2019年9月15日日曜日

フランス人の離婚と再婚 ママ母の気持ち




 フランスは、離婚率の高い国で、約30%、3組のうち1組、パリでは、約50%、2組に1組が離婚すると言われています。

 しかし、その離婚した人たちの四分の一は再婚するとも言われているのです。

 つまり、離婚もするが、再婚もする、懲りない人たちなわけです。

 そう言われてみると、私の知っているフランス人女性にも再婚組の人が何人かいて、それぞれの結婚で、子供を産んでいます。話を聞いていると、一回目の結婚での子供だったか、2回目の結婚での子供だったか、わからなくなることさえあります。

 ただ、よくよく聞いていると、子供の年齢に年の開きがあったりするので、そこで、何んとなく、わかることになりますが、まあ、結果的に2度とも離婚している彼女にとったら、もはや、それが、どちらの子供だったのか?ということは、さして、問題にしていない風でさえあります。

 日本人だったら、子供のために、仲の悪い夫婦が離婚しないでいるという話は、よく聞きますが、フランス人の場合は、仲の悪い夫婦は、一緒にいないようです。

 そういう我が家も、主人には、前の奥さんとの間に3人の男の子がいて、上の二人は、かなり年が上なので、滅多に家に顔を出すこともありませんでしたが、下の男の子は、私たちがフランスに来た時点では、まだ小学生で、月に2回、週末は、主人が会いに行くか、その子が家に来ていました。

 主人の前の奥さんは、かなり、宗教にのめり込んでいる方だったらしく、離婚の理由もそんなところにもあったようですが、普段は、一緒に住んでいる子供たちも、かなり宗教の縛りを受けていて、日々のお祈りはもちろん、週末の礼拝などの宗教活動、慈善活動、テレビ、雑誌、ゲーム類は、一切禁止という規制の多い生活を強いられていたせいか、家に来た時には、のびのびと、好きなテレビを見たり、ゲームをやったり、お父さんに会えるということだけでなく、のびのびと自分の好きなことをやれるという楽しみがあったようです。
 お母さんに見つかると取り上げられてしまうために、家に持って帰れないゲームなどは、家に置いたままになっていました。

 その子の方もカラッとしたもので、大して遠慮するということもなく、かえって、こちらも気兼ねなくいられて、いいなぁなどと感じていました。

 ところが、私も仕事を始めて、だんだんと仕事も忙しくなり、娘もだんだんと成長してきて、休みの日などは、娘のお稽古事の予定がびっしりと入るようになってからは、その送り迎えもなかなか大変で、家の中でも休みの日には、やることが山積みで、私にも余裕がなくなっていた頃でした。

 連休かなにかで、家に彼が家に泊まりに来ていた時のこと、私は、彼の存在が、なんだか煩わしいなと思う気持ちが私の中で芽生えていることに気が付いたのです。自分の中のそんな感情に気付いた時に、これってママ母の気持ちなのかな? これがエスカレートすると、ママ母イジメみたいなことが起こるのかしら?と思い、ハッとさせられたことがありました。

 これは、いけないと思った私は、自分の余裕のない状態をそのまま主人に話し、主人もそれを納得してくれたことで、私も気分がスッキリして、事態は、それまでよりも好転し、私も普通に接することができるようになりました。

 同じことでも、主人が理解してくれると思うだけで、気持ちの向きが変わってくるものです。

 それにしても、色々煩わしいことが付随してくるにもかかわらず、離婚、再婚を繰り返すフランス人の逞しさには、感心させられるばかりであります。



























2019年9月14日土曜日

パリのガイドさんのリッチな生活




私は、パリの日本人のガイドさんを少し、知っています。

 といっても、私の知っているガイドさんの多くは、すでに引退されている方が多いのですが、その世代のガイドさんは、日本のバブル期の日本からの観光客を一手に担っていた方々なので、大きな財産を築かれました。

 もともと、パリのガイド料金は、高いことでも有名です。
 それが、大きなツアーでは、ひとグループ30人くらいのグループが1日に、何十本もひっきりなしに来て、ガイドさんもパリ市内観光を午前、午後のダブルヘッダーで働いていたのですから、パリの日本人観光業界も、それは、それは、バブルに湧いていたのだと思います。

