2020年1月14日火曜日

娘の真夏の成人式




 フランスは、18歳で成人を迎えます。

 娘が18歳になった時は、6月生まれの彼女は、ちょうど、バカロレア(高校卒業認定試験)やプレパー(グランドエコールの準備のための勉強をする学校)の試験の真っ最中で、成人のお祝いどころではありませんでした。また、フランスでは、全国的に「成人の日」なるものもありません。

 滅多に試験に動じることもない娘も、さすがにこの時ばかりは、緊張気味で、少なからず、ナーバスになっていて、とても、お誕生日のお祝いなどというムードではなかったのです。

 しかし、私としては、少なからず、フランスにおいては、成人した、いうことで、ヤレヤレこれで、一応、法律的にも一応、大人として彼女が認められ、保護者としての責任も、ひとまず、最低限は、果たせたという思いで、ホッとして、嬉しかったのですが、特にお祝いをするでもなく、試験が終わると同時に、試験の結果もわからないまま、夏休みでバタバタと、日本へ行ったりしたので、なんとなく、すぎてしまいました。

 私の知り合いの中には、セーヌ川の船を借り切って、18歳の息子の成人のお祝いをした・・などという話を聞いたこともありましたが、我が家は、そんなわけで、フランスでは、何もしないで終わってしまったのです。

 日本人の私としては、やはり、日本での成人、二十歳というのが、さらなる区切りで、日本で成人式の1月には、学校の都合で日本へ行く事ができないために、夏の帰国の際に、振袖だけでも着せて、記念写真を撮りたいと思っていました。

 実家の片付けをしながら、着物の入っている箪笥を探したら、私が成人式の際に着た振袖は、なぜか見当たらず、(おそらく、年下の従姉妹のところに行ってしまったと思われます。)代わりに、母がどうやら結婚式の時に着たと思われる振袖が見つかり、娘には、それを着せることにしていました。

 着物好きだった祖母が特別に仕立てさせたという振袖は、何十年もたった今でも、色褪せることなく見事な状態で、保存されていました。

 娘が二十歳になった年の日本の夏は、ことさら暑く、普通の服を着るだけでも暑いところを何重にも重ね着するような着物を、帯の間にいくつもの保冷剤を仕込みながら、娘に着せました。

 メイクも前の晩にネットで検索しながら、どうやら、人に頼むとおかしなことになりそうだ・・などと言いながら、二人で練習し、当日も、自分で、メイクをし、髪の毛と着付けだけをお願いし、写真館で写真を撮ってもらいました。

 真夏の写真館は、日本では、ちょうど、小学校のお受験用の写真撮影で、予約がいっぱいの時期で、カメラマンも混乱していたのか、二十歳の娘に対しても、小学校のお受験の子供にするように、黄色いヒヨコの人形などを片手に娘から笑顔を引き出そうとする様子がおかしく、そばに付いていた私は、そのカメラマンの方を撮影してドキュメンタリームービーを作ったら面白いのに・・と思ったほどです。

 美容院で着付けと髪をセットしてもらい、写真館で写真を撮ってもらい、娘の振袖姿を見せようと、私の最愛の祖母が眠る九品仏でお墓詣りをし、親戚の家を二軒周り、娘の成人式は、終わりました。汗だくの成人式でした。

 でも、本当に娘の振袖姿を一番、喜んでくれたであろう、私の祖母と両親には、見せられなかったことは、とても残念でした。

 しかし、自分の成人式の際には、母の望み通りに、大した感慨もなしに、振袖を着て、やたらと嬉しそうにしていた祖母や母を、ちょっと不思議な気持ちで見ていましたが、ようやく、自分が母親になって、なぜ、あんなに彼女たちが喜んでくれたのか、娘の成人式を通して、ようやく理解できた気持ちでした。

