、教室に戻ってくる、そんな生徒を、彼女は、教室には、入れず、「あなたが、何のために、ここに来ているのかわかりません。あなたは、何で、ここに来ているのですか? やる気がない人は、他の人にも迷惑になるから、教室から出て行って下さい。」と申し渡すのだそうです。

 全く、我が娘ながら、怖い先生ですが、クラス全体がその子のようなリズムや温度に飲み込まれてしまっては、クラスは収集がつかなくなってしまいます。

 その子への退室命令は、それが初めてのことではなかった様子で、その結果がどうなるのかがわかっているその男の子は、その場で泣き出してしまったそうです。

 というのも、毎回の授業が終わると、その日の授業や勉強の進捗状況を各保護者に簡単なレポートを各保護者に送ることになっているからです。

 保護者の方は、私立の学校の学費プラス、エチュードにお金を払って、子供を勉強させているわけですから、教育に対して、かなり意識が高い親なわけです。

 そのような報告を送っても、保護者からのクレームは一切、ないそうです。

 その生徒も、うちの娘のような、アカの他人の講師に怒られることなどは、その場限りのことで、さほど、気にもかけないでしょうが、家に帰って、その報告が親に行けば、家に帰って、余程、絞られるのでしょう。

 しかし、どんなに親が一生懸命でも、子供にやる気がないならば、仕方ないのです。

 子供のやる気を引き出すには、子供が勉強しないことを怒るのではなく、別のスイッチの入れ方があるように思うのです。

 以前、私の中学の先生で、非常に厳しい、しかし、とても人気のある毅然とした女性の英語の先生がいました。

 授業中に私語が聞こえたり、真剣に取り組んでいない生徒がいると、決して感情的にはならず、しかし、毅然として、「You may go home.」(どうぞ、お帰りください)と言われるのです。

 その先生の授業は、いつも緊張感があり、生徒たちは、皆、いつの間にか彼女の授業に引き込まれていたものです。

 私は、娘の話を聞いていて、その先生の話を思い出しました。

 しかし、まあ、娘がいつの間にか、こんなに強くなったのか、彼女は、教師志望の学生ではありませんが、こうして、アルバイトをして、彼女の専門の研究とは別の、色々な人との関わり方の学びを積み重ねる機会を頂いていることをとても感謝しています。




 




















 

2019年10月14日月曜日

フランス人の金銭感覚 フランス人は、何にお金を使うのか?




 フランスは、れっきとした格差社会なので、上と下の差が日本よりもかなり激しいと思うので、金銭感覚も、その上下の社会のそれぞれで違うとは、思います。

 言ってしまえば、先祖代々、お金持ちの家庭は、親が子供に対する教育の観念をしっかりと持っており、その家庭環境から、しっかりと、それなりにお金もかけて子供に教育を受けさせ、その子供もしっかりと勉強に励み、ある程度以上の地位に登っていきます。

 一方、下の層は、ハナっから、親の方も、子供への教育たるものを深く考えることもなく、逆に子供をたくさん産んで、国から支給される児童手当を子供の教育には使わずに、そのお金で生活しているような人も結構いるのです。

 フランスは、税金も高いですが、弱者に対する国の保証も大きいのです。

 ですから、高収入の人のほど、高額の税金を払い、低額所得者で子供が多かったりする場合は、税金を免除され、国の援助金を受けているのです。

 極端な言い方をすれば、税金を払う人と貰う人に分かれている感じです。

 私などは、どうしても、どちらかというと、日本の子供への教育の感覚でいるので、自分が子供にしてあげたい教育をしようと思ったら、国から児童手当をもらえるからといって、子供を育てるには、児童手当ではまかないきれないくらい、お金がかかるので、やたらと子供を産むことは、考えられませんでした。(それでも、教育費は、日本に比べると格段に安いです。)

 日本は、最近、貧乏になったという話をネット上などで、目にしますが、その下層ぶりが、やはり、日本の比ではないのがフランスの現実だと思うのです。

 しかし、敢えて、総じて、フランス人の金銭感覚を言うならば、一般的には、結構な締まり屋だと思うのです。貧富の差なく、無駄なことには、お金を使ったりはしません。

 流行り物だからといって、みんなが一斉に、それに飛びつくでもなく、ブランド物を買い漁ったりすることもなく、家の内装を整えたりするのも、日本なら、すぐに、工事の人を頼むところだと思いますが、自分でペンキを塗ったり、壁紙を貼ったり、簡単な工事は自分でやる家庭が多いのです。

 おそらく、一般的なフランス人は、日本人がイメージしているよりも、ずっと、地味な日常生活を送っています。中村江里子さんがブログで書いていらっしゃるような生活を送っている人は、本当に一握りです。

 それでも、お金持ちにも、そうでない人にも共通して言えることは、バカンスにお金を使うということです。バカンスに行けない人でも、家族やパートナーと過ごす時間のためにお金を使います。

 フランスでは、職種や契約形態によっても違いますが、正規で働いている人には、少なくとも、5週間の休みが与えられており、また、夏に一日もバカンスを取れなかった場合には、規定のバカンスに数日が追加されるというようなことも、法律で定められています。

 また、有給はあっても、会社で長いお休みは取りづらい雰囲気などというものもフランスには、全くありません。

 それくらい、フランス人は、バカンスのために働いているといっても過言ではありません。特に、夏は、約一ヶ月ほどのバカンスを取りますから、多くの人は、車で、まるで、引っ越し? と思われるほどの食料や自転車などまで車の屋根に積んで、出かけていきます。

 物質的なものではなく、家族との時間のためにお金を使うフランス人。
何かと不便なことも腹が立つことも多いフランスですが、フランスのこんなところは、私は、好きなのです。

 ちなみに、フランスには、家族サービスという言葉はありません。



 