 実際のガイド料ではなく、ツアーにまつわるチップやコミッションだけでも、十分に生活できるほどであったのではないかと思います。

 もとより、フランス政府の公認のガイドのライセンスを取得するのは、そう簡単なことではありません。フランス語の能力はもちろんのこと、英語、正しい日本語、マナー、それから、フランスの歴史、美術史、代表的な歴史的建造物に関する知識も必要です。

 ですから、ガイドさんには、日本でも高学歴な方も多く、プライドも高く、独特な世界観を持たれている方が多いです。

 男性、女性ともに、きちんとした身なりではあるのですが、特に、女性は、そのメイクやファッションにも独特なものがありました。なかなか、日本では、見かけないような、メイクやおしゃれの仕方です。

 経済観念もしっかりされている方が多く、不動産投資をして、パリに何軒もアパートを持っていらっしゃる方や、ガイド御殿と揶揄されるほどの素晴らしいアパートに住まわれていたり、ニースやビアリッツなどに別荘を持っていらしたり、引退した今でも、悠々とした生活を送られています。

 現在では、日本のバブルも弾けて久しく、日本人の団体観光客も少しずつ減り、その旅行の仕方も代わり、旅行会社も経費節約で、ツアーでも、パリ市内観光などでは、ガイドさんをつけずに、日本から同行する添乗員さんがガイドを代行するものが多くなりました。

 現在のガイドさんのことは、よくわかりませんが、今、ツアーの需要が多いのは、モンサンミッシェルへの日帰り。

 モンサンミッシェルは、世界各国からの観光客の中でも、日本人が最も多いと言われるフランスの観光地ですが、パリからの距離を考えると、普通、フランス人なら、とても日帰りする距離ではありません。

 それを日本のツアーの多くは、日帰りで、朝早くにパリを出て、延々とバスに揺られて現地にいるのは、昼食も入れての2時間ほどで、パリに戻るのは夜になります。
まあ、言い方は悪いですが、ほとんどバスに乗りに行くようなものです。

 当然、パリ市内観光などと比べると、ガイドさんの拘束時間も長くなり、体力的にもキツいと思います。実際に、若いガイドさんが、もう、モンサンミッシェル日帰りツアーは、きつくて大変!と言っていたのを聞いたことがあります。

 しかし、時代の波というのは、スゴいものです。

 その一期間の潮流に乗れたガイドさんたちは、今では、悠々とした老後を送っていらっしゃるのですから。




















2019年9月13日金曜日

子育ての不安




 初めてのお産、子育てとなれば、誰でも不安なことがいっぱいあるのは、当然です。
 私も少なからず、不安はありました。

 ましてや、私の場合、お産は、アフリカでしたし、実家も遠いし、病院も、日本のように、母親学級や、詳しいお産の説明もなく、一応、万が一に備えて、一応、遺言めいたことまで書いたりしました。

 しかしながら、私は、妊娠中は、ひたすら眠くて、寝てばかりいましたので、あまり、深刻に考え込むということもなく、ひたすら、お腹の子供に話しかけていました。

 そして、実際に産まれてみれば、赤ちゃんというものを触るのも初めてだった私は、おっかなびっくりで、うっかり落としたら大変!などと思いつつも、アフリカで天気も良いし、洗濯してくれるボーイさんもいるのだから布のオムツにしよう!などと、思いついてしまって、特に、最初の一ヶ月は、そのオムツとミルクのルーティーンに慣れるだけでも必死でした。

 しかし、慣れてくると、うるさく言う外野もいないので、かえって、自分のペースで、周りの赤ちゃんやお母さんとも比べることもなく、まあ、こんなもんかな〜?と構えていました。

 そして、何よりの私の強い味方は、偶然、知り合いになった助産師さんをしていた日本人の女性の存在でした。

 彼女が必要なことだけを的確に教えてくれたおかげで、私は、余計な心配はせずにいられたのです。大らかな彼女がゆったりと構えていてくれたおかげで、当事者である私もなんだか、ゆったりしていられたのだと思います。

 まあ、育てる環境や子供の個性にもよるので、人それぞれではあるとは思うのですが、あまりに、情報が多すぎると、少しでも、その情報と違ったりすると不安になるものです。

 子供があまりミルクを飲まないとか、寝ないとか、体重が何キロ増えたとか減ったとか、極端な場合は、別として、お腹がすけば、ミルクも飲むし、疲れれば、眠くなって寝るのです。

