2019年11月23日土曜日

パリの救急外来とアクシダン・ド・トラバイユ




 ある時、私は、仕事中に、会社の階段を踏み外して、階段から転げ落ちたことがありました。全くの私の不注意なのですが、休日出勤などが重なって、疲れていたこともありました。

 公衆の面前で、転んだりした時には、よっぽどの怪我でない限り、痛いよりも、その不恰好に転んだことの方が恥ずかしくて、バツが悪くて、慌てて、立ち上がったりしませんか?

 私もその時は、まさにそんな感じで、ブザマに転んだことの方が恥ずかしくて、必死に立ち上がり、特に外傷もなかったため、「大丈夫、大丈夫・・」と、そのまま、終業時間まで働いて、家に帰りました。

 後から思えば、その時に、救急車を呼んでもらっておけば、事は早かったのです。

 しかし、外傷がなかったために、少し、足を挫いたくらいだと、私も軽く考えていたのです。

 時間が経つにつれて、足は、みるみる腫れ上がり、家に着く頃には、ちょっと、かなりの痛みになっていました。夜になって、耐えきれずに、夫に頼んで、車で、救急外来のある病院に連れて行ってもらいました。

 当時、娘は、まだ小さくて、一人、家に置いておくわけにも行かず、娘も連れて、夫に頼んで、家から比較的近い、パリの夜の病院に連れて行ってもらいました。

 夜の救急外来というのは、こんなにも混んでいるものかというほど、次から次へと病人、怪我人がやってきます。とりあえず、受け付けだけして、順番を待っていました。

 しかし、混乱している病院の中で、待てど暮らせど、私の順番は、回ってきません。途中、何度か、声をかけてみたのですが、「ハイハイ!」と生返事だけで、延々、2時間くらい待たされたでしょうか? 

 私も頭にきていましたが、私以上に腹を立てた夫が、医者を捕まえて、「かれこれ、もう2時間以上も待たされている!これ以上、待たせるなら、ここから電話して、救急車を呼ぶぞ!」と、半ば、脅しに近い抗議をしたら、ようやく、診てもらえたのです。

 こういう時は、パリでは、黙っていたら、ダメなのです。黙っていたら、どんどん後回しにされますから、夫のように、「ここから救急車を呼んでやる!」は、いざという時に、パリでは、なかなか使える文言かもしれません。

 もし、私一人だったら、いつになったことか、全くわかりません。

 私は、骨折でもしているかもしれないと思い始めていたのですが、実のところは、打ち身から、私の足のふくらはぎには、血栓ができてしまい、ともすれば、骨折よりもややこしいことになりました。

 それから、しばらくは、私は、毎日、血栓を溶かす薬を飲みながら、毎日、血液検査に通い、薬の量を調節しながら、結局、一ヶ月近く、仕事を休むことになりました。

 足の痛みと腫れは、一週間もすれば、引くからと痛み止めの薬とクリームをもらい、その日は、家に戻りました。

 これが、仕事中の怪我だったので、フランスの法律によるアクシダン・ド・トラバイユ(仕事中に起こった怪我や病気の場合は、100%保険が適用になります)に当たるから、24時間以内に保険の手続きの書類を送るように言われ、その書類には、その場にいた事故を目撃していた人のサインも必要になるため、夫が代わりに私の職場に行って、私の同僚のサインをもらってきてくれました。

 ここが、フランス人だったら、大きな顔をして、休むところだと思うのですが、日本人の生真面目さを持っていた私は、一刻も早く、職場に復帰しなければ、と焦ってもいたのです。

 ところが、医者は、なかなか、2週間くらい経っても、ドクターストップは解いてくれませんでした。

 医者の方も仕事に行きたがる私を半分は、理解できない面持ちで、しまいには、「血栓がどんなに危険かわからないの? あなたは、死にたいの?」とまで言われ、さすがの私も、「死にたいのか?」とまで言われて、ようやく観念したのでした。

 今の私だったら、もっと、図々しく、休んでいると思いますが、あの頃は、まだまだ、全てにおいて、気持ちにも余裕がなかったのです。

 しかし、パリの救急病院の様子を垣間見て、できることなら、一生、お世話になりたくないと、心底、思わされたのでした。


2019年11月22日金曜日

フランスの職場での同僚のケンカ




 彼女は、私よりも、かなり、年配の、ふっくらとした、人の良さそうな、いかにも、おばちゃんという感じの人で、とても親切で、パリでの生活も長く、フランス語の環境の中で、子供を育てあげた経験もある、とても頼りになる女性でした。