2019年10月12日土曜日

枯れ葉舞うパリのゴミ




 今年の夏のパリは、猛暑で、最高気温が、なんと42℃という記録的な暑さでした。

 以前のパリの夏は、暑くても、湿度がないので、日陰や建物の中に入れば、スッとして、比較的、過ごしやすいものでしたが、ここ数年は、異常な暑さになることが多くて、参ります。

 それでも、ズルズルとその暑さを引きずることはなく、比較的、あっさりと涼しくなり、もう街は、肌寒い、すっかり秋の景色になっています。

 街路樹の木は、すっかり、色を変え、ちらほらと落ち葉を目にするようになってきました。もう少しすると、本格的に枯れ葉が舞う季節になります。

 ほどほどに枯れ葉が落ちているパリの景色というのも綺麗なものですが、季節になると、もうそれは、結構な量になるため、パリの街は、比較的、頻繁に枯れ葉の掃除をしているように思います。

 最初に私がパリに来て、驚いたのは、その枯れ葉の掃除の仕方です。

 それこそ、今、流行り!?の黄色いベストを着た清掃員の人が、中型の掃除機と見られる太いホースを持って、バキュームのように、枯れ葉を吸い込むと思いきや、枯れ葉を吹き飛ばして、一箇所に集めているのです。

 ホコリも立つし、一箇所に集めたものをまた、再び、まとめて捨てるという二重の作業になるので、あまり、合理的には、思えないのですが、発想の仕方が違うのだなぁ・・とつくづく思わせられます。

 発想が逆といえば、瓶のゴミ箱についても同じです。

 一般の家庭のゴミについては、また、別ですが、パリの街には、空き瓶を回収する人間の背丈よりも大きなボックスが置いてある場所がところどころにあります。

 ちょっとした、公衆トイレに近いような大きさです。
 その大きなボックスの中の瓶を回収する車が時々やってくるのですが、大きなボックスを一旦、丸々、クレーンで持ち上げてから、底をガバッと開けて、ガシャガシャガシャ〜と瓶が割れる派手な音をたてて、大きなボックスを空にするのです。

 なんとも、ダイナミックなゴミ収集ですが、重たいものをまとめて、いったん、持ち上げて、ゴミを移動して捨てるという、その発想も、おそらく日本には、ないものだろうと思います。

 また、ゴミではありませんが、パリの街中では、アパート自体の建物が旧建築が多いため、エレベーターがなかったり、あっても小さかったりで、はしご車を使っての引っ越しも時々、見かけます。

 通り沿いの窓から、荷物を運び出したり、運び入れたりするのです。

 こうした、生活の一部であるごみ収集の仕方などを見ていると、発想の仕方の違いを見せつけられている気がします。

 それは、生活のごく一部分ではありますが、きっと、違う部分で、ハッキリと目に見える形ではなくとも、フランスには、根本的な発想が違う部分があるのだろうと思わずにはいられないのです。







2019年10月11日金曜日

フランスの学校のキャンティーン・給食




 フランスの学校のランチは、キャンティーンといって、その多くが、給食のような形態を取っています。働いているお母さんがほとんどなので、子供たちは、ほぼほぼ、キャンティーンを利用しています。

 中には、幼稚園や小学校の間は、働いていないお母さんや、働いているお母さんでも、ヌーヌー(子守さん)を雇って、お昼の時間になると、子供を迎えに来て、家で食事をさせてから、また学校へ連れて行くという人もいましたが、それは、少数です。

 いくら、働いていないとしても、子供を朝、学校に送って行って、お昼に迎えに行って、ご飯を食べさせて、また、学校に送って行って、そして、また夕方、迎えに行く・・なんてやっていたら、一日がほとんど潰れてしまいます。

 最近は、宗教的な食べ物の縛りや、ベジタリアンやアレルギーに対応するメニューもあったりするので、お弁当などの持ち込みは禁止されています。

 学校側も、うちの学校のキャンティーンでは、健康にも充分、留意した食事を提供しています。フライドポテトは、出しません!というのが、ご自慢のようでした。
(それって、自慢することかい!とこっそり思っていましたが・・)

 その代わりに、グーテといって、間食のようなものは、午後4時半に学校の授業が終わった時間からエチュードといって、その後に学校の宿題等を見てくれる時間の間に食べるお菓子やちょっと甘めのパンだったりするものは、持って行くことが許されていました。

 キャンティーンのメニューは、前もって、学校から、一週間ごとに知らされるのですが、メニューだけ見ると、なかなか、しっかりしたもので、アントレ(前菜)、メイン、デザート、とチーズやヨーグルトなどの乳製品が入っており、バランスも考えられていて、一応、コース料理のようなメニューになっています。

 例えば、・前菜 パテ(テリーヌ)とピクルス
      メイン 七面鳥のロースト 人参添え
      デザート 果物(桃)
      乳製品 フロマージュブラン(ヨーグルトのようなもの)
      パン
 とか、
     ・前菜 ジャガイモのサラダミモレット
     ・メイン プアソンパネ(魚のフライ)レモン風味 グリンピース添え
     ・デザート シェーブルのチーズ(ヤギのチーズ)
     ・パン

 メニューを見る限り、まずまずというか、なかなかの食事です。
 (しかし、私自身は、一度も食べたことがないので、お味の方は、わかりません。)

 ところが、娘は、もともと、フランス料理があまり好きではなく、というのも、フランス料理のソース類(ベシャメルソースやマヨネーズ、バターソースなど)、乳製品が苦手で、フランス料理といえば、何らかのソースを使っているお料理が多く、彼女がキャンティーンを好まないだろうことは、わかっていましたが、フランスに住んでいる以上、一生避けて通れるものでもなく、普通のフランス人が食べるものと同じものを食べる機会が1日、一食分、しかも、学校のある期間ぐらいは、食べてもいいだろうと思っていました。

