2019年10月28日月曜日

フランス人の夫との離婚の危機




 思い出というものは、嫌なことは、どんどん忘れて、楽しかったことばかり、覚えている私ですが、そういえば、私も、もう、主人とは、別れて、日本に帰ろうと思ったことがありました。

 アフリカからフランスへ転勤になり、海外では、外交官生活を送っていた主人が、その外交官生活を終え、フランスの財務省に戻った頃のことでした。

 主人は、まだまだ、海外生活を続けるつもりで、頑張って、仕事をしていたのですが、突如、フランスに転勤ということになり、フランスに戻って、しばらくは、うつ病のようになってしまった頃のことです。

 あの頃は、すべてがうまく行かずに、アパートもなかなか見つからず、親戚の持っていたアパートに仮住まいをし、娘の出生証明書は、アフリカで、発行してもらったものの、出生証明書に不備があったり、国籍の再申請をしたり、私のビザの手続きなどなど、すんなり進まない手続きに、気を揉みながら、なすすべもなく、ひたすら、時間のかかる手続きを待ちながら、毎日を過ごしていました。

 娘は、生まれて3ヵ月でパリにやってきましたので、まだ、ほんの赤ちゃんでした。

 何と言っても、私が一番、困ったのは、主人の鬱状態と、情緒不安定な生活でした。

 転勤先の仕事にも、行ったり行かなかったり、二人でさんざん話し合っても、やはり、主人の状態は、なかなか、好転せず、気分が上向きの時は、良いのですが、鬱状態になると、急に怒り出したり、起きられなかったりという日が長く続いていました。

 私のビザが取れて、娘を預ける保育園が決まって、私が仕事を始めた頃も、まだ、主人は、朝、起きれず、後から行くと言っていたのに、私が娘を連れて仕事に出かけて帰ってくると、結局、今日も仕事に行っていなかった・・という日が頻繁にありました。

 そんな主人の姿を見るにつけ、最初は、怒っていた私もだんだんと言葉を無くし、不安にかられる日が続きましたが、何もわからずに成長していく娘を放っておくことはできず、娘に対してできることを黙々と積み重ねる日々でした。

 幸いにも、義兄夫婦である家族が比較的、近くに住んでいましたので、折りに触れ、相談に乗ってもらったり、気分転換させてもらっていましたので、結果的には、ずいぶんと救われました。

 それでも、生まれたばかりの娘を、父親のいない子供にはしたくないと思いながらも、小さい子供を抱えて、働きながら、外国の地で暮らしていくのに、この主人の状態で、乗り切っていけるだろうか? と、少なからず不安ばかりが募り、一度は、もう主人とは、別れて、日本へ帰ろうと思ったことがありました。

 日本の両親も心配して、電話やファックスを送ってくれたりして、「もう、ダメだと思うなら、子供を連れて、もう日本へ帰ってきた方がいい。ただ、色々な書類だけは、きっちりしてきなさい。」と言われていました。

 困難な状態が続いて、さんざん悩んで、私も心身ともに疲れきって、意を決して、いざ、私が、「もう日本へ帰ろうと思う。」と母に話した時、電話口の母から帰ってきた言葉は意外なものでした。

 「日本へ帰ってくるのは、構わないけれど、あなたたちは、家で一緒に暮らせると思ってもらっては困る。」

 その時の母の真意は、わかりませんが、「子連れで、出もどりだ・・」と考えていた私には、いざとなると、世間体を気にする母に、少なからず、ショックを受けました。

 義姉からも、「しばらくは、日本のママのところに帰って、休んだ方がいいかもしれない。」と言われていたので、母から言われた言葉をそのまま義姉に伝えると、首をひねりながらも、「それでは、こちらでなんとか頑張るしかないわね・・。」と言われて、私も、「私には、もう、帰るところは、ないのだ。」と腹をくくって、フランスに留まることにしたのです。

