2020年2月24日月曜日

休日(祝日)の日本の風景




 日本滞在もあと、数日に迫った日に、叔父と二人で、お墓参りに行ってきました。その日は、日曜日で、日本は、祝日でもあり、車から眺める景色に、日の丸の旗がなびいていることに、改めて、どこか、懐かしいような気持ちになりました。

 日々、見かける風景ではないにしろ、かつて、見慣れていた風景の中にところどころ、変化が見られる街中に、日の丸の旗が加わるだけで、どこか、違う趣を感じるあたり、私も日本人だな・・と思うのです。

 コロナウィルス騒ぎで、渋谷などの雑踏は、どこか、人が少ない印象でしたが、都内にある祖父母が眠るお寺は、まずまずの人出でした。

 日曜、祝日であるにも関わらず、お店が開いていることにも、日本では、当然のことながら、どこか、休日ではないような錯覚に陥ることも、自分の中では、どこか、収まりの悪い妙な感覚です。

 しかし、もし、日本がフランスのように日曜・祝日にお店が閉まっていたら、それはそれで、想像すらつかず、日本ではないような気がすることでしょう。

 日本での平日と休日の店舗の違いといえば、家族連れ、子供や男性が平日よりも多いところで、夕方に立ち寄った薬局?で、お店の入り口に置いてあったガチャガチャをどうしてもやりたいと駄々をこねて、泣き叫んでいる子供がいて、これも、日本ならではの・・というか、フランスでは、あまり見ない光景だと思いました。

 かなりの勢いで泣きながら、「どうしても、これ、今やりたい!!」と叫び続ける男の子に困り果てたお父さんが、子供を抱いて、駐車場へ連れ出していましたが、私が買い物を終えて、駐車場へ戻ると、男の子は、まだ、泣き叫び続けていました。

 こうなったら、親と子供の根気比べなのでしょうが、それにしても、このエネルギーと根気は、凄いものだと思ったのです。このガチャガチャに対して、これほどの情熱とエネルギーを注ぎ続けられることにも、逆に、なんだか、この男の子、凄いエネルギーを持っているんだな・・と妙に感心するとともに、このお父さんが子供に対して毅然とした態度を取れないことにも、疑問を感じました。

 フランスでは、大人(親)は、子供に対して、マナーは、なかなか厳しく、こうした公共の場で大声で泣き叫びながら、駄々をこねる子どもというのを見たことがありません。

 子供からしても、日頃の親の態度の中に、頑張り続ければ、どうにか自分の言い分が通ることを察して、隙があることを見抜いて泣き叫び続けるのです。子供は、なかなか利口ですから、絶対に無理だと思えば、意外と無駄に泣き叫び続けたりはしないものです。

 門前に飾られる日の丸の旗や、駄々を捏ねる子供の様子など、思わぬところで、日本を感じる1日でした。
















2020年2月23日日曜日

帰仏、出国の際の不安




 日本の一時帰国も、もうすでに、半分以上が過ぎ、時差ボケもようやく、やっと、なんとか、克服しつつある中、これから先は、もう帰仏へ向けての準備まっしぐらで、毎日が進んでいきます。

 片付けていた実家も、ずいぶんと今回でも、色々なものを処分したとはいえ、まだまだ、処分しきれずに残っているものを再び、収めるところに収めつつ、家をひと通り掃除して、フランスに持って帰る荷物の調整をしなければなりません。

 もう買い物は、出かける度に、着々と進めているので、あとは、買い逃している買い物を忘れないように、買い足して、荷物の重さを調整していきます。

 今回の帰国は、銀行の用事や、実家の片付けなどの目的もありましたが、日本での食材の調達も大きな目的の一つで、荷物制限の重さ、ギリギリまで、持って帰ることは、真剣勝負なのです。

 荷物は、今回は、23キロのスーツケースが二つ分、重量制限内に収まるかどうかは、前日まで、ギリギリの段階、最悪、当日の朝までドキドキで毎回の不安の一つでもあります。

