2019年6月30日日曜日

海外生活中、もし、ガンにかかったら、あなたは日本に帰りますか?



 私は、フランスに来て以来、ほとんど、仕事場と娘の学校、お稽古事の送り迎えの繰り返し、おまけに仕事も忙しかったので、時間もあまりなく、もともと、人付き合いも良い方ではないので、友人も多くないし、知り合いも主人の友人関係が少しと、娘の学校やお稽古事の関係の方や私の仕事上での付き合いがあった方くらいで、私がパリに来て以来の知り合いは、そう多くはありません。

 それでも、20年もいれば、そこそこの知り合いはそれなりには、いるので、日本人の知り合いの中にも、残念ながら、亡くなられた方も数名おられます。事故などの場合は、別として、ガンで亡くなった方が多いです。(これは、あくまで私の周囲での話ということですが・・)

 まあ、今までのところ、日本人の平均寿命からするとかなり早い旅立ちの方が多いので、海外生活は、寿命を縮めるのかも!?などと思ってしまいます。

 やっぱり、海外生活ならではの緊張や、日本に住んでいたら、決してないであろうストレスも結構ありますから・・そんなことの積み重ねもあったりするのかな?・・となどと、思ったりもします。
 また、家族がいるかどうかも大きく関係しているような気もします。

 実際に、亡くなった方々は、一人を除けば、皆、独身の方だったのは、偶然だったのでしょうか?

 自分がガンだと宣告されて、日本に帰られた方も、中には、何名かいらっしゃいます。やはり、いざとなると、言葉の問題もあるし、こちらの病院では、不安なので、日本で・・と思う心情も、とてもよくわかります。その方々も最初は、治療のために帰られたのに、結果、亡くなられたというものです。

 一度、私が怪我をして、病院の救急に行った時、延々と待たされて、怒った主人が、いつまでも放っておくなら、ここから、電話して、救急車を呼ぶぞ!!と怒鳴って、ようやく見てもらえたことがありました。でも、これが命に関わるような病気だったらと思うとちょっと考えてしまうところもあります。

 ちょっと、話は逸れてしまいました。

 私が親しかったある女性は、ガンが見つかって、手術をして、5年後に再発して、それから、放射線治療、抗ガン剤、そして、さらに2回の手術。(フランスの場合、ガンの場合は、セキュリテソーシャル(国の健康保険)が100%カバーしてくれます。)プラス、失敗してやり直した手術が一回。

 そして、とことん、ガンと闘いましたが、結局、彼女は、亡くなりました。

 彼女は、とても強い女性で、痛みを感じたら、自分でボタンを押して、点滴でモルヒネをどんどん打つことができるようになっていたのですが、その結果、何度か、幻覚を見てしまい、私は、自分自身を失いたくないからと、痛み止めの点滴も断り続け、痛みに耐えながらも頑張っていました。
 そんな中、病院内での盗難事件などもありました。(検査中に病室に置いてあった彼女のバッグが盗まれたのです。病気で苦しんでいる人にこんなことってある!?)
 
 彼女は、最後の最後まで、決して諦めずに、こんなに苦しんだから、絶対に治らなくちゃ!と頑張っていましたが、とうとう最期には、力尽きてしまいました。

 彼女の訃報を聞きつけて、ちょうど、その日が、お休みだった私は、病院に飛んでいき、日本から、いらしていたご家族が色々な準備をなさる間、その時の霊安室の係のおじさんが、とても優しい方で、” 本当は、長時間はダメなんだけど、特別に好きなだけ、いていいよ・・” と言ってくださり、半日くらい、病院の霊安室で彼女との最後の時間を過ごさせて頂きました。
 あの病院の静かな霊安室での時間を私は、一生忘れることはないでしょう。

 彼女の遺言により、遺体は火葬されて、ペーラシェーズ(パリの東部にある、エディットピアフやショパンなど著名人が眠っている有名な墓地)の遺骨を散骨する場所に蒔かれ、彼女はパリの土になりました。
 パリが大好きだった彼女らしい選択だったように思います。

 また、ある女性は、亡くなるギリギリまで、ほぼほぼ、普通に暮らしておられ、ある時、急激に痩せたな・・あの痩せ方は・・?? と思っていたら、それから、少しして、彼女が亡くなったという報せを受け、その際もペーラシェーズでのお葬式に行きました。
 日本人の場合、火葬を望まれる方が多いので、パリで火葬のできる場所はそれほど多くなく、ペーラシェーズが選ばれる場合が多いのです。

 後になってから、彼女の知人にお聞きしたのですが、ガンが発見された時には、かなり病状は進んでおり、最後まで、普通の生活を送りたいという彼女の希望で、積極的な治療は一切、断っていたそうです。そして、彼女は、自分自身の旅立ちの準備をできる限り、自分で済ませ、あとは、全て知人に託していたそうです。
 これはこれで、見事な最期ではありませんか?

 誰もがガンにかかるわけではありませんが、海外にいる場合においても、いつかは必ず訪れる旅立ちの時のことをあなたは、考えていますか?

 置かれている状況や家族の環境もそれぞれですから、一概には、言えませんが、ある程度の覚悟は、必要なのだと、私は、今まで見てきたパリで亡くなった方々から、色々と考えさせられ、自分自身の場合はどうしようかと少しずつ考えるようになりました。

 

 

 

2019年6月29日土曜日

娘の初めてのボーイフレンド 




 私たちは、パリに引っ越してくる前は、RER(パリの郊外線)でパリまで一時間ほどの郊外に住んでいました。例えば、日本だったら、通勤圏一時間以内なら、御の字でしょうが、こちらは、交通事情が日本のように、正確でもなく、四六時中、故障だのストライキだのと問題が多いため、一時間の通勤は、長い方ではないかと思います。(電車の連絡が悪かったりすると、最悪です。)

 実際、この通勤時間で、小さい子供がいるとなると、職探しにも、なかなか、苦労しました。

 それでも、私たちが住んでいた場所自体は、緑も多く、パリより少し、離れているだけで、のどかで、人も少し、ゆったりした感じの方々が多く、娘の行っていた保育園などは、家の近くの巨大な公園の中にある、空気も良い、自然環境抜群の保育園でした。

 エコールマテルネル(幼稚園)に入った時も、学校のフェット(お祭りのような催し物)があると、みんなが大きな親戚のように、親しく集まって、みんながお菓子を焼いてきたり、私も巻き寿司を作って持って行ったりしました。

 中には、バンドをやっているミュージシャンのお父さんなどがいたりして、フランス人のある程度の年代の人なら誰でもが知っているであろう、ジョルジュ・ブラッサンスの Les copains d'abord (レ・コパン・ダボー)という曲をみんなで大合唱して、とても、暖かく、楽しい時間を過ごしたりした思い出があります。

 毎朝、幼稚園に送りに行くと、コートとリュックサックを決まった場所にかけ、室内履きに履き変えたところで、私は、娘をおいて、帰ります。

 娘が4歳くらいの時だったでしょうか? 

ある朝、私がいつものように、娘を幼稚園に送っていくと、一人の可愛い男の子が私の前に現れ、姿勢をただして、スッと手を出して、握手を求めながら、私に言いました。

”ボンジュール、マダム” と。

 いきなり現れた小さな可愛い男の子に、”この子は、多分、娘の同級生なのだろうなぁ〜” と思いながら、私も”ボンジュール ムッシュー” と返しました。

 すると、次の瞬間、彼は、スッと背筋を伸ばして、娘の背中にそっと手を回して、一歩前に出て、”Elle est ma copine. 僕の彼女です。”と礼儀正しく、私に挨拶したのでした。

 これには、私は、度肝を抜かれました。

 フランスの子供ってこういうもんなのか!?って・・・。
あまりのその子の礼儀正しさに、こちらの方が圧倒され、目がまんまるになりました。

 それにしても、あの子は、なぜ、私にわざわざ挨拶に来てくれたのでしょうか?

子供っぽい無邪気な感じでもなく、小さいのに、とても紳士的だったのが、凄く印象的でした。

 そして、これがまた、すごい美少年だったものですから、そのあと、こちらも何となく、ニンマリしてしまいました。

 あれ以来、その子の話題は全く上がらず、いつの間にか忘れかけていました。

 今になってみると不思議ですが、その少年が挨拶したのが、ヤキモチ焼きのパパでなく、私で良かった・・と同時に思ったことを鑑みるに、意識的に主人がその話題を避けていたのかもしれません。

 それ以来、娘が進級する度に、クラスの集合写真に写る子供を、くまなくチェックするのですが、あの時以来、全くもって、娘のクラスには、美少年が存在していないことを母の私としては、とても残念に思う次第であります。

 












2019年6月28日金曜日

日本はフランス人になぜ愛されるのか? フランス人は日本をどう見ているのか? 





 多くのフランス人にとって、日本といえば、世界に名だたる先進国でありながら、実際には、フジヤマ、サムライ、ハラキリ、トヨタ、くらいのイメージしかなかった時代が長く続いていましたが、今や、日本の印象は、ここ数年で、うなぎ登りで急上昇中です。

 ちょっと前までは、圧倒的に、日本の知名度の根源は、漫画とアニメ、NINTENDO などのゲーム類が主流でした。いわゆるオタクと呼ばれる人たちを中心に広まり、日本のアニメは、フランスの一般家庭でも、テレビで見られる身近な存在となり、19歳以下のフランス人の51%は少なくとも1日に一時間は日本のアニメを見ていると言われており、おそらく、ポケモンを知らない子供はいないでしょう。

 ラーメンなどの日本食の流行も日本の漫画に登場した食べ物を実際に食べてみたいというところから、火がついたようです。

 年に一度、フランスで開催されるジャパンエキスポなどでは、アニメの主人公などのコスプレをしたフランス人で溢れかえり、昨年の来場者数は24万人を超えています。

 しかし、現在の日本ブームの圧倒的なきっかけとなったのは、YouTube です。

 フランス人のユーチューバー シプリアン(Cyprien)は、チャンネル登録者1400万人(ヒカキンの倍以上)を抱えるフランスの大人気ユーチューバーです。

 彼は、1989年、ニース生まれのフランス人で、大の日本好きとして知られています。

 彼が自分の YouTube 動画で、実際に、自分が日本へ行って、彼自身が見た、フランス人の目線での、日本の街の様子や食べ物、日本の面白いグッズなどを紹介してくれていて、そこから若者を中心に現在のナマの日本の様子がフランスの何千万という人に拡散されているのです。

 元来、フランスという国は、伝統的なものへの畏敬の念を持っています。

 日本は、その伝統(美しい庭園や神社仏閣など)と、美しい自然(富士山や日本の山並みや温泉)、世界に誇れる食文化、超近代的な高層ビルが連立している様や、生活の隅々までがハイテクノロジーで覆われている未来都市のような街、パリでは考えられないような人混みが行き交う渋谷のスクランブル交差点など、現代と美しい自然と伝統が共存している、とても魅力的な国なのです。

 羽田空港に着いて、まず、フランス人は驚きます。”トイレが喋る!!”と。
 そして、その清潔さにも、きっと、ビックリしているはずです。

 また、日本人が礼儀正しく、勤勉、かつ、信頼のおける人々であることにも、実際に日本に行ったことがあるフランス人から、口コミのように広まっています。

 日本に初めて観光で訪れて、タクシーに乗って、お財布をタクシーに忘れてきたフランス人の男性の談。

 パリなら99.99%、まず、出てくることはありません。
 普通に持ち歩いていても盗られるくらいですから。(笑)

 しかし、その置き忘れたお財布が、見つかったどころか、タクシーの運転手さんが、お財布に入っていたホテルのカードを見て、ホテルまで届けてくれたとか・・。
 これには、このフランス人にとっては、感激を通り越して、もはや、驚きでしかなかったようです。
 この国は、いったい、どうなっているのか?と。

 日本人の私としては、親切な運転手さんで良かったね・・くらいには、思うのですが、日本なら、まあ、ありえないことではないな・・と思います。しかし、フランス人にとったら、まさに、これは、あり得ないことなのです。

 こうして、フランス人から、日本の評判を聞くにつけ、私は日本人で良かったと思うとともに、日本人であることを誇りに思うことができています。



 




2019年6月27日木曜日

国際結婚の家事・育児の分担ーフィフティフィフティ




 夫婦の役割分担として、よく、フィフティーフィフティーという言い方をしますが、客観的に見ると、フィフティーフィフティーという関係は、なかなか、あり得ないもので、やはり、どちらかに偏ってしまっているように思います。

 とはいえ、これは、客観的に見たらの話であって、もちろん、それぞれの夫婦には、それなりの分担と、それぞれにできることと、できないことがあるので、何を基準にそのパーセンテージを測るかは、その夫婦にもよるので、一概に言うことはできませんが・・。
 まあ、お互いに納得していれば良いのですよね・・。

 海外で暮らしている国際カップルの様子を見ていると、(夫が外人で、妻が日本人の場合は特にそうだと思うのですが・・)確かに、こちらの男性は、日本人男性に比べると、抵抗なく、子供の送り迎えや家のことなどをしてくれていると思いますが、それでも、たいていの女性が自分の仕事を持っていることを踏まえると、特に、日本人の女性は、家庭の中でも本当によく動いています。

