毎年一度は、娘を連れて日本に行っていたので、娘もマミー(フランス語でおばあさんのことは、マミーと言います)が大好きでとても懐いており、母は、何よりも娘の一挙手一投足が楽しく、嬉しいようで、私の一番の親孝行は孫の存在だったように思います。
母は、私にも弟にも小さい頃から、英語をしっかり教えてくれていました。おかげで、私も弟も英語には、あまり苦労を感じずに来れたと思っています。
そんな、母の教育が基盤にあるのか、私も弟も海外生活をしており、母には、寂しい思いをさせてしまったと思いつつも、母は、私たちが海外で生活している事を喜んでくれていました。
発病してから、年々弱っていく母が心配で、日本に行った時には、帰って来た時くらいはと、介護保険の申請や障害者手帳の申請、介護施設との交渉など、区役所や社会保険事務所などを巡りました。
その頃は、介護保険の適用の初めの頃で、家の階段やお風呂、トイレには、手すりなどがつけられ、しばらくは、少し安心していました。
しかし、晩年は、母はお医者様から階段の上り下りは、避けるようにと言われ、2階にあった自分の寝室から一階の部屋にベッドを移して、寝たり起きたりの生活になっていました。
しかし、自分のことは自分でできる生活で、最後の夏は、母と父の年中行事になっていた山荘に滞在しており、(お医者様の許可は一応、頂いていたようですが、何が起こっても不思議はない状態でそれは自宅にいても同じこと。覚悟しているなら、やりたいことをやりなさいという意味だったのだと思います。)そこで、倒れたのでした。
母が倒れたのは、夏休みが終わって、ちょうど学校が始まった頃でした。母が倒れた報せを受けて、当時、アメリカに転勤になったばかりの弟がすぐに日本に帰りました。私は心配で、心配で毎晩、泣きながらも学校が始まったばかりの娘のことや仕事を無期限では休めないとか、ぐずぐず迷いながら、数日が経ちました。
すぐに山荘から近くの病院に入院した母でしたが、そこでできるのは強心剤の投与のみとのことで、弟が病院と相談して、東京のかかりつけの病院に転院させる手はずを整え、付き添ってくれました。
母の容態も少し落ち着いたところで、弟はアメリカに帰って行きました。それでも、親戚から入る報せを聞きながら、心配で心配で、夜には泣いてばかりいる私に娘が言いました。”そんなに心配なら、どうして行かないの?”と。
その言葉で私は、娘を連れて日本へ行くことにしたのです。そして、偶然にもそれは、ギリギリの決断で、恐らく私たちが飛行機に乗っている間に母は、入院中の病院で心筋梗塞を起こしたのです。
成田に着くと、空港アナウンスが入りました。メッセージは、”もう時間がないので、空港から直接、タクシーで病院に来るように” とのことでした。
タクシーの中で、私は、再び涙が止まらなくなりました。
病院に着くと、叔父と叔母が病院の玄関で待っていてくれました。病院の入り口にスーツケースを放って、私たちは、母のいるCCUに駆け込んで行きました。母の周りには人工呼吸器や様々な機械が取り付けられていて、それを表す、数値やグラフがチカチカ光っていました。
聴覚は最後まで残るという説を信じていた私は、娘も促して、”ママー!!マミー!!”と叫び続けました。すると、意識もなく、瞳孔も開いていると言われていた母がパッチリと目を覚ましてくれたのです。
そして、私たちを見て、何かを言おうとしてくれていたのですが、人工呼吸器がつけられていたため、それを聞き取ることはできませんでした。それは、母と目を合わせることができた最後でしたが、ギリギリ最後に会えて、本当に良かったと思っています。まるでドラマのような出来事でした。
その数ヶ月前、夏休みで帰国していた私たちを玄関で見送る母は、後から考えるといつもと違っていました。いつもは娘と抱き合って、”また来てね〜!”とか言って、じゃれついたりしているのに、その時は、背筋を伸ばして、娘に向かって手を差し出し、”握手しよう!”と言って、別れたのでした。
あの時、自分の体力、病状を考え、ある程度、母はこれが最期かもしれないと覚悟を決めていたのだと思います。
海外で暮らす以上、こういう時が来ることは覚悟していたのですが、やはり、とても辛い出来事でした。母が私の誕生日にくれた最後の手紙には、こんな一文がありました。
”お誕生日おめでとう。〇〇年間、生きていてくれてありがとう。世界のどこにいようが、存在しているというだけで、私にはうれしい事です。・・”
存在そのものに愛情を注いでくれる。そんな母の愛情に支えられて、私が育って来られたことをとても感謝しています。
また、娘にとっては、初めての身近な人の死に接する経験をさせてあげられたこともとても良かったと思っています。