 学校から、帰ってきて、「今日は、キャンティーンで何を食べた?」 と聞くと、「きゅうりとご飯」とか、「トマトとブレ(小麦)」とか、答えるので、「メインは何だったの?」と問いただすと、「お肉になんか、オレンジ色っぽいソースがかかっているものだった・・」とか、「今日は、ベージュっぽいソースがかかっていた・・」とか、もはや、彼女にとっては、かかっているソースの色を説明するのみで、こちらまで、「・・で、今日は、何色のソースだったの?」と聞く始末・・・。

 たまに、プーレロティ(鶏をオーブンで焼いたもの)やステークアッシェ(ひき肉をハンバーグのような形にして焼いたもの)などのシンプルなものがある時には、食べていたようですが、まったく、無残なものでした。

 だいたいにおいて、私は、家にあるものを適当にお弁当にして、職場に持って行っていましたし、主人の職場にも、キャンティーンがありましたが、これまた、公務員価格で破格に安いお値段で、結果的に、娘のお昼ご飯が一番、高かったのです。

 しかも、ロクに食べないのですから・・。

 それにしても、彼女は、クレッシュ(保育園)から、小・中・高プラス、プレパーの2年間、そして現在のエコールを合計して20年近くもキャンティーンの昼食を食べ続けているのです。

 それでも、ずいぶん、キャンティーンの食事も食べられるようになったし、大きくなれば、ある程度、自分で選ぶことができるので、ずいぶんマシになったと思っていたのです。

 ところが、彼女は、「今年からは、キャンティーンはやめた!自分で、お弁当を持って行くことにした!」と言い始めたのです。

 今は、一人暮らしをして、自分でお料理をしている彼女ですが、ロクに食べられないものにお金を払うより、確実に食べられるものを自分で持って行くほうが経済的だし、キャンティーンで並ばなくてもいい、と言うのです。

 自分で作るのだし、まあ、それがいいのなら、そうしたら・・と言っていますが、結局、娘は、20年間のキャンティーン生活を経てもなお、キャンティーンの食事には、一向に馴染まなかったのであります。

   
 














2019年10月10日木曜日

交換留学生のドイツ人の女の子 




 娘が中学生の時だったでしょうか? 

 彼女は、第二外国語にドイツ語を選択していたため、希望者には、1週間の短期ではありましたが、学校からの交換留学の制度がありました。

 私も、これは、娘にとっても、良い経験になると思い、迷わず希望を出しました。

 期間は、ずれてはいましたが、娘も一週間、ドイツの家庭にホームステイさせていただく代わりに、ヴァネッサというドイツ人の女の子が家にやってきました。

 それぞれの子供の配置は、学校側が一応、それなりに、ドイツの提携している学校からの書類を見て、考慮してくれていたようです。
 そのドイツ人の女の子が日本のマンガやアニメ好きということで、おそらく、学校側は、彼女を我が家に送ってくれたのだと思われます。

 しかし、実のところ、うちの娘は、ほとんど、日本のマンガにもアニメにも、ほとんど興味がなく、私もほとんど知識がありません。
 うちの娘は、どちらかというと、身体を動かすことが好きで、どちらかというと、オタク気質だった彼女とは、あまり、気が合わないという悲劇が起こってしまったのです。

 最初は、初対面のために、緊張して、あまり、話さないのかと思いきや、時間が
経っても、自分からは、決して話そうとはしない、かなり、内気な女の子で、夕方、家に着いた途端に、食欲がないから、食事も食べないと言い出す始末。

 学校でフランス語を選択しているとは言え、ほとんど、フランス語も通じません。
娘のドイツ語も満足に会話できるレベルではありませんでした。だいたい、フランスにわざわざ、来ているのに、ドイツ語で話しても意味がありません。

 それでも、ゆっくりゆっくり、フランス語を話して、時には、英語を交えながら、なんとか、とりあえず、長旅の後に、何も食べずに寝るというのは、良くないから、少しでも、食べたら・・と言って、どうにか、一緒に夕食を取ることにこぎつけたのです。

 昼間の時間帯は、娘と一緒に、娘の通っている学校へ一緒に行って、学校で授業を受けていましたので、夜の時間帯と週末だけでしたが、なかなか打ち解けられずに、苦労しました。
 
 次の日の夜は、食事が終わると、あまり、大人が介入しない方が話しやすいのかも・・と思い、二人で過ごしなさいと、娘の部屋に二人で入っていったのですが、しばらくして、様子を見にいくと、二人とも、離れたところに座って、それぞれに別の本を読んで、全く、口も聞かないで、黙っているのです。

 これではいけないと、二人を部屋から連れ出して、では、みんなでゲームをしようとゲームをしたりして、なんとか、二人を交流させようと努めたのです。

 中学生くらいだと、ある程度、分別はつき始めているものの、そんなところは、まだまだ子供なのです。せっかくの機会にお互いにフランス語、ドイツ語を上達させようという気があまりないのには、全くもって、困惑してしまいました。

 週末には、どこか、パリで行きたいところがあったら、連れていってあげるから・・と言っても、以前にパリには、家族と来たことがあって、大抵のところは行ったことがあるから、強いて言えば、パリにあるマンガを売っているお店に行きたい、マンガに出てくるラーメン屋さんというものに行ってみたいと言うので、マンガを売っているお店に行き、ラーメン屋さんに連れて行き、その後に、少し、パリの街を歩きました。

 一週間という期間は、内気な彼女にとっては、打ち解けるには、あまりに短く、私が期待していたようには、うまくいきませんでした。

 それから、しばらくして、今度は、うちの娘の方がドイツの彼女の家に滞在させて頂いたのですが、出発前には、ヴァネッサのように、黙ってばかりいては、意味がないから、出来るだけ、家族の人ともニッコリお話しするようにしなさいよ!と娘には言い含めて出かけていったのですが、さて、実際には、どうだったのかは、本当のところはわかりません。

