9月は母の命日があったことをすっかり忘れていました。数日前、従姉妹から、今日は、おばちゃまの命日だね・・とメッセージがあって、ハッとさせられました。
母が亡くなったのは、15年前のことで、今でも、その時のことは、強烈に覚えているものの、命日そのものは、正直、一体、何日だったのか、はっきり覚えてもいなかった非情な娘です。
母が亡くなった年の夏、多分、7月だったと思いますが、例年どおり、私は、娘を連れて、日本に夏休みの一時帰国をしていて、私たちがフランスに帰国した後、これまた例年どおり、両親は、夏休み、東京が暑い時期を八ヶ岳の山荘に長期で滞在していました。
母は、亡くなる10年ほど前から、拡張型心筋症という病気を発症していて、年々、弱ってはいたものの、家で寝たり起きたりの生活を続けていました。
夏の山荘行きは、母が一年のうちで最も楽しみにしていることでもあり、後から、母の主治医に聞いたところ、「お母様から八ヶ岳の山荘に行くことについて相談されていましたが、山にあるため、高度が高い分、酸素が薄いので、ある程度の危険は考えられるけれど、まあ、どこにいてもダメな時はダメなので(まあそれくらい悪かったということ)、それなりの覚悟をしていらっしゃるのならば、暑い東京で冷房の中で暮らしているよりも良いこともあるかもしれません」と言われていたようで、母はそれなりの覚悟をして例年どおり、父と二人で車で八ヶ岳の家に出かけていたのです。
母がそんな覚悟までして、八ヶ岳に出かけたとはつゆ知らず、私は、7月の一時帰国時、フランスに帰る日に、これまたいつもどおりにバタバタと「色々ありがとう。じゃあまた、来年、来るからね!」と雑な挨拶をして、荷物を車に運び込んだり、バタバタと出て行ったのでした。
あれが最期になるなんて、あの時の私は、想像すらしていませんでした。
母は娘のことをもの凄く可愛がってくれていて、いつもならば、日本からフランスに帰る時には、二人で抱き合ったりしながら、「また、いらっしゃいね〜」などとベタベタしていたのに、その時ばかりは、母は背筋を伸ばして、「握手!」などと娘に自分から手を差し出して、握手したりしていたのを後になってから思い出すに、あの時すでに、母は自分の身体の状態などを鑑みて、かなりの覚悟をしていたのではないかと思われます。
しかし、そんなことは母は一切、言葉には出さずに、私たちの日本滞在中、家の中で寝たり起きたりの状態ながら、朗らかに笑い、共に食事をしたり、おしゃべりをしたり、いつもと何ら変わらない様子で楽しそうに過ごしていたのです。
それから私たちがフランスに戻って約1ヶ月後の8月23日(どういうわけか母が倒れた日にちはよく覚えている)八ヶ岳の山荘で倒れ、現地の病院に入院したのでした。
その年は、ちょうど弟がアメリカに転勤になったばかりで、アメリカに経ったばかりの弟がすぐに日本にトンボ帰りで帰国してくれたので、私は、つい先日、帰国したばかりで、娘の学校も新年度が始まるところだったので、しばらく様子を見ることにしたのです。
しかし、弟や叔母たちからの話を聞く限り、入院した母は強心剤を打っているために、一時的に回復しているものの、このまま強心剤を打ち続けるわけにもいかず、都内の病院に転院する必要があるということで、弟が都内まで運転して母を運び、その途中で救急車を呼んで、強引に入院させてもらうという苦肉の策をとり、母は都内のかかりつけの病院に転院したのでした。
その間、私は、心配で心配で、毎日毎日、遠く離れた地で泣きながら過ごし、当時8歳だった娘に「そんなに心配ならば、日本に行ったらいいじゃない・・」と言われて、ようやく再帰国を決意して帰国の手配をしたのとほぼ同時に母は転院先の病院で心筋梗塞を起こし、危篤状態になりました。それは、私がフランスから日本への飛行機の機内にいる間のことでした。
当時はまだ、国際線は、成田空港で、空港に着くと同時に空港内アナウンスが入り、受付に行くと、「叔母様のところに電話してください」というメッセージ。慌てて電話をすると、もう時間がないから、直接タクシーで病院に来て!残念ながら、もう時間がないの!」とのこと、私は現実が受け入れ難く、「時間がないって、どういうこと?」と、心配で心配でタクシーの中でもずっと泣いていました。
病院に着くと、病院の入り口には叔父と叔母が待ち構えていて、荷物もそのままに、娘と二人で集中治療室に駆け込み、「もう意識もなく、瞳孔も開いている」と言われていた母の元に駆け寄り、ひたすら大声で「ママ〜!!マミー!!」と娘と二人で呼びかけ続けました。聴覚は最後まで残るということを聞いたことがあったからです。
すると、それは、本当だったようで、私たちの大声が母に届き、すでに人工呼吸器に繋がれていた母が、突然、ぱっちりと目を開けてくれました。母は何かを言おうとしていましたが、呼吸器がついているため、残念ながら、母が何を言っているのかは、わかりませんでしたし、母が目を覚ましたことが奇跡的なことであることにピンときていなかったので、それをなんとか、聴き取ろうともしませんでした。
しかし、その後、心臓の機能が低下しているために、腎臓等の臓器も働かなくなり、人工透析などの機械にも繋がれていましたが、それから数日間、午前と午後の面会時間には面会に行きましたが、それから後は、母は目をあけることはありませんでした。
母を東京の病院に転院させて、アメリカにトンボ帰りをしていた弟は、再び母が危篤状態に陥ったことで、また日本に再帰国することになっており、母に「弟がもうすぐ帰ってくるから、もう少し待ってて・・」と呼びかけると、母は目を開けることはありませんでしたが、母の目からは、涙がツーっと流れ落ちていました。
転勤して、新生活を始める弟に行ったり来たりさせていることを母は心苦しく思っていたに違いありません。
結局、弟は、母の最期には、間に合いませんでした。
姉弟揃って海外暮らしという親不孝者でしたが、そもそも私も弟も海外生活に至った大きなきっかけの一つは、母が私たちが幼い頃から英語を真剣に教えてくれたおかげでもありました。
元気だった頃の母は、そんな私たちが海外で暮らしていることをとても喜んでくれていましたし、私が「おかげさまで、職場で私の英語、褒められたよ!本当にママのおかげ!」などと報告すると、とても嬉しそうにしていました。
海外で生活している限り、こんなこともあり得るとは思っていた母との別れではありましたが、あの時の衝撃的な帰国、母の最期を私は、一生忘れることはありません。
にも関わらず、15年経った今、あれほどの思いをした母の命日をうっかり忘れていて、全く非情な娘で母には申し訳ありません。
今、私と同年代の友人たちは、親の介護で苦労している人も少なくありませんが、私は、介護らしい介護も何もできなかったくせに、今、母がいてくれたら、今だからこそ話したいことがたくさんあったのに・・などと思う身勝手な娘です。
言い訳をさせて貰えば、歳を重ねるとともに、命日ばかりが増えていき、もう一人一人の命日をはっきり覚えていないのが正直なところです。
しかし、従姉妹が母の命日を知らせてくれたことで、今度こそ、はっきりと母の命日は、15年も経った今、ようやく私に刻み込まれました。
海外在住者の親との別れ
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