 それから、しばらくして、パリにアパートが見つかり、様々な手続きも済み、娘も幼稚園に通い始めた頃に、ようやく、主人の鬱状態も回復し始め、仕事にも毎日、行けるようになり、なんとか、日常生活も順当に運ぶようになりました。

 それでも、毎日の生活は、仕事と子育てで、いっぱいいっぱいで、ささやかな娘の成長を糧に暮らしているうちに、時は過ぎて、いつの間にか、主人と別れようと思っていたことなどは、忘れていました。

 あの時の母の言葉の真意は、問いただすのも怖くて、母には、一生聞けず仕舞いで、母は、亡くなってしまいましたが、母が本当に、世間体を気にしてそう言ったのか、それとも、私をもう一度、奮い立たせるためにそう言ったのかは、今でもわからないままなのです。
















2019年10月27日日曜日

サマータイムの終わり




 2019年のサマータイムは、3月31日 am 2:00から、10月27日 am 3:00 までです。

 サマータイムの始まりは、1時間早くなるので、前日の夜、寝る前に1時間時計を進め、サマータイムが終わるときには、1時間時計を戻して寝ます。

 最近は、デジタル化が進み、テレビやパソコンや携帯電話などは、自動的に時間が変わりますが、家の中の時計は、デジタルのものばかりではないので、家中の時計をなおして歩きます。

 いつも、日曜日にかかるので、日曜日の1日を時差の調整をしながら、過ごすことになります。うっかりすると、時間がずれたことを忘れていて、日曜日に出勤しなければならなかったときに、一時間、早く出勤してしまって、呆然としたこともありました。

 もともと、サマータイムは、夏の電気消費量を少なくすることや、早い時間に仕事を終わらせ、余暇を充実させるために始められた制度だそうですが、時間を変えたところで、フランス(ヨーロッパ)の夏と冬の極端な日照時間の違いは、変わるわけではなく、子供や家族を抱えて、日常のルーティーンを淡々とこなして生活している分には、1時間早くなろうと、余暇に時間を当てるなどということは、出来るはずもなく、たった1時間の違いであろうとも、軽い時差には違いなく、身体が1時間の時差に慣れ、しゃんとするには、約一週間かかります。

 旅行したわけでもないのに、同じ国にいて、時間がたとえ、1時間でも、ずれるという軽い時差というのは、思いのほか、しんどいものなのです。

 それでも、夏から冬になるときには、1時間遅くなるので、慣れやすいのですが、夏になるときは、1時間早起きになるので、とても辛いです。

 ただでさえ、フランスは、夏は、朝5時には、明るくなり、夜は21時半から22時くらいまで明るく、子供を寝かすために、窓のシャッターを下ろして寝かせます。

 逆に、冬には、日が出るのは、8時半過ぎで、16時半には、もう暗くなってしまいます。ですから、まだ、暗いうちに起きて、子供を学校に送っていくのもまだ暗いうちで、帰ってくる時には、もう真っ暗になっています。

 夏は、気分も明るくなり、冬は、朝、暗いうちに起きて、仕事が終わるともう真っ暗・・という生活は、何だか、虚無感に襲われます。

 いつか、日本から、花火を持ってきたのですが、夏は、いつまでも暗くならず、冬の寒い時期にする気分でもなく、結局、やれずじまいになってしまっています。

 しかし、サマータイムで1時間ずらしたところで、この日照時間は、変わらないので、私個人的には、何のメリットも感じられないどころか、年に2回の軽い時差ボケ状態は、身体的に苦痛でしかありません。

 冬時刻になれば、日本との時差も7時間から8時間になり、日本と関わりがある仕事をしている人には、やはり、それなりの調整が必要になります。

 なんなら、ずっとサマータイムのままにしておいてもらえれば、少しでも日本との時差が少ないので、いいのになぁと思ったりもします。

 いくら、デジタル化が進もうと、人間の身体は、自動的には、簡単にリズムを変えられないので、もう、いい加減、やめて欲しいです。

 

