 ですから、彼女と知り合った当初は、まだ小さかった娘のことも、とても可愛がってくれていましたし、子供と遊ぶのが上手というか、よく娘の相手になってくれたりもし、学校のことや、フランスでの日本語の教育についても随分とアドバイスをいただいたりしていました。

 彼女のご主人は、日本人でしたが、とてもリッチな人で、別々の職場ではありましたが、二人とも働いていましたので、パリにアパートを何軒ももつ、お金持ちの奥様でもありました。

 ですから、いつもおしゃれで、身綺麗にしており、気前もよく、威勢も良い人でした。

 彼女の話すフランス語は、決して上手ではないのですが、臆することなく、堂々と話すので、勢いに圧倒されて、何んとなく、そのまま通ってしまうようなところがありました。

 明るく、おしゃべりな彼女ですが、自分の素性については、あまり話すことはありませんでしたので、彼女が日本のどこから来た人なのか? どんな暮らしをしていたのか? 私は、一切、知りませんでした。

 私は、基本的に、人のことを詮索するのが好きではありません。

 会話から、自然と出てくることで知りうる情報以外は、個人的なことは、聞きません。

 おそらく、もう、彼女は、日本で暮らした年数よりも、パリに住んでいる年数の方が長くなっているので、今さら、日本での生活の影は、あまり見えなくなっていたのかもしれません。

 何よりも、彼女が隠したかったらしいのは、彼女の年齢で、周りのみんなが何気に話していれば、出てくる年齢の話題になると、普段は、おしゃべりな彼女も、微妙に避けるので、まあ、女性だし、ある程度の年齢になれば、歳の話は、したくないものなのだろうくらいに思っていました。

 しかし、だんだんと時が経つにつれて、彼女のあの威勢の良さや雰囲気から、何か、表面とは、違うものも感じていました。

 日頃は、温和な彼女ですが、ある時、職場で、同僚と、もの凄いケンカを始めて、その迫力に、息を飲みました。

 ケンカになった相手も、最初は、対等に話していたのですが、そのうちに、彼女の迫力に押されて、プイッと、休憩室へ去っていこうとしたのです。

 すると、頭に血が上っていた彼女は、相手を追っかけていき、「このアマが!!」と叫んだのです。

 「このアマ・・・」始めてライブで聞いた言葉でした。

 なかなか、日本にいても聞かない彼女の言葉に、私が、うっすらと感じ始めていた、何か、表面とは、違う彼女の一面を見た思いがしたのです。

 












 

2019年11月21日木曜日

パリに住む不思議な日本人のゲイのおじいさん




 パリには、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーをはじめとするセクシュアルマイノリティの総称)の人が多いような気がします。

 もしかしたら、特に多いわけではないのかもしれませんが、そのことを隠さずに堂々と生きている人が多いので、LGBTの人が住みやすく、日本人でもパリの方が居心地が良いのかもしれません。

 実際に、同性で婚姻関係を結んでいるカップルも、いくつか知っています。

 そんな中でも、私が多く知っているのは、もっぱら、ゲイの人が多いのですが、皆、とても、インテリで、礼儀正しく、おしゃれで、レベルの高い暮らしをしています。

 ですから、仕事の関係で、ご一緒することがあったりしても、とても、頭の回転もよく、気働きもよく、博学なので、話をしていても、とても興味深く、大変、勉強になります。

 いわゆる女装などをしているわけではないので、ちょっと見には、わかりませんが、少し、話していると、だいたい、すぐにわかります。(本人も隠していないので・・)

 その中でも、私が知るゲイの人の中に、強烈な印象のとても、おもしろい、日本人のおじいさんがいました。

 私が勤めていた会社の役員の人と知り合いで、自宅には、ファックスを置いていないからと、ファックスの受信や送信をうちの会社でやったりして、事務所がわりのようにしていましたので、彼宛にファックスが届いたりすると連絡してあげたりしていました。

 彼は、80も過ぎていたと思うのですが、とても元気で、饒舌で、いつもエネルギーに満ち溢れ、非常に博識で、ブローカーのような仕事をしていたのか、交友関係もとても広く、芦田淳やジョエルロブションとは、特に親しい様子で、よく、彼らの話を聞かせてくれました。

