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2020年10月21日水曜日

好きと嫌い 感覚的なものに頼る選択

 


 例えば、好きな人ができたとして、どこが好きかと言われると、なんとなく、ぼんやりとしたものであることが多い一方で、嫌いになる場合は、かなり事細かに詳しく述べることができるような気がします。

 たまたま、カーペンターズの曲が流れてきて、なんとなく英語の音がきれいだ・・と思いながら、母を思い出しながら、好きと嫌いということについて考えていました。

 母は、英語が好きで、大学でも英語の勉強をし、しばらくお勤めをしていましたが、その後、結婚して、専業主婦になりましたが、(まあ、母の時代は、専業主婦が当たり前の日本でしたから・・)私が生まれて、物心つく頃には、私に英語を教えてくれていました。

 私は、小さい時から、寝る前には、英語の物語のテープを子守唄がわりに聴きながら、寝ていました。絵本も付いているそのお話は、「ぐるんぱのようちえん」や、「たろうのおでかけ」など、いくつかありましたが、子供の頃ですから、吸収も良く、今となっては、すっかり忘れてしまいましたが、当時は、暗唱できるほど、物語を英語で記憶していました。

 単語一つ一つの意味や、文法などはわからなくても、歌を覚えるように、文章を覚えてしまうのですから、子供の時の記憶力というのは、すごいものです。

 母は、その後、私だけでなく、私と同じ年頃の近所の子供を集めて家で英語を教えるようになりました。それはそれは、熱心で、丁寧で、楽しそうで、母が亡くなる数年前まで、母は、家で英語を教えるとともに、子供に英語を教えるための教材を作ったりして、その教材のための講演なども時々やっていました。

 私が成人してからは、そんな母の教材のテープの録音に付いて行ったり、講演会の時は、手伝いに行ったりしていましたが、母のその楽しそうな感じは、ちょっと羨ましいほどでしたし、講演会などとなると、もう止まらない・・といった勢いで話し続けるので、私は、母に聞いたことがありました。

 「英語のどこがそんなに好きなの?」と・・。

 すると、母から帰ってきたのは、意外な答えでした。「英語の音が好き・・」と・・。

 そんな感覚的な理由が母の口から出てきたことは、その時は、とても意外でしたが、そもそも「好き」ということは、感覚的なことに根ざしているのかもしれません。そして、その感覚的なものというのは、なかなか根強く、あながちバカにできないものだということも、過去のいくつもの場面を振り返ると思いあたります。

 音楽などでも英語の歌詞は、きれいにメロディーにのって響くように私自身も感じますし、そして、何よりも私自身も英語の音が好きだな〜と、いつの間にか思うようになっていたのです。

 私が子供の頃は、我が家の車の中は、母が好きだったパットブーンの曲がよく流れていました。英語の音がきれいだ・・心地よい・・と、最近、時々、音楽を聴いていると思うのは、そんな風に知らず知らずのうちに、私の中で慣れ親しんでいた音だからなのかもしれません。

 音が好き、心地よい・・そんな感覚的なものは、友人、恋人、仕事、職場など・・何かを選択するうえでも、一見、漠然としているようでも、結構、大事なポイントだったりするかもしれません。

 娘の幼少期、(2歳くらいの頃)彼女は、出会った人を一瞬で見抜く力がありました。もう動物的といってもいいくらいな反応でした。

 初めて日本に行った時、初めて会うたくさんの親戚の中から、一目で信頼できる人を見つけてベッタリ・・また、逆にフランスで、家族で散歩に出かけた時に、たまたまローラースケートで遊びに来ていた少年たちと写真を撮ってもらおうと主人がその少年の一人に抱っこを頼んだら、火がついたように泣き出し、困ってしまったこともありました。その泣き方の強烈さは、ちょっと周りの人も驚くほどでした。

 海外生活をしていると、日本では、決して出会うことがなかったであろう色々な人に遭遇します。そんな時、「ん???なんか、変だな・・この人・・何かどこか妙な感じがする・・」と、思うことがたまにありますが、ちょっと話してみると、慣れてくることもあって、違和感が薄れるのですが、よくよく知っていくうちに、やっぱり、あの時の違和感は、こういうことだったんだ・・と思うことがあります。

 直感とか、なんとなく感じることは、あながち、間違いでもないのです。直感だけで動くというのは何ですが、こういう感覚的に感じるものは、長い目で見てみると、あながちバカにしたものでもないかもしれません。

 ちなみに私は、フランスに住んで20年以上になりますが、フランス語の音がきれいだとか、好きだとか思ったことは、今のところ、ありません。


<関連>

「母の英語教育

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/12/blog-post_7.html


 

2020年9月20日日曜日

娘の留学ドタキャン コロナウィルスによる被害

 


 娘の留学が決まったのは、昨年末のことでした。グランゼコールの2年目が終わると、3年目の彼女の予定は、海外でのスタージュや留学で、1年間が、びっちり埋まっていて、本体の学校へは、もう行かないことになっていました。

 彼女は理系専攻のため、エンジニアの資格取得のためには、一定期間のスタージュ(研修)が、必須で、今年の夏も彼女のクラスメートは、皆、漏れなくスタージュの予定が入っていました。

 スタージュ自体は、個人がそれぞれに興味のある会社や大学に申し込み、契約をするので、フランス国内だけでなく、ヨーロッパやアメリカなど、個人の希望で先方が受け入れてくれさえすれば、特別な縛りはありません。

 ところが、コロナウィルスのおかげで多くの学生がスタージュが取りやめになったり、行き先がアメリカだったりした人は、断念せざるを得なくなり、慌てて別のスタージュを探し回り、中には、コロナウィルスの検査を請け負っている会社でスタージュをしたり、それでも見つからなかった学生には、学校側がスタージュに代わる特別なプログラムを用意して、それを消化することで、その期間、スタージュをしたことにするという異例の措置が取られたりしました。

 娘は、夏の間は、イギリスの大学でのスタージュが決まっていましたが、結局、イギリスに行くことはなく、しかし、幸いにも先方がリモートワークで受け入れてくださったので、夏の3ヶ月間のスタージュは、予定どおり?に終えることができました。

 そして、9月の一ヶ月間をあけて、10月からは、今度は、スタージュではなくて、半年間、日本の国立大学の大学院に留学する予定になっていました。この留学は、こちらのグランゼコールからの留学なので、直接、日本の大学とも連絡が取れずに、しかも、このコロナ渦の中、どうなるかわからないまま、時間が過ぎて行きました。

 コロナウィルスでフランスがロックダウンになって以降は、日本の大学からも、航空券の予約は、ギリギリまで、しないように・・との連絡が来ていましたが、8月の半ばになって、急に日本の大学の方から、10月からの滞在場所、寮の申し込みをしてくださいという連絡があり、到着日、到着便なども記入しなければならないことになっていたので、慌てて、日本行きの便を探し始めました。

 彼女は、日本人なので、日本に入国することはできるのですが、留学先の大学が地方のため、パリからは直行便はなく、羽田での乗り換えの際に、そのまま乗り換えができるかどうかを悩んだ末、日本到着後の2週間の自粛は、東京の私の実家でおとなしく、引きこもり生活をし、2週間後に地方へ発つという方法を考えていました。

 羽田からも公共交通機関は使えないということで、親戚や友人にも高齢者である家族を抱える人が多いので、迷惑をかけることは、絶対に避けたいので、彼女は、羽田から、荷物は、配送を頼んで送り、自分は、家まで歩いて行くと言っていました。

 彼女は、運転免許を持っていないので、私が一緒に付いて行って、レンタカーを借りて、空港から実家まで送るという手も考えましたが、それも、あまりにバカらしく、彼女の健脚に任せることにしていたのです。

 寮に入れるかどうかの返事が来るのは、9月に入ってからということだったので、もし、それがダメな場合は、別の滞在先を探さなくてはいけないから、ダメだった時は・・と、見当をつけたりもしていました。

 ところが、9月に入って、こちらのエコールから転送されてきたのは、一ヶ月近く前に日本の大学から来ていた留学延期、あるいは、中止のどちらかを選んでくださいというメール。慌てて、日本の大学に確認のメールを送ったところが、検討の結果、渡航を伴う留学は、今期は受け付けられないとのこと。

 8月の段階で、日本の大学から来ていたメールをバカンス中だったために、こちらのエコールの担当者にスルーされていたのは、フランスなら、大いにあり得ること、そのメールになぜ?Cc.をつけてくれなかったのか? なぜ?日本の大学は、寮の申し込みなどということを言ってきたのか? 考えれば考えるほど、まったく腹立たしいことばかりです。

 買ってしまった日本行きのチケットは、こんなご時世だからと変更可能なチケットにしたものの、一体、いつに変更すれば良いのかも現時点ではわからず、しかも、変更の際には、なかなかな追加料金がかかるため、さらなるリスクを負うことは、躊躇われ、結局、チケットを変更することもできずに10万近くがパーになってしまいました。