 ただ、彼女には、兄弟がいて、弟さんは、比較的、活発な子で、その子とは、仲良く遊べた、と言っていたので、少しはましだったのかもしれません。

 しかし、留学やホームステイなどというものは、親がいくらその気になっても、本人がある程度のモチベーションがないとダメなんだとつくづく実感しました。

 










2019年10月9日水曜日

パワハラか? 商談か? 退職してしまったニナリッチのおじさん




 私の勤めていたフランスの会社には、色々な業者の人が出入りしていました。

 色々なメーカーの営業の人が、新製品が出ると、その売り込みにやってきていました。

 それこそ、口八丁手八丁で、口が達者で、いかにも調子の良さそうな、それでいて、なかなか押しの強い人が多いのです。

 ただでさえ、口のへらないフランス人ですから、それは、もう、うまいものです。

 中には、ハンサムな人や、美女を営業に送り込み、斜めから切り込んでくる会社などもありました。

 営業の人は、新商品を携えて、新製品の売り込みをすると同時に、これまでに自分が売った製品の管理や、問題のあったものに関しての処理をも請け負いながら、値段の交渉をして行くので、そのあたりの駆け引きも、通常、お手のものです。

 売る方は、出来るだけ高く売りたいし、買う方は、出来るだけ安く、買いたいのは、当然のことです。製品を買う側は、基本、「何なら、買わない・・」となるので、どちらかと言えば、強い立場ではあります。

 しかし、フランスのメーカーの場合、強気で、「何なら、おたくには、売らない・・」という態度が通ってしまうメーカーもあります。
 こうなってくると、もうどちらがお客かわからない状況にまでなってしまいます。

 その中に、きっと、この人は、この仕事、あんまり向いていないかも・・と思われる、いかにも気の弱そうな、フランス人のアラフォーくらいのおじさんがいました。

 その人は、ニナリッチの製品を売りに来ていた人でした。

 ある日、そのおじさんは、うちの担当者とアポをとって、新製品を持ってきていました。

 その時、応対に当たった、うちの担当者は、なかなかのツワモノで、その女性の強烈さは、誰もが知っていましたので、営業に来る人は、誰もが、一応、身構えて、かかっていました。

 交渉が進んでいく中、だんだんと声のトーンが上がっていくのがわかりました。

 うわっ!と思いながら、段々とエキサイトしていく様子を、私は、遠くから見ていました。詳しい話の内容は、わかりませんでしたが、うちの担当者は、やたらと、カッカして、怒り始め、ニナリッチのおじさんは、みるみるうちに、顔が紅潮して、日汗をかき、手がぶるぶると震え始めたのです。

 多分、彼は、「上司と相談します。」とでも、言ったのでしょう、彼女に、この場で、しかも、彼女の目の前で電話するように詰め寄られ、自分の携帯を取り出し、上司に電話を始めました。

 それでも、電話で、自分の上司に対しても、言い淀んでいる彼の携帯を取り上げ、直接、彼の上司と話を始めたうちの担当者の彼女の強さに対して、彼の気の毒な様子は、もう見ていられない感じでした。

 今のご時勢、世間では、何かあると、すぐに、セクハラだのパワハラだのと、ネット上でも、炎上し、テレビなどでも、大きく取り上げられ、報道されます。

 しかし、報道されていることは、決して、特別な出来事ではなく、実は、結構、私たちの、ごく日常にも、あちこちで、似たようなことが起こっていることではないかと思うのです。

 このニナリッチのおじさんの場合、営業に来ていたわけですし、彼の方にも、もう少しやり方は、あったであろうとも思うので、必ずしもパワハラとは言えないかもしれません。

 けれど、私は、パワハラの報道を目にするたびに、あの、ニナリッチのおじさんのことを思い出すのです。

 あれから数ヶ月後、あの事件も忘れかけていた頃に、「そう言えば、あのニナリッチのおじさん、最近、来ないね〜。」と何気で、同僚に、呟いたら、「あの人、ニナリッチのおじさん、会社、辞めてしまったんだって・・」と一言。

 なにも、辞めなくても、担当を変えてもらえばよかったのに・・と思いつつ、余程のトラウマになってしまったのか、それとも、彼自身、この仕事が向いていないと踏ん切りがついたのかは、わかりません。

 あのおじさんは、今頃、どうしているのだろうか? と、私は、今でも、時々、思い出すのです。

 

 

 

2019年10月8日火曜日

言語は使いつけないと錆び付く フランス語と日本語を混同する現象





 海外で生活していると、日常の生活を送るためには、外国語(フランス語)で生活しているため、たとえ、日本語で考えていたとしても、無意識のうちに、頭の中は、フランス語をあたかも外来語のように使ってしまっていることがあります。

 たとえば、買い物をして、これは、リブレゾン、グラチュイだから!(配達は無料)とか、ドゥーズィエム、モアチエプリだ!(二個目は半額)とか・・。
(無料とか、半額とか、そういう例が、すぐさま思い浮かぶのは、つい、日頃の生活ぶりが表れてしまいます。(笑))

 また、例えば、フレンチのレストランに行くと、お店によっては、たまに、お店の人が日本人だと思って、気を使ってくれて、英語のメニューを出してくれたりすることがあります。

 ところが、フレンチのメニューに関しては、フランス語でお料理を覚えているため、英語に訳されていると、かえって、ピンとこなくて、よくわからないことがあります。

 これは、私自身がバイリンガルではないから、フランス語=日本語=英語と、すんなり変換できないためなのかと思っていたのです。ところが、それは、バイリンガルである娘にも起こるようなのです。

 普段は、今でも、私と娘は、フランス人が混ざることがない限り、日本語で会話をし、スムーズに話していますが、現在の娘の日常は、一人暮らしになって以来、ほぼ、100%、フランス語の生活です。

 しばらく、日本語を使わない環境になると、日本語の滑らかさが鈍ります。

 というより、娘の場合は、もっと、そのゴチャ混ざり具合が、微妙です。

 フランス語だけで話しているつもりが、急に日本語の言葉が混ざったり、また、逆に、日本語の中にフランス語が混ざったりすることがあるのです。

 例えば、「J'ai oublié mon saifu. 」(ジェ・ウーブリエ・モン・財布)
(お財布、忘れちゃった。)とか、

「下の階の人には、jamais (ジャメ) 会う」
(下の階の人には、全然、会わない。)とか・・。

 これでは、フランス語版、「ルー大柴」みたいではないですか?

