2019年8月31日土曜日

パリの日本人コミュニティ




私の元同僚の日本人の女性に、パリ近郊に住みながら、日本にどっぷりと使ったような生活を送っている人がいました。彼女は、アラブ系の男性との国際結婚でフランスにやってきたのですが、在仏歴30年以上になります。

 もうすでに、リタイアしていていますが、今でも付き合う人は、ほぼ、日本人で、彼女は、パリの日本人コミュニティーの中で暮しています。

 そんな彼女は、パリの日本人コミュニティの中では、顔も広く、日本人エリアと言われているオペラ界隈を歩けば、数メートルごとに知り合いの日本人に出くわします。

 彼女のバイブルは、日本の週刊誌。日本を行き来する知り合いから手に入れては、大事そうにいつも週刊誌を何冊も抱えています。

 人当たりもよく、とても、親切でいい人なのですが、口を開けば、人の噂話なので、私は、あまり、親しくなることは、ありませんでした。

 私の数少ないパリでの日本人の友人が亡くなった時、私は、その当日に彼女の訃報を聞いて、病院に駆けつけて、霊安室で長いこと、二人きりでお別れをさせて頂き、精神的にもかなり、参ってしまったので、その日の夜のお通夜には、遠慮させていただくことにしていました。

 ところが、日本から駆けつけていた彼女のご家族が、彼女のお通夜がわりにフランスで、彼女の知り合いだった日本人の人とお食事をしたいと仰っているから、ぜひ、来て!と、彼女と共通の友人から連絡があり、重い腰をあげて、出かけて行きました。

 亡くなってしまった友人は、あまり好んで日本人と付き合うタイプでもなく、友達を混ぜるタイプの人ではなかったので、集まった人たち同士は、それほどお互いを知る訳でもなく、ワインが好きだった彼女のさし飲み友達数名だったようです。

 それでも、世間は、狭いもので、そこに来ていた初対面の女性が、たまたま、私の仕事で関係のある方と知り合いだったりして、その方の生活ぶりなども話題に上がりました。

 その方も、もうリタイアして、長い、在仏歴も長い女性だったのですが、日常、ほぼ、毎日を日本人の友人だけで集まって食事をしているといい、それが、この上なく、楽しいのだとか・・。

 まあ、彼女たちは、長い間、フランスで働いてきて、年金もフランスから支給されていますから、老後をパリで日本人の気のおけない友人と楽しく暮らすのもまた、一つの生き方かもしれません。

 フランスに住む日本人の数は、約3万人と言われています。
その過半数は、パリ、パリ近郊に住んでいるのです。

 フランスの美しい街並みやイメージに憧れて来た人から、日本が息苦しくなって、飛び出てきてしまった人、芸術を志してきたけれど、現実には、それが生業にはならずに他の仕事についている人、志を持って、仕事をしにきている人、留学生、研修生、ワーキングホリデー、国際結婚など、フランスに住む日本人は、多種多様です。

 私自身は、フランス人との国際結婚でフランスにおり、子育てと仕事でいっぱいいっぱいで、ほぼほぼ、仕事場と娘の学校と家の往復。休みの日も家族と過ごすことがほとんどで、もともと、人とつるむこともあまり好きではないので、日本人とのお付き合いはほとんどありません。

 ですから、そんな風に日本人コミュニティーにどっぷり浸かっている人が結構いて、そんな生活をしている人の話を聞く機会もほとんどありませんでしたので、こういう生活をしている人もけっこう、パリにはいるものなのだなあと思ったものです。

 パリは、美しい街で、華麗なイメージの国ですが、反面、不便なことも多く、フランス語、フランス人の中に溶け込んで暮らすのは、かなりハードルの高い国でもあります。

 そんな中で、暮らす日本人の暮し方も様々で、日本人との繋がりで生きている人もけっこういるのです。


 








2019年8月30日金曜日

フランスのシェアハウスでいつの間にか寮長のようになっていた娘




 娘は、昨年から、自宅から通学が不可能な場所にある学校に入学したために、生まれて初めての一人暮らしを始めました。

 一人暮らしといっても、シェアハウスのようなところです。

 大家さんが階下に住んで、一応の監督下にはあるものの、シェアしている上の階は、別になっています。

 上の階には、部屋が5つあり、それぞれの部屋には鍵もかかり、個人のスペースはプライバシーが保たれるようになっていますが、キッチン、バスルーム、トイレ、テラス、洗濯物を干したり、アイロンをかけたりする部屋は、共有となっています。

 娘以外の4つの部屋には、男性4人が住んでいて、

 1) 31才のフランスの大手企業の経理の仕事をしている社会人。なぜか、冷蔵庫の彼のスペースには、大きなペットボトルに入った水だけ。
 冷やした水だけで、水風呂に入るというこだわりを持つわりには体臭がきつく、毎朝、毎晩、壁越しにも聞こえるような大きな深呼吸を続ける健康法実践者。

 2)23才の縫製の専門学校生、でも学校には、ほとんど行っていない。でも、将来は、スケボーのウェアのブランドを作りたいという人。ウーバーイーツのアルバイト中。でも、マリファナを使用していることが発覚し、大家さんから、お母さんにマリファナのことを注意されて、大家さんと大げんかして退去。

 3)25才 当初はカーフールの夜中の在庫整理のアルバイト。でも、契約が切れて、契約延長されずに、うちでダラダラと無職。

 4)32才 将来は、映画監督志望の映像関係のAD、シナリオライター。
ヴィーガン、オーガニック、出張が多く、あまり家にいない。

 娘は、高校卒業後、一人暮らしを始める前の二年間は、クラス・プレパラトワール・オ・グランゼコール(グランドエコールのための準備機関のような学校)に行っており、とても授業の進み方が早く、かなり、根を詰めて勉強していたため、私自身もこの2年間だけはと娘に家のことはやらせずに過ごしてしまっていました。

 そのため、一人暮らしで、まあ、なんとかなるだろうとは、思いつつ、内心では、一体どうなることやら?と思っていました。

 最初の引越しの時だけは、私も引越しを手伝いがてら、大家さんにも挨拶をして、一応、どんな環境なのか、様子を見てきましたが、同居人たちは、その時は不在で会うことはできませんでした。

 娘も新生活を始めて、しばらくは、お料理をするにも、ラインで、”肉じゃがってどうやって作るの?” とか、出来た料理の写真を送ってくれたりしていました。

 そして、新しい学校に通い始め、自分の生活も動き始めた頃に、少しずつ、同居人の様子が見え始めたようでした。

 周りは、全てフランス人のしかも、彼女より年上の男性ばかりです。

 しかし、他人と生活したことのなかった彼女の中には、共同生活の不満がムクムクと湧き上がってきたようです。

 ゴミをちゃんと捨てない。大きな音で音楽を聴く。食器、調理器具を洗わない。片付けない。一応、共同スペースの掃除は交代で週末にやることになっているのにやらない・・などなど・・。

 そこで、黙っていないのが、フランスで育った彼女のたくましいところです。

 年上の男性たちに向かっても、臆することなく、掃除をサボった人には、きっちりと注意し、当番制を徹底し、トイレットペーパーや共同で使うものの買い物のお金の徴収や分配をしたり、WIFI の契約を一本化して、みんなで分配して支払うことにしたりとシェアハウスを仕切り始めたのです。

 そして、半年も経つ頃には、彼女は、いつの間にか、そのシェアハウスの寮長のような存在になっていました。

 「掃除当番を苦しい言い訳をしながら、なんとかサボろうとする人に、感情的にならずに注意するのに、苦労をしたんだ。本当は、どなりつけたかったけど・・。」と言う彼女は、家にいたままでは、学べなかったことを学び、社会への一歩を踏み出した自信を持ち始めていました。

 しかし、家に帰ってくると、相変わらず、な〜んにもせず、そんな、寮長ぶりを私には、微塵も見せてはくれないのです。

 

 




2019年8月29日木曜日

フランスのテロの報道と対応




 私は、日頃、あまりテレビを見ないので、フランスで、テロなどの事件がおこったりしても、日本にいる友人などからの、” 大丈夫?” というメッセージで、初めて事件を知り、慌ててテレビをつけたりして確認したりすることも少なくありません。

 大概、日本の報道は大げさで、独特で不安を煽るような報道の仕方をするので、実際には、現地では、そんなに騒いでいないのに・・ということも多々あります。現地では、よほどでない限り、日本の報道のように過剰に反応することは、ありません。

 でも、2015年に起きたパリ同時多発テロが起こった時には、さすがにフランス国内も震撼とし、少しのことでも過剰に反応し、ピリピリとしていました。

 あれは、2015年11月13日、パリ市街と郊外のサン・ドニ地区において、複数のイスラムの戦闘員と見られる複数のグループによる銃撃や爆発が同時多発的に発生し、死者130名、負傷者300名以上を出した大事件でした。

 ちょうど、金曜日の夜だったこともあり、逃走したと見られる犯人がなかなか確認されなかったこともあり、土日にわたり、政府が外出を控えるように声明を出したりする異例の事態で、土日は、家にこもって、テレビの報道を固唾を呑んで見守っていました。

 翌週の月曜日に出勤するために、外に出るのも、なんだか少し怖かったことを覚えています。

 その後、しばらくの間は、パリの街は人出も少なく、ゴミ箱が撤去されたり、四六時中警官や長い銃を持った憲兵隊が巡回していたり、駅でも不審物が見つかるとすぐ閉鎖されたりと緊迫した状態が続いていました。

 私の職場は、パリの中心の大きな通り沿いにあったのですが、ちょうどその建物の前にバス停がありました。

 ある時、大勢の警官が、「この建物から、一刻も早く、退去して、出来るだけ遠くに走って逃げてください!!」と大声をあげながら、突入してきて、慌てて、取るものも取らずに、みんなで汗だくになって、走って逃げたことがありました。

 職場の同僚と共に、一体、どこまで逃げたらいいのか、わけもわからず、とても不安な思いをしました。

 ちょうど、一台のバスがそのバス停で停まったところで、バスの中で不審物が発見され、爆発物と判断されたのだそうです。

 結局のところ、それは、ただの乗客の忘れ物だったようで、事無きを得ましたが、後から考えてみると、なぜ、先にバスからその不審物を撤去してくれなかったのか? もし、それが、本物の爆発物だったとしたら、パリのど真ん中で、沢山のガソリンを含んだバスごと爆発して、大炎上していたはずです。

 危険物から離れるというのもわかるのですが、後になってから思うと、妙な対応だと思ったものです。

 長くパリにいると、色々なことに遭遇するものです。

 









 
 

2019年8月28日水曜日

レイシスト 差別的な言動






 私の会社には、マルティニーク(以前、フランスの植民地だったところ)出身のファムドメナージュ(お掃除のおばさん)がいました。
 
 普通、ファムドメナージュといえば、朝だけ、お掃除をして帰る場合が多いのですが、その他の雑用などもやってくれていたので、彼女は常勤で、一日の勤務でした。

 当然、接する機会も多く、子供好きだったりして、娘の成長なども一緒に喜んでくれたりしていたので、写真を見せ合ったり、彼女の子育ての話を聞いたりと、顔を合わせれば、軽い世間話などをしたりもしていました。

 彼女は、体格のいい、気のいいおばさんで、フランス人はもちろん、日本人とも長く仕事をしてきたためか、とても親日家で、日本人にも、好意的で優しく、陽気なおばさんでした。

 でも、おしゃべり好きで、ついつい仕事を放りがちになってしまったりすることもあり、そんな時に、注意されたりすると、「あなたたちは、レイシスト(差別的な言動を行う人)だ!」と、烈火のごとく、怒り出すので、困ってしまいます。

 それは、ただ、仕事の仕方を注意しただけであって、別に差別用語を使ったわけでもなく、彼女を差別しているわけでもありません。

 しかし、「あなたは、レイシストだ!」と言われては、たとえ、こちらはそうではないにしても、” そうじゃないでしょ!” と思いながらも、” レイシスト" という言葉に対する返答には、デリケートになってしまいます。

 彼女には、彼女の生まれ育った環境や人種の問題で、今まで、そのような歴史的背景を背負ってきたので、何か、自分を否定されたと感じると、すぐに、「レイシスト!」という言葉がついて出てくるのでしょうが、こちらとしては、あまりに度重なると、仕事をしないための常套文句のように思えてきてしまいます。

 しかし、それは、多分、彼女がこれまで受けてきた「差別」に対するコンプレックスからくるものなのです。

 どの社会においても、「差別」というものは、存在します。

 フランスにおいても、面と向かって日本人を差別して扱うようなことは少ないとは、思いますが、差別が全くないとも言えません。アジアの人を十把一絡げにして、両手の人差し指を目尻において横に引っ張った動作をして、アジア人を揶揄することもあります。