 結局、忙しければ忙しいほど、効率よく、結果的にたくさん動いてしまうのかもしれません。また、それができてしまう女性たちがどんなに多いことか!
 海外で、家庭を持って生活している日本人の女性には、本当に頑張り屋さんが多いです。

 食事もなかなか、手の込んだものをちゃんと栄養のバランスを考えて、工夫して作っていたり、子供の教育にも、とても熱心です。本当にはたから見ていても、本当にスゴいなあと思います。

 そして、実際に、私の周りで見る日本人のハーフの子供は、かなりの割合で、優秀な子供が多いように思います。これは、常に子供の頃から、二か国語以上を話すことが脳に与える影響もあるのかもしれないとも思っていますが・・。

 昔、イギリスでホームステイをしていた時のご家庭では、奥さまが専業主婦にも関わらず、圧倒的にご主人がよく働く方でびっくりしたこともありました。とにかく、その家のご主人は、仕事に行く前も、帰ってきてからも、3人の子供と犬と猫の世話をずっとしているのです。とにかく、大忙しです。
 薄くなっている髪の毛が一層、悲哀を感じさせていました。
 一方、奥さまの方は、1日中、部屋着で、子供や犬、猫を四六時中、叱りつけているばかりです。

 食事の支度は、さすがに、奥さまがなさるのですが、それも冷凍食品か缶詰か出来合いの食品を温めてお皿に盛るだけです。逆に、この人は、こんな風に生きていて、楽しいのかな?と思ったほどです。
 
 これでは、ご主人があまりに気の毒だなあ〜と思っていると、案の定、ある日、ご主人が、風邪でダウンしてしまったのです。一日経っても、しんどそうなご主人に、”まだ、良くならないの?”と追い討ちをかけるような言葉。
 海外生活が初めてだった私は、イギリス人の女性って怖いなあと思ったものでした。
 まあ、この場合も逆ですが、明らかに、フィフティフィフティではありませんでしたね。

 我が家の場合は、子供を学校へ送っていくのは主人、迎えに行くのは、私。
 料理や掃除、洗濯などの家事全般は私ですが、アイロンかけやブリコラージュ(大工仕事や電化製品などのメンテナンス)、車関係は、主人。

 子供の教育に関しては、フランスの学校に関しては、主人。日本語教育担当は私。バレエと水泳に関しては、私。その他のスポーツに関しては、主人。
 また、税金やその他の公的な書類関係や交渉ごとは全て主人に任せていましたので、まずまず、フィフティフィフティに近かったかと思っています。

 まあ、一般的に言う夫婦関係におけるフィフティフィフティーというのは、それを心がけるという時に使うのであって、それを測る場合には、なかなか容易には使えない言葉なのかもしれません。



 


2019年6月26日水曜日

国際結婚の夫婦喧嘩





 国際カップルの家庭は、どちらの言語で会話しているのでしょうか?
 
 私と主人は、日本で出会ったので、その頃から、基本、英語で会話していました。
そして、その後、アフリカに転勤になり、私がフランス語の勉強を始めてからは、フランス語も少しずつ混ざるようになりました。

 そして、娘が生まれてからは、さらに複雑になり、娘は私とは、日本語、パパとは、フランス語、主人と私は、英語。基本、娘は、フランスの学校に行っているので、フランス語は良しとして、娘の日本語、英語の習得を基本に考えていました。
 
 ですから、5〜6才の頃からは、私と主人の英語での会話にも、娘はフランス語で参加するようになっていました。最初は、娘には聞かれたくない話をする時には英語にしていたのですが、すっかりわかるようになってしまったのです。反面、パパに聞かれたくない話は、娘とは日本語でしていましたが、主人は結局、大して、わかるようにはなりませんでしたが・・。
 こんな具合でしたので、しまいには、一体、自分が何語で話していたのか、わからなくなることもありました。

 主人は、転勤で、日本に4〜5年住んでいましたが、仕事上は、ほぼ、英語かフランス語で済ませることができていたので、ほとんど日本語が必要ではなかったため、日常の最低限の日本語が少しわかるくらいでした。そんな感じだったので、フランスに戻って、主人の日本語はいよいよ危ういものになっていきました。
 娘を朝、学校に送って行ってくれるのは、パパでしたが、ある朝、二人でアパートの玄関を出るのを見送る私に、二人揃って、大きな声で、”いっただっきまーす!” と元気に大声で挨拶してくれた時には、思いっきり、ズッコけたものでした。

 しかし、これが夫婦喧嘩になると、また、話は違います。
 
 もともと、私は、どういうわけか、日本語で話す時よりも、英語やフランス語で話す方が口調がきつくなりがちで、これは、やはりその言語を使う国での生活の仕方や国民性にも関係があるのだと思うのです。(欧米では、物事はハッキリ言わないと暮らしていけないし、逆に日本では、あまり、ハッキリ言うことがはばかられるような風潮もありますよね。)

 まあ、単に私の語学力が圧倒的に日本語 対 英語・フランス語となると、語彙力から何から格段の差がありますから・・どうしても少ない語彙力で話すとストレートになりがちなのかもしれませんが・・・。

 そんなわけで、いつの間にか、私たちの喧嘩は、それぞれの母国語で言い合うことになっていきました。怒ると思わず辛辣な言葉で相手を傷つけてしまうこともありますよね。そのうち、私は、喧嘩する時は、日本語で、主人は、フランス語になるようになっていきました。結局は、お互いが言いたいことを言い合っても、ちっとも相手の話を聞いていない・・というか、理解できない・・だから、相手を傷つけない、傷つかない。だからこそ、私たちは、別れずに済んできたのかもしれません。

 もちろん、話し合いが必要な時には、冷静に話しますが、喧嘩の時は、お互いが怒っているということがわかれば、お互いに、言いたいことを言って、一晩寝たら、スッキリする。翌日には、持ち越さない。

 だいたい、私たちの夫婦喧嘩なんて、大した原因でもないのです。後になったら、何が原因だったか思い出せないことさえあります。

 芯のところで、しっかり、繋がっていれば、それで良いのです。相手を深く傷つけることもなければ、傷つくこともありません。私は、口数は多い方ではありませんが、どうにも日本語だと、一言で、相手を刺すようなことを言ってしまいそうな気がするのです。その点では、相手が日本人でなくて良かったのかもしれません。

 しかし、気の毒なのは、娘です。私たちは、興奮して、言いたいことを言ってスッキリするのですが、それを側で聞いている娘だけが、冷静に、日本語もフランス語も完全に理解して聞いているのですから・・。

 後日、娘は私に言うのです。”パパもママも全然、違うこと言ってるんだよ!”と。
ハーフに生まれ育った娘の苦労はこんなところにもあるのです。

 反省。

 
 





 

2019年6月25日火曜日

フランス語力ほぼゼロだった私のフランス人外交官の夫とのアフリカ生活 





 フランス人の外交官とアフリカのプール付きのアパートで、フランス語でボーイさんを使う生活? なんだか現実感がわかなくて、想像もつかない!?。私がアフリカに行ったばかりの頃、友人からの手紙に書いてありました。(外交官といっても、財務省からの派遣外交官)

 確かに、その言葉面からは、なんだか、一瞬、優雅な響きに感じられるかもしれませんが、実際は、とんでもありません。

 何といっても、私にとっては、初めてのアフリカ。私たちの生活していたコートジボアールのアビジャンという街は、西アフリカの中心のようなところで、アフリカのパリなどと呼ばれています。

 しかし、パリはパリでもアフリカのというところがメインなわけで、とてもパリとは似ても似つかないのが現実です。

 しかも、フランス語圏での生活にもかかわらず、当時の私は、ほぼほぼフランス語力ゼロに限りなく近く、夫とは、以前から英語で会話していたものの、その夫以外は、ほぼフランス語のみの生活です。
 もちろん、家にいるボーイさんともフランス語で会話しなければなりません。その上、治安があまり良いとは言えないため、気軽に一人で外出、というわけにもいきません。

 私は、アフリカに着くなり、現地の大学のフランス語科に通い、とりあえずしばらくは、フランス語の勉強に明け暮れる毎日を送っていました。

 外地での勤務、特に発展途上国に赴任する場合は、現地のボーイさんかメイドさんを雇う義務があります。実際に私たちの生活していた、コートジボアールでは、なぜか、家に雇うのはメイドさんではなく、ボーイさんでしたが、うちにいたのは、ブルキナファソーから出稼ぎに来ているボーイさんでした。

 彼は、運転も簡単な料理もこなす人で、外出の際も現地の人との交渉ごとは、彼に間に入ってもらう方がスムーズに行くのでした。(彼の給与は月額、約300€程度、それでも、彼には、アビジャンに一人、ブルキナに一人と二人の奥さんを養っているのでした。)

 とはいっても、家の中に四六時中、ボーイさんとはいえ、他人がいることは、そんな生活に慣れない私には、なかなかのストレスでさえありました。

 主人の仕事上、お客さんを招いたり、招かれたりすることが週3〜4回はあり、そのためのセッティングをしたり、音楽を選んだり、時には日本食を作ったりして、それなりに忙しい毎日でした。それでも、今まで会った事のない、色々な人に会える機会を私は、それなりに楽しんでもいました。

 それでも、たいていのお客様は、親切に英語で話をして下さいました。フランス大使館の元スパイだったという方にもお目にかかりました。スパイといえば安直に007のイメージだった私は、全然、スパイっぽくない、目立たない人でびっくりしたりしました。考えてみれば、スパイが目立ってどうする!?って話ですよね。

 主人は、仕事で、ラグーン沿いの工場に視察などに行ったり、出張も多く、度々、マラリアにかかって、体力的にもとてもきつい思いをしていました。
 家にプールがあっても、マラリア(蚊に刺されて感染する)にかかる危険があり、朝、早い時間か、夜、遅い時間にしか泳ぐことはできません。

 なんといっても、一年中、夏、というのもこたえました。朝、起きて、曇っていると、心の底からホッとしたのを覚えています。アフリカに来て、初めて四季のありがたみをつくづく感じたものです。

 物事がすんなり運ばないのは、パリ以上というか、やはり比較にはなりません。朝は、皆、早いのですが、昼食後、14時も過ぎると挨拶はボンソワール・・もう、ほとんど働きません。あの気候では、致し方ないのも事実です。

 例えば、家のサロンの冷房が壊れた時、7〜8人の修理屋がやってきます。そして、ほとんど半日かかって、やっと直して帰っていくのですが、またその一ヶ月後くらいには、故障します。全てがこんな感じです。

 ああ、そうそう、それから、猫好きの私のために、子猫を買った(?)時も、ボーイさんに頼んだら、生きた鶏2羽と交換という事で、マルシェで鶏を買って、交換してきてもらいました。そして、猫に予防注射を打ってもらう時も現地人価格と外人用価格は違うからとボーイさんが猫を連れて、予防注射をして、証明書をもらってきてくれました。

 アビジャンには、日本政府が多額の寄付をして、建てられたは、いいけれど、結局、医療従事者の人材がいないために使われていない病院もありました。病院には大きな立て看板に日本とコートジボアールの国旗が描かれ、コ・オペレーションと銘打ってありましたが、一体、どこが?・オペレーションなのか? まるで、一方通行です。

 しかも、お金だけ出して建物だけを建てている日本は、結局、多くの税金をドブに捨てているようなものです。お金で寄付するのは、もっと最悪で、全て、国の官僚か、カカオ等を扱うマフィアに吸い上げられてしまいます。

 吸い上げられる・・で思い出しました。娘が生まれて、現地のお役所に出生証明書を頼みに行った主人は、カラーテレビを一台持ってこいと言われたそうです。(もちろん、持っていきませんでしたが)税関でも、警察でも、お金で何でも通ってしまい、規則などあって無きの如しです。

 そんなこんなで、私たちのアフリカ生活は、約2年間続き、娘が生まれて3ヶ月ほどで主人がフランスに転勤になり、主人の外交官生活の終わりとともに幕が引かれました。

 
 

2019年6月24日月曜日

子供が生まれて思ったことーアフリカでの出産 




 母は、私に常々、言っていました。一度は、子育てを経験した方がいいわよ・・と。

 子供を持つことで、自分の中の欠落している部分が少しずつ埋まり、今まで知らなかった世界が広がるから・・違う視点でものごとを見ることができるようになるから・・と。

 その母の言葉は、常に私の中のどこかにいつも潜んでいました。
 私が、子供を産むなら、これくらいまでかな?と思っていた年齢に出会ったのが、主人でした。それは、私にとっての大きな人生の転機でした。

 そして、私が、子供を出産したのは、よりにもよって、主人の転勤に付いて行った先、アフリカでのことでした。

 分娩台の上で、あまりにも痛くて、こんなに痛いんだったら、やめときゃ良かったと思ったと同時に、頭が出かかっているけど、なかなか出てこない赤ちゃんに、引っ込みがつかないと言うけれど、これこそ、引っ込みがつかないと言うことだと思い、痛みに耐えながらも、一人、心の中では、苦笑してしまいました。

