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2021年2月9日火曜日

パリで、たまに見かける子供に日本語を教えようとしない日本人の親 バイリンガル教育

  



 娘が生まれて以来、私は、何の疑問もなく、娘に日本語を教えることを自分の使命のように思っていました。日常では、私以外には、日本語を使う人がいない環境で、私が娘に日本語を教えることを諦めてしまえば、絶対に娘は日本語を話すことはできなくなってしまいます。

 日本語ができないということは、日本の私の家族や親戚、友人たちとも関わりを持てない、日本人でありながら、日本人ではないような、日本から一枚の壁を隔てた存在になってしまうということです。

 そして、私が娘にできる教育の中で、日本語を教えるということは、とりあえずは、私にしかできない、私ができることの中で、最も有意義な教育だとも思っていたのです。

 私自身は、やはり日本が大好きですし、海外に出てみれば、余計に、日本の良いところも優れているところも実感し、日本人であることを誇りに思っています。

 言語の習得には、適した年齢というものもあり、言葉を覚えていくときに、それを日常の言語として、自然に覚えていくことができれば、本人にとっては、こんなに楽に言語を習得する機会は、なかなかありません。

 そんな機会をみすみす逃す手はありません。

 それでも、一歩、家を出れば、100%フランス語の世界で、日本語を自然に話すことができるようにするのは、親の側からすると、なかなか根気のいることでもあります。

 私との会話は、日本語のみ、娘が小さい時は、家でのテレビは、ビデオやDVDでの日本の番組のみ、2歳になった頃から公文に通い、フランスの学校に行って、フランス語の読み書きを始める前から日本語の読み書きを始めました。

 毎日、仕事が終わって娘を迎えに行って、帰宅してから、食事の支度をしながら、公文の宿題を5枚ずつやらせるのが、日課でした。大変でしたが、公文をやらない子は日本には、行けない・・と、日本行きを餌にして、ずっと続けてさせてきました。

 そんな娘への日本語教育は、ほとんど私の執念に近いものでもありました。

 娘自身は、日本語を苦労して覚えたという感覚は全くなく、今では、ほぼ普通の日本人と遜色ないほどに日本語を話し、読み書きもできるようになりました。

 結果から見れば、当たり前のことが当たり前にできるようになっただけなのですが、海外在住の場合、子供を放置しておいては、あっさりと日本語ができない子になってしまいます。だって、日常生活には、必要ないのですから・・。

 それでも私は、自分の子供に日本語を教えることは、当然のことだし、私の義務であると思っていました。

 ところが、パリの街中では、たまに、小さい子供連れの日本人で、子供にフランス語で話している人を見かけます。日本語は、教えないとはっきりと言い切る人もいてびっくりすることもあります。

 自分の家族が日本にいながら、子供と自分の家族との繋がりを断ち切ってしまうのでしょうか? それぞれに事情はあるので、一概に否定もできませんが、子供の可能性を奪ってしまっているようで、どうにも残念に思います。

 子供が自然に言語を覚えるには、ある一定の期間しかないのです。もちろん、ある程度の年齢になってから、自分で勉強して語学を習得することはできますが、より楽に確実にできる機会を逃してしまっているのです。

 パリには、日本人でありながら、日本が嫌いな人もいるのも確かですが、海外で生まれ育った自分の子供を自ら、日本から隔離してしまうような状況に追い込むことには、不自然な気もします。何より、自分の生まれ育った国をそこまで嫌うのは、気の毒な気さえしてしまいます。

 また、科学的なデータに基づくものではありませんが、日本語のみに関わらず、複数言語を話す子供には、優秀な子供が多い気もします。これは、私の周りの外国人とその子供を見ていて感じることです。

 それだけ、親が子供の教育に対して熱心であるということもあるかもしれませんが、かなりの割合で概して学校の成績も良い子が多いのです。脳の発達などとも関係があるのかもしれません。

 パリの街中で、自分の子供にフランス語で話しかけている日本人を見かけるたびに、私は、もったいないなぁ〜と思ってしまうのです。


バイリンガル教育

<関連>

「バイリンガルに育てる方法」

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/06/blog-post_24.html

「フランスの教育・学校・バイリンガル教育 ①」

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/06/blog-post_7.html

「フランスの教育・学校・バイリンガル教育 ②」

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/06/blog-post_8.html

「バイリンガルになった娘の日本語 複数言語を使う生活」

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html

「夏の帰国時の日本の学校への編入体験 バイリンガル教育の生体験」

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/07/blog-post_15.html

2020年9月15日火曜日

宗教に傾倒しすぎる義理の息子 フランス人の宗教

 


 私が彼に最初に会ったのは、彼が高校生の時で、真面目で、まっすぐな好青年といった印象でした。ちょうど、「バカロレアの試験に通ったよ・・」という報告に、主人が大げさに喜んでいるのに対して・・「C'est normal・・あたりまえだよ・・」と、笑っていたのが、つい少し前のことのように感じられますが、あれからもうずいぶんと時間も経って、あの時に想像していた彼の将来とは、全く違う道を進んでいます。

 彼は、主人の前の奥さんとの間の長男で、お母さんの影響を誰よりも強く受けて育っています。

 というのも、主人が離婚した最たる理由は、彼の前妻の度が過ぎる宗教への傾倒で、新興宗教ではないようですが、最初は、家族揃って通っていた教会から、やがて、生活全てが教会に振り回される形になり、主人は脱退してしまったことがきっかけでした。

 フランスは、カトリック教徒が多くを占める国ですが、実のところ毎週、日曜日に教会のミサに出かける敬虔なクリスチャンは、ほんの僅かでしかありません。

 以前、私は、日曜日も仕事に出ることが多かったのですが、日曜日の朝、いつもより本数の少ないバスには、いつも同じメンバーが乗っていることが多く、その中に、綺麗に身なりを整えた、いかにもこれから教会のミサに出かけると思われる上品な老婦人がいて、なんか、素敵だな・・と思ったこともありますが、逆に言えば、それだけ、目を引く珍しい存在であると言うこともできます。

 彼の前妻はプロテスタントの信者で、年を重ねるとともに、教会に深く傾倒するようになり、日々のお祈りから、週数回の教会通い、教会の行事などが日常生活の中心になっていき、当然の如く、子供たちの教育にも教会の教えが色濃くなっていき、テレビやゲームは、禁止、本も内容によっては制限がかかり、家の中のものは、どんどん教会への寄付に消え始め、明らかに一般の日常生活からかけ離れたものになっていきました。

 主人には、前妻との間に3人の息子がいますが、下に行くほど、母親との関係を壊さない程度に教会との距離をおいており、末っ子の男の子は、教会から逃れるために日曜日になると、よく我が家に避難しにきていました。

 おばあちゃんから買ってもらったという家では禁止されているゲームやハリーポッターの本などは、我が家に全て置いてあり、自分の家では禁止されているテレビやDVDを我が家で楽しそうに見ていました。

 しかし、反対に長男である彼は、母親以上に信仰に生活を捧げる生活になり、普通に経済系の大学を卒業して、有名な銀行に就職して、主人も喜んでいたのですが、結局、自分は、信仰に生きたいと主人とは大げんかをして、せっかく就職した銀行も辞めてしまいました。

 だからと言って、牧師さんになるわけでなく、教会のために働いても生活の糧になるわけではありません。現在は、教会関係の子供の小規模の学校の先生や様々な慈善事業や難民救済?など、まともな収入はないのに、なんだか、いつも、とても忙しそうにしていますが、彼には、深い信仰心が根本にあるので、全く迷いがありません。

 人に迷惑をかけるわけでもなく、贅沢は望まず、一生、ジャガイモだけを食べて暮らすことも厭わないと言うのですから、彼の人生は彼の納得するように、生きればいいと思いますが、ふと、それほどまでに彼を極端に宗教に走らせるものは、何なのか?と思います。

 実際、とても親切で、こちらからほとんど連絡をしなくても、気にかけてくれたり、おそらく頼めば、すぐに飛んできてくれると思います。

 しかし、こちらが宗教お断りといくら話しても、おかまいなしに、お祈りを唱えたりするのには、かなり抵抗があります。

 年齢を重ねるとともに、明らかに普通の生活からかけ離れている人であることが、目に見えるように彼自身の洋装にも表れています。

 彼自身は、心底、善意の人、悪意は全くないのはわかっていますが、善意であるだけに余計に救いようがなく、しかし、強烈なエネルギーと我の強さには、少々、引いてしまいます。悪気がないと言うことは、自覚がないだけに、時に悪意がある場合よりもタチが悪いこともあります。

 日常のフランス人のサッカーの試合やお祭り騒ぎ、デモなどでの興奮ぶりと熱量には、驚かされることも多いのですが、その熱量が宗教に向かった時には、こうなるのか・・と、そもそもの彼らの情熱は、やっぱり日本人とは違うのかな・・と思うのです。


<関連>

「海外での新興宗教の勧誘」

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/11/blog-post_13.html

 


2020年9月9日水曜日

娘には幼少期の記憶がほとんどない! 小さい頃は可愛かったのに・・

 