 それは、差別とは呼ばないかもしれませんが、決して良い気持ちではありません。

 私自身は、主人がフランス人で付き合うフランス人も主人繋がりの人であったりすることも多いため、差別を感じることは、ほとんどありません。仕事上においても相手に対して、誠実な態度で仕事をしていれば、そのようなことも生まれません。

 レストランやカフェでは、見知らぬアジア人は、黙っていると、角の方の席に配置されてしまうという話を耳にすることもあります。しかし、そんな時は、どこに座りたいか、ハッキリと頼んでみるか、あらかじめ、場所を指定して席を予約すれば、良いのです。

 ただ、〇〇人だから・・とか、経済的あるいは、社会の認識が下の国の人たちに対して、自分たちの方が、上級国民だとかいうバカげた露骨な差別をする人がいたとしても、そういう人の方が、おかしなわけで、どこの国の人にも優れた良い人はいるし、また、逆に低俗なバカげた人もいるのです。

 そんなこともわからずに、ただ、生まれ育った国によって人を差別するなどナンセンスです。そういう人とは、静かに距離を置けば良いのです。

 人の好き嫌いや相性の良し悪しは、別としても、人と人との関係は、国の違いを越えて、それぞれが築いていくものだと思うのです。
















 

2019年8月27日火曜日

フランスの駅とトイレの先進国とは信じ難い臭さ




 ロンドンからユーロスターでパリ北駅に着くと、ロンドンのセント・パンクラス駅とのあまりの違いに、フランス人でない私でさえ、ガッカリしてしまいます。

 人一倍プライドが高いはずのフランス人のトップである大統領や政治家は、ロンドン⇆パリ間のこの路線を利用して、ロンドンとのこの差を何とも思わないのだろうかと思ってしまいます。

 駅舎自体がどうとかということよりも、その汚さ、臭さが、何より、信じ難いのです。

 駅のトイレなどが少ないこともありますが、その少ないトイレでさえ、汚物が散らばっていたり、汚れたままになっていたり、便座がないことも少なくありません。

 残念ながら、この便座のないトイレを見て、パリに来たと感じるという人もいるくらい、パリのトイレのみすぼらしさは、象徴的なひとつとなってしまっています。

 日本人は、パリには、ウォシュレットがないのか? などと驚く方もいらっしゃるようですが、パリのトイレ事情は、ウォシュレットの有無を語る次元ではありません。

 そして、極め付けは、トイレだけでなく、駅自体が臭いのです。
 今どき、臭い駅などというものが、日本のどこに存在するでしょうか?

 ある時、私が駅の構内を歩いていて、前を歩いていた普通のスーツを着た男性が、急に立ち止まったかと思うと、おもむろに壁の方を向き、用を足し始めたのに、驚いたことがありました。

 なるほど、それ以来、駅の構内の壁を見ると、それらしいシミが結構あり、そのような行為が日常的に行われていることを物語っています。

 それが駅の悪臭の原因なのです。

 それが、ホームレスなどの人だけではなく、ごく普通の人までなのですから、先進国と言われるフランスの衛生観念、道徳観念が欠如している現状は、まことに理解しがたいことです。

 だいたい、駅の中も街中も、トイレが少ないことも原因のひとつです。街中には、公衆トイレがたまにあることもあるのですが、故障中のことも多いのです。

 最近は、自動洗浄が行われる公衆トイレなども見かけるようになりましたが、床から天井までを丸ごと洗浄するシステムになっており、うっかり閉じ込められたら、大変なことになってしまいます。

 しかし、いくらトイレが少ないからといって、犬じゃあるまいし、あちこちで用を足すのは、どういうものでしょう。

 あれほどプライドの高いフランス人が公共の場で用を足すこと、そしてその衛生観念は、全くもって理解できません。

 パリでは、散歩中の犬のフンを飼い主が始末していないところを見つかると罰金が課せられるのに、人間があちこちで用を足しても罰金を課せられないのは、どういうことなのでしょう。

 犬のフンの放置に対する罰金勧告のポスターはあちこちで見られるのに、人間用の罰金勧告のポスターは見たことがありません。

 フランスは、素晴らしい香水の宝庫である、香りの国などと言われているのに、現実は、アンモニア臭の漂う、花の都、パリなのであります。

 

 











2019年8月26日月曜日

フランス人の夫の買い物




 娘が小さい時に、「けっこんするって、どういういみかしってるよ!!」と、得意そうに言ったので、「じゃあ、結婚するって、どういうことなの?」と、聞き返したら、「けっこんするって、いっしょにおかいものにいくことでしょ!」と可愛いことを言っていた時期がありました。

 しかし、結婚が娘のいう通りとするならば、我が家はとっくに崩壊しています。

 確かに、一緒に行くこともあるのですが、お買物に関しては、全く趣味が合わず、夫が立ち止まるところと私の立ち止まるところは、全く違い、そのうち、一緒にお買物に出かけても、特別な家具などを除いては、別行動を取るようになり、ある一定の時間をとって、待ち合わせの時間を決めて、私と娘は、別行動を取るようになっていきました。

 もともと、私は、お買物というものが、あまり好きではなく、人と一緒に買い物をして歩くことも、あまり、好きではありません。自分のペースでさっさと見て歩き、即決、即買い、驚くほど、早く、時間をかけません。

 夫は、私とは、違って、お買物が大好きなのです。

 ひとつひとつ立ち止まっては、遠くから眺めてみたり、説明書きを丁寧に読んでみたりと、時間がかかる上、およそ、実用的なものには、興味がなく、必要なものを買ってきたためしがありません。

 夫が好きなのは、アンティークといえば、聞こえは良いですが、古い置物や飾り物、
食器類などなど。蚤の市などを見て歩くのも大好きで、外地を転々としていた頃に買い集めたものなどは、どうしていいものやら・・・。

 まったく、「家を博物館にでも、したいのかい!」という感じなのです。

 日本にいた頃に買い集めたものだけでも、大きいものは、階段簞笥や屏風、日本画、掛け軸、大きな扇子、漆塗りの舟型などの和食器、刀、鎧兜、花瓶など、アフリカでは、そこそこの大きさの木像(象や人のものがいくつも)、銅像、マスク(お面)、ボンゴなどの楽器類、アフリカの村のメダルを集めた額、民族衣装から豹の皮まで・・。

 大豪邸に住んでいるならいざ知らず、一般庶民の私たちのアパートは、物にあふれているのです。

 シンプルな生活を心がけている私としては、夫が何か、買い物をしてくるたびに、” また〜〜〜!” と、ため息をつくのであります。

 











2019年8月25日日曜日

イギリスのホスピスにいた、ある青年とお母さんの話




 私は、二十歳になるまで、身近な人の死を経験したことがありませんでした。

 私が初めて経験した身近な人の死は、祖父の死でした。
祖父は、最後をチューブに繋がれた状態で、家族も近づかせてもらえない、寂しい最期でした。

 祖父の死に方に疑問を抱いたことをきっかけに、私は死生学の勉強を始め、何年かのちに、現在のホスピスムーブメントの牽引となっていたシシリー・ソンダースのオープンしたセントクリストファーホスピスをはじめとしたホスピス大国であるイギリスのホスピスにスタージュに行きました。

 私がスタージュをさせていただいたのは、ロンドンの北部に位置するベルサイズパーク駅から5分ほど、道幅の広い、緑に囲まれた静かな住宅街の中にある EDENHALL MARIE CURIE CENTRE というマリーキューリー記念財団の運営するホスピスでした。

 そこで、私は、約一年間、死を目前にひかえた人々にたくさん接し、彼らとお話をし、色々な場面を目の当たりにしてきました。

 死を目前に控えた人のための施設ということで、初めて、足を踏み入れるまでは、私は、もっと緊迫したような空気を想像していました。

 ところが、そこは、私の想像とは、かけ離れた、ゆっくりとした暖かい空気の流れる空間でした。そして、私のような外人の拙い英語にも関わらず、患者さんは、意外にも色々な話をしてくれるのでした。

 人が最後に話したいことは、何なのか? 人の心に最後まで宿り続けるものは何なのか? 私には、とても興味のあることでしたが、それは、家族の話でした。

 可愛い妖精のような娘の話とか、料理上手な妻の話とか、優しい夫の話とか、それは、たとえ、もうその家族が亡くなっていたとしても、彼らの心を占めているものは、家族だったのです。

 その中でも、最も印象的だったのは、ピーターという、まだ二十代半ばの青年とそのお母さんでした。

 彼は、個室に入っていましたが、ほぼ、彼のお母さんがつきっきりで彼の看病をしていました。看病しているというよりは、一緒の時を過ごしていたという方が正しいかもしれません。

 まだ、私がホスピスに通い始めてまもない頃、他のキャサリンというスタッフに付き添って、彼の部屋を訪れた時のことでした。

 ”初めまして、日本から勉強に来ています。よろしくお願いします。”と言った私は、いきなり、キャサリンに注意されました。

 彼は、まったく耳が聞こえず、口がきけないのでした。

 私は、彼のベッドサイドへ近寄り、ただ、ニッコリと手を差し出して握手をしました。窓からたくさんの光の差し込むベッドの中から、ゆっくりと手を差し出す彼の穏やかな眼差しは、彼の若さとは裏腹に、また、言葉がない分、私には、余計に深いものに感じられました。

 日焼けした彼の顔からは、ガンの末期だなどとは想像もつかない感じでした。

 しかし、彼と彼のお母さんは、なぜ、こんなにもこの人たちばかりに・・と思ってしまうほど、考えうる不幸を思い切り背負い込んだような二人でした。

 彼は、生まれた時から耳が聞こえず、口がきけず、彼の父親は彼が5才の時に亡くなり、彼のお母さんは、女手一つで、彼を育ててきたのです。ここに来る前までは、ROYAL SOCIETY OF DEAF という施設に通って生活していましたが、肺ガンにかかり、2ヶ月ほど前にガンが発見された時には、もうすでに、末期の手遅れの状態で、やむなくここに入院してきたのでした。

 そんな、辛い境遇の中、この二人、特にピーターのお母さんは、とても明るい人でした。最初に病室を訪れた時も始終、笑顔で「今日は、私たち、これをいただくのよ!」と、シャンパンの瓶を大事そうに抱え、「よかったら、ご一緒にいかが?」と朗らかに言いました。(そのホスピスでは、アルコールもタバコも禁止ではありませんでした。)

 それから、何回か病室をのぞきましたが、彼女は常にピーターと共にいました。

 彼女たちに振りかかっている苦悩に満ち溢れた現実とは裏腹に、なんだか、たわいもないことをしているのに、彼の部屋は暖かい幸福な空気に包まれ、実にゆっくりと時が流れているようでした。
 それは、暖かい陽だまりのような、不思議な空間でした。
 彼の部屋はもう、すでに彼らの家のようでした。

 彼らは、決して孤立しているわけではありませんでしたが、スタッフも彼らとの距離をとても上手に保っているようでした。

 それから約一週間後、私がホスピスに行くと、真っ赤に泣きはらしたピーターのお母さんに会いました。彼女は、泣いていましたが、このホスピスにいる間にできる限りのことをスタッフにサポートを受けながら、やり遂げた・・そんなことを言っていました。

 それから、私は、自分が死ぬ時に、自分の心を占めていてくれるような、自分の家族を持ちたいと思うようになりました。

 

 

 





















2019年8月24日土曜日

旅の醍醐味はハプニング イタリアの旅




 以前、私がまだ、日本にいた頃、イタリア好きの日本人の女の子と二人でイタリアを旅行したことがありました。楽しかった旅行も今になっても思い出すのは、日汗もののハプニングばかりです。

 東京から、ローマ経由でシシリー島へ飛び、パレルモで車を借りて、を途中、アグリジェント、シラクーサなどを周り、何泊かしながら、タオルミーナまで行き、その後、フィレンツェに寄って帰りました。

 まず、最初のハプニングは、ローマに着く飛行機が遅れて、ローマからシシリー行きの飛行機に乗り遅れたことから始まりました。

 ローマの空港に着くなり、空港の中を走って、次の飛行機に乗ろうとしたのですが、間に合わず、チケットを次の便に切り替えてもらい、まずは、一息。

 次の飛行機は、翌日の早朝で、もうすでに夜遅くなっており、今の時間から、ローマの街に出て行くのは、危険だと判断した私たちは、女二人で、ローマの空港のベンチで夜を明かすことにしました。