 娘は、娘で、慌てて10月からのスタージュ探しに必死・・見つからなければ、彼女が在籍しているエコールに通わなければなりません。

 このフランスの感染状況からしても、フランスからの学生の受け入れは、お断り・・というのは、わからないではありませんが、フランスのエコールはもちろん、日本の大学の不明瞭な対応のために、大金を捨てる羽目になり、まったくもって、私は怒りまくっています。

 考えてみれば、夏のイギリス行きのユーロスターのチケットもキャンセルしたものの、返金ではなく、まさかの金券返し、予約していたホテルも返金すると言いながら、未だ返金されておらず、今度は、日本行きのチケットがパーになりました。

 コロナウィルスそのものに感染はしていませんが、我が家にとって、娘の留学にまつわる大損害、実際に留学した場合の出費なら、仕方ありませんが、連絡ミスのためのこの大出費。

 どうにも納得がいかないのです。


<関連>

「コロナウィルスのためのキャンセル料金 ANA変更手数料無料の航空券販売」

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2020/08/ana.html

 









 

2020年9月8日火曜日

恩師との別れ 死生学のすすめ アルフォンス・デーケン教授

       


 偶然、その前日に、普段はあまり思い出すこともなくなっていたのに、ふと、デーケン先生に、「使命感を持って頑張ってください!」と言われた時のことを思い出していました。あの頃の私は、先生がおっしゃっていた本当の意味の「使命感」ということを全然、わかっていなかったなぁ・・と、なぜか、ふと先生の言葉が心に浮かんで、ぼんやりとその時のことを考えていたのです。

 そんなことを考えていた翌日に、先生の訃報を目にすることになるとは、なんだか虫の知らせとでもいうのか、とても不思議な気持ちでした。

 アルフォンス・デーケン先生は、日本で、死を忌み嫌うものとしてではなく、死ぬことを見つめて、生きることを学ぶ、「死生学」を広め、「死の準備教育」を提唱し、当時、日本では数少なかったホスピスを広めていった上智大学の教授でした。

 おそらく彼は、私の人生に最も大きな影響を与えてくれた恩師でした。

 私は、ちょうど、初めて身近な人を亡くしたばかりの頃で、それまで人の死に接したことがなかった私は、死について、考えるようになりました。世の中に絶対ということはない・・絶対おこることは、誰もがいつかは必ず死ぬということ、人間の死亡率は100%です・・・言われてみれば、当然のことなのに、当時の私は、大発見をしたような気分になったものです。

 いつか訪れる死をどうやって迎えるかを考えることは、とても大切なことですし、死について考えることは、生きることについて考えることでもあるのです。死は恐れるものではないことも彼の講義から学びました。

 死についての話となると、どこか怪しげな宗教と誤解されがちなこともあり、実際に先生は、大学の教授であったとともに、カトリックの神父様でもあったのですが、死生学の講義では、宗教色を強く出すことはありませんでしたし、彼の講義は、ところどころに必ず、ユーモアが組み込まれていて、思わずクスッと笑ってしまうようなジョークまでが含まれているのです。

 私は、どの宗教にも属していませんが、デーケン先生にかなり傾倒して、彼のキリスト教の講義も受講しました。若かった私は、今よりもずっと繊細?で、迷うことも多く、何かを信じることができたら、どんなに楽だろうか?と思ったこともあったのです。

 当時、日本では、オウム真理教などの新興宗教が拡大していた時期でもあったので、私が持っていた漠然とした不安も、当時の若者の多くが抱えていたものと似ていたかもしれません。私は、先生の講義を聞いたり、本を読んだり、実際に先生とお話ししたりすることで、ずいぶんと救われていました。

 先生は、忙しい中、個人的に面談の時間も設けてくださり、漠然とした私の悩みなどもずいぶん聞いて下さいました。キリスト教を信じたくても、信じられない・・という私に、先生は、「大丈夫、自然に信じられる時が来るまで、無理に信じようとしなくても良いのです」と優しくおっしゃり、張り詰めていた私を静かに抱き寄せて下さいました。

 私は、キリスト教を信じることはできませんでしたが、デーケン先生は信じることができる・・今は、それで、充分ではないか? そんな風に思えたのです。

 なぜか、その時、ルサンチマンについて話したことも覚えています。こうして書いていると、次から次へと色々なことを思い出します。

 彼は、とても聡明で、努力家で、穏やかで、かといって、堅苦しくもなく、懐の大きな、ちょっと可愛らしいところもある、とても優しい先生でした。

 彼の死生学の講義を受け、当時、動き始めた日本でのホスピスムーブメントに関する研究会などにも軒並み参加して、私がとうとうイギリスのホスピスを自分の目で見てみたいとイギリスへ行くことを決意した時は、先生がホスピス宛の推薦状を書いて下さいました。

 その時に言われたのです。昨日、ふと思い出した「使命感を持って頑張ってください!」を・・、そして、昨日の結婚式で頂いたものですが・・と、きれいな花束を下さいました。

 私の海外生活も長くなりましたが、そのきっかけを作ってくださった方です。

 デーケン先生は、ドイツ人でしたが、私は、先生が外国人であるということを全く意識をしていませんでした。先生は、心は日本人、日本に骨を埋めるつもりだと仰っておられましたが、実際に先生自身のアイデンティティーに関する考察には、外国人として日本に住むに当たって複雑なものもおありになったと思います。しかし、私にとっては、先生は、一人の人間であって、国籍などは、全く関係ありませんでした。

 今、私が海外で生活し、日本にいる時以上に自分が日本人であることを意識しますが、デーケン先生を思い出してみると、どこの国の人というよりもその人の本質的なところで人と関わることの大切さを再確認させられます。

 講義の最初には、「日本の寿命は世界一・・だから、私は、日本に来たんですね・・」と仰っていたデーケン先生、88歳、見事に日本人の平均寿命を超えられた旅立ちでした。

 そして、講義の際に、よく話されていた「私は、アイジンバンクに登録しています。アイバンクと腎臓バンクです。私が死んだら、私のこの美しい目を差し上げます。」というオチのついた話も実現したのかな? と、先生のその時の口調などを思い出しています。

 死は、終わりではなく旅立ちだと説かれていた先生の死は、悲しくはありません。

 いつかまた、次の世界で先生と再会できる日を私は、とても楽しみにしています。


<関連>「イギリスのホスピスにいた、ある青年とお母さんの話」

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/08/blog-post_25.html

 





2020年7月23日木曜日

親子関係・家族関係 私が海外生活をしている理由





 私は、人が生きていく上でのその人の軸となる部分を作るものは、家族、主に親子関係だと思っています。それは、経済的に恵まれているとか、いないとか、そういう問題ではなく、絶対的な信頼感とでもいうのでしょうか? 自分は確かに愛されているという感覚を子供が成長過程において、感じることができるかどうか? そのことが、子供にとって、その子がどんな道に進んだとしても、その人の軸となる部分を強く持ち続けることができるかどうかを大きく左右すると思っています。

 家柄とか、経済的にとか、そういうことではなく、家族の絆がしっかりある家庭で育った人は、強いです。そして、それは、何よりの財産です。

 自分の恥部を晒すようで、躊躇いもあるのですが、私は、それを持たずに育ちました。一見、何不自由ない暮らしをさせてもらってきました。しかし、私の育った家庭では、父は、わがままで気分屋で、身体的な暴力を振るわれたことはありませんでしたが、気に入らないと暴言を吐く、家族中が父の機嫌を常に伺う、ピリピリした家庭でした。母の愛情は、感じていましたが、父には逆らえない母にしっくりしないものもありました。

 時代もあったのでしょうが、母も父に刃向かうことはできず、ただ、その場を凌いで紛らわせることを積み重ねてきたのです。

 表向きは、ごくごく普通の家庭に見えるし、母はもちろんのこと、私も弟もそれを特に他の人に深刻に訴えることもせずにいたので、親戚でさえも我が家の実情は、よく知りません。ただ、私と弟は、何度も母に離婚を勧めました。しかし、世間体やそこまでの勇気が母にはなく、そのまま、なし崩しに暮らしてきました。

 弟が大学に入った頃に、とうとう弟は父と衝突し、ほとんど家に帰らなくなりました。当然、家の中の雰囲気は最悪です。私は、自分の気持ちが不安定なことを逆に追求したくて心理学の勉強をしてきました。

 母が小さい頃から英語を教えてくれていたこともありますし、好きになった相手がたまたまフランス人であったり、弟も海外に出て仕事をしたいという目的も確かにありましたが、私も弟も海外で生活しているのは、そんな家族から少しでも遠くに離れたい気持ちがどこかにあったことも否めません。

 私も弟も独立して、それぞれの家族を作って、たまに里帰りするくらいになって、どうにか、自分の育った家庭を外から眺められるようになりました。しかし、ピリピリした環境で育った私の自分自身の軸が弱いこともよくわかっています。

 私が、心理学に続いて、死生学を学んでいた過程でイギリスのホスピスで働いていた時、そこで出会ったたくさんの患者さんたちと話をして、まさに死にゆく瞬間に思う人生にとって大切なものとは、何なのか?・・私が感じたのは、家族でした。