 せっかく、頑張って、バイリンガルに育てた娘が、「ルー大柴」のような日本語とは・・これは、ちょっと笑えません。

 特に、日本に行った時に、これが出ないように、日頃から、日本語もフランス語も正しく使うように、親子ともども、心がけなければと、最近、とみに思います。

 やはり、言語は使っていないと、たちまち、錆びついてしまうのです。


<関連YouTube アップしました>
 よろしかったら、ご覧ください。
 https://www.youtube.com/watch?v=L2h3TIdJl9c&feature=youtu.be





2019年10月7日月曜日

個性的なおしゃれとドギツいメイクに走るパリの日本人マダム 


   


 パリの街を歩いていると、遠くからでも、バスの中からでも、” あっ!!あれは、日本人だ!!”というのがわかるようになりました。服装、歩き方、物腰、雰囲気から、たいてい、当たります。

 以前は、地図を片手に帽子をかぶって、ウェストポーチ、あるいは、ポシェットを肩からかけて・・というスタイルでしたが、最近は、そんな、一目で観光客だとわかりやすい、不用心な人もあまり見かけなくなりました。

 それでもなお、日本人独特の、やんわりとした、ものごしや、たたずまいから、日本人らしさを感じるのです。

 しかし、それは、観光客のことで、長くパリに住んでいる人からは、その日本人オーラを感じることは、あまり、ありません。

 人の第一印象というのは、あながち、おろそかにはできないもので、最初、見かけたときに、” おや? この人、なんか、変だな?・・とか、妙な感じがするな?・・” と感じたことが、少し、知り合いになると、その妙に感じた感覚は、薄れてしまって、忘れてしまったり、消え去ってしまうことも多いのですが、後々になってみて、” ああ〜、そういえば、最初に会った時に、この人は、妙な感じがしたのだったな・・・” と思うことも少なくないのです。

 以前、私の勤め先の会社に出入りしていたお金持ちの日本人のマダムがいました。

 彼女には、最初、” んっ? ” と、思ったものの、話してみると、案外気さくで、話しやすくもあり、よく、手作りのケーキを差し入れてくれたりして、いつも、きれいにメイクをして、おしゃれな服装をしていて、いつの間にか、彼女は、好感の持てる方という印象になっていました。

 しかし、何年か経ち、彼女も年齢を重ねていくうちに、最近、彼女、少しメイクが濃くなったみたい・・と、思うようになりました。服装も、明らかに、危険なパリの日常を歩くような服装ではなくなっていきました。

 気がつけば、冬には、毛皮のコートを羽織って、つばの広い帽子をかぶってみたり、メイクと言ったら、まるで、舞台用のメイクのような濃さになり、周りのフランス人の同僚たちからは、あれでは、マイケルジャクソンみたいだ・・とまで、言われるまでになっていました。

 本当のパリのマダムを勘違いしているようで、もはや、パリに染まっていくというより、かなり、浮いてしまっています。

 慣れというのは、恐ろしいもので、そんな彼女を見ても、何とも思わなくなっていた私も、ある日、その異様さに気がついた時には、自分でも、ハッとさせられたくらいです。

 そして、それは、彼女に限ったことではなく、ごく少数ではあるものの、個性的なパリの日本人マダムは、存在します。それは、ガイドさんや、駐在員の奥様の中にもお見かけすることもあります。(逆に、国際結婚をしていらっしゃる方には、なぜか、あまり、お見かけしないような気がするのも不思議なことでもあります。)

 そんな、彼女らからは、もはや、日本人らしい、たたずまいを感じることはありません。

 パリが彼女をそう駆り立てるのか? それとも、彼女自身が本来、持っていたものが、開花したものなのか? それは、わかりません。

 一般的には、パリに住んでいる日本人の女性は、おしゃれではあっても、パリの治安を鑑みてか、比較的、大人しく、品の良い出で立ちで、ナチュラルな感じのメイクの方が多いのですが・・・。

 その人となりは、その様相に現れるといいますが、私は、どんな顔をしているのかな?と時々、思います。

 品の良いおしゃれは、難しいのです。その人の内面も表れますから・・。

 

 



 

 

 










 

2019年10月6日日曜日

パピーとマミーの愛情




 フランス語では、おじいさん、おばあさんのことをパピー、マミーと呼びます。

 娘は、アフリカで生まれ、フランスで育ち、私の父と母に初めて会ったのは、彼女が2歳になったときだったので、初めから、娘は、私の父や母のことを何のためらいもなく、「パピー」「マミー」と呼んでいました。

 娘が、無邪気に、パピー!マミー!と呼ぶ、その呼び方に、最初は、多少、戸惑っていた二人も、ジージとか、バーバとか呼ばれるよりも、パピーやマミーと呼ばれるその呼ばれ方の方が年寄り扱いされている気がしないなどと言い出して、いつの間にか、すっかり、パピーとマミーという呼ばれ方にも馴染んで、結構、気に入っていました。

 私自身も祖父母、特に祖母には、ことの外、可愛がってもらって育ってきましたが、父や母にとっても、孫の存在は、格別だったらしく、私が、母の仕事や、家の事を手伝ったり、看病をしたり、病院に付きそったりと親孝行のようなことをどんなにやろうとも、孫の存在や笑顔に触れた時のような、彼らの嬉しそうな顔は、見たことがありませんでした。

