2019年11月30日土曜日

フランスの休日営業とショッピング




 フランスは、だいたいのお店が日曜、祝日は、お休みです。

 パリに来て当初は、みんな、ウィークデーに働いているのに、日曜日にお店が閉まっていたら、不便だなぁと思っていました。

 だいたい、私は、あまり、買い物が好きではないのですが、それでも、デパートなどは、日曜日に行くもののような気がしていたのです。

 しかし、慣れとは恐ろしいもので、だいたいの日用品の買い物は、土曜日、あるいは、ウィークデーの仕事の合間や、帰りにすれば、日曜日には、まったくの休日を過ごせるので、それは、それで悪くもありません。

 ものぐさで、ショッピングというものが、あまり好きではなく、買わずとも、ウィンドーショッピングをして歩くようなことが私にはないので、まあ、誰か、知り合いがパリに来た時に、付き合って、お店を回ることはあっても、何も買わずに見るだけで・・なんていうことは、私の場合は、まずありません。

 パリでも、シャンゼリゼや、マレ地区、ベルシーヴィラージュなど、観光客が多い地域は、日曜、祝日でもお店はやっていますが、それ以外では、なかなか、日曜日の営業許可を取るのが大変なのだそうです。(レストランなどの飲食店は、別です。)

 特に、通りごとに、日曜・祝日の営業許可がおりやすい通りとそうでないがあるそうで、同じ区内でも、ほんの一本、通りがズレただけでも、難しかったりするのだそうです。

 それに加えて、フランスは、労働組合が強く、それもまた、日曜・休日営業の妨げになっているのです。

 フランスの法律では、日曜出勤の場合は、double payé (ドゥーブルペイエ)といって、日曜出勤の分は、倍額の支払いになるので、独身だったり、子供がいない人などは、むしろ、日曜日に働きたい人もいるだろうし、これだけ、失業者が多いのですから、日曜・祝日だけ働くという人を採用して、休日も営業した方が増益になると思うのですが、労働組合からは、自分たちの職域を侵すとして、それも、ままならないそうなのです。

 なんとも、経済的な効率の悪い国です。

 24時間、年中無休の日本とは、エラい違いです。

 それでも、12月のクリスマス前の多くの人がクリスマスプレゼントを買い集める書き入れ時ともなると、さすがにパリのデパートなども日曜も営業しています。

 フランスでは、一年のうちのかなりの割合の売り上げがこの12月のクリスマス前のシーズンに偏っているのだそうです。

 ところが、昨年は、11月から始まった黄色いベスト運動が加熱して、12月は、ショッピングどころではないことになり、土曜日なのに、デパートが閉店したり、多くのお店がシャッターをおろしてしまったりしていました。

 今年は、12月は、大きな国鉄のストライキが予定されているので、また、パリのショッピング事情は、12月の書き入れ時というのに、ピンチを迎えそうです。

 普段は、あまり、贈り物などをする習慣もない、ケチなフランス人がクリスマスの時だけは、家族みんなにプレゼントを用意して、クリスマスを迎えるので、フランスにとっては、クリスマスは、大きな経済効果をもたらしている行事でもあるのです。

 知り合いに、これぞ、フランス人という、フランス人の良いところも悪いところもキッチリ持っている女性がいるのですが、彼女に去年のクリスマスプレゼントは、どうしたの? と尋ねたら、去年は、全然、買い物に行けなかったから、全て、ネットショッピングで済ませたのよ!と言っていました。

 ネットなら、土日も休まず、テロもデモも関係ありませんから、ますます、フランスでも、路面店やデパートなどから、どんどん顧客は、離れていくでしょう。

 それにしても、こう毎年毎年、経済に大きなダメージが出るようなことが起こっても、持ちこたえているフランスは、スゴい国なのかもしれないです。








2019年11月29日金曜日

フランスの天気予報は当たらないのに洋服選びが上手なフランス人

春夏秋冬を通して、パリは、一日の気温の寒暖の差がとても激しいのです。

 これまでは、真夏でも、日中は、とても暑い日があっても、夜になると、気温が下がり、湿度もないので、夜、帰ってきて、アパートの建物の中に入ると、スッと涼しくなり、そんなに寝苦しいということもなかったので、クーラーもいらないくらいでした。

 ところが、ここ数年は、夏は異常に暑く、今年の夏は、42℃という猛暑を記録しました。しかし、これも、いつまでも、引きずるかと思えば、そうでもなく、翌日には、スッと気温も下がりました。

 日頃も、朝晩と日中の寒暖の差は激しく、今の季節だと、朝晩の、特に朝の寒さが厳しいですが、家の中は、暖房がしっかりと入っているので、夏の場合とは違って、冬は、家の中では、ヌクヌクと過ごすことができます。

 最近は、気温の変化にも気をつけて、必ず、天気予報を見て、洋服には、気をつけてでかける習慣ができたのですが、パリに来た当初は、なかなか慣れず、暖かいと思ったら、寒かったり、寒いと思ったら、暑かったりと、気温の変化に服装を合わせるのが大変でした。

 しかし、この天気予報が、なかなかの割合でハズレるのです。特に、雨が降る、振らないという予報は、当てにならず、1日のうちに予報がコロコロと変わるのです。

 感心するのは、この当たらない天気予報でも、フランス人が、この気温や天候の変化に上手に適応した服をしっかりと着ていることです。

 これだけ、色々なことの段取りが悪く、スムーズにことが運ばない国なのに、気温や天候の変化に適応するのは、見事です。

 子供の頃からの習慣になっているのでしょうが、暑くなりそうな日は、ちゃんと、薄着になれるようなものを着ていたり、逆に寒くなりそうな日は、しっかりと厚手のセーターやコートを着ています。

 私が思うに、フランス人は、日本のようなキッチリとした衣替えらしきものをしないのではないかと思うのです。

 少なくとも、うちの主人は、厚手のコートなどを季節外れには、クリーニングに出したりしておくものの、それが、戻ってきても、タンスの奥の方に押し入れられるだけで、夏も冬も大して変わりません。

 個人差もあるでしょうが、だいたい、持っている洋服の数が、日本人と比べて、圧倒的に少ないように思うのです。

 だいたい、室内は、冬でも、半袖でいられるくらい暖かいのですから、それほど着込む必要もないので、コートやマフラーなどをすれば、コートの中は、大して変わらなくても大丈夫でもあるのです。

 とはいえ、メトロの中の周りの人を見ていると、秋っぽくなってきたと思ったら、急に皮のジャケットを着ている人がグッと多くなってきたり、あれ? なんか、寒いかも・・なんて思うと、そういえば、ちゃんとダウンを着ています。
 
 そして、季節にあった服は、やはり、おしゃれに見えるのです。

 パリジャン、パリジェンヌがおしゃれに見えるのは、ひょっとしたら、この変わりやすいお天気に順応することから、育まれているのかもしれません。


2019年11月28日木曜日

フランスの児童保護機関から子供を守るために日本へ帰った男性の話




 彼は、仕事の関係で、私の勤めていた会社に出入りしていた、日本人の男性で、頭の回転も良く、よく気も回り、親切で、とても感じの良い青年でした。

 彼は、フランス人の奥さんと、三人の子供とともに、パリで暮らしていました。

 彼とは、そんなに頻繁に会う機会があったわけではありませんが、彼は、仕事で、時々、会社に顔を見せてくれていましたが、いつも、明るく、快活で、日本人で、同じように、フランス人と家庭を持っているということで、顔を合わせれば、世間話をしたりしていました。

 そういえば、しばらく、見ないな・・と思いながら、いつの間にか、時間が経っていて、彼が久しぶりに会社に顔を見せてくれた時、ふと、私は、あれ? なんか、感じが変わったな・・と思いました。

 私は、感じたままに、彼に、「なんか、少し、感じが変わられましたね。」と何の気なしに、口にしてしまったのです。

 彼は、ちょっと、ビックリした様子で、「えっ? そうですか?」と、言いながらも、「実は・・」と、彼に起こっていた非常事態を話してくれました。

 結婚する前から、少し、精神的に不安定だったりすることがあったというフランス人の奥様の病状が悪化して、入院してしまったのだそうです。

 それからというもの、彼は、男手ひとつで、まだ小さい子供を育てながら、仕事を続けていたのだそうです。大変ではありましたが、彼は、とても前向きで、そんな生活の中でも、子育てを楽しみながら、休日には、同じような、一人で子育てをしている友達を見つけて、それぞれが子連れで集まって、時間を共に過ごして、情報交換をしたり、お互いに助け合ったりして、暮らしていたのだそうです。

 フランスには、児童虐待や育児放棄などから、子供を守る公的な機関があるのですが、ある時、突然、その機関が彼に目をつけ、彼の家庭に調査が入ってしまったのです。

 調査の結果、彼が子育てに不適格な状況であると判断されれば、子供は、取り上げられてしまうのです。

 このような時は、フランスにおいて、外人であることが、ハンディになってしまうのです。たしかに、難しい環境ではありましたが、しっかりと仕事をしながら、あんなに子供を大切にしている彼が、とやかく言われる筋合いは、ないのです。

 奥様が、精神的な疾患を患っていたということも、問題視されたと言います。

 しかし、彼女は、入院治療をしていて、育児に携わっているわけでもありません。

 それでも、その調査員の追求は、執拗で、彼は、児童保護案件に詳しい弁護士さんを探し出し、相談に乗ってもらっていました。

 たしかに、フランスでは、児童手当を受け取るために、子供をやたらと産んでは、育児は、放棄同然のようなクズも多いので、そういった機関が必要なことも否めません。

 ただでさえ、一人で働きながら、三人の子育てをするだけでも大変なうえに、その調査員たちとの闘いが降りかかってきたのですから、彼の方も余計に追い詰められていきました。

 その児童案件専門に請け負っている弁護士さんと相談しながら、ある日、彼は、弁護士さんから、恐ろしいことを耳にしたのです。

 彼は、プロですから、色々な案件を目にしているのです。

 あまりに執拗な調査員の介入には、理由があったのです。

 それは、子供を一人を保護するにつき、2000€の報酬が調査員に入るということなのです。その報酬目当ての悪徳調査員なるものもいるのです。

 正義の名のもとに、国の機関という絶対的な権力を持つ人と闘うのは、容易なことではありません。

 全ての調査員が悪意を持って、仕事をしているわけではないでしょうが、聞いただけでも、私は、震えあがりました。

 そして、どうしても、子供を取り上げられそうになった場合は、子供を連れて、日本へ帰るのが、一番、間違いないと、言われていたそうです。

 フランスと日本の両方の国籍を持っている子供は、日本へ行ってしまえば、治外法権となるため、フランスの公的機関も手を出せなくなるからです。

 久しぶりに会った彼が、なんとなく、以前と感じが違うな・・と感じたのは、やはり、彼が、そんな、大変な場面を経験してきたからだったのかもしれません。

 果たして、彼は、色々と考えた末、子供を連れて、日本へ帰国することにしたのです。

 出国の際には、出国審査の時に、フランス在住者の年少の子供連れの場合は、停められる場合もあるので、ドキドキしながらの出国だったそうです。

 結果的に、彼は、自分の実家の近くに住まいを移し、両親の助けも借りながら、今は、日本で、後からやってきたフランス人の奥さんとともに、家族5人で生活をしています。





































2019年11月27日水曜日

フランスの学校の先生の仕事は授業を教えることだけ フランスに金八先生はいない




 フランスの学校の先生は、基本的に学校で授業を教える以外のことはしません。

 また、先生の研修なども、フランスの学校には、あれだけの長いバカンスがありながら、(年間でトータルすると3ヶ月以上はあるのではないでしょうか?)授業のある期間に行われるのです。

 つまり、研修は、仕事の一環であって、バカンス中は、先生も仕事をしないということなのでしょう。

 また、給食もキャンティーンには、キャンティーンの見張りをするような、職員がいるので、給食の世話をするということもありません。

 フランスの学校には、日本でいう、クラブ活動のようなものもないので、部活の顧問の先生なんていうものもありませんし、学校の外で起こったことに関して、一切、関知しません。個人の生活に関わることもありません。

 つまり、自分の受け持つ授業を教えるということが、彼らの仕事なのです。

 以前、私の勤め先の近くにあった中学校の生徒が、会社の入っていたビルの前に座り込んだり、暴れたり、いたずらをしたりと、あまりに酷かったので、会社の人が学校に苦情を言いに行ったら、「学校外で起こったことに関しては、学校は、一切、関知しません。」と言われたそうで、学校外のことを先生が生徒に注意したりすることもありません。

 日本でも、先生の当たり外れは、ありますが、フランスの学校の先生のハズレは、ケタ違いです。

 娘が小学生の時でしたが、一度、酷い先生に当たったことがありました。

 フランスの学校には、校内にプールがあることは、ほとんどないので、水泳の授業は、市内のプールを学校毎に交代で、割り振られて使います。なので、水泳の授業は、夏ばかりにあるとは、限らずに、真冬に当たることもあるのです。