 過去に荷物以外で、パスポートの残存有効期限がギリギリで、あわや出国できないかも・・・といったケースに陥ったことがありました。

 フランスは、シェンゲン協定加盟国で、パスポートの有効期限が3ヵ月以上ない場合、入国できないという規定があり、また、パスポート査証欄の空白ページが見開き2ページ以上あることが必要になります。

 その時の私のパスポートは、有効期限が三ヵ月ギリギリで、羽田のチェックインカウンターで、すったもんだの挙句、フランスの滞在許可証を提示し、結局、出国することができました。しかし、結局、フランスに到着して、入国審査の際は、パスポートのチェックもほとんどなく、あまりにあっさりと入国できたのには、拍子抜けしました。

 フランス入国に際して、フランス当局よりも、羽田のチェックの方が厳しいのも、さもありなんという気もしました。兎にも角にも、無事に済んで、助かりました。

 今回の帰仏に関しては、私は、密かにもう一つ、不安に感じていることがあります。

 日々、感染者が拡大しているコロナウィルスの蔓延により、フランスでは、多くの企業や学校が日本への出張等を禁じている事態です。日本発の便からの乗客をすんなり、入国させてくれるのかどうか、少し不安に感じています。

 今回の帰国便は、日本の航空会社の直行便なので、まさか、フランスで受け入れないとなれば、予め、航空会社から連絡があるか、その便自体が飛ばないということになると思うので、その場合は、しばらく日本に滞在しなければなりません。

 家があるので、それも致し方ないとは、思いつつ、とかく、フランスに近寄れば、トラブルがつきまとうことがわかりつつも、家に残してきている猫のポニョも心配で、やはり、予定どおり、なんとか、無事に、パリの家に帰れることを祈っています。

 


  

2020年2月22日土曜日

日本でフランス人を見かけるとちょっと嬉しい不思議




 現在、日本に一時帰国していて、今日は、久しぶりに学生時代の友人に会い、これまた、久しぶりに表参道の街を歩いてきました。毎年のように日本に来ていても、表参道に立ち寄るのは、本当に久しぶりだったのです。

 駅の構内のとあるお店で待ち合わせをしたのですが、もう表参道に行くのも10年以上ぶりで、全くもって、おのぼりさん状態なので、駅の構内で、さまよい歩くのも嫌だと、予め、ネットで表参道の駅の構内をチェックしてみました。

 すると、駅の構内の見取り図には、いくつかのスペースに分類されていて、そのネーミングが、ESPACE TOUJOURS(エスパス・トゥジュール)、MARCHE DE METRO ( マルシェ・ドゥ・メトロ )、ESPACE APPÉTIT(エスパス・アペティー)、ESPACE MODE(エスパス・モード)、ESPACE BEAUTÉ(エスパス・ボーテ)と全て、フランス語になっているので、ビックリしました。

 これまで、帰国した際にもデパートを歩いていたりすると、やたらとフランス語の名前のお店があり、名前だけでなく、フランスのお店も多いことには、気付いていましたが、まさか、久しぶりの表参道で、駅の構内までに、フランス語が使われていることに、驚かされたとともに、ちょっと嬉しい気持ちがしたのです。

 今回も、日本に帰ってきて以来、毎日のように美味しいものを食べ歩き、今日も表参道の街を歩きながら、美味しいお蕎麦を食べ、日本を満喫して、私は、どっぷり日本に浸かっているような気になっていたのです。

 表参道は、フランスのブランドの路面店も多い中、適当に外からウィンドーを眺めながら、歩いていると、フランスの冷凍食品のお店、PICARD(ピカール)があるではありませんか?