 夜も更けて行くにつれ、空港にいる人はどんどん減っていき、警備のための長い銃を持った憲兵隊が現れ始め、パスポートのチェックを受け、残っている人は、空港の中央に集まって座るように促されました。

 お気楽な私たちは、”これは、安心だね!” と言い合いながら、交代で仮眠をとり、翌朝、パレルモへと発ったのでした。女二人で、あの一夜を明かした、レオナルドダビンチ空港の赤いベンチを私は一生忘れることはないでしょう。

 そして、パレルモに着いて、車を借りて、さあ、出発!となったところで、運転できると言っていた友人が " あれ?エンジンがかからない!” と言い出し、結局、彼女は運転が危ういことが判明。私がずっと運転する羽目になりました。
 でも、彼女は、イタリア語も堪能で、見事なナビゲーターを務めてくれました。

 日本人の女の子二人の車での珍道中で、美味しいものを食べては移動し続ける中、シラクーサに寄ったところで、日本人の女の子に出会いました。

 すっかり、私たちと意気投合した彼女は、イタリア人の男性とシラクーサでもう何年も暮らしていて、日本人に会うのも日本語を聞くもの久しぶりとのこと、ぜひ、夜、うちにご飯を食べに来て!と言われて、彼女の家に招待してくれて、その彼の友人(一日の患者さんがたったの三人という歯医者さん!)も交えて楽しい食事の時間を過ごしました。

 そして、途中、エトナ山の白ワインやマグロを堪能し、タオルミーナでは、念願だったグランブルーの撮影に使われたホテルに泊まり、エンゾが映画の中で食べていたパスタも思いっきり食べ、大満足な時を過ごしました。

 シシリーからフィレンツェに行く飛行機は、これまで乗ったこともない小さなプロペラ機のような飛行機で、アットホームな雰囲気で、手作りのクッキーのようなお菓子が出てきたのが印象的でした。

 フィレンツェでは、滞在が短かったこともあり、1日目は二人で歩きましたが、二日目は、何回も来ている私の友人は、プラダのバーゲンに行くといい、プラダには、興味のなかった私は、行きたいところを一人で回りました。

 フィレンツェの街を一人で歩いていると、まあ、イタリア人の男性が女性にこれだけ声をかけるものかとビックリするほどで、私があんなにモテたのも後にも先にもないくらいでした。また、引き方もスマートで、あっさりしたもので、これもまた、見事なものでした。

 一人で登って行ったドゥオモの最上階で働いていたお兄さんは、ドゥオモから見えるフィレンツェの景色の絵をわざわざ目の前で書いて、プレゼントしてくれたり、ウフィッツイ美術館で、チケットを買うのに手間取っていた私のところに、すっと現れた美術館の男性がチケットなしで、美術館内を案内してくれたりで、至るところでガイドをしてくれる人がいました。

 夜は、友人と食事をすることになっていたので、ひととおりの観光を済ませて、ホテルへ向けて、歩いているところに、また、一人の男性から声をかけられました。

 私は、友人と約束があるからと断ったのですが、では、ホテルまでの道を一緒に歩いて案内するからと、ホテルまでの道を二人でおしゃべりをしながら歩きました。

 自分の仕事のことや、家族のこと、そして、宗教のことに話が差し掛かった時に、私が自分が無宗教だということを話したら、その人は、とてもビックリして、私に言ったのです。” 宗教がないなんて!だったら、死ぬとき、どうするの ???” と。

 気軽に女性に声をかける男性ながら、宗教なしに死ぬときどうするのか?という純粋な目をして、疑問を投げかける一面に、なぜか、ドッキリしてしまった私でありました。

 















2019年8月23日金曜日

子育てをして、改めてわかる親の有り難み




 私が幼い頃は、とても厳しい母でしたが、成長するに連れて、母は、” こうしなさい!” とか、” こうするべき!” とか、そういったことは、言わなくなりました。

 ただ、母は、” やっぱり、子育ては、できたら、した方がいい " とだけは、常々、言っていました。

 そして、そんな、母の言葉がどこかに染み付いていたのか、私の中にも漠然と、子育てをしてみたい・・という気持ちが、どこかに、いつも潜んでいたように思います。

 そんな私は、主人と出会い、子供を授かり、なぜか、思ってもみなかった海外で子育てをすることになりました。

 周りに、子育てを助けてくれる人もなく、その代わりにうるさく言われることもなく、自分の感じるように、思うように、子供を育ててきました。

 でも、振り返って考えると、私が娘にしてきたことは、国や環境が違っても、基本的には、母が私にしてくれてきたことをなぞってきたことに気付かされます。

 毎回、栄養のバランスを考えた食事から、あいさつ、人への思いやり、日本語の読み書き、英語、ピアノ、学校選び・・などなど、母が私に教えてくれていたことは、数え切れないほどです。

 そして、そんな母が私にしてくれてきたことを私が自分の子供にするのは、当然のことのような、思い込みが、知らず知らずのうちに、私の中に埋め込まれていたのです。

 私が子供に対して、当然するべきことと思っていた一つ一つのことは、母が私にしてくれていたことで、その子の個性もありますから、全く同じではないにしろ、いざ、自分がやってみると、そのひとつひとつがどんなに大変なことだったのかが、事あるごとに、改めて、しみじみと感じさせられます。

 実際に子育てをしてみて、改めて、親のありがたみを感じている方も少なくないと思います。

 親にしてもらってきたことは、感謝しつつも、どこか、当然のこと、あたりまえのことと思ってしまいがちです。

 しかし、子育てに関することだけではありませんが、あたりまえだと思っていることは、実は、あたりまえではないのです。

 あたりまえのことなど、本当は、一つもないのです。

 何でも、”そんなのあたりまえだ!" と思ってしまっては、感謝の気持ちも生まれません。感謝の気持ちを感じられなければ、本当の喜びも感じられないのです。

 先日、母が書いてくれていた育児日記を見つけました。

 私が生まれてからの様子が細かく記されていました。今、改めて読み直してみると、それは、私自身の成長の記録だけでなく、小さなことにも一喜一憂しながらも、愛情深く育ててくれた母自身の記録としても読み取れます。

 私は、愛されていたということをその日記によって、改めて確認することができていることに、とても感謝しています。

 そして、母の教育の中で、一番感謝していることは、子供を持ちたい、育てたいという気持ちを知らず知らずのうちに私の中のどこかに植え付けてくれたことです。

 私は、特別なことは、何もしてこなかったけれど、子供を産んで、育ててきたということで、自分が生まれてきてよかったと思えるからです。

 いつか、娘が子供をもって、彼女自身の育児日記をつけてくれる日がくることを私は、楽しみにしています。

 

 
























 

2019年8月22日木曜日

フランスのモードの世界 




 パリは、モードの発信地として、世界的にも、誰もが認めるところとなっています。

 他の色々なことが、なかなか、改善されず、古いままなのに、モードの世界だけは、なぜか、新しいものが、どんどん、遅れることなく、次々と出てくるのは、一見、とても不思議なことでもあります。

 モードの世界では、毎年、春夏、秋冬、と、シーズン毎の新作のコレクションが発表され、店頭に並ぶ、およそ一年くらい前から、デザインは、出来上がっており、個々のお店が新作の注文をするのも、9ヶ月ほど前になります。

 ですから、モードの世界を追っていると、ふと、なんだか生き急いでいるような気さえしてしまいます。

 その年、その年の流行には、共通するものがありながら、それぞれのメゾンで独自のデザインを発表しています。

 そしてまた、それぞれのメゾン、中でもグランメゾンといわれる、一流のメゾンのプライドたるや、相当なものです。

 あたかも、それにふさわしい人以外には売らないと言わんばかりに、デザインを壊すサイズのものは、敢えて作らなかったりもするのです。
 
 まあ、当然といえば、当然です。
 デザインを壊してしまっては、ブランドのデザインは、崩れてしまいますから・・。
 その毅然とした態度は、あっぱれとしか言いようがありません。

 そんな風に、ファッション、化粧品、香水の類は、およそ、フランスの現実とは、かけ離れた速度で着々とシーズン毎に素晴らしい新作、新商品を発表していくのです。

 また、新作の買い付けも、グランメゾンに関しては、華やかにパーティー形式を取っているものや、化粧品などの説明会などは、本社の美しくデザインされた研修センターや一流ホテルの大広間を貸し切っての朝食のビュッフェから、昼にはコース料理が振舞われ、1日がかりの華やかなプレゼンテーションの中で行われています。

 しかし、そんな、モードの最先端を走ることが可能なのは、モードの世界も、フランス文化の古い歴史と基盤の上に成り立っているからなのです。

 そして、それは、また、フランス人の美的感覚、色彩感覚の鋭さでもあり、フランス人のプライドでもあるのです。

 いみじくも、あるフランスの歴史学者が、” 一見したところの美しさとは、多くの場合、ふたたび見出された過去にすぎない " と言っていますが、それは、モードの世界にも言えることなのかもしれません。

 住んでいれば、トラブル満載のパリではありますが、やはり、パリの街並みは美しく、街の中に掲示されている広告でひとつひとつもまた、パリの街並みに溶け込むようなセンスの良いものばかりです。

 そんなパリの街で育まれているモードの世界は、やはり、フランスのイメージそのものとなって、世界に発信されているのかもしれません。







2019年8月21日水曜日

美しく歳を重ねる同じアパートのフランス人のマダム




 彼女は、私と同じアパートの住人で、今の住まいに引っ越して来て以来の付き合いなので、もう、ずいぶんと長い付き合いになります。

 彼女とは、付き合いといっても、顔を合わせた時に少し、話をする程度です。

 もう多分、60も過ぎていると思いますが、小柄な彼女は、出勤の際にも、いつも、きっちりとお化粧をして、髪の毛もキレイにセットして、香水の香りを漂わせながら、ニッコリと笑顔で挨拶をしてくれます。

 そして、アパートのエントランスを出ると、振り返って、ベランダから手を見送るご主人に手を振りながら、華やかな笑顔で投げキスを送っていきます。

 その姿は、ただただ、華やかで、見事としか言いようがありません。

 下手をすると、あれだけキッチリとお化粧をしたら、下品でケバケバしい感じになりかねないところですが、彼女からは、そんな印象はまるで受けません。

 実は、彼女の職場は、家からバスで5分のところにオフィスがあり、彼女はれっきとしたキチキチの公務員なのです。その5分の通勤と事務所での仕事のために、彼女は毎朝、きっちりとメイクを施し、髪をキレイに整え、美しい身なりをして出かけているのです。

 彼女は、一生、女として現役、そのための努力には、頭が下がります。

 朝は、遅めに出勤して、昼食は、体型維持のために取らないのだそうです。

 週末には、時々、お孫さんが来ていて、その時は、ノーメイクで近所でお買い物をしていたりしますが、また、ノーメイクの時に会っても、彼女は溢れんばかりの笑顔で、スッピンを堂々と臆することなくさらしています。

 彼女は、自分自身と同様、家族をとても大切にしているのです。

 オンオフをしっかり分けて、それを自然にやってのけている彼女は、歳を重ねても、とても美しいのです。

 むしろ、若い子にはない気品とゆとりが備わっています。

 彼女がキッチリとメイクをして、着飾っても決して、下品にならないのは、毎日の日常をしっかりと生きているからに他なりません。

 家族を愛し、愛され、地に足がついた彼女の生き方が、彼女の美しさを作り上げていると思うのです。

 生き様は、容姿に表れるものなのです。

 とかく、女性は、男性に比べて、年齢とともに、容姿の劣化を指摘されがちですが、彼女を見ていると、こうやって、堂々と美しく年齢を重ねることができるのだと思わせてくれるのです。

 

 

 










 

2019年8月20日火曜日

フランス人は、意外と長生き




 言わずと知れた平均寿命が世界一の長寿国である日本ですが、フランス人も意外と長生きなのです。

 最近のデータによると、フランス人の平均寿命は、男女を合わせた平均だと、82.9歳で世界4位、女性だけだと、85.7歳と日本に次いで、世界第2位の長寿国なのです。

 フランスは、日本ほど、健康のためには、これを食べるといいとか、食生活などでも日本ほど、健康を心がけているような感もないのに、不思議です。

 日本は、少子化、高齢者社会と問題になっているので、ひたすらに、長寿が目立つ感がありますが、フランスには、少子化の問題はないとはいえ、高齢の親の介護の苦労話はよく聞きます。

 私の周りでも、夫婦揃って90代後半のご両親の様子を定期的に見に行っているとか、高齢のお母様がどうやら一人暮らしが危険になってしまったために介護施設を姉妹で、必死に探しているとか、その施設もやたらと高額なのだとかという話を耳にします。