 と同時に、これは、大変なことをしてしまったと思ったのです。それは、私が産み落とした命、一人の人間に対して、大変な責任を負ったということを、なぜか、その時、まさに分娩台の上で実感したのでした。

 それは、この子を心身ともに健康に育てる責任ということです。
 
 子供が身体的に健康に育つことはもちろん、例えば、その子がたいへんな犯罪を犯したりしたら、人を殺してしまうようなことがあったら、それが正しいことかは別としても、私はこの子を殺して私も死ななければならない、そうならないようにしっかりと子供を育てなければならないという責任と決意のようなものでした。

 それまで私の周りには、小さな子供や赤ちゃんはいなくて、赤ちゃんを触るのも初めても同然で、おっかなびっくりでした。しかも、そこはアフリカで、日本のように病院で母親学級のように丁寧に子供の扱いを教えてくれる訳ではありません。

 でも、アフリカには、別の意味で子育てを教えてくれるものがありました。それは、アフリカの現地の人の子育てでした。アフリカでは、”街が、道が、子供を育てる。”と言います。
 
 路上で子育てをしている人もたくさんいました。離乳食には、自分たちの食事の中から赤ちゃんでも食べられそうなものを選んでクスクスなどを食べさせていました。

 私が彼らから学んだのは、極端な話、子育てにはこれが正解というようなものはなく、人と比べて神経質になることはないということでした。天気がいいので、(良過ぎるほどでした)いくらでも洗濯ができるので、しばらくは、オムツも布のものを使っていました。

 そうして子供を育てる中で、私は、自分自身よりも大切な存在ができたということに気付き、何だか、自分以上に大切なものがあることに尊さと誇りと幸せを感じました。

 そして、それは、私自身を大きく変えてくれました。私は、自分の子供だけでなく、他人の子供も可愛いと思うようになっていたのです。それらの変化は、私が意識的に変わったのではなく、むしろ、もっと本能的なものでした。何だか、変な言い方ですが、自分も動物の一種なんだなと感じたものです。

 いかにせよ、これは、人生において、とても楽しくて嬉しい変化でした。そして、子育ては、大変なこともたくさんあるけれど、私の人生において、子供がいなければ、絶対に沸き起こらないような感情を呼び起こし、何よりも私に幸せと喜びをもたらしてくれたことをとても嬉しく思っています。

2019年6月23日日曜日

シャンゼリゼで起きていたマカロン戦争




 久しぶりにシャンゼリゼに行ったら、結構な、珍しいものを見つけました。もう、このお店がオープンして、一年以上経っていたようですが、私は、全然、気がついていませんでした。昨年から、続いている黄色いベスト運動もあり、なんとなく、シャンゼリゼから、足が遠のいていたのです。

 なんと、ピエールエルメとロクシタンのコラボショップがオープンしていたのです。しかも、シャンゼリゼで、その上、道路を挟んで、ラドュレの真ん前の場所に!




 これは、なんとも挑戦的というか、ピエールエルメのしたたかさを感じずにはいられませんでした。しかも、ロクシタンとコラボするとは・・。

 ピエールエルメはフォションのパティシエから、ラドュレを経て、独自のブティックをオープンし、2001年にパリ6区のサンジェルマンデプレにブティックをオープンしたあたりから、大ブレークし、今では全世界にその名を知られるようになりました。彼は、パティシエ・ショコラティエですが、何と言っても、マカロンの人気がダントツなことは、言うまでもありません。マカロンを食べ慣れているパリの人たちも、ピエールエルメのマカロンが一番美味しい・・と言う話も耳にします。・・がお値段もかなりのもの。

 スイーツが特に好き!というわけではない私には、マカロンにこの値段??と思ってしまって、余程のことがないと手を出しません。
 もともと、フランスで、マカロンは、お母さんが子供のオヤツに作ってあげるような、材料費もさしてかからない手軽なお菓子なのです。

 一方、ラドュレは、1862年創業の超老舗。ピエールエルメが登場する前は、パリでマカロンといえば、ラデュレで、あの薄いペパーミントグリーンの紙袋を手にした観光客が街中をウロウロしていたものです。(もちろん、現在も健在ですが)
 こちらも高級パティスリーとあってかなりのお値段であることは言うまでもありません。ラドュレの方は、サロンド・テにもかなり力を入れていて、軽食等も食べられるようになっており、安定した人気を獲得していて、やはり、老舗の重厚さを感じられます。

 ピエールエルメのロクシタンとのコラボは、確かにシャンゼリゼという立地もあり、(しかも、シャンゼリゼの真ん中あたりにある、絶好の立地条件)、観光客(特に日本を含むアジア系の観光客が主なターゲット)目当てのお土産物としては、未だ絶大な人気を誇るロクシタンとのコラボで、双方とも、商品は飛ぶように売れていました。また、シャンゼリゼに出店となれば、それなりのステータスでもあるでしょう。

 広い店内の中央の円形のスペースには、マカロンを始めとしたピエールエルメのスイーツがキラキラと並び、それを囲むようにして、四方の壁伝いに並ぶロクシタンの数々の商品。店員の約半分は、ターゲットであるアジア系の観光客を見込んでのアジア系のスタッフ。確かに、観光客集客には、もってこいの戦略なのかもしれなません。

 しかし、私は、なんとなく、商魂たくましすぎて、えげつなささえ感じてしまったのです。急成長を遂げているピエールエルメは、この先は、何を目指しているのだろうか?とさえ思ってしまったのです。

 老舗のラデュレなら、ロクシタンとのコラボなど、あり得ない話でしょう。老舗としての誇りと歴史を守っているからです。

 ここ、10年ほどで急成長したピエールエルメが今後、生き残って、老舗となっていけるのかどうか? 興味本位ではありますが、行方を見守っていきたいなと感じた次第であります。

 

 

2019年6月22日土曜日

子供なりの涙ぐましくも笑える危機への対応 ママが死ぬときにはパパはとっくに死んでいるでしょ!





 娘がまだ、3歳くらいの頃、主人が自宅で、呼吸が苦しくなって、救急車を呼び、病院に搬送されたことがありました。娘は、その時、大した反応もせずにおとなしく、その様子を見守っていました。しかし、それ以来、救急車を見ると、”voiture de papa" ヴォアチュードウパパ(パパの車)!" と呼ぶようになりました。

 それからしばらくたって、二人で、日本へ行った時、娘は、メモを片手に私の従姉妹たちに、電話番号を聞いてまわっていました。”◯◯ちゃん、電話してくれるの〜!?”という彼女たちに、娘は、”ママが死んじゃったら、電話するから、私のこと、迎えに来てくれる?” と頼み歩いていました。

 みんなは笑いながら、”だって、もし、ママが死んじゃっても、◯◯ちゃんには、パパがいるでしょう!?”と言うと、”ママが死ぬときには、パパはとっくに死んでるでしょ!”とあっさりと言ってのけ、みんなを絶句させ、そのあと、爆笑させていました。

 でも、後から考えると、娘は娘なりに、きっと、真剣に考えていたのです。主人は私よりも結構、年上で、おまけに救急車騒ぎの挙句に入院。それから、しばらくして、退院はして、仕事にも復帰していたものの、娘にとって、きっと、主人の救急車騒ぎや入院は、それなりにショッキングな出来事で、彼女なりに真剣に考えていたのでしょう。

 「これは、もしかして、パパは長生きしないのかもしれない。そして、ママに、もしものことがあったら、自分は、どうしたらいいだろうか?」 と。

 でも、その不安を一切、私たちに話すことも、漏らすこともなく、そのための対策案を自分で考えて、自分で準備を始めたのには、びっくりしました。

 普通なら、”パパもママも死んじゃったら、私は、どうすればいい? 誰が私のことを世話してくれるの? 誰かに頼んでおいて!”となるのが普通です。幼いながらもパパの救急車騒ぎから、もしもの時のための危機への対応を着々と、自分で準備するところが、娘の個性的なところです。

 子供は、子供なりに、ある出来事から、自分で感じ、考えているのです。

 その後、私の友人が、ガンで亡くなりました。まだ、若かったので、発病してから、あっという間の出来事でした。子供もまだ小さく、5歳の男の子を残しての他界でした。ちょうど、娘と同じ年ごろでした。

 旦那さんは、健在でしたが、どういう理由からか、彼女の母親が子供は引き取って、育てることになったようですが、さすがに私もショックで、娘よりは、遅れてですが、”もしも、私に何かあったら・・” と思うようになり、会う人ごとに、私に何かあったら、娘をお願いね・・と頼むようになったのです。

 そして、なんとか、娘がしっかり働けるようになるまでは、生きていなければ・・と、その後の私は、ひたすら思うのでありました。

 



2019年6月21日金曜日

海外生活も長くなると性格がキツくなる!?





 ”おまえは、いつから、そんなにキツい性格になったんだ!” パリに住むようになって、5年くらい経った頃だったでしょうか? 日本に帰国した折に、父に言われたことがありました。

 そう言われてみれば、そうなのかもしれません。私は、無意識のうちに、以前の私より、ハッキリものごとを言うようになっていました。

 日本人の美徳として、言わずとも察する、とか、そんな文化があり、正面きって、ものごとを言うのは、あまり良しとされないところがあります。本音とタテマエも、その分、多いような気がします。

 しかし、海外では、言うことは、ハッキリ主張しないと生活していけません。生活していく上での色々なトラブルも黙っていれば、泣き寝入りするばかりです。言っても仕方ないことと、言わなければならないことの区別がつくようになるまでには、ある程度、時間がかかりました。

 当初は、日本のような、きめ細かいサービスや気配りが当然と思って、それが基準になっていた私は、こちらの杜撰なサービスにいちいち腹を立てていましたが、言っても仕方ないことには、抵抗しないようになりました。

 ああ、まただ・・とまず、すんなり行かないことを前提にして、構えます。時には、それが仕事に関わることなら、念押しもします。すんなりと行けば、凄いなあと驚きます。

 しかし、基本的には、言うことは言う。と言う姿勢に、いつの間にか、変わっていました。子供を持てば、なおさらのことです。時には子供を守るために、言わなければならないことも出てきます。

 その頃、やっと、私は、”強くなければ、優しくなれない。”という言葉の意味を知ったような気がしました。強く、毅然として、言うことは言う。そうでなければ、大切な子供は守れないのです。母は強しとは、良く言ったものです。

 でも、反面、日本に行った時には、逆にハッキリ言わない日本人に疲れてしまうようにもなってしまいました。正直なところ、日本の本音とタテマエに、今では、逆に、疲れてしまうこともあります。

 以前、私がまだ日本に住んでいた頃、外資系企業などに勤める帰国子女が性格がキツくて、耐えられないと言っていた友人がいました。あれってこういうことだったんだな、と今さらのように思うのであります。

 今となっては、日本に行った時は、海外で暮らして、習慣になってしまっている色々なことを日本モードに自分自身を切り替えることを心がけています。






2019年6月20日木曜日

子供を預けて働くということ 子供を預けることは育児放棄ではない





 私が子供を預けて仕事を始めたのは、娘が一歳になったばかりの頃でしたが、それは、私が、子供を預けて女性も仕事をするというのが、当然のフランスという国に住んでいたので、あまり、抵抗がなかったのかもしれませんが、これが、日本だったら、もしかしたら、違ったかもしれないなとも思います。

 とはいえ、私は、子供を預けて働くという道を選択しました。私は、子供に日本語をどうしても習得させたかったので、子供とは日本語のみで会話していたので、逆に娘には、保育園に行って、フランス語、フランスの社会をしっかり学んでほしいと思っていたので、そのための機会、場所と思っていました。

 子供を単に預けるとは考えずに、子供に自分が教えられない別のことを学ばせてくれる場所に行かせると考えたら良いのではないでしょうか? 育児は両親、(親)だけでは、どうしても偏りが出てきます。

 親とて、決して完璧ではないのです。子供は小さくても、ちゃんと、自分がこれから暮らしていく社会を子供の目で見て、感じて、色々なことを学び、社会性を育んていきます。
 子供を預けることで、親の愛情が減るわけではありません。

  実際、娘は、ほんの小さい時から、初めて会う大人の中でも、瞬時に自分を大切にしてくれる存在を見分ける動物的な感とも言えるようなものを持っていました。その正確さには、目を見張るものがありました。この人は、信頼できる人だという人を瞬時に見つけてしまうのです。



 一方、私自身、思ってもみないことでしたが、子供を預けて、仕事に行く最初の日、電車に乗った途端に思わぬ開放感に自分がビックリしたのを覚えています。それまで、全く子供といることにストレスを感じてはいませんでしたが、開放感!?ということは、やはり、私の中のどこかに、子育てに対する緊張感があったのかもしれません。

 しかし、仕事の時間は仕事、子供と過ごす時間は子供との時間、としっかり分けることができたので、生活にもメリハリが生まれて、どちらも頑張れるようになりました。子供と過ごせる時間が限られたことで、かえって、一緒にいられる間に、これもあれもしたい、やらせてあげたい、と子供との時間は濃密になりました。

 ですから、小さい時から、子供を預けることを育児放棄のように言う人がいるようですが、私は、そんな話は、とんでもない!と思うのです。

 私は、子供ができてから、自分よりも大切な存在ができたということに、喜びを感じると同時にとても感謝しています。

 しかし、私が、もし、子供が小さい時に子供を保育園に預けずに、子供との時間だけを過ごしていたら、逆に、私の場合、あんなに濃密な時間は過ごせなかったのではないかと思うのです。

 職場でも、子育ての経験者はたくさんいて、同僚の方々からも、色々な子育て事情を学びました。子供を預けて働くことは、子供にも親にも良いことであって、決してマイナスのことではありません。親の側も働きながら、学ぶことは沢山あるのです。

 私は、子供を預けて働こうとしている女性を心から応援したいと思っています。

 

2019年6月19日水曜日

できる女性ほど、ダメ男に引っかかる説 フランスでの離婚





 離婚となると、どこの国でもしんどいことには変わらないのでしょうが、フランスでの離婚で、結構、エグい話を耳にします。まあ、とにかく、フランスでの離婚話は、多いです。聞くところによると、何とパリの離婚率は50%なんだとか・・。ホントかしら? 