 「話には、聞いていたけど、日本のピカールは、どんな感じなんだろう?」と思い、思わず、立ち寄ってしまいました。

 すると、お店に入るなり、フランス人の店員さんが、「パン・オ・ショコラの試食は、いかがですか?」と近づいて来たのです。ここは、日本ですから、店員さんも、日本語で話しかけてくださったのですが、この人は、間違いなく、フランス人だ!と思い、「フランス人ですか?」と思わず聞いてしまいました。

 すると、彼女は、嬉しそうに、「はい!フランス人です!」と答えてくださったので、そこからは、自分もなんだか、嬉しくなって、フランス語で少し彼女とお話をしました。

 友人も一緒だったので、ほんの短い会話でしたが、なんだか、思わぬところで、フランス人に遭遇して、知らない人ながら、少し話せて、なんだか、とても嬉しくなっている自分にビックリしました。

 日頃、フランスでは、なかなか文句もタラタラで、ましてや見知らぬフランス人と話したからといって、別に何の感情も持たないのですが、日本という場所で、不意に、日本で生活をしているフランス人と話をちょっとしただけで、不思議な嬉しさが湧いてくることに、自分でも、ちょっと驚いたのです。

 現在、日本に一時帰国していて、今日は、久しぶりに学生時代の友人に会い、これまた、久しぶりに表参道の街を歩いてきました。毎年のように日本に来ていても、表参道に立ち寄るのは、本当に久しぶりだったのです。

 駅の構内のとあるお店で待ち合わせをしたのですが、もう表参道に行くのも10年以上ぶりで、全くもって、おのぼりさん状態なので、駅の構内で、さまよい歩くのも嫌だと、予め、ネットで表参道の駅の構内をチェックしてみました。

 すると、駅の構内の見取り図には、いくつかのスペースに分類されていて、そのネーミングが、ESPACE TOUJOURS(エスパス・トゥジュール)、MARCHE DE METRO ( マルシェ・ドゥ・メトロ )、ESPACE APPÉTIT(エスパス・アペティー)、ESPACE MODE(エスパス・モード)、ESPACE BEAUTÉ(エスパス・ボーテ)と全て、フランス語になっているので、ビックリしました。

 これまで、帰国した際にもデパートを歩いていたりすると、やたらとフランス語の名前のお店があり、名前だけでなく、フランスのお店も多いことには、気付いていましたが、まさか、久しぶりの表参道で、駅の構内までに、フランス語が使われていることに、驚かされたとともに、ちょっと嬉しい気持ちがしたのです。

 今回も、日本に帰ってきて以来、毎日のように美味しいものを食べ歩き、今日も表参道の街を歩きながら、美味しいお蕎麦を食べ、日本を満喫して、私は、どっぷり日本に浸かっているような気になっていたのです。

 表参道は、フランスのブランドの路面店も多い中、適当に外からウィンドーを眺めながら、歩いていると、フランスの冷凍食品のお店、PICARD(ピカール)があるではありませんか?

 「話には、聞いていたけど、日本のピカールは、どんな感じなんだろう?」と思い、思わず、立ち寄ってしまいました。

 すると、お店に入るなり、フランス人の店員さんが、「パン・オ・ショコラの試食は、いかがですか?」と近づいて来たのです。ここは、日本ですから、店員さんも、日本語で話しかけてくださったのですが、この人は、間違いなく、フランス人だ!と思い、「フランス人ですか?」と思わず聞いてしまいました。

 すると、彼女は、嬉しそうに、「はい!フランス人です!」と答えてくださったので、そこからは、自分もなんだか、嬉しくなって、フランス語で少し彼女とお話をしました。

 友人も一緒だったので、ほんの短い会話でしたが、なんだか、思わぬところで、フランス人に遭遇して、知らない人ながら、少し話せて、なんだか、とても嬉しくなっている自分にビックリしました。

 日頃、フランスでは、なかなか文句もタラタラで、ましてや見知らぬフランス人と話したからといって、別に何の感情も持たないのですが、日本という場所で、不意に、日本で生活をしているフランス人と話をちょっとしただけで、不思議な嬉しさが湧いてくることに、自分でも、ちょっと驚いたのです。

