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2024年10月27日日曜日

パリで美味しいクスクスが食べられるお店 Le 404 と La mosquée

  


 日本でどの程度、「クスクス」というものが食べられているのかわかりませんが、私が初めて、クスクスを食べたのは、考えてみたら日本で、しかもフランス人の家庭に招かれたときのことで、「クスクスパーティーするからおいでよ!」と・・。当時は、「クスクスってなに?アフリカの食べ物だよね・・珍しいものが好きなフランス人なんだな・・」などと思ったような記憶があります。

 クスクスは、小さな粒状のパスタみたいなもので、これを蒸してバターやオイルでパラパラにしっとりさせて、これにシチューのようなものをかけたり、サラダのように野菜と混ぜたりして(フランスではタブレと呼んでいますが・・)食べます。

 フランスに来る前に私たちは、2年間西アフリカのコートジボアールに住んでいた時期があったので、それこそ、クスクスの本場、マルシェでもテイクアウトで食べられるクスクスが売っていたし、クスクスだけではなく、似たような形状のアチェケ(原料はキャッサバ)というものもあったりして、こちらはクスクスよりも若干モッチリしていますが、似ていて、主食というか、肉・野菜などのシチューのようなものや魚料理などと一緒に食べたりします。

 形状的には、お米よりも細かくて食べやすいために、アフリカの人は、赤ちゃんにもこれを食べさせたりして、離乳食のようにもしていたので、アフリカで生まれた娘には、赤ちゃんの頃からこれを食べさせたりもしました。

 アフリカにいた頃は、家にお料理をしてくれるボーイさんがいたので、クスクスを作ってもらうだけでなく、作り方を教わったりもしました。

 それこそ、地方や家庭によって、材料も様々なのですが、多くはトマトベースでお肉、様々な野菜やひよこ豆などを入れる、栄養的にもとてもバランスの良い食事だと思います。

 そして、フランスに来て、ビックリしたのは、フランス人にとって、このクスクスはかなりポピュラーで一般的なお料理で、これってフランス料理だった?と思うほど、よく食べられている食品で、もしかしたら、日本で言うカレーのような位置づけのお料理かもしれません。

 以前は、もっとたくさんクスクスがファストフードのような感じで安価に食べられるお店が多かったような気がしますが、気が付いてみれば、時代の変化かこのお手軽な感じのクスクス屋さんはずいぶん減ったような気がします。

 以前は、お金のない学生などは、今日もクスクスでいいね・・なんて言っていたと思うのですが、このクスクスの位置は、ケバブやハンバーガーに置き換わったような気がします。

 私自身、自分でも作れるので、何も外でクスクス食べなくてもいいかな?とあまり、外でクスクスを食べようとも思わなかったのですが、ここ最近、クスクスの美味しいお店・・というのを見つけて、立て続けに行ってみたら、けっこうボリュームもあって、スパイスなども自分で作るのとは一味違ったり、またお店の内装がちょっとオリエンタルな感じで素敵だったりしたので、ちょっとご紹介したいと思います。

 ひとつは、Le 404 というお店で、入口はけっこう地味だけど、中に入ると素敵な空間が広がっているお店。クスクスだけでなく、ケフタやタジンなど、モロッコ料理?全般、けっこう有名なお店らしいです。気候の良い時期ならテラス席のある中庭も気持ちよいです。




 もうひとつは、 La mosquée モスケというだけあって、もっと大規模な空間で、もっと異国情緒溢れる空間でハマムなども併設しています。ただ、場所的に、ちょっと行きづらいかもしれませんが、なかなかゆっくり、ゆったりできます。猫ちゃんがウロウロしていたりして、となりの席にやってきたりするのもご愛敬です。






 どちらもボリュームたっぷりで、お店の人も至極感じよく、デザートなどもアラブならではのお菓子が山盛りになっているので、(ただデザートまで食べるお腹の余裕がなくなる可能性大ですが・・)そんなところも楽しいです。

 どちらもお値段は、比較的、良心的な価格。パリでのランチとしたら、ごくごくふつうのお値段ですが、かなりボリューミーですので満足できると思います。

 なにも、パリでクスクス食べなくても・・と思うかもしれませんが、クスクスはほとんどフランス人の国民食といってもいいくらいポピュラーな食事・・フレンチに飽きたら、ちょっとトライしてみるのも、楽しいかもしれません。


🌟  Le 404            69 Rue des Gravilliers 75003 Paris 

🌟  La mosquée     39 Rue Geoffroy -Saint-Hiliare 75005 Paris


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2023年8月18日金曜日

好奇心旺盛のフランス人の夫がアフリカで食べた動物がパリの動物園にいた!

