2019年11月28日木曜日

フランスの児童保護機関から子供を守るために日本へ帰った男性の話




 彼は、仕事の関係で、私の勤めていた会社に出入りしていた、日本人の男性で、頭の回転も良く、よく気も回り、親切で、とても感じの良い青年でした。

 彼は、フランス人の奥さんと、三人の子供とともに、パリで暮らしていました。

 彼とは、そんなに頻繁に会う機会があったわけではありませんが、彼は、仕事で、時々、会社に顔を見せてくれていましたが、いつも、明るく、快活で、日本人で、同じように、フランス人と家庭を持っているということで、顔を合わせれば、世間話をしたりしていました。

 そういえば、しばらく、見ないな・・と思いながら、いつの間にか、時間が経っていて、彼が久しぶりに会社に顔を見せてくれた時、ふと、私は、あれ? なんか、感じが変わったな・・と思いました。

 私は、感じたままに、彼に、「なんか、少し、感じが変わられましたね。」と何の気なしに、口にしてしまったのです。

 彼は、ちょっと、ビックリした様子で、「えっ? そうですか?」と、言いながらも、「実は・・」と、彼に起こっていた非常事態を話してくれました。

 結婚する前から、少し、精神的に不安定だったりすることがあったというフランス人の奥様の病状が悪化して、入院してしまったのだそうです。

 それからというもの、彼は、男手ひとつで、まだ小さい子供を育てながら、仕事を続けていたのだそうです。大変ではありましたが、彼は、とても前向きで、そんな生活の中でも、子育てを楽しみながら、休日には、同じような、一人で子育てをしている友達を見つけて、それぞれが子連れで集まって、時間を共に過ごして、情報交換をしたり、お互いに助け合ったりして、暮らしていたのだそうです。

 フランスには、児童虐待や育児放棄などから、子供を守る公的な機関があるのですが、ある時、突然、その機関が彼に目をつけ、彼の家庭に調査が入ってしまったのです。

 調査の結果、彼が子育てに不適格な状況であると判断されれば、子供は、取り上げられてしまうのです。

 このような時は、フランスにおいて、外人であることが、ハンディになってしまうのです。たしかに、難しい環境ではありましたが、しっかりと仕事をしながら、あんなに子供を大切にしている彼が、とやかく言われる筋合いは、ないのです。

 奥様が、精神的な疾患を患っていたということも、問題視されたと言います。

 しかし、彼女は、入院治療をしていて、育児に携わっているわけでもありません。

 それでも、その調査員の追求は、執拗で、彼は、児童保護案件に詳しい弁護士さんを探し出し、相談に乗ってもらっていました。

 たしかに、フランスでは、児童手当を受け取るために、子供をやたらと産んでは、育児は、放棄同然のようなクズも多いので、そういった機関が必要なことも否めません。

 ただでさえ、一人で働きながら、三人の子育てをするだけでも大変なうえに、その調査員たちとの闘いが降りかかってきたのですから、彼の方も余計に追い詰められていきました。