 フランスでは、子供の送り迎えは、小学校を卒業するまでは、当たり前のこととなっていて、しかも、学校側にきちんとお迎えに行く人の名前を登録しておく必要があります。

 もちろん、それは、危険な人物から、子供を守るためではありますが、これは、離婚調停中の親権争いの最中、または、離婚後に夫婦の間で子供の取り合いになり、親権を持たない親が子供を連れ去るようなことも起きるという理由もあるのだそうです。

 何とも、気の毒なのは、子供ばかりと思ってしまいますが、これまた、両親が離婚しているというケースが多いので、子供が離れた両親の間を行ったり来たりしているケースは多く、同じような友達も多いせいか、本人たちも、わりと、当たり前のようにそんな生活を受け入れているように見えます。(内心はわかりませんが。)

 つい最近も娘の友達の両親が離婚調停中という話を聞いたばかりです。
 この夫婦、昨年、一度、旦那の浮気が原因で別れかけたのですが、しばらくして、復縁し、落ち着いたものとばかり思っていました・・が、またもや、旦那の浮気で、ついに離婚が本決まりになりそうな気配です。・・娘に言わせると、あんなに綺麗で、仕事もバリバリできるお母さんに、どこか冴えないお父さん。とっとと別れて正解!とな。

 私の知り合いの日本人女性の話。

 フランス人の夫と結婚し、二人の子供を設けて、日本の両親の援助も受けて、子供の学校に都合のいい場所に家も買い、幸せに暮らしているとばかり思っていましたが、彼女の稼ぎが良いばっかりに、当初は普通に働いていた夫がほとんどヒモ状態になり、ついには、離婚。

 いざ、離婚となると、色々と厄介で、親権だの財産分与だのと弁護士たてての大騒動。裁判となると外人である彼女の立場は、不利になることもあったのか、結局、親権は勝ち取ったものの、自分の買った家で今までどおりの生活を子供たちと続けるために、財産分与の一部として、自分が両親にまで助けてもらって買った家の分配金をダメ夫に支払い続けるという、家を二重に支払うということに。

 彼女は、優秀で、綺麗で、とても普通な感覚を持った人で、なぜ、こんな人がこんな目にあうんだ!と思ってしまうのでした。

 しかし、良く考えてみると、フランスに限らず、概して、最初から、男性を当てにして生きていこうとしている女性は、案外、平穏に生きているな、と思うのです。
 逆に、できる人、できるからこそ、もっともっと頑張ってしまうからこそ、起こってしまうという離婚という事実。これも現実です。

 なんだか、不条理な気もしますが、結構、あることなのかもしれません。







2019年6月18日火曜日

フランス人の子供の進路の選択 女性も社会の一員として働くことが前提




 フランスの子供の進路の選択において、というか、教育において、日本と大きく違うことがあります。それは、女性もひとりの人間として社会に出て、働くことが前提だということです。

 これは、とても大切なことだと思います。フランスの大変、良いところです。フランスの女性は、結婚して、家庭を持っても、仕事を持ち続けるのが一般的です。

 これは、一人の人間として、家庭の中だけでなく、社会と関わり、何らかの形で社会に貢献できるということです。そのことを前提として、教育を受けられるということは、何と素晴らしいことなのだろうかと思います。

 フランスの進路の選択は、大まかには日本でいう高校2年生の学年から始まります。普通の高校の場合、クラスが、S(理系)、L(文系)、ES(経済系)に大きく分かれ、そのどれかを選択しなければなりません。クラスを選択して、分かれた時点で、かなり、授業内容も変わってくるため、ここが最初の分岐点とも言えると思います。

 日本も高校の段階で、ある程度、文系、理系と分かれるとは思いますが、フランスは、その分かれ方が、かなり、はっきりしています。その段階で、選択しきれない場合、成績が上位の子供は大抵の場合、Sを選択するようです。その後、進路を変更したい場合でも、Sからなら、L、ESに変更することは、ある程度、可能ですが、その逆の場合は難しくなってしまうため、可能性を大きく考えると、Sを選択することになります。

 フランスの学校は、小学生の時から、落第、飛び級(成績が飛び抜けて良く、本人、親が希望する場合のみですが、一年学年を飛び越して進級します。)が当たり前なので、娘は、小学校から高校まで、同じ私立の学校でしたが、いつの間にか、いなくなっている子や学年が変わっている子供もいたようです。

 選択するクラスによって、授業もそれぞれの分野の突っ込んだ内容となり、それぞれ、異なってくるため、それに伴って、その方面の良い先生との出会いが生まれます。そして、それぞれのクラスで勉強を続ける中で、かなり具体的な進路を模索するようになっていきます。

 日本では、大学に行っても、進路がはっきりしないような、何となく大学へ行くというケースも多いですが、(何となく行く大学のために奨学金を借金して、卒業後に返済に追われるという何とも理解しがたい問題が起きているようですが・・)、私は、娘が高校生になってからは、”もし、勉強が好きじゃないんだったら、何も大学に行く必要はないから、行かなくてもいい。
 
 でも、何もせずにいられるほど、うちは、裕福ではありませんから、働いてください。”と言ってきました。私は、これを冗談で言ったのではありません。無駄に大学に行く必要は全然ないと本気で思っているし、私には、そういう世間体を気にする観念はありません。

 しかし、娘は、”大学に行かないなんて、そんなわけないでしょ!”と私を一括し、理系の道を選択しました。ちょうど、高校2年から3年にかけて、理系の素晴らしい先生との出会いがあったようです。こうして、かなり早い段階で、進路をある程度、定めて、それに沿った教育を受け、きっちりと将来の仕事を見定めながら、勉強していける娘を見ていて、私は、正直、羨ましいと思っています。私もその年代に、そういう機会に恵まれていれば、どんなに違っただろうか?と。

 時代も国も違いますが、私が子供の頃は、女性が結婚しても仕事を続けているのは、特別に優秀な人か、あるいは、経済的に苦しい家庭なのだと思っていましたので、一生続ける仕事のために、勉強するという観念が、恥ずかしながら、ありませんでした。しかし、それは、違っていたのだと今、はっきりと思います。

 女性は、出産という大事業がありますから、(まあ、子供を持たないという選択もありますが、)出産の前後は、仕事を続ける上では大変なハンディキャップを背負うことになります。フランスでも、待機児童の問題が無いとはいえませんが、やはり、社会がそのような体制になっているので、日本と比べれば、会社側にも理解がありますし、日本よりは、子供がいても、ずっと仕事がしやすい環境になっていると思います。

 子育ての期間は限られていますから、確かに大変ではありますが、そこを何とか乗り切れれば、仕事は続けられたに越したことはありません。

 フランスは、ダメダメなところも沢山ある国ですが、こと、教育に関しては、私は、素晴らしいと思っています。教育にかかる費用も日本と比べたら、格段に安いです。これは、国が莫大なお金を教育のために割いているからです。一般的に大学、そして、その上のグランドエコールなどは、国立がほとんどなので、実際に小学校から上に進むほど、学費は安くなります。(経済系のエコールは、例外的に高いそうですが。)

 この教育のシステムは素晴らしいのに、どうして、ダメダメな社会になってしまうのか? 私はずっと疑問でした。これまで、私は、娘の通ってきた学校しか見てこなかったため、他の学校の様子を知らなかったのです。

 確かに、娘の行っていた学校はとても良い、厳しい学校でした。そして、他のレベルの低そうな学校の様子を見て、これはいけない!と焦って、探した学校でした。しかし、そのレベルの低い学校を見て、危機感を感じない家庭が多いことも現実です。これは、古くから、その家庭に引き継がれたある種の継承なのです。

 そうなのです。これが、やはり、フランスの格差社会なのだと気が付いたのは、後になってからでした。

 そういう意味では、この格差の問題は、日本よりも深刻な部分を含んでいるのかもしれません。

 

2019年6月17日月曜日

海外生活のススメ 海外に出るはじめの一歩




 現在、海外生活を送っている方々の最初のきっかけは、何だったのでしょうか? 

 日本から旅行で来られる方は、初対面でお話しする機会があると、たいてい、”もう長いんですか?”と会話を始められます。”もう、長いんですか?” の一言の裏側には、”どうして、海外に住んでいるのですか?” ”海外生活って、どうなんですか?”という意味の興味が感じられます。

 海外生活には、憧れもあるけど、やっぱり、なかなか踏み込めない・・というのが、正直なところでしょう。

 私自身も、子供の頃は、私がもしや、海外で長く生活することなど、想像すらしていませんでした。

 ただ、私の場合、母が小さい頃から英語を熱心に教えてくれていたので、英語に対する抵抗が人よりは、少し、少なかったかもしれません。しかし、かといって、私は、帰国子女でもなく、英語(外国語)での生活の経験があったわけでもなく、それなりにハードルは私の前に高く存在していました。

(実際には、現在は、英語ではなく、フランス語の生活で、以前の私は、外国語の中でもフランス語だけは、絶対、無理!と思っていたほどのフランス語嫌いでしたが。)

 しかし、最初の海外生活は留学だったので、もちろん期限付きで、海外生活とはいえ、いわば、長期滞在と言ってもよかったかもしれません。

 当時、私は、死生学の勉強をしていて、イギリスのホスピスでボランテイアとして働きながら、勉強をさせて頂いていました。最初の数ヶ月は、イギリス英語に慣れるために語学学校にも通いましたが、その後、受け入れてくれるホスピスに手紙を送りまくって、受け入れ先を探しました。

 とにかく、期限があるので、その間に何とかしなくては、と私も必死でした。何もせずにはいられませんでした。期限があるということは、良いことだなと感じたのもその時です。人生において、期限があることは、実はたくさんあるのですが、なかなかそれを実感できないでいることが多いのです。

 実は、自分の命そのものも永遠ではなく、期限がいつなのかはわからないながら、実は終わり、期限があるのです。

 私は、渡英した当初は、頑なに日本人との接触は敢えて避け、できるだけ、英語だけの生活を心がけました。ロンドンには、日本人は沢山おり、語学学校など下手をするとクラスの半数以上が日本人のクラスなんていうクラスもざらにありました。

 幸い、私のクラスには日本人はおらず、外人のクラスメイトとも英語での会話を余儀なくされます。苦しいですが、ある程度の期間をすぎるとグンとステップが上がる瞬間があります。今まで聞き取れなかったことが、聞き取れるようになっていくことに気がつきます。

 そして、そうなり始めたら、あとは、英語を勉強することより、自分の関心のあることに携わる環境に身を置くのがいいと思います。言語学の勉強をするならともかく、一般的に外国語の習得を望む場合、言語はあくまでも手段でしかありません。

 それをどう使うか? そのテーマがはっきりしていた方が良いのです。

 勇気を出して、一度、海外生活を体験してみたら、その後のハードルは、グンと下がります。すでに何とかなることを実感しているからです。

 外国から見ると、日本という国も客観的に見ることができるようになります。色々、問題もありますが、世界的なレベルで見ても、日本はかなり、レベルの高い国ですし、日本人であることを誇りに思えることも多いのです。

 これは、規則だからとか、これは、こうでなければならないとか、そういった固まった考え方ではなく、色々な人がいて、色々な考え方を持っていて、そして、自分自身はどう考えて、どう思うのか? どんな価値観を持つのか? 
 よく考え、自分自身を生きるようになります。

 だから、私は、日本の若い人には、一度は、ぜひ、海外に出てもらいたいと思っています。日本は島国ですし、最近、日本にも外人が増えたとはいえ、まだまだ日本人は外人に慣れていません。

 そして、日本のように治安が良くて、便利な国もないので、海外に出れば、それなりに不便だったり、怖い思いをしたりすることもあるでしょう。でも、便利なことばかりが良いことではありません。

 海外に出てみたら、一人一人、それぞれが、色々なことを感じることでしょう。日本でだけ暮らしていては、わからないことが沢山あるでしょう。きっと、若い時代のかけがえのない経験となります。

 迷っている人、ためらっている人もいるでしょう。でも勇気を出して、踏み出してみてください。大変なことも沢山あるでしょう。

 でも、世界はきっと、広がります。そして、大変な思いをしたことほど、良い思い出として、将来のかけがえのない経験、財産となることでしょう。

 