 もう少し、大きくなってからも、娘は、なぜか、なかなか髪の毛が伸びず、歯も2歳になるまで一本も生えてきませんでした。

 それでも私は、髪の毛は、伸びなければ切らずに済むし、歯に関しては、生えてくるまでは、虫歯にもならないし、歯はなくとも娘は、ワシワシと何でも食べていたので、まあ、いつか生えてくるだろうと全く心配しませんでした。

 案の定、娘の歯は、2歳になると同時に一気にドバッと生えてきました。

 また、娘は、寝るのが何よりも嫌いで、お昼寝もしたことがありませんでした。何とか疲れて寝てもらうために、日中にエネルギーを発散させるのに苦労しました。結果、それが、ますます彼女を鍛える結果となり、生半可なことでは、疲れて寝ないようになってしまいました。

 育児と仕事に疲れ気味で私の方がお昼寝をしたくても、”娘に寝ないで〜!寝ちゃダメ〜!” などと揺り起こされるのは、拷問のようだと思ったこともありました。

 しかし、のちになってみると、それが、体力、気力、学力にも繋がり、良い結果となりました。フランスのバカロレアの試験などは、一科目4時間のテストです。体力のない子は、集中力も長時間、続きません。

 それより、私が何よりも心配だったのは、子供が情緒不安定になって、バットを振り回して暴れたり、人を傷つけるようなことをする子供になったら、どうしよう? ということでした。

 私の親戚に、保育の専門家がいて、そのことだけは、聞いたことがありました。

 それは、ハッキリとは、原因も対策も言えないけれど、子供のうちは、とにかく身体を動かして、エネルギーを発散させること!とのことでした。

 ですから、私は、心して、娘をスポーツに駆り立て、主人が休みの時には、グラウンドに連れて行って走らせ、私が休みの時には、プールに連れて行って、水の力までも借りて、娘のエネルギーの発散に努めていました。

 さらに大きくなってから、私が気をつけたことは、娘を人と比べないということでした。人と比べて良いとか、悪いとか言われても、子供は、何が良いのかわからなくなってしまいます。

 親が、いちいち他の子供と比べて一喜一憂していては、子供もたまったものではありません。

 子育てには、その段階ごとに、それなりに不安はあるものです。
 しかし、心配しすぎは禁物です。

 だいじょうぶ、だいじょうぶ。

 親が子供を愛していること、一番大切な存在だということが伝われば、子供は、しっかり育ちますから。










 

 

 











 

2019年9月12日木曜日

パパのダイエット メガネをかけた大きなねずみ




 私の主人は、体格が良くて・・というのは、かなり、控えめな言い方ですが、要するに、ダイエットが必要な体型です。

 とにかく食べることが大好きで、また、好きなものが高カロリーのものが多く、そして、フランス人らしく、ことさら好きなものがチーズとパンで、食べるとなると、半端ない量を食べてしまうので、チーズの買い置きなどは、全くもって出来ません。

 私は、自分の父が食べ物に関しては、とても、うるさくこだわる人で、自分の口に合わないものがあると、クソミソにけなすので、一緒に食卓についていた私たちまで、嫌な気持ちになるような環境で育ったので、とにかく、何でも、美味しい美味しいと言って、楽しく食事ができる主人のような人は、とても、いいなぁと思ったのです。

 しかし、主人は、その度を越しており、健康に差し障りのあるレベルになってしまったのです。

 もともと、主人は、私と出会うずいぶん前に、大きな交通事故に遭っており、その際に脾臓を摘出している上に、輸血の際に肝炎にかかってしまっていたのです。

 その上、これは、家系から来ていると言っていましたが、糖尿病でもあり、インシュリンの注射もしていました。

 ですから、本当は、ワインもダメ、塩分、糖分なども、かなり抑えなければならず、厳しいダイエットをお医者さまからも言い渡されていました。

 体調を崩して入院した後には、病院の管理栄養士の方から、指導を受け、何やら、サーモンピンクの色をしたお皿を買ってきて、これに少しずつのポーションに分けて食べるようにと言われたとかで、最初のうちは、子供のように、満足そうにそのお皿を使って、得意げに食事をしていましたが、そのうち、それでは、飽き足らずに、野菜スープをせっせと作っては、カサ増しをしていました。