 室内の温水プールですから、泳ぐ分には、問題は、ないのですが、その行き帰りの道は、寒い中、みんなで、ぞろぞろと歩いて行くことになるわけです。

 プールの室内と外の温度差が激しくて、風邪を引いてしまうのでは・・と、親なら、誰もが心配するところです。それなのに、「女の子のタイツは禁止」と、先生から、お達しが・・「え〜〜??なんで〜〜??」と思いきや、「着替えに時間がかかるから・・」とのことで、呆れました。

 また、授業中も、無駄に厳しい先生で、授業中にトイレにどうしても行かせてくれずに、漏らしてしまった気の弱い男の子もいました。

 極め付けは、授業中、具合が悪くなったと申し出た生徒に対して、「私は、医者じゃない!」と言い放ったとか・・。これには、さすがに、父兄の間で、連絡が周り、学校にも申し入れが入ったと聞いています。

 しかし、中学、高校と進むにつれて、進学校であったこともあるのかもしれませんが、素晴らしい先生もいて、年に一度、担任の先生が一年間の授業や進学の問題についてのレクチャーを父兄向けにする機会がありましたが、その中には、こんなに高い志を持って、教育に携わっている先生もフランスにもいるのだ・・と感心させられるような先生にもお世話になりました。

 その懇談会から帰ってきて、娘に、「素晴らしい先生じゃない!!」と言うと、娘は、シラっとして、「営業、営業!!だって、いつもは、あんなにいいスーツ着てないし・・」などと、半分、照れながら言うのですが、先生のお話は、そんな、営業で、付け焼き刃で話せるような内容ではなく、教育という仕事に対する情熱と信念を感じさせるようなお話でした。

 兎にも角にも、フランスの先生の仕事は、授業を教えることであって、クラブ活動などの世話をしたり、個人的な事情に関わって面倒を見たりすることはないのです。

 フランスの学校には、金八先生は、いないのです。

 











 

2019年11月26日火曜日

日本を知らない日本人




 日本人とフランス人のハーフの場合、多分、圧倒的にお母さんの方が日本人だというケースの方が多いような気がします。

 私の周りにいたフランス人と結婚している日本人女性は、子供が小さい時、特に、夏休みなどの長いお休みの期間は、子供を連れて里帰りをしていた人が多かったので、日本を知らずに育つ日本人というケースをあまり聞いたことがありませんでした。

 女の子の方が、結婚してからも、その実家と近いというケースが多いと聞きますが、日本とフランスと離れて暮らしている場合、なおさら、男性の方が実家と遠ざかってしまうケースが多いかもしれません。

 娘の学校には、フランス人と日本人とのハーフの女の子がいて、名前も、あゆみちゃんという日本の名前なのですが、まるで、日本語を話せず、日本にもほとんど行ったことがないという日本人の女の子がいました。

 その子の場合は、お母さんがフランス人で、お父さんが、日本人なのですが、お父さんも、ほとんど家でも日本語をほとんど話さない上に、日本の実家とも疎遠になっていて、日本にもほとんど行かないような人だったので、あゆみちゃんは、日本人でもありながら、日本を知らずに育ちました。

 しかし、お母さんが日本人の女性でも、日本には、ほとんど行かずに、子供ともフランス語で暮らしているという人も知っています。

 子供は、日常は、彼女と生活しているのですが、フランス人の夫とは、現在、離婚協議中で、週末は、別居中のフランス人の夫の元で過ごしています。

 彼女は、かなり、バリバリと仕事をしている女性で、夏休みなどの学校が長期のバカンスに入る期間中は、全て、パパの実家の方に子供を預けてしまうのだそうです。

 日本へ行くのは、それなりに時間もお金もかかるし、実家との関係などにも、それぞれの事情があるでしょうから、一概に彼女のやり方を否定は出来ません。

 しかし、この子の場合も、日本を知らずに育つ日本人確定です。

 こんな話を聞くと、私は、残念でなりません。

 普段、私は、そんなに愛国心旺盛なタイプではありませんが、たとえ、半分でも、せっかく日本人として生まれたのに、なぜ、自分の国に少しでも触れさせようとしないのか?

 せっかく、二つの国に触れる機会を持って生まれてきた子供が、フランスで暮らしているからといって、日本という国や、日本の文化を全く知らずに大人になってしまうのは、もったいないではありませんか?

 私は、日本にいる時よりも、海外にいる時の方が自分が日本人であるということを自覚し、意識することが多いのです。

 日本の良いところも悪いところも、海外にいるからこそ、わかることも沢山ありますが、色々な国から来ている外国人の話を聞いても、日本は、やはり、なかなか誇らしい国でもあります。

 ハーフとして生まれた子供たちにとって、たとえ、生活の基盤がフランスにあっても、日本のことを少しでも、知ることは、マイナスなことは、何もないと思うのです。







2019年11月25日月曜日

日本の変化とフランスの生活習慣から生まれた自分自身の変化





 日本は、ほんの2〜3年行かないだけでも、いつの間にか、新しいビルが建っていたり、どんどん新しい場所や新しいシステムが生まれ、どんどん変わっていて、驚かされます。

 コンビニなども、私が海外に出てから、みるみる店舗が増え、あっという間に24時間営業になり、他のスーパーなどまで、24時間営業がチラホラしだしたと思ったら、今度は、24時間営業廃止の方向へ動きつつあります。

 その間、フランスは、あいも変わらず、コンビニどころか、日曜日は、たいていのお店は、お休みです。

 フランスに来た当初は、一旦工事を始めたら、いつまでも、「ま〜だ工事中??」、なんていう感じに呆れていましたが、今や、逆に、日本へ行くと、その変化の速さに、目が回る気がしてしまう私は、自分の祖国でありながらも、やはり、どこか、少しずつ、居心地の悪さを感じてしまうところがあります。

 それは、また、日本の社会が変化していることに加えて、私自身も色々な習慣や自分の言動や考え方の変化に気づかされることも多いのです。

 どうでもいいような、小さいことなら、エスカレーターの右側につい立ってしまうことや、少しの雨なら、傘をささなかったり、車が通らなければ、信号を渡ってしまったり、知らない人に気安く挨拶したり、話しかけたりしている自分に、そういえば、かつての自分は、日本では、そうではなかったと気付かされることがあります。

 しかし、そういった表面的なことだけでなく、フランスで生活していくうちに、自分自身の考え方や、人との付き合い方なども、自分でも気がつかないうちに変わっていることも認めざるを得ません。

 一時、日本に帰国時に、父から、「お前は、いつからそんなにキツい物言いをするようになったんだ!」と言われて、ビックリしたことがありました。

 その時点では、私は、自分自身の変化にあまり自覚がなかったのです。

 しかし、そんな父も亡くなった今になって、ここ数年、父や母というクッションが無くなってしまったせいもあるのかもしれませんが、はっきりと言わないと暮らしていけなかったりするフランスモードに自分自身が、変わってきているのだと、改めて、気付かされることが多いのです。

 しかし、日本では、そのフランスでのモードを敢えて、変えていかないと、日本では、逆に過ごしにくくなりそうで、日本に帰る時には、改めて、日本モードに自分の中のスイッチを変換して合わせていこうとしている自分に気がつくのです。

 ホンネとタテマエ、ハッキリ言わない、とか、儀礼的な贈り物をしあうとか、周りにこう思われるから、こうした方が無難だとか、他人に異常に干渉するとか・・以前には、当たり前のものとして受け入れていたことが、正直、とても苦痛になり始めています。

 美味しいものがたくさんあって、便利で、どこへ行っても親切で、応対も感じよく、何をするにもスムーズにことが運び、やっぱり日本は、スゴい!楽しい!と思う反面、対人関係には、どこかモヤモヤが残り、ドッと疲れます。

 以前は、それが、当たり前のことと思って生活していた私でさえ、感じる日本の不思議な面を、そのプラスの面もマイナスの面も含めて、全く初めての外国人から見たら、さぞかし、日本は、独特で、不思議な国に見えるのだろうな・・と思うのです。












2019年11月24日日曜日

10年近く暮らしたパリでの生活を断ち切って日本へ帰って行った彼女




 彼女は、最初、日本からスタージュに来ていて、そのまま、パリで現地採用となり、パリで働いている30代半ばの女の子でした。

 独身で、パリで働きながら、それなりにパリでの生活を楽しんで送っているようでした。パリでの新しい流行などにも敏感で、とても上手におしゃれを楽しんでもいました。

 かといって、彼女には、チャラチャラしたところはなく、あれこれと工夫しながら、まめに自炊などもして、堅実な生活を送っていました。

 そんな、彼女には、長く付き合っているフランス人の彼がいました。

 長身でスタイルの良い二人が並んで歩いていると、とてもカッコいい二人でした。

 彼女は、お料理や編み物などもプロ並みに上手だし、優しくて、人当たりも良く、海外暮らしの日本人にありがちな、キツさもなく、おっとりとしていて、いかにも育ちの良さそうな女の子でした。

 年頃で独身の彼女は、このまま、フランスで生活していくのか? ある程度で見切りをつけて、日本へ帰った方がいいのか? ずっと、考えていたことは、知っていました。

 こちらにいたフランス人の彼とは、一緒に暮らしていたわけではありませんでしたが、彼の実家とも行き来をしていて、彼のママに教わったラタトゥイユの作り方・・などを私も教えてもらったりしたこともありました。

 お誕生日には、彼のママからプレゼントをもらって・・などという話を聞いたこともあったので、きっと、彼のママは、とても彼女のことを気に入っていたのだと思います。

 しかし、けっこう、尽くしてしまうタイプの彼女に対して、けっこうなわがままを言っている彼の様子なども聞いてはいました。

 仕事上も、ある転換期を迎えた頃、10年近くいたパリでの生活を断ち切って、彼女は、日本へ帰国することを決めました。彼女は、若い頃に父親を亡くしており、日本にいるお母様とは、特に絆が強かったようで、そんなことも彼女の帰国の理由の一つには、あったのかもしれません。

 しかし、女性が将来の生活を考えるとき、30代半ばに差し掛かる頃というのは、一つの区切りの時期でもあるのかもしれません。

 彼女から、日本へ帰国すると打ち明けられた時、私は、何の不思議も感じませんでした。何か、決定的なことがあったということではないのかもしれませんが、日本人が、パリで暮らしていて、日本に帰りたくなる理由は、たくさんあるでしょうし、その気持ちもよくわかります。

 何しろ、生活を送っていく上での一つ一つにストレスが満載していますから・・。

 すでに、子供がいたりする場合は、また、別でしょうが、無理して、パリで暮らす必要もないのです。

 そんなわけで、彼女は、少しずつ、荷物を処分し始めて、私も、いらなくなった本や、お鍋などの日用品をもらったりしました。

 そして、彼女は、会社の仕事もきっちりカタをつけて、退職し、日本へ帰って行きました。彼女の実家は、横浜だということは、聞いていましたが、特に、連絡先を聞いたりすることもありませんでした。

 彼女が日本へ帰ってしばらくして、彼女の付き合っていた彼が、血相を変えて、突然、会社にやってきました。彼女からは、彼とは、別れたと聞いていたので、そこまで、必死な様子で彼女が元いた会社にやってくるのには、ちょっとビックリしました。

 しかし、誰も、彼女の日本での連絡先を知りませんでした。

 たとえ、知っていたとしても、彼女がそこまでして、彼のことを振り切って日本へ帰ったのに、誰も、彼女の許可なく安易に彼に伝えることはできなかったでしょう。

 以来、彼女は、パリにいる誰にも連絡してくることはなく、日本での彼女の様子を伺い知ることはできません。

 でも、ある程度以上、長く続けてきた生活を変えるというのは、なかなか勇気のいる決断です。よくよく考えて彼女が決めた日本への帰国ですから、きっと、日本での新しい生活を幸せに送っていると思っています。
 













2019年11月23日土曜日

パリの救急外来とアクシダン・ド・トラバイユ




 ある時、私は、仕事中に、会社の階段を踏み外して、階段から転げ落ちたことがありました。全くの私の不注意なのですが、休日出勤などが重なって、疲れていたこともありました。

 公衆の面前で、転んだりした時には、よっぽどの怪我でない限り、痛いよりも、その不恰好に転んだことの方が恥ずかしくて、バツが悪くて、慌てて、立ち上がったりしませんか?