  



 以前に、とっても懐かしい思い出があったパリの動物園のオランウータンに会いに行って、オランウータンのスペースを探しながら(動物園の地図には、なぜか載っていない動物がたくさんある)、水牛とか、獏とか、なんだかオレンジ色っぽい子ザルとか、一目見ただけでは、この動物はなんという動物だかわからないような動物がけっこういて、なんだか、感動ポイントがフランス人とはずれているのかなぁ?と思いつつ、なんだか、今一つ盛り上がりに欠けるかも・・などと思いながら、歩いていました。

 それでも、せっかく来たのだから、一応、ここにいる動物はひととおり見て行こうと思って、「これ、何?」と思う動物は、一応、看板を見て、何の動物なのかを確認しながら歩いていると、なにやら、熱帯動物を集めた、歴史を感じさせる、やけにガッチリ作られた石の門構えの建物があり、入ってみると、熱帯動物を集めているだけあって、中の空気は生ぬるく、蒸しっとしていて、ひとつひとつの動物?ごとに、ガラス窓でしきられていて、覗いてみると、なんとヘビやオオトカゲなどの爬虫類・・。

 あまり趣味ではないので、早々に退散、しばらくして、鳥類が集まっている場所の一部には、鮮やかなフラミンゴがいたりして、ちょっと救われた気がしたものの、なんだか、「もう!一体、オランウータンはどこだったんだっけ?」と思いつつ、もう少し、動物園らしい?喜びを感じさせてくれる動物はいないものだろうか?と思って歩いていると、その中のひとつに、看板を見て、「ん??これは何と読むのだ?」という動物がいました。

 もちろん、全部、フランス語(英語でも書いてあったと思う)で書いてあるので、ましてや、あんまり見覚えがない動物の名前など、フランス語はもちろんのこと、日本語だって、わかりません。


 しかし、「AGOUTI」(アグーチ)とたどたどしく読みながら、「アグーチ、えっ?アグーチ??」「アグーチって、もしかして、あのアグーチだ!」と、私は、一人でちょっと興奮していました。

 それこそ、感動ポイントがずれていると思いますが、アグーチという名前には聞き覚えがあり、なんとそれは、好奇心旺盛なフランス人の夫とコートジボアール(西アフリカ)にいた時に、その土地の名物料理のようなものが食べたいと、レストランで食べたことがあった動物だったのです。

 それは、テーブルに出てきた時には、シチューのような煮込み料理になっていたので、原形をとどめておらず、どんな動物なのか?とレストランの人に聞くと、なにやら、モグラとネズミの混ざったような動物だということで、どちらにしても、食用としたら、あまり気持ちのよいものではないだけに、あらためて、わざわざ調べてみることも、具体的に想像してみることもしてきませんでしたが、この名前だけは、なぜか鮮明に記憶していたのでした。

 まさかのパリの動物園で、このアグーチを見ることになるとは、思ってもみないことで、まじまじと見つめてしまいました。

 夫は好奇心旺盛で、フランス人はあまり行かない現地の小さい村のお祭りに大使館の現地採用のスタッフに頼んで参加させてもらったり、なんだか、野原のようなところの、「これ、ほんとに石鹸?」と思うような石鹸工場を見に行ったり、タバスキと呼ばれる、イスラム教のラマダンの終わりに行う羊をいけにえに捧げる行事に参加したり、物珍しいものごとには、果敢に参加して挑戦する夫は、現地の人が食べるとい珍しいお料理もぜひにと食べたがって、実現させたのでした。

 なんだか、得体のしれないものを食べたがるわりには、胃腸はあまり丈夫ではなく、必ずあとには、必ずお腹を壊すのですが、それでも、夫は大変、満足そうでした。

 実際に、現地の人々は、やはり、貧しくて、うちに来ていたボーイさんなどに聞く話では、動物は、ほとんど、どんな動物でも食べるそうで、そういわれてみれば、猫や犬でさえも、あまり外をウロウロしていることはありません。

 動物園といえば、アビジャン(コートジボアール)でも、一度、動物園に行きましたが、英語では、アイボリーコースト(日本語で象牙海岸共和国)と言われるくらい、大昔には、象牙の売買で有名だった場所。さぞかし立派な象がいるだろうと思いきや、あんなに痩せた象を見たのは初めてで、なんだか、悲しくなりました。

 話は逸れてしまいましたが、四半世紀を過ぎて、あの時、夫が食べたアグーチに会うとは・・、なんだか、私には、「へえ~~?これがあのアグーチ!」「まさに、モグラとネズミの混ざった感じ・・」と、ちょっと感動?しましたが、果たして、ふつうに動物園を訪れた人が何を思うか?不思議な気もしました。


アグーチ パリ動物園 コートジボアール


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2022年7月18日月曜日

統一教会はこんなところにもあった・・

  


 安倍元総理を襲撃した犯人が母親が統一教会にハマり、家庭が破綻し、悲惨な状況で暮らしてきたことの恨みを殺害の動機としていることから統一教会が注目されていますが、正直、しばらく耳にしていなかった統一教会というなまえに昔のことを思い出しました。

 私がまだ日本で生活していた頃には、けっこう、統一教会やオウム真理教などの問題が大々的に報道されていて、当時、そのような新興宗教に傾倒して行ってしまった人には、私の世代の人は多かったのではないかと思います。

 現在は日本で生活していないので、どのような感じなのかはわかりませんが、よく渋谷の駅などで、「あなたの健康と幸福のために祈らせてください」などと言われて、頭に手をかざして祈られて、じっとしている人を見かけることがよくありました。(これが何の宗教なのかは知りませんが客観的に見て、おかしな光景でした)

 一時、私の友人で、熱心に「自己啓発セミナー」なるものを薦める子がいて、私は実際に大学での勉強に忙しくしていたので、「忙しくて時間がないから・・」と断っていましたが、結構、必死に薦めるので、彼女、大丈夫だろうか?と心配に思ったこともありました。それは純粋に自己啓発セミナーだったのかもしれませんが、新興宗教の入り口には、正体を隠して自己啓発セミナーなどと語っている場合も少なくないのです。