2019年10月26日土曜日

海外生活は、お金がかかる




 海外生活というと、優雅な生活をイメージされる方も多いかもしれませんが、実際は、全然、そんなことはありません。

 海外で生活していると、何かとお金がかかります。
私の薄給は、ほぼほぼ、日本への里帰りと、娘のために消えていました。

 日本でも、子供の教育費には、とても、お金がかかるのだと思いますが、日本に住んでいれば、ないであろう、学校や習い事などの教育費以外の出費は、子供の保育園の保育時間外のベビーシッターのお金と、長いバカンスの間を有効に使わせるための学校以外の時間を過ごさせるためのお金です。

 日本であれば、ちょっと、母に預かってもらって・・などということもできたと思うのですが、こちらには、当てにできる存在はなく、誰かにお金を払って、頼むしかありません。

 なにせ、フランスの学校は、バカンス期間が長いので、この長い期間をいかに有効に使うか、私自身が取れるバカンスの期間は限られていますから、それ以外の期間をなるべくバカンス期間だからこそできることを経験させようと思っていました。

 幸いにも主人の勤め先の運営する子供キャンプのようなものがあり、普通よりは、安い金額で、スキーやサーフィン、乗馬、ダイビングなどなど、あらゆるスポーツを体験させてもらえたので、私がお休みを取れない期間は、そのキャンプに参加させていました。

 黙々と仕事に行く私とは裏腹に、彼女は、そのキャンプに参加して、色々な場所を旅し、あらゆるスポーツをして、長いバカンスを過ごしていました。

 私は、娘に物を買い与えることよりも、何かを体験させることにお金を費やしてきました。
 
 あとは、何といっても、里帰り、つまり、日本へ行くのにお金がかかるのです。

 せっかく、行くのならば、少しでも、娘のバカンスが長い夏の期間、しかも、小学校の頃は、できたら、日本の小学校にも体験入学をさせたいと思っていたので、こちらの学校がバカンスに入って、まだ、日本の学校は夏休みに入る前の期間だったので、だいたい、日本に行くのは、夏でした。

 日本行きのチケットは、夏場は最も高く、安くても一人1200ユーロ、(15万円くらい)、(限られた私の休みを有効に使うために直行便を選んでいました。日本は遠いのです。)その他、日本で、行く先々(親戚や友人など)で、必ず、頂き物をすることを考えると、手ぶらで行くというわけにもいかず、お土産代も結構、かさみます。

 だいたい、娘と二人で、日本に行けば、一回、少なくとも50万〜60万、三人で行けば、100万くらいは、最低でもかかります。

 両親も年に一回の私たちの帰郷をとても楽しみにしてくれていましたし、私たちも家族と触れ合える短い期間でしたので、その時間を何よりも大切に思っていました。

 両親の晩年などは、特に、生きている間に、あと何回、会えるのだろうか?と、いつも思っていました。

 また、母が入院したとか、父の具合が悪いとかいうことが起こると、できる限りは、日本へ行っていましたので、1年に2回〜3回、となった年もありました。

 日本へ行かずにヨーロッパの中を旅行するならば、ずいぶん、色々なところへも行けただろうとも思いましたが、その時にしかできないこともあるのです。

 両親の介護の問題になった時などは、本当に心が痛みましたが、こちらに生活に基盤を置いてしまうと、お金の問題だけではなく、そうそう簡単に行くこともできません。

 親不孝と思いながらも、その時にできることをできる限りやっていくしかなく、状況は、いざとなれば、待ったなしの状況になるので、その時々でも、あまり、選択肢は、ありませんでした。

 そんなこんなで、海外生活をしている我が家は、常に自転車操業のような状態でした。

 しかし、私は、その時々にしてきたことに後悔はありません。

 

 

 