 私もその時は、まさにそんな感じで、ブザマに転んだことの方が恥ずかしくて、必死に立ち上がり、特に外傷もなかったため、「大丈夫、大丈夫・・」と、そのまま、終業時間まで働いて、家に帰りました。

 後から思えば、その時に、救急車を呼んでもらっておけば、事は早かったのです。

 しかし、外傷がなかったために、少し、足を挫いたくらいだと、私も軽く考えていたのです。

 時間が経つにつれて、足は、みるみる腫れ上がり、家に着く頃には、ちょっと、かなりの痛みになっていました。夜になって、耐えきれずに、夫に頼んで、車で、救急外来のある病院に連れて行ってもらいました。

 当時、娘は、まだ小さくて、一人、家に置いておくわけにも行かず、娘も連れて、夫に頼んで、家から比較的近い、パリの夜の病院に連れて行ってもらいました。

 夜の救急外来というのは、こんなにも混んでいるものかというほど、次から次へと病人、怪我人がやってきます。とりあえず、受け付けだけして、順番を待っていました。

 しかし、混乱している病院の中で、待てど暮らせど、私の順番は、回ってきません。途中、何度か、声をかけてみたのですが、「ハイハイ!」と生返事だけで、延々、2時間くらい待たされたでしょうか? 

 私も頭にきていましたが、私以上に腹を立てた夫が、医者を捕まえて、「かれこれ、もう2時間以上も待たされている!これ以上、待たせるなら、ここから電話して、救急車を呼ぶぞ!」と、半ば、脅しに近い抗議をしたら、ようやく、診てもらえたのです。

 こういう時は、パリでは、黙っていたら、ダメなのです。黙っていたら、どんどん後回しにされますから、夫のように、「ここから救急車を呼んでやる!」は、いざという時に、パリでは、なかなか使える文言かもしれません。

 もし、私一人だったら、いつになったことか、全くわかりません。

 私は、骨折でもしているかもしれないと思い始めていたのですが、実のところは、打ち身から、私の足のふくらはぎには、血栓ができてしまい、ともすれば、骨折よりもややこしいことになりました。

 それから、しばらくは、私は、毎日、血栓を溶かす薬を飲みながら、毎日、血液検査に通い、薬の量を調節しながら、結局、一ヶ月近く、仕事を休むことになりました。

 足の痛みと腫れは、一週間もすれば、引くからと痛み止めの薬とクリームをもらい、その日は、家に戻りました。

 これが、仕事中の怪我だったので、フランスの法律によるアクシダン・ド・トラバイユ(仕事中に起こった怪我や病気の場合は、100%保険が適用になります)に当たるから、24時間以内に保険の手続きの書類を送るように言われ、その書類には、その場にいた事故を目撃していた人のサインも必要になるため、夫が代わりに私の職場に行って、私の同僚のサインをもらってきてくれました。

 ここが、フランス人だったら、大きな顔をして、休むところだと思うのですが、日本人の生真面目さを持っていた私は、一刻も早く、職場に復帰しなければ、と焦ってもいたのです。

 ところが、医者は、なかなか、2週間くらい経っても、ドクターストップは解いてくれませんでした。

 医者の方も仕事に行きたがる私を半分は、理解できない面持ちで、しまいには、「血栓がどんなに危険かわからないの? あなたは、死にたいの?」とまで言われ、さすがの私も、「死にたいのか?」とまで言われて、ようやく観念したのでした。

 今の私だったら、もっと、図々しく、休んでいると思いますが、あの頃は、まだまだ、全てにおいて、気持ちにも余裕がなかったのです。

 しかし、パリの救急病院の様子を垣間見て、できることなら、一生、お世話になりたくないと、心底、思わされたのでした。


2019年11月22日金曜日

フランスの職場での同僚のケンカ




 彼女は、私よりも、かなり、年配の、ふっくらとした、人の良さそうな、いかにも、おばちゃんという感じの人で、とても親切で、パリでの生活も長く、フランス語の環境の中で、子供を育てあげた経験もある、とても頼りになる女性でした。

 ですから、彼女と知り合った当初は、まだ小さかった娘のことも、とても可愛がってくれていましたし、子供と遊ぶのが上手というか、よく娘の相手になってくれたりもし、学校のことや、フランスでの日本語の教育についても随分とアドバイスをいただいたりしていました。

 彼女のご主人は、日本人でしたが、とてもリッチな人で、別々の職場ではありましたが、二人とも働いていましたので、パリにアパートを何軒ももつ、お金持ちの奥様でもありました。

 ですから、いつもおしゃれで、身綺麗にしており、気前もよく、威勢も良い人でした。

 彼女の話すフランス語は、決して上手ではないのですが、臆することなく、堂々と話すので、勢いに圧倒されて、何んとなく、そのまま通ってしまうようなところがありました。

 明るく、おしゃべりな彼女ですが、自分の素性については、あまり話すことはありませんでしたので、彼女が日本のどこから来た人なのか? どんな暮らしをしていたのか? 私は、一切、知りませんでした。

 私は、基本的に、人のことを詮索するのが好きではありません。

 会話から、自然と出てくることで知りうる情報以外は、個人的なことは、聞きません。

 おそらく、もう、彼女は、日本で暮らした年数よりも、パリに住んでいる年数の方が長くなっているので、今さら、日本での生活の影は、あまり見えなくなっていたのかもしれません。

 何よりも、彼女が隠したかったらしいのは、彼女の年齢で、周りのみんなが何気に話していれば、出てくる年齢の話題になると、普段は、おしゃべりな彼女も、微妙に避けるので、まあ、女性だし、ある程度の年齢になれば、歳の話は、したくないものなのだろうくらいに思っていました。

 しかし、だんだんと時が経つにつれて、彼女のあの威勢の良さや雰囲気から、何か、表面とは、違うものも感じていました。

 日頃は、温和な彼女ですが、ある時、職場で、同僚と、もの凄いケンカを始めて、その迫力に、息を飲みました。

 ケンカになった相手も、最初は、対等に話していたのですが、そのうちに、彼女の迫力に押されて、プイッと、休憩室へ去っていこうとしたのです。

 すると、頭に血が上っていた彼女は、相手を追っかけていき、「このアマが!!」と叫んだのです。

 「このアマ・・・」始めてライブで聞いた言葉でした。

 なかなか、日本にいても聞かない彼女の言葉に、私が、うっすらと感じ始めていた、何か、表面とは、違う彼女の一面を見た思いがしたのです。

 












 

2019年11月21日木曜日

パリに住む不思議な日本人のゲイのおじいさん




 パリには、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーをはじめとするセクシュアルマイノリティの総称)の人が多いような気がします。

 もしかしたら、特に多いわけではないのかもしれませんが、そのことを隠さずに堂々と生きている人が多いので、LGBTの人が住みやすく、日本人でもパリの方が居心地が良いのかもしれません。

 実際に、同性で婚姻関係を結んでいるカップルも、いくつか知っています。

 そんな中でも、私が多く知っているのは、もっぱら、ゲイの人が多いのですが、皆、とても、インテリで、礼儀正しく、おしゃれで、レベルの高い暮らしをしています。

 ですから、仕事の関係で、ご一緒することがあったりしても、とても、頭の回転もよく、気働きもよく、博学なので、話をしていても、とても興味深く、大変、勉強になります。

 いわゆる女装などをしているわけではないので、ちょっと見には、わかりませんが、少し、話していると、だいたい、すぐにわかります。(本人も隠していないので・・)

 その中でも、私が知るゲイの人の中に、強烈な印象のとても、おもしろい、日本人のおじいさんがいました。

 私が勤めていた会社の役員の人と知り合いで、自宅には、ファックスを置いていないからと、ファックスの受信や送信をうちの会社でやったりして、事務所がわりのようにしていましたので、彼宛にファックスが届いたりすると連絡してあげたりしていました。

 彼は、80も過ぎていたと思うのですが、とても元気で、饒舌で、いつもエネルギーに満ち溢れ、非常に博識で、ブローカーのような仕事をしていたのか、交友関係もとても広く、芦田淳やジョエルロブションとは、特に親しい様子で、よく、彼らの話を聞かせてくれました。

 ロブションのところで、食事をしたりしても、決して、バスやメトロには乗らずに、健康のためと、必ず、歩いてやってくるのです。

 また、フランスやイギリス、アメリカの財界人、日本の芸能人などにも知り合いが多く、普通の人は、とても足を踏み入れる機会がないような、晩餐会のメニューやミシュランなどにもきっちり意見をする人で、その常に前向きな姿勢には、度々、舌を巻きました。

 古い時代の人ですから、パソコンなどは、一切、使わない代わりに、驚くほどに筆まめで、また達筆で、日本語はもちろん、英語やフランス語の手紙なども、美しい文章と美しい文字で綴り、よく、彼の書く手紙をコピーさせてもらって勉強させていただきました。

 多方面にわたる手紙を全て、保管し、また、驚くほど、記憶しているので、以前の記憶から、保管していた手紙や写真をすぐに引き出してくることができるのにも、感心させられるばかりでした。

 おしゃれにも行き届いた人で、その日の服装に合わせた靴はもちろん、靴下から、時計や一緒に持つ紙袋まで、しっかりとコーディネートされていました。

 また、地方に住む現在の恋人との逢瀬も欠かすことなく、定期的に彼の元へと訪れていました。

 今となっては、芦田淳もジョエルロブションも亡くなってしまいましたが、彼は、きっと元気に、今日もパリの街を歩いていることと思います。

 











2019年11月20日水曜日

フランスにもいる困ったママ友




 私は、日本で子育てをしたことがないので、日本のママたちの公園デビューとか、ママ友同士のお付き合いというものを知りませんが、ママ同士のお付き合いが子供同士の関係にも影響するとかいう話を聞いたりすると、なかなか大変そうで、そんな時は、パリで良かった・・と密かに思います。

 日本にいる私の従姉妹などは、息子が大学生だというのに、野球部のお手伝いに行っていたなどというので、ひっくり返ってびっくりしました。

 だいたい、パリの場合は、ほとんどのママが働いていますので、夏休みなどバカンス期間中は、別として、通常の保育園、幼稚園、小学校の拘束時間も長く、平日に子供を公園で遊ばせるということも、あまり、ありませんし、週末は、平日にできない買い物や家事に忙しく、あとは、家族で過ごすことが多いので、あまり、ママ友同士のお付き合いというものをしてきませんでした。

 それでも、娘は、小・中・高校と同じ学校に通っていたので、小さい時からの顔見知りのママたちは、少数ですが、いますし、小さい頃は、それこそ、しょっちゅう、誰かのお誕生日会があったり、子供がお友達の家に遊びに行ったりといったことがあったので、顔を合わせれば、立ち話などをしたり、また、窮地に陥った時には、(フランスの小学校は、水曜日がお休みで、急に、どうしても、休めなくなってしまった時など)自分の家の子供と一緒に子供を預かってくれたママもいました。

 ですから、お互いが、そんなに深入りはせずに、適度な距離を保っていて、必要な時だけ、適度に助け合う感じが、私には、ちょうど良かったのです。

 それでも、中には、なかなか、困ったママもいました。

 家も近所で、娘とは、どういうわけか、幼稚園から、ず〜っと一緒のクラスで、バレエのレッスンまで一緒でした。あちらも一人娘さんで、ご両親は、教育熱心な方でした。

 当然、お誕生日会などに呼ばれても、一緒にお呼ばれすることも多く、年齢とともに、お家でパーティーをするだけでなく、主催者のファミリーが、子供たちを連れて、アスレチックに招待したり、映画を見に連れて行ったりと行動範囲も広くなっていきました。

 その日も、誰かのお誕生日会で、集合場所には、移動のための2台の車が子供たちをピックアップしにきていたのです。

 彼女は、遅れてやってきて、「自分の子供が乗る場所がない!」と、ヒステリックに怒り出して、周囲を凍りつかせたのです。

 他の親が気を使って、「じゃあ、うちの子どもたちは、別に連れて行くから・・」と、その場は収まりましたが、自分の子供のことだけに目の色を変えて、怒る彼女に、みんな、ちょっとビックリしたようでした。

 自分の子供可愛さのあまりに、自分の子供のことしか見えなくなるタイプです。

 私が、どうにも都合がつかなくて、別のママに子供を預かってもらった時も、どうして、うちの子は、入れてくれないの?と割り込んできて、文句を言われたこともありました。

 また、人のうちの子供の成績などがやたらと気になるようで、私も知らないのに、「オタクのお嬢さんは、今回も、○位で良かったわね〜」などと、外で顔を合わせると、度々、言われたりして、ギョッとしたりもしました。

 それでも、それぞれ、高校を卒業し、別々の学校へ進学して、しばらくして、久しぶりにバス停で、ばったり彼女に会いました。

 なんだか、もう、色々なことが吹っ切れて、なんだか、ひと時代をともに過ごした戦友に久しぶりに会ったような、ホンワリとした懐かしさを感じました。

 たしかに、ひと時代が過ぎたのです。






 

2019年11月19日火曜日

時々、見かけるパリにいる、虚言癖の人




 ウソつき〜〜〜! と、冗談めいて、茶化せるぐらいの嘘や冗談は、日常によくあることです。また、人を傷つけまいとついてしまう嘘もあります。

 しかし、私は、パリにきて、なかなかのウソつきに会いました。

 嘘というより虚言癖とでもいうのでしょうか? 

 別にこちらが聞いてもいないことを自分でふれまわるのです。

 海外にいるから、素性がバレにくいとでも思っているのでしょうか?