 ロブションのところで、食事をしたりしても、決して、バスやメトロには乗らずに、健康のためと、必ず、歩いてやってくるのです。

 また、フランスやイギリス、アメリカの財界人、日本の芸能人などにも知り合いが多く、普通の人は、とても足を踏み入れる機会がないような、晩餐会のメニューやミシュランなどにもきっちり意見をする人で、その常に前向きな姿勢には、度々、舌を巻きました。

 古い時代の人ですから、パソコンなどは、一切、使わない代わりに、驚くほどに筆まめで、また達筆で、日本語はもちろん、英語やフランス語の手紙なども、美しい文章と美しい文字で綴り、よく、彼の書く手紙をコピーさせてもらって勉強させていただきました。

 多方面にわたる手紙を全て、保管し、また、驚くほど、記憶しているので、以前の記憶から、保管していた手紙や写真をすぐに引き出してくることができるのにも、感心させられるばかりでした。

 おしゃれにも行き届いた人で、その日の服装に合わせた靴はもちろん、靴下から、時計や一緒に持つ紙袋まで、しっかりとコーディネートされていました。

 また、地方に住む現在の恋人との逢瀬も欠かすことなく、定期的に彼の元へと訪れていました。

 今となっては、芦田淳もジョエルロブションも亡くなってしまいましたが、彼は、きっと元気に、今日もパリの街を歩いていることと思います。

 











2019年11月20日水曜日

フランスにもいる困ったママ友




 私は、日本で子育てをしたことがないので、日本のママたちの公園デビューとか、ママ友同士のお付き合いというものを知りませんが、ママ同士のお付き合いが子供同士の関係にも影響するとかいう話を聞いたりすると、なかなか大変そうで、そんな時は、パリで良かった・・と密かに思います。

 日本にいる私の従姉妹などは、息子が大学生だというのに、野球部のお手伝いに行っていたなどというので、ひっくり返ってびっくりしました。

 だいたい、パリの場合は、ほとんどのママが働いていますので、夏休みなどバカンス期間中は、別として、通常の保育園、幼稚園、小学校の拘束時間も長く、平日に子供を公園で遊ばせるということも、あまり、ありませんし、週末は、平日にできない買い物や家事に忙しく、あとは、家族で過ごすことが多いので、あまり、ママ友同士のお付き合いというものをしてきませんでした。

 それでも、娘は、小・中・高校と同じ学校に通っていたので、小さい時からの顔見知りのママたちは、少数ですが、いますし、小さい頃は、それこそ、しょっちゅう、誰かのお誕生日会があったり、子供がお友達の家に遊びに行ったりといったことがあったので、顔を合わせれば、立ち話などをしたり、また、窮地に陥った時には、(フランスの小学校は、水曜日がお休みで、急に、どうしても、休めなくなってしまった時など)自分の家の子供と一緒に子供を預かってくれたママもいました。

 ですから、お互いが、そんなに深入りはせずに、適度な距離を保っていて、必要な時だけ、適度に助け合う感じが、私には、ちょうど良かったのです。

 それでも、中には、なかなか、困ったママもいました。

 家も近所で、娘とは、どういうわけか、幼稚園から、ず〜っと一緒のクラスで、バレエのレッスンまで一緒でした。あちらも一人娘さんで、ご両親は、教育熱心な方でした。

 当然、お誕生日会などに呼ばれても、一緒にお呼ばれすることも多く、年齢とともに、お家でパーティーをするだけでなく、主催者のファミリーが、子供たちを連れて、アスレチックに招待したり、映画を見に連れて行ったりと行動範囲も広くなっていきました。

 その日も、誰かのお誕生日会で、集合場所には、移動のための2台の車が子供たちをピックアップしにきていたのです。

 彼女は、遅れてやってきて、「自分の子供が乗る場所がない!」と、ヒステリックに怒り出して、周囲を凍りつかせたのです。

 他の親が気を使って、「じゃあ、うちの子どもたちは、別に連れて行くから・・」と、その場は収まりましたが、自分の子供のことだけに目の色を変えて、怒る彼女に、みんな、ちょっとビックリしたようでした。

 自分の子供可愛さのあまりに、自分の子供のことしか見えなくなるタイプです。

 私が、どうにも都合がつかなくて、別のママに子供を預かってもらった時も、どうして、うちの子は、入れてくれないの?と割り込んできて、文句を言われたこともありました。

 また、人のうちの子供の成績などがやたらと気になるようで、私も知らないのに、「オタクのお嬢さんは、今回も、○位で良かったわね〜」などと、外で顔を合わせると、度々、言われたりして、ギョッとしたりもしました。