2019年6月16日日曜日

パリ・オペラ座出身のバレエの先生 フランスの子供に人気のお稽古事





 フランスの学校の新年度が9月に始まって、まもなくすると、お稽古事の申し込み受け付けが、一斉に始まります。

 娘の小学校でのお稽古事の一番人気は、女の子はバレエでした。

 男の子は、なんと、柔道かサッカーなのです。

 柔道は、意外にも、フランスでは、なかなかの人気のあるスポーツで、日本からも全日本の柔道の選手が度々、柔道振興のため、遠征などにフランスにも訪れており、私も日本でも有名な柔道の監督やコーチ、選手も大勢、ヤワラちゃんなどにもお目にかかる機会がありました。

 娘は、私の希望で、(私自身が小さい頃にバレエをやりたかったのです。)小学校に入る前からバレエを始めていましたが、小学校の低学年では、ほぼクラスの半数以上がバレエのお稽古に来ていました。

 なので、学年末(6月)の学校の行事とバレエの年末の発表会のリハーサルが重なったりした時は、クラス中の女の子たちが、学校とバレエの発表会が行われるステージとの間を行ったり来たり、発表会の当日は、学校のお友達も家族揃って見物に来ていて、学校との境界線があまり感じられないほどでした。

 ラッキーなことに、私たちの住むエリアにあるバレエスタジオには、元オペラ座のバレエのソリスト(ソロで踊るダンサー)であった男性の先生がバレエを教えに来て下さっていて、その小顔でスラッとした華麗ないでたちと優雅な身のこなしに、私も娘のバレエの送り迎えが楽しみでした。

 年度末の発表会には、先生の後輩であるパリのオペラ座のバレリーナがゲストとして、バレエを披露しに来て下さっていて、そのリハーサルから見学できるのも、なかなか普通では、見ることができない貴重なもので、ビデオ片手に私も思わず前のめりになっていました。

 オペラ座のバレリーナたちは、まじかで見るだけで、もうその体型だけでも彫刻のような美しさでした。

 小さい女の子たちが、舞台用のメイクをうっすらと施し、華やかな衣装を身にまとってはしゃいでいる様子は、小さなナルシストの集まりそのもので、発表会の最後に全員が揃って現れるデフィレ(出演者が最後に次々と舞台に登場するシーン)などは、小さなフランス人形がたくさん並んでいるようで、圧巻の華やかさでした。
 
 親バカな主人は、娘がバレエを始めてすぐに、パリのオペラ座の募集要項を調べたりしていましたが、「厳しい基準の中の一つに近親の人に肥満体型の人がいる場合は、失格。」というのがあり、「パパのせいで、オペラ座のバレリーナには、なれない!」(パパ、失笑。)などと、主人自ら、墓穴を掘ることとなりました。

 私は、レッスンのたびに、娘のレッスンの様子をビデオに撮っていました。

 先生は、ビデオの撮影にも協力的で、娘の場所を工夫したりしてくださいました。

 日本にも公演に行ったことがあるよ! プリンスホテルに泊まったよ!
 YouTube で僕の名前を検索したら、日本での公演も見れるから・・などと教えてくださり、さらに私は、ヒートアップ。

 家に帰って、ビデオを見ながら主人が娘に復讐をさせようとして、先生と同じように、両手を上にあげるだけで、主人の不格好さが際立ち、思わず吹き出してしまいました。

 それだけ、先生がカッコよかった・・ということです。

 先生のように優雅な身のこなしが身についてくれたら・・と望んでいたのですが、娘は、10年ほどバレエを続けましたが、今は、テコンドーに夢中です。

 まあ、そんなもんです。

 

 



2019年6月15日土曜日

現地の食材で作る日本食




 海外生活をしていると、日本食が食べたくなりますよね。パリだと、まあ、結構な種類の日本食材も手に入りますが、高いです。しかも、どこでも手に入るわけではありません。なので、私は、なんとか、現地で普通に手に入る、それほど高価ではないもので作れる、なんちゃって日本食を作ります。
 
 例えば、この写真にある春巻きまがいのものは、BRICKの生地で作っています。春巻きの生地と比べると、どこか、頼りないところもありますが、ほぼほぼ、似通ったものができます。
 コロッケやハンバーグ、とんかつ、エビフライなど、日本の洋食の類いも、食材を調達するには問題はありませんので、良く作ります。時々、うちに来るフランス人の友人にも大好評です。
 また、ひき肉をとても便利に使っています。だいたいこちらでは、薄切り肉、細切れなどのお肉は普通のスーパーでは売っていないので、肉じゃが、野菜炒めなどにもひき肉を使います。かえって、ひき肉の方が肉の味が出やすくて、子供にも食べやすくていいくらいです。
 
 クルージェット(ズッキーニ)なども簡単な我が家の定番です。下手だけとって、まるのままレンジでチンして、冷蔵庫に冷やしておいて、食べるときに縦に切って、お酢とお醤油、鰹節なんかをかけるとさっぱりとした一皿になります。
 また、ナスも海外では、大きなナスですが、生のままブチブチ穴を開けてそのままオーブンで焼けば焼きナスができます。これは、簡単です。
 きんぴらは、人参やセロリで作ります。

 最近のうちのデザートのブームは豆乳で作る杏仁豆腐です。これも簡単です。レンジで豆乳を温め、お砂糖少々とゼラチンを溶かして、最後にアーモンドエッセンスを垂らして混ぜます。容器に移して冷やせば、もっちりとした食感の杏仁豆腐風のデザートができます。
これは、絶対におススメです。アーモンドエッセンスやゼラチン、豆乳は普通にスーパーで買えますから。そして、美味しい!

 そして、何と言っても、日本食風のお料理には、薬味です。小ねぎ、しそ、三つ葉などは、ベランダでスクスクと育っています。これらをちょっと加えるだけで、グッと引き立ちます。全くもって色気のない話ですが、うちのベランダには食べられるものしかありません。

 あとは、カレー・・日本人は好きですよね。カレーはさすがに日本のカレーのルーを使ってしまいますが、カレーにらっきょう・・欲しいですよね。これは、パリにお住いの方の強い味方、パリのチャイナタウンにある Tang Frères(タンフレール)にそんなに高くない缶詰めがあります。日本食材店では高いですから、うちではそれを冷やしていただいています。Tang Frères(タンフレール)には、日本食品、韓国食品、中国の食材、調味料等、日本食材店よりも安く手に入るので、定期的に行っています。

 こんな風な生活になったのも、娘が半分はフランス人にも関わらず、乳製品が苦手=フランス料理が苦手、で大の日本食好きなためでもあります。(まあ、私も日本食が好きというのも大きいですが、)

 彼女が小学生の頃、学校でピクニックに行くのに普通、こちらの子はサンドイッチを持って行きますよね。なのに、娘はどうしてもお弁当を持っていくと言い張り、それならせめて、おにぎりにしたら?というのに、絶対にご飯とおかずの日本のお弁当を持って行きたいと言い張り、お弁当を持って行ったくらいです。周りの子たちがサンドイッチなのに、嫌じゃない?と言っても聞きません。こちらの子はあまり周りと違うことを気にしないのですね。ご機嫌で、お弁当を持って行って、ご機嫌で帰って来たのにビックリした私でありました。




2019年6月14日金曜日

バイリンガルのスイッチ




 娘が二歳から十歳までは、毎年、夏休みには、日本に行っていました。そして、日本でいう小学校就学の年齢からは、ほんの1〜2週間でしたが、実家の近くの公立の小学校に通わせていただいておりました。

 やはり、どんなに絵本を読み聞かせようと、ビデオを見せようと、テキストをやらせようと、実際の日本語社会に浸ることには叶いません。

実際の生の日本語の世界に2〜3週間浸ることで、娘の日本語は、格段に上達しました。

 短期間の日本滞在にもかかわらず、娘の日本語は、みるみる上達し、私の日頃の努力がバカバカしく感じられ、母に嘆いたこともありました。母は、”あなたが頑張ってきた下地があるからこそよ・・”と励ましてくれましたが、やはり、見るもの聞くもの全て日本語という世界は、スポンジのような吸収力を持った年頃の子供には、多大な効果をもたらしたと思います。

 私の両親をはじめ、親戚から私の友人まで、それはそれは、娘のことを可愛がってくれたので、娘も日本にいるのが楽しくて仕方ないようでしたし、”ちょっとフランス語、喋ってみてよ!”などと言われても、娘は日本では、決して、人前でフランス語を話すことはありませんでした。

 それでも、時々、トイレやお風呂に一人で入っているときに、ブツブツとフランス語で独り言が聞こえてくることがありました。やはり、日本語だけの世界というのもそれなりのストレスが彼女なりにあったのだと思います。それが、トイレとお風呂って、何だか笑えちゃいますよね。

 そして、楽しい日本滞在もあっという間に終わって、パリに戻ると、空港には、パパがウキウキと迎えに来てくれていました。しかし、娘は、まるで、”お前のせいで、フランスに帰らなくちゃいけなかったんだ!”と言わんばかりの仏頂面で、帰りの車の中では、時差ボケもあるのか、パパが話しかけても、一言も口をききませんでした。

 困ったもんだと呆れていると、家に着いて、アパートのドアを開けた途端にペラペラとフランス語を話し始めたのです。普段、生活しているアパートの中の風景が彼女のフランス語のスイッチを入れたような感じでした。

 まだ、幼かった彼女は、彼女なりに車の中の時間は日本語とフランス語のスイッチの切り替えに必要な時間だったのかもしれません。

バイリンガル

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2019年6月13日木曜日

パリの幻想



 さすがフランス!さすがパリ!と、どれだけフランスは思われていることでしょうか?

 娘が小さい頃、彼女が着ていた洋服を見て、”まあ、可愛い!さすがパリ!”と良く言われました。ところが、実際は、娘が小さい頃、私は、ほぼほぼ、彼女の服をパリで買ったことは、ありませんでした。
 
 娘の着ていた洋服は、日本にいる母や叔母が送ってくれたものがほとんどだったのです。それでも、私たちがパリに住んでいると知っている人たちは、娘の洋服を見て、”さすがパリ!”と言うのです。これには、苦笑してしまいました。

 日本のデパートに行く度に思います。どれだけ、フランス語を使った名前のお店が多いことか!?しかも、それが、正しくないフランス語であることも少なくありません。

 せっかく、お店の名前をフランス語でつけるなら、せめて、それが正しいフランス語であるかどうか、確認くらいしても良いのではないか?と思ったりもします。

 また、フランスは美食の国とも言われています。確かに、フランスにはワインやチーズやパンなど、美味しいものも沢山あります。

 しかし、実際のフランス人の食卓は、日本人の食卓(まあ、家庭にもよるとは思いますが、)に比べたら、かなり、シンプルな家庭が多いし、皆がミシュランの星付きのレストランのような食事をしているわけではありません。一般的な食事は、日本の方が格段に種類も豊富でバランスも良く、コスパも良いし、良いものを食べています。

 ごくごく少数のレベルの高い人の暮らしは別でしょうが、一般の人々は、なかなか質素で堅実です。やたらと高級なブランド品を買い漁るようなこともありませんし、むしろ、ブランド品で着飾るのは、自分のオシャレができない人とさえ思われてしまいます。

 確かにパリの街並みは美しいし、パリの人は洗練されていて、おしゃれな人が多いと思いますし、街中の広告などを見てもセンスいいなあと思うことが多いです。でも、フランスは、パリは、日本人が、いや、世界の人が、フランスに対して持っている幻想とさえ思えるようなイメージに大きく支えられているような気がしてしまうのです。

 日本もまた、外国からは、素晴らしい国だと多くの人が感じています。訪日外国人が年々、増えている今日、実際に日本へ行った観光客の日本への評判には、目を見張るものがあります。

 実際に、私の身近な人も日本へ行った、行きたいというフランス人が大勢います。私が日本人だからということもあるでしょうが、日本を称賛してくれる人が急増しています。やはり、日本人としては、嬉しい限りです。

 海外に出てみると、日本の良さが改めてわかります。(逆に異常だなと感じることもありますが・)まさに、滝川クリステルが東京オリンピック招致のプレゼンで話していたことは、本当なのだと再確認します。日本では、それが当たり前のように慣れてしまっているけれど、それは、とても特別なことなのだということを海外生活を送っていると実感します。

 さすが、パリ!でもあるけれど、さすが、日本!とも感じるのであります。

 
 

2019年6月12日水曜日

バイリンガルに育てる方法




 娘は、フランスに育ちながら、日本が大好きな子供に育ってくれました。娘が初めて日本に行ったのは、彼女が二歳になったばかりの頃でしたが、それまでは、私とは、日本語のみで会話していましたし、その他は絵本とビデオで日本語を覚えていきました。

 ビデオは、お母さんと一緒などの子供用の番組やサザエさん、ちびまる子ちゃん、そして、私が見ていた日本のドラマなども一緒に見ていました。
 
 ちょうど、二歳くらいだったでしょうか? ある日、番組の最後に流れるスポンサーの告知、”この番組はライオンの提供でお送りしました。”というフレーズを聞いて、娘が一瞬固まったように、”ラ・イ・オ・ン・・”と呟いて、呆然と驚いていた様子に笑ってしまったことがありました。
 