 あの時の母は、こんな気持ちだったのか・・と。

 そして、人生のある節目に、日本の着物を着る習慣は、日本の美しい文化のひとつなのだと、しみじみと思いました。

 今の現代的な世の中で、このような文化的な習慣がある国ってそうないと思うのです。

 しかも、それが、祖母、母、孫へと、引き継がれたものであれば、自分の祖先の思いに触れる機会であり、素敵なことだと思うのです。

 いつか、娘が着た振袖を娘の娘が再び、着てくれることがあったら、どんなにか、嬉しいことかと思っています。

 

 





























2020年1月13日月曜日

食いしん坊の家系





 私の父は、とても、わがままな人でしたが、特に食べ物に関しては、うるさいことこの上なく、良く言えば、亭主関白というか、いわゆる昭和の時代の父親で、お膳をひっくり返したりすることは、なかったものの、家の中で、父が家事をしたりすることはなく、仕事?で夜が遅い事も多く、早く帰って来れば、母と私とが、せっせと、父のための食事を用意し、父は、晩酌をしながら、食事をするのが常でした。

 父は、自分の口に合わないものは、たとえ、母が一生懸命に作ったものでも、ひと口、箸をつけただけで、クソミソにけなして、お皿をよけて、決して食べようとはしませんでした。

 しかし、そんな父の味覚は、大したもので、ちょっとでもごまかしのあるものは、すぐに見破られ、良いものは、その素性を知らせなくとも、「これは、美味い!」と言い当てるのでした。

 ですから、せっかく用意しても、不機嫌な顔をされるのが嫌で、母もせっせと父の好きな食材を買い集めるようになっていました。

 例えば、牛肉なら、シェルガーデン、とか、鶏肉なら、ここの店・・とか、毛蟹は、紀伊国屋、蕎麦はここ、など、食べ物、一つ一つこだわりがあり、(こだわりというよりも、それなら父も文句を言わないという感じ・・)買い物一つをとっても、母は、とても苦労していました。

 私は、食べ物が口に合わないからといって、(といっても、母も、そんなに酷いものを出していたわけではありません。)父の不機嫌さに、家族中に嫌な空気が蔓延する家庭をすごく不快に感じていましたので、結婚するなら、楽しく食事ができる人が良いと思っていました。

 結果、主人は、何でも美味しい美味しいと言ってくれて、楽しく食事ができる人で、私の作るものに文句を言ったことは、ただの一度もありませんし、日本食に対しても、とても寛容で、大げさと思えるほど、喜んで食べてくれていました。

 しかし、食いしん坊であることには、変りなく、分野は違いますが、とにかく、チーズとパンとワインが好きで、特にチーズに関しては、娘への食育と称して、度々、珍しいチーズを数種類買ってきては、「フランスには、何千という種類のチーズがあるんだから、それを知らなければ・・」などというタテマエで、私たちに振舞っては、渋い顔をされて、結局は、そのほとんどを自分で食べていました。

 私と娘も、日本に帰国すれば、ここぞとばかりに食べまくり、従姉妹たちや、結局のところ、友人に至るまで、食べ物に対するこだわりと執着は、凄まじく、日本で一緒に旅行などしても、まさに食べるための旅行であり、天ぷらやとんかつなどの揚げ物を食べに行くと言えば、お店の選抜はもちろん、油も一番油をめがけて、開店と同時の時間に行くという徹底ぶりなのです。

 あまりに食べ物にうるさかった父が疎ましかった私ですが、結果、悲しいかな、私や弟にとって、それは、大変な食育となっており、普通の家庭では、多分、食べないであろう珍しい食品や、料理などを子供の頃にたくさん食べており、いつの間にか、味覚も育っていたと思わざるを得ません。

 結果、気付いてみると、結局のところ、私も、フランスでも、誰に強制されるでもなく、バターは、これ・・とか、チーズなら、これ・・、生ハムなら、ここ・・とか、同じことをやっているのです。