 私も、紫のキャベツが良いと言われれば、せっせと紫キャベツを細かく刻んで茹でて用意したり、味の薄い肉なしポトフのようなものをお鍋いっぱいに、作り置きをしたりしていました。

 その、あまりの量に、私は、動物園の飼育員にでもなったような気持ちでした。

 それでも、育ち盛りの娘には、そんな食事をさせるわけにもいかず、私としても、和食が恋しかったりして、同じテーブルを囲んで、違うものを食べたりするのも気まずく、何と言っても、大の大人に食べ物の制限をするのは、とても嫌なことでした。

 しかし、夜中になると、主人は、ゴソゴソと冷蔵庫を漁ったりしていましたので、その度に、翌朝になって、「あ〜!また、ネズミにやられた〜!!」などと、半分怒りながらも、家では、笑い話にしていました。

 ある日、娘の幼稚園で、親子面談があり、主人と娘が二人揃って、出かけて行きました。その席で、ひとしきり、先生が、幼稚園での娘の様子などを話したあとで、主人に対して、「ご家庭で、何か問題になっていることは、ありますか?」と尋ねられたのです。

 すると、すかさず、娘が先生に向かって、大真面目な顔をして、「うちには、大きなネズミが出るんです!」と言ったのです。

 先生は、困惑して、黙ってしまったそうです。

 内心、なんて、不衛生な家なのだろうと思ったのかもしれません。

 困惑している先生に、主人は、「メガネをかけた、大きなネズミなんです。」とバツ悪く白状したそうです。

 











2019年9月11日水曜日

義兄夫婦のフランス人の家族




 主人には、血の繋がりのない歳の離れた兄がいて、パリ郊外に暮らしています。

 血の繋がりがないというのは、主人のご両親に長いこと子供ができずにいたため、養子縁組をしたお兄さんだからなのです。

 ところが、養子を迎えて、しばらくした後に、ひょっこり子供ができたのだそうです。それが、主人です。ですから、主人とお兄さんは、全く似ていません。

 主人は、大きくて、体格も良く、(良すぎて多少問題あり)どちらかというとイカつい感じなのですが、お義兄さんは、小柄で優しい感じの人です。

 フランスでは、子供のいないカップルが養子を取るケースは、日本に比べると、少なくありません。娘の高校まで、仲良くしていたクラスメイトにも、養子として引き取られて育った女の子がいます。

 お義兄さんの奥様、つまり、お義姉さんは、彼女が若い頃に、彼のお母様に見初められてお義兄さんと結婚したのだそうです。

 ですから、主人は、学生の頃から、独立するまでの間、ご両親とお義兄さん夫婦と、長いこと、一緒に暮らしてきたので、ある意味、お義姉さんは、主人にとっては、お母さんのような存在で、歳をとってもなお、お母さんに対して、わざと偉そうに振る舞いながらも甘えているダメ息子のようでもあり、また、お義姉さんの方も何かと主人を甘やかすようなところがありました。

 私が主人と出会った頃には、もう、主人のご両親は亡くなられていたので、私にとっても、お義兄さん夫婦の家は、主人の実家のような存在でもありました。

 お義兄さんは、主人と顔かたちが似ていないだけでなく、生活の仕方もまるで違っていました。

 主人と義兄が歳がかなり離れていた上に、主人と私もわりと歳が離れているので、主人の甥や姪が私と同じ年頃でした。

 海外を飛び回って仕事をしていた主人とは違って、義兄は、工場勤めで、フランスをほぼ出ない生活で、お義姉さんは、事情で親が育てられない子供を家で預かる仕事をしていました。

 二人で広い庭のある大きな家を構えて、今はもう独立している自分の子供たち4人を車ですぐの場所に住まわせて、日曜日や事あるごとに、家族みんなが子供を連れて、集まってくるというような生活を送っていました。

 子供たちは、皆、学校を卒業とともに、地元の銀行やRATPや警察官といった手堅い安定した仕事につき、早々に結婚し、子供を持ち、それぞれの家を構え、両親を囲むように、さらに大きな家族になって幸せに暮らしています。

 私たちも、フランスに来て、しばらくの間は、彼らの家の近くに住んでいました。

 フランスに来たばかりで右も左もわからなかった私も、まだ赤ちゃんだった娘を抱えて、主人も体調が悪かったりもして、辛かった頃、何かとお義兄さん夫婦の家にお邪魔しては、ご馳走になったり、お料理を教わったりして、どれだけ彼らに救われたかわかりません。