             ペコちゃんと同じサイズだったのに・・


 最近、このコロナ渦の中、娘もスタージュがリモートワークになったりして、彼女とこんなに一緒にいるのは、幼少期の頃以来のことです。私は、娘が1歳になると同時に仕事を始めたこともあり、彼女の幼少期には、仕事以外の時間は、ほとんど彼女と一緒の時間を過ごしてきました。

 私にとっては、初めての子育て、しかも海外で仕事をしながら・・。私のような人間が、子供を持ってしまった・・出産の時に、まさに赤ちゃんの頭が出ようにもなかなか出なかった時くらいから、もしかしたら、私は、大変なことをしてしまった・・一人の存在しなかった人間が私から生まれて、この子をどうにかまともに育てるまでは、重大な私の責任だ・・。

 そんなことをまず、思ったものでした。

 娘が生まれた頃には、なんだか青少年犯罪が多く、わけもわからず、小さい子を誘拐して殺してしまったり、家で暴れて家族を殺してしまったとか・・そんなニュースばかりが目につきました。「とにかく、身体を動かして、発散させること・・」そんな助言を叔母からもらって、とにかく私は、彼女のエネルギーを発散させることに懸命でした。

 同時に、日本語を教えることにも一生懸命でした。私が休みの日は、出来るだけ一緒に時間を過ごして、日本語での時間を出来るだけ増やすように、やることもいっぱいで時間を惜しむような気持ちでしたし、預かってくれる実家も遠く、とにかく、どこへ行くにもず〜っと一緒だったような気がします。

 思い返せば、彼女は、かなり変わった子供で、おかしな逸話が山ほどあります。よく言えば、個性的なのですが、やけに調子よく自分を納得させて、世渡りしているかと思えば、強情で、こうと思ったら、なかなか譲らないところもあったので、今から思えば、型にはまりがちな日本の学校に行っていたら、反発していたりしたかもしれません。

 いわゆる子供用のおもちゃには興味がなく、石を集めてみたり、ボールで遊ぶよりもビニール袋を自分で膨らまして遊ぶのが好きだったり、子供用の電動の乗り物(遊具)を怖がったり、遊園地が嫌いだったり・・負けず嫌いで、競争することが好きで、別に競ってないのに、駅などでは、私がエスカレーターに乗っているところを隣の階段を駆け上って、私が上に到達した頃には、得意げな顔をして、上で待ち構えていたりしました。

 ブランコが好きで、好きで、日本に行くと近くの公園に毎日でもブランコに乗りに通いました。(フランスには、あまりブランコがないのです。)

 とにかくピンクが好きで、洋服のコーディネートは自分でしないと気が済まず、パンツの色まで合わせないと気が済まないので、出かけてみたら、パンツを履いていなくて、「どうしてパンツはいてないの??」と聞くと、この服に合うパンツがなかったから、履いてこなかった・・などなど・・。

 そんな逸話がいくつもある娘ですが、このところ、彼女の小さい頃のことを話すと、彼女は、自分の幼少期をほとんど覚えていないことに驚きます。彼女には、5歳以下の記憶がほぼ、ないのです。

 日本行きの飛行機の話をしていて、昔は、JALのファミリーサービスとかで、子供を連れていると、優先搭乗をさせてくれた・・という話をしたら、「飛行機にさっさと乗る人の気持ちがわからない・・狭いところで長い時間待つだけでしょ!」と娘が偉そうに言うので、「一体、誰のおかげで早く乗らなければならなかったか? 飛行機に乗ってシートベルトをすれば、あなたがチョロチョロもう動かないからでしょ!」と、こんな具合です。

 考えてみれば、私自身も自分の幼少期をそれほど覚えているわけでもないので、当然のことかもしれませんが、親として、色々なことをやらせてあげようと、頑張ってやってきたことを彼女がほとんど覚えていないことは、なかなかガッカリなことです。

 あくまで記憶があるのは、写真やビデオの記憶ですが、そんな写真やビデオもめったに見るわけではないので、本人もまるで別人のビデオを見るような気分で見ているようです。

 小さい頃は可愛かった・・ので、ほんとうにみんなに可愛がってもらったし、「あなた、小さい頃だけでも可愛くて、みんなに可愛がられてよかったね・・」と言っても、「そんなに可愛がられた覚えがない・・」と言う・・。

 親というのは、こんなに不甲斐ないものなのか・・と思いますが、これも順番、実際に私自身もそんなに自分の子供の頃のことを覚えているわけではありません。

 幸い娘は、横道に逸れることも犯罪者になることもなく育ち、今では、偉そうな顔をしていて、腹立たしい事ばかり言いますが、ドキドキしながら、時には怒りながら、思いがけないことを言ったりやったりする娘に笑わせられながら毎日を必死に過ごしていた頃が懐かしいなと思うのです。

 小さい頃は、可愛かった・・雰囲気が、今となっては微塵もない娘ですが、今でも、本当はブランコが大好きで、人目さえなければ、ブランコに乗りたくてたまらないし、嬉しいことがあるとついスキップしてしまう癖だけは残っていることに、どこか、ホッとさせられるのです。


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「フランスの保育園で・・」

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「パピーとマミーの愛情」

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「娘の寝相と寝言」

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2020年9月6日日曜日

娘のフランス人のDNAが活性化するとき・・生ハムの塊が消えた・・

消えた生ハムの塊

 

 冷蔵庫・冷凍庫というのは、厄介なもので、中のものが減ってくると、補充しなければと思うし、満杯になっていれば、なんとか、消費していかなければと食材に追い立てられるような気持ちになります。

 我が家の冷蔵庫は、きれいに整頓されてはおらず、そもそも冷蔵庫には、調味料に近い瓶詰めの調味料やお味噌、ピクルスやお漬物、佃煮等、また、冷凍庫にも日本から持ってきている大切な日本食の一部など(明太子や塩辛、しらす、うなぎなどなど)の長期保存の食料がかなりの割合を占めていて、まずまず大きな冷蔵庫でありながら、少し買い物をすれば、あっという間に満杯状態になってしまうのです。

 特に肉類などは、まとめて買って、小分けにして冷凍したり、作り置きしたお料理を冷凍してあったり、おまけに、たまにPICARD(ピカール・冷凍食品店)に行ったりすれば、場所を取ることはわかっていても、ついつい買ってしまうと、かなり、満杯状態であることが多いのです。

 約2年間、時々、バカンスの時期には、帰ってくることはあっても、しばらく家を出て、一人暮らしをしていた娘が帰ってきて、しかも、リモートワークで一日中、家にいて、我が家の食料のサイクルが大幅に崩れ、なんだか、冷蔵庫の中身を満たしたり、減らしたりするペースがせわしなくなって、日頃から乱雑な我が家の冷蔵庫は、ここのところますます酷いことになっていました。

 そんな言い訳をしつつ、我が家の冷蔵庫の中は、とても人様には、お見せできるような状態ではなく、しかも、夏の終わりに、ベランダで育てていたきゅうりも、もうそろそろ終わりに近づいて、去りゆく夏の日本のきゅうりを惜しむ気持ちから、パンとビールと昆布を使ってぬか床などまで作ったことから、ますます冷蔵庫は、混雑状態なのです。

 現地の食材をできる限り使いつつも、和食に偏りがちな我が家の食卓ですが、フランスのものが、全く嫌いなわけでもなく、ここのところ、しばらく食べていなかった18ヶ月のコンテ(チーズ)やカマンベール、ミモレット、サラミなどを買ったりしていました。

 そんな、俄かに起こっている我が家のフランス食品フェアの中でのハイライトは生ハムの塊でした。

 いつもは、生ハムは、薄切りになっているものを買うのですが、大きな生ハムの原木に憧れがあったものの、さすがにまるまる原木を買うのは少々ためらわれ、単行本ほどの塊を買ってきたのです。

 少しずつ自分で削るように切って食べる生ハムは、赤ワインにもよく合い、切りたてのものを食べられるので、風味もよく、しかも、薄切りのものを買うより、結局は割安なのではないか?と大変、満足していました。

 毎日、食べたくなる気持ちを抑えつつ、(ということは毎日、飲むことになるので・・)今日は、もう夜は、お料理したくないから、冷凍のピザでも焼いて、あとは、生ハムとサラダ、あとは、ミモレットがあったね・・と言いながら、ごちゃごちゃの冷蔵庫の中、生ハムの発掘作業に取りかかったのです。


             久しぶりのミモレット・・美味しい


 切りかけの少し小さくなった生ハムの塊は、ラップに包んで、ジップロックに入れて、冷蔵庫に入れておいたのです。ところが、どこに埋まってしまったのか? いくら探しても見つかりません。とにかく、満杯の冷蔵庫、もしかして、場所がなくて、野菜室に入れてしまった? と野菜室まで探しました。(だいたい、自分の記憶にも自信がない)

 まさか??と思って、娘に問いただしたところ、あの生ハムの塊は、いつの間にか全部、彼女が食べてしまったとのこと!「えっ??全部??」「ソースィソン(サラミ)もあったよね! あれも?全部、食べちゃったの??」