 だいたい、彼女のつく嘘は、聞くに耐えないような自慢話なので、聞き流して、生返事をするのですが、それをいいことに、彼女は、とうとうと、誰に対してでも、自慢話を続けるのです。

 だいたいが、自分や自分の連れ合いが両家の子女であり、どんなに育ちが良いかということを匂わせようとするような内容です。

 それでも、話をいくつか聞いていれば、およそ辻褄があっていないので、すぐにそれが嘘であるということが、誰にでも、わかってしまうので、滑稽でしかありません。

 だいたい、育ちの良い人は、そんなつまらない自慢話は、しないものです。

 なぜ、子供でもわかるような嘘を彼女がつき続けるのか、よほど、自分の素性にコンプレックスを抱いて育ったのだろうと、逆に思ってしまいます。

 だいたい、大人になれば、そして、海外であれば、なおさらのこと、色々と事情を抱えている人も多いので、親しくならない限りは、そうそう個人的なことには、立ち入らないのが普通です。

 少しずつ、話をしているうちに、たまたま、実家が近かったり、共通の知り合いが見つかったりという偶然や、何かのきっかけがあったりして、それから、自分の実家や家族の話をしたりすることは、ありますが、だいたいが、同じ日本といえども、生まれた場所も育った場所も年齢も違えば、敢えて、自分の日本での生活を話すことはありません。

 でも、彼女が、ある時、自分の自慢話に乗っけて、違う人の悪口を言い始めたのです。「あの人は、高卒だから、まったく程度が低くていや〜ね〜・・。私たちみたいに高学歴じゃないから、わからないのよ!」と。

 私は、絶句しました。「私たち・・たち・・ってなに?」「高学歴って・・???」

 しかし、海外だからなのか、彼女に限らず、虚言癖の人は、時々、見かけます。

 その大半が見栄っ張りで、自慢したがりの人です。

 すぐわかる嘘までついて、自慢して、さぞかし、虚しくて、心が満たされないだろうと思いきや、一向に彼女たちは、そんな風に感じている様子はありません。

 それが、虚言癖の癖というべきところなのか? 次から次へと、嘘が口を突いて出てくるのです。

 まったく、気の毒な病気です。

 



 

  

2019年11月18日月曜日

パリ一人暮らしの日本人女性の死




 パリには、一人暮らしの日本人も多いのです。留学生や仕事で来ている場合など、考えてみれば、もしかしたら、むしろ、一人暮らしの方が多いのかもしれません。

 今日の話の主人公の女性は、パリで個人で仕事をしておられた女性の亡くなった時の話です。

 彼女とは、顔を合わせれば、世間話をする程度の知り合いでしたが、年齢も私よりもかなり上でしたが、いつも気さくに話をしてくださり、とてもサバサバとした方で、とびっきりの美人というわけではありませんでしたが、さり気ない、おしゃれの上手な方で、決して、派手すぎず、でも、いつも洗練された身なりをされていて、メイクやヘアもいつもきれいにしていらっしゃる素敵な方でした。

 よほど、親しくならなければ、家庭の事情などは、自分から話さない限りは、こちらからは、聞くこともないので、彼女が一人暮らしだということは、知っていましたが、それ以上は、以前、アメリカで暮らしていたこともあるということくらいしか、彼女については、知りませんでした。

 最後に彼女に会ったのは、パリの街中で、彼女がその日に買った化粧品について、少し話した程度でしたが、あまりに彼女が急激に痩せていたので、正直、これは、悪い病気ではないか?と、ちょっと不安に感じたのを覚えています。

 しかし、その時の彼女は、いつも通りのサバサバした様子で、職場のグチをこぼす私を励ましてくれていたのです。

 ところが、それから、約二週間後、彼女が亡くなったという知らせが届いたのです。

 パリに一人暮らしで、身寄りのないことを知っていたので、見送る人もあまりいないだろうと思い、私は、友人と一緒に、彼女に似合うと思われる赤いバラの花束を買って、彼女のお葬式が行われるという、ペール・ラシェーズという墓地に行きました。

 ペール・ラシェーズは、パリ東部にあるパリ最大の墓地で、イヴ・モンタンやエディット・ピアフ、ショパン、モリエールなど数々の著名人が埋葬されていることでも有名な墓地です。

 フランスでは、あまり火葬が一般的ではないのですが、ペール・ラシェーズでは、火葬することも可能なため、日本人がパリで亡くなった場合は、ペール・ラシェーズを利用する人も多いようです。

 墓地は、広く、入り口も数カ所あり、うっかり違う入り口から入ると墓地の中を延々と歩くことになりますが、きれいに整えられた墓地は、時間があるならば、お散歩して歩くのも悪くありません。

 彼女の葬儀は、火葬場のすぐ近くにある葬儀場の小さな一室で行われましたが、最初にびっくりしたのは、彼女の本名が違う名前だったことです。

 ペール・ラシェーズの入り口で、葬儀が行われている人の名前を言えば、広い墓地のどこで、葬儀をやっているのか、教えてくれるのですが、彼女の本当の名前は、私たちが思っていた名前では、なかったのです。

 つまり、日常、パリで彼女が使っていた名前は、仕事のための名前だったのです。

 何か、事情があったのかもしれませんが、彼女の場合、パリで使っていた名前は、名前を大きく出して、広告を張って、仕事をしたりしていたので、彼女の仕事上の屋号のようなものだったのかもしれません。

 彼女の葬儀は、彼女のごくごく近しい友人が取り仕切っており、突然、亡くなったかに思われた彼女の死の経緯を説明してくださいました。

 その方によれば、彼女は、乳がんを患っていたのですが、発見された時には、かなり、ステージが進んでいたため、手術も治療も一切、断り、最後のギリギリまで、日常通りの暮らしを続ける選択をし、身の回りのことを整理して、最後の葬儀の段取りまで、自分でして、あとのことは、その方に全て、託されていたのだそうです。

 亡くなった顔を葬儀に来られた方に見せないでほしい。そして、葬儀に来てくださった方には、元気だった頃の彼女を覚えていてほしいというのも彼女の遺言だったそうです。

 全ての治療を断るなんて、自殺行為だと思う人もいるかもしれませんが、むしろ、私は、彼女が最後まで、生きることを選んだように思うのです。

 私は、彼女が自分の人生最後の締めくくりを受け入れつつ、しっかり思い描いて、それを全うした彼女の選択を潔く、あっぱれだと思いました。

 誰だって、死にたくはないし、いざとなれば、藁をも掴む思いで、辛い治療に耐えようとすることが多いと思います。

 実際に、パリでガンで亡くなった友人は、最後の最後まで、諦めずに、抗がん剤や化学療法に耐え、結局のところ、死ぬほど苦しい思いをしながら、亡くなっていったのです。それは、それで、彼女の選択でしたから、それを否定するつもりもありません。

 完治しないまでも、治療しながら、ガンと共存して生きるという道もあるのかもしれませんが、最後まで、辛い治療に耐えながら、頑張ることばかりがよいとは、私には、思えないのです。

 彼女のように、自分の力で生きられるまででよいと受け入れることも、彼女の強さなのだと思ったのです。

 ベッドの上での命の時間を長らえるより、最後まで、自分で日常の生活をし、できる限りの後の始末まで、きれいにやってのけた彼女を立派な女性だったと、改めて、彼女のお葬式に行って思ったのです。

 彼女は、間違いなく、最後のギリギリまで、彼女の日常をきっと、それまでには、なかった愛おしい気持ちで生きていたのです。

 だって、彼女が、亡くなる二週間前に買っていたのは、いつも彼女が使っていた、高級な、保湿用のクリームだったのですから。


 







 

 

 

2019年11月17日日曜日

パリにいた、ある日本人カップルの離婚劇





 私が出会った頃、彼女は、30代前半の女性で、日本人の絵描きさんのご主人と二人でパリに来ていました。絵描きさんといっても、当然、絵で収入があるわけでもなく、かといって、フランス語のほとんどできない人が、容易に他の仕事につけるような状況にもなく、収入のほとんどないご主人を彼女が働いて、支えていました。

 パリに来るときは、二人で夢をふくらませて、地方から東京に出てくるような気分で、来てしまった感じで、いくら、子供はいなくて、夫婦二人で身軽とはいっても、現実は、そんなに簡単ではなかったようです。

 それでも、彼女は、彼女なりに、パリへの憧れなどもあったようで、わずかなお給料で、ご主人の生活を支えながらも、おしゃれが好きで、しかも、けっこうブランド物が好きだったりして、生活を切り詰めながらも、バーゲン期間などは、必死にブランド物のセールに並んだりしていました。

 当初、といっても、その頃は、私自身は、まだ、娘も小さくて、子供を預けて仕事をしていたので、もう通勤と子育てで、いっぱいいっぱいだったので、他の人との付き合いは、ほとんどなく、彼女についても、周りから、話を漏れ聞く程度で、よく彼女のことも知らなかったのですが、ご主人が作ってくれたお弁当を持ってきていたり、何か、彼女が忘れ物をすると、ご主人が届けてくれたりしているというのを聞いていたので、「二人で夢を持って、パリに来ている夫婦は、仲がよいのだなぁ・・」くらいに思っていました。

 それから、数年経って、あるとき、彼女の家の電話が壊れてしまったという話を聞いて、「もし、必要なら、家に使っていない電話があるけど、使いますか?」と申し出たところ、ぜひ、欲しいというので、彼女に電話をあげたりしました。

 その時も、私は、まあ、「電話が壊れたのね・・」と思っただけで、別にその事情については、何も尋ねませんでした。

 ところが、そのうち、どこからか、彼女がご主人と、あまりうまくいっていなくて、夫婦げんかが絶えなくなっているらしく、電話もその際に、ご主人が壊してしまったらしいという話が漏れ伝わってきました。

 ケンカの原因は、わかりませんが、不安定な生活のストレスの中では、ケンカの原因は、いくらでもありそうです。

 それから、まもなくして、彼女が離婚して、日本に帰るということになったらしく、私は、あげたつもりだった電話が彼女から戻ってきました。

 ただ、少し、妙だな?と思ったのは、その時に、彼女が、自分は、もしかしたら、また、パリに戻ってくるかもしれないからといって、荷物を全部、日本へは、引き上げずに、一部をパリの知り合いの家に預けて行ったということでした。

 勤めていた会社も辞めて、離婚して、日本に帰るというのに、また帰ってくるかもしれない・・離婚するなら、ご主人が一人で日本へ帰るのでもよいのに、ご主人の方は、彼女やパリにも未練があったのか、彼女も一緒に日本に帰ることで、離婚に同意したようなのです。

 とにもかくにも、すったもんだのあげくに、彼女は、ご主人と二人で、日本へ帰って行きました。そして、数ヶ月後に、果たして、彼女は、一人でパリに舞い戻ってきました。

 再び、彼女は、パリで、周囲の助けを借りながら、アパートを探し、元いた会社に頼み込んで、復職しました。

 離婚という人生の一大事に、あまり、彼女を深く詮索することもいけないと思っていましたが、彼女の方は、意外と立ち直りも早いなぁと、なんとなく、傍目から思っていたのです。

 ところが、また、それから、半年後くらいに、びっくりするようなニュースを聞いたのです。

 彼女がまた、パリに住んでいる、別の日本人の男性と再婚して、日本へ帰るというのです。

 結局のところ、彼女には、別の男性ができていて、離婚するために、なんとか、ご主人を日本へ連れて帰り、彼女は、別の人と再婚するために、再び、一人でパリにやってきていたのです。

 離婚も渋々受け入れたというご主人が、もし、パリに残っていたら、彼女の再婚には、黙ってはいないはずです。

 これは、パリを舞台にした、なかなかエグいドラマのような展開で、私は、あまり、関わり合いは、ありませんでしたが、その間、パリでの彼女の引越しを手伝ったり、アパートの保証人になってくれたりした人たちも、一切、彼女に他の男性がいたことは知らずに、ひっくり返って驚かされたのでした。

 






















 

2019年11月16日土曜日

フランス最大のスーパーマーケット カーフール




 我が家の近所のスーパーマーケット・カーフールは、コマーシャルセンターの一角にある大きな規模のスーパーマーケットで、2フロアーにわたる店内は、食料品はもちろんのこと、ワインなどの酒類、衣料品、化粧品、日用品、文房具、本、電化製品、大工用品、園芸用品、食器類、ペット用品、玩具類から自転車まで、おおよそのものは、揃うので、とても便利です。

 そのコマーシャルセンターがあるおかげで、我が家の徒歩圏内には、個人商店などは、パン屋さんくらいしかなく、マルシェさえもありません。

 しかし、まあ、例えば、娘の学校で、明日、〇〇を持ってくるように・・などと言われたりする急な買い物の時などは、まあ、たいていは、カルフールで見つかるので、助かっています。