 それでも、それぞれ、高校を卒業し、別々の学校へ進学して、しばらくして、久しぶりにバス停で、ばったり彼女に会いました。

 なんだか、もう、色々なことが吹っ切れて、なんだか、ひと時代をともに過ごした戦友に久しぶりに会ったような、ホンワリとした懐かしさを感じました。

 たしかに、ひと時代が過ぎたのです。






 

2019年11月19日火曜日

時々、見かけるパリにいる、虚言癖の人




 ウソつき〜〜〜! と、冗談めいて、茶化せるぐらいの嘘や冗談は、日常によくあることです。また、人を傷つけまいとついてしまう嘘もあります。

 しかし、私は、パリにきて、なかなかのウソつきに会いました。

 嘘というより虚言癖とでもいうのでしょうか? 

 別にこちらが聞いてもいないことを自分でふれまわるのです。

 海外にいるから、素性がバレにくいとでも思っているのでしょうか?

 だいたい、彼女のつく嘘は、聞くに耐えないような自慢話なので、聞き流して、生返事をするのですが、それをいいことに、彼女は、とうとうと、誰に対してでも、自慢話を続けるのです。

 だいたいが、自分や自分の連れ合いが両家の子女であり、どんなに育ちが良いかということを匂わせようとするような内容です。

 それでも、話をいくつか聞いていれば、およそ辻褄があっていないので、すぐにそれが嘘であるということが、誰にでも、わかってしまうので、滑稽でしかありません。

 だいたい、育ちの良い人は、そんなつまらない自慢話は、しないものです。

 なぜ、子供でもわかるような嘘を彼女がつき続けるのか、よほど、自分の素性にコンプレックスを抱いて育ったのだろうと、逆に思ってしまいます。

 だいたい、大人になれば、そして、海外であれば、なおさらのこと、色々と事情を抱えている人も多いので、親しくならない限りは、そうそう個人的なことには、立ち入らないのが普通です。

 少しずつ、話をしているうちに、たまたま、実家が近かったり、共通の知り合いが見つかったりという偶然や、何かのきっかけがあったりして、それから、自分の実家や家族の話をしたりすることは、ありますが、だいたいが、同じ日本といえども、生まれた場所も育った場所も年齢も違えば、敢えて、自分の日本での生活を話すことはありません。

 でも、彼女が、ある時、自分の自慢話に乗っけて、違う人の悪口を言い始めたのです。「あの人は、高卒だから、まったく程度が低くていや〜ね〜・・。私たちみたいに高学歴じゃないから、わからないのよ!」と。

 私は、絶句しました。「私たち・・たち・・ってなに?」「高学歴って・・???」

 しかし、海外だからなのか、彼女に限らず、虚言癖の人は、時々、見かけます。

 その大半が見栄っ張りで、自慢したがりの人です。

 すぐわかる嘘までついて、自慢して、さぞかし、虚しくて、心が満たされないだろうと思いきや、一向に彼女たちは、そんな風に感じている様子はありません。

 それが、虚言癖の癖というべきところなのか? 次から次へと、嘘が口を突いて出てくるのです。

 まったく、気の毒な病気です。

 



 

  

2019年11月18日月曜日

パリ一人暮らしの日本人女性の死




 パリには、一人暮らしの日本人も多いのです。留学生や仕事で来ている場合など、考えてみれば、もしかしたら、むしろ、一人暮らしの方が多いのかもしれません。

 今日の話の主人公の女性は、パリで個人で仕事をしておられた女性の亡くなった時の話です。

 彼女とは、顔を合わせれば、世間話をする程度の知り合いでしたが、年齢も私よりもかなり上でしたが、いつも気さくに話をしてくださり、とてもサバサバとした方で、とびっきりの美人というわけではありませんでしたが、さり気ない、おしゃれの上手な方で、決して、派手すぎず、でも、いつも洗練された身なりをされていて、メイクやヘアもいつもきれいにしていらっしゃる素敵な方でした。

 よほど、親しくならなければ、家庭の事情などは、自分から話さない限りは、こちらからは、聞くこともないので、彼女が一人暮らしだということは、知っていましたが、それ以上は、以前、アメリカで暮らしていたこともあるということくらいしか、彼女については、知りませんでした。