 日本にいるフランス人とフランスにいる日本人、真逆の環境ではありますが、なんか、日本の社会の中で、幾ばくかの居心地の悪さを感じつつも、順応している彼女の姿が、妙な同士のような感覚が一瞬、芽生えて、私は、妙に、嬉しかったのです。










2020年2月21日金曜日

日本の買い取り業社いろいろ




 父が亡くなった後に、空き家になった実家の片付けにあたって、これまで、日本の出張買い取り業者に随分と家に来て頂きました。おそらく、これまでに、10社以上は、来て頂いたと思います。

 まず、ネットで検索して、ある程度、あたりをつけて、種類別に、絵画・骨董、食器、着物、家電、家具、などなど、お店によって、買い取り品目にも、それぞれの得意分野があり、特典や持ち味も違います。

 少しずつ、処分していく場合は、お店に持ち込みをするということもできますが、我が家のように、ほとんどを処分したい場合で、私のように一時帰国をしている限られた期間の中で処分しようと思う場合は、買い取り業社に自宅に来て頂くのが一番効率的です。

 ほとんどのものが、二束三文になる場合が多いのですが、その年によって、時代の潮流というものもあるので、前年は、もっと高い値段で査定されていたのに、今年になったら、ガックリ値が下がってしまった・・なんていうものもあります。

 要は、需要と供給の関係なのですが、トレンドで、こういうものを大量に買いたがっている中国人が多い・・などとなったりすると、少し値段が上がったりするので、同じものでも、値段は、年によって、変動します。

 中には、他のものを(例えば、着物や食器類などと)、ネット上の広告で歌っていても、結局は、貴金属狙いの買い取りであったりする場合も多いので、その見分けは、必要です。

 また、電気製品などは、最近の法律で、購入してから、5年以上経っている電気製品については、規制があり、なかなか、買い取ってもらうのが、難しく、たとえ、ほとんど使っていない製品であっても、買い取ってもらうのは、大変です。

 しかし、出張に来てくださる方から、少しずつ、情報を仕入れて、だんだんと買い取りの相場や、逆に、これは、フランスで売った方が良い・・こういうものは、ここの買い取り屋さんに頼んでみた方がいいなどと教えてもらえたりもします。

 また、お話していると、買い取りとは、関係のない、その人の人となりが覗けて、なかなか、それぞれに個性豊かで、やはり、人と人とのやりとりですから、相性もあり、会社自体のやり方は、もちろんですが、買い取りに来てくださるその人によって、関係性も変わってくるので、良い人に当たると、楽しくなります。

 私は、このところ、エコリングという会社のAさんという方をとても頼りにしており、帰国するたびに、ご指名で、自宅に来て頂いています。

 エコリングの良いところは、とにかく、かなり、広範囲のものを引き取ってくださることで、どんなものでも捨てずに無駄にしないで済むので、使えるものを捨てるという罪悪感から救われます。また、色々な業者から見ても、価格のつけ方も、なかなか妥当で、信頼できます。

 ご本人の専門でない分野に関しては、写真をとって、本部の鑑定士に送って、鑑定してもらえるのも、便利です。(これは、どこの買い取り業者も同じ方法をとっていますが・・。)

 彼は、とても、誠実な人で、どちらかというと、一見、いじられキャラのような感じを受けますが、なかなか芯はしっかりしていて、人当たりも良く、ここ数年で、みるみる成績をあげているらしく、地方から出てきて、都内の店舗を担当するようになり、我が家の近辺の担当になったと思ったら、現在は、渋谷、松濤への進出を請け負っており、どんどん、出世しています。

 今では、もう、帰国するたびに、会える友人のような、親戚のような、そんな気分です。

 今日、彼が家に買い取りに来てくれている間にも、他の買い取り業者からのセールスの電話があり、買い取り業者もなかなか生き残り競争が激しく大変なようです。

 買い取り業者は、5〜6年前に全盛期を迎え、その数も爆発的に増えましたが、ここ数年は、減少の傾向にある中、エコリングは、まだまだ、店舗を増やしていて、なかなか、頑張っています。