 そして、何より、恐ろしいのは、娘は、驚くほど父にそっくりで、敏感な味覚の持ち主で、さすがに、父のように周りに当たり散らすことはありませんが、どんなにお腹が空いても、不味いものは、決して食べずに水を飲んで過ごすという、一切、食べ物に妥協を許さない姿勢の持ち主なのです。

 娘は、私の用意するものに関して、文句を言うことは、ありませんが、出汁をとれば、「え?お味噌、変えたね・・」とか、「今日は、昆布が違う昆布だね・・」とか、言い当てられるのを、過去の父から受けたトラウマからか、ドッキリさせられるのです。

 半分は、フランス人でありながら、日頃、概ねのフランス料理や、乳製品などが嫌いな娘ですが、ちょっと良いものが家にあったりすると、涼しい顔をして、「美味しいものなら、食べる。」と言って食べるその様子は、父を彷彿とさせます。

 娘は、私とは、全く違った環境で育っているのに、この感じ・・これは、「食いしん坊の家系」「食に取り憑かれた遺伝子」としか言いようがありません。

 

 
 
 
























 

2020年1月12日日曜日

断捨離と帰国の憂鬱




 私が、初めて身近な人を亡くしたのは、私が二十歳のときでした。
私は、祖母が、亡くなってしまった祖父に触れながら、「まだ暖かい・・」と言った本当の意味を知ったのは、本当に冷たくなってしまった祖父に触れた時でした。

 今から、考えると、私は、まだまだ子供でしたが、人の死というものに接して、充分に色々なことを感じたり、考えたりできる歳になってからのことでした。

 あれから、祖母が亡くなり、母が亡くなり、父が亡くなり、実家には、誰もいなくなりました。

 その間には、長い年月を経ており、親の介護の問題などで、色々と大変だった時期もありましたが、今、空き家だけが残されて、実際に、実家に帰っても、ひたすら、家の片付けと不用品となったものの処分をする帰国は、だんだんと気が重くなり、どこか憂鬱で、足が遠退きがちになります。

 最後に亡くなった父にしても、あれほど、いざこざを起こして、喧嘩もずいぶんしましたが、いざ、いなくなってしまうと、やはり、虚しく、誰も住んでいない家に帰るというのは、こんなにつまらなくて、淋しいものだと実感しています。

 また、まだまだ使えるものを捨てるのは、忍びなく、身内で、引き取ってくれる人があれば、使ってもらうようにしたり、メルカリに出品してみたり、買い取り業者の人にも、一体、何度、家に来てもらったかわからないほどです。

 かといって、全てを業者に任せて、父や母のものを処分してしまうのは、あまりに忍びなく、また、片付けていると、母が大切に取っておいてくれたと思われる、私や弟の子供の頃のアルバムや、絵や、私が海外に出始めてから、両親に宛てて送った手紙などが、綺麗な箱にしまわれて、大事に取ってあるのを見つけたりするにつけ、熱い思いにかられます。

 実家の片付けとともに、改めて感じる母の愛情をもう一度、かみしめることができるこの機会を、私は、どうしても、自分自身でやり遂げて、しっかりと胸に刻みたいと思っているのです。

 と、同時に、人間は、生活していく上で、どれだけのゴミをため込むものかと、呆れるとともに、日頃からのシンプルな生活を心がけようと思うのです。

 そして、祖父母、両親と亡くなってしまった今、次は、私の番だと、私も人生のラストステージにさしかかっていることを覚悟させられます。

 そんなことを言うと、周囲には、まだ若いのに・・とか、また、言ってる・・とかいって、笑われるのですが、人生は、思っているほど長くはなく、自分が確実に死に向かっている存在であることや、残された時間をどのように生きるかを自覚して生きることは、とても大切なことだと思うのです。

