祖父が昔、フランスに留学、滞在していたことがあったことは、私が子どもの頃から聞いていた話で、その影響なのか?祖父はその年代の人には珍しく、フランス料理が好きで、一家が集まって食事をしたりするのには、フランス料理であることが多かったり、DONQ(ドンク)というパン屋さんのバゲットが好きで、なんだかバゲットにはこだわりがあるようだったり、そのバゲットをお皿に置かずにテーブルに直に置いてしまったりすることを祖母が嫌がっていたりしたことを覚えている程度で、私は祖父から直にフランスの話を聞いたことはありませんでした。
そもそも祖父は家ではかなり寡黙な人で、祖父母の家に行っても、私が話をするのは、もっぱら祖母とばかりで、それをニコニコと聞いていて、食事をしたりしている際に「美味しいかい?」と聞かれて、「うん!」と答えるくらいで、そういえば、私は祖父と何を話したことがあったか?ほとんど記憶にないくらいです。
祖父が亡くなって久しいですが、のちのち、私がフランスで生活することになることがわかっていたら、もっと祖父にフランスの話を聞いていただろうし、何よりフランス語を教われたのになぁ・・などと思うこともありました。
祖父がフランスに留学していたのは、第二次世界大戦直前から戦争に突入した頃のことだったようで、(そういえば、空襲を逃れてどこかに逃げた話をきいたことがありました)まだまだ、日本人が渡航すること自体がかなり珍しい時期で、当時は船でかなりの時間を要し、フランスに渡った記録を当時のチケットとか、色々な切り抜きなどとともに書き残しているアルバムのようなものがあるのですが、「いつか、読もう!」と思いつつ、なかなか読めていませんでした。
祖父は絵が好きで、休みの日には、ルーブルなどに通っていたようで、たくさんの絵について、子どもたち(当時はまだ母と叔父のふたり)宛に解説するような絵葉書を大量に送っていて、それも大量に残されていますが、いつか、その祖父が母宛に送った絵葉書の解説を見ながら、ルーブルに行ってみるのも素敵だな・・などと思いつつも、いつも私の日本からの帰りの荷物は大量の食料品が優先されて、未だフランスに持ってきていません。
それが、今回、来仏直前に、叔母がそれとは別に祖父が祖母宛や両親(祖父の)宛に送っていた絵葉書を一束持たせてくれて、帰りの飛行機の中でゆっくり読む機会を持てました。
絵葉書自体も時代もので、シャンゼリゼの街路樹もまだ今よりもずっと低かったりするものの、たいがいの絵葉書の写真を見れば、だいたいどこだかわかる・・ということは、基本的には絵葉書になるような場所はパリの街は変わっていないということで、なるほど・・と感心しました。
絵葉書の消印を見ると、1938年から1939年のもので、実に祖父は達筆で筆まめで、その時の生活ぶりや、たまにフランス語の単語が混ざっていたりするのも、現在、「それじゃルー語(ルー大柴みたいに外国語が混ざる)じゃん!」などと娘と言いあったりする私には、なんかホッコリさせられたりします。
しかし、私とは違って、大変、優秀であった祖父はフランスに留学といっても国からの留学生としてグランゼコールに行っていたようで、毎日、フランスの新聞数紙に目を通し、当時は、日本語の読み物などは手に入らなかった様子や娯楽も現地のものを楽しむしかなく、「文化人ぶって、美術館やコメディーフランセーズに演劇を見に行ったり、映画を見に行ったりしている」などと書いてあったり、戦争が始まると、どこの新聞にも同じようなことばかりが書いてあってと批判めいたことが書いてあったりしながらも、自分は無事であるから心配はしないでほしいなどと書いてあるのも、それが戦時中であることを考えれば、その心中は察してあまりあるものです。
このようなハガキが今でも大切にとってあるということも凄いことだと思いますが、今のようなネットの時代とは違って、筆跡や数十年経ってもぬくもりの感じられる絵葉書のようなものも良い時代だったのだな・・と、思いながら、今度こそ、日本に行ったら、祖父が当時のフランスについてのアルバムや、子どもたちに残していたルーブルにある絵の解説ハガキを持って来て、ゆっくり読みたいと思いました。
祖父の絵葉書
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