 私が住んでいる地域は、富裕層の老人が多く、老人用の介護施設などもいくつかあり、街中でもお年寄りをよく見かけます。

 老夫婦が寄り添って、買い物をしている姿などは、とても微笑ましいものです。

 シニア層の人々の外出の多さも目を惹きます。
もしかしたら、健康寿命は、日本よりも長いのではと思ってしまうほどです。

 でも、平均寿命の数値の男女差が物語っているように、カップルではない老人は、圧倒的に女性が多いことにも、あらためて気付かされます。

 また、その女性たちの強いことと言ったら、ありません。
フランス人は、男性よりも女性の方が圧倒的に強い感があります。

 それが寿命の差にも表れていると思うのです。

 近所を通るバスなどに乗って、うっかり座っていようものなら、堂々と年配の女性がやってきて、” 席を譲りなさい!” と言われたことも、一度や二度ではありません。

 もうちょっと、言い方があるだろうと思いつつも、気まずい思いで、席を立つことになるので、私も席に座るときは、周囲を注意して座るようにしているくらいです。

 それは、もはや、おばさんが狭いところにお尻を割り込ませてくるような、図々しさとは違った威厳すら感じられるから不思議です。

 そこには、なんの遠慮も迷いも感じられないのです。

 その迷いのなさこそが、フランス人の女性の長生きの秘訣なのではと、私は、密かに思っています。

 














 

2019年8月19日月曜日

アフリカは、アフリカでいい




 私が住んでいたのは、西アフリカのコートジボアールという国で、アフリカのパリと言われるアビジャンという都市でした。

 そこは、どうしてアフリカのパリと呼ばれるのか、アフリカ初心者の私には、到底、理解できない世界でした。まあ、中心部には、ビルが立ち並んでいたりして、ある程度は、都会的で、フランス領だったことからパリと形容されているのかもしれません。

 私にとっては、初めてのアフリカは、ほんとうにカルチャーショックを通り越して、現実のアフリカの世界が3Dで飛び込んでくるような迫力でした。

 住まいは、フランス人の集まっているレジデンスで、現地の人々の世界とは、隔絶された世界でしたし、多くの海外から赴任している方々も、そのような生活を送っておられるのだと思います。

 しかし、少し、中心部を外れれば、現地のアフリカの人々がひしめき合うように暮らしており、出かける側から、お金を求める人々が群がります。

 それは、もはや、格差社会とかいう範疇の違いではありません。

 海外から赴任してくる人々は、現地のボーイさんやメイドさんを雇うように義務付けられていますが、賃金は驚くほど安く、使う側(フランス人など)の、その言葉遣いなどからも、こんな、酷な言い方ができるのか? とギョッとさせられもし、また、使われる側もそれに慣れてしまっているようなところがあり、歴史を色濃く感じさせられます。

 極端な人間関係は、双方の人間を腐らせます。

 ほぼ、一年中が厳しい夏の気候の中で暮らすのは、本当に大変ですし、いくら、外国が援助の手を差し伸べても、国内の古くからの悪い体質で、政治家やマフィアがそのほとんどを吸い上げてしまい、貧しい人々の暮らしは変わらない負の連鎖が続いています。

 アビジャンから車で1時間半くらい行ったところにある小さな村のお祭りに行ったことがありました。主人の職場にいた現地の職員の人に頼み込んで、現地の人以外は、一切いない、地元の長寿の人々を讃えるお祭りでした。

 長老たちが、現地の美しい生地で作られた服を身にまとい、周りの皆が素朴な楽器を奏でながら、歌を歌い、リズムをとり、まだ、ヨチヨチ歩きのような小さい子供までが驚くほどのステップを刻みながら踊る、その様子は、本来、あるはずの彼らの生活であるような気がしました。
  
 それは、彼らなりの幸せを見せつけられているような感じでした。

 外国から、よそ者が入ってきて、引っ掻き回すことで、混乱させていることもあるのではないかと私は、思うのです。それは、最低限の生活というものは、必要でしょう。

 しかし、あの気候の中で、そこに住む人なりの生活があるのではないか?

 私は、思うのです。

 アフリカは、アフリカでいい・・と。



 












2019年8月18日日曜日

フランスのドクターストップの制度





 主人の実家の近くのドクターのところに彼が行くと、第一声が、” Tu veux arreter ? " (ドクターストップにする?)なのだそうです。
 
 ドクターストップは、お医者さんに、ほぼ全ての権限があり、このお医者様は、極端ではありますが、気軽に書いてくれる先生とそうでない先生がいて、ずいぶんと差があるようです。

 あまり、ドクターストップの安売りをしている医者には、チェックが入るそうなので、それを恐れて、なかなか、出してくれないお医者さんもいます。

 私の元同僚であった友人がガンで闘病中だった時に、逆に、手術後、しばらくすると、ドクターストップを解かれてしまい、まだ、体調も万全ではないにも関わらず、仕事に復帰せざるを得なくなってしまったというようなケースもありました。

 フランスでは、厚生省が定めた、いわゆるどドクターストップのシステムの基準が大きく分けて、二つのものがあります。

 一つは、一般的な怪我や病気の場合などは、いわゆるアレットドトラバイユ といって、ドクターストップがかかり、その間のお休みは本人の休暇として換算されることはありません。また、その間のお給料は、半分くらい、日割りの計算で支給されます。
(ただし、ガンなどの特別な疾病に関しては、100%保証されます。)

 これに対して、アクシダンドトラバイユというのは、仕事中、もしくは、通勤・退社途中に起きた場合の疾病・事故に限定するドクターストップです。

 これについては、2名の証人のサインが必要になり、セキュリテソーシャル(フランスの健康保険機構)に24時間以内に提出が義務つけられています。
 また、この場合は、仕事場で起こった疾病・事故ということで、お給料も100バーセント支給されます。

 ですから、フランスに在住の方は、もし、職場で何かあったら、早急に証人を誰かに頼んで、手続きをすることをお勧めします。

 私は、一度、仕事中に会社の階段を踏み外して、転んで、足を怪我して、一ヶ月強、アクシダンドトラバイユで、休んだことがありました。

 転んですぐには、恥ずかしさもあって、” 大丈夫、大丈夫!” と言っていたのですが。その夜、家に帰るとみるみる足が腫れ上がり、どうにも我慢できないくらい痛みが増してきたので、主人に頼んで、救急病院に連れて行ってもらいました。

 そのころの病院は、暴動があったすぐあとで、夜遅くだというのに、病院は猛烈に騒がしくて、混んでいて、待てど暮らせど順番は回ってきませんでした。

 腹に据えかねた主人が、” もう、これ以上見てもらえないなら、ここから救急車を呼ぶからな!!” と怒鳴り込んでくれて、ようやく、見てもらえたくらいでした。

 結果、骨折ではなく、転んだ箇所に血栓ができてしまっていたため、しばらくは、ドクターストップ、最初は、1週間の予定が結果的になかなか血栓が消えずに、結局、一ヶ月強、休むことになりました。

 その間、毎日、血液検査をしては、お医者さんのことろに通うのですが、仕事に早く復帰しなければと焦っていた私は、お医者様からガツン!と、” あなたは、死にたいの!?” と脅され、仕方なく休みました。

 仕方なく休んだ・・というところが、我ながら、いかにも日本人です。
しかし、まともに歩けもしない間、完治するまで有給で休ませてもらえて、本当に助かりました。
 
 また、子供が病気の場合にも、親の分のドクターストップも書いてくれます。病気の子供を放って仕事に行くことはできないからです。

 財務省で働いている知人などは、今年は、もう、バカンスないでしょ!?この間も休んでいたし・・などと言うと・・この間のあれは、アレットドトラバイユ(ドクターストップ)だったから、まだ、バカンスはたっぷり残っているわよ〜” てな調子です。

 どんな、システムでも、それを自分の都合よく、使いこなしていく人って、いるものなのです。

 また、そういう人は、当然の権利だと深く信じて、主張するところが、フランス人のスゴいところなのです。
































2019年8月17日土曜日

日本にいる親の介護問題




 海外で生活していて、両親が歳をとってくれば、年々、気にかかるのは、親の介護問題です。

 母は、心臓の病気を抱えていましたが、最後のギリギリまで、家での生活を何とか続けていくことができていましたので、看病らしい看病をする間もなく、亡くなってしまい、介護の問題といっても、私が帰国した際に訪問介護の手続きをしたり、家の内装を整えたりといったことは、できましたが、そこまで深刻な状況にはなりませんでした。

 私は長いこと海外暮らしでしたし、弟もちょうど、母が倒れる直前に海外赴任になり、側にいることは、できませんでした。

 母が亡くなって以来、父は、一軒家に一人で暮らしていましたが、同じ敷地内に父の兄家族が住んでいましたので、父、本人も、まるで、ひとりぼっちという気分ではなかったようです。

 ところが、晩年になって、父が次第に弱ってきた頃に、問題は、勃発したのです。

 弟は、それでも、日本から比較的、近い国、しかも、日本企業での勤務でしたので、出張で日本に来る機会もあったりしたので、その際には、顔を出して、宅配の食事の手配などをしてくれたりしていました。

 私も、仕事も家庭も放り出して、日本に帰ることは、できませんでした。

 父は、子供の頃から住んでいる場所に並々ならぬ執着があり、再三再四、説得しても、介護施設に入ることは、受け入れてはくれませんでした。” 俺は、ここで、野たれ死にしてもいいから、ここからは、動かない!” と、言い張っていたのです。

 とはいえ、隣に住んでいる親戚からしたら、そうは言っても、段々と弱ってくる父を真近に見ていては、放っておくことはできないと言うのも当然のことです。その家族も高齢者を抱える一家で、次第に、そうそう面倒を見られない状況になっていたのです。

 また、厄介なことに、弟は、単身赴任で海外駐在しており、お嫁さんは、娘の学校の関係で、日本と弟のいる国とを行ったり来たりする生活をしていたのです。

 父は、気難しい性格で、誰もが気安く近寄れるような存在ではありませんでした。弟のお嫁さんも時々は、顔を出して、買い物や家のことをしてくれてはいたようですが、父とは、あまり、折り合いが良くありませんでした。

 しかし、隣に住む親戚からしたら、日本に嫁がいるのに、何で、もっと、世話をしに来ないのか?と思うのも、わからないではありません。
 
 結局、お嫁さんと親戚との板挟みになって、弟が悲鳴を上げて、私のところに電話をしてきました。

 ”何とか、一週間でもいいから、帰ってきてくれないか?” と。

 滅多に電話をしてくることがない弟の悲痛な叫びに、私は、一週間だけ、急遽、休暇をもらって、日本へ行くことにしました。

 ちょうど、娘は、夏のコロニー(合宿)でスペインに行っていましたが、その帰りを待って、娘がスペインから戻った翌日に娘を連れて日本へ行きました。

 必死だった弟は、介護施設を探し、いくつか候補を見つけて、見当をつけてくれていて、何とか、体調が回復するまでという条件で、介護施設に入ることで父を説得してくれていました。

 その時ばかりは、私も、日本へ行っても、病院と介護施設の下見と父の介護だけと、心に決めて、またとない機会だと、娘にも父の介護を手伝わせ、一緒に父の身体を拭いたり、足湯をしたり、食事の世話をしたりと一週間ほどの父との濃密な時間を持ちました。

 少し見ない間に、父は、痩せて、朝、起きて、ベッドに横たわる父は、本当に生きているのかどうか心配になるような顔色でした。

 それでも、まるっきり食べなくなってしまったと聞いていた父でしたが、私が食事の支度をすると、娘と張り合って食べるほどの食欲を見せてくれました。

 付き添って行った、病院でも、お医者様と相談して、ワーファリン(食べ物に規制がある)という薬をやめて、もう好きなものを召し上がるようにした方がいいということになり、嬉しそうに、長いこと食べることができなかった納豆ご飯を食べていました。

 色々なことは、重なるもので、ちょうど、その年は、娘の大学進学の学年と重なっていましたので、大学が決まるまでは、来れないから、何とか、それまでは、頑張って欲しいと思っていましたし、父の方にもそう伝えました。

 最後に、帰り際、父にその旨を伝えると、父は、珍しく、” 来てくれて、ありがとう。こんな幸せな一週間は、なかったよ。” と言ってくれました。口が悪くて、憎まれ口ばかりきいている父のそんな言葉に、私は、返す言葉もありませんでした。

