2020年2月19日水曜日

母が亡くなった日の夜




 時差ボケで、夜中に目が覚めて、キッチンのテーブルに座ったら、母が亡くなった日の夜のことを思い出しました。

 あの日も私は、夜中に、ここに、こうして座っていたことを。

 母が例年どおり、夏の間、父と山荘に出かけていて、その山荘で倒れ、山荘の近くの病院に運ばれて、どうにか、すぐに致命的なことには、ならずに取り敢えずは、落ち着いているという報せを受けて、夏休みの前半に日本に帰国し、新学期が始まったばかりだった私は、心配しながらも、再帰国することをためらいながら、様子を伺っていました。

 アメリカに転勤になったばかりだった弟は、すぐに帰国して、母の容態を見守り、どうにか、東京の病院に転院させるまでしてくれて、アメリカへ帰って行きました。

 しかし、元から、心臓病を患っていた母の心臓は、もはや限界状態で、私は、パリで日常生活を送りながらも、心配で、心配で、毎日、泣きながら過ごしていました。当時、8才だった娘に、「そんなに心配なら、どうして、行かないの?」と言われ、職場の上司にも、電話をして、相談したところ、「まだ、お嬢さんも、少し学校を休んでも、それほど学業にダメージを受ける年齢でもないし、仕事は、休んでいいから、お母様の元へ行ってあげなさい。」と言われて、ようやく、私も決心がつき、急遽、日本行きのチケットをとり、娘を連れて、日本へ行くことにしたのでした。

 本当に、それは、ギリギリのタイミングで、一時は、強心剤により、回復しかけたかに見えた母も、私が飛行機に乗っている間に、再び、病院で心筋梗塞の発作を起こし、意識不明の状態になっていたのです。

 その頃は、パリー成田便しかなく、成田に着いた途端に空港のアナウンスで呼び出され、叔母からのメッセージで、すぐに、叔母の家に電話するようにとのこと。慌てて電話をすると、母が意識不明の状態で、何とか、人工呼吸器で生命は、保たれているものの、残念ながら、もう時間がないから、成田から、タクシーで病院に直行しなさいとのことでした。

 慌てて、病院に走り込んだ私と娘は、病院の入り口で待っていてくれた叔父と叔母に誘導されて、スーツケースも入り口に放り出したまま、母のいる集中治療室に駆け込みました。

 集中治療室に案内される時に、医師からは、「もう意識もなく、瞳孔も半分開いている状態です。」と説明を受けました。

 それでも、聴覚だけは、最後まで残るということを本で読んで、信じていましたので、母のそばに駆け寄り、娘にもせっついて、二人で、「ママ〜!!マミ〜!!」と何度も叫びました。すると、意識不明と言われていた母は、急にパッチリと目を開けて、何かを私たちに、言おうとしましたが、呼吸器が繋がれていたために何を言おうとしているのかは、わかりませんでした。

 それから数日間、午前、午後の20分間の面会に通いましたが、心臓の機能を安定させる薬を投薬されていた母は、目を覚ますことはありませんでしたが、その間、手をさすったり、足をさすったりしながら、一生懸命に母に話しかけていました。

 最後に面会できた際には、弟の再帰国が決まっていたので、「もうすぐ、弟が帰ってくるから、もう少し、頑張って!」と声をかけました。すると、母は、眉をしかめて、涙をツーっと流しました。母にしてみれば、初めて外国に転勤になったばかりの弟に、いきなり日本に二度も帰国させ、迷惑をかけることを辛いと思っていたのだと思います。

 その日の晩に、病院から電話で、「危篤状態です。すぐに来てください。」という連絡があり、父と娘、隣に住んでいる従姉妹に運転を頼んで、病院に駆けつけましたが、もう、母の最後には、間に合いませんでした。

 あっという間に大勢の親戚も病院に駆けつけてくれましたので、母の遺体を家に連れて帰るか、病院に解剖を頼んで、預かってもらい、直接、母の通っていた教会に葬儀の段に直に運んでもらうかの話し合いになりましたが、結局、父が母の解剖と教会への直の搬送を希望したため、母がこの家に再び、帰ってくることは、ありませんでした。

 その後、一人で、この家で生活しなければならない父にとって、亡くなってしまった母の残像がこの家に残ることは、父にとって、それはそれは酷なことだと思いましたので、私もそれに賛成しました。

 その夜、家に戻って、父は、自分の寝室に入り、娘も寝てしまった後に、私は、このキッチンのテーブルに座り、母の魂がどこか、このキッチンに帰って来ているような気がして、悲しみに少し、気持ちが高ぶらせながら、一人で、少し、上の方を眺めながら、心の中で、母に話しかけながら、しばらく、お酒を飲んでいました。

 今日、夜中に目を覚まして、なぜか、その時のことを鮮明に思い出しました。

 





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