 その上、買い物したものは、そのまま、買い物用のキャディで家まで荷物を運べるので、水やワインなどの重い買い物などでも、車で買い物に行って、駐車場から買い物したものを運ぶよりも、カルフールから直接、キャディで運んでしまえるので、助かります。

 荷物をとりあえず、家に運び入れると、キャディだけを返しに行けばいいのです。

 ですから、我が家の買い物は、特別なものでない限り、ほぼほぼ、カーフールで済ませてしまっています。

 今日、買い物に行ったら、かなり、大掛かりな店内の陳列棚の移動中で、かなりの棚が空の状態で、品物を探すのに苦労しましたし、実際に、置いていない商品もたくさんありました。

 これは、決して、初めてのことではないので、今さら驚きはしませんが、なぜ、これを営業時間帯にやるのかが、全く理解できないところです。おおかた、時間外労働が難しいということなのでしょうが、開店時間中に陳列棚の移動など、日本のスーパーマーケットでは、まず、ありえないことでしょう。

 通常でさえも、陳列棚には、欠品も多く、商品を補充している店員は、大勢いるのですが、皆、携帯を片手に時間つぶしをしているような働き方です。

 陳列棚をやたらと移動して模様替えをするよりも、絶対に売れるはずの欠品の商品を確実に店内に補充する方がどれだけ、確実に売り上げが上がるかと思うのですが、どうにも意味がわかりません。

 以前は、広い店内を商品の確認をしたり、移動したりするために、ローラースケートをはいた店員がスイスイと店内を動き回っていたのですが、最近は、それも見かけなくなりました。

 商品のアイテム数が7万点にも及ぶと言われているカーフールも、逆に、それを管理しきれずに、自分で自分の首を絞めかねない状況と言わざるをえません。

 こんな、カルフールの状況を見ていると、小さなスペースに莫大な種類の商品を常に補充して、欠品どころか、常に満杯の商品を陳列している日本のコンビニやスーパーマーケットにぜひ、視察・研修に、行って欲しいものだと、いつも思います。

 しかし、日本に視察に行ったところで、フランスでは、厳しい法律で労働者が守られているため、労働者を日本のように働かせるのは、多分、無理なのでしょう。

 それでも、カーフールは、毎年、世界の小売業ランキングのトップ10には、入るスーパーマーケットなのです。(ちなみに世界のトップ10に日本の小売業の企業は、入っていません。)

 パリの中心部などは、カルフールシティといって、ほんの、コンビニ程度のスペースで、食料品と最小限の日用品を中心にした展開にするなどということをしていますし、EU各国の他、ブラジル、ルーマニア、北米、アジアなどへの国際展開も行なっています。

 しかし、日本や中国などは、いったんは、進出したものの、結果的には、商品展開に失敗して撤退しているのです。

 現在のところ、世界的なポジションを保っているカーフールも、地元がこれでは、足元からすくわれて、一気に転落するのではないかと私は、密かに思っているのです。

 
 
 




2019年11月15日金曜日

フランス語には、引きこもりという言葉はない




 フランスには、「引きこもり」に当たるフランス語は、ありません。ですから、「引きこもり」のような状態を説明するには、「HIKIKOMORI」という言葉を使います。

 また、フランスでは、引きこもりと似たような状態で、ニートという言葉が混同して使われることもありますが、このニートというのは、Not Education Employment or Training つまり、学校にもいかず、仕事にもいかず・・という意味で使われているので、確かに、ニートの人が引きこもりでもある可能性もありますが、必ずしも、引きこもりとは限らないので、引きこもりに関する正確な把握は、出来ていません。

 つまり、フランスには、引きこもりが全くいないわけではないけれど、それが社会問題になるほどの数では、ないということです。

 それは、おそらく、フランス人が日本人ほど、過保護ではなく、ある程度の年齢(18才)になったら、子供は、自立させるものと、キッチリと考えていて、必要以上のお金を子供に与えない、また、家族であっても、夫婦と子供の関係を別に考えているところにあると思います。

 また、引きこもりができるということは、経済的にも、ある程度以上、恵まれた状態でなければ、出来ない話ですし、もともと、ケチで締まり屋のフランス人が、何もしない、いい歳をした子供に寝食を提供するようなことは、起こりにくいとも言えます。

 そして、また、日本と比べて、世間の目がうるさくない、そうでなくとも、人種が多い国では、こうでならなければならないというような、社会規範が緩く、人と違うということを問題視しないという国民性にもあるかもしれません。
 それだけ、日本のような、世間の目を気にする息苦しさが少ないということです。

 日本で、引きこもりが社会問題と言われるようになって、現在では、100万人を超える人が、引きこもりの状態であるというのですから、これは、深刻な問題です。

 実際に、私の親戚にも、長いこと引きこもっていた子がいましたし、パリにいる私の友人の家族にも、日本の家族に引きこもりがいました。

 皮肉なことに、友人の家族は、お医者様一家で、その子は、引きこもりから、うつ状態の精神疾患と診断されていました。うつ状態が悪化して、自殺の危険もあると考えられていたその子の家族は、思い切って、私の友人を頼りにその子をパリで治療させることを考え、彼は、しばらく、パリで治療しながら、生活をしていました。

 最初は、親の方も、とにかく、「生きていてさえくれれば・・」と、消極的な感じでしたが、日本の自分の日常から切り離されたことで、気持ちを切り替えられたのか、それとも、海外で違う世界に触れて、新たな自信が生まれたのでしょうか? 

 1年くらい、パリで治療しながら生活し、その後は、案外すんなりと、日本へ戻って、引きこもりから脱却したようでした。

 もちろん、そんなことは、お金もかかるし、誰か、そばで見守ってくれる人がいたからできたことではあると思いますが、彼女の家族の例を聞いて、こんな克服の仕方もありかもしれないな・・と思ったのです。











2019年11月14日木曜日

パリの公文 やってて良かった!




 私は、娘が生まれた時から、とにかく、日本語は、しっかりできる子供にしたいという気持ちがとても強く、主人もそのことに関しては、快く賛同してくれていたので、娘が生まれて以来、物心ついた頃から、パパは娘とフランス語で話し、フランス語を教え、私は、娘とは、日本語で話し、自分で、カードを作ったりして、日本語を教えていました。

 それでも、パリにいる日本人の先輩ママなどの話を聞き、フランスは、他言語に対して、かなり排他的であることや、パパがフランス人、ママが日本人とはいえ、放っておいたら、日本語は、どんどん、面倒臭い言語になってしまう、だって、こちらの生活では、必要ないんだから・・などという話を聞くにつれ、これは、私、一人だけで、日本語を教えるのではなく、誰か、他人の手を借りた方がいいと思うようになりました。

 私が、娘に望んでいたのは、ただ、日本語が話せるだけではなく、きちんと文章も読めて、書けるようになって欲しかったのです。

 周りの助言もあり、フランスの学校(実際には、幼稚園ですが、2才から始まります)で、フランス語を始める前に、(多少なりとも日本語を始めた方が、日本語を億劫に感じにくいだろう)ということで、2才から、娘を公文の日本語教室に通わせ始めました。

 当時は、公文は、シャンゼリゼにあった、日本人会の中の一室にあり、そこへ、毎週、土曜日、週一回、通い始めました。本当は、同じ料金で、水曜日と土曜日、どちらも行くことができるのですが、さすがに、私も仕事をしながら、両方は、無理なので、土曜日だけにしていました。

 最初は、本当に、鉛筆の持ち方から、線をなぞるような、お遊びのようなものでしたが、それでも、他に、日本人の子供に会う機会、私以外に日本語を話している人に会う機会のなかった娘にとっては、良い刺激になったと思います。

 そのうち、オペラ近辺にも教室があることがわかり、教室を変わりましたが、それこそ、幼稚園から上は、中高生まで、一緒の教室で、それぞれが違うレベルのプリントを黙々とやる中、数名の先生が、生徒の間をまわって、少しずつ見て下さるのです。

 大半は、日本語を学びに来ている現地校に通う小学生でしたが、中には、数学と日本語の二本立てをこなし、日本語とともにスラスラと計算問題をこなして行く子もいたりして、内心、舌を巻いていました。

 本当なら、数学もできたらとも思ったのですが、消化不良を起こしては、いけないと日本語だけをお願いしていました。毎週、土曜日の14時から17時までの時間帯の好きな時間に行って良いので、午後、バレエのレッスンが終わると、飛ぶようにして、公文に移動していたものです。

 土曜日の授業の他に、次の一週間分の宿題のプリントをもらうので、一週間、毎日、学校から帰ると公文の宿題をするのが日課になっていました。

 それでも、大きくなるにつれて、駐在でパリに来ている人の子供たちは、日本へ帰ってしまったりして、いつの間にか消えていき、フランスの学校の授業が大変になってくるとやはり続かないのか、高学年になるにつれて、生徒さんは、少なくなっていきました。

 結局、娘は、10年間くらい通ったでしょうか? 一時、日本語の勉強は、ストップした時期もありましたが、高校生になってから、再び、バカロレア(高校卒業資格試験のようなもの)の第二外国語のオプションを日本語で取ることに決めてから、再び、別の日本語の教室で勉強を再開しました。

 しかし、継続は力なりとは、よく言ったもので、毎日、少しずつでも、10年間、続ければ、おかげさまで、そこそこの読み書きもできるようになりました。

 親子二人きりでは、ここまで続けることは、できなかったと思います。

 お世話になった先生方には、とても感謝しています。

 今では、公文もすっかり立派になり、全世界に50ヶ国以上の国にあるそうで、パリ市内には、4ケ所、パリ近郊を合わせると6ヶ所もあるようです。

 以前は、日本人の生徒がほとんどでしたが、今は、数学、英語なども加えて、フランス人に向けても、METHOD KUMON (公文メソード)として、手広く、生徒を集めているようです。

 海外にお住いの方は、それぞれの国で、公文にお子さんを通わせている方も多いと思いますが、あまり、無理せず、続けられることが一番です。

 私は、公文のまわし者ではありませんが、本当に、CMどおり、「やってて良かった!公文!」です。












2019年11月13日水曜日

海外での新興宗教の勧誘




 私が初めて、アフリカに旅立った時、たまたま、隣に座ったアフリカ系のフランス人の女性が、話しかけてきました。何をきっかけに話が始まったのかは、覚えていませんが、私が日本人だと言うと、「私の弟も、日本に住んでいたことがあるのよ!」とその方がおっしゃいました。

 コートジボアールの人で、日本に住んでいたことがあるなんて、なかなか、珍しいと思った私は、(実際に、アフリカの現地の人は、日本へ行く航空券を普通に買い、日本で生活することなどなかなか難しいことなので・・)その方に、「なぜ? 弟さんは、日本に行かれたのですか?」と尋ねると、「弟は、統一教会の信者で、その仕事で、日本へ行ったのです。」と答えたのです。

 正直、私は、統一教会(現在の、世界平和統一家庭連合)が、アフリカまで進出していることを全く知りませんでしたので、とても驚きました。

 しかし、実際には、私が、コートジボアールにいた頃は、旅行はおろか、個人的に滞在するなどという日本人は、ほとんどおらず、当時、日本人の在住者は、200名程度で、海外駐在者の家族、また、大使館等の公務、JICAやJETROなどの国際公的機関に関わる人や、海外青年協力隊で来ている人、そして、残りは、統一教会関係者ということでした。

 200人という狭い日本人社会には、あまり関わりのなかった私ですが、アフリカ滞在中は、統一教会関係の日本人には、結局、一度も会うことがありませんでしたので、現地の人への布教活動等をしていたのではないかと思われます。

 パリに来てからは、在仏の日本人の数も桁違いで、出会う日本人も増えましたが、統一教会だけでなく、いわゆる新興宗教と呼ばれる宗教の信者が、ごくごく普通にいるのには、驚きました。

 私自身は、無宗教で、ましてや、新興宗教は、アレルギーといってもいいくらい、一切、受け付けないので、そういった宗教の勧誘を執拗に受けたことはありませんが、その手の宗教の信者である人に、仕事上で、関わる機会があったりしました。

 私のうがった見方かもしれませんが、あまり、親しくもないのに、異様に親切だったり、妙に馴れ馴れしかったり、やたらと他人のことを知りたがったり、その会の招待券やパンフレットなどを何気ないふりをして、置いていったりするのです。

 海外での生活は、言葉や習慣の違いから、ストレスも多く、孤独に感じがちで、そのような心の隙間に入り込みやすいのかもしれませんが、新興宗教の勢力が意外と強いのには、驚かされます。

 実際に、海外で一人暮らしをしていて、寂しくて、日本語で話せることが嬉しかったりして、うっかり、話に乗ってしまうようなケースもあるのではないかと思います。

 パリにある、ある日本食を扱うお店の店員は、ある宗教の信者がほとんどだというお店もあります。

 私の昔の同僚で、しつこく追い回されて、家にまで訪ねて来られるようになって、これ以上、続けるなら、警察を呼ぶからとまで言って、やっと帰ってもらうほど、とても困ったことがあるという人もいました。