 もともと、私がケチだということが幸いしているのかもしれませんが、異様にお金を要求されるということは、どうにも不可解で、お金を払えば幸せになれるなど、あり得ないこと、ましてや宗教ならば、なおさらのことです。お金で解決できるなら、宗教などいらないのです。

 私は無宗教ですが、宗教があったら、楽だろうな・・と感じることはありました。大学の恩師がカトリックの神父さまでもあり、カトリックの勉強をしたこともありました。しかし、結果的に私は、彼(恩師)のことは信じることはできても、カトリックを信仰するには至りませんでした。そのことを恩師に直接、相談したこともあります。

「私は、カトリックについて、勉強しても、やっぱり信じることができないのです」と話すと、彼は、「大丈夫、信仰は無理するものではないから、必要になれば、その時がいつか来るから・・」と優しく仰ってくださいました。

 宗教、信仰というものは、彼の言うように、無理強いしたりするものではないはずなのです。そんなわけで、私は宗教とはあまり拘らずに生きてきました。

 統一教会といって、思い出したのは、私が初めてアフリカで生活することになった時、日本からパリ経由の飛行機の中でのことでした。パリからアビジャン(コートジボワール)に行く飛行機の隣に座ったコートジボアール人の女性が「あなたは日本人ですか?」と話しかけてきたのです。

 彼女が「私の弟は日本に住んでいたことがあるのよ」というので、「え?なんで?」と言うと、「弟は統一教会のために働いているの・・」と言われてびっくり!コートジボワールの人が統一教会に入っていて、日本で布教の仕事! あらためて、統一教会のネットワークの凄さにびっくりしたのです。

 そして、アフリカでの生活を初めて、しばらくは私は日本人とは全く接点のない生活をしていました。夫はフランス人で、フランス大使館勤務、住まいもフランス人ばかりが住んでいるレジデンスだったし、当時、私はフランス語がほとんどできなくて、大学に通ってフランス語の勉強に必死だったのです。

 しばらくして、夫がJETROの所長さんと知り合いになり、そのご家族と付き合うようになり、一瞬だけアビジャンの日本人社会に足を突っ込んだことがありましたが、当時、コートジボワールに住む日本人は200人程度ということで、大使館などの職員や日本企業からの転勤族、JETRO、JICAなどの国際機関の職員や海外青年協力隊の人、あとは統一教会の人・・というのを聞いて、また仰天しました。

 海外生活で新興宗教の勧誘というのは、結構、ある話ではありますが、しかし、それが西アフリカというあまり日本人のいない場所にまで・・ということにびっくりしたのです。

 私がアフリカで生活していたのは、もう20年以上前のことですが、あれから私はパリに引っ越して、パリでも時々、新興宗教に入っている日本人の話は聞くことがありましたが、統一教会と言うなまえは久しく聞いていませんでした。

 フランスにもフランスの新興宗教がありますが、日本でなぜ、そんなに統一教会がはびこり続け、ターゲットになり続けるのか?は、日本の文化や生活が背景にあるのかもしれないとも感じます。

 もともとヨーロッパはキリスト教の文化で、キリスト教以外にも独自の宗教を既に持っている人も多く、多くの人が無宗教である日本では、それこそ新興宗教が介入しやすいのかもしれません。

 いずれにしても、安倍元総理の事件で、再び注目されている統一教会問題。うやむやにせず、とことん追求を続けてほしいと思っています。


統一教会


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2019年12月4日水曜日

アフリカのアパートにいたケチケチな外交官




 私たちがアフリカに住んでいた頃に、わりと、家族ぐるみで、行き来をしているフランス人の外交官がいました。

 私たちが住んでいたのは、フランス人の公務員専用のレジデンスで、高い塀に囲まれ、レジデンスの入り口には、常に警備員が数名おり、気軽に外の人が出入りできるような所ではありませんでした。

 しかし、庭やプールなどを含めると、相当、大きな敷地でしたので、多分、かなりたくさんの人が住んでいたと思うのですが、正直、ほとんど、他の住民には、会ったこともない、今から考えると、不思議な空間でした。

 アパート自体も、ワンフロアに一家庭、しかも、それぞれがメゾネットになっているので、建物の大きさの割合にしては、住民は少なく、出かけるときは、誰もが大抵、車なので、顔を合わせるということもあまりありませんでした。

 そんな中で、同じ、アパートの中に住む、主人が唯一、付き合いのある、主人よりも少し年上のフランス人の外交官がいました。

 彼は、主人の同僚の外交官で、奥さんは、ラオスの人でした。

 アフリカも初めてだった私に、彼ら、特に、奥さんは、色々とアフリカでの生活について、親切に教えてくれました。

 しかし、少しずつ、慣れていくに従って、彼らが異常にケチであることに気づき始めました。フランス人というのは、概してケチで、締まり屋の人が多いのですが、今から考えると、彼らは、異常にケチでした。

 反対に、うちの主人は、フランス人なのに、もう少し、気をつけてよ!というくらい、大盤振る舞いをする人で、うがった見方をすれば、主人は、カモられていたのかもしれません。

 彼らは、主人より年上でもあり、海外生活も格段に長く、色々な国を転々としている人たちだったので、それなりの収入は、あったと思うので、なぜ、彼らがあれほどまでにケチケチな生活をしていたのか? 今から考えれば、とても妙な人たちでした。