2019年10月25日金曜日

フランス人と車




 フランス人の車の運転の荒さは、有名です。

 特に、信号なしに複数の方角から、車が合流する地点などは、事故なしに、割り込んで車を進めていくところなどは、フランス人の性格の悪さが出るな・・と思われるほど、強引に前へ前へ出ていかなければ、前に進めません。

 中でも、パリの凱旋門の周りの車線なし、信号なしの道路から、放射状に伸びている12本の通りと繋がる通りから、入ったり出たりする車を縫って運転するのは、初めて見た時には、一生、ぐるぐると凱旋門の周りを走り続けるのではないかと思ったほどです。

 また、パリの路上の駐車スペースに、時には、バンパーで、前の車と後ろの車をぶつけながらでも、器用に?車を停める光景は、まるで、バンパーは、そのために存在するものとでも言いたげに見えます。(確かに、そう思っている人は、いるはず・・。)

 だからだとばかりも言えませんが、フランス人の多くは、中古車をよく利用します。

 この辺にもフランス人の経済観念、締り屋具合がよく現れています。車は、ある程度、走行距離を重ねたものの方が車の調子がいい・・などということをとうとうと語り出したりします。

 しかし、この点においては、パリでは、最近は、大気汚染対策のために、数年以内の新車でなくてはならない、さもなくば、毎年の車検などの厳しい規制が敷かれています。

 また、マニュアル車を好むのも、フランス人の車好きの特徴です。

 そして、愛国心旺盛なフランス人は、ルノー、シトロエン、プジョーなどのフランスの車を好みます。また、パリ市内は特に、駐車スペースの問題もあり、小型車が多いのにも驚かされます。

 パリ市内ならば、バスやメトロなどの交通機関が張り巡らされているので、(故障やストライキは多いですが・・)本当は、車など必要ないのですが、何よりもバカンスを大切にする彼らには、たとえ、中古車であっても、車は、必需品なのです。

 まるで、引っ越しをするが如く、たくさんの荷物を車に詰め込んで、自転車まで屋根に積んで、長期のバカンス、または、週末にセカンドハウスに出かけたりするのです。

 また、パリという街は、実際は、小さい街で、パリを少しだけ外れるだけでも、たちまち田園風景が広がります。郊外に住む人にとっては、車は、買い物に行くのも、通勤するのにも必需品です。

 最近は、日本では、運転免許をとる若者が減ったという話を聞きますが、こちらの若者は、現在でも、運転免許を取る人は多く、18歳になって、早々に、高校を卒業する前から、免許を取ってしまう人もいます。

 特に、地方の学生などは、質素な暮らしをしながらも、古い車を買って、乗っています。

 そもそも、昨年から、世間を騒がせている「黄色いベスト運動」のデモも、一年近く経つ今では、論点がずれてきている感もありますが、元はと言えば、燃料価格の上昇に端を発しているもので、フランス人と車の関係の深さが垣間見えます。

 

 

2019年10月24日木曜日

アフリカでの出産で・・・陣痛促進剤2日間の産みの苦しみ




 私は、初めてのお産を、言葉も満足に伝わらないアフリカでという、かなり冒険的な体験をしました。言葉が満足に伝わらないと言っても、フランス語は、通じるので、単に、当時の私のフランス語力が足りなかっただけの話です。

 初めての出産、しかも、海外、そして、よりによってアフリカ・・・。
なのに、私は、出産に関して、あまり不安を感じていませんでした。

 病院も一応、フランス人や現地の政府高官が使うという、総合病院で、先生もフランスとアフリカのハーフのとても聡明な感じのベテランのど〜んと構えている、頼もしい感じの女医さんでした。

 とはいえ、日本でのお産のように、母親学級のようなものがあるわけでもなく(日本でお産をしたことがないので、詳しくは、わかりませんが・・)、月一回の定期検診と、出産前に2回くらい、出産の時の呼吸法の練習に行ったくらいでしょうか??