 楽しみにワインを用意していた私は、呆然・・娘は、少々、ばつが悪そうにしていましたが、あの塊をいつの間にか(といっても一週間もたってない)食べてしまった娘のガッつきぶりに、ちょっとヤバい主人のDNAを感じるわ、私自身、楽しみにしていた生ハムが消えていたことにあまりにガッカリして、動揺する自分の気持ちの持っていきように困った夜でした。

 常日頃は、フランス料理嫌いで、フレンチと言えば嫌な顔をする娘ですが、美味しいフレンチ食材に、ひとたびスイッチが入った時には、一気に主人のDNAが活性化したような状態になることに、少々、恐怖を感じたのです。

 小さい頃には、幼稚園で夜中に冷蔵庫を漁る主人のことを「家にはねずみが出るんです!」と先生に言いつけた娘です。

 まさか彼女自身がねずみになるとは、DNAとは恐ろしいものです。しかし、考えてみれば、生ハム一つにこれだけ気持ちをかき回される私のガッつきぶりも相当なものなのです。


<関連>「パパのダイエット メガネをかけた大きなねずみ」

https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/09/blog-post_12.html

2020年6月30日火曜日

バイリンガルになった娘の日本語 複数言語を使う生活




 娘がパリに戻ってきて、約2ヶ月が経ちました。彼女は、2年間、彼女の希望の地方のエコールに通うために、生まれて初めて親元を離れて、一人暮らしをしていました。一人暮らしといっても、シェアハウスのようなところで、数人の同居人のいる中での生活でした。

 もちろん、周りはフランス人ばかりですから、フランス語一色の生活で、2年間を過ごしてきたのです。本来ならば、エコールは、もう一年あるのですが、残りの一年は、スタージュやら留学の予定が入っているために、パリの自宅に戻ってきたのです。

 とはいっても、大部分の彼女の荷物は、パリの自宅においたままだったので、バカンスのたびに、衣替えも兼ねて、何かと言えば、戻ってきては、一週間くらい、滞在し、夏休みなどの長い休みの間は、パリの自宅からスタージュに通っていました。

 私は、彼女が生まれた時から、彼女には、日本語がきちんとできるようになってほしいと、他の勉強については、うるさく言ったことは、一度もありませんでしたが、日本語については、かなり厳しく教えてきました。何しろ、フランスで普通に生活をしていれば、日本語は、全く必要のない言語、かなり意識的に強要しなければ、日本語ができるようにはなりません。

 家の中でも、パパとはフランス語でも、私とは日本語だけ、小さい頃は、テレビは、日本語のDVDのみ、フランスの学校が始まって日本語の勉強をすることが億劫にならないようにと、2歳から公文に通わせて、鉛筆の持ち方から日本人に日本語で教えていただきました。

 夜寝る前には、毎日、必ず日本語の絵本の読み聞かせも欠かさずに続け、毎年、夏休みには、日本へ連れて行き、日本語ができない子は、日本へは連れていけないと、娘の鼻先に日本行きという人参をぶら下げていました。

 私もフルタイムでの仕事があり、送り迎えが大変で、公文は、週に一回しか行けませんでしたが、必ず一週間分の宿題をもらって、毎日、学校から帰ると私は食事の支度をしながら彼女の公文の宿題を見ていました。彼女には、日本語を話すだけでなく、ちゃんと読み書きもできるようになって欲しかったからです。

 10年くらい続けたでしょうか? 送り迎えも、夕方のバタバタした時間に宿題を見てあげるのも大変でしたが、おかげで彼女は、人並みに日本語ができるようになり、つい先日、CVに書き加えることを増やしたいからと日本語検定試験の一級を受験して合格しました。

 ところが、この3ヶ月間のロックダウンでパリに戻ってくることができず、たまに私と電話で話す以外は、全く日本語を使わない日が続き、パリに戻ってきたときには、日本語のレベルが明らかに落ちていました。「よく、それで日本語検定受かったね〜!」というほど、以前は、スラスラと言葉があとをついて出てきたのが、言葉に詰まってしまうことが増えてしまっていたのです。

 パリに戻って2ヶ月経って、彼女の日本語は、すっかり元どおりに戻りました。言語は、使っていないと錆び付くのをロックダウンでまざまざと思い知らされました。

 現在、彼女は、ロンドンの大学にスタージュに行くはずが、これまたコロナのためにロンドンには行けず、家でロンドンの大学の先生と連絡を取りながら、リモートワークをしています。彼女が小さい頃に日本語と並行して英語のカードなどを使って英語を教えようとしたこともありましたが、そのうち英語にまでは手が回らなくなって、彼女の英語は、どんななのか聞いたことがありません。

 一緒に旅行に行って、フランス語が通じない国に行くと、英語で話すしかないのですが、練習だから、話してごらん!と言っても、決して私の前で英語を話すことはありませんでした。今もロンドンとテレワークしている様子は見せてくれません。

 そんな生活なので、彼女は、パリで、私とは、日本語で、友達とはフランス語で連絡をとりながら、仕事は英語でしています。先日、英語での仕事中に私が日本語で声をかけたら、「Ah Oui(ア〜ウィ!)」と答えたので、思わず笑ってしまったら、なんだか、彼女も自分で「ア〜ウィー」と言ってしまったことが、わけがわからない様子でバツが悪い顔をしていました。

 複数言語を使っている場合、私も切り替えがうまく行かないことがあります。日本語を話していてもフランス語の単語を平気で混ぜて話していたり、特にフランス語と英語に関しては、似たような単語も多く、これ?フランス語だった?英語だった?と迷うことがあります。

 でも、私は、このいくつかの言語を使う生活が結構、気に入っています。使っている言語によって、自分のテンションも変わったりもします。そんな自分自身の変化も楽しんでいます。

 先日、テレビを見ながら、娘が、「フランス人は毛深い人が多いけど、日本人は毛浅いもんね・・」と言いました。「深い」の反対は、「浅い」と思って、使ったようです。また、「塵も積もれば・・何になるんだっけ??」とか言っています。私は、冗談で、「ゴミ!」と答えましたが、すぐに、「あ〜山だったね・・」と気付いたようです。

 すっかり元に戻ったと思った彼女の日本語、まだまだお勉強が必要なようです。


バイリンガル


<関連>
「バイリンガルに育てる方法」
https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/06/blog-post_24.html

「フランスの教育・学校・バイリンガル教育」
https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/06/blog-post_7.html

2020年2月9日日曜日

お兄ちゃんの婚約




 娘には、年の離れた腹違いのお兄さんが三人もいて、三者三様で、まったく似ていない三人です。三人ともいい年をしているのに(うち二人はアラフォー)、まだ独身です。

 一番下のお兄さんが一番まともで、しっかりしているのですが、仕事の都合上、スイスに住んでいるので、一番、会う機会が少ないです。彼には、長く付き合っている彼女がいますが、遠距離恋愛を続けています。

 一番上のお兄さんは、敬虔なクリスチャンで、神のため、人のために生きている人で、仕事もキリスト教関係の学校の先生をしているとかで、収入もあまりないのに、教師の仕事以外にも教会関係の仕事で何だか、いつも、忙しそうですが、本人が信念を持って生きているので、とても、充実した生活のようです。

 もう一人のお兄さんが、一番、曲者で、高校を卒業後、いくつかの学校に行っては、その度に、違う仕事につくのですが、長続きせずに、滅多に会うこともないのですが、もう、いちいち、今、何の仕事をしているのか? 聞くこともしないようになりました。

 優秀なお兄さんと弟に挟まれて、どれだけ、複雑な思いで育ったのだろうかと思いきや、なぜか、いつも根拠不明の自信満々で、なかなか手がつけられない感じで、なぜか、いつでも、誰に対してでも、上から目線で、なかなかなクズぶりで、私としては、できるだけ、距離を置くようにしていました。

 考えてみれば、その強気の態度もコンプレックスの裏返しなのかもしれません。

 娘とも、「一番上のお兄さんは、まともな収入がないので、教会関係の人以外との結婚は、無理そうだし、二番目のお兄さんも、あの調子じゃ、二人とも、無理だよね〜」と、見通しが暗そうなお兄さんたちの結婚について、話していたのです。

 それでも、昨年のノエルの前に、上の二人のお兄さんが、娘を映画に誘ってくれて、三人で会う機会がありました。

 映画から帰ってきた娘は、開口一番、映画の感想は、そっちのけで、「バンジャマンに彼女ができた!!」というのには、びっくりしました。

 私が冗談半分で、「まさかネットで知り合ったとか言うんじゃないでしょうね・・」と言ったら、まさかの大当たり!しかし、とにかくラブラブで、彼女は一緒には、来ていなかったものの、まだ、知り合って、一週間も立たないと言うのに、寸暇を惜しんで電話で甘い言葉を囁いていると言うのです。

 まあ、「彼のことだから、どうせ、長続きしないでしょ!」と娘と話していましたが、つい先日、娘から、「バンジャマン、婚約したんだって!!」と驚愕のニュース。

 嬉しさを抑えきれずに、娘にまで、報告してくるところが、彼の興奮ぶりを伺わせるところですが、出会って(しかもネットで)、わずか一ヶ月での電撃婚約。

 情熱的にくっついたり、離れたりするイメージのフランス人に、ネットでの出会いというのは、思ってもみませんでしたが、周りに聞いてみると、これが意外と少なくないのが、現代のフランスです。しかも、こんなに身近なところで・・。