 今なら、ネットもスマホも誰でも持っているので、そんな問題も起こらないと思うのですが、当時は、まだスマホもなく、携帯はありましたが、通信手段の大部分を家の電話やファックスに頼っていた時代です。

 彼らは、自分の家に電話もファックスも置かず、電話が必要な場合は、必ず、我が家に電話を借りに来ていました。しかも、その多くが国際電話です。

 また、夜に一緒に、カクテルパーティーをしたりすることがあっても、必ず、場所は、我が家で、彼らの家は、絶対に提供しないのです。

 外で、主人と二人で飲んでいたりして、彼らと偶然出くわしたりしても、支払いは、必ず主人です。

 また、アフリカでは、外国人に対して、現地人の使用人を置くことが義務付けられていますが、彼らは、週3日だけ、しかも半日の最小限に留めていました。

 うちにいたボーイさんは、ほぼ毎日、来てくれていましたが、それでも彼らの月給は、月2万円程度でした。それを半分以下に抑えるのですから、なかなかです。

 現地のボーイさんは、大体が、前任者から、そのまま引き継がれて、雇用されることが多いので、彼らの家に来ていたボーイさんは、雇い主が彼らに変わって以来、収入が半分以下になってしまったわけですから、大変な痛手であったとボーイさん連中の間でも彼らのケチぶりは、有名であったようです。

 ところが、そんなケチな二人は、自慢話が大好きで、特に、パリの16区にアパートを持っているというのが、たいそうご自慢なようで、これまで、転々としてきた任地で買い集めたお宝を16区のアパートに飾っているのだそうで、どれだけ、パリのアパートの話を聞かせられたかわかりません。

 考えてみれば、ケチな人ほど自慢話が多いような気がします。

 当時は、主人との生活自体も、アフリカでの外交官の生活にも不慣れだった私は、自分自身が生活に慣れることに必死で、彼らの振る舞いにも、あまり、疑問を感じませんでしたが、今、思い返してみれば、ツッコミどころが満載です。

 定年を迎えたら、パリの16区で暮らすのだと言っていましたので、彼らの人生設計どおりに行っていれば、彼らは、今、パリに住んでいると思うのですが、私たちがアフリカを離れた時に、彼らは、また、アフリカの別の国に転勤になったので、それ以来、会ったことはありません。

 彼らが今、パリの16区で相変わらずケチケチな暮らしをしているのか? ちょっと覗いてみたい気もします。


 














2019年10月24日木曜日

アフリカでの出産で・・・陣痛促進剤2日間の産みの苦しみ




 私は、初めてのお産を、言葉も満足に伝わらないアフリカでという、かなり冒険的な体験をしました。言葉が満足に伝わらないと言っても、フランス語は、通じるので、単に、当時の私のフランス語力が足りなかっただけの話です。

 初めての出産、しかも、海外、そして、よりによってアフリカ・・・。
なのに、私は、出産に関して、あまり不安を感じていませんでした。

 病院も一応、フランス人や現地の政府高官が使うという、総合病院で、先生もフランスとアフリカのハーフのとても聡明な感じのベテランのど〜んと構えている、頼もしい感じの女医さんでした。

 とはいえ、日本でのお産のように、母親学級のようなものがあるわけでもなく(日本でお産をしたことがないので、詳しくは、わかりませんが・・)、月一回の定期検診と、出産前に2回くらい、出産の時の呼吸法の練習に行ったくらいでしょうか??

 出産間近の検診の際に、「じゃあ、この日は、祝日だから、その翌日の○日、出産にしましょう!朝、8時までに病院に来て下さい!」「はっ・・ハイ・・。」

 こんな感じに誕生日が決まるものなのか?とも思いましたが逆らえず、そのままになりました。

 それでも、私には、一人だけ、強い味方の日本人の助産婦さんだった方が付いていてくれたのです。彼女は、ちょうど、現地に赴任している日本人の男性と結婚したばかりで、まるで、私の出産に合わせるがごとくのタイミングでアフリカにやってきてくれたのです。

 約束の出産の日に、私は、主人に付き添ってもらって、病院へ行きました。

 当時は、10キロ以上体重が増えるとお産がキツくなるというので、私は、何としても、10キロ以上は増やすまい!と心に決めて、体重の増加を10キロ以内に留めてきました。

 苦しい思いをするのは、嫌だったので・・。

 そのせいか、出産前のエコーの検査では、「少し小さめの赤ちゃんかもしれませんね。」などと、言われて、内心、「よしよし・・」と思っていたのです。

 当日、陣痛促進剤を打たれて、お腹が痛くて痛くて、ずっと、のたうちまわりました。しかし、よほど、私のお腹の居心地が良かったのか、赤ちゃんは、1日経っても、産まれてきませんでした。

 夕方になって、女医さんもあきらめて、「じゃあ、また、明日の朝から、頑張りましょう!」などと言われて、彼女は、さっさと帰って行きました。陣痛促進剤がおさまると、痛みはスーッとひきましたが、一日、のたうちまわった疲れから、その晩は、疲れ切って、グッスリ眠りました。

 翌朝、叩き起こされるようにして(アフリカの看護婦さんは、日本の看護婦さんのようにソフトに起こしてはくれない)目覚めて、また、陣痛促進剤。

 正直、昨日の苦しみを、またかと思うともう、本当に気が進まなかったのですが、このまま病院にいる訳にもいかなので、仕方ない・・という、感じでした。

 それから、また二日目の陣痛促進剤を打つと、再び、痛みが始まりました。ようやく赤ちゃんの頭が出かかって、それからがまた、長くかかり、本当に途中でやめられるものなら、やめたいと思いましたが、そうはいきません。