 しかし、その時、同時に、娘はライオンという言葉を聞き取って、理解したからこそ、ビックリしたことに気がついて、何となく嬉しく、ホッコリしたことを覚えています。

 また、色々なビデオを見ても、その全てを理解していたわけではないにせよ、時々は、ビックリするような言葉を覚えていることもありました。
 
 ある日、私の従姉妹の話をしていて、”〇〇ちゃんは、結婚しないのかしら?”と話していたら、娘が普通に、その会話に割り込んできて、”〇〇ちゃんは独身主義でしょ!”と言ったのです。私がビックリして、どうして”独身主義”なんていう言葉を知ってるの?と聞いたら、娘がしたり顔をして、”だって、カツオくんが独身主義だったことがあるのよ!”と言ったのです。何と、娘はサザエさんから、独身主義という言葉を学んでいたのです。

 それでも、7〜8才になると、娘がビデオで見るのはドラマが中心になっていきました。それも、気に入ったドラマを何回も何回も繰り返し見るのです。ここが子供のすごいところです。同じものを繰り返して見ることに何の抵抗もないどころか、それが楽しくて仕方ないのです。

 お気に入りのドラマは、もうそれこそビデオが擦り切れるほど、セリフ全部入ってます!っていうくらい見ていました。それは、気の強い女性が主人公の言いたいことをハッキリ言って、その場を納めるというような内容のドラマが多く、それは、彼女のキャラクターに近いものが多かったことに気が付いたのは、後になってからでした。

 また、バラエティー番組も読み書きを覚え始めた頃からは、特に一生懸命に見るようになりました。バラエティー番組の多くはその会話の多くに字幕テロップが日本語で同時に画面に流れるからです。聞き取り損ねそうになった言葉や、これは、こういう感じを書くのか・・など、子供はどんどん自分で学んでいくのです。

 大人になってからの言語習得は本当に大変です。子供のうちなら、子供の方はさして、苦労を感じずに言葉を覚える事ができるのです。この機会を逃す手はありません。

 脳科学など学術的なことは、私には、良くわかりませんが、私の周りのバイリンガルの子供たちを見ていると、その他の学業の成績も良い子が多いように感じます。脳の発達にバイリンガル教育は、良い影響があるような、私は、そんな身勝手な解釈をしています。


バイリンガル


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よろしければ、<YouTube動画>「バイリンガルの子供を育てよう!」もご覧ください。
https://youtu.be/WcGdfe2ZNMU
 

2019年6月11日火曜日

パリでは、日本ではあり得ないことが沢山起こる・・ 





   パリに来たばかりの頃は、日本のサービスが自分の中の基準となっていた私は、いちいち腹が立つことばかりで、何かにつけて、憤慨していました。

 メトロはしょっ中、テクニカルプロブレム・・とかで止まり、止まっても動くだけでもまだましで、ストライキも多く、すぐに間引き運転になってしまいます。

 それが長く続けば、さすがのフランス人も怒り出し、ストライキのすぐ後に検札に回ってきた営団の職員がみんなに囲まれて怒られて、次の駅で降りて行ってしまったこともありました。

 話はそれましたが、ストライキといえば、学校のストライキにも参りました。一ヶ月近く続いて、仕事を休めない私は途方に暮れました。

 スーパーマーケットで買い物をすれば、レジの店員同士がおしゃべりをしながら、グズグズ、値段がわからなくて電話で問い合わせなどして、なかなか進まないし、銀行でも郵便局でも、とにかく時間がかかります。

 あるスーパーマーケットでの買い物の際には、野菜の名前を聞かれ(そんなに特別な野菜ではありません。レタスです!! そのお店には、そんなにたくさんの種類のレタスを置いてあるわけではないのです。)、思わず、私の頭の中には、???が浮かび、心の中で、”お前が売ってるんだろーが!!”と呟いていました。

 また、レジの上のものを自分で落としても、知らん顔して謝りもせず、それどころか、他の買い物の中のお買い得商品の値段を見つけて、私に向かって、”いいもの見つけたじゃん!!”と親指を立てて、ウィンクしてみせ、何ら悪びれる様子もなく、ここまでくると、清々しいというか、あっぱれとしか言いようもない拍子抜けした気持ちになります。
 
 アパートで何かの点検があるので、◯日の午前中は在宅しておいて下さいと告知があるので待っていると来ない。宅配なども、在宅しているのに不在通知が入っていたり、そして電話すると、自分で取りに来いと言われたこともあります。
 
 冷蔵庫を買ったら、アパートの下まで来て、配送の途中で冷蔵庫に穴があいてしまったから、値引きするから、これでいいですか? と言われたこともありました。”いいわけないだろ!!” これは、さすがに断り、新しいものを後日、持ってきてもらいましたが。

 とにかく、日本の常識で考えていたら、スムーズに進む事の方が少なく、今では、スムーズに運ばないのが当たり前、やらかしてくれても、笑いに変える。さすが、フランスやってくれるね〜。ちゃんとできれば、凄いね〜!と嫌味を込めつつも、逆にビックリするようになりました。

 期待するから腹も立つのです。まず、ちゃんとできないことを想定していれば、スムーズにいったら、逆にビックリしてしまいます。

 日本から観光でいらっしゃる方は、日本のような行き届いたサービスも、日本は、日本でこれはまた特殊な世界であることを噛み締めながら、フランスに来られれば、別の楽しみ方もあるかもしれません。
 







 

2019年6月10日月曜日

海外在住者が母を看取る時




 私の母が、亡くなったのは、私が海外生活を始めて、10年くらい経った頃でした。母は、拡張型心筋症という心臓病を患っており、年々、少しずつ弱っていきました。

 毎年一度は、娘を連れて日本に行っていたので、娘もマミー(フランス語でおばあさんのことは、マミーと言います)が大好きでとても懐いており、母は、何よりも娘の一挙手一投足が楽しく、嬉しいようで、私の一番の親孝行は孫の存在だったように思います。

 母は、私にも弟にも小さい頃から、英語をしっかり教えてくれていました。おかげで、私も弟も英語には、あまり苦労を感じずに来れたと思っています。
 そんな、母の教育が基盤にあるのか、私も弟も海外生活をしており、母には、寂しい思いをさせてしまったと思いつつも、母は、私たちが海外で生活している事を喜んでくれていました。
 
 発病してから、年々弱っていく母が心配で、日本に行った時には、帰って来た時くらいはと、介護保険の申請や障害者手帳の申請、介護施設との交渉など、区役所や社会保険事務所などを巡りました。
 その頃は、介護保険の適用の初めの頃で、家の階段やお風呂、トイレには、手すりなどがつけられ、しばらくは、少し安心していました。

 しかし、晩年は、母はお医者様から階段の上り下りは、避けるようにと言われ、2階にあった自分の寝室から一階の部屋にベッドを移して、寝たり起きたりの生活になっていました。

 しかし、自分のことは自分でできる生活で、最後の夏は、母と父の年中行事になっていた山荘に滞在しており、(お医者様の許可は一応、頂いていたようですが、何が起こっても不思議はない状態でそれは自宅にいても同じこと。覚悟しているなら、やりたいことをやりなさいという意味だったのだと思います。)そこで、倒れたのでした。

 母が倒れたのは、夏休みが終わって、ちょうど学校が始まった頃でした。母が倒れた報せを受けて、当時、アメリカに転勤になったばかりの弟がすぐに日本に帰りました。私は心配で、心配で毎晩、泣きながらも学校が始まったばかりの娘のことや仕事を無期限では休めないとか、ぐずぐず迷いながら、数日が経ちました。

 すぐに山荘から近くの病院に入院した母でしたが、そこでできるのは強心剤の投与のみとのことで、弟が病院と相談して、東京のかかりつけの病院に転院させる手はずを整え、付き添ってくれました。

 母の容態も少し落ち着いたところで、弟はアメリカに帰って行きました。それでも、親戚から入る報せを聞きながら、心配で心配で、夜には泣いてばかりいる私に娘が言いました。”そんなに心配なら、どうして行かないの?”と。

 その言葉で私は、娘を連れて日本へ行くことにしたのです。そして、偶然にもそれは、ギリギリの決断で、恐らく私たちが飛行機に乗っている間に母は、入院中の病院で心筋梗塞を起こしたのです。

 成田に着くと、空港アナウンスが入りました。メッセージは、”もう時間がないので、空港から直接、タクシーで病院に来るように” とのことでした。
 タクシーの中で、私は、再び涙が止まらなくなりました。

 病院に着くと、叔父と叔母が病院の玄関で待っていてくれました。病院の入り口にスーツケースを放って、私たちは、母のいるCCUに駆け込んで行きました。母の周りには人工呼吸器や様々な機械が取り付けられていて、それを表す、数値やグラフがチカチカ光っていました。
 
 聴覚は最後まで残るという説を信じていた私は、娘も促して、”ママー!!マミー!!”と叫び続けました。すると、意識もなく、瞳孔も開いていると言われていた母がパッチリと目を覚ましてくれたのです。
 
 そして、私たちを見て、何かを言おうとしてくれていたのですが、人工呼吸器がつけられていたため、それを聞き取ることはできませんでした。それは、母と目を合わせることができた最後でしたが、ギリギリ最後に会えて、本当に良かったと思っています。まるでドラマのような出来事でした。

 その数ヶ月前、夏休みで帰国していた私たちを玄関で見送る母は、後から考えるといつもと違っていました。いつもは娘と抱き合って、”また来てね〜!”とか言って、じゃれついたりしているのに、その時は、背筋を伸ばして、娘に向かって手を差し出し、”握手しよう!”と言って、別れたのでした。
 
 あの時、自分の体力、病状を考え、ある程度、母はこれが最期かもしれないと覚悟を決めていたのだと思います。

 海外で暮らす以上、こういう時が来ることは覚悟していたのですが、やはり、とても辛い出来事でした。母が私の誕生日にくれた最後の手紙には、こんな一文がありました。

 ”お誕生日おめでとう。〇〇年間、生きていてくれてありがとう。世界のどこにいようが、存在しているというだけで、私にはうれしい事です。・・”
 
 存在そのものに愛情を注いでくれる。そんな母の愛情に支えられて、私が育って来られたことをとても感謝しています。

 また、娘にとっては、初めての身近な人の死に接する経験をさせてあげられたこともとても良かったと思っています。

 

 







 

2019年6月9日日曜日

お誕生日会で見たフランスの子供たちの逞しさ





 この写真は、娘のお誕生日会の時の際に起こった騒動の発端になった、思わず苦笑いしてしまう思い出の簡単な食事、アペリティフのデコレーションに使ったりする楊枝の先に紙でできた傘がついたようなもので、別になんら特別なものでもありません。

 しかし、娘のお誕生日会の際に何気なく、なにかスナックの傍らに添えたこの傘で、集ってくれた女の子の間で、猛烈な争奪戦が起き、しまいには、手に入らずに、泣き出す子まで出る始末で、思わぬことにあきれて、苦笑いした思い出がありました。娘が小学生の時でした。

 フランスでは、(まあ、日本でもあるのでしょうが・・)小学校の頃は、毎月、毎月、お友達の誰かしらのお誕生日会があり、その度にプレゼントを用意して、だいたい、お休みの日、(多くは土曜日)なのですが、もともと、お休みの日には、色々なお稽古事で埋まっているので、結構なスケジュールになってしまうのでした。

 特に、6月は、7~8月はバカンスに入ってみんな、パリからいなくなってしまうため、7~8月の子供のお誕生日会も前倒しになって、6月になるので、6月は最もお誕生日会の多い月です。そのうえ、学校も学年末になるため、学校やバレエなどのお稽古ごとの発表会やリハーサルなどで、6月の水、土、日(小学校のお休みの日)は、目が回る程、忙しくなりました。

 そのお誕生日会で、一番びっくりしたのは、子供たちのガッツキぶりというか、本能に
忠実というか、まあ、これも文化、習慣の違いとでもいうのでしょうか? 日本人のように、もじもじ遠慮したりということは、まるでありません。
 別に、飢えた貧しい暮らしをしているような子供たちでもないのに、スゴいなと思ったものです。

 その一端があの飾り物の小さな傘の争奪戦でした。

 そして、それは、娘の中にも着々と育まれていたのです。
それは、日本に帰国していた際の、とある出来事でした。

 私の母は、エビフライが好きでした。ある日の夕食に、私の父と娘は″とんかつが食べたい!”というので、とんかつを作ることにしたのですが、”とんかつはちょっとね~。”と、
私と母の分は小さなエビフライを揚げることにしました。

 そして、夕食の際、とんかつとエビフライが食卓に並ぶと、当然のように娘はエビフライから食べ始め、それから、とんかつをペロリとたいらげました。

 常々、私は、娘にみんなで食事をしていて、最後の一つになったとき、周りの人に、”最後のひとつ、頂いていいですか?”と聞いてから、食べなさい。と教えてきました。
最後にエビフライが一つ残り、私と母が譲り合っていると、娘がサッと、”遠慮しません!!”と言って、エビフライをパクっとさらっていったのです。
 