 奇跡的に掴んだ幸せ、波乱含みでは、ありそうですが、彼は、もともと、優しくて、面倒見が良いところもあり、この恋愛・婚約で、その彼の良いところが、膨らんでいってくれるとよいなと思っています。

 

 

















2020年1月25日土曜日

娘の日本語教育と赤ちゃん言葉




 娘は、アフリカで産まれて、三ヶ月ほどで、主人の転勤で、フランスに引っ越して来て以来、ずっと、フランスで育ってきました。

 私にとっても、初めての子育てで、赤ちゃんというものを触ったこともなかった私にとっては、手探りの子育てで、抱っこして、ミルクをあげるだけでも、今になって写真を見ると、私が娘にミルクを飲ませている写真は、かなり、どことなく、ぎこちなく、ミルクを飲む娘の方が苦労したのではないかと思われるような有様でした。

 産まれたばかりの頃は、早く、首が座ってくれれば・・、座れるようになってくれれば・・、と、成長を見守っていましたが、ハイハイを始めたと思ったら、後ろにしか進まなかったり、髪の毛がのびなかったり、歯がなかなか生えてこなかったりしましたが、私は、まあ、髪の毛も歯も、そのうち、生えてくるだろうと、大して心配することもなく、悠々と構えていました。

 それよりも、私の頭を占めていたのは、娘になんとか、日本語を教えることでした。

 私以外は、日本語を話す人間のいない、圧倒的にフランス語の環境で、私は、ひたすら、娘には、日本語で話しかけ、日本語の絵本を読み、日本語のテレビを見せて過ごしました。

 私は、娘が一歳になった頃、まだ、娘がフランス語も日本語も発しない段階で、フルタイムで仕事を始めてしまったので、預ける保育園も、もちろん、フランス語で、私と過ごす時間=娘が日本語に触れる時間は、ますますもって1日のうちの、ごくごく限られた時間になってしまったため、余計に、日本語を教えることに一生懸命になり、正しい日本語を話すようにしていました。

 ですから、まだ、幼い娘に対しても、赤ちゃん言葉で話すことはせず、「あなたは、どうしたいの?」、「あなたと一緒に行きましょう。」など、主語は、「あなた」と「私」で通し、できるだけ、娘とは、きれいな日本語で話すことを心がけました。

 何しろ、日本語のサンプルは、私だけなのですから責任重大です。

 もともと、私は、赤ちゃん言葉というものがあまり好きではなく、子供とも普通に話すのが良いと思っていましたし、フランス語にも赤ちゃん言葉がないわけではないのですが、比較的、フランスでは、子供に対しても、同等に話をする傾向にあり、主人も娘に対して、フランス語でも、赤ちゃん言葉を使うことはありませんでした。

 娘が初めて日本へ行って、大勢の日本人と話す機会を持ったのは、娘が2歳の時でしたので、その頃は、年相応の日本語での意思の疎通は、できるようになっていましたし、多少のアクセントはあるものの、日本語で会話をすることもできるようになっていました。

 ところが、いつも、私としか、話していなかった娘は、相手に対しては、誰にでも「あなた」を使って話す、なんとも、こまっしゃくれた感じで、「あなた」「あなた」の大連発。

 また、娘が、いっぺんで気に入ってしまった、私の叔母が自分の家に帰ろうとした時には、「あなたといたい・・」と、うるうるとした目で訴え、妙な哀願の仕方に思わず叔母もドッキリ、ドギマギ。

 普段は、意識もせずに使っている日本語、「あなた」という言葉も、使い方によっては、上からの物言いのような感じになり、また、妙な色っぽさを感じさせる、微妙な言葉であるということを思い知らされたのです。

 こういう時には、〇〇ちゃんとか、名前や、おねえさんと呼ぶのよ・・と教えましたが、やはり、一対一だけの会話では、気付かなかった言葉のバリエーションを私自身も改めて思い知らされたのです。

 










2020年1月19日日曜日

フランス人にとっての夫婦の寝室





 主人は、大変な暑がりで、冬でも寝室の窓を開けて寝ようとするので、私は、寒くて寒くて、「じゃあ、違う部屋で寝るから・・」と、言ったことがありました。

 すると、主人は、まるで、私が離婚を申し出たかのごとく、「違う部屋で寝ることは、ありえない!」と言って、血相を変えて、それを拒否したのでした。

 私は、同じ部屋で寝るかどうかということよりも、同じ部屋で寝るということにそこまで、こだわっていた主人にビックリしました。

 私たちは、日頃、別段、仲が悪いわけではありませんが、かといって、そんなにラブラブなわけでも、ベタベタしているわけでもなく、まあ、普通の感じの夫婦の関係だと思っていたのです。

 しかし、彼にとっては、夫婦が別の部屋で寝るということを、とても深刻な問題として、受け止めていたのです。

 彼がフランス人代表とは言いませんが、なんとなく、主人のその言動から、フランス人の夫婦、カップルの関係について思いを馳せたのです。周りのフランス人のカップルの寝室事情は、わかりませんが、やはり、どこか、夫婦がいつまでも男と女の部分を失くさないように思うのです。

 いつか、別のブログでも書きましたが、スポーツジムで見かける女性たち(けっこうな歳のオバサンも含む)の下着の派手さから、フランス人は、女を捨てない!と感じたこととも通ずるところがあるのかもしれません。

<フランス人は、女を捨てない!>https://rikakaigaiseikatsu.blogspot.com/2019/07/blog-post_14.html

 そして、主人は、娘が私たちの寝室で寝ることも、頑なに、決して許さず、川の字になって寝るなどということは、一度もなく、時間になると、娘は、子供の部屋に一人で寝る習慣をつけさせていました。

 日本では、夫婦が寝室を別にするという話は、よく聞きますし、夫婦の寝室に子供を一緒に寝かせるという話もよく聞きます。

 なので、私は、それほど、「窓を開けて、寒いから、別の部屋に寝るよ!」と言ったことが、それほどの重大問題とは、思わなかったのですが、彼にとっては、寝室を別にするということは、大変な重大事だったのです。

 たしかに、夫婦が二人で過ごす時間を大切に考えているがゆえの、フランス人にとっての夫婦のあり方、そして、夫婦の寝室へのこだわりに、私は、改めて、文化の違いを思い知らされた出来事でありました。

 




















2020年1月14日火曜日

娘の真夏の成人式




 フランスは、18歳で成人を迎えます。

 娘が18歳になった時は、6月生まれの彼女は、ちょうど、バカロレア(高校卒業認定試験)やプレパー(グランドエコールの準備のための勉強をする学校)の試験の真っ最中で、成人のお祝いどころではありませんでした。また、フランスでは、全国的に「成人の日」なるものもありません。

 滅多に試験に動じることもない娘も、さすがにこの時ばかりは、緊張気味で、少なからず、ナーバスになっていて、とても、お誕生日のお祝いなどというムードではなかったのです。

 しかし、私としては、少なからず、フランスにおいては、成人した、いうことで、ヤレヤレこれで、一応、法律的にも一応、大人として彼女が認められ、保護者としての責任も、ひとまず、最低限は、果たせたという思いで、ホッとして、嬉しかったのですが、特にお祝いをするでもなく、試験が終わると同時に、試験の結果もわからないまま、夏休みでバタバタと、日本へ行ったりしたので、なんとなく、すぎてしまいました。

 私の知り合いの中には、セーヌ川の船を借り切って、18歳の息子の成人のお祝いをした・・などという話を聞いたこともありましたが、我が家は、そんなわけで、フランスでは、何もしないで終わってしまったのです。

 日本人の私としては、やはり、日本での成人、二十歳というのが、さらなる区切りで、日本で成人式の1月には、学校の都合で日本へ行く事ができないために、夏の帰国の際に、振袖だけでも着せて、記念写真を撮りたいと思っていました。

 実家の片付けをしながら、着物の入っている箪笥を探したら、私が成人式の際に着た振袖は、なぜか見当たらず、(おそらく、年下の従姉妹のところに行ってしまったと思われます。)代わりに、母がどうやら結婚式の時に着たと思われる振袖が見つかり、娘には、それを着せることにしていました。

 着物好きだった祖母が特別に仕立てさせたという振袖は、何十年もたった今でも、色褪せることなく見事な状態で、保存されていました。

 娘が二十歳になった年の日本の夏は、ことさら暑く、普通の服を着るだけでも暑いところを何重にも重ね着するような着物を、帯の間にいくつもの保冷剤を仕込みながら、娘に着せました。

 メイクも前の晩にネットで検索しながら、どうやら、人に頼むとおかしなことになりそうだ・・などと言いながら、二人で練習し、当日も、自分で、メイクをし、髪の毛と着付けだけをお願いし、写真館で写真を撮ってもらいました。