 特にお義姉さんは懐が大きく、とても暖かい人でした。
 いつも、たくさんの食事を用意して、淡々と家事をこなし、いつも笑顔で、少しも威張ることがなく、私たちが行くと、いつも、” 食べなさい!食べなさい!” と食事を促し、自分も一緒に食事をとり、なぜか、バゲットは中の白い部分さえ食べなければ太らないと思っているような可愛いところもある人でした。

 ですが、私が仕事を始めてしばらくして、私も主人も勤め先がパリだったこともあり、フランスの交通事情もあり、通勤が大変で、娘の学校や教育のことなども考え、今の家に引っ越してからは、彼らの家に行く機会も減ってしまいました。

 主人とお義兄さんは、同じ家庭に育ちながら、生活の仕方も子供の教育に対する考え方などもまるで違います。しかし、決して、仲が悪いわけでもなく、何かあれば、連絡をとって、お互いに、支え合っていました。

 生活や考え方などが違っても、そして、たとえ本当は、血縁関係さえなくとも、やっぱり、家族であるということを思うに、家族というものは、血のつながりではなく、一緒に過ごしてきた時間なのではないだろうか?と、義兄と主人との関係を見る度に、つくづく思わされるのです。












2019年9月10日火曜日

外交官生活の後にうつ病になったフランス人の夫 普通のおじさんになれなくて・・




 私の夫は、長いこと外地勤務をしていたフランス人の外交官で、私が主人と出会った時も、彼は、日本のフランス大使館に勤務していました。

 とはいえ、外務省からの外交官ではなく、財務省から派遣されている一人の公務員で、いつかは、フランスに戻らなければならない身でした。

 と言っても、外国勤務の間の肩書きは、外交官なわけで、外交官待遇の生活を長くしてきていたのです。

 日本勤務を終えた後は、アフリカの勤務になったわけですが、数年のアフリカ勤務の後には、元のフランスの財務省に戻ることになったのです。

 私自身が、大使館勤務をしていたわけではないので、詳細は、はっきりとは、わかりませんが、大使館というのは、外国にありながら、本国同然の治外法権の領域であり、その中での外交官特権と言われるものは、外国にいながら、かなり、特別な位置付けになるのです。

 また、本人も仕事に対しても、かなりの力の入れようで、日本にいる間などは、本当に日本人以上に昼夜なく働き、自分の仕事にもやりがいと誇りを持っていたのだと思います。

 パスポートも一般人とは違い、車も日本で言えば、ブルーのナンバープレートを付けている車は、外交官の特権で守られた車で、税金などの扱いも違っています。

 アフリカにいた頃には、DIP(DIPLOMA)SHOPという外交官専用の、食料品から食器、電気製品などの広範囲にわたる外国の製品を多く扱うお店があり、一般の人は、買い物をすることが出来ません。

 とにかく、そんな生活を長くしてきた主人は、フランスの財務省に戻ることがショックなのと同時に、普通の一般人に戻るのに酷く抵抗があり、側にいる私としては、” なんて不遜な人なの?"、 ” 一体、あなたは、なに様のつもりなのですか?” と、どれだけ、夫と話し合いをしたことでしょうか?

 フランスに戻って、半年から一年くらいの間は、主人は、うつ病のような状態で、普通のおじさんの生活に戻るのには、かなりの時間がかかりました。

 娘が産まれたばかりだというのに、主人は、鬱々として、夜中に息苦しさを訴え、救急車騒ぎで入院したりしたこともありました。病院では、鬱状態からくる呼吸困難との診断で、本人も苦しかったと思います。

 仕事も休みがちで、それに輪をかけるように、娘の国籍のことなど、アフリカでの出生証明書の不備などもあって、難航し、外国で産まれたフランス人の子供の国籍の扱いは、全て、ナント(フランスの西部、ロワール川河畔に位置する都市)の管轄で、なかなか進まない手続きに業を煮やして、ナントまで、夫の兄夫婦と共に車で出かけたこともありました。