 その約2ヶ月後に母は、心臓の病気で亡くなってしまったので、後から思うと、おそらく、母が口にした最後のエビフライだったと思うのですが、娘のことが可愛くて仕方なくて、娘には甘々だった母は、その一瞬の娘のためらいのなさを大笑いして、面白がっていましたが、私は、この娘の行動にお誕生日会に見たフランス人の子供たちの一片を見た気がしたのです。

 そして、娘がその時に言った、”遠慮しません!!”という言葉は、彼女がうるおぼえしていた、”じゃあ、遠慮なく。”の日本語を彼女なりにアレンジしたもので、”遠慮なく。”という言葉について、改めて、外人にはわかりにくい言葉なのだろうな~と思ったものです。

 ”遠慮なく。”というのは、決して、遠慮しない。という意味ではなく、遠慮しつつも頂きます。という意味であって、言葉が言葉どおりではない、面倒な言葉なのだということに改めて、気が付いて、妙に納得したものでした。





2019年6月8日土曜日

フランスの教育・学校・バイリンガル教育 ②




 私立の学校といっても、日本と違って、特別な私立の場合は、別として、フランスの場合は、日本のように学費が飛び抜けて高いということもありません。小学校などは、特にキャンティーンの料金が多少、高いかな!?と思った程度でした。

 ただ、一年おきくらいに学校で行く、classe de ferme (郊外農場へ行く合宿の)ようなものとか、classe d'equitation (乗馬の合宿)とか、そういった、エクストラな行事に多少は、かかりましたが、それも自分で連れて行くことを考えれば、ずいぶんと安上がりです。

 小学校1年生の時に初めての合宿に行くためにモンバルナスの駅に送りに行った時、大きな doudou(子供が寝るときに抱えて寝る肌触りの良いフカフカしたぬいぐるみのようなもの)を抱えて、泣いている大半は、男の子で、なんとなく笑ってしまいました。初めての学校でのお泊まり合宿とあって、両親揃って、見送りにきている家庭もたくさんいて、
(そういえば、フランスでは、学校の行事なども何かにつけ、夫婦揃ってやってきていますね・・)別れを惜しんでいる様子はとても微笑ましいものでした。
 
 話は学費に戻りますが・・
 入学金というものもないし、公立の場合は、上に行けば行くほど、学費は安くなります。大学の場合は、年間の学費は、大体、200ユーロ(2万5千円)(本日のレートで)くらいで、日本の大学の学費と比べたら、雲泥の差です。まあ、エンジニアや医学部となると少し上がりますが、まあ、日本の比では、ありません。

 また、奨学金の制度も充実しており、日本で今、問題になっている、大学を卒業してから、奨学金の返済に追われるなどということもありません。また、バカロレアの成績が特に良かった場合は、奨学金にボーナスが付いたりする特典もあり、奮起を促す(頑張れば、少しでも報われるという)システムも導入しています。

 それは、莫大な金額を政府が負担しているということです。
 これは、フランスの凄く良いところだと思います。
 また、少子化問題が深刻になっている日本ですが、フランスは、3人以上、子供がいる家庭には、税制を優遇するように設定しているため、3人兄弟の家庭がとても多く、フランスには、少子化の問題はありません。
 
 ただ、そういった税制には、必ず、それを悪用する者も出てくるもので、奨学金をもらうために、大学に籍だけ置いて、実際には、大学には、通わずに学生の身分を謳歌するような人々がいたり、また、たくさん子供をもうけて、その子供のために普及されているお金で生活しているような親がいることも事実で、一概に良いとばかりは言えないと現実もあります。

 そういった教育の中で、フランス人は、自分の意見をしっかり持ち、主張することを教えられます。
 
 以前、学校でクラスの集合写真を撮ったとき、娘は後ろの方の目立たない場所に写っていました。私は、ちょっと見えにくいね・・と思ったくらいだったのですが、パパの方は、”こんなことじゃ、ダメじゃないか? もっと自分を前に出していかなくちゃ! ”と言って怒ったのです。

 これも自分を主張しなさい!ということの一つなのでしょう。
 ”娘の方は、だって私が前に出ると隣の子が写らなくなっちゃうと思ったから。”と言った娘の言葉が私としては、逆に、他人のことを思いやれる優しい気持ちを持てていて、嬉しかったくらいなのに、やっぱり、こういうところが違うのだなあと思った瞬間でした。

 
 












2019年6月7日金曜日

フランスの教育・学校・バイリンガル教育 ①




 私の娘は、運よく、カトリック系の私立の学校に小学校から、高校まで通わせて頂きました。そもそも、私たちが今のアパートに引っ越して来てすぐは、近所の事情もあまりわからずに、ひとまず、公立の ecole maternelle エコール・マテルネル(日本でいう幼稚園の年齢ですが、こちらでは、学校扱い)に通わせていました。

 ご存知の通り、フランスは、ストライキの盛んな国で、それは、学校までにも及び、その年は、学校で一ヶ月にもわたるストライキがあり、働いている私としては、学校がというよりも、託児所がなくて、途方に暮れるという感じでした。

 また、私の職場の近くに、たまたま、かなりレベルの低いと思われる学校があり、その学校の子供たちの様子を見るにつけ、こんな学校に入ってしまったら、大変だ!!という危機感が常にありました。

 そんな、きっかけもあり、家の近くの私立の学校(私立の学校はストライキをしません)を探したところ、私たちの住む地域には、一つしかなく、せめて、ecole primaire (エコール・プリメール)(小学校)からでも、入学させてもらいたいと、申し込みをしましたが、すでに、その時点では、定員オーバーとのことで、ウェイティングリストに載せておきます、との返事が帰って来ました。

 こちらの学校では、小学校の時点では、日本のような、お受験はないのですが、たまたま、その頃、マテルネルで、彼女の中での最高の成績表を取って来たので、(学校扱いなので、幼稚園の段階から成績表があります)主人と ” これを送ってみよう!!”と試しに送ってみたところ、希望を出していた学校から、面接に来てくださいと連絡があり、入学することができたのです。本当にラッキーでした。
 
 今から考えると、それが娘の人生の大きな分岐点になったかもしれません。

 面接に行く道すがら、その学校の生徒たちを見て、一目で思いました。
あの学校の子たちとは、顔つきが全然違う!!と。(あの学校とは、私の職場の隣の学校ですが) 
 その子たちの顔を見て、私は、これなら、大丈夫、と思ったものです。

 そして、面接に行くと、ディレクトリス(校長先生)が毅然と座っていらして、無邪気に”ボンジュール!”と挨拶した娘に、しっかりと、娘の目を見て、”ボンジュール、マダム”というのですよ。”と静かに、おっしゃいました。
 なんとなく、ピンと張った背筋がさらに伸びる感じがしました。

 そんな過程を経て、娘は、小学校からその学校に通学することになり、結局、高校卒業までお世話になりました。入学してから知ったのですが、その学校は、結構な進学校で、バカロレアの合格率が100バーセントを誇る学校で、逆に考えれば、できない子は、容赦なく、追い出されるということです。なんとか、追い出されることなく、高校までその学校にいられますように・・と祈るような気持ちでした。

 当時は、パパはフランス人なので、学校全般担当、私は、学校ももちろんでしたが、むしろ、娘の日本語教育に必死でした。とにかく、私は娘との会話は、日本語のみ。テレビは一部を除いて日本のビデオのみ。日本語のカードを作ったり、絵本も毎晩読んで聞かせました。

 読み書きも日本語の読み書きを出来るだけ、億劫に感じないように、学校でフランス語の勉強を始める前に、そして、私以外の日本人との接触の機会も与えられるようにと公文に通わせて、鉛筆の持ち方から、公文の先生に教わりました。

 仕事から帰ると娘を迎えに行き、食事の支度をしながら、娘の公文の宿題を見て、夜には日本語の本を読んで寝かせつける。全く、怠け者の私が今、振り返るとよく頑張ったと思います。

 私が娘の日本語教育に必死になったのは、私がこちらで仕事を始めた際に職場にいた、日本人とフランス人のハーフの若い男の子のおかげ!?でした。その子がお母さんが日本人にも関わらず、全くといっていいほど、日本語ができなかったのです。

 そうなんです。このような機会(フランス語も日本語もできるようになれる環境)があるのに、それをしようとしない親が結構いるのです。私としては、これには、本当にビックリでした。だって、自分の子どもに自分の母国語を教えるのは、当然だと思っていたからです。

 周りにいた日本人の同僚にも、ずいぶんと言われました。
 ”放っておいたら、日本語、できなくなっちゃうよ!”と。
 ”だって、普通にフランスで生活しているんだから、日本語は必要ないんだから !”とも。そう言えば、そうですよね・・。

 特に、フランスは、他の国の言語に対して排他的なところがありますから。
 そんなわけで、その頃の私は、とりあえずは、娘に日本語を植え付けることに一生懸命でした。

 私の母は、英語が好きで、得意で、小さい頃から私に英語を教えてくれていました。おかげさまで、私は、ネイティブとは言えませんが、あまり、英語で苦労した記憶がありません。娘も恐らく、日本語を苦労して覚えたとは、感じていないことでしょう。

 やはり、ある一定の年齢の期間なら、最も効率的に苦労を感じずに言語を習得できるという時があるのです。これを活かさないのは、あまりにもったいないと思いませんか?

 言語は、その子の世界を広げる一つの大切なツールです。そのツールを持つことで、その子の世界は、グッと広がります。同時に可能性も広がるのです。
小さい子を持つ親御さん! 頑張ってみませんか?

 今日は、この辺で、子育て、教育の話はまだまだ、続きます。

 続きは、後日、また、書きますね。

バイリンガル

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2019年6月6日木曜日

パリの盗難被害 パリの泥棒は、なかなか捕まえてもらえない



 この無残な自転車の姿を見かけるのは、パリでは、そんなに珍しいことではありません。うちも、娘が買ったばかりの自転車を盗まれたことがありました。この写真のように一部ではなく、丸ごと盗まれましたが・・。ちゃんとかなり、太い鎖で繋いでおいたのに、鎖をバッサリ切られて盗られたようです。

 これだから、日本のように気軽で自転車で買い物に行く。なんてことはできません。

 一台、丸ごとならともかく、このようにタイヤやサドルを手間暇かけて盗んで、一体、どれだけの儲けになるのか?甚だ疑問ではありますが、まあ、それを生業としている人たちがいるのでしょう。

 今は、わりとVelib (ベリブ)といって、パリの街中には、貸出用の自転車が普及しているので、それを使えば、あまり問題はないと思うのですが、乗り捨て可能とは言いながらも、設置場所が限られているため、必ずしも便利とばかりも言えません。

 パリの盗難事件は、日本の何倍あるでしょうか? パリのメトロや往来でスリにあったことがある方も少なくないのでは、ないでしょうか? 特に、日本人はお金を持っていると思われているし、実際に持っているので、狙われているようです。

 また、盗られた方も、盗られておいて、現金を入れてあったから、カードが使われていなくてよかったとか、無事でよかった・・とか言っている人が多いので、失礼な言い方ではありますが、おめでたい人たちだ・・と、思ってしまいます。

 あるお店で、わりと若い子たちの集団の万引き団が入って、そのうちの数人を捕まえて警察を呼んだ際、4〜5人の警察官がやってきました。そのうちの何人かは逃げて行ってしまったのですが、捕まった若者たちは、わめき散らしながら、後ろ手に手錠をかけられていました。

 それを目の当たりにした私は、”手錠をかけるんだ〜!!” なるほどね・・。と思って、
連行していく警察官に、”この子たちは、どうなるの?” と聞いてみました。すると、その警官は、”調書をとったら、すぐに家に返すよ!”と、あっさりと答えたのです。

 当然、警察に留め置かれるのだとばかり思っていた私は、”え〜!?”と驚いてしまったら、”あなたは、この上、何をして欲しいの?” と逆に質問されてしまいました。

 そうなのです。
 フランスでは、ちょっとやそっとのことでは、刑務所なんて、入れてもらえないのです。泥棒をして、捕まっても、調書を取られて、サインすれば、すぐに野放しになります。

 これでは、また絶対、この子たちはやるでしょう。
フランスでは、余程のことでない限り、刑務所なんか入れてもらえないのです。

 だから、パリの盗難は、減らないんだな、と思った1日でした。

2019年6月5日水曜日

MADE IN AFRICA




 私の娘は、アフリカのコートジボアールという国で生まれました。
よく、日本人には、コート・ダジュールと勘違いされますが、英語では、アイボリーコースト、日本語では象牙海岸共和国というそうです。

 写真に写っているパイナップルやトマト、バナナ、マンゴー、ココナッツ、カカオなどなど、アビジャンのココディマルシェで全部、まとめて2000CFA(セーファーフラン)=20FR (フラン)ユーロに換算すると3ユーロくらい、つまり、日本円で370円くらいでした。安いでしょ!