 結局、これが、私が最後に聞いた父の言葉となってしまいました。

 父は、私たちが帰ってすぐに、介護施設に入り、その5ヶ月後に亡くなりました。

 家の冷凍庫には、私が夏に来た時に作り置きをして、小分けにして、冷凍していった、ひじきの煮物が残っていました。

 従姉妹の話によると、もったいないから、全部は食べないと父が言っていたそうです。

 ほんとうに親不孝な娘で申し訳ないと、残されたひじきの煮物を見て、あらためて、深く深く、思わされた私であります。

2019年8月16日金曜日

イギリスの不思議、ヨーロッパの不思議




 私が初めて海外生活を送ったのは、イギリス、ロンドンでした。

 初めての海外生活に不安と期待でドキドキ、ワクワクしながらも生の英語での生活に慣れるのに必死でした。

 英語なら、なんとかなるだろうと、タカをくくっていた私は、実際に思うことが思うように言葉にならず、また、同じ英語でもアメリカの単語だとわからないふりをされたり、いちいち直されたりで、ウンザリもしました。

 街で見る景色も人々も新鮮で、不思議なことは、たくさんありました。

 人々が寒さに異様に強いことも不思議でしたし、雨が降ってきても、誰も傘をささないことも不思議でした。

 信号が赤でも、みんな平気でどんどん渡っていくし、地下鉄のシートは汚く、駅の時計などは、まともに動いている方が珍しい感じでした。

 地下鉄では、何かあるたびに、” All change please ! " とすぐに降ろされ、テロ騒ぎがあっても、慣れているのか、すぐに、その場は片付けられ、皆、わりと平然としているように見えました。
 
 そんな地下鉄の中には、ギターを持って大声で歌を歌って、歌い終わるとお金を集め始める人もいました。

 見ず知らずの人にでも、気安く話しかけることも妙な気がしたし、やたらと時間や道を尋ねられたりしました。まったく、外人の私になんで聞くの?と思ったものですが、あとから考えれば、外人だらけの街なのです。

 食べ物も、その質素なことにも、なんでもグチャグチャに柔らかく煮込んでしまうのにもウンザリしました。缶詰のスパゲティーにソースだけかと思ったら、スパゲティー自体が入っているのにもビックリしました。

 まだまだ、充分に人が乗れる場所があると思われるバスでも満員だからと通り過ぎて行ってしまうことも、運転中にトイレに行くと言って、バスを止めて、マクドナルドに入って行ってしまった運転手さんに唖然とさせられたこともありました。

 回送中のダブルデッカー(赤い二階建てのバス)の運転手さんに声をかけられ、断ると、そのまま、バスごと追いかけられたりしたこともありました。こんなダイナミックなナンパはきっと、もう二度とお目にかかることはないでしょう。

 あれから、ずいぶんと時は経って、イギリスよりもフランスでの生活が長くなりましたが、あの頃、ビックリした一つ一つのことは、ほぼ、フランスにも当てはまることで、今や、私自身が、何の驚きも感じ得ないようになっていることに、時の流れを感じさせられるのであります。

 












 

2019年8月15日木曜日

私がフランスで、未だに小切手を使う理由




 さすがに、最近は、スーパーマーケットなどで、小切手で支払いをしている人を見かけることは、(これをやられると、ただでさえ時間がかかるレジで、身分証明書を確認したり、サインしたりする作業などが加わるので、一層時間がかかり、行列を招きます。)
減りましたが、私は、時々、いくつかの支払いに未だに小切手を使っています。

 それは、以前に edf(フランス電力会社)の支払いの際、自動引き落としにしていて、二桁も間違えられて、引き落とされた際の苦い思い出や、支払いの際の、払った、払っていないという問題が生じた場合に、小切手で支払えば、小切手のナンバーで、支払ったことを通知しやすいからです。

 あくまでも、全て、ミスが起こることを前提として、考えているからです。
出来るだけ、ミスが起こらないように、そして、起こった場合に対処しやすい方法を考えるようになるのです。

 edf の引き落としミスは、銀行からの残高が赤になっているという知らせでわかりましたが、そんな大金を使った覚えはなく、調べてもらったところ、edf からの引き落としミスで起こったことがわかりました。

 即刻、edf に連絡して確認したところ、引き落としの桁を2桁も間違えられていたことがわかり、驚愕しました。また、その上、一言の謝罪もなく、逆ギレされ、間違えて引き落とした金額の再入金に驚くほど時間がかかったのです。

 我が家は、その時の苦い経験がトラウマのようになっていることから、自動引き落としは、できる限りしないようになりました。とはいえ、今の時代、自動引き落としでなくては、利用できないサービスもたくさんあるので、それは、自動引き落としにして、毎月、チェックするようにしています。

 日本では、小切手というのは、あまり一般的ではありませんが、フランスでは、未だに小切手社会が存在しています。

 今、普通に買い物をするときには、現金もほぼ使わず、カードで済ませてしまいます。
その方がいちいち現金をおろす必要がないし、その方が早くて間違いがないからです。

 この間違いというのが、人間が介在すればするほど起こりやすいものなのですが、フランスの場合は、その確率が高いのです。

 常にトラブルを前提として、出来るだけ、トラブルにならない方法をこちらから取る必要があるのです。こちらもその度に嫌な思いをしたくないのです。

 こんなわけで、私は、前時代的とは、思いつつ、私は、未だに小切手を利用しているのであります。

 

2019年8月14日水曜日

フランスから日本へのお土産で喜ばれるもの





 フランス暮らしも長くなり、日本へ帰国するたびに持っていくお土産には、ほんとうに頭を悩ませています。もはや、お土産のことを考えるだけで、日本行きが億劫に感じられるくらいです。

 しかし、手ぶらでは、帰れない! 毎回、山ほどのお土産を持って帰ります。

 平均して、毎年、年に1〜2回の帰国で、今まで、考えうるものは、もう全て、持って行ったというくらい、持っていき尽くした感があるです。

 洋服、バッグ、化粧品、香水、食料品、はっきり言って、かなりの出費も嵩みます。

 化粧品などに関して言えば、日本には、日本人の肌質や気候に合った優れたものがたくさんあるし、シャネルやディオールなどのフランスの大手化粧品会社では、世界中、どこでも同じ価格で買えるような価格設定を目指していると言います。

 その上、日本人の好きな、美白、日焼け止め効果のある化粧品に関しては、シャネルなどのブランドにおいても、アジア限定の商品を発売しているくらいです。(こちらの人は、美白よりも、日焼けして、リッチさをアピールしたがる傾向にあります。)

 だいたい、日本のデパートに行けば、フランスのものだらけと言ってもいいくらいで、フランスのもので、日本で手に入らないものは、まずないと言っていいくらいです。

 まあ、化粧品に関しては、価格の点から考えると、ビオコスメのメーカーの値段的にもお手頃なユリアージュのハンドクリームやリップクリームなど、無香料の上に質が良いので、おススメです。(男性でも、女性でも使えるし・・)

 また、ビタミンCのタブレットや、アヴェンヌのシカルフェートクリーム(ニキビ、肌荒れ、虫刺されなどにも効く万能クリーム・これも無臭でサラッとしています。)なども便利です。

 だいたい、日本のデパートに行けば、フランスのものだらけと言ってもいいくらいで、フランスのもので、日本で手に入らないものは、まずないと言っていいくらいです。

 ですから、もう、こちらも思いつかないので、日本に行く前には、注文を聞くようにしています。

 その結果、最近は、もっぱら、空輸の利点を活かした食料品に頼っています。

 特に人気があるのは、バター、チーズなどの乳製品です。

 日本でのフランスの乳製品の値段には、ビックリしてしまいます。いくら、美味しいとはいえ、この値段で、誰が買っているの? と思う程です。
(こちらでは、一番スタンダードでお手軽なプレジダンやリオンのカマンベールなども少なく見積もっても7〜8倍の値段です。一体、これは、どこが儲けているのか? 税金なのか? 仲介業者なのか?と、いつも、思います。)

 エシレバターなどは、こちらでも、普通のバターに比べると、若干、高めで、バターを大量消費するフランス人の一般家庭では、あまり、消費されているわけではありません。

 とは言え、この値段の違いを考えれば、お土産としては、かなり、ポイントが高いようです。

 チーズに関しても、スタンダードに日本に輸出されているものは、少なく、チーズならば、あまり、日本では、手に入りにくいものがたくさんあります。

 ここのところの、内輪での人気は、コンテですが、これも熟成期間、6ヶ月、12ヶ月、18ヶ月と色々です。できれば、その場で、大きく切ってもらったものを買って、日本に帰ってから切り分けることをおススメします。

 日本で手に入りにくいと言えば、エシレの生クリームなども結構、喜ばれました。

 あとは、コンコイヨットと言って、リキッド状になっているチーズなどもパンに塗って食べたりしやすいので、日本人には、人気があります。

 また、トゥルトーフロマージュと言って、袋入りの黒いチーズケーキもあっさりとしていて、日本には、あまりないので、おススメです。スーパーのチーズコーナーのレイヨンに売っています。

 チーズ以外には、野菜類、季節にもよりますが、エシャロット、アーティーチョーク、紫色のジャガイモなどなど。

 他に、参考までに、今まで、喜んでもらったものは、ブーケガルニ、ブイヨンキューブ、パウダーのスープ類(日本にはない、アスパラやポアロやセップ茸のものなど)、ゲランドの塩、ドライのセップ茸、バルサミコ風味のマスタード etc・・などです。

 あとは、モノプリやM&Sのエコバッグなども人気です。

 もう、ここまで来ると、ほとんど、行商人のようです。

 そして、スーツケースのお土産の中身を空にして、今度は、再び、日本の食料品で満たして、結局は、往復ともに行商人のように日本とフランスを行き来するのであります。





 

2019年8月13日火曜日

フランスのホームパーティー




 日本にいる時は、友達と会うのも、圧倒的に外で、どこかに飲みに行くとか、食事に行くということがほとんどでしたが、海外に来てからは、めっきり、友人と会うのも自宅に人を招いたり、招かれたりということが多くなりました。

 ある程度、仲のいい友人になると、「どこかにご飯、食べに行きましょう!」ではなく、「うちで一緒に食事しよう!」となることが圧倒的に多いのです。

 もちろん、どこかに美味しいお店があって、それを食べに行こうということだって、あるには、あるのですが、圧倒的に家で・・ということの方が多いのです。

 それは、基本的にフランス人は、倹約家(ケチ)だということもあると思いますが、家族ぐるみの付き合いというのが圧倒的に多いからだと思うのです。

 子供がいる場合などでも、周囲のお客さんなどを気にすることもなく、時間も気にせずに、家の方が子どもも大人もゆっくりと、自分たちのペースで、和気あいあいとした時間を過ごすことができるのです。

 人を家に招くのですから、ある程度は、セッティングやお料理などにも気を使って準備はしますが、それでも、親しい友人同士ですから、ある程度、分担して、用意したり、時には、一緒にお料理をしたりすることもあります。

 その準備、そのもの自体にも楽しみがあるのです。

 こうして考えてみると、日本人同士の友人関係の距離と、フランス人の友人関係の距離感は、微妙に違っているのかもしれません。それは、あくまでも家族が基盤となっている関係性だからなのかもしれません。

 主人と一緒に生活するようになってから、人を家に招いたり、招かれたりということがほんとうに多くなりました。アフリカにいた頃は、それが半分は仕事のようなところもあったので、かなり頻繁でしたが、仕事以外の場面でも、随分と彼の友人や仕事の関係の人との付き合いの場でも、必ず私も出席していましたので、主人の交友関係は、私の交友関係にもなっていっています。

 レストランなどの公共の場で一緒に食事することと、家に招待して時間を共に過ごすことでは、その親密さがグッと違ってくるように思うのです。

 そうやって、自宅で、友達が集まって過ごしたりするに至るには、ひとつ垣根のようなものがあり、その垣根を取っ払ったのが自宅でのパーティであり、それで、人間関係の絆も強くなっていくように思います。

 その方がざっくばらんで、自然体でいられて、楽しいのです。





















2019年8月12日月曜日

フランスの医者の大盤振る舞いな薬の処方




 フランス人は薬が好きです。

 薬が好き・・というと、ちょっと語弊がありますが、薬に頼ろうとする傾向が高く、またそれは、保険制度の仕組みのおかげ? でもあり、お医者様が処方箋を書いてくれた薬に関しては、特別な薬以外は、ほぼ、保険でカバーされるので、余計に薬をたくさん使うようになっているのかもしれません。

 実際に、薬屋さんと、メガネ屋さん(これも、保険でかなりカバーできます)は、繁栄の一途を辿っていて、あまり、潰れるのを見たことはありません。

 私自身も定期的にお医者さんにかかっていますが、いつも、常備薬として必要な薬のリストを持って行って、まとめて、処方してもらっています。
 これなら、お金がかからないので・・。w