 その児童案件専門に請け負っている弁護士さんと相談しながら、ある日、彼は、弁護士さんから、恐ろしいことを耳にしたのです。

 彼は、プロですから、色々な案件を目にしているのです。

 あまりに執拗な調査員の介入には、理由があったのです。

 それは、子供を一人を保護するにつき、2000€の報酬が調査員に入るということなのです。その報酬目当ての悪徳調査員なるものもいるのです。

 正義の名のもとに、国の機関という絶対的な権力を持つ人と闘うのは、容易なことではありません。

 全ての調査員が悪意を持って、仕事をしているわけではないでしょうが、聞いただけでも、私は、震えあがりました。

 そして、どうしても、子供を取り上げられそうになった場合は、子供を連れて、日本へ帰るのが、一番、間違いないと、言われていたそうです。

 フランスと日本の両方の国籍を持っている子供は、日本へ行ってしまえば、治外法権となるため、フランスの公的機関も手を出せなくなるからです。

 久しぶりに会った彼が、なんとなく、以前と感じが違うな・・と感じたのは、やはり、彼が、そんな、大変な場面を経験してきたからだったのかもしれません。

 果たして、彼は、色々と考えた末、子供を連れて、日本へ帰国することにしたのです。

 出国の際には、出国審査の時に、フランス在住者の年少の子供連れの場合は、停められる場合もあるので、ドキドキしながらの出国だったそうです。

 結果的に、彼は、自分の実家の近くに住まいを移し、両親の助けも借りながら、今は、日本で、後からやってきたフランス人の奥さんとともに、家族5人で生活をしています。





































2019年11月27日水曜日

フランスの学校の先生の仕事は授業を教えることだけ フランスに金八先生はいない




 フランスの学校の先生は、基本的に学校で授業を教える以外のことはしません。

 また、先生の研修なども、フランスの学校には、あれだけの長いバカンスがありながら、(年間でトータルすると3ヶ月以上はあるのではないでしょうか?)授業のある期間に行われるのです。

 つまり、研修は、仕事の一環であって、バカンス中は、先生も仕事をしないということなのでしょう。

 また、給食もキャンティーンには、キャンティーンの見張りをするような、職員がいるので、給食の世話をするということもありません。

 フランスの学校には、日本でいう、クラブ活動のようなものもないので、部活の顧問の先生なんていうものもありませんし、学校の外で起こったことに関して、一切、関知しません。個人の生活に関わることもありません。

 つまり、自分の受け持つ授業を教えるということが、彼らの仕事なのです。

 以前、私の勤め先の近くにあった中学校の生徒が、会社の入っていたビルの前に座り込んだり、暴れたり、いたずらをしたりと、あまりに酷かったので、会社の人が学校に苦情を言いに行ったら、「学校外で起こったことに関しては、学校は、一切、関知しません。」と言われたそうで、学校外のことを先生が生徒に注意したりすることもありません。

 日本でも、先生の当たり外れは、ありますが、フランスの学校の先生のハズレは、ケタ違いです。

 娘が小学生の時でしたが、一度、酷い先生に当たったことがありました。

 フランスの学校には、校内にプールがあることは、ほとんどないので、水泳の授業は、市内のプールを学校毎に交代で、割り振られて使います。なので、水泳の授業は、夏ばかりにあるとは、限らずに、真冬に当たることもあるのです。

 室内の温水プールですから、泳ぐ分には、問題は、ないのですが、その行き帰りの道は、寒い中、みんなで、ぞろぞろと歩いて行くことになるわけです。

 プールの室内と外の温度差が激しくて、風邪を引いてしまうのでは・・と、親なら、誰もが心配するところです。それなのに、「女の子のタイツは禁止」と、先生から、お達しが・・「え〜〜??なんで〜〜??」と思いきや、「着替えに時間がかかるから・・」とのことで、呆れました。

 また、授業中も、無駄に厳しい先生で、授業中にトイレにどうしても行かせてくれずに、漏らしてしまった気の弱い男の子もいました。

 極め付けは、授業中、具合が悪くなったと申し出た生徒に対して、「私は、医者じゃない!」と言い放ったとか・・。これには、さすがに、父兄の間で、連絡が周り、学校にも申し入れが入ったと聞いています。

 しかし、中学、高校と進むにつれて、進学校であったこともあるのかもしれませんが、素晴らしい先生もいて、年に一度、担任の先生が一年間の授業や進学の問題についてのレクチャーを父兄向けにする機会がありましたが、その中には、こんなに高い志を持って、教育に携わっている先生もフランスにもいるのだ・・と感心させられるような先生にもお世話になりました。

 その懇談会から帰ってきて、娘に、「素晴らしい先生じゃない!!」と言うと、娘は、シラっとして、「営業、営業!!だって、いつもは、あんなにいいスーツ着てないし・・」などと、半分、照れながら言うのですが、先生のお話は、そんな、営業で、付け焼き刃で話せるような内容ではなく、教育という仕事に対する情熱と信念を感じさせるようなお話でした。

 兎にも角にも、フランスの先生の仕事は、授業を教えることであって、クラブ活動などの世話をしたり、個人的な事情に関わって面倒を見たりすることはないのです。

 フランスの学校には、金八先生は、いないのです。

 











 

2019年11月26日火曜日

日本を知らない日本人




 日本人とフランス人のハーフの場合、多分、圧倒的にお母さんの方が日本人だというケースの方が多いような気がします。

 私の周りにいたフランス人と結婚している日本人女性は、子供が小さい時、特に、夏休みなどの長いお休みの期間は、子供を連れて里帰りをしていた人が多かったので、日本を知らずに育つ日本人というケースをあまり聞いたことがありませんでした。