 その後、私は、私自身の家族を作ろうと思い、実際に家族を持ち、子供も生まれました。私は、何よりも娘に対して、「何があってもママは自分を愛してくれている」と感じられるように接してきました。(だからと言って、娘が何をしてもいいというわけではありませんが・・)夫が娘に対して理不尽なことを言っても、決して黙って我慢することは、ありませんでした。とことん、話してきました。

 私は、そんなに口数が多い方ではありませんが、言うことはきっぱりと言います。これは、特に夫に対してだけというよりも、海外生活では、言うことは、はっきりと言わないと暮らしていけないということもありますが・・。

 私がこれまでで自分がすごく幸せだと感じた瞬間は、まだ娘が小さかった頃にお休みの日に朝、なかなか起きてこなかった夫を起こしに行って、3人でベッドでゴロゴロ戯れていた、なんのたわいもない時間でした。家族での心底リラックスした時間を感じた瞬間に私は、このまま死ねたらどんなに幸せだろうと思ったくらいです。

 海外での生活ということで、難しいことは、たくさんありましたし、特に娘は、自分が選択したわけでもないのに、フランスと日本と両方の国の間で生きることになったのです。そうでなくともアイデンティティーの所在が不確かになりかねません。

 それでも、結果、娘は、ちょっと鼻持ちならないほどの自己肯定感の強い、軸がしっかりした人になりました。それは、これから、彼女が生きていく上で、とても大切なことだと思っています。

 先日、三浦春馬さんという日本の俳優さんが自ら死を選んで亡くなったというニュースを見て、人の軸の強さと家族の関係について、少し考えたので、今日は、こんな話題になりました。

 人は、自らの意思で生まれてこられないように、自らの意思で命を断つことは、あってはなりません。少なくとも、娘は、彼女が自ら命を断つようなことがあったら、私が死ぬほど苦しい思いをすることを知っていてくれると思っています。


<関連>
「ハーフの娘の祖国 アイデンティティーの帰属」
https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/09/blog-post_28.html

「ハーフだって楽じゃない・・・ハーフの子」
https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/07/blog-post_4.html

2020年2月8日土曜日

宗教の教育




 私が未だに、考えさせられ続けている日本の事件のひとつに、オウム真理教の事件があります。私は、当時、日本の通信社におり、ニュースの一部始終を毎日毎日、どんなに小さなニュースも漏らさずに、全部を毎日毎日、見ていたこともあるかもしれません。

 教祖をはじめとした事件の死刑囚の刑が執行され、平成という時代が終わり、事件は終わったような片付けられ方をしていますが、実際のところ、肝心なところは、解明されていないように思います。
 首謀者である教祖や側近の幹部たちが、多くを語らないまま刑が執行されてしまったからです。

 なぜ、どのように、オウム真理教は、作られていったのか?、なぜ、あんなにも信者が増えたのか? そんなに多くの若者を惹きつけたものは、何だったのか? 私には、どこか、他人事では、済まされないような要素を感じているのです。

 日本は、神道、仏教が多くを締める国だと言われていますが、実際のところ、本当に信仰のある人は、どの程度なのか、甚だ疑問です。結婚式やお葬式などのセレモニーの際のみの、実質、無宗教の人が多いのではないかと思います。

 日本の教育の中で、圧倒的に足りないのは、宗教の教育だと思います。

 娘が通っていたフランスの学校は、カトリック系のキリスト教の学校でしたが、信仰を強制するものではなく、礼拝なども参加は、自由でした。

 しかし、学校では、宗教全般に関する「宗教」の授業がありました。「宗教」の授業では、キリスト教の他、いくつかの宗教について、また、宗教を信仰するということについての授業が行われており、宗教への向き合い方、宗教とはどういうものか?を学びます。

 その先の選択は、自由ですが、ある程度、宗教に対する知識や心構えを学ぶことができます。これは、私は、とても大切な教育であると思っています。

 日本人は、宗教に関して、免疫がなさすぎるのです。オウム真理教のような、新興宗教が爆発的に拡大したのも、そんなところにも理由があると思います。時代は変わっても、現代の若者が、オウム真理教のような危険な新興宗教に入ってしまうような不確かな、危険な側面は、現代の社会にも潜んでいます。

 私自身は、無宗教ですが、信仰があったら、どんなに楽だろうかと思うことはあります。大学で、お世話になっていた教授がキリスト教の神父さまでもあったので、キリスト教の講義も受けましたし、個人的に教授に相談に行ったこともありました。

 「キリスト教理論などは、理解はできるけれど、どうしても信じることができません。」と言う私に、教授は、静かにおっしゃいました。「必要ならば、その時が来ます。焦る必要はありません」と。

 日本では、宗教の話は、どちらかと言うとタブー視されているので、宗教について、語る機会があまりありません。フランスでは、キリスト教をはじめ、イスラム教やユダヤ教など、実際に礼拝や行事に参加している人は多いですから、宗教に触れる機会は日本よりも多いと思います。

 「宗教」を信仰したことがない私ですが、宗教とは、心の拠り所だと思っています。それがあるかないかは、その人の人生にとって、大きいことです。今のところ、私は、神様を信じることはできないのですが、人間ではない、大自然の力とか、何か、大きなものの力に委ねられていると感じることはあります。


 子供の成長過程で、宗教に関する教育を受けることは、生きていく上での、とても大切なことだと思うのです。












2020年1月26日日曜日

フランスの学校の飛び級と落第






 娘が小学生の頃、主人は、度々、娘に飛び級をさせたいと言い出して、その度に私は、反対して主人を止めました。

 飛び級というのは、成績が優秀で、一般的に定められている学年を飛び越して進級することで、フランスでは、学校と相談して、IQテストの結果や日常の学校の成績などを参考にして、希望する生徒は、飛び級をすることができるようになっています。

 現に、娘の友人で、飛び級をしてきた子がクラスに何人かいましたので、彼らは、実際には、娘より一つ年下だったわけです。

 また、希望者には、飛び級をさせてくれると同時に、落第の方も容赦なく、成績が芳しくない場合は、同じ学年を再びやることになります。

 実際に、娘の口から、あの子は、ソテ(sauter la classe 飛び級)してきている子だとか、あの子は、ルドゥーブレ(redoubler la classe 落第)しちゃったとか、わりと良く聞くことがあったので、飛び級や落第は、小学校の時点から、そんなに珍しいことではありませんでした。

 主人は、娘の成績がわりと良かったこともあり、やたらと飛び級をさせたがりましたが、娘が学校の授業が簡単すぎて、退屈すぎるほどに優秀とも思わなかったし、何もそんなに急がなくとも、勉強だけでなく、その年齢にできる、一見、無駄と思えるようなことをするのも必要だと思っていたので、私は、頑なに反対しました。

 「一体、どうして、そんなに、飛び級をさせたいの?」と、主人を問い詰めると、彼からは、信じられない答えが帰ってきました。

 「落第したときのために、飛び級できる時にさせておいたほうが良い。」と。

 はっきり言って、私は、主人が娘に過大な期待をしすぎているのではと心配していたのですが、彼の回答は、私にとっては、あまりにズッコケたものでした。

 落第するのは、その必要があるからするわけで、そこで、一年、余計に時間がかかろうと、構わないと、私は、思うのです。

 その落第したときのために、本来、娘が過ごすはずの学年で体験できるはずのことを一年飛び越えてしまうなど、あまりにナンセンスで、即、却下しました。

 娘の成績の良し悪しに関して、ほとんど、私は、口出しすることはありませんでしたが、一応、年度末には、「進級できる?」とだけ、娘に確認していました。

 娘の方もまた、傍若無人というか、自信過剰なところがあり、「私が進級できなかったら、進級できる人は、誰もいない・・」などと、のたまい、でも、「もし?落第したら、どうする?」と聞く私に、「一度、やったことだから、簡単で楽でいいかな?」と、まさかの余裕の発言。

 飛び級も落第も、親が思うほどには、重大事でもなさそうでした。

 結局、娘は、小・中・高と、飛び級も、落第もすることなく、終わりました。

 長い人生のうちで、一年早く行こうが、遅く行こうが、大差はないと、私は、思っているのですが、落第したときのために、飛び級をさせたいと言った、主人のセコさが、私としては、気になったのです。

 















2019年12月12日木曜日

フランス人の子供のしつけ





 日本に帰国した際に、ちょうど、その時にアメリカから帰国していた従兄弟家族と娘を連れて、水族館に行ったことがありました。

 その時に、驚いたのは、子供が水族館の中で、騒々しくはしゃぎ回ることでした。そして、一緒についている親たちは、館内で騒ぐ子供たちを野放しにしているのです。

 夏休み中の水族館ですから、子供連れで賑わっているのはわかりますが、その騒々しさが、なんだか、フランスの水族館とは、違うなと思ったのです。

 普段、フランスでの暮らしは、サービスも悪く、感じも悪く、不便なことも多く、ダメダメな国だと思っていましたが、こと、子供のしつけに関しては、悪くはないのかな?と思ったのです。

 フランスでは、子供が公の場で騒ぐという場面は、見たことがありません。
 子供とはいえ、私は、それは、公の場での最低限のマナーだと思うのです。

 それが、家庭の教育であるのか、学校の教育なのかは、わかりませんが、少なくとも、家族連れで出かけている場所でのことですから、家庭の教育の一面なのだと思います。

 フランスでは、レストランなどでも、そのお店のランクにもよりますが、子供連れで行くことが躊躇われるようなお店もありますし、そういうレストランには、夫婦だけで出かけます。