 しまいには、吸引機のようなものを赤ちゃんの頭に当てて出てきたので、しばらく、娘の頭はちょっと、とんがっていました。

 それでも、午後、2時過ぎにやっと、娘は、産まれてきました。

 産まれてきた赤ちゃんは、ちっとも小さめではなく、3400グラムもありました。
私の体重も10キロ以上は、増えていなかったし、お腹だって、そんなにすごく大きくなっていたわけでもなかったのに、一体、どうやって入っていたの? という感じでした。

 とにかく、小さく楽にお産をしようと思っていたのに、それどころか、二日間も苦しむ羽目になって、一緒に付いていてくれた日本人の助産婦さんに、「これ、難産って言うよね!」と聞いたら、「これは、難産ってほどでは、ないと思うよ。」とあっさり。

 一緒に立ち会ってくれると言っていた主人は、身体に合うサイズの手術着のようなものがなく、結局、入れず仕舞いで、待ちぼうけでした。

 それでも、結果的には、主人よりも、助産婦さんだった彼女が付いていてくれたことの方がどれだけありがたかったことか・・。

 赤ちゃんが出てきて、女医さんが、「おめでとう。女の子ですよ。」と私のお腹の上に赤ちゃんを乗せて見せてくれて、何だか、まだ、ベチョベチョに濡れていて、「えっ??なんだか、赤いサルみたい・・赤ちゃんて、ホントに赤いんだなぁ・・」などと思いながらも、なぜか、手と足の指がちゃんと5本ずつあるかを数えたことを覚えています。

 そして、その翌日、私は、早々に退院しました。

 2週間後の病院の赤ちゃん検診で、新生児黄疸の症状が出ていると、言われて、あわや、入院かという大騒ぎになりました。新生児黄疸は、日本人に特有のもので、ほとんど、黒人、たまに白人の赤ちゃんしか、扱ったことのない病院は、そのことを知らなかったのです。(私も知らなかったけど・・)

 そこは、頼りになる助産婦さんの彼女が、お医者様に、これは、日本人特有のものだと説明してくれて、事なきを得たのです。

 出産は、日本の方が・・などと言われたりもしたのですが、私は、最初から、主人と二人で子育てをしたかったので、頑として、アフリカでお産をすることにこだわったのです。

 結局は、私にとって、女神のような、日本人の助産婦さんの存在もあり、無事に娘は、産まれてきたのです。

 お産が終わってすぐに、女医さんに、どうだった?と言われて、私は、うんざりした顔をして、「もう、懲り懲りです。」と言いましたが、彼女は、笑って、「みんな、そう言いながら、また、戻ってくるわよ!」と余裕の笑顔で仰いました。

 しかし、今になって思うと、私もずいぶんと無茶なことをしたものです。


 














 

2019年9月30日月曜日

アフリカにいた日本人の美容師さん




 私がアフリカで、生活をしていた中で、困ったことの一つが美容院でした。

 なぜならば、一度、アビジャン市内の美容院に行ったら、どういうものか、カットの前のシャンプーで、シャンプーをひと瓶まるまる使い切るが如く、髪をゴシゴシと何度も洗われて、髪の毛からは最低限必要な油分も全て洗い落とされて、頭皮はカサカサになり、髪の毛がガビガビになってしまい、カットの出来がどうとかいう以前の問題で、これなら、自分で、切った方がマシ!二度と行くまい!と思ったからです。

 そこで、知り合いのツテをたどって、自宅に出張で髪を切りに来てくれるという日本人の美容師さんを知り、それからは、彼女に来てもらうことになったのです。

 彼女は、日本の公的機関に勤める現地の男性と結婚し、子供を二人持ちながら、自宅を廻る出張美容師さんをしていました。

 当時、アフリカで出会う日本人といえば、駐在員の奥さん連中(私は、あまりお付き合いはありませんでしたが・・)か、フランス語の勉強のために通っていた大学で知り合った、海外青年協力隊の一員として来ている人くらいでしたので、彼女の存在は、そのどちらにも当てはまらず、アフリカで仕事をしながら、しっかりと家庭を持って、強く、生きている女性でした。

 アフリカは、パリなどとは違って、日本人を含めて、外国人の多くは、長期で滞在している場合でも、期間限定の転勤族です。私自身の場合もそうでした。

 今から思うに、転勤族と、その土地に根を張って、家庭を持ち、子供を育てている人は、意識も生活の仕方も違うのは、当然です。

 しかも、アフリカのように外国といえども、治安も行政も日本とはかけ離れた発展途上国での厳しい暮らしの中では、なおさらでしょう。

 よほどの覚悟と強さがなければ、そう簡単にできることではありません。

 小柄な彼女は、明るく、バイタリティーに溢れ、非常に大らかな女性でしたが、その芯には、確固とした強さが感じられる素敵な女性でした。

 その方は、私の髪の毛を切りながら、ご主人との馴れ初めや、ちょうど妊娠中だった私に、自分が子供を産んで、まるで、自分自身も生まれ変わったようで、自分の表情が変わったことが自分でもわかるほどだと、少し興奮気味に話をしてくれました。