 出産間近の検診の際に、「じゃあ、この日は、祝日だから、その翌日の○日、出産にしましょう!朝、8時までに病院に来て下さい!」「はっ・・ハイ・・。」

 こんな感じに誕生日が決まるものなのか?とも思いましたが逆らえず、そのままになりました。

 それでも、私には、一人だけ、強い味方の日本人の助産婦さんだった方が付いていてくれたのです。彼女は、ちょうど、現地に赴任している日本人の男性と結婚したばかりで、まるで、私の出産に合わせるがごとくのタイミングでアフリカにやってきてくれたのです。

 約束の出産の日に、私は、主人に付き添ってもらって、病院へ行きました。

 当時は、10キロ以上体重が増えるとお産がキツくなるというので、私は、何としても、10キロ以上は増やすまい!と心に決めて、体重の増加を10キロ以内に留めてきました。

 苦しい思いをするのは、嫌だったので・・。

 そのせいか、出産前のエコーの検査では、「少し小さめの赤ちゃんかもしれませんね。」などと、言われて、内心、「よしよし・・」と思っていたのです。

 当日、陣痛促進剤を打たれて、お腹が痛くて痛くて、ずっと、のたうちまわりました。しかし、よほど、私のお腹の居心地が良かったのか、赤ちゃんは、1日経っても、産まれてきませんでした。

 夕方になって、女医さんもあきらめて、「じゃあ、また、明日の朝から、頑張りましょう!」などと言われて、彼女は、さっさと帰って行きました。陣痛促進剤がおさまると、痛みはスーッとひきましたが、一日、のたうちまわった疲れから、その晩は、疲れ切って、グッスリ眠りました。

 翌朝、叩き起こされるようにして(アフリカの看護婦さんは、日本の看護婦さんのようにソフトに起こしてはくれない)目覚めて、また、陣痛促進剤。

 正直、昨日の苦しみを、またかと思うともう、本当に気が進まなかったのですが、このまま病院にいる訳にもいかなので、仕方ない・・という、感じでした。

 それから、また二日目の陣痛促進剤を打つと、再び、痛みが始まりました。ようやく赤ちゃんの頭が出かかって、それからがまた、長くかかり、本当に途中でやめられるものなら、やめたいと思いましたが、そうはいきません。

 しまいには、吸引機のようなものを赤ちゃんの頭に当てて出てきたので、しばらく、娘の頭はちょっと、とんがっていました。

 それでも、午後、2時過ぎにやっと、娘は、産まれてきました。

 産まれてきた赤ちゃんは、ちっとも小さめではなく、3400グラムもありました。
私の体重も10キロ以上は、増えていなかったし、お腹だって、そんなにすごく大きくなっていたわけでもなかったのに、一体、どうやって入っていたの? という感じでした。

 とにかく、小さく楽にお産をしようと思っていたのに、それどころか、二日間も苦しむ羽目になって、一緒に付いていてくれた日本人の助産婦さんに、「これ、難産って言うよね!」と聞いたら、「これは、難産ってほどでは、ないと思うよ。」とあっさり。

 一緒に立ち会ってくれると言っていた主人は、身体に合うサイズの手術着のようなものがなく、結局、入れず仕舞いで、待ちぼうけでした。

 それでも、結果的には、主人よりも、助産婦さんだった彼女が付いていてくれたことの方がどれだけありがたかったことか・・。

 赤ちゃんが出てきて、女医さんが、「おめでとう。女の子ですよ。」と私のお腹の上に赤ちゃんを乗せて見せてくれて、何だか、まだ、ベチョベチョに濡れていて、「えっ??なんだか、赤いサルみたい・・赤ちゃんて、ホントに赤いんだなぁ・・」などと思いながらも、なぜか、手と足の指がちゃんと5本ずつあるかを数えたことを覚えています。