 子連れで出かけられるレストランなどでも、子供が騒げば、レストランの人、あるいは、周りのお客さんから、注意されるでしょうし、それ以前に、親が許しません。

 我が家でも、娘には、めっぽう厳しく、怖いパパが控えているので、娘の方も心得たもので、たまには、親子ゲンカをすることがあっても、駄々をこねたり、公の場で、騒いだりすることはありませんでした。

 私も普段から、あまり、娘に対して、うるさいことは言いませんでしたが、ダメなものはダメ、ということに関しては、決して譲りませんでしたので、こちらが、拍子抜けするほど、あっさりと、娘も、すぐに気持ちを切り替える習慣がついていました。

 例えば、買い物に行って、欲しいものがあって、「これ買って〜!」と娘が言ってきても、私が、ダメ!と言えば、すぐに、「じゃあ、今度、日本に行った時に、買おうか!」
などと返されて、こちらも苦笑してしまいました。

 ある時期、NINTENDO のゲームが大流行した際も、主人も私も、そういったゲームで遊ぶことよりも、他のことをして欲しかったので、娘にどんなにせがまれても、買うことは、ありませんでした。

 すると、娘は、せっせと日本にいる、私の父に、さっさと自分でメールをして、ゲームを買ってもらう約束をとりつけ、(当時は、予約しないと買えないほどでしたので)私たちが帰国するタイミングにしっかりと予約して、日本に着くなり、二人でゲームを買いに出かけたりしていました。

 まあ、たまに会う孫と私に内緒で楽しそうにコトを進める父に免じて、私もその時は、目をつむりましたが、親がきっぱりとダメだと言うことは、ダメなんだと言うことは、娘には、通じていたのだと思います。

 それぞれの家庭で、何を大事にするのかは、その家庭次第のことです。

 ただ、なんでも、かんでもうるさく注意していると、子供には、響かないのです。

 大人が子供に、ダメなことは、ダメときっちり言い効かせることは、どこの国にいても、大切なことなのだと思うのです。

























 

 












 

2019年12月7日土曜日

母の英語教育




 私の母は、英語が好きで、小さい頃から、私に、英語を教えてくれていました。

 小さい頃のことでしたから、私には、特別に、英語を覚えるとか、学ぶとか、そういった感覚は、まるでありませんでした。

 生活の基本は、日本語でしたが、子供の頃から、母は、私に、遊ぶように英語に触れさせてくれて、自然になんとなく、耳に入ってくる英語に、少なくとも抵抗のようなものは、微塵もありませんでした。

 一番最初は、何だったのかは、覚えていませんが、英語の単語カードで、かるたのように遊んだり、絵本を見ながら、お話のテープを聞いたり、歌を歌ったり、ゲームをしたりしているうちに、アルファベットもいつの間にか覚えていました。

 夜、寝る時には、必ず、英語のお話のカセットテープを聞きながら、寝るのが習慣になっていました。頭が柔軟な子供の時期には、英語版の「ぐるんぱの幼稚園」や「だるまちゃんとカミナリちゃん」などのお話を英語で諳んじることが、無理なくできていたのです。

 やがて、小学校に入った頃に、母は、私一人だけでなく、近所の子供を集めて、家で英語を教えるようになりました。その頃には、英語の読み書きをすることが嬉しくて、楽しくて、初めて買ってもらった、英語のノートの表紙を今でも覚えているくらいです。

 そして、後から、英文法なども、教わりましたが、母は、おかしな英語の場合は、きっと、文章を読んだり、聞いたりしたときには、違和感を感じるはずだから、その感覚に頼りなさいと言いました。

 それでも、私は、英語がネイティブのようにできるわけではありませんが、英語に関しては、少なくとも、苦労して覚えたという記憶がありません。

 かねてから、母は、「私は、英語の音が好きなの。」と言っていて、私は、その時は、あまり、意味がわかりませんでしたが、今は、私にとっても、いつの間にか、英語が耳ざわりの良い言語になっていることに気付かされるのです。

 そして、私に、娘ができた時には、状況は、少し違っていて、生活の基本は、フランス語の環境にいたために、今度は、私は、まず、母が私に英語を教えてくれたように、娘に日本語を教えることになりました。

 それでも、私が娘に日本語を教えるにあたっては、母が私に英語を教えてくれた時のように、日本語のカードを作ったり、絵本を読んだり、カセットテープではなく、ビデオやDVDになっていましたが、日本の幼児番組やアニメを見せて、育てました。

 母は、私に英語を教えることで、私に、自分の子供に外国語を教えるということも教えてくれていたのだと思います。いいえ、英語ばかりではなく、母が私にしてくれた教育を私は親として当然すべきことと思い、娘にも同じことをするのが当然のことと思っていました。

 しかし、私が当然のことと思い込んでいた母が私にしてくれていた教育は、いざ娘に私が同じことをしようとしていると、それは決して、当然ではなく大変なことだったことが身に染みました。英語だけでなく、最初にピアノを教えてくれたのも母でした。ピアノに関しては、娘があまりに嫌がるため、私は、早々に断念してしまいましたが、子供の頃に母が私に英語を教えてくれた英語の単語のカードを使って、娘に英語も教えました。

 そのカードは、今も大切に持っているので、今度は、娘に子供ができた時に、そのカードで娘が自分の子供に英語を教えてくれたら嬉しいなと思っています。


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2019年11月20日水曜日

フランスにもいる困ったママ友




 私は、日本で子育てをしたことがないので、日本のママたちの公園デビューとか、ママ友同士のお付き合いというものを知りませんが、ママ同士のお付き合いが子供同士の関係にも影響するとかいう話を聞いたりすると、なかなか大変そうで、そんな時は、パリで良かった・・と密かに思います。

 日本にいる私の従姉妹などは、息子が大学生だというのに、野球部のお手伝いに行っていたなどというので、ひっくり返ってびっくりしました。

 だいたい、パリの場合は、ほとんどのママが働いていますので、夏休みなどバカンス期間中は、別として、通常の保育園、幼稚園、小学校の拘束時間も長く、平日に子供を公園で遊ばせるということも、あまり、ありませんし、週末は、平日にできない買い物や家事に忙しく、あとは、家族で過ごすことが多いので、あまり、ママ友同士のお付き合いというものをしてきませんでした。

 それでも、娘は、小・中・高校と同じ学校に通っていたので、小さい時からの顔見知りのママたちは、少数ですが、いますし、小さい頃は、それこそ、しょっちゅう、誰かのお誕生日会があったり、子供がお友達の家に遊びに行ったりといったことがあったので、顔を合わせれば、立ち話などをしたり、また、窮地に陥った時には、(フランスの小学校は、水曜日がお休みで、急に、どうしても、休めなくなってしまった時など)自分の家の子供と一緒に子供を預かってくれたママもいました。

 ですから、お互いが、そんなに深入りはせずに、適度な距離を保っていて、必要な時だけ、適度に助け合う感じが、私には、ちょうど良かったのです。

 それでも、中には、なかなか、困ったママもいました。

 家も近所で、娘とは、どういうわけか、幼稚園から、ず〜っと一緒のクラスで、バレエのレッスンまで一緒でした。あちらも一人娘さんで、ご両親は、教育熱心な方でした。

 当然、お誕生日会などに呼ばれても、一緒にお呼ばれすることも多く、年齢とともに、お家でパーティーをするだけでなく、主催者のファミリーが、子供たちを連れて、アスレチックに招待したり、映画を見に連れて行ったりと行動範囲も広くなっていきました。

 その日も、誰かのお誕生日会で、集合場所には、移動のための2台の車が子供たちをピックアップしにきていたのです。

 彼女は、遅れてやってきて、「自分の子供が乗る場所がない!」と、ヒステリックに怒り出して、周囲を凍りつかせたのです。

 他の親が気を使って、「じゃあ、うちの子どもたちは、別に連れて行くから・・」と、その場は収まりましたが、自分の子供のことだけに目の色を変えて、怒る彼女に、みんな、ちょっとビックリしたようでした。

 自分の子供可愛さのあまりに、自分の子供のことしか見えなくなるタイプです。

 私が、どうにも都合がつかなくて、別のママに子供を預かってもらった時も、どうして、うちの子は、入れてくれないの?と割り込んできて、文句を言われたこともありました。

 また、人のうちの子供の成績などがやたらと気になるようで、私も知らないのに、「オタクのお嬢さんは、今回も、○位で良かったわね〜」などと、外で顔を合わせると、度々、言われたりして、ギョッとしたりもしました。

 それでも、それぞれ、高校を卒業し、別々の学校へ進学して、しばらくして、久しぶりにバス停で、ばったり彼女に会いました。

 なんだか、もう、色々なことが吹っ切れて、なんだか、ひと時代をともに過ごした戦友に久しぶりに会ったような、ホンワリとした懐かしさを感じました。

 たしかに、ひと時代が過ぎたのです。






 