 当時、初めての出産、しかも、アフリカでの出産に少し不安を感じでいた私は、彼女の言葉に元気をもらいました。

 私が、アフリカを去ることが決まったとき、彼女は、お別れにと言って、自分でしめた鶏を丸焼きにして、わざわざ家に届けてくれました。

 その後、フランスに来てしまってからは、お付き合いは、続いていませんが、フランスとはいえ、その後、転勤族ではない、海外暮らしを長くしてきた今の私だったら、もっともっと彼女と話したいことがあったと、最近になって思うのです。

 

 

 

 

2019年8月19日月曜日

アフリカは、アフリカでいい




 私が住んでいたのは、西アフリカのコートジボアールという国で、アフリカのパリと言われるアビジャンという都市でした。

 そこは、どうしてアフリカのパリと呼ばれるのか、アフリカ初心者の私には、到底、理解できない世界でした。まあ、中心部には、ビルが立ち並んでいたりして、ある程度は、都会的で、フランス領だったことからパリと形容されているのかもしれません。

 私にとっては、初めてのアフリカは、ほんとうにカルチャーショックを通り越して、現実のアフリカの世界が3Dで飛び込んでくるような迫力でした。

 住まいは、フランス人の集まっているレジデンスで、現地の人々の世界とは、隔絶された世界でしたし、多くの海外から赴任している方々も、そのような生活を送っておられるのだと思います。

 しかし、少し、中心部を外れれば、現地のアフリカの人々がひしめき合うように暮らしており、出かける側から、お金を求める人々が群がります。

 それは、もはや、格差社会とかいう範疇の違いではありません。

 海外から赴任してくる人々は、現地のボーイさんやメイドさんを雇うように義務付けられていますが、賃金は驚くほど安く、使う側(フランス人など)の、その言葉遣いなどからも、こんな、酷な言い方ができるのか? とギョッとさせられもし、また、使われる側もそれに慣れてしまっているようなところがあり、歴史を色濃く感じさせられます。

 極端な人間関係は、双方の人間を腐らせます。

 ほぼ、一年中が厳しい夏の気候の中で暮らすのは、本当に大変ですし、いくら、外国が援助の手を差し伸べても、国内の古くからの悪い体質で、政治家やマフィアがそのほとんどを吸い上げてしまい、貧しい人々の暮らしは変わらない負の連鎖が続いています。

 アビジャンから車で1時間半くらい行ったところにある小さな村のお祭りに行ったことがありました。主人の職場にいた現地の職員の人に頼み込んで、現地の人以外は、一切いない、地元の長寿の人々を讃えるお祭りでした。

 長老たちが、現地の美しい生地で作られた服を身にまとい、周りの皆が素朴な楽器を奏でながら、歌を歌い、リズムをとり、まだ、ヨチヨチ歩きのような小さい子供までが驚くほどのステップを刻みながら踊る、その様子は、本来、あるはずの彼らの生活であるような気がしました。
  
 それは、彼らなりの幸せを見せつけられているような感じでした。

 外国から、よそ者が入ってきて、引っ掻き回すことで、混乱させていることもあるのではないかと私は、思うのです。それは、最低限の生活というものは、必要でしょう。

 しかし、あの気候の中で、そこに住む人なりの生活があるのではないか?

 私は、思うのです。

 アフリカは、アフリカでいい・・と。



 












2019年6月25日火曜日

フランス語力ほぼゼロだった私のフランス人外交官の夫とのアフリカ生活 





 フランス人の外交官とアフリカのプール付きのアパートで、フランス語でボーイさんを使う生活? なんだか現実感がわかなくて、想像もつかない!?。私がアフリカに行ったばかりの頃、友人からの手紙に書いてありました。(外交官といっても、財務省からの派遣外交官)

 確かに、その言葉面からは、なんだか、一瞬、優雅な響きに感じられるかもしれませんが、実際は、とんでもありません。

 何といっても、私にとっては、初めてのアフリカ。私たちの生活していたコートジボアールのアビジャンという街は、西アフリカの中心のようなところで、アフリカのパリなどと呼ばれています。

 しかし、パリはパリでもアフリカのというところがメインなわけで、とてもパリとは似ても似つかないのが現実です。

 しかも、フランス語圏での生活にもかかわらず、当時の私は、ほぼほぼフランス語力ゼロに限りなく近く、夫とは、以前から英語で会話していたものの、その夫以外は、ほぼフランス語のみの生活です。
 もちろん、家にいるボーイさんともフランス語で会話しなければなりません。その上、治安があまり良いとは言えないため、気軽に一人で外出、というわけにもいきません。

 私は、アフリカに着くなり、現地の大学のフランス語科に通い、とりあえずしばらくは、フランス語の勉強に明け暮れる毎日を送っていました。

 外地での勤務、特に発展途上国に赴任する場合は、現地のボーイさんかメイドさんを雇う義務があります。実際に私たちの生活していた、コートジボアールでは、なぜか、家に雇うのはメイドさんではなく、ボーイさんでしたが、うちにいたのは、ブルキナファソーから出稼ぎに来ているボーイさんでした。

 彼は、運転も簡単な料理もこなす人で、外出の際も現地の人との交渉ごとは、彼に間に入ってもらう方がスムーズに行くのでした。(彼の給与は月額、約300€程度、それでも、彼には、アビジャンに一人、ブルキナに一人と二人の奥さんを養っているのでした。)