 真夏の写真館は、日本では、ちょうど、小学校のお受験用の写真撮影で、予約がいっぱいの時期で、カメラマンも混乱していたのか、二十歳の娘に対しても、小学校のお受験の子供にするように、黄色いヒヨコの人形などを片手に娘から笑顔を引き出そうとする様子がおかしく、そばに付いていた私は、そのカメラマンの方を撮影してドキュメンタリームービーを作ったら面白いのに・・と思ったほどです。

 美容院で着付けと髪をセットしてもらい、写真館で写真を撮ってもらい、娘の振袖姿を見せようと、私の最愛の祖母が眠る九品仏でお墓詣りをし、親戚の家を二軒周り、娘の成人式は、終わりました。汗だくの成人式でした。

 でも、本当に娘の振袖姿を一番、喜んでくれたであろう、私の祖母と両親には、見せられなかったことは、とても残念でした。

 しかし、自分の成人式の際には、母の望み通りに、大した感慨もなしに、振袖を着て、やたらと嬉しそうにしていた祖母や母を、ちょっと不思議な気持ちで見ていましたが、ようやく、自分が母親になって、なぜ、あんなに彼女たちが喜んでくれたのか、娘の成人式を通して、ようやく理解できた気持ちでした。

 あの時の母は、こんな気持ちだったのか・・と。

 そして、人生のある節目に、日本の着物を着る習慣は、日本の美しい文化のひとつなのだと、しみじみと思いました。

 今の現代的な世の中で、このような文化的な習慣がある国ってそうないと思うのです。

 しかも、それが、祖母、母、孫へと、引き継がれたものであれば、自分の祖先の思いに触れる機会であり、素敵なことだと思うのです。

 いつか、娘が着た振袖を娘の娘が再び、着てくれることがあったら、どんなにか、嬉しいことかと思っています。

 

 





























2020年1月13日月曜日

食いしん坊の家系





 私の父は、とても、わがままな人でしたが、特に食べ物に関しては、うるさいことこの上なく、良く言えば、亭主関白というか、いわゆる昭和の時代の父親で、お膳をひっくり返したりすることは、なかったものの、家の中で、父が家事をしたりすることはなく、仕事?で夜が遅い事も多く、早く帰って来れば、母と私とが、せっせと、父のための食事を用意し、父は、晩酌をしながら、食事をするのが常でした。

 父は、自分の口に合わないものは、たとえ、母が一生懸命に作ったものでも、ひと口、箸をつけただけで、クソミソにけなして、お皿をよけて、決して食べようとはしませんでした。

 しかし、そんな父の味覚は、大したもので、ちょっとでもごまかしのあるものは、すぐに見破られ、良いものは、その素性を知らせなくとも、「これは、美味い!」と言い当てるのでした。

 ですから、せっかく用意しても、不機嫌な顔をされるのが嫌で、母もせっせと父の好きな食材を買い集めるようになっていました。

 例えば、牛肉なら、シェルガーデン、とか、鶏肉なら、ここの店・・とか、毛蟹は、紀伊国屋、蕎麦はここ、など、食べ物、一つ一つこだわりがあり、(こだわりというよりも、それなら父も文句を言わないという感じ・・)買い物一つをとっても、母は、とても苦労していました。

 私は、食べ物が口に合わないからといって、(といっても、母も、そんなに酷いものを出していたわけではありません。)父の不機嫌さに、家族中に嫌な空気が蔓延する家庭をすごく不快に感じていましたので、結婚するなら、楽しく食事ができる人が良いと思っていました。

 結果、主人は、何でも美味しい美味しいと言ってくれて、楽しく食事ができる人で、私の作るものに文句を言ったことは、ただの一度もありませんし、日本食に対しても、とても寛容で、大げさと思えるほど、喜んで食べてくれていました。

 しかし、食いしん坊であることには、変りなく、分野は違いますが、とにかく、チーズとパンとワインが好きで、特にチーズに関しては、娘への食育と称して、度々、珍しいチーズを数種類買ってきては、「フランスには、何千という種類のチーズがあるんだから、それを知らなければ・・」などというタテマエで、私たちに振舞っては、渋い顔をされて、結局は、そのほとんどを自分で食べていました。

 私と娘も、日本に帰国すれば、ここぞとばかりに食べまくり、従姉妹たちや、結局のところ、友人に至るまで、食べ物に対するこだわりと執着は、凄まじく、日本で一緒に旅行などしても、まさに食べるための旅行であり、天ぷらやとんかつなどの揚げ物を食べに行くと言えば、お店の選抜はもちろん、油も一番油をめがけて、開店と同時の時間に行くという徹底ぶりなのです。

 あまりに食べ物にうるさかった父が疎ましかった私ですが、結果、悲しいかな、私や弟にとって、それは、大変な食育となっており、普通の家庭では、多分、食べないであろう珍しい食品や、料理などを子供の頃にたくさん食べており、いつの間にか、味覚も育っていたと思わざるを得ません。

 結果、気付いてみると、結局のところ、私も、フランスでも、誰に強制されるでもなく、バターは、これ・・とか、チーズなら、これ・・、生ハムなら、ここ・・とか、同じことをやっているのです。

 そして、何より、恐ろしいのは、娘は、驚くほど父にそっくりで、敏感な味覚の持ち主で、さすがに、父のように周りに当たり散らすことはありませんが、どんなにお腹が空いても、不味いものは、決して食べずに水を飲んで過ごすという、一切、食べ物に妥協を許さない姿勢の持ち主なのです。

 娘は、私の用意するものに関して、文句を言うことは、ありませんが、出汁をとれば、「え?お味噌、変えたね・・」とか、「今日は、昆布が違う昆布だね・・」とか、言い当てられるのを、過去の父から受けたトラウマからか、ドッキリさせられるのです。

 半分は、フランス人でありながら、日頃、概ねのフランス料理や、乳製品などが嫌いな娘ですが、ちょっと良いものが家にあったりすると、涼しい顔をして、「美味しいものなら、食べる。」と言って食べるその様子は、父を彷彿とさせます。

 娘は、私とは、全く違った環境で育っているのに、この感じ・・これは、「食いしん坊の家系」「食に取り憑かれた遺伝子」としか言いようがありません。

 

 
 
 
























 

2019年12月14日土曜日

小さい娘のフランスへの郷愁??? 



 
 娘は、アフリカで生まれましたが、生後、3ヶ月でフランスに来て、それ以来、ずっとフランスで育ってきました。

 娘が初めて、日本へ行ったのは、彼女が2歳になった時で、それからは、ほぼ、毎年、夏休みの度に、娘を日本に連れて行っていました。

 娘は、チヤホヤと甘やかしてくれるパピーやマミー(おじいちゃんとおばあちゃん)や、私の叔父や叔母、従姉妹などの私の家族や友人にもとても、なついていて、日本が大好きでした。

 娘は、日本にいるのが楽しくて、楽しくて、仕方がない様子で、帰りの飛行機に乗るときには、仏頂面で、パリに着いた時には、空港に迎えに来てくれているパパにも、まるで、「パパのせいで、帰らなくちゃ、いけなかった・・」と言わんばかりに不機嫌になるほどでした。

 特に、食事に関しては、全くの和食党で、普段、パリにいるときにも、我が家の食卓は、どちらかというと、和食よりの食事が多く、娘は、フランス料理が好きではありませんでした。

 日本語にも、ほとんど不自由はなく、周囲とのコミニュケーションは、日本語のみで、「フランス語を話してみて!」などと言われても、決して、日本では、フランス語を話すことはありませんでした。

 日本へ行けば、そんな風に、日本にどっぷりと使っている娘でしたが、ところどころで、娘の妙な行動が見受けられるようになりました。

 街中で、パン屋さんを見つけると、娘は、しばらく、パン屋さんにいたがるのです。
娘は、フランスでも、特に、パンが好き、という方ではなかったので、最初は、どうして、娘が日本で、パン屋さんにいたがるのか、わかりませんでした。

 しかし、そのうち、娘が、ほのかに香ってくるパンの香りに、うっとりと浸っていることに気が付いたのです。パンの香りに、無意識に、どこか、彼女を落ち着かせるようなものがあったのです。

 また、娘がトイレに入っているときに、時折、聞こえてくる、ブツブツとフランス語でつぶやいてる声が聞こえてくることもありました。周囲の人たちがいるところでは、頼まれても、話さないフランス語を一人、トイレにいるときに、つぶやいているのです。

 幼いながらも、どこか、フランス語で、ブツブツと呟くことで、自分自身をリセットしているような感じでした。

 また、いつの間にか、ケンタッキーのお店の前に置いてある、カーネル・サンダースの立像に近寄って行ったかと思うと、ポッとした顔をして、「パパ・・・」と言いながら、
立像と手を繋いでいたこともありました。

 ケンタッキーのおじさんは、体格が良い主人と心なしか、似ているのです。

 パリでお留守番しているパパのことも、忘れてはいなかったのです。

 フランスのことなど、まるで忘れたように、日本を楽しんでいる娘が、無意識のうちに、フランスを引きずっている面が現れる、ちょっと、ホッコリする場面でした。

 








2019年11月14日木曜日

パリの公文 やってて良かった!