2019年10月20日日曜日

お金は、人を幸せにできるのか? ナタリーの話

 


 私の勤めていた会社のフランス人の社長は、とても、女癖の悪いことで有名な人で、結婚は、しているものの、常に複数の女性がいて、家庭は、崩壊状態のようでした。

 彼には、私とほぼ、同じくらいの年齢のナタリーという娘がいました。

 ナタリーのお母さんは、そんな旦那との日常の生活のストレスからか、アル中で、身体を壊して、亡くなってしまい、ナタリーは、軽い障害を抱えていることもあり、仕事には、付いていませんでした。

 しかし、金銭的には、何の不自由もなく、パリにアパートを持ち、一人で暮らしていましたが、彼女には、友人らしい友人もなく、孤独で、自殺未遂騒ぎを起こしたこともありました。

 そんな、彼女の孤独を紛らわせていたのは、買い物でした。

 羽振り良く買い物をすれば、店員は、機嫌をとって、その時だけは、優しくしてくれるからです。彼女の部屋には、買い物をして、持て余して、部屋に収まり切らなくなり、封さえ切られていない、山のような洋服や、バッグや小物類などが、あったのです。

 近づいてくる男の人も、明らかにお金が目当てで、たまに、ナタリーは、ここが私のお父さんの会社だと、妙な男性を会社に連れてくることもありました。

 それでも、男性とは、長続きするわけはなく、結局は、一人になってしまうのでした。

 そうなると、相手にしてくれるのは、父親の会社の人くらいで、彼女が会社に来れば、ある程度、皆、挨拶くらいはするし、会社に電話をしてきたりもするので、たまたま、電話を取ってしまえば、私も時々は、世間話の相手になったりもしていました。

 もう、とっくに成人している彼女ですから、父親が彼女に積極的に関わらないのも、わからないではありませんが、お金だけ無尽蔵に与えて、彼女に向き合おうとしない親子というのも、理解できません。

 現在は、もう社長も引退し、アメリカで別の女性と暮らしているそうで、パリにも滅多に現れることはありません。ナタリーが自殺未遂を起こしてからは、彼女の相手をしてくれる彼女より少し年下の女性を父親が雇い、それからは、少し彼女も落ち着いたようです。

 しかし、彼女は、このまま、一生をそんな風に送って行くのでしょうか?

 彼女にお金をかけるなら、彼女自身にお金を与えたり、その場しのぎの、退屈を紛らわす世話係のような人を雇うのではなく、まずは、彼女の精神的なケアーをしてくれる病院や専門家を探すことだったろうに・・と思うのです。

 社長は、先見の明も商才もあり、経営者としては、莫大な財産を築きましたが、幸せな家庭は、築くことができませんでした。彼は、お金に頼り、人任せにして、自分で家族と向き合わないことで、家族を傷つけ続けてきたのです。

 いくら、お金があっても、そのお金を上手に使えなければ、幸せにはなれません。
むしろ、お金がありすぎるから、不幸になることもあるのです。

 お金があるからこそ、不幸になることもあるのだというような話を聞くたびに、私は、ナタリーのことを思い出すのです。

 

 

 

  











2019年10月10日木曜日

交換留学生のドイツ人の女の子 




 娘が中学生の時だったでしょうか? 

 彼女は、第二外国語にドイツ語を選択していたため、希望者には、1週間の短期ではありましたが、学校からの交換留学の制度がありました。

 私も、これは、娘にとっても、良い経験になると思い、迷わず希望を出しました。

 期間は、ずれてはいましたが、娘も一週間、ドイツの家庭にホームステイさせていただく代わりに、ヴァネッサというドイツ人の女の子が家にやってきました。

 それぞれの子供の配置は、学校側が一応、それなりに、ドイツの提携している学校からの書類を見て、考慮してくれていたようです。
 そのドイツ人の女の子が日本のマンガやアニメ好きということで、おそらく、学校側は、彼女を我が家に送ってくれたのだと思われます。

 しかし、実のところ、うちの娘は、ほとんど、日本のマンガにもアニメにも、ほとんど興味がなく、私もほとんど知識がありません。
 うちの娘は、どちらかというと、身体を動かすことが好きで、どちらかというと、オタク気質だった彼女とは、あまり、気が合わないという悲劇が起こってしまったのです。

 最初は、初対面のために、緊張して、あまり、話さないのかと思いきや、時間が
経っても、自分からは、決して話そうとはしない、かなり、内気な女の子で、夕方、家に着いた途端に、食欲がないから、食事も食べないと言い出す始末。

 学校でフランス語を選択しているとは言え、ほとんど、フランス語も通じません。
娘のドイツ語も満足に会話できるレベルではありませんでした。だいたい、フランスにわざわざ、来ているのに、ドイツ語で話しても意味がありません。

 それでも、ゆっくりゆっくり、フランス語を話して、時には、英語を交えながら、なんとか、とりあえず、長旅の後に、何も食べずに寝るというのは、良くないから、少しでも、食べたら・・と言って、どうにか、一緒に夕食を取ることにこぎつけたのです。

 昼間の時間帯は、娘と一緒に、娘の通っている学校へ一緒に行って、学校で授業を受けていましたので、夜の時間帯と週末だけでしたが、なかなか打ち解けられずに、苦労しました。
 
 次の日の夜は、食事が終わると、あまり、大人が介入しない方が話しやすいのかも・・と思い、二人で過ごしなさいと、娘の部屋に二人で入っていったのですが、しばらくして、様子を見にいくと、二人とも、離れたところに座って、それぞれに別の本を読んで、全く、口も聞かないで、黙っているのです。

 これではいけないと、二人を部屋から連れ出して、では、みんなでゲームをしようとゲームをしたりして、なんとか、二人を交流させようと努めたのです。

 中学生くらいだと、ある程度、分別はつき始めているものの、そんなところは、まだまだ子供なのです。せっかくの機会にお互いにフランス語、ドイツ語を上達させようという気があまりないのには、全くもって、困惑してしまいました。

 週末には、どこか、パリで行きたいところがあったら、連れていってあげるから・・と言っても、以前にパリには、家族と来たことがあって、大抵のところは行ったことがあるから、強いて言えば、パリにあるマンガを売っているお店に行きたい、マンガに出てくるラーメン屋さんというものに行ってみたいと言うので、マンガを売っているお店に行き、ラーメン屋さんに連れて行き、その後に、少し、パリの街を歩きました。

 一週間という期間は、内気な彼女にとっては、打ち解けるには、あまりに短く、私が期待していたようには、うまくいきませんでした。

 それから、しばらくして、今度は、うちの娘の方がドイツの彼女の家に滞在させて頂いたのですが、出発前には、ヴァネッサのように、黙ってばかりいては、意味がないから、出来るだけ、家族の人ともニッコリお話しするようにしなさいよ!と娘には言い含めて出かけていったのですが、さて、実際には、どうだったのかは、本当のところはわかりません。

 ただ、彼女には、兄弟がいて、弟さんは、比較的、活発な子で、その子とは、仲良く遊べた、と言っていたので、少しはましだったのかもしれません。

 しかし、留学やホームステイなどというものは、親がいくらその気になっても、本人がある程度のモチベーションがないとダメなんだとつくづく実感しました。

 










2019年9月27日金曜日

子供の可能性を遮る親になってはいけない




 私には、一緒に、イタリアを旅行した友人で、イタリアが大好きで、イタリア語も独学で勉強してマスターし、イタリアの文化や歴史も熟知してる人がいます。

 でも、彼女は、イタリアに留学経験や長期滞在の経験があるわけでもないのです。

 彼女は、日本で仕事をしながらも、あまりに頻繁にイタリアへ旅行するので、彼女ほどのイタリアへの愛情と、イタリア語のレベルをもってしたら、イタリアでの生活もありえるのではないか?と思い、それをしない理由を尋ねたことがありました。

 すると、彼女は、自分自身を吹っ切るように答えたのです。
” うちの母親は、私がいないとダメになってしまうから・・” と。

 一度、彼女がせっせと貯金をして、イタリア留学を試みた時のこと、彼女の母親が半狂乱になって、彼女を止めたのだそう。彼女曰く、その時の母親の反応から、母親の人格崩壊への恐怖と懸念を抱いたのだそうです。

 それ以来、彼女は、留学や移住の長期の海外滞在は、母親のために、諦めて、代わりに短期の旅行は、思う存分することにしたのだとか・・。

 ですから、彼女は、自分の境遇の中での彼女の道を選んで、彼女なりの人生を歩んでいるのです。それもまた、彼女の生き方ですし、何が正解なのかは、わかりません。

 私自身も、なんだか、他人事ながら、モヤモヤとしたのを覚えています。

 というのも、そんな話を聞くのは、彼女が初めてではなかったからです。
 そういう親というのは、結構、いるものなのです。

 私が最初に留学したいと母親に話した時、私の母は、自分自身も、若い頃に、留学願望があったため、” どうぞ、いってらっしゃい!” と、寛容に私のやりたいことを受けとめてくれました。今となっては、そんな母には、感謝ばかりです。

 留学に関わらず、子供の可能性を狭めて、遮ってしまう親というのは、結構いるものです。大切に育てた我が子、自分のそばにいて欲しい気持ちは、痛いほどわかります。

 それでも、私は、イタリアに行くことを断念した彼女と彼女の母親の話を聞いて、思ったのです。” これは、いけない!!・・” と。

 経済的な問題等のある場合は別として、若いうちにしか出来ない経験を親が遮ってはいけない、すべきではないと、親となった今、私は、誰よりも自分自身を戒めているのです。

 逆に、私の従姉妹の家庭では、母親の方が、子供たちに留学してみたらと勧めているにも関わらず、頑として、日本を離れたくないと言うのだそうです。まあ、これは、これで、その子たちの選択なので、もったいないなぁ・・と思いつつも、私が口を挟むことでもありません。

 可愛い子には、旅をさせよ!と言いますが、今は、旅をしたがらない子供も少なくないようなのです。



 

 



 











2019年9月20日金曜日

ケタ外れに負けず嫌いな娘の話 親が心配すること




 娘が、10歳くらいのことだったでしょうか?