 女の子の方が、結婚してからも、その実家と近いというケースが多いと聞きますが、日本とフランスと離れて暮らしている場合、なおさら、男性の方が実家と遠ざかってしまうケースが多いかもしれません。

 娘の学校には、フランス人と日本人とのハーフの女の子がいて、名前も、あゆみちゃんという日本の名前なのですが、まるで、日本語を話せず、日本にもほとんど行ったことがないという日本人の女の子がいました。

 その子の場合は、お母さんがフランス人で、お父さんが、日本人なのですが、お父さんも、ほとんど家でも日本語をほとんど話さない上に、日本の実家とも疎遠になっていて、日本にもほとんど行かないような人だったので、あゆみちゃんは、日本人でもありながら、日本を知らずに育ちました。

 しかし、お母さんが日本人の女性でも、日本には、ほとんど行かずに、子供ともフランス語で暮らしているという人も知っています。

 子供は、日常は、彼女と生活しているのですが、フランス人の夫とは、現在、離婚協議中で、週末は、別居中のフランス人の夫の元で過ごしています。

 彼女は、かなり、バリバリと仕事をしている女性で、夏休みなどの学校が長期のバカンスに入る期間中は、全て、パパの実家の方に子供を預けてしまうのだそうです。

 日本へ行くのは、それなりに時間もお金もかかるし、実家との関係などにも、それぞれの事情があるでしょうから、一概に彼女のやり方を否定は出来ません。

 しかし、この子の場合も、日本を知らずに育つ日本人確定です。

 こんな話を聞くと、私は、残念でなりません。

 普段、私は、そんなに愛国心旺盛なタイプではありませんが、たとえ、半分でも、せっかく日本人として生まれたのに、なぜ、自分の国に少しでも触れさせようとしないのか?

 せっかく、二つの国に触れる機会を持って生まれてきた子供が、フランスで暮らしているからといって、日本という国や、日本の文化を全く知らずに大人になってしまうのは、もったいないではありませんか?

 私は、日本にいる時よりも、海外にいる時の方が自分が日本人であるということを自覚し、意識することが多いのです。

 日本の良いところも悪いところも、海外にいるからこそ、わかることも沢山ありますが、色々な国から来ている外国人の話を聞いても、日本は、やはり、なかなか誇らしい国でもあります。

 ハーフとして生まれた子供たちにとって、たとえ、生活の基盤がフランスにあっても、日本のことを少しでも、知ることは、マイナスなことは、何もないと思うのです。







2019年11月25日月曜日

日本の変化とフランスの生活習慣から生まれた自分自身の変化





 日本は、ほんの2〜3年行かないだけでも、いつの間にか、新しいビルが建っていたり、どんどん新しい場所や新しいシステムが生まれ、どんどん変わっていて、驚かされます。

 コンビニなども、私が海外に出てから、みるみる店舗が増え、あっという間に24時間営業になり、他のスーパーなどまで、24時間営業がチラホラしだしたと思ったら、今度は、24時間営業廃止の方向へ動きつつあります。

 その間、フランスは、あいも変わらず、コンビニどころか、日曜日は、たいていのお店は、お休みです。

 フランスに来た当初は、一旦工事を始めたら、いつまでも、「ま〜だ工事中??」、なんていう感じに呆れていましたが、今や、逆に、日本へ行くと、その変化の速さに、目が回る気がしてしまう私は、自分の祖国でありながらも、やはり、どこか、少しずつ、居心地の悪さを感じてしまうところがあります。

 それは、また、日本の社会が変化していることに加えて、私自身も色々な習慣や自分の言動や考え方の変化に気づかされることも多いのです。

 どうでもいいような、小さいことなら、エスカレーターの右側につい立ってしまうことや、少しの雨なら、傘をささなかったり、車が通らなければ、信号を渡ってしまったり、知らない人に気安く挨拶したり、話しかけたりしている自分に、そういえば、かつての自分は、日本では、そうではなかったと気付かされることがあります。