 そして、その翌日、私は、早々に退院しました。

 2週間後の病院の赤ちゃん検診で、新生児黄疸の症状が出ていると、言われて、あわや、入院かという大騒ぎになりました。新生児黄疸は、日本人に特有のもので、ほとんど、黒人、たまに白人の赤ちゃんしか、扱ったことのない病院は、そのことを知らなかったのです。(私も知らなかったけど・・)

 そこは、頼りになる助産婦さんの彼女が、お医者様に、これは、日本人特有のものだと説明してくれて、事なきを得たのです。

 出産は、日本の方が・・などと言われたりもしたのですが、私は、最初から、主人と二人で子育てをしたかったので、頑として、アフリカでお産をすることにこだわったのです。

 結局は、私にとって、女神のような、日本人の助産婦さんの存在もあり、無事に娘は、産まれてきたのです。

 お産が終わってすぐに、女医さんに、どうだった?と言われて、私は、うんざりした顔をして、「もう、懲り懲りです。」と言いましたが、彼女は、笑って、「みんな、そう言いながら、また、戻ってくるわよ!」と余裕の笑顔で仰いました。

 しかし、今になって思うと、私もずいぶんと無茶なことをしたものです。


 














 

2019年10月23日水曜日

娘のアルバム




 娘が生まれて、私にとっては、初めての子供で、やたらと写真を撮っていました。

 娘は、平成生まれですが、それでも、彼女が生まれた頃は、まだ、カメラにフィルムを入れて、写真を撮ると、フィルムをカメラから出して、写真屋さんに現像をしてもらい、その中でよく撮れているものを選んで、焼き増ししてもらうという、今では、考えられないようなことをしていたわけです。

 母がよく、娘の洋服を送ってくれていたので、その洋服を着せては、写真を撮って、郵便で送るということをずっとしていたわけです。普段は、会えない孫の写真が郵便で届くのを日本の両親や家族は、とても楽しみにしていました。

 そんなわけで、娘の幼少期の写真は、やたらと沢山あり、アルバムも随分とたくさんあります。

 ところが、カメラはみるみる進化し、カードに保存して、メールなどで送れるようになって、それから間も無く、スマホで写真が撮れるようになり、そのまま、すぐにスマホで写真が送れるようになり、写真を現像するということもなくなり、アルバムは、スマホやパソコンの中に保存するものになりました。

 ですから、娘の現像した写真のアルバムもパッタリと途中で途切れて、それ以降の彼女の人生の大半の写真は、スマホのアルバムの中に保存されています。

 最近で、現像した写真といったら、証明写真以外は、成人式で着物を着せた時に写真屋さんで撮った写真くらいです。

 しかし、アルバムの写真というものは、実際、見やすくて、家族の歴史としては、やはり、積み重なっていく感じが良いなぁ・・と感じる私は、古い人間なのでしょうか?

 写真の現像とともに、消え去りつつあるのは、手紙です。

 スマホやメールにより、こと足りてしまうどころか、遠い国に住んでいても一瞬のうちにメッセージを送れてしまうのですから、今では、時差の方が気になるくらいです。

 その上、早くて便利で安上がりですから、どうしても、メールやメッセージになってしまいます。

 私は、海外で生活し始めてからは特に、随分と手紙を書いていましたが、今では、ペンを持って字を書くということ自体も稀になってしまいました。

 字は、書かなくなると、書けなくなり、特に一筆書きで書けるような、アルファベットの文字ばかり書いていると、漢字という画数の多い複雑な文字を書くのがとても億劫になってしまいます。

 ペンを取って、思い入れを込めて、手書きで手紙を書くというのは、時代遅れなのかもしれませんが、その人の字体などにも人柄や気持ちが表れていて、なかなか味のあるものです。

 最近、母の残してくれた手紙を見ていて、私の一時期の手帳に書いてある文字にあまりにそっくりで、これ、確かに私が書いたんだよな〜、まさか、母が書くわけないしな〜、と考え込んでしまったほどです。