 なので、私は、最近は、パリに戻っても、少しずつ断捨離を始め、シンプルな生活ができるように心がけています。

 leboncoin(ルボンカン)という、フランスのメルカリのようなものに出品したり、EMMAUS(エマウス)という不用品を引き取ってくれる団体(この団体は、チャリティーの団体で、不用品を引き取って販売してお金を集める慈善団体です)には、もうスーツケース何個分を運んだことか・・。

 こうして、日本の実家に帰っても、パリに戻っても、ひたすら物を減らしていると、うっかりと、何か、新しいものを買いそうになっても、「待てよ!これも、また、捨てることになるのだ・・」と自分自身に歯止めをかけるようになりました。

 奇しくも、母が私に宛てて、送ってくれた最期の手紙の「生活は、簡素に・・」どおりにしていることにハッとさせられるのです。

「お誕生日、おめでとう。◯◯年間、生きてきてくれてありがとう。世界のどこにいようが、存在しているというだけで、私にとっては、うれしいことです。あなたも、そろそろ人生の折り返し地点です。今までの生き方を見返して、ゆとりを持てる生活、時間と労力を簡素化していって下さい。私は、気がつくのが遅かったことを反省しています。でも、夢は持って下さい。” 生活は簡素に、志は高く” (最近、読んだ本の一説)」




















 













 

2020年1月11日土曜日

フランス人の熱量





 よく、血の気が多いとかいう言い方をしますが、「やっぱり、フランス人は、血の気が多いなぁ・・」と感じることがあります。

 それは、単に激しやすいとか、怒りっぽいとかいうことではありません。

 よく言えば、感情表現が豊かで、ストレートに感情を表現することが多いので、良い時は、賞賛の嵐、また、非常にロマンチックで情熱的な演出に繋がるのですが、好き嫌いをシンプルに顔に出すので、逆の場合は、冷たい態度の表現も強烈なので、感じ悪いこと、この上ありません。

 血の気が多いというと、一見、いわゆるキレやすい性格のような印象がありますが、それは、ちょっとニュアンスが違います。
 別に、彼らは、キレやすいというわけではありません。

 街中で、また、店内でクレームをつけて、キレたりするのは、むしろ、日本の方が多いような気がします。

 それよりも、ひとたび、感情を動かすスイッチが入った時の熱量が根本的に違う気がするのです。まあ、良くも悪くも、激しいのです。

 彼らは、普段から、第二のフランス語とも言えるような、独特な身振り手振りをつけて(彼らの身振り手振りには、言葉のような意味があります。)話すので、慣れるまでは、いちいち大げさに、芝居じみて見えます。

 場合によっては、コミカルでもあり、高圧的でもあります。

 先日のカルロスゴーンの記者会見などは、内容はともかく、確かに、彼の熱量は半端ありませんでした。(実際には、彼は、レバノン系ブラジル人とレバノン人のハーフで、フランス人ではありませんが、彼は、主な教育をフランスで受けて育っています)

 たしかに、彼自身の無実?と日本の司法にいたぶられたことをアピールしたい気持ちが強かったとは思いますが、それを、「身振り手振りをつけて大げさにアピールしていた」と報じている日本のマスコミほどには、フランス人は、彼のスピーチを大げさとは、受け取ってはいないと思います。

 なぜなら、彼ら自身も感情が高ぶれば、同じようなジェスチャーをつけて話すからです。

 フランスで、度々、起こるデモの迫力を見慣れていると、日本のデモなどをたまに、テレビの映像で見かけたりすると、あまりの熱量の違いに愕然とさせられます。

 日本のデモってこんな感じだったっけ???
 なんだか、ピーチクパーチク言ってる感じ・・説得力が足りない・・と。

 だから、日本人が国際的な場面に臨む場合は、この熱量に照準を合わせないと、外国人にとっては、私が日本のデモを見て感じたように、日本人が、なんかピーチクパーチク言っている・・・としか映らず、伝わりにくいかもしれません。