 しかし、そういった表面的なことだけでなく、フランスで生活していくうちに、自分自身の考え方や、人との付き合い方なども、自分でも気がつかないうちに変わっていることも認めざるを得ません。

 一時、日本に帰国時に、父から、「お前は、いつからそんなにキツい物言いをするようになったんだ!」と言われて、ビックリしたことがありました。

 その時点では、私は、自分自身の変化にあまり自覚がなかったのです。

 しかし、そんな父も亡くなった今になって、ここ数年、父や母というクッションが無くなってしまったせいもあるのかもしれませんが、はっきりと言わないと暮らしていけなかったりするフランスモードに自分自身が、変わってきているのだと、改めて、気付かされることが多いのです。

 しかし、日本では、そのフランスでのモードを敢えて、変えていかないと、日本では、逆に過ごしにくくなりそうで、日本に帰る時には、改めて、日本モードに自分の中のスイッチを変換して合わせていこうとしている自分に気がつくのです。

 ホンネとタテマエ、ハッキリ言わない、とか、儀礼的な贈り物をしあうとか、周りにこう思われるから、こうした方が無難だとか、他人に異常に干渉するとか・・以前には、当たり前のものとして受け入れていたことが、正直、とても苦痛になり始めています。

 美味しいものがたくさんあって、便利で、どこへ行っても親切で、応対も感じよく、何をするにもスムーズにことが運び、やっぱり日本は、スゴい!楽しい!と思う反面、対人関係には、どこかモヤモヤが残り、ドッと疲れます。

 以前は、それが、当たり前のことと思って生活していた私でさえ、感じる日本の不思議な面を、そのプラスの面もマイナスの面も含めて、全く初めての外国人から見たら、さぞかし、日本は、独特で、不思議な国に見えるのだろうな・・と思うのです。












2019年11月24日日曜日

10年近く暮らしたパリでの生活を断ち切って日本へ帰って行った彼女




 彼女は、最初、日本からスタージュに来ていて、そのまま、パリで現地採用となり、パリで働いている30代半ばの女の子でした。

 独身で、パリで働きながら、それなりにパリでの生活を楽しんで送っているようでした。パリでの新しい流行などにも敏感で、とても上手におしゃれを楽しんでもいました。

 かといって、彼女には、チャラチャラしたところはなく、あれこれと工夫しながら、まめに自炊などもして、堅実な生活を送っていました。

 そんな、彼女には、長く付き合っているフランス人の彼がいました。

 長身でスタイルの良い二人が並んで歩いていると、とてもカッコいい二人でした。

 彼女は、お料理や編み物などもプロ並みに上手だし、優しくて、人当たりも良く、海外暮らしの日本人にありがちな、キツさもなく、おっとりとしていて、いかにも育ちの良さそうな女の子でした。

 年頃で独身の彼女は、このまま、フランスで生活していくのか? ある程度で見切りをつけて、日本へ帰った方がいいのか? ずっと、考えていたことは、知っていました。

 こちらにいたフランス人の彼とは、一緒に暮らしていたわけではありませんでしたが、彼の実家とも行き来をしていて、彼のママに教わったラタトゥイユの作り方・・などを私も教えてもらったりしたこともありました。

 お誕生日には、彼のママからプレゼントをもらって・・などという話を聞いたこともあったので、きっと、彼のママは、とても彼女のことを気に入っていたのだと思います。

 しかし、けっこう、尽くしてしまうタイプの彼女に対して、けっこうなわがままを言っている彼の様子なども聞いてはいました。

 仕事上も、ある転換期を迎えた頃、10年近くいたパリでの生活を断ち切って、彼女は、日本へ帰国することを決めました。彼女は、若い頃に父親を亡くしており、日本にいるお母様とは、特に絆が強かったようで、そんなことも彼女の帰国の理由の一つには、あったのかもしれません。

 しかし、女性が将来の生活を考えるとき、30代半ばに差し掛かる頃というのは、一つの区切りの時期でもあるのかもしれません。

 彼女から、日本へ帰国すると打ち明けられた時、私は、何の不思議も感じませんでした。何か、決定的なことがあったということではないのかもしれませんが、日本人が、パリで暮らしていて、日本に帰りたくなる理由は、たくさんあるでしょうし、その気持ちもよくわかります。