 中には、買い取り業者を名乗って、なんとか家に入り込み、詐欺を働いたりする事例もあるので、決して、油断はできません。

 実家の片付けから、思わぬ世界を垣間見て、また、新しい人との繋がりができて、それなりに楽しんでいます。

 今は、Aさんに、なんとか、会社の藩領を拡大して、なんとか、パリに来てくれるように頼んでいます。(笑)(調べてみたら、エコリングは、すでにフランスに進出している模様で、パリに帰ったら、フランス支社に連絡してみようと思っています。)

 他の買い取り業者さんから聞いた、フランスの方が高く売れると聞いた結城紬などの着物は、毎回、持って帰りたい莫大な量の食料に負けて、私の帰国の荷物には、入れず、なかなか、フランスに飛び立つことができずにいます。

 

2020年2月20日木曜日

メルカリは、フランスでは、不可能だ。




 前回に、日本に帰国した際に、メルカリに初チャレンジして、売れ残ったものは、出品停止にして、そのまま、アカウントをキープしたままにしていったので、そのまま、そのアカウントが使えるのかどうか、定かではなかったので、特に、今回は、メルカリに出品するための品物を持ってきてはいませんでした。

 それでも、前回、売れ残ったものは、そのまま、実家に置いておき、今回、日本に来た際に、メルカリのサイトを開いて、自分のアカウントを再公開して、データとして残っていた商品を再度、出品しておきました。

 数日間は、何の反応もなかったので、出品している商品を一つ一つ、「編集する」として、値段をほんの少し下げたりして、再出品したところ、あっという間に、セリーヌのバックとモノプリのエコバッグが売れました。

 どちらも自分のいらないものを、他の人が同じようなものをメルカリに出品している値段を参考にして、値段を設定し、大して、期待もせずに、載せていたのです。

 これで、何食かまた、美味しいものが食べられます。(笑)

 日頃、パリでも、メルカリと似たようなシステムの leboncoin(ルボンカン)というサイトを使って、不用品を売っているのですが、やはり、メルカリは、システムが上手くできていて、leboncoinに比べると、非常に楽で、簡単です。

 メルカリは、仲介手数料が取られますが、手数料を考えても、あまりある便利さ、簡単さ、安全さで、改めて、メルカリがフランスにもできてくれないかと切に思いました。

 しかし、メルカリの便利さの大きな要因の一つは、セブンイレブンなどのコンビニで、24時間発送を受け付けてくれることで、手続きをスマホで済ませると、携帯にQRコードを読み込んで、相手の住所やこちらの住所なども知らせることなく、すぐに発送できることで、支払いも、ある程度の金額が貯まると銀行口座に振り込まれることになっている点です。

 フランスの場合は、この郵送にまず、問題があり、スムーズに郵便物が届く可能性がかなり未知数だということです。メルカリがもし、フランスに参入しても、日本のようなスムーズなやり取りは、この郵送の時点で、はっきり言って、無理です。

 実際に、メルカリは、イギリスに進出して、失敗しています。それには、やはり、この流通の問題が大きく日本と異なっていることも大きいと思います。日本の流通事情は、世界的にもかなり優れているのです。

 ユニクロがフランスに出店した際に、日本のような、スムーズなレジのシステムや店内の整頓やストックの管理を浸透させるのには、大変な努力をして、フランス人の教育をしたと言われています。

 実際に、一般のフランスの店舗に比べて、ユニクロのレジは、現在は、非常にスムーズに日本に近い形になっていますし、店内も整頓されて状態を保っているのは、フランス人のスタッフをとことん教育したすごい結果だと思います。当初は、ユニクロに入社しても、すぐに音を上げて辞めてしまうフランス人が続出して、四六時中、スタッフを募集していました。

 しかし、メルカリの場合は、底辺で働くことになるのは、郵便局、または、配送会社の人たちです。その膨大な人材をメルカリのために教育し直すことなど、ハッキリ言って、不可能です。