 宗教は、個人の自由ですから、人に迷惑にならない限りは、自由だと思いますし、その宗教を深く信仰する人々にとったら、人助けをしているつもりなのかもしれませんが、宗教は、人から押し付けられるものではないと思うのです。









 

2019年11月12日火曜日

フランスの職場でのイジメと嫌がらせから、悲惨な結果になったリンダちゃんの話


   


 リンダちゃんは、主人の姪っ子で、主人の兄夫婦の5人の子供のうちの一人で、暖かい大家族の中で、育った、明るく、大らかな女の子でした。

 義兄夫婦の家族は、パリ郊外に大きな家を持ち、子供たちが独立した後も、兄弟姉妹が皆、近くに家を構えて、週末になると、皆が実家に集まってきて、食事をとり、仲良く暮らしていました。

 リンダちゃんは、お兄さんと弟、そして、妹がいる、ちょうど、真ん中の子供で、私がはじめて彼女に会った時は、どちらかというと、たくましく、どんと構えているタイプの印象の彼女でしたが、その後、彼女は、あることをきっかけに、みるみる変わっていってしまったのです。

 大方の兄弟は、若いうちから付き合っていた彼氏、彼女と結婚し、お互いを若い頃から知り合っていて、その家族とも家族ぐるみの付き合いをしている、いわゆる幼馴染みのような関係でした。

 リンダちゃんも幼馴染みの彼と結婚し、フランスの大きなチェーン展開をしている洋服屋さんで、働いていたのです。

 彼女の幸せな人生が崩れ始めたのは、子供が生まれてまもなくのことでした。

 彼女の職場で、陰湿なイジメが始まり、彼女は、みるみる不安定になっていったのです。悪いことに、ちょうど、彼女には、初めての子供が生まれたばかりで、そうでなくても、育児の不安などが重なり、精神的にも体力的にもキツかったことが、彼女をますます追い込んでいってしまったのだと思います。

 あっという間に、彼女は、重い、うつ状態に陥り、子供を育てられる状態ではなくなりました。しばらくは、ご主人が一人で、リンダちゃんと子供の世話をしていたのですが、そのうち、ご主人の方も音を上げて、リンダちゃんと子供は、実家に帰ってきました。

 状態が、落ち着けば、元に戻るだろうと思っていたのに、そのうち、ご主人に女の人ができ、結局は、離婚することになってしまったのです。

 そして、離婚してすぐに、今度は、ご主人との間での親権争いです。

 フランスでは、共同親権が認められていますので、親権を奪われることは、なかったものの、結局、彼女が精神的に不安定な状態ということで、子供は、お父さんと一緒に暮らすということになってしまったのです。

 職場での事件をきっかけに、明るかった彼女の暮らしは、あっという間に一変してしまいました。

 職場でのイジメがどんなものであったのかは、わかりません。

 一時は、職場のいじめた本人、あるいは、会社を訴えるという話も持ち上がっていましたが、その後の離婚、子供との離別を抱えて、さらに、うつ状態になってしまった彼女には、荷が重い話で、結局、裁判には、至りませんでした。

 私も職場で、仕事が増えていく私に、嫉妬半分で、嫌がらせをする年長の女性に辟易したこともありましたが、私は、もっと図々しく、自分でも、大人気ないなぁ・・と思いながらも、どうにも腹が立って、ボスの元へとその張本人を引っ張っていき、「私は、あなたに依頼されたことをやっているのです。彼女がこの仕事をやりたいならば、どうぞ、彼女にやってもらってください!」と激怒したことがありました。

 イジメや嫌がらせというものは、黙っていると、エスカレートしていってしまうのです。

 それ以来、彼女は、一切、私に嫌がらせをすることはなくなりました。

 話は、それましたが、人生、何がきっかけで、思わぬ方向に転んでしまうのか、わからない・・と、リンダちゃんの事件を見て、つくづく思わされたのでした。










2019年11月11日月曜日

フランスの学校に制服はない




 Liberté, Egalité, Fraternité (自由、平等、友愛)は、フランス中、ほとんど、どこの学校にも、学校の正面玄関の上に掲げられているフランスの国家の標語のように用いられている言葉です。

 フランスの社会が実際に、自由、平等、友愛に溢れる社会だとは、到底、思えませんが、学校がこれをスローガンのように掲げているのは、日本の学校と比べてみれば、何となく、わからないでもありません。

 例えば、この中の「自由」について、私がフランスと日本の違いについて、思うのは、日本の学校の、制服や、服装や髪型などに関する規則です。

 フランスの学校には、公立、私立ともに、ほとんど制服というものがありません。よほど、突飛な格好をしない限り、服装に関して、とやかく言われることはありません。服装や、髪型などに関しては、ほぼ、自由です。

 それでも、むしろ、フランスの学生の服装は、かなり、質素で、地味です。

 私自身も、日本でも、制服のある学校に行ったことはないので、制服を着るという感覚が今ひとつ、わからないのですが、制服があることによって、さらに、その制服のスカートの丈がどうだとかいう制服に付属してくる規則が生まれるわけです。

 また、フランスでは、髪の毛にパーマをかけてはいけないとか、染めてはいけないとかいうことも、ありませんし、(だいたいにおいて、色々な人種が混ざっているため、元々の髪の色や毛質も様々で、それを規制するのは、困難ですし、たとえ、できたとしてもそれをフランスの学校がやるとは思えません。)髪型がどうのこうのと言われることもありません。

 日本は、制服に憧れて、あの学校へ行きたいということもあるのだそうですが、制服を着ることによって、「みんな一緒、みんな同じが安心・・」という観念が、知らず知らずのうちに植えつけられているのではないかと思うのです。

 最近、ネット上で見る、就活ファッションをめぐる就活産業への批判も、集団から浮きたくない就活生の気持ちを巧みに煽った現象ではないかと思っています。

 就職という人生の岐路を何とか無難に乗り越えようと必死になっている学生の弱みに漬け込んで、スーツからバッグ、靴、髪型、メイク、ストッキングの色に到るまで、マニュアルのようなものを作り上げ、それに、就活生がまるまる乗っかってしまっているのです。

 確かに人に好印象を与えるヒントのようなものは、あるでしょうが、これほど見事に没個性、まるで、制服か校則のようにきっちりとみんなが同じ格好をして就活に臨む様子というのは、日本という国の異様な部分が浮き彫りになっているような気がしてなりません。

 実際には、日本の採用者側にとっては、必ずしも、就活ファッションが良いとは、思っていないのではないでしょう。

 もし、フランスで、就活ファッションなる情報が流れたとしても、それが広まることはないでしょうし、それは、ナンセンスで、それに煽られて、みんながあたかも制服のように同じ格好をして、就活に臨むなどという現象は、絶対に起こらないでしょう。

 必ずしも、制服ばかりが悪いとは、思いませんが、みんなが同じであることを良しとする概念に、子供の頃から着続けてきた制服というものも、少なからず影響しているのではないかと思うのです。



 









2019年11月10日日曜日

パリで犯罪から身を守る方法は、まず、犯罪の手口を知ること




 今年に入って、パリ市内の犯罪発生件数は、35000件を超え、昨年と比べて9パーセント以上、うち、暴力を伴う犯罪件数が増加傾向にあると発表されています。

 ことに、スリや置き引きだけでなく、盗難を目的とした暴力被害の増加は、深刻な状況にあります。スリや置き引きならば、ある程度、注意すれば、避けることは、可能ですが、身体的な危害を加えられての盗難は、狙われたら最後、避けることは、難しいでしょう。

 残念なことに、時には、昼日中、凱旋門の辺りにさえ、ナイフをチラつかせて、金品を奪おうとする一団なども現れたりします。

 特に、日本人観光客は、他国の観光客と比べて、高額の現金を持っている確率が高く、確実に狙われています。

 これから、クリスマス、年末年始に向けては、お金が欲しい人が多く、例年、犯罪件数も上がり、日本からの荷物が無事に届かなかったりすることが多いので、私自身は、12月の荷物の配送は、時期をずらすようにお願いしています。

 それでも、ある程度、犯罪には、こんな手口が、あったということを知っていれば、多少は、注意して、回避することができると思うので、ここでは、今まで私が耳にした犯罪を書いておこうと思います。

 メトロでのスリ被害で言えば、よく聞くのが1号線で、これは、パリの中の観光地をいくつも通っている線でもあり、日本語のアナウンスも入るくらいですから、きっと日本人観光客も多いのでしょう。

 一つ一つの駅の間隔が短いため、犯人が逃げやすいということもあるのだと思います。そして、メトロに乗る時には、ドア近辺には、できるだけ立たないことです。

 犯人が降り際にひったくって、逃げていくからです。

 また、最新型の携帯電話などは、狙われやすいので、注意が必要です。

 オペラ座界隈は、日本食のレストランや食料品などのお店も多く、日本人の集まることでも有名なので、常時、狙っているジプシーの子供達がいます。何度、捕まっても、子供なので、フランスでは、警察もすぐに逃してしまうのです。

 また、オペラ座前の広場には、アンケートを装って近づいてくるスリの一団もいます。親切にアンケートに答えていたりすると、仲間の一味がアンケートに気を取られている間にスリを働いていきます。

 また、スリがいるのは、路上だけではありません。デパートの中や、お店の中、レストラン、食料品店などにも、観光客になりすましたスリや、きちんとした身なりのビジネスマンを装った置き引きなどもいます。

 一時、日本人狙いなのか、日本食レストランや、日本食料品を扱うお店にスリや置き引きが多発して、必ずお店には、注意喚起の張り紙が貼られていました。

 よく、レストランなどでは、バッグを椅子の背にかけたりしますが、絶対にバッグは、そのように置いてはいけません。相手は、プロなのです。座って、おしゃべりをしながら食事をしている間にも、一瞬の隙を狙って、奪っていきます。

 駅では、切符を買うために並んでいたりすると、自分のカードが通らないから、その分の現金を渡すから、カードを使わせて欲しいと寄ってくる人がいます。その分の現金は渡すのですが、その間に、カードナンバーを控えられ、後日に多額の買い物で引き落とされていたりすることがあります。

 観光客の人は、あまり、パリで自分で運転をする方はいらっしゃらないと思いますが、パリで、自分の車を運転していて、運転中、うっかり車をロックし忘れて、車が停車した途端に車に強引に押入られたケースもあります。

 オートバイでのひったくりもあり、たすき掛けにしていたショルダーの紐が切れずにそのまま引きずられたり、高額の現金を持っていることを狙われたパリのガイドさんがホテルの前で早朝に強盗に殴り倒されて、死亡したという悲惨な事件も起きています。

 ここで、そのホテルの名前(パリの北部にあるホテルです)をあげることは、避けますが、驚くことに、日本の旅行会社は、その事故の起こったホテルの提供をやめていませんので、パリに来られる際は、ホテルの場所にも十分に注意された方が良いと思います。

 そういう私も、一度、知人のお葬式の帰りにお葬式でもらった花束を持って、ちょっと知人の亡くなったことに呆然としながら、歩いていたところ、(観光地でもなんでもなく、日頃、通勤で通っているオフィスビルが広場を挟んで立っているごくごく安全な場所です)、普通に黒人の男性が歩いてきて、いきなり、していたネックレスを引きちぎられたことがありました。

 お葬式だったので、そんなに派手な身なりをしていたわけではないのですが、どこか、我を失っているような私の様子が犯人には、目についたのでしょう。

 恐怖で、声も出ずに、一瞬、何が起きたのかもわからなかったくらいです。ハッと我に帰って、直後に「ぎゃ〜!助けて〜!」と叫んだのですが、時すでに遅しで、走って逃げていく犯人を追ってくれる人は誰もいませんでした。

 残念なことですが、パリの街を歩くときは、絶対に華美な服装は、避け、ブランド物などは、間違っても持ち歩かないことです。そして、ごく身近に知らない人が近寄ってくる場合は、避け、ある程度、他人とは、距離をとることが賢明だと思います。

 忘れ物をしても、かなりの確率で出てくる日本と違って、パリは、警察に被害届を出しても、(保険等の手続きに必要だと思いますが)戻ってくることは、まず、ありえません。

 何より、楽しいはずの旅行が気分、台無しになってしまいます。

 パリを旅行される方は、十分に気を引き締めて、歩かれることをおすすめいたします。

 


2019年11月9日土曜日

ユーミンは、お掃除の曲




 海外生活をしていると、その土地に馴染んで行こうとする、また、馴染まなくては暮らしづらい部分が多々ありながら、どこか、やはり、自然と郷愁にのような感覚を求めることが、生活の節々には、出てきます。

 日本のドラマなどのテレビ番組や、日本で好きだったミュージシャンの曲などは、日常で、どこかホッとさせてくれる力を持っています。

 ですから、私は、休みの日などは、昔、私が好きだった日本の音楽をかけながら、家事をしていたりしたものです。

 ですから、娘も、小さい頃から、私が家事をやりながら聴いていたユーミンなどの曲をいつの間にか、覚えてしまっていて、彼女なりの思い出を持っています。

 今は、大きくなってしまった彼女は、ある時、「ユーミンを聴くと、お掃除をしている場面が浮かぶんだよね・・・」と言うのを聞いて、なんか、笑ってしまいました。

 音楽というものは、それをよく、聴いていた背景を、その曲と共に、ぴっくりするほど鮮明に思い出したりすることがありますが、娘にとっては、ユーミンがお掃除の曲となっていたとは・・・。

 娘の年代で、しかも、フランスで、フランス人のように生活している娘がユーミンを知っているということだけでも、なんだか、ちょっと新鮮な感じがするのに、それが、お掃除を連想させる曲となっていることに、なんだか、娘にとっては、生活感溢れる曲となっていることに、なんだか、嬉しいような、照れくさいような、微妙な気分になった私なのであります。










2019年11月8日金曜日

フランスのシェアハウスで二年目を迎えた娘は、今年も寮長を続けているのか?