 私は、娘が生まれた時から、とにかく、日本語は、しっかりできる子供にしたいという気持ちがとても強く、主人もそのことに関しては、快く賛同してくれていたので、娘が生まれて以来、物心ついた頃から、パパは娘とフランス語で話し、フランス語を教え、私は、娘とは、日本語で話し、自分で、カードを作ったりして、日本語を教えていました。

 それでも、パリにいる日本人の先輩ママなどの話を聞き、フランスは、他言語に対して、かなり排他的であることや、パパがフランス人、ママが日本人とはいえ、放っておいたら、日本語は、どんどん、面倒臭い言語になってしまう、だって、こちらの生活では、必要ないんだから・・などという話を聞くにつれ、これは、私、一人だけで、日本語を教えるのではなく、誰か、他人の手を借りた方がいいと思うようになりました。

 私が、娘に望んでいたのは、ただ、日本語が話せるだけではなく、きちんと文章も読めて、書けるようになって欲しかったのです。

 周りの助言もあり、フランスの学校(実際には、幼稚園ですが、2才から始まります)で、フランス語を始める前に、(多少なりとも日本語を始めた方が、日本語を億劫に感じにくいだろう)ということで、2才から、娘を公文の日本語教室に通わせ始めました。

 当時は、公文は、シャンゼリゼにあった、日本人会の中の一室にあり、そこへ、毎週、土曜日、週一回、通い始めました。本当は、同じ料金で、水曜日と土曜日、どちらも行くことができるのですが、さすがに、私も仕事をしながら、両方は、無理なので、土曜日だけにしていました。

 最初は、本当に、鉛筆の持ち方から、線をなぞるような、お遊びのようなものでしたが、それでも、他に、日本人の子供に会う機会、私以外に日本語を話している人に会う機会のなかった娘にとっては、良い刺激になったと思います。

 そのうち、オペラ近辺にも教室があることがわかり、教室を変わりましたが、それこそ、幼稚園から上は、中高生まで、一緒の教室で、それぞれが違うレベルのプリントを黙々とやる中、数名の先生が、生徒の間をまわって、少しずつ見て下さるのです。

 大半は、日本語を学びに来ている現地校に通う小学生でしたが、中には、数学と日本語の二本立てをこなし、日本語とともにスラスラと計算問題をこなして行く子もいたりして、内心、舌を巻いていました。

 本当なら、数学もできたらとも思ったのですが、消化不良を起こしては、いけないと日本語だけをお願いしていました。毎週、土曜日の14時から17時までの時間帯の好きな時間に行って良いので、午後、バレエのレッスンが終わると、飛ぶようにして、公文に移動していたものです。

 土曜日の授業の他に、次の一週間分の宿題のプリントをもらうので、一週間、毎日、学校から帰ると公文の宿題をするのが日課になっていました。

 それでも、大きくなるにつれて、駐在でパリに来ている人の子供たちは、日本へ帰ってしまったりして、いつの間にか消えていき、フランスの学校の授業が大変になってくるとやはり続かないのか、高学年になるにつれて、生徒さんは、少なくなっていきました。

 結局、娘は、10年間くらい通ったでしょうか? 一時、日本語の勉強は、ストップした時期もありましたが、高校生になってから、再び、バカロレア(高校卒業資格試験のようなもの)の第二外国語のオプションを日本語で取ることに決めてから、再び、別の日本語の教室で勉強を再開しました。

 しかし、継続は力なりとは、よく言ったもので、毎日、少しずつでも、10年間、続ければ、おかげさまで、そこそこの読み書きもできるようになりました。

 親子二人きりでは、ここまで続けることは、できなかったと思います。

 お世話になった先生方には、とても感謝しています。

 今では、公文もすっかり立派になり、全世界に50ヶ国以上の国にあるそうで、パリ市内には、4ケ所、パリ近郊を合わせると6ヶ所もあるようです。

 以前は、日本人の生徒がほとんどでしたが、今は、数学、英語なども加えて、フランス人に向けても、METHOD KUMON (公文メソード)として、手広く、生徒を集めているようです。

 海外にお住いの方は、それぞれの国で、公文にお子さんを通わせている方も多いと思いますが、あまり、無理せず、続けられることが一番です。

 私は、公文のまわし者ではありませんが、本当に、CMどおり、「やってて良かった!公文!」です。












2019年10月31日木曜日

涙もろいパパのギャップと夫婦の距離



 主人は、ガタイが良くて、どちらかというと、いかつくて、チョット見は、怖い感じさえするのですが、実は、すごく感情が豊かで、情に厚いというか、もろいところがあります。

 ホームレスなどが、路上で座り込んでいたりすると、黙って、通り過ぎることはできずに、自分があまり、お金を持っていないときでも、必ず、お金を渡してきたりするのです。

 感情表現が豊かなのですが、気難しいところもあり、一見、とても社交的なのですが、常に周りの誰とでもワイワイするようなことは、好きではなく、職場のお昼時なども、みんなで揃って食事に行ったりするのは、嫌いで、キャンティーンなども大勢で込み合う時間帯は、避けて、一人、新聞を片手に食事をしているらしいのです。

 家では、夕食後などは、テレビの前で、小さい娘を横にはべらせて、娘に番組を解説したりしながら、くつろぎ、サッカーはあまり好きではないと言いつつ、W杯などがあったりする際には、アパート中、響き渡るような声で、応援に興じます。

 でも、普段は、とても厳しいパパで、怒ると、声も大きく、とても怖いのですが、甘いところは、メロメロに甘いパパなのです。

 娘がまだ、小さかった頃に、おもちゃのキーボードで、初めて、かえるのうたを弾いた時には、感激して泣いてしまったほどです。

 いつだったか、主人の誕生日に、家の近くにあるフランスの俳優さんが自ら経営している、こじんまりとしたレストランに私が招待して、私がお店の人に今日は、主人の誕生日なんですと何気に話したら、お店の人がサプライズで、バースデイソングとともに、食事の最後にデザートのケーキにろうそくを立てて、サービスしてくれた時も、主人の目は、みるみる、うるうるして、真っ赤になっていました。

 そんな風に、とても愛に溢れた人ですが、同時に家庭の中でも、たまに、真夜中のひとときに、一人でいたい時間というものがあり、その時間を侵されることをとても嫌います。

 また、逆に、私自身が、たまに、真夜中の時間を一人で、考え事をしていたりする時間に決して、割り込んできたりすることもありません。

 家族をとても、愛おしみつつ、お互いが、一人の時間を侵さず、侵されない、そのあたりの、ギャップと距離感が、私には、とても心地よいのです。



 

 

 












 

2019年10月28日月曜日

フランス人の夫との離婚の危機




 思い出というものは、嫌なことは、どんどん忘れて、楽しかったことばかり、覚えている私ですが、そういえば、私も、もう、主人とは、別れて、日本に帰ろうと思ったことがありました。

 アフリカからフランスへ転勤になり、海外では、外交官生活を送っていた主人が、その外交官生活を終え、フランスの財務省に戻った頃のことでした。

 主人は、まだまだ、海外生活を続けるつもりで、頑張って、仕事をしていたのですが、突如、フランスに転勤ということになり、フランスに戻って、しばらくは、うつ病のようになってしまった頃のことです。

 あの頃は、すべてがうまく行かずに、アパートもなかなか見つからず、親戚の持っていたアパートに仮住まいをし、娘の出生証明書は、アフリカで、発行してもらったものの、出生証明書に不備があったり、国籍の再申請をしたり、私のビザの手続きなどなど、すんなり進まない手続きに、気を揉みながら、なすすべもなく、ひたすら、時間のかかる手続きを待ちながら、毎日を過ごしていました。

 娘は、生まれて3ヵ月でパリにやってきましたので、まだ、ほんの赤ちゃんでした。

 何と言っても、私が一番、困ったのは、主人の鬱状態と、情緒不安定な生活でした。

 転勤先の仕事にも、行ったり行かなかったり、二人でさんざん話し合っても、やはり、主人の状態は、なかなか、好転せず、気分が上向きの時は、良いのですが、鬱状態になると、急に怒り出したり、起きられなかったりという日が長く続いていました。

 私のビザが取れて、娘を預ける保育園が決まって、私が仕事を始めた頃も、まだ、主人は、朝、起きれず、後から行くと言っていたのに、私が娘を連れて仕事に出かけて帰ってくると、結局、今日も仕事に行っていなかった・・という日が頻繁にありました。

 そんな主人の姿を見るにつけ、最初は、怒っていた私もだんだんと言葉を無くし、不安にかられる日が続きましたが、何もわからずに成長していく娘を放っておくことはできず、娘に対してできることを黙々と積み重ねる日々でした。

 幸いにも、義兄夫婦である家族が比較的、近くに住んでいましたので、折りに触れ、相談に乗ってもらったり、気分転換させてもらっていましたので、結果的には、ずいぶんと救われました。

 それでも、生まれたばかりの娘を、父親のいない子供にはしたくないと思いながらも、小さい子供を抱えて、働きながら、外国の地で暮らしていくのに、この主人の状態で、乗り切っていけるだろうか? と、少なからず不安ばかりが募り、一度は、もう主人とは、別れて、日本へ帰ろうと思ったことがありました。