 たまに日本に帰ってくると、改めて、感心することに溢れていますが、このメルカリのシステムに再び触れて、改めて、日本ってスゴいと思ったのです。

2020年2月19日水曜日

母が亡くなった日の夜




 時差ボケで、夜中に目が覚めて、キッチンのテーブルに座ったら、母が亡くなった日の夜のことを思い出しました。

 あの日も私は、夜中に、ここに、こうして座っていたことを。

 母が例年どおり、夏の間、父と山荘に出かけていて、その山荘で倒れ、山荘の近くの病院に運ばれて、どうにか、すぐに致命的なことには、ならずに取り敢えずは、落ち着いているという報せを受けて、夏休みの前半に日本に帰国し、新学期が始まったばかりだった私は、心配しながらも、再帰国することをためらいながら、様子を伺っていました。

 アメリカに転勤になったばかりだった弟は、すぐに帰国して、母の容態を見守り、どうにか、東京の病院に転院させるまでしてくれて、アメリカへ帰って行きました。

 しかし、元から、心臓病を患っていた母の心臓は、もはや限界状態で、私は、パリで日常生活を送りながらも、心配で、心配で、毎日、泣きながら過ごしていました。当時、8才だった娘に、「そんなに心配なら、どうして、行かないの?」と言われ、職場の上司にも、電話をして、相談したところ、「まだ、お嬢さんも、少し学校を休んでも、それほど学業にダメージを受ける年齢でもないし、仕事は、休んでいいから、お母様の元へ行ってあげなさい。」と言われて、ようやく、私も決心がつき、急遽、日本行きのチケットをとり、娘を連れて、日本へ行くことにしたのでした。

 本当に、それは、ギリギリのタイミングで、一時は、強心剤により、回復しかけたかに見えた母も、私が飛行機に乗っている間に、再び、病院で心筋梗塞の発作を起こし、意識不明の状態になっていたのです。

 その頃は、パリー成田便しかなく、成田に着いた途端に空港のアナウンスで呼び出され、叔母からのメッセージで、すぐに、叔母の家に電話するようにとのこと。慌てて電話をすると、母が意識不明の状態で、何とか、人工呼吸器で生命は、保たれているものの、残念ながら、もう時間がないから、成田から、タクシーで病院に直行しなさいとのことでした。

 慌てて、病院に走り込んだ私と娘は、病院の入り口で待っていてくれた叔父と叔母に誘導されて、スーツケースも入り口に放り出したまま、母のいる集中治療室に駆け込みました。

 集中治療室に案内される時に、医師からは、「もう意識もなく、瞳孔も半分開いている状態です。」と説明を受けました。

 それでも、聴覚だけは、最後まで残るということを本で読んで、信じていましたので、母のそばに駆け寄り、娘にもせっついて、二人で、「ママ〜!!マミ〜!!」と何度も叫びました。すると、意識不明と言われていた母は、急にパッチリと目を開けて、何かを私たちに、言おうとしましたが、呼吸器が繋がれていたために何を言おうとしているのかは、わかりませんでした。

 それから数日間、午前、午後の20分間の面会に通いましたが、心臓の機能を安定させる薬を投薬されていた母は、目を覚ますことはありませんでしたが、その間、手をさすったり、足をさすったりしながら、一生懸命に母に話しかけていました。

 最後に面会できた際には、弟の再帰国が決まっていたので、「もうすぐ、弟が帰ってくるから、もう少し、頑張って!」と声をかけました。すると、母は、眉をしかめて、涙をツーっと流しました。母にしてみれば、初めて外国に転勤になったばかりの弟に、いきなり日本に二度も帰国させ、迷惑をかけることを辛いと思っていたのだと思います。

 その日の晩に、病院から電話で、「危篤状態です。すぐに来てください。」という連絡があり、父と娘、隣に住んでいる従姉妹に運転を頼んで、病院に駆けつけましたが、もう、母の最後には、間に合いませんでした。