 昨年から、シェアハウスで一人暮らしを始めた娘。

 去年は、家を離れての初めての一人暮らしで、当初は、多少なりとも心配したものです。しかも、周りは、全てフランス人の、彼女より年上のかなり個性的な?男性ばかりで、うまく、みんなと仲良く暮らしていけるのだろうか? 

 家では、洋服は脱ぎっぱなし、何かを出したら、出しっ放し、お料理もこれから仕込もうと思っていたところに、突然のように学校の通学の問題から、一人暮らしをすることになってしまって、大丈夫だろうか?と、多少なりとも心配していたのです。

 ところが、同居人たちは、彼女よりも年長者ばかりにも関わらず、学生なはずなのに、学校に行っていない、仕事をしているはずなのに、すぐに辞めてしまう、四六時中、家にいて、暇なはずなのに、忙しいと言って、ゴミをちゃんと捨てない、大きな音で音楽を聴く、食器、調理器具を洗わない、片付けない、一応、共同スペースの掃除は交代で週末にやることになっているのにやらない・・などなど、だらしない人たちばかりで、そんな中に入ると、俄然、娘は、しっかりとし始めて、彼らにゲキを飛ばし、諸々の問題を取り仕切り、いつの間にか寮長のような存在になっていたのです。

 今年は、大家さんの方針で、シェアハウス内は、学生のみということになり、彼女以外の昨年の同居人は、全員退去となりました。

 なんでも、昨年の同居人の中に、マリファナを吸っている人が見つかったのだそうです。

 シェアハウスを運営している大家さんにとったら、シェアハウス内でマリファナ問題勃発・・となったら、これは、放置しておくわけにはいきません。

 彼女がスタージュと夏休みのためにパリに帰ってきていた間に、代わりの同居人の部屋は、全て埋まり、今年のメンバーは、彼女と同じか、少し年下の学生、スタージュ中で、学生と社会人の半々の生活をしている、比較的、おとなしめの人だけになっていました。

 彼女の学校が始まるのが、他の学生よりも少し遅かったため、彼女がシェアハウスに戻った時には、もう、すでに、他の全員が新しい生活を始めていました。

 今年の同居人の様子を聞くと、大家さんが、昨年のメンバーに懲りて、慎重に人選をしたのか、みんな、全然、まともな人たちで、みんなに去年の話をしたら、「そんな中で、よく我慢してきたね〜!」などと言われたとのことで、「もう、寮長は、引退だ〜!」と話していました。

 ところが、新学期も始まって、約二ヶ月経って、自分の部屋で勉強していた彼女は、隣のキッチンでの、同居人たちの話が漏れ聞こえてくる話を聞いてしまったのです。

 「ちゃんと、ゴミの分別やらないと彼女に怒られるよ!」とか、何か、同居人同士で、少し、揉めている様子の時は、「じゃあ、彼女にどうしたらいいか、聞いてみたらいいよ!・・」と話しているのを・・。

 やはり、娘は、今年も寮長を継続している模様です。

 しかし、シェアハウスで一人暮らしをしたことによって、彼女に植えつけられた寮長気質に母としては、複雑な思いなのであります。









 

2019年11月7日木曜日

パリでも日本語を堂々と話す叔母 そして、それが通じる不思議






 今からだいぶ前のことになりますが、日本から、叔母二人がパリに来てくれたことがありました。

 二人とも、フランス語は、できないので、到着当日に、空港まで迎えに行くことができなかった私は、彼女たちに不自由な思いをさせてはいけないと、いつもお願いしている運転手さんに空港送迎をお願いしました。

 彼女たちは、一週間ほどの滞在でしたが、私は、その間、数日しかお休みが取れずに、ちょうど、学校がバカンスでお休みだった、当時、10歳だった娘が、叔母たちがパリを観光して歩くのに付いて回って、行く先々で、買い物をしたり、食事をしたりするのに、通訳のようなことをしてもらおうと思っていました。

 山ほどの日本食を持ってきてくれた叔母たちも、せっかくパリに来たのだから・・と、自ら、パリのスーパーマーケットなどで買い物をしてきて、夜は、食事を作ってくれて、家でワインを飲みながら、一緒に食事をし、楽しい時を過ごしました。

 二人の叔母のうち、一人は、母の妹で、もう一人は、母の兄嫁さんに当たる人で年齢も当時、70代半ばくらいだったでしょうか? 

 この年長の方の叔母の堂々とした振る舞いが、まさに、圧巻だったのです。

 念の為、彼女の名誉のために、先に申し上げておきますが、彼女は、お茶の水女子大を優秀な成績で卒業した才女で、その後、保育士として数年働いたのち、夫と共に、都内に保育園を立ち上げて、今では、複数の保育園を持ち、ずっと幼児教育に携わっているスゴい人なのです。

 彼女は、とにかく、純粋で、何事にも真面目で前向きで、一生懸命で、それでいて、とても明るく、大らかで親しみやすい人柄なのですが、いかんせん、その真面目さと自分の世界が、かなり、ストレートで、ちょっと浮世離れした感じのところもあるのです。

 それが、パリに来て、全開になった感がありました。

 私が仕事を終えて、家に帰って、「今日は、どこへ行ってきたの?」と娘に聞くと、「オー・シャンゼリゼを歌いながら、シャンゼリゼを散歩してきた。」これには、娘も苦笑い。彼女は、コーラスをやっていて、とても、良く通る声なのです。

 また、私がお休みの日に、ショッピングに付き合った時も、彼女は、堂々と店員さんにも日本語で話しかけ、帰りの混み合ったバスで、バスを降りる前にドアが閉まりそうになった時も、バスの後方から、大きな声で、運転手さんに向かって、「すみませ〜ん!降りま〜す!」と、良く通る声で叫び、ドアを開けてもらっていました。

 普段、パリでは、ことごとく、駅などでも、「ここは、フランスなのだから、フランス語で・・」などと言われている観光客を横目で見ている私は、そんなフランス人をさえ、圧倒して、日本語を堂々と使う叔母に、あっぱれ!と思わされたものでした。

 彼女の口から出るのは、英語でさえなく、日本語なのです。

 きっと、彼女の純粋さが、パリの人たちをさえも圧倒してしまうのでしょう。途中で、フランス語で割って入った私たちにも、彼女のペースにすっかり巻き込まれた店員さんたちは、珍しく感じよく、終始、笑いに包まれ、彼女のオーラの凄さに改めて、感心したものです。

 それでも、周りに全く不快感を与えないところが彼女のスゴいところなのです。
彼女の嫌味のなさ、伝わるかな〜?

 私は、後にも先にも、あんなに堂々とフランス人に、パリで、ためらいなく日本語で話しかける人を見たことは、ありません。

 彼女に国境は、無いようです。
















2019年11月6日水曜日

画家を志してパリへ来た日本人




 芸術の都と言われるパリならではなのか、パリには、日本から、絵を志して、移住している人が少なからずいます。

 私も少しですが、パリで絵を描いている日本人を知っています。

 画家を志してフランスに来ても、それを生業に出来る人は、ほんの一握りもいないでしょう。その多くは、一時の留学に留めるか、しばらくいても、結局は、諦めて、日本へ帰るか、そのままパリに留まるために、何か他の職業に付いて、絵を描き続けています。

 今は、長期滞在するビザを取ることは、そんなに簡単ではないようですが、一時期は、フランス政府の政策で、移民を積極的に受け入れるために、ビザを取りやすかった時期や、また、不法労働者から、税金を徴収するために、一定期間中に、自己申告して、雇い主との契約ができれば、ビザが取得できるという期間があったようです。

 実際に、この期間中に、移住、もしくは、長期滞在に切り替えている人は、かなり多く、それまで、学生ビザなどで、滞在していた人なども、この時期から、パリに長期で滞在、居住することになった人も多いのです。

 その中には、画家を志していた人も少なからずいたのです。

 その世代の人たちの中で、ある絵描きさんの御一家がいます。

 ご主人の方が絵を描き続けていらっしゃる方で、最初は、ご夫婦二人で、パリにやって来たようです。ご主人の方がかなりの資産家なのか? ご両親にブローニュの方に家を買ってもらって、当初は、生活費も送ってもらっていたようです。

 しかし、数年して、子供ができて、生活も拡大していくと、生活費もかかるようになり、かと言って、絵では、お金にはならず、でも、絵は諦められず、そのうちに、奥さんの方が働き始めました。

 外野の私が言うことではありませんが、子供ができた時点で、ご主人は、少なくとも、生活の糧を得られる道を探すべきだったと思うのです。

 あくまで絵を追求するというような、難しい芸術のことは、私には、わかりませんが、人として、子供に対しては、責任があると思うのです。

 こもりっきりで、売れない絵を描き続ける父親のせいかは、わかりませんが、上の子供は、優秀で、医学部に進んだものの、周囲の人と関わることが苦手で、医学の研究の道に進みましたが、下の子供は、自閉症だとのこと。

 唯一、社会に出て働いている奥さんの方も、あまり、そのことを公にしたくないのか、本来なら、自閉症のようなハンディキャップのある子供なら、フランスの場合は、色々な社会的な保障を受けられるところを、それも受けずに、子供は、大きくなりました。

 ご本人たちが納得して、こういう生活をしているのでしょうから、外野があれこれ言うことではありませんが、この御一家を見るにつけ、芸術で身を建てるということの難しさを考えてしまうのです。

 芸術を志すということは、結局は、日本にいても同じことなのかもしれませんが、言葉の問題や、何か少しでもお金になるような仕事を探すにしても、簡単にままならないのが海外生活です。

 現実の日常生活と芸術の兼ね合い。
海外だと、余計に、厳しそうだと思うのは、私だけでしょうか?

 

 

 









2019年11月5日火曜日

満員電車とフランス人のパーソナルスペース




 東京のラッシュアワーの満員電車は、おそらく、体験した者でなければ、わからないであろう世界的にも驚異的な空間のひとつだと思います。

 東京ほど、人の多い街は、なかなかありません。
 パリなど、都会とはいえ、小さい街で、日常的な人の混雑といっても、東京の比ではありません。

 私もかつては、東京のラッシュアワーの電車に乗って通勤していましたから、逆に、こちらに来て、メトロが混んでいると、東京の電車の混み方から考えると、混雑といっても、まだまだ、乗れる電車を見送って、次の電車を待つ人々にびっくりしたものです。

 でも、よく考えてみれば、少し待てば、次にやってくる電車に乗れるものを無理やり乗り込もうとするのもおかしな話ですが、東京の場合は、一本、見送って、次に乗ったところで、次の電車もギューギュー詰めな訳で、それはそれで、致し方ないのかもしれません。

 私が東京で乗っていた地下鉄も、駅員さんが乗り込もうとする乗客の背中を押し込んで、乗せていましたから、ヨーロッパの人たちから見れば、クレイジーだと思うに違いありません。

 パリでは、渋滞などで、バスがなかなか来なかったりすると、当然、バスを待つ人は、膨れ上がり、やっと来たバスに、たくさんの人が乗り込もうとすることがありますが、先に乗った人が、もっと奥に詰めれば、まだまだ人が乗れそうな場合でも、すでにバスに乗っている人々は、さほど、人との距離を詰めようとはしません。

 最初は、なんて、利己的な人たちなんだ!と思いましたが、これは、おそらく、フランス人の他人との距離の取り方、パーソナルスペースの習慣の違いなのではないかと思うようになりました。

 海外では、日本と比べると、スキンシップも多くて、一見、人との距離は、近そうに感じるかもしれませんが、実のところ、他人との距離は、常に彼らなりの一定の距離を取っているのです。

 しかし、たまに、ストライキなどで、間引き運転・・などとなったパリ近郊を走る電車などの混雑の折りには、さすがのフランス人も混んだ電車に、必死で乗り込もうとするのですが、混雑した満員電車に乗り馴れてない彼らの乗った満員電車は、恐ろしい状態になるのです。