 とはいっても、家の中に四六時中、ボーイさんとはいえ、他人がいることは、そんな生活に慣れない私には、なかなかのストレスでさえありました。

 主人の仕事上、お客さんを招いたり、招かれたりすることが週3〜4回はあり、そのためのセッティングをしたり、音楽を選んだり、時には日本食を作ったりして、それなりに忙しい毎日でした。それでも、今まで会った事のない、色々な人に会える機会を私は、それなりに楽しんでもいました。

 それでも、たいていのお客様は、親切に英語で話をして下さいました。フランス大使館の元スパイだったという方にもお目にかかりました。スパイといえば安直に007のイメージだった私は、全然、スパイっぽくない、目立たない人でびっくりしたりしました。考えてみれば、スパイが目立ってどうする!?って話ですよね。

 主人は、仕事で、ラグーン沿いの工場に視察などに行ったり、出張も多く、度々、マラリアにかかって、体力的にもとてもきつい思いをしていました。
 家にプールがあっても、マラリア(蚊に刺されて感染する)にかかる危険があり、朝、早い時間か、夜、遅い時間にしか泳ぐことはできません。

 なんといっても、一年中、夏、というのもこたえました。朝、起きて、曇っていると、心の底からホッとしたのを覚えています。アフリカに来て、初めて四季のありがたみをつくづく感じたものです。

 物事がすんなり運ばないのは、パリ以上というか、やはり比較にはなりません。朝は、皆、早いのですが、昼食後、14時も過ぎると挨拶はボンソワール・・もう、ほとんど働きません。あの気候では、致し方ないのも事実です。

 例えば、家のサロンの冷房が壊れた時、7〜8人の修理屋がやってきます。そして、ほとんど半日かかって、やっと直して帰っていくのですが、またその一ヶ月後くらいには、故障します。全てがこんな感じです。

 ああ、そうそう、それから、猫好きの私のために、子猫を買った(?)時も、ボーイさんに頼んだら、生きた鶏2羽と交換という事で、マルシェで鶏を買って、交換してきてもらいました。そして、猫に予防注射を打ってもらう時も現地人価格と外人用価格は違うからとボーイさんが猫を連れて、予防注射をして、証明書をもらってきてくれました。

 アビジャンには、日本政府が多額の寄付をして、建てられたは、いいけれど、結局、医療従事者の人材がいないために使われていない病院もありました。病院には大きな立て看板に日本とコートジボアールの国旗が描かれ、コ・オペレーションと銘打ってありましたが、一体、どこが?・オペレーションなのか? まるで、一方通行です。

 しかも、お金だけ出して建物だけを建てている日本は、結局、多くの税金をドブに捨てているようなものです。お金で寄付するのは、もっと最悪で、全て、国の官僚か、カカオ等を扱うマフィアに吸い上げられてしまいます。

 吸い上げられる・・で思い出しました。娘が生まれて、現地のお役所に出生証明書を頼みに行った主人は、カラーテレビを一台持ってこいと言われたそうです。(もちろん、持っていきませんでしたが)税関でも、警察でも、お金で何でも通ってしまい、規則などあって無きの如しです。

 そんなこんなで、私たちのアフリカ生活は、約2年間続き、娘が生まれて3ヶ月ほどで主人がフランスに転勤になり、主人の外交官生活の終わりとともに幕が引かれました。

 
 

2019年6月24日月曜日

子供が生まれて思ったことーアフリカでの出産 




 母は、私に常々、言っていました。一度は、子育てを経験した方がいいわよ・・と。

 子供を持つことで、自分の中の欠落している部分が少しずつ埋まり、今まで知らなかった世界が広がるから・・違う視点でものごとを見ることができるようになるから・・と。

 その母の言葉は、常に私の中のどこかにいつも潜んでいました。
 私が、子供を産むなら、これくらいまでかな?と思っていた年齢に出会ったのが、主人でした。それは、私にとっての大きな人生の転機でした。

 そして、私が、子供を出産したのは、よりにもよって、主人の転勤に付いて行った先、アフリカでのことでした。

 分娩台の上で、あまりにも痛くて、こんなに痛いんだったら、やめときゃ良かったと思ったと同時に、頭が出かかっているけど、なかなか出てこない赤ちゃんに、引っ込みがつかないと言うけれど、これこそ、引っ込みがつかないと言うことだと思い、痛みに耐えながらも、一人、心の中では、苦笑してしまいました。

 と同時に、これは、大変なことをしてしまったと思ったのです。それは、私が産み落とした命、一人の人間に対して、大変な責任を負ったということを、なぜか、その時、まさに分娩台の上で実感したのでした。

 それは、この子を心身ともに健康に育てる責任ということです。
 
 子供が身体的に健康に育つことはもちろん、例えば、その子がたいへんな犯罪を犯したりしたら、人を殺してしまうようなことがあったら、それが正しいことかは別としても、私はこの子を殺して私も死ななければならない、そうならないようにしっかりと子供を育てなければならないという責任と決意のようなものでした。

 それまで私の周りには、小さな子供や赤ちゃんはいなくて、赤ちゃんを触るのも初めても同然で、おっかなびっくりでした。しかも、そこはアフリカで、日本のように病院で母親学級のように丁寧に子供の扱いを教えてくれる訳ではありません。