 父は、私が子供の頃などは、いわゆる昭和初期の世代の男で、口数も少なく、仕事仕事で、一緒に遊んでくれるというなどということもありませんでしたが、孫とは、楽しそうに遊び、あれこれとちょっかいを出してはかまって、娘との会話を楽しんでいました。

 母に至っては、それこそ、娘のやることなすこと全てをプラスに捉え、いちいち感心しては、娘のことを褒め、自分自身までもが無邪気に、孫といると、本当に楽しいね〜と公言して憚りませんでした。

 そして、それは、それぞれの最期の瞬間まで続き、母が危篤状態で、人工呼吸器をつけられて、もう瞳孔も開いていると医者に言われていた時でさえ、孫の呼びかけには、目を覚まし、父ももう、何も食べられなくなり、衰弱しながらも、自分の感情が抑えきれずにイライラと過ごしていた状態になっても、孫からの手紙には、穏やかな笑顔を取り戻していました。

 こう考えると、私がしてあげられた一番の親孝行は、両親に孫という存在を与えられたことだったのかもしれません。

 親と子の関係と、祖父母と孫の関係というものは、全く違うのかもしれません。

 自分自身が主体となって子供を育てていく親子関係とは違って、自分が歳を重ねて、人生も終盤にさしかかっている時、消えていくであろう自分の命と、これから育っていく新しい命である孫の存在とその関係は、自分の血を引いた命がこれからも、どこか自分と繋がって続いていく希望のようなものであったのかもしれません。

 

 

 

 













2019年10月5日土曜日

入国審査 世界最強と言われる日本のパスポートでも起こる悲劇




 日本のパスポートは、世界最強のパスポートと言われています。

 2019年のグローバルランキングでも世界1位となっています。

 日本のパスポート保持者が、ビザなしで渡航できる国は、現地空港などで、アライバルビザが取得できる滞在先も含め、190ヶ国にも及びます。

 私たちは、その便利な最強のパスポートを生まれながらにして、持つことができるのですから、それは、それは、ラッキーなことだと思います。

 実際に、私もこれまで、20ヶ国近くの国を旅してきましたが、入国審査で止められたことは、一度もありません。

 私自身が、入出国が一番多い、フランスでさえ、こちらに在住しているからという理由ではなく、滞在許可証すら求められないことがあるくらいです。

 しかし、以前、私がイギリスに留学中に、悲惨なことに遭遇したことがありました。

 私のロンドンでの友人から、日本から友だちが来るので、一緒に食事をしないかと誘われて、その友人の家で、一緒にその友だちの到着を、今か今かと待っていたのです。

 ところが、待てど暮らせど、その友だちからの連絡はなく、こちらからの連絡もつかず、到着便を調べてみると、飛行機は、とっくに到着している模様。

 仕方なく、ひたすら待っていると、何やら、動揺した様子で、電話をかけてきたと思ったら、入国審査で止められ、すったもんだの挙句に、このまま、日本へ帰国することになってしまったというのです。

 その人は、英語がほとんど話せずに、相手の言っていることも、よくわからず、途中で、通訳の人が入ってくれたというものの、通訳の人が、正確に通訳をしてくれたとも考えづらい感じでした。

 考えられる理由は、いくつかあります。

 飛行機が東南アジア系の航空会社の経由便であったこと。
 チケットが帰国期日の入っていないオープンチケットであったこと。
 その人の職業が料理人であったこと。
 そのために、入国後、イギリスで労働ビザなしで働く可能性があると思われた模様。

 結局、その人は、ロンドンには、着いたものの、空港の外に出ることなく、自分の持っていたオープンチケットの帰路の分のチケットをその場で、日時を入れられ、その日の夜の便で、日本へ帰ることになってしまったのです。

 私たちも空港に電話をしてみたのですが、その担当者とは、直接、話す事は出来ずに、こちらの事情を話すと、電話の応対に出てくれた人は、とにかく、結論として、「私たちには、入国を拒否する権利がある!」と言うのみで、私たちは、何もできず、ただただ、呆然としたものでした。

 空港の税関や、入国審査の担当官などは、当たる人によって、多かれ少なかれ、対応が違うことも多く、たとえ、日本のパスポートを持ってしても、こんな悲惨なこともあったのだということを、日本のパスポート最強説を見かけるたびに思い出すのであります。


 







2019年10月4日金曜日

母がパリに来てくれた時のこと





 私が、パリに引っ越した頃には、母は、もうすでに、心臓病を発病していたので、ヨーロッパまでの長旅は、単に長距離の移動ということだけでなく、飛行機の中の気圧の変化等の問題もあり、到底、無理だろうと思っていました。

 本来の母は、社交的な性格で、英語も堪能で、時代が時代なら、もっと海外を自由に行き来していただろうと思われる人でした。ですから、娘が海外で暮らしているなどという環境にあれば、健康であったなら、毎年のように、パリにもやって来ていただろうと思います。

 それが、娘がまだ3歳くらいの頃だったでしょうか? 突然、母から、来月、パリに行くから・・と連絡をもらって、私は、嬉しい反面、本当に大丈夫なのだろうか?と、何よりも、彼女の健康が心配になりました。

 もちろん、お医者さまとも相談の上だったと思いますが、私は、無理をしないで欲しいという気持ちの方が強かったのです。

 これが、心臓の病気の厄介なところで、はた目からは、病状がわかりづらいので、ついつい無理をしてしまうのです。

 しかし、こうと決めたら、とにかく、やってしまう母ですから、自分で友人を誘い、友人とともに、パリへやってきたのです。

 とにかく、一度は、娘や孫の住んでいるところを自分の目で見ておきたいという気持ちが強かったのだろうと思います。

 そういえば、ロンドンに留学していた時も、母は、(あの頃は、全然、ピンピンしていましたが・・)ここぞとばかりに、突然、ロンドンに来てくれたこともありました。

 あの時も本当に突然で、クリスマス時期で身動きが取れなくなるロンドンから抜け出そうと、私は、友人とカナリー諸島への旅行の計画をしていて、母が日本へ帰る前に出かけてしまうという事態になっても、母は、お構いなしにロンドンを楽しんでいました。