 東京の満員電車は、日々の鍛錬からか?みんな、それなりのマナーがあり、全員が同じ方向を向いて、あれだけの数の人が乗っているにも関わらず、異様に静かで、大人しく乗っていますが、日頃、満員電車は、避けて次の電車を待っている彼らは、混雑にも慣れておらず、混んだ電車に乗っている人々も銘々があっちを向いたり、こっちを向いたり、非効率な乗り方で、エラい騒ぎになるのです。

 一概に、どちらが良いとも言えませんが、電車の乗り方ひとつを取ってみても、お国柄というのは、出るものだ・・とつくづく思います。

 もし、日本のような災害がフランスで起こったら・・と思うと、ちょっと、怖い・・とフランスの満員電車を見るたびに頭をかすめるのです。

 












2019年11月4日月曜日

海外に出ることで離れてしまった家族と友人





 海外で生活を始めた時には、残してきた日本の両親の将来とか、その後に起こってくる介護の問題、そして、仲の良い友人とも滅多に会えなくなることなどを、正直、私は、ほとんど考えていませんでした。

 その頃の自分のやりたかったことで、私の頭の中はいっぱいで、振り返れば、自分のことしか考えていなかったと思います。海外へと旅立っていく、そんな私を両親や友人たちは、どう思っていたのだろうか?と、 今になって、少し考えます。

 いずれは、両親も私自身も、歳をとっていくということを知ってはいましたが、何一つ具体的なことは、考えていませんでした。

 しかし、自分のしてきたことを無理矢理に肯定するわけではありませんが、あの頃には、いくら考えても、きっと答えは、得られなかったと思います。

 両親にしても、私自身にしても、人生には、思いもよらないことが起こり、病気になったり、誰かが亡くなったりすることは、思いどおりに予め予定できることではないからです。

 結局は、その時々で、できることをするしかないのです。

 私が海外で生活を始めて、約2年後に子供ができて、それから、さらに一年後に仕事を始めて、それからは、もう子育てと仕事であっという間に時は過ぎて行きました。

 その間に、子供を連れて、毎年のように帰国してはいましたが、そのうち、母が病気になったり、亡くなったり、父が弱っていって、介護の問題が勃発したり、その間、こちらでも、色々なことがあり、結局、今では、父も母も亡くなり、あっという間に20年以上経ってしまいました。

 遠くなってしまったのは、日本の家族だけでなく、日本にいる友人も同じです。

 もともと、そんなに友達の多いタイプではありませんでしたが、帰国時にも全ての友人に会えるわけでもなく、同窓会のようなものにも出席したことがありません。

 いつの間にか、疎遠になってしまった友人も少なくありません。そう考えると少し、残念な気もしますが、たとえ、日本にいても、時の流れとともにいつの間にか疎遠になってしまう友人というのも私の場合、ありそうです。

 その代わりと言っては何ですが、海外に出てからの友人というのも少しずつですが、できました。ロンドンにいた頃の友人、アフリカでできた友人、フランスでできた友人、職場、または、仕事関係で知り合いになった方々。

 こうなってくると、もはや、日本に残してきた友人というよりも、友人は、世界に散らばっているのが普通な感じになりました。

 結局、その時々の生活によって、付き合う人は変わっていきますが、国が変わってもなお、付き合いが続いている友人は、結局は、かれこれ、もう長くなるので、この長く続いているご縁にとても感謝しています。

 人生の中で、色々なことが起きるたびに、私の歴史を知ってくれている友人は、離れていても、私にとって、とても貴重な存在です。

 子供が生まれる前から知っている友人たちは、娘よりも付き合いが長く、私の人生のそれぞれのタイミングのなかで、同じ、確かな時間を共有し、私の人生のページに追随してくれている生き証人のようなもので、どこか安心感があります。

 今は、ラインやメールなどで、どこの国にいても繋がれますから、時々、思い出したようにお互いに連絡を取り合ったり、近況を報告しあったりできます。

 人生の中で、多くの人と知り合う中、付き合いが自然と継続している友人は、あまり多くは、ありませんが、私は、そんな友人関係にとても満足しています。

 




2019年11月3日日曜日

フランスには、日本のような贈答品の習慣はない




 思うに、日本ほど、年がら年中、贈り物をし合っている国も珍しいのではないかと思います。お中元、お歳暮、お年賀、入学祝い、結婚祝い、結婚式の引出物、お香典、お香典返し、お見舞い、快気祝い、御礼、手土産、そして、旅行に出れば、旅先からのお土産。

 確かに私自身も日本に帰るときは、必ずお土産を持って行っていますし、パリに旅行に来る日本人なども、家族や友人、職場へのバラマキ用のお土産まで、きっちり買って行く人が多いです。

 フランス人は、自分たちがバカンスに行ったからといって、取り立てて、お土産を広範囲の知人に渡って配り歩くようなことは、ありません。

 たまに、日本に行くと、年がら年中、何かを贈りあっている印象をあらためて感じます。以前、私も日本にいた頃には、そのサイクルの中にいたはずなのに、そんなことを感じるのは、フランスには、そのような習慣があまりないからなのです。

 一度、帰国時に親戚の新年会に急に参加することになった際、従姉妹の車に乗せて行ってもらった時に、「ちょっと途中で、お年賀を買うから、和菓子屋さんに寄らせてね。」と言われて、初めて、お年賀というものの、存在を思い出し、慌てて、私もそこで、親戚の家族分のお年賀を買ったことがありました。

 果たして、新年会では、それぞれの家庭がお年賀を贈り合い、それらの家庭の数のお年賀が戻ってくるのでした。

 まことに日本らしい光景を久しぶりに見た気がしました。

 何かのお礼を送ったりすると、お礼のお礼がまた、送られてきたりして、なんだか、これって、エンドレス??と思ってしまったりもします。

 そこへいくと、フランスというのは、シンプルで、形式張った贈り物をしあうということは、ありません。まあ、あるのは、家族や親しい間柄での、クリスマスプレゼントやくらいでしょうか?

 それでも、どこか、日本の習慣を引きずっている私は、ちょっとお世話をかけたり、子供が頻繁に遊びに行って、ご馳走にばかりなっていたりすると、お礼にちょっとしたものを差し上げたりしていました。

 「こんなこと、フランスでは、いちいちしないよ!」と娘に言われながらも、受け取る方は、決して嫌な気がするものではないらしく、あとで、お礼の電話をくれたり、「これは、日本の文化なのね〜。」と言ってくれたりします。

 この日本の贈り物というのは、確かに、外国から見たら、日本独特な習慣、文化の一つなのかもしれません。











2019年11月2日土曜日

フランスの冬の定番料理 ラクレット


フランスの家庭には、必ず一つはあるラクレットマシーン
手前は、ラクレットチーズと一緒に食べる生ハム、ハム類


 現在、バカンスで帰省中の娘の元に、シェアハウスの住人たちのグループラインからメッセージが入りました。

 「みんなが帰ってきたら、ラクレットやろう!」と。

 フランス料理があまり、好きではない娘には、あまり、嬉しくないお誘いのようですが、フランスでは、冬に、大勢で食べるお料理の定番がラクレットなのです。

 日本で言う「今日、うちで、みんなでお鍋やろうよ!」「寒くなってきたし、今晩は、お鍋にでもするか・・」というくらいの感じで、冬になると、頻繁に登場するのが、ラクレットで、だいたい、フランス人のどの家庭でも、電気のラクレットのマシーンを持っています。

 お料理自体は、いたってシンプルなもので、お料理とさえ、言えないような単純なものなのですが、チーズ好きのフランス人には、堪らない冬の定番メニューなのです。

 元来は、フランスのサヴォア地方の郷土料理ですが、現在は、フランス中、どこの家庭でも見られる家庭料理のようなものになっています。

 どこのスーパーに行っても、すでにスライスされたラクレット用のチーズが、売られていますし、それに、茹でたじゃがいも、ハムやサラミなどがあれば、もうそれで、準備OKの簡単定番メニューです。

 上の写真にあるような、ふちの付いた小さな鉄板のヘラのようなものに、銘々が、チーズをのせて溶かし、じゃがいもやハムにトロ〜っとかけて食べます。

 そして、茹でたじゃがいもが冷めないように、その上の鉄板の上にのせておくのです。

 一緒に、ピクルスなどをつまんだりしますが、メインは、あくまでチーズ(とじゃがいも)のとても単純なお料理です。

 とろ〜っと溶けたチーズが魅惑的な冬の暖かい食べ物です。

 白ワインと合わせて、頂きます。

 日本でも、一つの鍋を囲むなどと言いますが、フランスでは、家族や友達同士でラクレットを囲みます。

 ラクレットのマシーンさえあれば、誰にでも簡単にできる、安上がりな、フランス人の大好きな冬の定番メニューなのです。

 冬になると、フランス人のお友達から、だいたい、この "ラクレットやろうよ!” のお誘いがやってきます。

 バカンス期間中、家で和食ばかり食べていた娘も、シェアハウスに戻って、同居人たちとともにラクレットで、シェアハウスの生活を再開するようです。

 ちなみに我が家では、主人が興奮状態になって、異常に食べ過ぎるので、ラクレットは、あまり、やらないようにしています。(笑)


ラクレット

 

 
 

2019年11月1日金曜日

フランスの弁当(BENTO)ブーム


※写真は、パリ3区(マレ地区近辺)マルシェ・アンファンルージュ内にあるお弁当屋さんのお料理。
これは、イートインですが、テイクアウトの場合は、これをお弁当箱に詰めてくれます。
手前は、揚げ出し豆腐、奥は、アジフライ。トンカツや唐揚げなどが人気のようでした。



 娘は、小さい頃から、大の和食党、というよりも、フランス料理が苦手、白いご飯におかず・・という食事が好きで、たまに、学校で遠足のような機会があっても、サンドイッチではなく、「ご飯とおかずの入ったお弁当を持っていく!」と言い張り、周りの子供たちは、遠足、ピクニックといえば、サンドイッチだろうに、「自分だけ、違うのって嫌じゃないの?」と、私がいくら言っても、「他の人と違っても、全然、いいの!」と言い張って、私に、ご飯におかずの入ったお弁当を作らせるのでした。

 案の定、帰ってきた娘に聞くと、物珍しいお弁当には、みんなが寄ってきて、見せて見せて!と人だかりができたとのこと、それでも、全然平気な娘から、フランスは、みんなと同じじゃなくていいんだ・・(日本だったら、人と違うお弁当を持っていくことは、ためらいがちになりそうなところ・・)などと思わされたものでした。

 あれから、随分と時は、経ち、日本ブーム、日本食ブームからか、パリにも日本のお弁当屋さんが随分とできました。

 かつても、日本人街と言われるオペラ界隈ならば、お弁当屋さんもあったのですが、今では、その辺りでは、中華や韓国などのお弁当屋さんまでできました。(単なるテイクアウトではなく、それがお弁当の様相を呈していることからも、お弁当人気が伺えます。)

 そして、今では、日本人が特に多いと言われる地域ではない、サンジェルマンデプレやマレ地区などにもお弁当屋さんができ、お昼どきなどは、器用にお箸を使う地元のフランス人で賑わっています。

 トンカツや唐揚げなどの揚げ物が人気があるようでしたが、必ず、野菜をたっぷりと使った副菜が数種類、添えられており、健康にも気を配られているメニューが、フランス人にもウケているようです。

 お弁当の値段は、15ユーロ(1800円)前後と日本のお弁当と比べると高めですが、総じて外食の高いパリでは、昼食の値段としては、妥当な線だと思われます。

 また、お弁当箱も大変な人気で、パリのギャラリーラファイエットのメゾン館には、Mon Bento と銘打ったお弁当箱のコーナーが設けられ、フランス仕様に改良されたナイフ、スプーン、フォークなどがセットになったおしゃれでキレイなお弁当箱が、30ユーロ〜50ユーロ(3600円〜6000円くらい)のなかなかなお値段で売られています。

 それに目をつけた人がフランス人向けにネットでお弁当箱を販売し、大成功をおさめた人もいるくらいです。日本なら、100均でも買えるお弁当箱と比べたら、随分と高いですよね。

 ケチなフランス人がそれでも買うお弁当箱・・スゴいですね!

 ツイッターなどで、流れてくる日本人のお弁当は、栄養のバランスも配慮され、彩り豊かで、かなりのハイスペックですが、日頃、大したお料理をしないフランス人が、その高価なお弁当箱に何を詰めているのか、大変、興味深いところです。

 ちなみに、元同僚であったフランス人のお弁当は、ガサッとパスタが放り込まれているお弁当でした。

 お弁当は、日本の文化の一つだと思いますが、今や、BENTO(ベントー)は、スシやテンプラと同じように、フランス語に訳されることなく、そのまま、BENTOとして使われる言葉になり、親しまれるようになりました。

 日本のものがフランス人に広く受け入れられていることは、日本人として、ちょっぴり誇らしく、嬉しいことです。