 度々、このデモが過激化して、暴動のようになることにも、熱量の違いを痛感させられます。それこそ、血の気が多いなぁ・・と。

 私がフランス人の主人と付き合い始めた頃は、なんて、大げさな、芝居じみた話し方をする人だろうと思ったこともありましたが、フランスに慣れてくると、それは、決して、大げさなのでも、芝居じみているものでもありませんでした。

 ただ、何かに感動して、喜ぶときにも、何かに怒るときにも、その熱量は、明らかに日本人とは違い、そんな主人がいる家の中も、きっと、普通の日本人の家庭とは、違うのだろうなと思います。

 いつもいつも、喜んだり、怒ったりしているわけではありませんが、最近の私は、熱量が高い方が、少なくとも、楽しいことを、より楽しめるような気がしているのです。


 

 













 




 

2020年1月10日金曜日

フランス人の年金への思い入れ


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1月9日、デモが加熱して炎が上がるパリの街中


 昨年、12月5日に始まった、年金改革に反対するストライキやデモは、一向に収束の兆しが見えません。

 年が明けた1月9日でも、未だ、RATP(パリ営団交通)やSNCF(フランス国鉄)のストライキも続いており、フランス全土で、452,000人、パリだけでも、56,000人がデモに参加し、夕刻には、過激化する者も現れ、街中には、物が燃やされて、炎が上がり、けが人や拘束される人まで出て、昨年からの勢いは、衰えては、いません。

 一ヶ月以上も、メトロもバスも電車も満足に動かない、この不安定で、不便な生活を強いてまで、デモやストライキを続けるフランス人にとっての年金への執着は、日本人とは、比べようもないくらい強いように思います。

 殊に、公務員に関しては、職種にもよりますが、給料は安くても、労働条件や、安定した年金を受け取ることができることが、魅力の一つでもあるのです。

 また、フランスでは、この公務員の多いこと・・・。

 日本なら、とっくに民営化している国鉄や郵便局なども国営のままなのですから、公務員が多いのも致し方ありません。民営化どころか、年金制度改革だけで、この騒ぎなのですから、民営化など、夢のまた、夢でしょう。

 実のところ、フランスは、民主主義をうたいながらも、社会主義に限りなく近い国で、その実は、かなり特殊な国なのです。また、たとえ、民営企業であっても、労働組合の力が異様に強いところも、社会主義的なところです。

 フランス政府が主要株主である会社も多く、今、何かと話題のルノーにしても、株式の20パーセント近くをフランス政府が持つ、国の大きな息のかかった企業であり、エールフランスも他者と経営統合して、持株会社を作りましたが、未だ、主導権は、政府が握っています。

 国が守ってくれるからこそ、思い切り、反抗の旗をあげることができる、この悪循環。

 マクロン大統領は、これまでの大統領経験者が受け取ってきた特別年金を辞退して、全国民を対象に提案する新たなルールに自ら従うと表明したものの国民の納得は得られていません。

 フランス人の現行の年金制度への執着は、恐ろしく強いのです。

 私の周りでも、年金に強い関心を持っている人が多く、身近なところでは、主人は、毎年送られてくる年金のポイントの通知を後生大事に眺め、職場の年配の同僚などは、暇さえあれば、年金の計算をして、何かと話題にしています。

 そんな同僚をよそ目に見ながら、「年金は、計算しても変わらないから、今、働けよ!仕事中だろ!」と私は、心の中でひっそりと思っているのです。

 一番、驚いたのは、娘が初めてアルバイトを始めた時に、「年金のポイントに加算される!」と嬉しそうに年金のポイント確保を始めたことでした。「娘よ!お前もか!」と思った衝撃的な出来事でした。

 恋愛を楽しみ、バカンスをゆったりと過ごし、一見、かなり進歩的なイメージのフランス人ではありますが、実のところは、かなり保守的で変化を好まない人たちなのです。

 強いのは、年金に対する執念だけでなく、実のところは、権利を主張するという執念と熱量なのかもしれません。

 

















