母は、英語が好きで、私や弟に小さい時から、英語を教えてくれていました。私たちに英語を教え始めたことをきっかけに、近所の子供を集めて子供に英語を教え始め、やがては、大学の先輩と共著で英語のワークブックを出版したり、英語のカードやカセットテープを作ったり、しまいには、英語教育に携わる人への講演会までするようになりました。
出版や講演会などを行うようになっても、常に自宅で近所の子供を教えることは、亡くなる1〜2年ほど前までは、続けており、真面目な母でしたが、おしゃべりで、世話好きで、社交的で、人懐っこいところもあり、近所でも顔が広く、片時もじっとしていない人でした。
ですから、元気だった頃は、私が海外に出ることも、寂しがるというよりも、むしろ、喜んでくれていて、あちこちで、私たちがパリにいることを触れ回り、近所の人もみんな私がパリにいることを知っていましたし、”おかげさまで、フランスでも、英語、褒められるよ!” などと言うと、とても、嬉しそうにしてくれていました。
しかし、母は、拡張型心筋症という病気にかかり、発病してから、10年の間に、少しずつ弱っていきました。それでも、家で続けられる英語のクラスだけは、なんとか、ギリギリまで、続けており、それが可能な頃は、それなりに身体が辛いことがあっても、自分の好きな、半分は趣味のように楽しんでやっていた仕事が生きがいのようになっていましたが、いよいよ、それも、無理、家の中でも階段の上り下りは、控えるようにと言われて、寝室を一階の部屋に移した頃からは、弱気が垣間見えるようになりました。
一度、弟が実家に立ち寄った時に、(その頃は、彼はまだ、日本に住んでいました)実家から電話をしてきて、" 日本に帰って来れるってこと(一時帰国ではなく)は、ないかなあ?” と、聞かれました。
その時の私は、あまり深く考えることもなく、” 私は、主人と娘と三人で暮らしているのが、一番、しあわせ〜!” などと答えてしまっていました。
後になって、ああ、これは、きっと、母が心細くなって、弟にボヤいたのではないかと思い至り、それから、毎週金曜日の朝、早めに家を出て、パリの時間で朝9時半頃、(日本時間で夕方)出勤前に会社の近くの電話ボックスから電話をするようになりました。
(その頃は、まだ、今のように、スマホもなく、ラインなどで、簡単に連絡が取れる環境には、なかったのです。)
遠く離れている親不孝娘には、当時、そのくらいのことしかできなかったのです。
それでも、じかに、声が聞けて、話ができるということは、母にとっても私にとっても楽しい時間でした。
私が、話す、娘の様子などを母は、ケラケラ笑いながら聞いてくれ、その話題をネタに父や自分の姉妹たちとも楽しく電話で話したりしていたようで、それは、亡くなる直前まで続いていました。
母が亡くなった後、母をなぐさめるつもりでしていた電話に、実は、私自身が大きく、なぐさめられていたことに気がつきました。
母が最期にくれた手紙には、こう書いてありました。
それは、私のお誕生日に当ててくれた手紙でした。
「お誕生日、おめでとう。◯◯年間、生きてきてくれてありがとう。世界のどこにいようが、存在しているというだけで、私にとっては、うれしいことです。あなたも、そろそろ人生の折り返し地点です。今までの生き方を見返して、ゆとりを持てる生活、時間と労力を簡素化していって下さい。私は、気がつくのが遅かったことを反省しています。でも、夢は持って下さい。” 生活は簡素に、志は高く” (最近、読んだ本の一説)」
海外生活をして、寂しい思いをさせてしまった母の気持ちは、もう、距離ではなく、存在自体を喜んでくれる高みに達していたのです。
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