 いつもの通り、学校へ娘を迎えに行き、帰り道を、二人で、歩いていると、何やら、うつむきがちに歩いている娘の様子がおかしくて、顔を覗き込んでみると、ポロポロと泣いているではありませんか!

 娘は、比較的、情緒が安定している子で、娘が泣くことは、それまで、ほとんど、ありませんでした。なので、学校の帰り道に一人でうつむきながら、ポロポロと泣き出してしまったのには、とてもびっくりしました。

 これは、いじめにあっているのではないか? 先生にキツく叱られたのではないか? 私の方もハラハラしながら、娘に尋ねました。” どうしたの? " と。
すると、娘は、” 思っていた成績が取れなかった・・。” と答えたのです。

 それで、泣くのかい!と思いながら、その答えを聞いて、内心、私は、ホッとしていました。

 正直、私は、テストの点数よりも、学校でイジメにあったり、先生や、周りのお友達とうまくいかなくなってしまうことの方が、断然、心配なことだったからです。

 私は、娘の成績について、とやかく言ったことは、一度もありませんし、それでも、彼女は、いつでも、成績には、問題なかったので、何も言うことはありませんでした。

 私自身は、その子、その子に合った道があるのだから、成績は良いには越したことはないけれど、成績自体が何よりも重要だとは、思っていません。

 しかし、彼女は、点数が振るわないことを親や先生に叱られるからと言って、泣いているのではなく、自分が思っている点数を取れなかったこと、自分が思う実力を発揮できなかった自分が許せなくて泣いているのです。まだ、10歳なのに・・。

 何しろ、その負けず嫌いは、小さい頃から、今の今まで続いています。
これは、その子の個性としか言いようがありません。

 むしろ、彼女は、競争のある世界でなければ、面白くなくて、やる気が起きないと言うのです。

 彼女が高校まで、通っていた私立の学校は、これがフランス?と思うくらい、かなり、教育熱心な学校で、また、こまごまとテストのたびに点数や順位をネット配信で通知するような学校で、皆、休み時間には、自分の成績が 0.1上がったとか下がったとかを一喜一憂するような感じだったので、その学校の方針に見事に煽られた結果、娘の負けず嫌いは、ますます加速したとも言うことができるかもしれません。

 しかし、同じ学校に行きながらも、できないことをさほど気にせず、ほどほど(とは言っても、一般的にはかなり上のレベルではありますが)のところで満足している子もたくさんいます。

 彼女の負けず嫌いは、決して勉強だけではないのです。
スポーツにしても、日常生活の些細なことでも、できないと言うことが悔しくてたまらないのです。

 できないことは、できるまでやる。このしつこさ、まあ、よく言えば、粘り強さは、相当なものです。これは、彼女の個性です。

 高校卒業時のバカロレアの試験の際には、もうすでに、次の進学先は、決まっていましたので、” まあ、落とさなければ、良いから、気楽に行ってらっしゃい!" とプレッシャーを与えないように声をかけたのですが、娘は、大真面目に、” 私が落とすくらいなら、バカロレアをパスする人はいないから! どのランクで受かるかが問題なのであって、受かるかどうかは、心配してない!” と軽く交わされてしまいました。

 今となっては、彼女の、この自信過剰と過信が何よりも心配です。

 社会に出れば、本人だけの努力では、どうにもならないこともたくさんあります。
何もかもできる人など、いないのです。

 人は、己の力を過信して、慢心した時、ろくなことにはならないことを、これからの彼女がどうやって学んでいけるのか、今は、そんなことを心配しています。

 




2019年9月13日金曜日

子育ての不安




 初めてのお産、子育てとなれば、誰でも不安なことがいっぱいあるのは、当然です。
 私も少なからず、不安はありました。

 ましてや、私の場合、お産は、アフリカでしたし、実家も遠いし、病院も、日本のように、母親学級や、詳しいお産の説明もなく、一応、万が一に備えて、一応、遺言めいたことまで書いたりしました。

 しかしながら、私は、妊娠中は、ひたすら眠くて、寝てばかりいましたので、あまり、深刻に考え込むということもなく、ひたすら、お腹の子供に話しかけていました。

 そして、実際に産まれてみれば、赤ちゃんというものを触るのも初めてだった私は、おっかなびっくりで、うっかり落としたら大変!などと思いつつも、アフリカで天気も良いし、洗濯してくれるボーイさんもいるのだから布のオムツにしよう!などと、思いついてしまって、特に、最初の一ヶ月は、そのオムツとミルクのルーティーンに慣れるだけでも必死でした。

 しかし、慣れてくると、うるさく言う外野もいないので、かえって、自分のペースで、周りの赤ちゃんやお母さんとも比べることもなく、まあ、こんなもんかな〜?と構えていました。

 そして、何よりの私の強い味方は、偶然、知り合いになった助産師さんをしていた日本人の女性の存在でした。

 彼女が必要なことだけを的確に教えてくれたおかげで、私は、余計な心配はせずにいられたのです。大らかな彼女がゆったりと構えていてくれたおかげで、当事者である私もなんだか、ゆったりしていられたのだと思います。

 まあ、育てる環境や子供の個性にもよるので、人それぞれではあるとは思うのですが、あまりに、情報が多すぎると、少しでも、その情報と違ったりすると不安になるものです。

 子供があまりミルクを飲まないとか、寝ないとか、体重が何キロ増えたとか減ったとか、極端な場合は、別として、お腹がすけば、ミルクも飲むし、疲れれば、眠くなって寝るのです。

 もう少し、大きくなってからも、娘は、なぜか、なかなか髪の毛が伸びず、歯も2歳になるまで一本も生えてきませんでした。

 それでも私は、髪の毛は、伸びなければ切らずに済むし、歯に関しては、生えてくるまでは、虫歯にもならないし、歯はなくとも娘は、ワシワシと何でも食べていたので、まあ、いつか生えてくるだろうと全く心配しませんでした。

 案の定、娘の歯は、2歳になると同時に一気にドバッと生えてきました。

 また、娘は、寝るのが何よりも嫌いで、お昼寝もしたことがありませんでした。何とか疲れて寝てもらうために、日中にエネルギーを発散させるのに苦労しました。結果、それが、ますます彼女を鍛える結果となり、生半可なことでは、疲れて寝ないようになってしまいました。

 育児と仕事に疲れ気味で私の方がお昼寝をしたくても、”娘に寝ないで〜!寝ちゃダメ〜!” などと揺り起こされるのは、拷問のようだと思ったこともありました。

 しかし、のちになってみると、それが、体力、気力、学力にも繋がり、良い結果となりました。フランスのバカロレアの試験などは、一科目4時間のテストです。体力のない子は、集中力も長時間、続きません。

 それより、私が何よりも心配だったのは、子供が情緒不安定になって、バットを振り回して暴れたり、人を傷つけるようなことをする子供になったら、どうしよう? ということでした。

 私の親戚に、保育の専門家がいて、そのことだけは、聞いたことがありました。

 それは、ハッキリとは、原因も対策も言えないけれど、子供のうちは、とにかく身体を動かして、エネルギーを発散させること!とのことでした。

 ですから、私は、心して、娘をスポーツに駆り立て、主人が休みの時には、グラウンドに連れて行って走らせ、私が休みの時には、プールに連れて行って、水の力までも借りて、娘のエネルギーの発散に努めていました。

 さらに大きくなってから、私が気をつけたことは、娘を人と比べないということでした。人と比べて良いとか、悪いとか言われても、子供は、何が良いのかわからなくなってしまいます。

 親が、いちいち他の子供と比べて一喜一憂していては、子供もたまったものではありません。

 子育てには、その段階ごとに、それなりに不安はあるものです。
 しかし、心配しすぎは禁物です。

 だいじょうぶ、だいじょうぶ。

 親が子供を愛していること、一番大切な存在だということが伝われば、子供は、しっかり育ちますから。










 

 

 











 

2019年9月5日木曜日

宅配便をしてくれていた大学教授の叔父






 うちの家族は、両親ともに兄弟が多く、それぞれに、なかなか結束も硬く、仲が良く、皆、都内のそれほど遠くない距離に住んでいることもあって、親戚の集まりも多く、子供の頃には、けっこう、それが煩わしくもありました。