2020年1月9日木曜日

カルロスゴーン会見に見るフランス人流の自己主張の仕方

                                             「カルロス ゴーン」の画像検索結果



 年末の、映画のような、派手な日本からの逃走劇から、年明け、仕事始め早々の機をてらったカルロスゴーンの記者会見を見て、日頃の私の周りのフランス人流の言い訳の仕方をいくつもを連想しました。

 身振り手振りを交えながら、ひたすらに自分の非は、一切、認めないどころか、自分を優れた経営者であることを繰り返し、印象付けながら、自分の言いたいことをひたすら訴えるのです。

 それは、規模もレベルも違いますが、私の日常に度々、遭遇する、自分の非は、おかまいなしに、ひたすら自分の言いたいことを言うフランス人と、基本的な論法は、変わらないなと思ったのです。

 自分の言いたいことをひたすらに言う勢いと熱量で、話がいつの間にか入れ替わって、結果、自分の言いたいことで結論づけて、納得させられそうになってしまうのです。

 その上、彼は、記者会見では、英語を軸として、レバノン、イギリス、アメリカ、ブラジル、フランスと、それぞれの国の記者からは、その母国語で、質問を受け答えし、その間の通訳は、入らないので、アラビア語、英語、フランス語、ポルトガル語が全部、わからない人には、一瞬、煙に巻かれたような感じになります。

 事の真実は、わからないけれど、これだけの言語を難なく使い分けて、どんどん会見を進めていくのは、やはり、さすがと思わざるを得ません。

 これをわざと英語一本に絞らなかったことも、彼の作戦なのだと思います。

 日本の記者会見のように、司会者を置いたりはせずに、自分主導で記者会見を進めて、自分のペースに引き込んで行くのです。もちろん、用意した原稿はあるのでしょうが、日本人のようにそれをただ、読み上げるような熱量とは、まるで違います。

 私は、英語とフランス語しか、わからないので、その他の言語での質問に関しては、わからなかったけれど、やはり、フランス語での応答は、彼自身の話のリズムも良く、記者の質問に対しての答えの間の取り方なども絶妙でした。

 特に、フランス人記者からの「フランス政府に何か期待することは?」という質問に際して、間髪入れずに、「全くありません。」と言い切った返しは、あまりに小気味よく、お見事!と思いました。

 答えたくない質問に対しては、今日は、日本からなぜ逃げたかだけを話しているので、その他のことには、答えません、と逃げるのです。

 自分が日本の司法機関、拘置所でどんなに酷い目にあったかを、切々と訴えるわりには、ベルサイユ宮殿のパーティーの言い訳などは、日産やルノーの人間が参加していないことにも、招待者側なのだから、いなくてもおかしくない、などという意外とお粗末な言い訳なのも、なんだか、日頃、私が耳にするフランス人の言い訳のお粗末さに近いものを感じてしまいました。

 つまり、スピーチの熱量のわりには、中身がないのです。

 しかし、フランス、レバノン、ブラジル以外の記者は、全て英語で質問している中、「テレビ東京の〇〇です。」といきなり、日本語で自己紹介を始めた日本人記者には、呆れました。さすがに、これは、ないでしょ!と思いました。ゴーン氏も苦笑しながら、「英語じゃなきゃ、答えないよ!」と言っていましたが、これだから、舐められるのです。

 日本のマスコミの多くは、この記者会見から排除されたと聞きましたが、せっかく入れてもらえた記者がこんな具合なのには、とても残念です。

 本当なら、日本人の記者が一番、熱量のある質問を投げかける場面であるのに・・。こういう場面は、日本人の苦手とするところなのかもしれませんが、国際的なこんな場面に負けずに切り込んでいける人がいてくれたらと思います。