 最後に彼女に会ったのは、パリの街中で、彼女がその日に買った化粧品について、少し話した程度でしたが、あまりに彼女が急激に痩せていたので、正直、これは、悪い病気ではないか?と、ちょっと不安に感じたのを覚えています。

 しかし、その時の彼女は、いつも通りのサバサバした様子で、職場のグチをこぼす私を励ましてくれていたのです。

 ところが、それから、約二週間後、彼女が亡くなったという知らせが届いたのです。

 パリに一人暮らしで、身寄りのないことを知っていたので、見送る人もあまりいないだろうと思い、私は、友人と一緒に、彼女に似合うと思われる赤いバラの花束を買って、彼女のお葬式が行われるという、ペール・ラシェーズという墓地に行きました。

 ペール・ラシェーズは、パリ東部にあるパリ最大の墓地で、イヴ・モンタンやエディット・ピアフ、ショパン、モリエールなど数々の著名人が埋葬されていることでも有名な墓地です。

 フランスでは、あまり火葬が一般的ではないのですが、ペール・ラシェーズでは、火葬することも可能なため、日本人がパリで亡くなった場合は、ペール・ラシェーズを利用する人も多いようです。

 墓地は、広く、入り口も数カ所あり、うっかり違う入り口から入ると墓地の中を延々と歩くことになりますが、きれいに整えられた墓地は、時間があるならば、お散歩して歩くのも悪くありません。

 彼女の葬儀は、火葬場のすぐ近くにある葬儀場の小さな一室で行われましたが、最初にびっくりしたのは、彼女の本名が違う名前だったことです。

 ペール・ラシェーズの入り口で、葬儀が行われている人の名前を言えば、広い墓地のどこで、葬儀をやっているのか、教えてくれるのですが、彼女の本当の名前は、私たちが思っていた名前では、なかったのです。

 つまり、日常、パリで彼女が使っていた名前は、仕事のための名前だったのです。

 何か、事情があったのかもしれませんが、彼女の場合、パリで使っていた名前は、名前を大きく出して、広告を張って、仕事をしたりしていたので、彼女の仕事上の屋号のようなものだったのかもしれません。

 彼女の葬儀は、彼女のごくごく近しい友人が取り仕切っており、突然、亡くなったかに思われた彼女の死の経緯を説明してくださいました。

 その方によれば、彼女は、乳がんを患っていたのですが、発見された時には、かなり、ステージが進んでいたため、手術も治療も一切、断り、最後のギリギリまで、日常通りの暮らしを続ける選択をし、身の回りのことを整理して、最後の葬儀の段取りまで、自分でして、あとのことは、その方に全て、託されていたのだそうです。

 亡くなった顔を葬儀に来られた方に見せないでほしい。そして、葬儀に来てくださった方には、元気だった頃の彼女を覚えていてほしいというのも彼女の遺言だったそうです。

 全ての治療を断るなんて、自殺行為だと思う人もいるかもしれませんが、むしろ、私は、彼女が最後まで、生きることを選んだように思うのです。

 私は、彼女が自分の人生最後の締めくくりを受け入れつつ、しっかり思い描いて、それを全うした彼女の選択を潔く、あっぱれだと思いました。

 誰だって、死にたくはないし、いざとなれば、藁をも掴む思いで、辛い治療に耐えようとすることが多いと思います。

 実際に、パリでガンで亡くなった友人は、最後の最後まで、諦めずに、抗がん剤や化学療法に耐え、結局のところ、死ぬほど苦しい思いをしながら、亡くなっていったのです。それは、それで、彼女の選択でしたから、それを否定するつもりもありません。

 完治しないまでも、治療しながら、ガンと共存して生きるという道もあるのかもしれませんが、最後まで、辛い治療に耐えながら、頑張ることばかりがよいとは、私には、思えないのです。

 彼女のように、自分の力で生きられるまででよいと受け入れることも、彼女の強さなのだと思ったのです。

 ベッドの上での命の時間を長らえるより、最後まで、自分で日常の生活をし、できる限りの後の始末まで、きれいにやってのけた彼女を立派な女性だったと、改めて、彼女のお葬式に行って思ったのです。

 彼女は、間違いなく、最後のギリギリまで、彼女の日常をきっと、それまでには、なかった愛おしい気持ちで生きていたのです。

 だって、彼女が、亡くなる二週間前に買っていたのは、いつも彼女が使っていた、高級な、保湿用のクリームだったのですから。


 







 

 

 