 父の兄弟は、ほぼ、全滅してしまいましたが、その下の世代の従姉妹たちとも、相変わらず仲良くお付き合いが続いています。

 母の兄弟姉妹の方は、母以外は、まだ、全員、なんとか健康で暮らしており、叔父、叔母とも、変わらずにお付き合いを続けて頂いています。

 特に、母方の親戚は、私の祖父母が存命の頃から、祖父母の兄弟に亘ってまでの、付き合いがあり、子供の頃は、もう誰が誰だかわからず、引っ込み思案だった私は、とても、そんな集まりが苦痛でした。

 それでも、祖父母を中心とした家族の繋がりは、今から思い返せば、ありがたいものだったと思っています。

 誰かの誕生日、父の日、母の日、こどもの日、敬老の日、お正月などなど、事あるごとに、祖父母の家の庭でみんなでバーベキューをしたり、どこかのレストランを予約して、みんなで食事をしたりと、頻繁に顔を合わせていたおかげで、祖母が亡くなる時には、皆で交代で約半年、看病しあい、こうして今でも、お付き合いが続いているのです。

 特に、母の一番下の妹の叔母は、母よりも私の方が年が近く、私にとっては、どこか、姉のような存在ですらありました。

 娘が生まれた時も自分の孫のように可愛がってくれ、娘の洋服などは、ほとんど彼女が用意してくれていましたし、母の病状が思わしくない時、母の様子を逐一、知らせてくれたのも、私の帰国のタイミングを測ってくれたりしたのも彼女でした。

 そんな彼女の夫は、ある私大の理系の教授で、フランスの大学の教授と交流があり、研究室の生徒を連れて、学生に論文発表の機会を設けるために毎年、フランスに来ていました。

 そんな、叔父は、私たちにとっては、サンタクロースのような存在で、叔母が山のように用意してくれる日本の食料品を、その度に私たちの元に運んできてくれました。

 偉い大学教授の叔父も、私たちにとっては、宅配便のような存在でしたが、こちらで、娘がどうやら理系の道を選ぶとなってから、こちらの大学の事情にも詳しい叔父には、色々と相談に乗ってもらうようになりました。

 叔父がパリに荷物の宅配にパリに来てくれた時は、彼の滞在している、私たちが普段は、立ち寄ることのないような立派なホテルに荷物を受け取りに行き、一緒にお食事をし、パリの街を歩きました。

 娘の将来を見据える進路の選択に差し掛かった折、叔父は、こう言いました。

 「進路の選択は、将来、どんな形で、自分が社会に貢献できるかということを考えたらいいんだよ。」と。

 宅配便だった、叔父の教育者としての立派な一面を思い知らされた、彼の賢明なアドバイスでした。

 

 



























 

2019年9月1日日曜日

ピンクのお年頃


ピンクが何より好きだった頃の娘


 3〜4才くらいの女の子にありがちの、とにかく可愛くしたい願望。

 髪の毛を結んで欲しいとか、こんな洋服が欲しいとか、こんな組み合わせにしたいとか、とにかく世界で一番、かわいくしたいと思っている、ちょっぴりナルシストが入った微笑ましくも厄介なお年頃です。

 そんな中でも、彼女は、色へのこだわりが強く、色の組み合わせにもうるさく、とにかく、基本、ピンク色のものがお好みで、また、あま〜い、日本にいるマミー(おばあちゃん=私の母)などが、娘がピンクが好きだということを知ると、ピンク色のものをせっせと送ってくれたりしていたので、娘のピンク狂に拍車がかかることになりました。

 なにかというと、” ローズ "。(ピンク色のことをフランス語では、”ローズ”と言います。)その頃の彼女から、自信満々の ”ローズ!" という言葉をどれだけ聞いたことでしょう。その頃の彼女の持ち物は、何から何までローズで、彼女の部屋はピンク色のもので溢れていました。

 また、洋服の組み合わせにも強いこだわりがあって、毎日の洋服は、自分で選び、自分で着たい年頃でした。

 それは、スカート、Tシャツ、セーターから、靴下、タイツ、靴からパンツに至るまで、何やら自分で好きなようにコーディネートをしたがっていたので、私も彼女のやりたいようにさせていました。

 とはいえ、まだまだかわいいもので、洋服の着方などは、親に言われたとおりに素直に従っていました。

 例えば、どんどん成長して、洋服も、あっという間に小さくなってしまうため、私は、セーターなどの比較的、融通のきく服は、いつも大きめのものを買って、腕まくりをさせて着させていました。

 なので、たまにちょうどいい袖丈の服を頂いたりすると、” ママ!これ、折るとこないよ!” などと、言い出すので、苦笑してしまうこともありました。

 それは、日本に一時帰国した際に、親戚の家に出かけた時のことでした。
日本に持ってきている限られた服の中から、彼女は、自分で服を選んで、自分で着替えて家を出たのです。

 家の中で、おてんばを始めた娘に、睨みを効かせた時、私は、目を疑ったのです。

 おてんばをして、チラッとスカートがめくれたのです。
 
 なんと、彼女は、スカートとパンツの色が合わないからとパンツを履いてきていなかったのです。慌てて、叔母が買い置きしてあったパンツを借りて、履かせて、” いくら色が合わないからといっても、パンツは履いてでるもの!” と言い聞かせたのでした。

 ピンクを世界一かわいい色だと信じて、世界一可愛くしたいと思っていた彼女は、色のあうパンツがないからといって、パンツを履かずに出かけてしまうという奇行に走ってしまったのです。

 大きくなった今はもう、彼女のワードローブは、地味な色の服が大半をしめ、逆に、私がたまには、いいんじゃない?と頼んでも、彼女はピンクの服などは、着てはくれなくなりました。

 ピンクへの憧れは、多くの女の子が通る、あの年頃の麻疹(はしか)のようなものだったのかもしれません。










2019年8月23日金曜日

子育てをして、改めてわかる親の有り難み




 私が幼い頃は、とても厳しい母でしたが、成長するに連れて、母は、” こうしなさい!” とか、” こうするべき!” とか、そういったことは、言わなくなりました。

 ただ、母は、” やっぱり、子育ては、できたら、した方がいい " とだけは、常々、言っていました。

 そして、そんな、母の言葉がどこかに染み付いていたのか、私の中にも漠然と、子育てをしてみたい・・という気持ちが、どこかに、いつも潜んでいたように思います。

 そんな私は、主人と出会い、子供を授かり、なぜか、思ってもみなかった海外で子育てをすることになりました。

 周りに、子育てを助けてくれる人もなく、その代わりにうるさく言われることもなく、自分の感じるように、思うように、子供を育ててきました。

 でも、振り返って考えると、私が娘にしてきたことは、国や環境が違っても、基本的には、母が私にしてくれてきたことをなぞってきたことに気付かされます。

 毎回、栄養のバランスを考えた食事から、あいさつ、人への思いやり、日本語の読み書き、英語、ピアノ、学校選び・・などなど、母が私に教えてくれていたことは、数え切れないほどです。

 そして、そんな母が私にしてくれてきたことを私が自分の子供にするのは、当然のことのような、思い込みが、知らず知らずのうちに、私の中に埋め込まれていたのです。

 私が子供に対して、当然するべきことと思っていた一つ一つのことは、母が私にしてくれていたことで、その子の個性もありますから、全く同じではないにしろ、いざ、自分がやってみると、そのひとつひとつがどんなに大変なことだったのかが、事あるごとに、改めて、しみじみと感じさせられます。

 実際に子育てをしてみて、改めて、親のありがたみを感じている方も少なくないと思います。

 親にしてもらってきたことは、感謝しつつも、どこか、当然のこと、あたりまえのことと思ってしまいがちです。

 しかし、子育てに関することだけではありませんが、あたりまえだと思っていることは、実は、あたりまえではないのです。

 あたりまえのことなど、本当は、一つもないのです。

 何でも、”そんなのあたりまえだ!" と思ってしまっては、感謝の気持ちも生まれません。感謝の気持ちを感じられなければ、本当の喜びも感じられないのです。

 先日、母が書いてくれていた育児日記を見つけました。

 私が生まれてからの様子が細かく記されていました。今、改めて読み直してみると、それは、私自身の成長の記録だけでなく、小さなことにも一喜一憂しながらも、愛情深く育ててくれた母自身の記録としても読み取れます。

 私は、愛されていたということをその日記によって、改めて確認することができていることに、とても感謝しています。

 そして、母の教育の中で、一番感謝していることは、子供を持ちたい、育てたいという気持ちを知らず知らずのうちに私の中のどこかに植え付けてくれたことです。

 私は、特別なことは、何もしてこなかったけれど、子供を産んで、育ててきたということで、自分が生まれてきてよかったと思えるからです。

 いつか、娘が子供をもって、彼女自身の育児日記をつけてくれる日がくることを私は、楽しみにしています。

 

 
























 