 でも、親子で、いつしか同じような字を書いていたことにも何かホッコリとしたものを感じるのです。

 いつか、私が旅立った時、娘が私を思い出してくれるものは、全て、スマホの中というのは、なんだか寂しい気がするのです。

 











 

2019年10月22日火曜日

ストライキ大国・フランス




 言わずと知れたストライキ大国であるフランス。

 公共交通機関であるパリの営団地下鉄や国鉄、飛行機、タクシーなどから、学校まで、四六時中、どこかがストライキをやっているような印象があります。

 私もフランスに住んで長くなり、一通りのストライキによる被害を被ってきました。

 だいたい、フランスの交通機関などは、ストライキをやらずとも四六時中、テクニカルプロブレムだとか、危険物があるとか言って、ストップするし、TGV(フランス国鉄の新幹線)などでさえも、大幅に時間遅れがあたりまえで、電車が2〜3分遅れただけで、「深くお詫び致します。」などとアナウンスの入る日本から考えたら、通常の状態がもうすでに、ストライキのような状態なのです。

 これだから、パリに通勤するとなると、日本なら、一時間以内の通勤圏は、余裕で大丈夫なところですが、しょっちゅう起こるストライキのことを考えると、郊外線などは、1時間に1〜2本のみという間引き運転になるため、車内は大混乱、通常、一時間の通勤時間のところが、その倍近く、時間を見積もって出かけなければならないのです。

 ましてや満員電車に慣れていないフランス人のすし詰め状態は、恐ろしいものです。

 それでも、パリは、家賃が高く、郊外に住んでいるフランス人はたくさんいるのです。

 私もパリに引っ越してくる前までは、郊外線を使って通勤しており、一ヶ月近く、ストライキが続いた時には、本当にヘトヘトになりました。

 SNCF(フランス国鉄)やRATP(パリ営団地下鉄)の職員よりも、ずっと悪い条件で働いている人たちが苦しめられて、どうなっているの? と思います。
 
 周りの乗客も長く続くストライキに積み重なる疲労と怒りでストレスが溜まりきっていました。

 そのストライキが終わって、すぐに、涼しい顔をして、検札にやってきた国鉄の職員は、乗客に「お前ら、さんざんストライキをやっておいて、検札とは、何事だ!!」と周りを囲まれて袋叩きにあい(手を出されていたわけではありませんが)、次の駅でトボトボと降りていったのを目撃したこともありました。

 また、娘が幼稚園(公立)の頃に、幼稚園が一ヶ月近く、ストライキで閉まり、子供を預けるのに右往左往したこともあります。

 そのおかげで、小学校からは、絶対にストライキをやらない私立の学校に入れました。

 日本にエアフランスで行った際、ストライキの予定の日にちをずらして、チケットを取ったのに、数日前のストライキの煽りを受けて、取っていたはずの直行便が変更になり、経由便になってしまったこともあります。

 また、日本から帰ってきた際に、空港からの交通機関は、全てストップ、タクシーですら、ストライキをやっていた・・ということもありました。

 どうにもならなくて、知り合いの運転手さんに電話をして、急遽、奥さんの車で迎えに来てもらったこともありました。

 もし、個人でフランスに旅行に来ている人だったら、そんな時はどうするのでしょうか? 考えただけでも恐ろしいことです。

 本当に、ありとあらゆることを予測して、対応できなければ、フランスで生活するのは、大変です。

 それでも、私がフランスに来たばかりの頃に、主人の友人に会った時、フランスの印象は? と聞かれて、「ストライキ!」と言った私の答えに、彼は、大変、満足そうに得意げな様子だったことは、今でも、忘れられません。

 その主人の友人だって、少なからず、ストライキの被害を被っているはずなのに、そうして、あくまで「主張」することを、どこか、誇りにしているフランス人なのです。