 これから、ゴーン氏は、どうなっていくのかは、わかりませんが、彼が、そんなに優れた経営者なら、なんなら、フランスに来て、RATP(パリ交通公団)やSNCF(フランス国鉄)をなんとかしてくれないかと思うのです。www

 

















 

2020年1月8日水曜日

空港の荷物検査 異常につまらないことにこだわるわりには結構杜撰




 カルロス・ゴーンの一件で、再注目された、空港の荷物検査。

 他国への旅行の場合は、荷物も大して多くないので、ロストバゲージ以外は、ほぼほぼ、問題は、ないのですが、日本から帰ってくるときだけは、それこそ死活問題とも言えるほどの大荷物なので、私にとっては、スーツケース一つあたり、23キロの荷物を娘と二人で、2個ずつをどれだけ、ギリギリに詰め込むかで、帰国前日から当日にかけては、大わらわになります。

 だいたい、荷造りの時点で、家で計量するのですが、それが、家での計量どおりかどうか、ヒヤヒヤものなのです。

 チェックインを担当してくれるスタッフによって、やたらと厳しい人と、そうでない人がいるのですが、厳しい人にあたると、ほんのわずかなオーバーも許されず、その場で、手荷物の方に少し、移してくださいなどと言われ、仕方なく、チェックインカウンターの前で、荷物を開けて、手荷物に移すという無様なことになるのです。

 最近は、スーツケースをチェックインする前の、X線検査に当たることは、あまりないのですが、以前は、X線検査で、ライターが入っているのを出してくださいとか、子供用の小さな手持ち花火を出してくださいとか、言われて、どうにかやっと、荷物を収めたスーツケースを開けて、荷物をかきまわして、中から探し出して、没収されたりと、えらい面倒なこともありました。

 おかしなことに、電気屋さんのオマケでもらった花火を取り上げられた娘は、悲しそうな顔をするでなく、私の方が、何もそんな子供の花火なんて、取り上げなくても・・と、残念がったくらいでした。

 しかし、帰ってきてみると、もう一つの花火が、娘の手荷物の小さなバッグの方に入っており、こちらの方は、見過ごされて、(私も知らなかったので、帰ってきて、びっくりでした)ちゃっかり、娘は、「もう一つあるから、一つ取られても良かった・・」と、にっこりしており、つまらないことに異常にうるさいわりには、あっさり、見過ごされているものも結構あるものだと思いました。

 フランスに入国の際は、日本からの直行便は、ほとんどノーチェックなのですが、たった一度だけ、止められて、荷物を開けるように言われたことがありました。

 それは、父が亡くなって、葬儀のために帰国した際のことで、帰りの飛行機の中でも、私は、泣いては、寝て、また、泣いて・・という感じだったので、パリに着いた時には、疲れ果てており、きっと、様子が普通ではなかったのでしょう。

 私は、その時に、試験のために、葬儀には、参加できなかった娘に頼まれて、父の遺骨のかけらを小さなフィルムの入れ物に入れて持っており、「これは、何だ?」と言われて、涙ながらに検査官に、「それは、父の遺骨のかけらだ!」と説明したのです。

 その時は、それ以外にも、細かく、持ち物を、もらった物まで、これは、どこで買ったかとか、いくらぐらいするものかとか、問い詰められて、やましいものは、何も持っていないのに・・・と、とても悔しい思いをしました。

 挙げ句の果てに、自分たちがもう帰りたい時間になったのか?(日本からの直行便は、仏、現地時間の夕刻に到着)「今日は、もういいから・・」と、私がスーツケースをしまい終わらないうちに、自分たちは、さっさと帰ってしまう始末。

 空港の税関や荷物検査場は、とかく、いい加減で、弱い人間には、強く出る、極めて横暴で、そのわりには、いい加減な、嫌な印象ばかりです。

 今回のゴーン氏の一件で、また、弱い立場の私たちの荷物検査が、異様に厳しくならないことを祈るばかりです。