 日本の両親も心配して、電話やファックスを送ってくれたりして、「もう、ダメだと思うなら、子供を連れて、もう日本へ帰ってきた方がいい。ただ、色々な書類だけは、きっちりしてきなさい。」と言われていました。

 困難な状態が続いて、さんざん悩んで、私も心身ともに疲れきって、意を決して、いざ、私が、「もう日本へ帰ろうと思う。」と母に話した時、電話口の母から帰ってきた言葉は意外なものでした。

 「日本へ帰ってくるのは、構わないけれど、あなたたちは、家で一緒に暮らせると思ってもらっては困る。」

 その時の母の真意は、わかりませんが、「子連れで、出もどりだ・・」と考えていた私には、いざとなると、世間体を気にする母に、少なからず、ショックを受けました。

 義姉からも、「しばらくは、日本のママのところに帰って、休んだ方がいいかもしれない。」と言われていたので、母から言われた言葉をそのまま義姉に伝えると、首をひねりながらも、「それでは、こちらでなんとか頑張るしかないわね・・。」と言われて、私も、「私には、もう、帰るところは、ないのだ。」と腹をくくって、フランスに留まることにしたのです。

 それから、しばらくして、パリにアパートが見つかり、様々な手続きも済み、娘も幼稚園に通い始めた頃に、ようやく、主人の鬱状態も回復し始め、仕事にも毎日、行けるようになり、なんとか、日常生活も順当に運ぶようになりました。

 それでも、毎日の生活は、仕事と子育てで、いっぱいいっぱいで、ささやかな娘の成長を糧に暮らしているうちに、時は過ぎて、いつの間にか、主人と別れようと思っていたことなどは、忘れていました。

 あの時の母の言葉の真意は、問いただすのも怖くて、母には、一生聞けず仕舞いで、母は、亡くなってしまいましたが、母が本当に、世間体を気にしてそう言ったのか、それとも、私をもう一度、奮い立たせるためにそう言ったのかは、今でもわからないままなのです。
















2019年10月6日日曜日

パピーとマミーの愛情




 フランス語では、おじいさん、おばあさんのことをパピー、マミーと呼びます。

 娘は、アフリカで生まれ、フランスで育ち、私の父と母に初めて会ったのは、彼女が2歳になったときだったので、初めから、娘は、私の父や母のことを何のためらいもなく、「パピー」「マミー」と呼んでいました。

 娘が、無邪気に、パピー!マミー!と呼ぶ、その呼び方に、最初は、多少、戸惑っていた二人も、ジージとか、バーバとか呼ばれるよりも、パピーやマミーと呼ばれるその呼ばれ方の方が年寄り扱いされている気がしないなどと言い出して、いつの間にか、すっかり、パピーとマミーという呼ばれ方にも馴染んで、結構、気に入っていました。

 私自身も祖父母、特に祖母には、ことの外、可愛がってもらって育ってきましたが、父や母にとっても、孫の存在は、格別だったらしく、私が、母の仕事や、家の事を手伝ったり、看病をしたり、病院に付きそったりと親孝行のようなことをどんなにやろうとも、孫の存在や笑顔に触れた時のような、彼らの嬉しそうな顔は、見たことがありませんでした。

 父は、私が子供の頃などは、いわゆる昭和初期の世代の男で、口数も少なく、仕事仕事で、一緒に遊んでくれるというなどということもありませんでしたが、孫とは、楽しそうに遊び、あれこれとちょっかいを出してはかまって、娘との会話を楽しんでいました。

 母に至っては、それこそ、娘のやることなすこと全てをプラスに捉え、いちいち感心しては、娘のことを褒め、自分自身までもが無邪気に、孫といると、本当に楽しいね〜と公言して憚りませんでした。

 そして、それは、それぞれの最期の瞬間まで続き、母が危篤状態で、人工呼吸器をつけられて、もう瞳孔も開いていると医者に言われていた時でさえ、孫の呼びかけには、目を覚まし、父ももう、何も食べられなくなり、衰弱しながらも、自分の感情が抑えきれずにイライラと過ごしていた状態になっても、孫からの手紙には、穏やかな笑顔を取り戻していました。

 こう考えると、私がしてあげられた一番の親孝行は、両親に孫という存在を与えられたことだったのかもしれません。

 親と子の関係と、祖父母と孫の関係というものは、全く違うのかもしれません。

 自分自身が主体となって子供を育てていく親子関係とは違って、自分が歳を重ねて、人生も終盤にさしかかっている時、消えていくであろう自分の命と、これから育っていく新しい命である孫の存在とその関係は、自分の血を引いた命がこれからも、どこか自分と繋がって続いていく希望のようなものであったのかもしれません。

 

 

 

 













2019年9月28日土曜日

ハーフの娘の祖国 アイデンティティーの帰属




 アフリカで生まれ、フランスで育ち、フランス人の父を持ち、日本人の母を持つ娘の祖国は、どこなのでしょうか?

 祖国を生まれた国とするならば、アフリカですが、育ってきた国とするならば、フランスです。

 祖国と母国という言葉は、似ているようで、微妙にニュアンスが違います。
 
 彼女の母国はフランスです。
 
 母国語という言葉がありますが、彼女はバイリンガルではありますが、彼女の母国語は、フランス語です。

 それに対して、祖国というのは、その人の家族である祖先も含んだ歴史的、文化的な背景も多く含みます。

 フランスでは、主人の両親がすでに他界していたこともあり、彼女が物心ついてからは、祖先、親戚といえば、日本にいる私の家族や親戚との関わりが多く、日本に住んだことはないものの、幼い頃から日本語も話し、日本語の勉強も続け、日本にいる祖父母や親戚とも関わり、日本の絵本も読み、日本のテレビ番組を見て(これは、私が日本語を覚えさせるために意図的に、テレビは、一部のフランスの番組を除いて、日本の番組のみとしていました)、日本食も食べて、育ってきた娘の中での日本という国は、彼女にとって、大きな位置付けを持ってきたと思います。

 ですから、彼女にとっての祖国は、フランスであると同時に、その一部は、日本でもあるのです。

 彼女のキャラクターを見る限り、フランス人のキャラクターが濃いと思うのですが、彼女は、フランス人に対しても、日本人に対しても、その良いところも悪いところも、どこか、客観的に、冷静に、眺めているようなところがあります。

 それは、人種的、文化的なアイデンティティーの帰属感を二つの国に対して持っている人間のサガのようなものなのかもしれません。

 私の両親も他界してしまった今、私より上の世代や、私の世代は、どんどんいなくなっていくことを見越している娘は、自ら、日本にいる、自分と同世代の人とのつながりを繋ぎ、保っていこうとしています。

 それは、きっと、これから将来、彼女がどこで生活しようとも、彼女の中での、フランス以外のもう一つの祖国をどこか繋ぎとめておきたい気持ちの現れなのだと私は、どこかしんとした気持ちで見つめています。

 








 

2019年9月12日木曜日

パパのダイエット メガネをかけた大きなねずみ




 私の主人は、体格が良くて・・というのは、かなり、控えめな言い方ですが、要するに、ダイエットが必要な体型です。

 とにかく食べることが大好きで、また、好きなものが高カロリーのものが多く、そして、フランス人らしく、ことさら好きなものがチーズとパンで、食べるとなると、半端ない量を食べてしまうので、チーズの買い置きなどは、全くもって出来ません。

 私は、自分の父が食べ物に関しては、とても、うるさくこだわる人で、自分の口に合わないものがあると、クソミソにけなすので、一緒に食卓についていた私たちまで、嫌な気持ちになるような環境で育ったので、とにかく、何でも、美味しい美味しいと言って、楽しく食事ができる主人のような人は、とても、いいなぁと思ったのです。

 しかし、主人は、その度を越しており、健康に差し障りのあるレベルになってしまったのです。

 もともと、主人は、私と出会うずいぶん前に、大きな交通事故に遭っており、その際に脾臓を摘出している上に、輸血の際に肝炎にかかってしまっていたのです。

 その上、これは、家系から来ていると言っていましたが、糖尿病でもあり、インシュリンの注射もしていました。

 ですから、本当は、ワインもダメ、塩分、糖分なども、かなり抑えなければならず、厳しいダイエットをお医者さまからも言い渡されていました。

 体調を崩して入院した後には、病院の管理栄養士の方から、指導を受け、何やら、サーモンピンクの色をしたお皿を買ってきて、これに少しずつのポーションに分けて食べるようにと言われたとかで、最初のうちは、子供のように、満足そうにそのお皿を使って、得意げに食事をしていましたが、そのうち、それでは、飽き足らずに、野菜スープをせっせと作っては、カサ増しをしていました。

 私も、紫のキャベツが良いと言われれば、せっせと紫キャベツを細かく刻んで茹でて用意したり、味の薄い肉なしポトフのようなものをお鍋いっぱいに、作り置きをしたりしていました。