 日本のような、医食同源という観念は薄く、" まず、食生活や生活習慣を改善して、様子を見ましょう。” などということにはならず、いきなり、薬を処方されてしまうので、こちらの方が戸惑いながら、” 何か、食べ物で気をつけた方がいいものなどあるでしょうか? ” などと聞いても、しぶしぶ、” まあそうね〜これとこれは、避けた方が・・” と言う程度で、あくまで、薬で調整しようとします。

 胃が痛くて、お医者様にかかった際も、鎮痛剤を処方してくれたのには、ビックリしました。胃薬というのは、胃が荒れているから飲むもので、鎮痛剤が胃に負担をかけるという考え方はしないようです。

 また、安定剤や、睡眠薬もかなり、気軽に処方してくれるのにも驚きます。

そして、できるだけ、控えた方がいいなんていういとも言いません。むしろ、無理して、辞める必要はないと言われます。
(ただし、一度にたくさんの処方は法律で禁じられているようで、他の薬は、3ヶ月分とか、場合によっては、6ヶ月分とかまとめて出してくれるのですが、安定剤や睡眠薬に関しては、普通は、一度に一ヶ月分しかもらうことはできません。)

 先日も気管支炎を起こしかけていたところ、夜、咳で眠れないといけないからと、睡眠薬を処方してくれました。まあ、処方されたからといって、この手の薬は特に、必ずしも、お医者様の言う通りに飲まなくても、慎重にした方がいいと思っています。

 夜中に咳をしているつもりはなかったのですが、一晩、試しに飲んでみたら、やはりよく眠れて、身体も楽になったので、しっかり睡眠を取ることも大切なのだということもわかりました。

 薬の処方の際には、この薬は、何の薬なのかということをひとつひとつ、しっかりと聞いて、自分で、調べなおしてから、飲むようにしています。今は、ネットで薬ひとつひとつ調べれば、大抵のことは、わかります。

 そのお医者さんは、今の場所に引っ越して以来のかかりつけの女医さんなのですが、もう、家族一人一人のことや、私たちの家族の歴史、体調の変化なども全て知っていてくださるので、とても楽で、どんな病気であってもとりあえず、彼女のところに相談に行っています。

 薬を処方してもらう時には、しっかり聞いて、自分の字で書き留めておかなければ、お医者様の処方箋の字が汚くて読めないのです。これは、フランスの医者あるあるらしいのですが、特に、字を崩して書く傾向にあるようです。

 最初、主人と暮らし始めた時は、山ほどの薬を抱えていて、この人は、なんと、薬が好きな人なんだろうとびっくりしましたが、それには、こんな背景があったのです。

 
















2019年8月11日日曜日

妻に花束を贈り続けるフランス人の話




 ジャン・ピエールは、私の元、同僚?というか、同じ会社で働いていたフランス人のおじさん(いや、もう、おじいさんになってしまいました。)です。

 社内の壊れ物をなおしてくれたり、外にお届けものをしてくれたり、買い物をして来てくれたり、運転をしてくれたりと、社内の雑用を一手に引き受けてくれるとても優しいおじさんでした。

 彼は、もともとは、前の社長が自分の犬の散歩係として雇ったという人で、難しい仕事は嫌いです。ちょっと、厄介なことを頼まれそうになると、いつの間にかスーッと姿を消していて、ほとぼりが冷めた頃にちゃっかり何気ない顔をして帰って来ます。

 でも、厄介なことが嫌いなだけで、とても気の優しい 、おしゃべり好きで、善良な、" いい人 " なのです。

 彼は、とても若い頃(16歳くらい?)から働き始めたそうで、その分、定年も早く、かなり前にすでに、引退しています。

 たまたま、家がわりと近所だったこともあり、彼が引退後も、私たちが日本など、長期の旅行へ出るときなどは、ジャン・ピエールにアパートの鍵を渡して、ポニョ(猫)の世話(1日一回、家を覗いてもらって、キャットフードを補充し、水を変えて、猫のトイレを綺麗にしてもらう)や、ベランダの植物の水やりをお願いしています。

 ポニョに出来るだけ、寂しい思いをさせないように私が考えた苦肉の策ですが、ジャン・ピエールの動物好きもあって、なんとかうまくいっています。

 結局は、ポニョを頼むときくらいしか、会わないのですが、それでも、ノエルとか、新年の挨拶など、時々、電話をくれます。

 夫婦、家族がとても仲良く、なんでも奥さんかお嬢さんに相談して決めます。まだ、彼が会社にいた頃には、たまに、昼食時に奥さんが、やって来ることもありました。奥さんもパリの中心地にくるという、気合満々で、貴婦人のようにおしゃれをして、帽子までかぶって、犬を連れて現れ、二人連れ添って、食事に出かけたりしていました。

 お嬢さんと息子さんは、もう独立していますが、つい最近まで、夫婦で奥さんのお母さんを引き取って、二人で面倒を見ていました。つい最近、102歳で亡くなりましたが、ずっと、二入でお母さんのお世話をしていました。
 フランス人は、意外と、長生きなのです。

 ジャン・ピエールは、引退後には、市のやっている自転車のクラブに入っていて、気候の良い時は、クラブの仲間と自転車に乗りに行ったりしているようです。

 彼は、私よりは世代がかなり上なのですが、いわゆる底辺のフランス人の生活を送っている人です。しかし、生活自体は質素ではあるものの、至極、真っ当な生き方をしていて、家族でいたわり合って暮らしている様子は、なかなか凄いなあと思って見ています。

 彼が奥さんに頼まれて、買い物に行けば、必ず奥さんのための花のブーケを買って帰ります。結婚したのも早かったようなので、もうずーっと長いこと一緒にいる兄弟のような感じだと言いつつも、お買い物の帰りには、奥さんのための花束を買うのです。

 また、還暦のときだったか、市長さんがその年の還暦の人を集めて招待するバトームーシュのディナークルーズに招待され、ジャン・ピエールは大興奮。パリから、海外に出たことのなかったジャン・ピエールにとっては、初の海外旅行になりました。(バカンスの時は、フランス人ですからそれなりに3週間くらいフレンチアルプスとか山の方に行ったりしていましたが、フランスの土地を離れたことは、なかったのです。)

 セーヌ川を海外旅行と呼ぶかどうかは別として、一度も海外に出たことがなかった彼がセーヌ川とはいえ、フランスの土地を一歩でも離れたのです。
 還暦にして初めての海外、しかもそれがセーヌ川。
なんだか、いいじゃありませんか?

 今年の夏も、ジャン・ピエールの方から電話がかかって来ました。
” 今年は日本に行かないの?” と。去年、あまりに暑かったから、今年の夏は、やめたのよ!” というと、彼は、ちょっとがっかりした様子。
 ポニョの世話で稼げるお小遣い目当てだったのかもしれません。

 ひとしきり、近況などを話したあと、”じゃあ、もっと涼しくなってから、行った方がいいね。” ”じゃあ、また、行くときに電話して!”と言って、電話を切りました。

 娘は、なぜか、ジャン・ピエールが苦手で、” だって、あの人、話が長くてくどいんだもん〜!” などと、ある時、言い出したら、それまで、ゴロゴロいっていた、肝心のポニョまで、ジャン・ピエールを嫌いだしてしまい、ジャン・ピエールが家に来るとどこかに隠れてしまうようになってしまったのです。

 留守の間、毎日、ジャン・ピエールが家にやって来てくれても、ポニョはどこかに隠れてしまって、ジャン・ピエールがいなくなるとどこからか出てくるらしいです。

 それでも、変わらずに、ジャン・ピエールは、ポニョにも優しくしてくれます。

 ある時、会社の中の誰かが言っていました。
ジャン・ピエールってよく見ると、なかなかのハンサムだよね〜って。
でも、なんで、あんなに格好悪いんだろう!?って。

 それでも、私は、ジャンピエールとその家族を見ていて思うのです。

 それは、決して、裕福ではないかもしれない、むしろ質素な生活ですが、夫婦がお互いをいたわりながら、静かに暮らしている。彼とその家族は、余分なものを除いた幸せのエッセンシャルな部分を生きているのではないかと。

 彼に会うたびに思うのであります。
























2019年8月10日土曜日

海外生活への順応と自分の価値観 日本では、あたりまえのこと




 私も海外に出たての頃は、” 日本だったらこうなのに・・” とか、" 日本だったら、こんなことは、ないのに・・” と、いちいち思っていました。

 日曜日には、お店が閉まってしまうことや、バスやメトロなどが時間通りに来なかったり、郵便物、宅配品などが届かなかったり、客を客とも思わないようなお店の対応や、やたらと自己主張の激しい人々、ロクに働かないのに、バカンスはたっぷり取ること・・などなど。未だに、挙げればキリがないほどです。

 でも、そんなことを言ってばかりでは、海外で暮らしては、いけませんし、何の解決にもなりません。

 考えてみれば、あたりまえのことです。
違う国で、違う文化と歴史を持って生活している人々が、日本と同じような生活や考え方をしているはずは、ないのです。

 慣れというのは、ありがたい? もので、そのこと自体には、不満を感じつつも、ある程度の対処の仕方が見えてきます。

 そして、ある程度の対処の仕方が見えてくると、次第に日本ではあたりまえだったことが、必ずしも必要なことばかりではなかったと感じることも出てきます。

 それは、自分自身が生きていく上での価値観とも繋がっていきます。
日本で、あたりまえのことが必ずしも正しいこと、必要なことかどうかは、甚だ疑問であることも実は多いのです。

 日本では、やたらと空気を読むとか、世間の風潮を気にしがちですが、そのことに、とても縛られてしまっているところもあります。本当は、自分はどうしたいのか? 自分自身の価値観、判断基準が見えないことが多いのです。

 生活の違いは、生きる上での価値観の違いとも言えます。
 何に豊かさを求めるかでもあります。

 日本での便利で快適な生活のために、失っているものも少なくないのかもしれません。

 ヨーロッパの人の普段の生活は、質素です。その分、家族で過ごす時間やバカンスに多くを費やし、大切にしています。

 どちらがいいとは、一概には、言えません。

 ただ、広い世界から見れば、日本こそが特異であるとも考えられます。

 少なくとも、どこの国に住んでいても、自分自身の価値観をしっかりと持って、自分はどう生きたいのかを考えなければ、自分の人生を生きることはできないのです。

 海外での生活で、外から日本を見ることによって、自分は、どう生きたいのかを見つめ直すきっかけになるかもしれません。













2019年8月9日金曜日

娘の寝相と寝言




 うちの娘は、小さい時から、寝るのが嫌いで、なかなか寝ない子どもでした。
 昼寝もしたことがありません。

 保育園から、” おたくのお嬢さんは、お昼寝の時間に寝ないで、もう一人の子供と二人で周りの子供を起こして回るので、これからは、お昼寝の時間は、別の部屋にいてもらいます。" と言われたこともありました。

 それでも、夜は、寝室は、きっちり分けるというフランス人の夫のしつけ?で、寝る時間になると、” ボンニュイ " 、" おやすみなさい " と、ふた通りの挨拶をして、自分の部屋に行くことになっていました。

 夏の間は、いつまでも明るいので、シャッターは下ろして、眠れるように、暗くしている自分の部屋に、娘は、後ろめたそうに、仕方なく、入っていくのでした。

 パパは、甘いけど、とても厳しく、怖い存在でもあるのです。

 娘が部屋に入った後は、私と主人が二人で話をしていると、しばらくして、少し時間がたった頃に、娘の部屋から、” そろそろ来て〜!” と声がかかり、私は、彼女の部屋に行き、日本語の絵本を読むのが日課になっていました。

 娘は、なかなか寝ないのですが、寝たら最後、なかなか起きません。
朝、起こすのにもとても、苦労しました。あんなに寝るのを渋ったくせに、起きないとは!?・・と何度、思ったことでしょう。

 また、彼女は、寝相も恐ろしく悪く、ベッドで、寝ている間にベッドの上を半回転しているようで、起きる頃には、必ず、頭と足の方向が逆になっているのです。時計の針のように寝ている間に移動しているのでしょうか?

 ある夜、夜中に、娘の " ギャー!!” という叫び声で、目を覚まして、何事かと思って娘の元に飛んで行ったことがありました。ベッドから落ちたのではないか? 怖い夢を見て悪夢にうなされたのではないか? 心配した私は、娘を揺り起こして聞きました。

 ” どうしたの? 怖い夢でも見たの?” すると、娘は、半べそをかきながら、私に言いました。” パパが、私のステークアッシェ(ひき肉をハンバーグのような形に固めたもの)を食べちゃった!” " すごく美味しいステークアッシェだったのに・・・” と。

 呆れて、返す言葉もありませんでした。

 真夜中に娘のステークアッシェの夢のために、起こされたのです。
なんという、食い意地の張った娘なのでしょうか?