2019年8月5日月曜日

長い独身生活の後の子育て・・ あなたは、少し、やり過ぎでした。




 私は、独身生活がけっこう長かったので、好き勝手に、ずいぶんと色々なことをしてきました。留学、海外旅行、本ばかり読んでいた時期もありましたし、友達との飲み歩き、おしゃれも楽しみ、テニス、ダイビング、モーターグライダー、ワインやカクテルの勉強などなど・・十分に独身生活を満喫していました。

 父には、” おまえは、空を飛んだり、海に潜ったり、今度は宇宙にでも行くのか?” と、呆れられていたくらいです。

 しかし、私は、独身生活を享受する中で、次第に、そこそこのことでは、満足しないようになり、無意識のうちに、自分のためだけに生きていることに、どこか虚しさを感じ始めていたのです。

 そして、運良く、そんな頃に、私は、主人と知り合い、家庭を持つことができました。まもなく、娘も産まれて、私は、自分以外の人間のために生きることになりました。

 それは、自分よりも大切な存在ができるということで、そのことが、まさに、自分にとっての画期的な変化を起こしていることに感動を覚えました。

 ですから、家庭を持って、子供を持った時、とりあえずは、もう思い残すことはなく、
子供のために自分の時間を持てないとか、自分のやりたいことができないとか、そういった不満を感じたことは一度もありませんでした。

 むしろ、子育ては、新鮮で、新しい喜びを私に与えてくれて、仕事以外の時間は、出来るだけ、娘と過ごせるようにと思っていました。

 娘を出産したのは、アフリカでのことだっったので、それなりに大変なこともありましたし、その後、パリに来てからは、仕事をしながらの子育てだったので、それもまた、それなりに大変でしたが、私は、とても幸せを感じていました。

 娘には、私は、あなたが産まれてきてくれたことで、私自身も産まれてきてよかったと思っているということ。そして、私にとって、あなたは、何よりも大切な存在だということをできるだけ、伝えるように心がけていました。

 それは、私が心の底から思っていることでもありますが、そう娘に伝えるのは、私が、子育てで一番大切なことは、自我の安定であると思っているからです。
 自分の存在が肯定されている、絶体的な安心感とでもいうのでしょうか? それを娘には、植え付けたかったのです。

 私は、この根本的な自我の安定は、親が担うものだと思っています。

 だから、娘には、” 時々、育児ノイローゼになったりして、子供がいるから自分のことが何もできない!という母親もいたりするけど、私は、あなたが生まれる前に充分、色々なことをやってきたから、全然、そんなことを思ったことはないのよ。" と話しました。

 すると、娘は、ひとこと、” あなたは、ちょっとやり過ぎでした。” と、冷静に言ってのけるのでした。

 どうやら、娘の自我は、しっかりしているようです。











 

2019年8月1日木曜日

理系の人間がまともな日常生活を送れない話 娘が理系の道に進んで・・





 私は、以前、日本のある大手メーカーの本社に勤めていたことがありました。
私のいたセクションは、研究所の上のセクションで、今後、会社全体が、どういう研究をしていくか、その研究をどのように進めていくのか、またその進捗状況などを統括していく研究開発の企画をする部署でした。

 当然!?その部署には、各部門から、社内でも有数の、その道の権威であるような優秀な人材が集められており、東大、京大、阪大の院卒、MITなどの博士たちが集結していました。

 それは、いわゆる理系のトップの人たちの集まりで、なかなか、ユニークな人材の集まりでもありました。最初は、ちょっと浮世離れした感じの人が多いなと思ったくらいでした。

 しかし、仕事を始めて、しばらくすると、彼らの言動に、ときに、おかしな点が見受けられることに気がつき始めました。彼らは、ごくごく普通のスーツを着て、ネクタイをして、メガネをかけたおじさんたちなのに、どうも普通ではないところがあるのです。

 ある日、私は、目撃してしまったのです。

 ファックスの前でファックスに付属した電話が鳴るのを、通りかかった博士の一人が、受話器を取っていいものかどうか迷って、前を行ったり来たりした挙句に、ファックスに向かって顔を近づけて、両手をあげて、” ハーイ!” と返事をしているところを・・。

 また、ある時、会社の地下に、とある業者がクリスマスプレゼントになりそうなグッズを売りに来ており、私は、誰にあげるというあてもなく、20センチくらいの大きさの何の動物だかわからないけれど、やけに愛嬌のあるお人形を買いました。

 その人形を部内に持って上がって、” これ!可愛いでしょ!" と周りの女性に見せびらかせて、周りの同僚からは、” なにこれ?カエル?・・でもないし、人間でもないし!また〜変なものを買ってきて!!” とからかわれていました。

 すると、そこに、博士の一人が通りかかったので、” 〇〇さん、これ、何だと思う?” と聞いたのです。すると、彼は、何のためらいもなく、即答したのです。
” うん、これは、ポリウレタンだな・・” と。

 最後の極めつけは、博士の一人が定年退職する際に、みんなでお花をプレゼントしようということになり、隣のパレスホテルの地下にあるお花屋さんに同僚とブーケを作ってもらいに行ったのです。あの人には、こんな色が合うとか、それなりに、苦心して、心を込めて、作ってもらったのです。

 そして、退社時刻になり、" 長い間、お疲れ様でした。・・" と、お花を渡したのです。
 すると、その博士は、”ありがとうございます。” と言って、頭を深々と下げたかと思うと、おもむろに、手にしたブーケをぐしゃぐしゃぐしゃーっと、カバンに押し込んだのでした。
 
 もちろん、彼には、何の悪気もありません。
 しかし、一同、絶句! まさに、大きく息を飲みました。

 私は、その博士たちの間で、しばらく働いていましたが、ある面では、恐ろしく優秀な人たち(特に理系)は、往々にして、ごく普通の日常生活が普通に送れないということがわかりました。ある一つのこと、研究にあまりに没頭して生活していくうちに、周りの普通のことに注意が行きにくくなるのかもしれません。

 そして、最近、娘がフランスで、理系の道を歩み始めました。
 まずまず、良い学校に入れて、ひと安心といったところです。
 当初は、日本での博士たちのことなどは、とうに忘れていました。

 ところが、ここ数年、娘にも、ある変化が訪れ始めたのです。
やたらと転ぶ、物を壊す、失くす、こぼす。

 こんな子では、なかったはずなのに・・!?
そんな時、ふと、私に、あの博士たちのことが頭をよぎったのです。

 まさか・・・!?。
















 

2019年7月22日月曜日

子供に自分で考えることを学ばせるためにすること。




 私は、娘に、” 勉強しなさい!" と言ったことは、ありません。

 日本語に関しては、熱心に教えたつもりですが、これでさえ、" 日本語の勉強をしなさい!” とは、言いませんでした。ただ、” 日本語のできない子は、日本に連れて行きません。” とだけ、言いました。

 学校の勉強に関しては、まあ、学校を追い出されない範囲であれば、別にいいよ!と言ってきました。だから、学校の成績に関しても、あまり、気にしていませんでした。
ましてや、他の子と比べるなどは、もってのほかです。

 私は、他人の子供の成績に興味はありませんし、その興味のない子供の成績と比べてどうこういう趣味もありませんでした。しかし、フランスでも、結構、他人の子供の成績が気になる親が結構いるもので、娘の学校の成績の順位を他のお母さんから聞くこともしばしばでしたが、個人主義に見えるフランスで、結構、意外な気もしました。

 だいたい、私は、子供を他の子と比べるということは、一番いけないことだと思っています。その子は、その子なりに良いところもあり、悪いところもあり、子供は、それぞれに違う個性を持っているのです。

 それを通り一遍の基準で、比べるなどもってのほか、ある一面だけで、いちいち、人と比べても、それは、不必要に子供を混乱させるだけで、何の意味もありません。

 勉強さえできれば、将来、安泰なわけでも、幸せになれるわけでもありません。
勉強が好きで、得意な子はその能力を伸ばせばいいし、それ以外のことが好きで得意な子は、そちらの方を大事に育てたほうが良いと思うのです。

 もともと、別の個性を持った子供を比べるのは、意味がありません。

 それよりも大切なことは、自分自身で、大切なものを見極め、自分自身でものごとを考えることができるようになることです。

 生きていれば、その場面、場面で、色々な人に出会います。
 そして、世間の人は、色々なことを言うこともあるでしょう。

 自分の考えをしっかり持って、それを貫く強さと信念を持って、進んでいければ、きっと子供はしっかりと自分の道を歩んでいけます。
 
 結果的にうまくいけば、世間なんて、調子のいいもので、まるで、過去に非難めいたことを言っていた人たちも、まるで、そんなことを忘れたかのように、同調していきます。

 一時の世間の風当たりなど、自分自身の信念がしっかりしていれば、何と言うことはありません。世間の目は、それくらい、いい加減なものなのです。

 そして、当たり前のことを当たり前と思わないことを気付かせること。
 そして、それに感謝ができる気持ちを持てるようになること。

 当たり前のことなど、一つもないのです。

 当たり前のことを当たり前と思っていては、感謝の気持ちは生まれないし、幸せを感じることはできません。

 能動的に自分自身で考えるようになること。

 それには、勉強しなさいとか、〇〇をしなさい、とできるだけ言わないことです。

 自ずと子供は、自分で考えるようになります。