 その、あまりの量に、私は、動物園の飼育員にでもなったような気持ちでした。

 それでも、育ち盛りの娘には、そんな食事をさせるわけにもいかず、私としても、和食が恋しかったりして、同じテーブルを囲んで、違うものを食べたりするのも気まずく、何と言っても、大の大人に食べ物の制限をするのは、とても嫌なことでした。

 しかし、夜中になると、主人は、ゴソゴソと冷蔵庫を漁ったりしていましたので、その度に、翌朝になって、「あ〜!また、ネズミにやられた〜!!」などと、半分怒りながらも、家では、笑い話にしていました。

 ある日、娘の幼稚園で、親子面談があり、主人と娘が二人揃って、出かけて行きました。その席で、ひとしきり、先生が、幼稚園での娘の様子などを話したあとで、主人に対して、「ご家庭で、何か問題になっていることは、ありますか?」と尋ねられたのです。

 すると、すかさず、娘が先生に向かって、大真面目な顔をして、「うちには、大きなネズミが出るんです!」と言ったのです。

 先生は、困惑して、黙ってしまったそうです。

 内心、なんて、不衛生な家なのだろうと思ったのかもしれません。

 困惑している先生に、主人は、「メガネをかけた、大きなネズミなんです。」とバツ悪く白状したそうです。

 











2019年9月4日水曜日

フランス人の夫のヤキモチ




 以前、同じ会社に勤めていた30代半ばくらいのロシア人の女性の同僚がいました。

 彼女は、結婚していましたが、まだ、子供はおらず、退社時刻になると、毎日、毎日、少し年の離れたロシア人のご主人が会社までお迎えに来るのでした。

 普通なら、子供がいてもおかしくない年代で、もし、そうなら、普通は、自分が子供を迎えに行く立場です。

 まあ、子供もいないことだし、ご主人が毎日毎日、お迎えに来ると言うことは、さぞかし夫婦円満で、ラブラブなのかなあと思っていました。

 でも、日を重ねるに連れて、周りのみんなも、いくらラブラブでも、毎日、お迎えって、なんか、ちょっと、じと〜っとしたものを感じるね・・と言い始めました。

 私も、家に帰って、彼女のお迎えの話を主人にしたところ、” それは、間違いなく、ジェラシー、物凄く嫉妬深い男なんだよ!” と即答していました。

 そんな夫も、けっこう妙なヤキモチの焼き方をする人で、一緒に外出したりして、周囲の人が私のことを ” ちょっとあの子いいね!" などと、褒めてくれたりするのをとても、めざとく聞いています。

 お世辞半分なことにも、とても、敏感に反応して、喜んでみたかと思うと、勝手に、それがヤキモチに変わっていたりするのです。

 私が、娘と二人で楽しそうにしていたり、友達と電話で話したりしていても、除け者にされた気がするのか、ちょっかいを出してきたりします。小学校5年生男子くらいのレベルです。(失笑)

 以前、私が、お気に入りだった日本の俳優さんのドラマのDVD を友人に借りてきては、家でよく見ていたことがありました。

 最初は、私は、何も気にせずに、ウキウキしながら、楽しく見ていたのですが、そのうち、私がそのドラマを見ていると、主人の機嫌が露骨に悪くなるようになりました。

 なんと、主人は、その俳優さんにヤキモチを焼いていたのです。

 それからというもの、私は、なんだか、こそこそと、悪いことでもしているように、DVDを見るようになってしまいました。

 DVDを見ている最中に主人が帰ってくると、” あ!パパが帰ってきたよ!” と娘まで気を使うようになる始末。

 ある日、主人が、何やら思いつめた様子で、私のところにやってきて、” 食事だけなら、僕が招待するから、行ってきてもいいから・・” と言い始めたのです。

 最初は、なんのことだかわかりませんでした。

 しかし、すぐに、それが、あのドラマの中の彼であることがわかって、返す言葉も見つかりませんでした。

 本当に、できるものなら、彼と一緒にお食事に招待していただきたいものです。

 












 

2019年8月9日金曜日

娘の寝相と寝言




 うちの娘は、小さい時から、寝るのが嫌いで、なかなか寝ない子どもでした。
 昼寝もしたことがありません。

 保育園から、” おたくのお嬢さんは、お昼寝の時間に寝ないで、もう一人の子供と二人で周りの子供を起こして回るので、これからは、お昼寝の時間は、別の部屋にいてもらいます。" と言われたこともありました。

 それでも、夜は、寝室は、きっちり分けるというフランス人の夫のしつけ?で、寝る時間になると、” ボンニュイ " 、" おやすみなさい " と、ふた通りの挨拶をして、自分の部屋に行くことになっていました。

 夏の間は、いつまでも明るいので、シャッターは下ろして、眠れるように、暗くしている自分の部屋に、娘は、後ろめたそうに、仕方なく、入っていくのでした。

 パパは、甘いけど、とても厳しく、怖い存在でもあるのです。

 娘が部屋に入った後は、私と主人が二人で話をしていると、しばらくして、少し時間がたった頃に、娘の部屋から、” そろそろ来て〜!” と声がかかり、私は、彼女の部屋に行き、日本語の絵本を読むのが日課になっていました。

 娘は、なかなか寝ないのですが、寝たら最後、なかなか起きません。
朝、起こすのにもとても、苦労しました。あんなに寝るのを渋ったくせに、起きないとは!?・・と何度、思ったことでしょう。

 また、彼女は、寝相も恐ろしく悪く、ベッドで、寝ている間にベッドの上を半回転しているようで、起きる頃には、必ず、頭と足の方向が逆になっているのです。時計の針のように寝ている間に移動しているのでしょうか?

 ある夜、夜中に、娘の " ギャー!!” という叫び声で、目を覚まして、何事かと思って娘の元に飛んで行ったことがありました。ベッドから落ちたのではないか? 怖い夢を見て悪夢にうなされたのではないか? 心配した私は、娘を揺り起こして聞きました。

 ” どうしたの? 怖い夢でも見たの?” すると、娘は、半べそをかきながら、私に言いました。” パパが、私のステークアッシェ(ひき肉をハンバーグのような形に固めたもの)を食べちゃった!” " すごく美味しいステークアッシェだったのに・・・” と。

 呆れて、返す言葉もありませんでした。

 真夜中に娘のステークアッシェの夢のために、起こされたのです。
なんという、食い意地の張った娘なのでしょうか?

 そして、そのことを翌朝、娘に話すと、彼女は、そんなことは、微塵も覚えていないのでした。

 私は、きっと長生きはしないことでしょう。



2019年7月24日水曜日

オランウータンと友達になったフランス人




 まだ、娘が小さい頃、一度、ヴァンセンヌの動物園に行って、象の前で、娘に、
” Il est plus gros que toi !! " (パパより、デブだ!!)と大声で叫ばれて以来、夫は、動物園に行くのを避けていました。

 しかし、たまたま、行った、オーステルリッツにある、JARDIN DES PLANTS (植物園)に行った時に、偶然、動物園が併設されているのを見つけ、ひょんなことから、動物園をのぞいてみることになったのです。

 植物園の中の動物園ですから、大したことはないとタカをくくっていたのですが、意外にも、結構、ちゃんとしたもので、私たちは、楽しく動物を見物して回っていました。

 その一つに、オランウータンの檻がありました。

 ちょうど、お昼どきに近かったので、バカな私たち親子3人は、一生懸命にオランウータンに、” お昼、食べた? " とか、” お腹すいてないの? " とか、つぼめた手を口にあてて、”ご・は・ん・・・ご・は・ん・・食べたの?” と必死になって、三人三様、バラバラに話しかけていました。

 考えてみれば、オランウータンからしてみても、実に、マヌケな親子に映ったことでしょう。「こんな、人間、見たことない・・へんな奴らがやって来た・・」と。

 すると、その中のWATANA(ワタナ)という名前のメスのオランウータンが、夫に興味を持ったのか? もしくは、つぼめた手を口にあてたりしているので、私たちの方がお腹がすいているとでも思われたのか? 小さな木のかけらを檻の向こう側から夫に向けて、ポーンと投げて寄越したのです。

 感激した主人は、" Merci ! Merci ! " (ありがとう)と、オランウータンに何度も感謝の気持ちを伝えていました。すると、びっくりしている私と娘をよそに、オランウータンは、夫に次のモーションをかけてきたのです。

 自分が普段、持っていると思われる、長いボロ切れのような布を柵の上から、夫の前に垂らし、夫と二人(!?)で、布を引っ張ったり、離したりして、遊び始めたのです。

 これには、周りにいた、動物園を訪れている人もビックリで、中には、ビデオを撮り始める人までいました。

 残念ながら、私たちは、カメラも何も持っていなかったので、ワタナと夫との記念写真を撮ることはできませんでしたが、意外なハプニングに、十二分に楽しめた日曜日の午後のひとときでした。

 しかし、それにしても、ワタナがなぜ、夫を気に入ったのか? 
大きさが同じくらいだから、仲間だと思ったのか? 

 それとも、動物的な感で、この人は、自分と遊んでくれる人だと思って気に入ったのか?

 はたまた、彼がオスとしての魅力を放っていたのか?(笑) 

 だとしたら、もしかして、私は、ワタナと趣味が一緒ってことなのかしら?