 あっという間に大勢の親戚も病院に駆けつけてくれましたので、母の遺体を家に連れて帰るか、病院に解剖を頼んで、預かってもらい、直接、母の通っていた教会に葬儀の段に直に運んでもらうかの話し合いになりましたが、結局、父が母の解剖と教会への直の搬送を希望したため、母がこの家に再び、帰ってくることは、ありませんでした。

 その後、一人で、この家で生活しなければならない父にとって、亡くなってしまった母の残像がこの家に残ることは、父にとって、それはそれは酷なことだと思いましたので、私もそれに賛成しました。

 その夜、家に戻って、父は、自分の寝室に入り、娘も寝てしまった後に、私は、このキッチンのテーブルに座り、母の魂がどこか、このキッチンに帰って来ているような気がして、悲しみに少し、気持ちが高ぶらせながら、一人で、少し、上の方を眺めながら、心の中で、母に話しかけながら、しばらく、お酒を飲んでいました。

 今日、夜中に目を覚まして、なぜか、その時のことを鮮明に思い出しました。

 





2020年2月18日火曜日

来る度に、みるみる景色が変わっていく日本 ー世代交代ー




 つい最近、銀座線の駅の移転が週末のうちに完了したというニュースに驚いたばかりですが、ここのところ、帰国するたびに、実家の近所の景色がみるみる変わっていきます。

 当主が亡くなり、それまで、一軒家だった家が、みるみる小綺麗なマンションになっていきます。これまで、ひと家族で住んでいた場所がマンションのような集合住宅に変わっていくのですから、日本全体は、少子化問題を抱え、人口は、減少しているにも関わらず、明らかにうちの実家の近所は、人口が増えていると思います。

 今回も、当主が亡くなり、家が壊され、長いこと空き地になっていた場所にマンションの建設が始まり、今年の4月には、完成の予定だそうです。

 日頃、パリにいて、工事がなかなか進まない様子を見ながら、暮らしている私にとっては、日本の工期の速さには、改めて、驚かされるばかりです。

 また、長いこと、うちの母も贔屓にしていたお肉屋さんが、忽然と消えていて、近くの商店の人に尋ねたら、今年の3月にお引越しをなさいました・・とのことで、帰国するたびに、必ず食べていた、そのお肉屋さんの美味しいコロッケが、もう食べられなくなりました。

 ほんとうに、家族で地道にやっている昔ながらのお肉屋さんで、スーパーマーケットが隆盛の中、どうやって、やっていけるのかと思っていましたが、近所の公立の小学校の学校給食等に卸しているとかで、それならば、ずっと続けてやっていけるのだろうと安心していたところでした。

 せいぜい、一年に1〜2度しか、帰ってこない私が文句を言える立場ではありませんが、それでも、母が長いこと通って、私たちのことまで、おしゃべりしていたらしく、私が娘を連れて買い物に行くと、「パリにいらっしゃるお嬢さんとお孫さんですね。」などと、歓待してくれていたので、残念でなりません。

 その同じ通りにあった、長いこと閉店したままになっていた薬屋さんも、いつの間にか、さら地になっていて、何か、新しいものが建設される兆し。昨年、来た時には、あったのに・・。きっと、次回、帰国する際には、また、新しいものができていることでしょう。

 そうやって消えていく店舗の代わりには、介護センターや保育園ができ、個人商店は、消えていきます。

 我が家は、父が子供の頃から住んでいて、それなりに、ご近所さんも残ってはいるのですが、留守中にどんどん変わっていく地元の街の様子にどこか、寂しさを感じます。

 そこへ行くと、パリには、一軒家というものは、ほとんどなく、古くからのアパートがそのまま残されていて、外観もほとんど変わることがないので、街の景観が極端に変わるということはありません。

 街自体が綺麗に区画整理されて、旧建築も残されていくので、改めて、こうして、外に出てパリを思うと、工期が遅かろうと何だろうと、日頃、文句タラタラに暮らしていても、パリのそんなところは、悪くないなと思うのです。