 そして、そのことを翌朝、娘に話すと、彼女は、そんなことは、微塵も覚えていないのでした。

 私は、きっと長生きはしないことでしょう。



2019年8月8日木曜日

チーズとバゲットが好き過ぎるフランス人の夫




 ” フランスには、何千、何万という種類のチーズがあるんだ!" という、夫のセリフはもう耳にタコができるくらい、聞かされていました。そして、毎週のように、違う種類のチーズをいくつか買ってきては、” フランスにいる限りは、少しでもたくさんの種類のチーズを知らなければ・・” と言っては、せっせと、私と娘に試食させるのでした。

 もともと、乳製品が苦手だった娘は、そのせいで、ますますチーズが嫌いになり、主人に言われて、仕方なく、ほんのひとかけらは食べるのですが、結局、そのほとんどは、主人が食べていました。

 私たちにチーズの知識を教えるという大義名分を得て、主人は、ここぞとばかりにチーズを食べていたのです。

 そもそも、最初に主人と出会った頃、初めて、主人が私の家に来た時、カッコよく、ドンペリとバラの花束を持って現れたまでは良かったのですが、いざ、シャンパンを開けるとなって、何か、一緒につまめるものをと思って、冷蔵庫からカマンベールを出したところで、電話が鳴り、私は、ちょっと席を離れたのです。

 電話が終わって、戻ると、なんと、主人はカマンベールをまるで、ハンバーガーを食べるように、丸ごと食いつこうとしていたのです。主人は、チーズを目の前にすると、我を忘れてしまうのです。

 きっと、一人の時には、そうやって、食べていたのでしょう。私がビックリして、目を丸くしていると、主人は、我に返って、カマンベールを切り始めました。

 この、カマンベール丸かじりで、せっかくのドンペリもバラの花束も台無しでした。

 一緒に暮らすようになってからは、さすがに、主人はどんなチーズも切って食べていましたが、その一切れが大きいことといったら、驚きなのです。

 正確にいえば、私は、フランス人というのは、これだけの量のチーズを食べるものだと思ってしまっていたので、彼の友人宅に行ったり、レストランに行って、最後のチーズのデザートを食べている他のフランス人のチーズの一切れとは、えらく違うことがわかり、大変驚いたのであります。

 そして、バゲット。パン。

 バゲットを主人が買ってくるときは、3人家族なのに、一度に2本買ってきます。主人のお好みは、” pas tros cuit (焼きすぎていないもの)" といつも、こだわりの注文。そして、家に帰ってくる時には、もう半分はなくなっているのです。おかげで、いつも、車の中は、パンのクズだらけです。

 そして、日曜日の朝には、クロワッサンやパンオショコラを買ってくるのが、最高の優しさと思っているらしく、彼自ら、”クロワッサン、買ってこようか? パンオショコラ食べたくない?” というので、たまには、お願いせざるを得ない感じになります。

 あとは、彼にとったら、ワインがあれば、もう、いうことはないのです。

 日本食をはじめ、私の作ったものは、何でも美味しい美味しいとテーブルを盛り立ててくれる主人ではありますが、本当は、チーズとバゲットとワインが一番好きな、超フランス人なのであります。

 





2019年8月7日水曜日

パリのねずみ




 パリの建物には、旧建と呼ばれる、古い建物が多く、また、地下も意外と昔のまま残されていたりするためか、パリには、ねずみがとても多いのです。

 以前、会社のゴミ収集に来たおじさんが大きなゴミ箱をゴミ収集車に運ぼうとしているところに遭遇し、そのゴミ箱の中から、ねずみがピューッと飛び出してきたのを見て、悲鳴をあげてしまった私に、おじさんは、笑いながら、” ここをどこだと思っているの? ここは、パリなんだよ!” と言われたのには、返す言葉もありませんでした。

 ですから、場所にもよるのでしょうが、パリには、ねずみ駆除という仕事が存在し、会社には、定期的に、ねずみ駆除用の薬を置きに来る業者が入っていました。

 何やら、要所要所にスプレーみたいなものを撒いたり、ねずみが現れそうなところに、ピンクの毒薬のようなものを定期的に置きに来るのです。

 ですから、それを夜中に食べてしまった死にかけたねずみに朝一で会社の鍵を開けて入る私は、瀕死のねずみに遭遇して、悲鳴をあげる私に、嘲るような顔をして、とても美人なロシア人の同僚が、あっさりとねずみのしっぽをつかんで、通りのゴミ箱に捨てに行ったのにもびっくりしました。

 ある、お店の倉庫で、キャラメルをねずみにかじられ、キャラメル屋さんに、交換を頼んだところ、” うちのお店のキャラメルは、ねずみもこぞって食べるくらい美味しいんだ!” と自慢げに言われたとか・・。

 どうも、フランス人のねずみに対する感覚は、私の感覚とは、遠くかけ離れたものであるようです。

 おまけに、私がアフリカにいた頃の話を一つ。

 あるマルシェに買い物に行ったところ、ちょうど、昼食時にあたっていて、数人の店員さんたちが、クスクスか何かのテイクアウトのお料理を店番をしながら、食べていました。
 
 カラフルなプラスチックのお皿に盛られたクスクスには、同僚の分なのか、一皿だけ、手をつけられていないお皿が置いてありました。見ると、その一皿には、一匹のねずみが堂々とクスクスを食べているではありませんか!

 私が仰天して、そばにいた、別の店員さんに、おののきながら言ったのです。” あれ!!見て!!あそこで、ねずみが!!食べてる!!” と。

 すると、彼女は、涼しい顔をして答えたのです。
” ねずみも生きてるんだから、食べなきゃね・・” と。

 アフリカとなると、フランス人のさらに上を行く、ねずみとの共存関係なのでした。

2019年8月6日火曜日

フランス人のプライド




 フランス人といえば、プライドが高く、高慢なイメージを持つ人は、少なくないでしょう。実際に、フランス人は、愛国心が旺盛で、フランス語は世界一、美しい言語であり、パリは世界一、美しい街であり、フランス料理は世界一で、世界中の料理をリードしていると思っています。

 これは、少し、オーバーな言い方ではありますが、あながち、冗談ともいえず、多くのフランス人は、少なからず、そのように思っていると思います。

 そして、フランス人は、良くも悪くも、比較的、感情をストレートに表現する傾向にあり、好き嫌いをそのまま表現し、不快感を隠しません。

 良い場合には、それが賞賛の嵐、また、ロマンティックな演出に繋がるのですが、逆の場合には、それこそ、感じの悪いこと、この上ありません。

 運転をすると、その人の性格が出るなどと、よく言いますが、運転を始めた途端に、” ピュー、ターン、コーン!” (まあ、乱暴なフランス語で、” この、バカヤロウ !" くらいに訳しておきます)と始まり、思わず、顔を二度見してしまうこともあります。

 また、美意識が高く、格好つけたいところがあるので、みっともないところを見せたくないために、下手な英語も、" ここは、フランスなのだから、フランス語で話しなさい!" と高飛車に出て、話そうとしません。

 そして、子供の頃からの教育で鍛えられた議論を好み、自己主張をして、他人と意見が違うことでも堂々と語ることに誇りを抱いているので、友人、知人の間でも、答えの出ない会話にご満悦です。

 また、アメリカのものを毛嫌いし、ドイツには、対抗心を抱きつつ、負けたくないと思い、イタリアを下に見て、優越感に浸ります。実際は、アメリカには、どこをどうしても敵うことはなく、ドイツのように勤勉にも働けず、イタリアのように陽気に楽観的に人生を達観することもできない、愛国心とジェラシーの裏返しです。

 こう書き出してみると、なんと単純で子供っぽい人たちなのでしょうか?
良く言えば、子供のように純粋で、正直で、ストレートな人たちです。

 フランス人のプライドについて、書こうと思って書き始めたら、フランス人の大バッシングのようになってしまいました。

 そして、私には、同時に、主人のことも頭をよぎるのです。

 主人は、イタリア語も話すことができますし、イタリアに好意的なところと、ドイツ語も話し、赴任経験もあり、英語も話しますので、他言語、外国についての見解は、異なりますが、他の点に関しては、ほぼ、スタンダードなフランス人に当てはまります。

 だんだん、フランス人のプライドについてどころか、フランス人の悪口のようになってきて、しまいには、それが、主人の悪口のようになってしまったかもしれません。

 それでもなお、パリは、世界中から憧れを持って訪れる観光客人気、世界一の街であり、フランスのイメージは、決して悪いものにもならないのです。

 やっぱり、フランスってすごい国だと思いませんか?

 彼らのプライドの高さもうなずけるというものです。

 だって、フランス人なのですから。

 

 






2019年8月5日月曜日

長い独身生活の後の子育て・・ あなたは、少し、やり過ぎでした。




 私は、独身生活がけっこう長かったので、好き勝手に、ずいぶんと色々なことをしてきました。留学、海外旅行、本ばかり読んでいた時期もありましたし、友達との飲み歩き、おしゃれも楽しみ、テニス、ダイビング、モーターグライダー、ワインやカクテルの勉強などなど・・十分に独身生活を満喫していました。

 父には、” おまえは、空を飛んだり、海に潜ったり、今度は宇宙にでも行くのか?” と、呆れられていたくらいです。

 しかし、私は、独身生活を享受する中で、次第に、そこそこのことでは、満足しないようになり、無意識のうちに、自分のためだけに生きていることに、どこか虚しさを感じ始めていたのです。

 そして、運良く、そんな頃に、私は、主人と知り合い、家庭を持つことができました。まもなく、娘も産まれて、私は、自分以外の人間のために生きることになりました。

 それは、自分よりも大切な存在ができるということで、そのことが、まさに、自分にとっての画期的な変化を起こしていることに感動を覚えました。

 ですから、家庭を持って、子供を持った時、とりあえずは、もう思い残すことはなく、
子供のために自分の時間を持てないとか、自分のやりたいことができないとか、そういった不満を感じたことは一度もありませんでした。

 むしろ、子育ては、新鮮で、新しい喜びを私に与えてくれて、仕事以外の時間は、出来るだけ、娘と過ごせるようにと思っていました。

 娘を出産したのは、アフリカでのことだっったので、それなりに大変なこともありましたし、その後、パリに来てからは、仕事をしながらの子育てだったので、それもまた、それなりに大変でしたが、私は、とても幸せを感じていました。

 娘には、私は、あなたが産まれてきてくれたことで、私自身も産まれてきてよかったと思っているということ。そして、私にとって、あなたは、何よりも大切な存在だということをできるだけ、伝えるように心がけていました。

 それは、私が心の底から思っていることでもありますが、そう娘に伝えるのは、私が、子育てで一番大切なことは、自我の安定であると思っているからです。
 自分の存在が肯定されている、絶体的な安心感とでもいうのでしょうか? それを娘には、植え付けたかったのです。

 私は、この根本的な自我の安定は、親が担うものだと思っています。

 だから、娘には、” 時々、育児ノイローゼになったりして、子供がいるから自分のことが何もできない!という母親もいたりするけど、私は、あなたが生まれる前に充分、色々なことをやってきたから、全然、そんなことを思ったことはないのよ。" と話しました。

 すると、娘は、ひとこと、” あなたは、ちょっとやり過ぎでした。” と、冷静に言ってのけるのでした。

 どうやら、娘の自我は、しっかりしているようです。











 

2019年8月4日日曜日

海外で暮らす才能




 私の実家は、東京にあり、親戚は全て東京、学校も勤め先も東京で、今から考えると、私は、本当に狭い世界に、似たような環境にいる人たちとの中で暮らしていました。

 ところが、海外に出るようになってから、海外で知り合う日本人は、むしろ、東京の人は少なく、海外では、色々な所の出身の方に接し、日本の中でも世界が広がったような気がしています。

 しかし、長く、海外にいると、日本人でも本当に色々な方がいらっしゃるもので、パリには、まあ、なかなか、個性的な日本人が多いのも事実です。

 特に、団塊の世代の方は、数も多く、世代的なものもあるのか、なかなか強烈です。
外見からしても、恐らく、日本だったら、相当、人目を引くだろうと思われますし、パリの中でもかなりの存在感を感じます。
 しかし、それは、決して悪いことではありません。