 そばに写っている木彫りの置物なども全てコートジボアールで買ったもので、娘も入れて、当時、Made in Africa. というテーマで写真を撮りました。まだ、首も座っていない状態で、後ろで必死に支えている私の腕まで写っています。

 そんなアフリカに、主人の転勤で約2年間、生活していました。以前にイギリスでの海外生活の経験があったものの、私にとってアフリカは、まるで、なるほど・ザ・ワールドをライブで見ているような感じでした。

 一歩、外に出れば、それこそ、まさにホンモノのクロヤマの人だかりになり、車で出かけて、信号で車を止めれば、いきなりフロントグラスにバケツごとバシャーっと水をかけられ、勝手に窓拭きを始めて、お金をせがまれるので、車を止めるとワイパーを動かしたりします。

 主人の職場の前には、ワニ売り(小さいワニでしたが)が来ていました。

 食用だそうです。

 住まい自体は、フランス人の公務員ばかりが住んでいるセキュリティーもしっかりした、それこそプールまであるような、広いレジデンスでしたが、一歩、街に出れば、迫力満点の世界でした。好奇心旺盛な主人は、現地のスタッフなどに頼んで、郊外の村の現地の人のお祭りや行事、グランバサンという海なのに遊泳禁止!?で、いわゆるフランス人に人気の綺麗な海岸にも行きました。

 泳げない海!?って、と思ったら、潮がきつくて、泳げないそうで、フランス人はビーチ沿いのレストランで、海を見ながら、優雅に食事を楽しんでいました。なんと、フランス人らしい光景かと・・その時の私は、思いました。

 娘を妊娠した時、日本に帰って出産しないの ? と周りの人にも言われましたが、
やはり、子育ては、パパとママと二人で。と考えていたので、全く、日本に帰る気はありませんでした。

 当時、コートジボアールには、日本人は200人程度いたそうですが、(主に、海外駐在の方々、JICA、海外青年協力隊、大使館関係者、宗教の関係の方)、私は、当時、フランス語が全く出来なかったので、とにかくまず、これを何とかしなければ、とフランス語の勉強をするために大学に通っていましたので、ほとんど、日本人の方とは、お付き合いがありませんでした。

 ただ、妊娠した時点で、一人では不安だろうと主人の知り合いだったJETROの方を通じて、日本人会というのに顔を出して、元助産師さんだったという日本人の女性を紹介していただいたりしました。その方とは、偶然、年齢も近く、気持ちも通じて、出産、子供が生まれた後のお世話仕方など、本当にお世話になり、現在もお付き合いを続けさせていただいております。

 その時、初めて、海外の日本人の集まりというものに参加したのですが、これがまた、ちょっと異様な世界でした。発展途上国のため、海外駐在の場合は、ボーイさんあるいは、メイドさん、等を雇わなくてはならないというのもあって、主婦はかなり自由な時間があるのです。かといって、一人で自由に出歩けるようなところでもないため、日本人は、ほぼ、街のセンターにある、同じビルに住んでいて、朝から、お茶会、麻雀、また持ち回りで大使夫人のお世話係、なんていうのもあったりして、驚かされました。

 結局のところ、娘が生まれて、約三ヶ月後に主人がフランスに転勤になったので、娘は全く、アフリカのことを覚えてはいません。残念です。

 アフリカの話は、まだまだたくさんあるのですが、今日は、ひとまずこの辺で。
また、別の機会に書かせていただきます。

2019年6月4日火曜日

香取慎吾 ルーブル美術館 パリ個展




 香取慎吾の個展がパリで開催されてから、もう既に、かなり時間が経ってしまっているので、いささか、ちょっとタイミングがずれてしまっているのですが、この際、一度は話題にあげたいと思ったので、話題として、遅いことは、ご容赦ください。

 そもそも、私は、アートに関して、何かを語れるような知識もなく、ただ、自分の感性で好きか嫌いか、綺麗だとか、その作品から感じる何かエネルギーのようなものとか、そんな事を個人的に感じることしかできないので、ここで、偉そうに何かを語ることはできません。

 そもそも、私は、海外で長く生活していることもあって、それほど、SMAPを追いかけていたわけでもありませんでした。それでも、娘が小さい頃は、今ほどネットも発達してもおらず、少しでも、日本語に触れる機会を持つようにと、日本のテレビ番組等をビデオに撮って送ってもらっていました。ジャンルは様々でしたが、SMAP×SMAP なども入っていたので、海外に出てからも引き続き、彼らの様子を見続けていました。

 それが、一昨年の解散騒動で、海外ですら、彼らの事が報道されてから、あまりに傷ついた彼らの様子に心を痛めながら、見守って、過去の映像をYouTubeなどで振り返りつつ、彼らの新しい出発を見守っていました。

 ルーブル美術館に行ったのも、久しぶりでした。チケット等のことは、全く考えずに、
正面の入り口からだと、いつも混雑しているので、カルーセルの入り口から入ろうとだけ決めて、出かけました。

 相変わらず、ルーブルはチケット売り場は長蛇の列でしたが、彼の個展は、随時、exposition 等が行われている特設会場で、なんと、入場も無料でした。その年は、パリでは、JAPAN EXPOと名して、数々の日本の催し物が行われていて、彼の個展もその一つとして催されていたのです。

 モナリザの絵は、時々、海外の別の美術館に貸し出されて、日本にも行った事があると思いますが、私は、あのルーブルの荘厳な建物の中にあってこそ、より良いと感じられると思っています。ですから、逆に言えば、あのルーブル美術館の中に展示されてもなお、
ルーブルの持つ圧倒的な荘厳さに負けないものでなければなりません。

 彼の作品は、ルーブルの中にあっても、決してその荘厳さに負ける事なく、見事にそこにありました。それが、私の一番の印象でした。

 彼らの年代での新しい出発は、容易なことではなく、大変な決断だったことでしょう。
そして、大変な思いを経て、彼らが今なお、頑張って輝き続けているからこそ、みんなが応援し続け、どこか自分にも重ね合わせながら、見守っているのでしょう。
私もそんな思いで、彼らの頑張りを遠くから、見守っています。

 そして、彼らの活躍は、もちろんのこと、彼らが心底、一緒に仕事をしていきたいと信頼関係を繋ぎ続けている女性のマネージャーの方の才能、力量、愛情にも、改めて、尊敬の念を抱いています。本当に凄い方だなと。人を信じて、それを貫き通す彼らの強さ、優しさにも感動しています。

 そして、やはり、彼ら自身の努力と才能、そして、どんなに有名になっても、決しておごることなく、そんな人柄も作品に表れているなあと感じるひと時でした。

 作品の写真はどこまで載せていいのか、よくわからないので、沢山、写真は撮ったのですが、ここへの掲載は、少しに、控えさせていただきます。



2019年6月3日月曜日

パリのランチ、お弁当、外食、日本食事情


 MON REPAS と書いてある、このバッグ、MON REPAS とは、フランス語で私の食事、という意味です。つまり、お弁当を入れるバッグです。メトロの中でこのバッグを持っている人がいて、かわいいな・・と思ったので、つい写真を撮ってしまいました。
 今は、フランスでも、こんなお弁当用バッグがあるんです。
 
 フランスの外食事情は、日本のようにワンコインで・・というわけにはいきません。ワンコインでは、簡単なサンドイッチも危ういくらいです。クウォリティと値段、つまり、コスパを考えると、日本に比べてとても高いです。気軽に安く食べられるものが、あまり、ありません。
 
 逆に私たちが日本に行って、外でランチなどを食べる時、ユーロに換算して考えると、ビックリするくらい安いです。

 フランスでは、一般的に企業側は、何らかの昼食の費用を負担するという法律もあるにはあるのですが、それも十分なものではありません。特にパリの中心部は、とても高いです。
 
 ですから、このようなバッグではないにしても、自分のランチを持参する人も少なくありません。そして、日本のBENTO(ベントー)も結構なブームになっていて、日本のお弁当箱などもネットで大変な人気なのだそうです。

 日本食は、パリでも今、大人気で、ラーメン屋さんなども食事時になると、長蛇の列です。しかも、日本のラーメンの値段から考えたら、もの凄い値段なのに・・。
 例えば、簡単なラーメンと餃子を頼むと、日本円に換算すると二千円近くなります。それに飲み物などを追加したりすると・・凄い値段です。

 ですから、旅行中、なんか日本食が恋しくなって、ラーメン屋さんに入ったりして、ユーロの感覚に慣れていなくて、うっかり注文して、後になって、日本円に換算してみると、二人で、ラーメン屋さんで五千円!?なんて事になります。五千円あったら、日本だったら、ホテルの豪華なランチなどでも食べられますよね。

 また、日本食といえば、お寿司もなかなかのブームで、今やどこのスーパーにでも置いていますし、冷凍食品まで出ています。これまた、そのクウォリティに対して、大変な値段です。

 また、パリには、中国人経営のチェーン店のようなお寿司屋さんがいっぱいあって、何やら妙なお寿司が出てきます。握り寿司にご飯が付いてきたり、天ぷらにマヨネーズが添えてあったり、天ぷらと書いてあるのに、エビフライが出てきたりします。

 お醤油は、甘い、焼き鳥のタレを薄めたようなお醤油と普通のお醤油と二種類あって、フランス人はお寿司とは別にその甘いお醤油をご飯にかけて食べています。下手をすると、お寿司にまで、甘いお醤油をかけていたりします。しかも、お寿司のネタのメインは、圧倒的にサーモンです。

 好みはそれぞれですから、良いのですが、やっぱり、目の当たりにするとちょっとドン引きしてしまいます。そして、フランス人は、これが日本食なんだと思っているのだろうな・・と思うと、ちょっと悲しくなります。

 つまりは、日本は、安くて美味しいものがたくさんあっていいな・・という事です。
私たちが日本に行く事=食べに行く、そして、食料品の買い出しに行くという事です。ちょっと、恥ずかしいくらい、日本からの帰りの荷物の98パーセントは食料です。

 食べ物に関しては、人一倍、食い意地の張っている私たちには、いくらでも逸話がありますので、それは、おいおい少しずつ書いていこうと思っています。
 
 

2019年6月2日日曜日

パリで時々、目にする光景




 例えば、メトロの駅で、時々、目にする、観光客の外人に向かって、”ここは、フランスなんだから、フランス語で話しなさい!” と言っている駅の職員。以前に比べれば、フランス語しか喋ってくれない人は、随分と減ったとはいえ、未だに、パリでは、時々、目にする光景です。

 しかも、メトロのような公共交通機関の人間が・・。しかも、パリのような世界的な観光都市でのことです。せめて、カタコトでもいいから、英語くらい話してほしい・・というか、わかろうという努力、姿勢を見せてくれたっていいじゃない!?と思ってしまうところですが、”ここは、フランスなんだから、フランス語を話せ!”というまさかの逆ギレ。

 私は、もう慣れたというか、”まただ・・まだ言ってる・・”と残念な気持ちになるだけですが、当初は、このサービス機関に携わる人間の対応の悪さには、一々、びっくりしたものでした。”パリは一体、どれだけの観光収入を得ているのだ! もう少し、考えろ!!”と思うけれど、それが、まかり通るのがパリなのです。

 パリジャン、パリジェンヌの感じの悪さは、外人だけが感じることでは、ないらしいのです。
 フランスの地方に住む人たちにも、ことさら、パリの人の冷たさ、感じの悪さは皆、口を揃えて言うところです。半分、都会へのやっかみも感じられなくもありませんが、多くの人が言います。”パリなんて、人間の住むところではない!”・・・と。

 それに反して、日本の評判は、すこぶる良いのにも、ビックリしながらも、同じ、日本人として、とても嬉しいと同時に、日本人としたら、日本だったら、まあ、そうするのかもしれないなあ・・とも思います。ここ数年、フランス人の日本への観光客は、著しく増え、身近なフランス人の中にも、日本へ行ってきたという、話を度々、耳にします。

 日本の評判は、すこぶる良いようです。食べ物が美味しい。綺麗。伝統文化が感じられる。フランス人が日本を褒める理由は多々あるけれど、逆にフランス人が一番、驚いているのは、人々の感じの良さ、親切さなのです。そりゃあ、パリでの日常を送っていれば、格段に日本人は親切だよなあ、と思います。

 バスの中で、ある知り合いのフランス人に、”この間、日本に行ったんだけど、もう信じられないくらい人が親切で・・”と興奮気味に話してくれました。

 ネットで探したレストランに行きたいと街の中を迷っていた時、通りかかった、中年の女性に道を尋ねたら、そんなに遠くないから・・と、店の前まで案内してくれたんだそうで、まあ、日本での出来事としたら、あり得ない話ではないとは思うけれど、彼は、いたく、感激していました。(もしかしたら、その女性も外人に道を英語で聞かれて、英語で説明するのが億劫で、それなら、連れて行った方が早い!と思っただけなのかもしれないが、パリだったら、知らない・・の一言で終わってしまいそうな話です。)

 しかし、これは、通りすがりの一般人の話であって、日本のサービス業に至っては、もはや、逆に異常とさえ思うくらい、親切で、まさにお客様は神様状態。

 そんな世界に触れたフランス人たちが、少しは、変わっていく・・そんな日は来るのでしょうか?

 ないだろうな・・。