例えば、好きな人ができたとして、どこが好きかと言われると、なんとなく、ぼんやりとしたものであることが多い一方で、嫌いになる場合は、かなり事細かに詳しく述べることができるような気がします。
たまたま、カーペンターズの曲が流れてきて、なんとなく英語の音がきれいだ・・と思いながら、母を思い出しながら、好きと嫌いということについて考えていました。
母は、英語が好きで、大学でも英語の勉強をし、しばらくお勤めをしていましたが、その後、結婚して、専業主婦になりましたが、(まあ、母の時代は、専業主婦が当たり前の日本でしたから・・)私が生まれて、物心つく頃には、私に英語を教えてくれていました。
私は、小さい時から、寝る前には、英語の物語のテープを子守唄がわりに聴きながら、寝ていました。絵本も付いているそのお話は、「ぐるんぱのようちえん」や、「たろうのおでかけ」など、いくつかありましたが、子供の頃ですから、吸収も良く、今となっては、すっかり忘れてしまいましたが、当時は、暗唱できるほど、物語を英語で記憶していました。
単語一つ一つの意味や、文法などはわからなくても、歌を覚えるように、文章を覚えてしまうのですから、子供の時の記憶力というのは、すごいものです。
母は、その後、私だけでなく、私と同じ年頃の近所の子供を集めて家で英語を教えるようになりました。それはそれは、熱心で、丁寧で、楽しそうで、母が亡くなる数年前まで、母は、家で英語を教えるとともに、子供に英語を教えるための教材を作ったりして、その教材のための講演なども時々やっていました。
私が成人してからは、そんな母の教材のテープの録音に付いて行ったり、講演会の時は、手伝いに行ったりしていましたが、母のその楽しそうな感じは、ちょっと羨ましいほどでしたし、講演会などとなると、もう止まらない・・といった勢いで話し続けるので、私は、母に聞いたことがありました。
「英語のどこがそんなに好きなの?」と・・。
すると、母から帰ってきたのは、意外な答えでした。「英語の音が好き・・」と・・。
そんな感覚的な理由が母の口から出てきたことは、その時は、とても意外でしたが、そもそも「好き」ということは、感覚的なことに根ざしているのかもしれません。そして、その感覚的なものというのは、なかなか根強く、あながちバカにできないものだということも、過去のいくつもの場面を振り返ると思いあたります。
音楽などでも英語の歌詞は、きれいにメロディーにのって響くように私自身も感じますし、そして、何よりも私自身も英語の音が好きだな〜と、いつの間にか思うようになっていたのです。
私が子供の頃は、我が家の車の中は、母が好きだったパットブーンの曲がよく流れていました。英語の音がきれいだ・・心地よい・・と、最近、時々、音楽を聴いていると思うのは、そんな風に知らず知らずのうちに、私の中で慣れ親しんでいた音だからなのかもしれません。
音が好き、心地よい・・そんな感覚的なものは、友人、恋人、仕事、職場など・・何かを選択するうえでも、一見、漠然としているようでも、結構、大事なポイントだったりするかもしれません。
娘の幼少期、(2歳くらいの頃)彼女は、出会った人を一瞬で見抜く力がありました。もう動物的といってもいいくらいな反応でした。
初めて日本に行った時、初めて会うたくさんの親戚の中から、一目で信頼できる人を見つけてベッタリ・・また、逆にフランスで、家族で散歩に出かけた時に、たまたまローラースケートで遊びに来ていた少年たちと写真を撮ってもらおうと主人がその少年の一人に抱っこを頼んだら、火がついたように泣き出し、困ってしまったこともありました。その泣き方の強烈さは、ちょっと周りの人も驚くほどでした。
海外生活をしていると、日本では、決して出会うことがなかったであろう色々な人に遭遇します。そんな時、「ん???なんか、変だな・・この人・・何かどこか妙な感じがする・・」と、思うことがたまにありますが、ちょっと話してみると、慣れてくることもあって、違和感が薄れるのですが、よくよく知っていくうちに、やっぱり、あの時の違和感は、こういうことだったんだ・・と思うことがあります。
直感とか、なんとなく感じることは、あながち、間違いでもないのです。直感だけで動くというのは何ですが、こういう感覚的に感じるものは、長い目で見てみると、あながちバカにしたものでもないかもしれません。
ちなみに私は、フランスに住んで20年以上になりますが、フランス語の音がきれいだとか、好きだとか思ったことは、今のところ、ありません。
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「母の英語教育
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