 でも、アフリカには、別の意味で子育てを教えてくれるものがありました。それは、アフリカの現地の人の子育てでした。アフリカでは、”街が、道が、子供を育てる。”と言います。
 
 路上で子育てをしている人もたくさんいました。離乳食には、自分たちの食事の中から赤ちゃんでも食べられそうなものを選んでクスクスなどを食べさせていました。

 私が彼らから学んだのは、極端な話、子育てにはこれが正解というようなものはなく、人と比べて神経質になることはないということでした。天気がいいので、(良過ぎるほどでした)いくらでも洗濯ができるので、しばらくは、オムツも布のものを使っていました。

 そうして子供を育てる中で、私は、自分自身よりも大切な存在ができたということに気付き、何だか、自分以上に大切なものがあることに尊さと誇りと幸せを感じました。

 そして、それは、私自身を大きく変えてくれました。私は、自分の子供だけでなく、他人の子供も可愛いと思うようになっていたのです。それらの変化は、私が意識的に変わったのではなく、むしろ、もっと本能的なものでした。何だか、変な言い方ですが、自分も動物の一種なんだなと感じたものです。

 いかにせよ、これは、人生において、とても楽しくて嬉しい変化でした。そして、子育ては、大変なこともたくさんあるけれど、私の人生において、子供がいなければ、絶対に沸き起こらないような感情を呼び起こし、何よりも私に幸せと喜びをもたらしてくれたことをとても嬉しく思っています。

2019年6月5日水曜日

MADE IN AFRICA




 私の娘は、アフリカのコートジボアールという国で生まれました。
よく、日本人には、コート・ダジュールと勘違いされますが、英語では、アイボリーコースト、日本語では象牙海岸共和国というそうです。

 写真に写っているパイナップルやトマト、バナナ、マンゴー、ココナッツ、カカオなどなど、アビジャンのココディマルシェで全部、まとめて2000CFA(セーファーフラン)=20FR (フラン)ユーロに換算すると3ユーロくらい、つまり、日本円で370円くらいでした。安いでしょ!

 そばに写っている木彫りの置物なども全てコートジボアールで買ったもので、娘も入れて、当時、Made in Africa. というテーマで写真を撮りました。まだ、首も座っていない状態で、後ろで必死に支えている私の腕まで写っています。

 そんなアフリカに、主人の転勤で約2年間、生活していました。以前にイギリスでの海外生活の経験があったものの、私にとってアフリカは、まるで、なるほど・ザ・ワールドをライブで見ているような感じでした。

 一歩、外に出れば、それこそ、まさにホンモノのクロヤマの人だかりになり、車で出かけて、信号で車を止めれば、いきなりフロントグラスにバケツごとバシャーっと水をかけられ、勝手に窓拭きを始めて、お金をせがまれるので、車を止めるとワイパーを動かしたりします。

 主人の職場の前には、ワニ売り(小さいワニでしたが)が来ていました。

 食用だそうです。

 住まい自体は、フランス人の公務員ばかりが住んでいるセキュリティーもしっかりした、それこそプールまであるような、広いレジデンスでしたが、一歩、街に出れば、迫力満点の世界でした。好奇心旺盛な主人は、現地のスタッフなどに頼んで、郊外の村の現地の人のお祭りや行事、グランバサンという海なのに遊泳禁止!?で、いわゆるフランス人に人気の綺麗な海岸にも行きました。

 泳げない海!?って、と思ったら、潮がきつくて、泳げないそうで、フランス人はビーチ沿いのレストランで、海を見ながら、優雅に食事を楽しんでいました。なんと、フランス人らしい光景かと・・その時の私は、思いました。

 娘を妊娠した時、日本に帰って出産しないの ? と周りの人にも言われましたが、
やはり、子育ては、パパとママと二人で。と考えていたので、全く、日本に帰る気はありませんでした。

 当時、コートジボアールには、日本人は200人程度いたそうですが、(主に、海外駐在の方々、JICA、海外青年協力隊、大使館関係者、宗教の関係の方)、私は、当時、フランス語が全く出来なかったので、とにかくまず、これを何とかしなければ、とフランス語の勉強をするために大学に通っていましたので、ほとんど、日本人の方とは、お付き合いがありませんでした。

 ただ、妊娠した時点で、一人では不安だろうと主人の知り合いだったJETROの方を通じて、日本人会というのに顔を出して、元助産師さんだったという日本人の女性を紹介していただいたりしました。その方とは、偶然、年齢も近く、気持ちも通じて、出産、子供が生まれた後のお世話仕方など、本当にお世話になり、現在もお付き合いを続けさせていただいております。

 その時、初めて、海外の日本人の集まりというものに参加したのですが、これがまた、ちょっと異様な世界でした。発展途上国のため、海外駐在の場合は、ボーイさんあるいは、メイドさん、等を雇わなくてはならないというのもあって、主婦はかなり自由な時間があるのです。かといって、一人で自由に出歩けるようなところでもないため、日本人は、ほぼ、街のセンターにある、同じビルに住んでいて、朝から、お茶会、麻雀、また持ち回りで大使夫人のお世話係、なんていうのもあったりして、驚かされました。

 結局のところ、娘が生まれて、約三ヶ月後に主人がフランスに転勤になったので、娘は全く、アフリカのことを覚えてはいません。残念です。

 アフリカの話は、まだまだたくさんあるのですが、今日は、ひとまずこの辺で。
また、別の機会に書かせていただきます。