 パリにやってきたのは、孫とのフランスでの時間を持ちたかったということもあったのでしょう。主人もお休みの日には、彼女が行きたいというジヴェルニー(モネの家がある場所)や、ベルサイユ、パリの街中を細かい路地を通って、車で案内してくれて、バトームーシュに一緒に乗ったりして、母も主人も娘も、明らかに興奮状態で、母の健康状態を心配する私が、興奮する周りを抑えるのに必死だった気がします。

 パリ市内は、メトロを使って、観光やショッピングを楽しんだ母は、フルコースでしっかりとメトロでスリにまで遭い、私が帰宅したと同時にホテルにいる母から電話があり、私も、再び、ホテルに戻って、その後、警察に被害届をもらいに行ったり、カードを止めたりなど、ひと騒動でした。

 母が来てくれたのは、初夏のことで、夏には、私たちもバカンスで日本に行くことになっていましたから、孫とも、しばしのお別れと言って、母は、元気に日本へ帰って行きました。

 私も、なんとか、母が無事に日本に帰って、ヤレヤレといった気持ちでした。

 あの旅行自体が母の病状にどれだけの負担となったのかは、わかりませんが、あの時の楽しそうな母の様子を考えると、やれることをやりたいうちにやれて、本当に良かったと思います。

 結局、それから5年後に、母は、亡くなりましたが、それでも、パリに来てくれた後の5年間の母の病状の変化を考えると、あの頃が、母がパリへ来る最後のチャンスだったのだろうと思うのです。

 母がどのくらい、自分の病気の進行を予測していたのかは、わかりませんが、自分が動けるうちに、どうしてもやりたいことを命がけででもやるという彼女の選択は、きっと、彼女にとっても、私たちにとっても悪くない選択だったのではないかと、最近になって思うのです。

 寝たきりで、安静にしていれば、もしかしたら、彼女の寿命は、もう少し長くなったかもしれません。もちろん、どんな状態でも、生きていてくれれば・・と思うこともあります。
 しかし、少し長くなった寿命をベッドの上で過ごすより、やりたいことをやって生きた彼女の人生の方が幸せだったのではないかと、今は、思うのです。

 今日、その時に、母と一緒に見た、モネの睡蓮の池を、その頃の娘が描いた可愛らしい絵を見て、母がパリに来てくれた時のことを思い出したのでした。

 

 

 

 

















 

2019年10月3日木曜日

フランスの異母兄弟


私には、子供は娘一人だけなのですが、娘には、お兄さんが三人います。

 お兄さんといっても、異母兄弟で、お兄さんたちは、主人の前の奥さんとの間の子供なので、年齢もかなり離れています。

 一緒に暮らしたこともないので、ガッチリと、兄弟というわけでもないのですが、もう成人している今でも、彼らは、時々、家を訪ねてくれたり、メッセージを送ってくれたりしています。

 異母兄弟といえば、私は、日本では、もう少し、暗いイメージを持っていたのですが、彼らは、実にさっぱりとフランクに付き合ってくれています。

 離婚・再婚の多いフランスでは、こういうケースも少なくないからなのかなぁ・・と、私は、勝手に思っています。

 相手がさっぱりとしていてくれれば、こちらも、意外と気楽なもので、彼らがいなければ、娘は、一人っ子のような状態でもあるので、先々、私に何かあっても、何かと頼りになるかもしれないと思うと、彼らの存在は、今となっては、少し、心強くもあります。

 ところが、一番上のお兄さんは、パリの経済系の大学を卒業後、フランスの大手の銀行に一旦は、就職したのですが、せっかく務めた銀行も数年で辞めてしまいました。主人は激怒していましたが、私が口を挟むことでもありません。

 というのも、彼は、母親の影響で、かなりの熱心なクリスチャンで、彼の生活は、宗教が中心になっていってしまったからなのです。今では、教会の関係の子供たちに勉強を教えたり、その他の教会関係の活動で、収入も少ないようなのに、本人は、とても使命感と強い信仰からか、充実している様子で、何やら、いつも忙しそうにしています。

 真ん中のお兄さんは、それこそ、高校卒業後は、何かの学校に行っては、やめてしまい、結局は、何か建築関係の仕事をしていると聞いていますが、何やら、会うたびに、いつも、違うシチュエーションです。
 彼のすごいところは、そんな今ひとつの状況にも関わらず、いつも自信満々で、妹である娘に対しても、堂々としているところです。

 一番下のお兄さんが、一番、娘とも年が近く、(と言っても、結構、離れていますが)彼が小学生の頃などは、週末には、家に泊まりに来ていたりしたので、一番、身近な感じがするのです。

 しかし、彼は、グランドエコールを卒業後、スイスでエンジニアとして働いているため、今となっては、一番、会う機会は少なくなってしまいました。

 それでも、それぞれのお兄さんたちは、今でも、ノエルや娘の誕生日などには、家に来てくれたり、時々、娘をどこかに連れて行ってくれたりと、付かず離れずといった感じの付き合いが続いています。

 異母兄弟という、一見、難しそうな関係ではありますが、意外とさらっとした感じで、でも、どこか、繋がっているという不思議な関係なのであります。

 











 

2019年10月2日水曜日

下町のお節介おじさんのようなフランス人の夫





 同じアパートの5階の住人の家族には、二人の男の子がいました。

 私が見かけるのは、朝の出勤時と、夕方の帰宅時でしたが、その家のお母さんは、一体、いつ家にいるのかと思うほど、四六時中、アパートの外で、誰かをつかまえては、延々と立ち話をしていて、なんとなく、落ち着かない人だなぁという印象を持っていました。