 話は、少し逸れてしまいました。

 このように、海外在住の日本人にも、色々な人がいるのですが、そんな中でも、ある共通点が、あると思うのです。

 それは、自分というもの、自分なりのスタイルというものを強固に持っているということです。

 そして、異文化を寛容に受け入れつつ、それを上手にかわしていける能力を持っていることです。ゆる〜くかわしつつも、自分が持っているものは、貫いている。

 人の意見にも耳を傾けつつ、自分自身も主張するべきことは、主張する。

 それは、長い海外生活の中で培ってきたものであると同時に、その人の中にそのような素質があったと思わざるを得ないところもあります。

 海外で暮らすのは、日本の文化や習慣、生活との違いに事あるごとにぶつかります。
それを乗り越えていく強さがどうしても必要になります。そして、自分の中で、それを昇華させ、自分を支えていくものは、自分自身なのです。強い自分を持っていなければ、できることではありません。

 それは、一種の才能と呼べるものではないかと思うのです。

 日本に住んでいる私のいとこたちにも海外留学や転勤の経験のある人が多いのですが、日本で暮らしている様子を見ても、ものの見方や考え方が非常に柔軟です。

 海外で得た経験や能力を日本に持ち帰って、また日本という社会に立ち戻って、たくましく生きています。これはこれで、大変なことだと思いますが、その多くの人がしっかりと頑張れています。

 異文化に浸って生きて、また、日本に帰ることは、また、それなりに様々な葛藤や、今まで、日本にだけ住んていた頃には、見えなかったことも見え、逆に日本を異文化と感じて大変なことも多いでしょう。

 でも、海外生活の経験は、自分の中での何よりも、代え難い経験となったに違いありません。海外生活を乗り切る才能はまた、日本で生きていく事にも活かされると思うのであります。










2019年8月3日土曜日

フランス人のおしゃれの仕方




 ” おしゃれ " という言葉は、もう死語だと聞いたことがありますが、ここは、ちょっと恥ずかしながら、他の言葉も見つからないので、敢えて、” おしゃれ " という言葉を使わせていただきます。

 フランスでも、郊外や、地方の街に行って、パリに帰ってくると、” やっぱり、パリは、洗練されていて、おしゃれだな〜" と思います。まあ、パリのメトロなどに乗っていると、その路線によって、ある程度の違いはありますが・・一般的に言って・・の話です。

 バッグと靴の色の合わせ方とか、ちょっとした小物の使い方など、とても上手に組み合わせて、着こなしています。そして、それもまた、必ずしも、高価なものばかりを身につけているわけでもありません。

 街中でも、見知らぬ女性から、声をかけられることもあります。
” そのアクセサリー、素敵じゃない!?” とか、逆にこちらから、いいな、と思って褒めると、得意そうにどこで、いくらで買ったとか、自慢げに教えてくれたりします。

 むしろ、ブランド物は、それなりの人が身につけなければ、自分が引き立たないと考えていますし、ブランドに頼っておしゃれをすることは、自分自身で、おしゃれができないことだと思われてしまいます。

 ですから、フランス人は、アジア系の人たちがブランド物にたかって、買い漁る様子を冷たい目で見ています。

 ある程度は、今年は、このメーカーのものが流行っているな・・とか、この色が今年は、流行っているな・・というくらいのものは、ありますが、杓子定規にみんなが同じバッグを持って歩いているとか、そんなことは、まず、ありません。

 それは、きっと、個々の価値観と審美眼に自信を持っているからだと思うのです。

 また、日本の人は、” すごく、素敵だけど、この色は、ちょっと日本だと・・何を言われるかわからないから・・ ” と、大して目立つ色でもないのに、そう言って、比較的、地味で、無難な色を選ぶことが多いように思います。

 自分の好みよりも、人からどう思われるのかを、まず、第一に考えるようです。
 それも、時と場合によっては、大切なことであるかもしれません。

 でも、私は、おしゃれを楽しむなら、自分に似合う、自分なりのおしゃれができるものを選べばいいのに・・と思ってしまいます。

 たとえば、日本人は、世界遺産が好きですよね。
それは、ある種のブランド物好きと通ずるところがあるように思うのです。

 誰かが価値を認めたものに群がるような、そんな心理の働き方が、とても、似ているような気がするのです。

 もっと、自分のセンスに自信を持って、人と違う何か光るものを表現できるような、そんな、おしゃれができるようになりたいものです。































2019年8月2日金曜日

隔世遺伝 不気味なほど父にそっくりな娘 




 私は、娘をアフリカで出産し、その3ヶ月後にパリに引っ越してきて、それ以来、ずっと、フランスに住んでいるので、彼女は、フランスで育ちました。

 毎年、夏休みには、娘を日本語に触れさせたくて、そして、私の両親や親戚にも会わせたくて、日本へ行っていました。日本滞在時には、実家に寝泊まりはしていたものの、それも、せいぜい2〜3週間のことで、娘は、一度も日本に住んだことはなく、当然、私の両親とも一緒に暮らしたことは、ないのです。

 しかし、娘は、驚くほど、父に似ているのです。顔かたちではありません。
 まず、人並みはずれて、食い意地が張っていること。ケチなところ。そして、味覚がとても鋭いこと。食べ物の好み。辛辣な口の利き方。愛想のないところ。妙に手先が器用なところ。異様に耳がいいところ。

 私の父は、どちらかというと、気むづかしいタイプで、私が子供の頃は、私は、どちらかというと、父を敬遠しており、あまり好きではありませんでした。

 それが、まあ、孫は特別に可愛いと思うものなのでしょうか? それとも、同じ匂いがしたのでしょうか? 娘とは、すぐに打ち解け、父と娘は言いたいことを言い合い、娘の方も皆が敬遠する父を他の人と分け隔てなく? 無邪気に周りの人と同じように接して、パピー!パピー!(フランス語ではおじいさんのことをパピーと言います)と言って、懐いていました。

 父も娘には、至極、甘く、例えば、一時、DSが流行った時も、私は、”そう言うものは、絶対買いません!” と宣言し、頑として、娘に買い与えることは、ありませんでした。
 すると、娘は、ちゃっかり、父に自分でメールを送っていて、DSを買ってもらう約束を取り付けていて、日本に着くやいなや、二人でいそいそと、DSを買いに出かけたりしていました。

 パリで、娘と一緒に買い物に言って、私がダメ!と言っても、娘は駄々をこねるでもなく、” じゃあ、今度、日本に行った時に買おうか!” と言って、すぐに気持ちを切り替え、ちゃっかり日本で手に入れていました。

 いくら、こうして、父が娘を手なづけようとしていたとはいえ、普段は一緒に生活しているわけでもないので、言動や、食の好みまでは、父の真似をしているということも考えづらく、嫌味なことを言う、その言い方まで、そっくりなのには、本当にいつまでも父に取り憑かれているようで、気味が悪いほどです。

 例えば、仕事終わりに娘を迎えに行って、もう今日は、疲れちゃったから、何か、すぐ食べられるものを買って帰ろうかな〜? とお店の前につい、立ち止まって考えていたりすると、背後から娘が、ボソッと、” まずいよ! " と言うのです。
 それは、いかにも父が言いそうなことで、その言い方までがそっくりなのです。

 また、食べ物の好み、そして、その味覚の鋭さ、厳しさもまったく同じなのです。
例えば、あるお料理を食べると、これに何が入っているか、二人は見事に言い当てます。
水の好みまで同じです。

 また、まずいもの、嫌いなものに遭遇した時にも一緒です。
父は、よく言っていました。” まずけりゃ、食わない。”と。
 本当に嫌な言い方です。
それが、同じようなことを娘も言うのです。
 面と向かっては、さすがに私にはそうは、言えなくても、ちゃんと顔に書いてあるのです。” まずけりゃ、食わない。” と。

 そして、とにかく、二人は、食べ物に関しては、決して妥協しないのです。

 普通の人は、” まあ、あまり好きじゃないけど、一応、食べよう・・" となることもあるでしょう。しかし、二人は、決して、そうは、ならないのです。

 娘はコロニー(合宿)に行ったりして、フランス料理嫌いの彼女の口に合うものがなかったりすると、どんなにお腹が空いても、水を飲んででも、嫌いなものは食べずに、空腹を満たしてしまうのです。おかげで、コロニーから帰ってくると、いつも、3〜4キロは減ってしまっています。

 また、ある時、冷やし中華を作ったら、娘が、”冷やし中華” にトマトは入れないで!と言うので、ビックリしてしまいました。父も以前、同じことを言ったからです。そんな、ピンポイントなことまで、一緒のことを言うのです。

 ずっと、一緒に暮らしてきたならともかく、娘は父の好みなど知る由もないのです。

 だから、怖いのです。これが、DNAというものなのでしょうか?
だとしたら、まったく、嫌なDNAを引き継いでしまったものです。

 父は、数年前に他界しましたが、今でも娘の言動の端々から、父の存在を感じ、まるで、私は、父の死後も姿を変えた父に呪われるように生きているのであります。











2019年8月1日木曜日

理系の人間がまともな日常生活を送れない話 娘が理系の道に進んで・・





 私は、以前、日本のある大手メーカーの本社に勤めていたことがありました。
私のいたセクションは、研究所の上のセクションで、今後、会社全体が、どういう研究をしていくか、その研究をどのように進めていくのか、またその進捗状況などを統括していく研究開発の企画をする部署でした。

 当然!?その部署には、各部門から、社内でも有数の、その道の権威であるような優秀な人材が集められており、東大、京大、阪大の院卒、MITなどの博士たちが集結していました。

 それは、いわゆる理系のトップの人たちの集まりで、なかなか、ユニークな人材の集まりでもありました。最初は、ちょっと浮世離れした感じの人が多いなと思ったくらいでした。

 しかし、仕事を始めて、しばらくすると、彼らの言動に、ときに、おかしな点が見受けられることに気がつき始めました。彼らは、ごくごく普通のスーツを着て、ネクタイをして、メガネをかけたおじさんたちなのに、どうも普通ではないところがあるのです。

 ある日、私は、目撃してしまったのです。

 ファックスの前でファックスに付属した電話が鳴るのを、通りかかった博士の一人が、受話器を取っていいものかどうか迷って、前を行ったり来たりした挙句に、ファックスに向かって顔を近づけて、両手をあげて、” ハーイ!” と返事をしているところを・・。

 また、ある時、会社の地下に、とある業者がクリスマスプレゼントになりそうなグッズを売りに来ており、私は、誰にあげるというあてもなく、20センチくらいの大きさの何の動物だかわからないけれど、やけに愛嬌のあるお人形を買いました。

 その人形を部内に持って上がって、” これ!可愛いでしょ!" と周りの女性に見せびらかせて、周りの同僚からは、” なにこれ?カエル?・・でもないし、人間でもないし!また〜変なものを買ってきて!!” とからかわれていました。

 すると、そこに、博士の一人が通りかかったので、” 〇〇さん、これ、何だと思う?” と聞いたのです。すると、彼は、何のためらいもなく、即答したのです。
” うん、これは、ポリウレタンだな・・” と。

 最後の極めつけは、博士の一人が定年退職する際に、みんなでお花をプレゼントしようということになり、隣のパレスホテルの地下にあるお花屋さんに同僚とブーケを作ってもらいに行ったのです。あの人には、こんな色が合うとか、それなりに、苦心して、心を込めて、作ってもらったのです。

 そして、退社時刻になり、" 長い間、お疲れ様でした。・・" と、お花を渡したのです。
 すると、その博士は、”ありがとうございます。” と言って、頭を深々と下げたかと思うと、おもむろに、手にしたブーケをぐしゃぐしゃぐしゃーっと、カバンに押し込んだのでした。
 
 もちろん、彼には、何の悪気もありません。
 しかし、一同、絶句! まさに、大きく息を飲みました。

 私は、その博士たちの間で、しばらく働いていましたが、ある面では、恐ろしく優秀な人たち(特に理系)は、往々にして、ごく普通の日常生活が普通に送れないということがわかりました。ある一つのこと、研究にあまりに没頭して生活していくうちに、周りの普通のことに注意が行きにくくなるのかもしれません。

 そして、最近、娘がフランスで、理系の道を歩み始めました。
 まずまず、良い学校に入れて、ひと安心といったところです。
 当初は、日本での博士たちのことなどは、とうに忘れていました。

 ところが、ここ数年、娘にも、ある変化が訪れ始めたのです。
やたらと転ぶ、物を壊す、失くす、こぼす。

 こんな子では、なかったはずなのに・・!?
そんな時、ふと、私に、あの博士たちのことが頭をよぎったのです。

 まさか・・・!?。