2019年11月17日日曜日

パリにいた、ある日本人カップルの離婚劇





 私が出会った頃、彼女は、30代前半の女性で、日本人の絵描きさんのご主人と二人でパリに来ていました。絵描きさんといっても、当然、絵で収入があるわけでもなく、かといって、フランス語のほとんどできない人が、容易に他の仕事につけるような状況にもなく、収入のほとんどないご主人を彼女が働いて、支えていました。

 パリに来るときは、二人で夢をふくらませて、地方から東京に出てくるような気分で、来てしまった感じで、いくら、子供はいなくて、夫婦二人で身軽とはいっても、現実は、そんなに簡単ではなかったようです。

 それでも、彼女は、彼女なりに、パリへの憧れなどもあったようで、わずかなお給料で、ご主人の生活を支えながらも、おしゃれが好きで、しかも、けっこうブランド物が好きだったりして、生活を切り詰めながらも、バーゲン期間などは、必死にブランド物のセールに並んだりしていました。

 当初、といっても、その頃は、私自身は、まだ、娘も小さくて、子供を預けて仕事をしていたので、もう通勤と子育てで、いっぱいいっぱいだったので、他の人との付き合いは、ほとんどなく、彼女についても、周りから、話を漏れ聞く程度で、よく彼女のことも知らなかったのですが、ご主人が作ってくれたお弁当を持ってきていたり、何か、彼女が忘れ物をすると、ご主人が届けてくれたりしているというのを聞いていたので、「二人で夢を持って、パリに来ている夫婦は、仲がよいのだなぁ・・」くらいに思っていました。

 それから、数年経って、あるとき、彼女の家の電話が壊れてしまったという話を聞いて、「もし、必要なら、家に使っていない電話があるけど、使いますか?」と申し出たところ、ぜひ、欲しいというので、彼女に電話をあげたりしました。

 その時も、私は、まあ、「電話が壊れたのね・・」と思っただけで、別にその事情については、何も尋ねませんでした。

 ところが、そのうち、どこからか、彼女がご主人と、あまりうまくいっていなくて、夫婦げんかが絶えなくなっているらしく、電話もその際に、ご主人が壊してしまったらしいという話が漏れ伝わってきました。

 ケンカの原因は、わかりませんが、不安定な生活のストレスの中では、ケンカの原因は、いくらでもありそうです。

 それから、まもなくして、彼女が離婚して、日本に帰るということになったらしく、私は、あげたつもりだった電話が彼女から戻ってきました。

 ただ、少し、妙だな?と思ったのは、その時に、彼女が、自分は、もしかしたら、また、パリに戻ってくるかもしれないからといって、荷物を全部、日本へは、引き上げずに、一部をパリの知り合いの家に預けて行ったということでした。

 勤めていた会社も辞めて、離婚して、日本に帰るというのに、また帰ってくるかもしれない・・離婚するなら、ご主人が一人で日本へ帰るのでもよいのに、ご主人の方は、彼女やパリにも未練があったのか、彼女も一緒に日本に帰ることで、離婚に同意したようなのです。

 とにもかくにも、すったもんだのあげくに、彼女は、ご主人と二人で、日本へ帰って行きました。そして、数ヶ月後に、果たして、彼女は、一人でパリに舞い戻ってきました。

 再び、彼女は、パリで、周囲の助けを借りながら、アパートを探し、元いた会社に頼み込んで、復職しました。

 離婚という人生の一大事に、あまり、彼女を深く詮索することもいけないと思っていましたが、彼女の方は、意外と立ち直りも早いなぁと、なんとなく、傍目から思っていたのです。

 ところが、また、それから、半年後くらいに、びっくりするようなニュースを聞いたのです。

 彼女がまた、パリに住んでいる、別の日本人の男性と再婚して、日本へ帰るというのです。

 結局のところ、彼女には、別の男性ができていて、離婚するために、なんとか、ご主人を日本へ連れて帰り、彼女は、別の人と再婚するために、再び、一人でパリにやってきていたのです。

 離婚も渋々受け入れたというご主人が、もし、パリに残っていたら、彼女の再婚には、黙ってはいないはずです。

 これは、パリを舞台にした、なかなかエグいドラマのような展開で、私は、あまり、関わり合いは、ありませんでしたが、その間、パリでの彼女の引越しを手伝ったり、アパートの保証人になってくれたりした人たちも、一切、彼女に他の男性がいたことは知らずに、ひっくり返って驚かされたのでした。