 私は、仕事が終われば、バタバタと娘を迎えに行って、帰ってきて、娘の公文の宿題を見ながら食事の支度・・と、家に帰ってからの時間は、特に、忙しく、いつもそんな時間帯に外で誰かとおしゃべりをしている彼女を、この人は、自分でお料理をしないのだろうなぁ・・くらいにしか思っていませんでした。

 そんな彼女とは、顔を合わせれば、挨拶する程度でしたが、アパートを出入りする彼女の子供たちの成長も、それとなく、見ていました。

 最初に会った頃は、小学生くらいで、娘より少し年上だったでしょうか? 近所の公立の小学校に通う、ふつうの少年でした。

 それが、中学生になった頃からでしょうか? みるみる生活の様子が崩れ始め、見るからにヤバい感じの友人がアパートに出入りするようになり、アパートの前には、ヤバい少年たちがたむろするようになっていったのです。

 そのヤバそうな少年たちも、何をするわけでもないのですが、あまり、感じのいいものではありませんし、娘も怖がり始めました。当然、他のアパートの住人も同じことを思っていたようで、他の住人からの話も耳に挟んだ主人が5階の住人に話をしに行きました。

 そして、彼女と彼女のご主人と話をするうちに、これは、タチの悪い友人関係を早い段階で、断ち切る必要があるということになり、主人も手伝って、その少年のための全寮制の学校探しを始めたのです。

 まるで、近所の悪ガキにも容赦無く、口を出す、下町のお節介おじさんのようです。

 それでも、彼らも、彼らなりに、自分たちの息子の様子に危機感を抱いていたようで、息子の転校話はどんどんと進み、少年は、全寮制の学校へと転校して行きました。

 近所の少年の不良化のおかげで、むかしは、日本にも、こんな風に、人さまの子供のことも放っておけない、お節介なおじさんやおばさんがいたんだろうなぁ〜〜と思いつつ、主人の意外な一面を見た気がしたのです。

 

 

 

 

 





2019年10月1日火曜日

未だに霜取りが必要なフランスの冷蔵庫

                                       



 電化製品には、なぜか、当たりハズレがあるようで、もうそろそろ、新しいのに変えたいと思うのに、なかなか壊れないくらい長持ちするものと、定期的にちゃんと壊れてしまうものとがあります。

 我が家の場合は、例えば、炊飯器、これは、まだ、パリに引っ越して来たばかりの頃に夫が、” 日本人なら、これは、絶対にいるでしょ!" と、どこかから、買ってきてくれたもので、まるで、昭和初期に存在していたような、いでたちの炊飯器なのです。

 とてもシンプルな作りで、炊き上がるとカチッと音がして、スイッチが上がり、炊き上がります。保温もできなければ、もちろん、予約タイマーなんていうものもついていません。

 これが、もうかれこれ20年以上、壊れずにいるので、なんとも買い替えるのも忍びなくて、こうなったら、骨董品になるまで使い倒そうと思っている次第です。
 他に、壊れないのは、掃除機、電子レンジ です。これは、当たりだったというべきなのか、ずーっと壊れません。

 それに比べて、洗濯機、冷蔵庫は、定期的に壊れてしまうので、これらは、いつもハズレです。もう、それぞれ、パリに来てから3台目になります。

 しかも、冷蔵庫は、色々といわく付きです。

 電気屋さんに行って、新しい冷蔵庫を選び、配達と壊れた冷蔵庫の引き取りを頼みました。配達の日時を指定しましたが、これがなかなか時間通りには来ないのは、まあ、フランスなら、よくあることです。                             

 さんざん待たされた挙句にやっと、あと10分くらいで着きますと電話があり、やれやれと、古い冷蔵庫の電源を切り、冷蔵庫の中のものを出して待っていました。

 ところが、10分待っても来ません。30分ほどして、ようやく再び電話がかかってきたと思ったら、ちょっと問題があるので、アパートの下まで降りてきてくださいと言われました。

 降りていくと、運ぶ途中で、冷蔵庫に穴が開いてしまったので、値引きしますから、これで、良いですかというのです。あまりのことに、呆れて、内心、” 良いわけねーだろ!”と思いながらも、お断りし、また後日に配送ということになったのです。

 フランスの冷蔵庫には、もう一つ問題があり、それは、未だに定期的に霜取りが必要なことです。日本に住んでいらっしゃる方なら、冷蔵庫の霜取りなど、それこそ、昭和の初期ならまだしも、現代の冷蔵庫で霜取りなど、ありえないことでしょう。
 きっと、今の日本の子供は、霜取りという言葉の意味すらわからないのではないかと思います。

 最初は、冷蔵庫の霜取りなんて、うちの冷蔵庫だけがポンコツなのかと思っていましたが、どうやら、会社の同僚に聞くと、かなり良い冷蔵庫を買っても、みんな冷蔵庫の霜取りをしているらしいことが判明しました。

 一番、最近、冷蔵庫を買った際には、これが、もしかしたら、私が買う最後の冷蔵庫になるかもしれないなどと、理由をつけて、かなり奮発して良いものを買いました。内心、日々、技術は進んでいるし、今度こそ、霜取りが必要なくなるかもしれない・・と期待していました。

 ところが、冷蔵庫が配達されてきて、使い始める前から、その期待は、見事に裏切られたのです。なんと、新品の冷蔵庫には、” どうだ!” と言わんばかりに、霜取り用のプラスチックのヘラが付いてきたのです。


霜取り用に冷蔵庫についてきたヘラ
         


 冷蔵庫を運んできたおじさんが、得意そうに冷蔵庫の使い方と合わせて、得意げにそのヘラまで説明する様子を、ニッコリしながらも、内心、” そこじゃねーだろ!” と突っ込んでいました。

 冷蔵庫の霜取りの解決策を霜ができなくなるような冷蔵庫を作ることは考えずに、霜を取るためのものをつけることで解決しようとするフランス人の考え方が、どうにも理解できません。