 問題は、山積みで、主人が鬱状態から回復するには、それなりに時間がかかりました。

 それでも、娘は、まだ、赤ちゃんで、毎日毎日の生活は、淡々と続いていきました。

 娘は、そんな中でも、無邪気に成長し、そんな娘の成長が私たちを救ってくれました。

 娘の国籍問題が解決して、私もどうにか仕事を見つけた頃から、ようやく主人は、普通のおじさんの生活に戻り始めました。

 娘の保育園、学校などに顔を出すようになると、すっかり元のフランス人のおじさんに戻っていきました。

 人間、特別扱いを受けるには、本当に心して、自分を戒めなければならないと身をもって感じさせられた次第です。

 普通が一番。

 普通の生活を当たり前に送れることが一番、幸せなのです。

 
















2019年9月9日月曜日

パリに住む外国人の同僚たち




フランス、特にパリには、もはや、純粋なフランス人よりも、外国人の方が多い気さえするほど、外国人の多い国ではありますが、あえて、ここでは、国籍というよりも、出身としてお話しすることにさせて頂きます。

 ちなみに、やたらとフランス国籍を取りたがる外国人が多いのにも、驚きでした。
(特に中国人は、フランス国籍を取ることが前提、当たり前というような感覚なのには、驚きました。)

 もちろん、フランスに住んでいれば、確かに、フランス国籍を持っていた方が暮らしやすいということもあるのですが、私は、国籍、パスポートは一つで充分です。
 日本は、二重国籍が認められていませんし、日本で充分に満足しています。

 私の職場には、フランス人だけではなく、やはり、多くの外国人が働いていました。
ですから、みんなの共通語はフランス語ですが、一緒に仕事をしていると、それぞれのお国柄が垣間見れることが、多々ありました。

 ロシア人は、比較的、大人しくて、日本人と遠くないものがあるなという印象を持ちました。彼らは、意外にもフランス語が上手な人が多いことと、(これは、ロシアの学校教育によるものらしい)反面、英語があまり得意ではないこと、美しい人が多いこと、DVの被害にあっているらしい人がいたことが印象に残っています。
(これは、たまたまかもしれませんが、何人か同じ会社にいたロシア人の中で数人見かけたので、そんな印象を持ってしまいました。)

 中国人に関しては、入れ替わりも激しかったので、特に印象に残っている人たちに関してですが、私が一緒に働いていたのは、いわゆる中国での一人っ子政策時代の人たちだったためか、とても大切に育てられてきた感じで、優秀でもありました。
 とても前向きで、我慢強く、頑張り屋さんのイメージです。

 ブラジル出身の人は、大らかで、姉御肌の人で、とにかく明るく、感情表現が派手。

 そんな、色々な国から来ている人たちが集まる職場では、お昼どきになると、皆、ランチを、持参してくる人が多かったので、各国のお料理にもずいぶんとお目にかかる機会がありました。

 日頃、レストランでは、お目にかかれないような、各国の家庭料理のようなものにお目にかかれて、とても楽しい時間でした。

 だいたい皆、忙しく働いているので、持参するのは、前日の食事の際に多めに作ったものが多いのですが、やはり、フランスに住んでいても、自分の国の食事を食材などを、何とか苦労して手に入れたり、工夫したりしながら、自分たちで作っているのだということを目の当たりにして、何だか、ほっこりするような気持ちでした。

 それぞれが、”それ何? ちょっと、それ、味見させて! どうぞどうぞ、食べてみて!” とか言いながら、和気あいあいとしながら、食事の時間を楽しんでいました。

 タイ人などは、ビックリするくらい辛いものを平気で食べ、ほんの小さな子供の頃から、辛いものを食べているのだとか・・・。

 そんな光景を見ていると、外国に来て働いていても、皆、それぞれが、その国のコミュニティーに少なからず、依存し合いながら、特に食事に関しては、そのルーツを追求しつつ、懸命に生きていることを愛おしく感じます。

 そして、どこの国の人がどうということではなく、同じ、外国人としてフランスに住む者同士の連帯感さえ感じることもあります。だって、外人として他の国に住むということは、それぞれ、皆、多少の差はあるにせよ、色々な苦労があるからです。

 例にもれず、私も工夫しながら、フランスでも日本食をせっせと作っています。

 そんな中にいると、フランスでは、当たり前に手に入るもので、見慣れているせいもあるのかもしれませんが、フランス人の持ってくるランチが、一番つまらなく感じたりもするのであります。