 何しろ、生活を送っていく上での一つ一つにストレスが満載していますから・・。

 すでに、子供がいたりする場合は、また、別でしょうが、無理して、パリで暮らす必要もないのです。

 そんなわけで、彼女は、少しずつ、荷物を処分し始めて、私も、いらなくなった本や、お鍋などの日用品をもらったりしました。

 そして、彼女は、会社の仕事もきっちりカタをつけて、退職し、日本へ帰って行きました。彼女の実家は、横浜だということは、聞いていましたが、特に、連絡先を聞いたりすることもありませんでした。

 彼女が日本へ帰ってしばらくして、彼女の付き合っていた彼が、血相を変えて、突然、会社にやってきました。彼女からは、彼とは、別れたと聞いていたので、そこまで、必死な様子で彼女が元いた会社にやってくるのには、ちょっとビックリしました。

 しかし、誰も、彼女の日本での連絡先を知りませんでした。

 たとえ、知っていたとしても、彼女がそこまでして、彼のことを振り切って日本へ帰ったのに、誰も、彼女の許可なく安易に彼に伝えることはできなかったでしょう。

 以来、彼女は、パリにいる誰にも連絡してくることはなく、日本での彼女の様子を伺い知ることはできません。

 でも、ある程度以上、長く続けてきた生活を変えるというのは、なかなか勇気のいる決断です。よくよく考えて彼女が決めた日本への帰国ですから、きっと、日本での新しい生活を幸せに送っていると思っています。
 













2019年11月23日土曜日

パリの救急外来とアクシダン・ド・トラバイユ




 ある時、私は、仕事中に、会社の階段を踏み外して、階段から転げ落ちたことがありました。全くの私の不注意なのですが、休日出勤などが重なって、疲れていたこともありました。

 公衆の面前で、転んだりした時には、よっぽどの怪我でない限り、痛いよりも、その不恰好に転んだことの方が恥ずかしくて、バツが悪くて、慌てて、立ち上がったりしませんか?

 私もその時は、まさにそんな感じで、ブザマに転んだことの方が恥ずかしくて、必死に立ち上がり、特に外傷もなかったため、「大丈夫、大丈夫・・」と、そのまま、終業時間まで働いて、家に帰りました。

 後から思えば、その時に、救急車を呼んでもらっておけば、事は早かったのです。

 しかし、外傷がなかったために、少し、足を挫いたくらいだと、私も軽く考えていたのです。

 時間が経つにつれて、足は、みるみる腫れ上がり、家に着く頃には、ちょっと、かなりの痛みになっていました。夜になって、耐えきれずに、夫に頼んで、車で、救急外来のある病院に連れて行ってもらいました。

 当時、娘は、まだ小さくて、一人、家に置いておくわけにも行かず、娘も連れて、夫に頼んで、家から比較的近い、パリの夜の病院に連れて行ってもらいました。

 夜の救急外来というのは、こんなにも混んでいるものかというほど、次から次へと病人、怪我人がやってきます。とりあえず、受け付けだけして、順番を待っていました。

 しかし、混乱している病院の中で、待てど暮らせど、私の順番は、回ってきません。途中、何度か、声をかけてみたのですが、「ハイハイ!」と生返事だけで、延々、2時間くらい待たされたでしょうか? 

 私も頭にきていましたが、私以上に腹を立てた夫が、医者を捕まえて、「かれこれ、もう2時間以上も待たされている!これ以上、待たせるなら、ここから電話して、救急車を呼ぶぞ!」と、半ば、脅しに近い抗議をしたら、ようやく、診てもらえたのです。

 こういう時は、パリでは、黙っていたら、ダメなのです。黙っていたら、どんどん後回しにされますから、夫のように、「ここから救急車を呼んでやる!」は、いざという時に、パリでは、なかなか使える文言かもしれません。

 もし、私一人だったら、いつになったことか、全くわかりません。

 私は、骨折でもしているかもしれないと思い始めていたのですが、実のところは、打ち身から、私の足のふくらはぎには、血栓ができてしまい、ともすれば、骨折よりもややこしいことになりました。

 それから、しばらくは、私は、毎日、血栓を溶かす薬を飲みながら、毎日、血液検査に通い、薬の量を調節しながら、結局、一ヶ月近く、仕事を休むことになりました。

 足の痛みと腫れは、一週間もすれば、引くからと痛み止めの薬とクリームをもらい、その日は、家に戻りました。

 これが、仕事中の怪我だったので、フランスの法律によるアクシダン・ド・トラバイユ(仕事中に起こった怪我や病気の場合は、100%保険が適用になります)に当たるから、24時間以内に保険の手続きの書類を送るように言われ、その書類には、その場にいた事故を目撃していた人のサインも必要になるため、夫が代わりに私の職場に行って、私の同僚のサインをもらってきてくれました。

 ここが、フランス人だったら、大きな顔をして、休むところだと思うのですが、日本人の生真面目さを持っていた私は、一刻も早く、職場に復帰しなければ、と焦ってもいたのです。

 ところが、医者は、なかなか、2週間くらい経っても、ドクターストップは解いてくれませんでした。

 医者の方も仕事に行きたがる私を半分は、理解できない面持ちで、しまいには、「血栓がどんなに危険かわからないの? あなたは、死にたいの?」とまで言われ、さすがの私も、「死にたいのか?」とまで言われて、ようやく観念したのでした。

 今の私だったら、もっと、図々しく、休んでいると思いますが、あの頃は、まだまだ、全てにおいて、気持ちにも余裕がなかったのです。

 しかし、パリの救急病院の様子を垣間見て、できることなら、一生、お世話になりたくないと、心底、思わされたのでした。


2019年11月22日金曜日

フランスの職場での同僚のケンカ




 彼女は、私よりも、かなり、年配の、ふっくらとした、人の良さそうな、いかにも、おばちゃんという感じの人で、とても親切で、パリでの生活も長く、フランス語の環境の中で、子供を育てあげた経験もある、とても頼りになる女性でした。

 ですから、彼女と知り合った当初は、まだ小さかった娘のことも、とても可愛がってくれていましたし、子供と遊ぶのが上手というか、よく娘の相手になってくれたりもし、学校のことや、フランスでの日本語の教育についても随分とアドバイスをいただいたりしていました。

 彼女のご主人は、日本人でしたが、とてもリッチな人で、別々の職場ではありましたが、二人とも働いていましたので、パリにアパートを何軒ももつ、お金持ちの奥様でもありました。

 ですから、いつもおしゃれで、身綺麗にしており、気前もよく、威勢も良い人でした。

 彼女の話すフランス語は、決して上手ではないのですが、臆することなく、堂々と話すので、勢いに圧倒されて、何んとなく、そのまま通ってしまうようなところがありました。

 明るく、おしゃべりな彼女ですが、自分の素性については、あまり話すことはありませんでしたので、彼女が日本のどこから来た人なのか? どんな暮らしをしていたのか? 私は、一切、知りませんでした。

 私は、基本的に、人のことを詮索するのが好きではありません。

 会話から、自然と出てくることで知りうる情報以外は、個人的なことは、聞きません。

 おそらく、もう、彼女は、日本で暮らした年数よりも、パリに住んでいる年数の方が長くなっているので、今さら、日本での生活の影は、あまり見えなくなっていたのかもしれません。

 何よりも、彼女が隠したかったらしいのは、彼女の年齢で、周りのみんなが何気に話していれば、出てくる年齢の話題になると、普段は、おしゃべりな彼女も、微妙に避けるので、まあ、女性だし、ある程度の年齢になれば、歳の話は、したくないものなのだろうくらいに思っていました。

 しかし、だんだんと時が経つにつれて、彼女のあの威勢の良さや雰囲気から、何か、表面とは、違うものも感じていました。

 日頃は、温和な彼女ですが、ある時、職場で、同僚と、もの凄いケンカを始めて、その迫力に、息を飲みました。

 ケンカになった相手も、最初は、対等に話していたのですが、そのうちに、彼女の迫力に押されて、プイッと、休憩室へ去っていこうとしたのです。

 すると、頭に血が上っていた彼女は、相手を追っかけていき、「このアマが!!」と叫んだのです。

 「このアマ・・・」始めてライブで聞いた言葉でした。

 なかなか、日本にいても聞かない彼女の言葉に、私が、うっすらと感じ始めていた、何か、表面とは、違う彼女の一面を見た思いがしたのです。