2020年2月22日土曜日

日本でフランス人を見かけるとちょっと嬉しい不思議




 現在、日本に一時帰国していて、今日は、久しぶりに学生時代の友人に会い、これまた、久しぶりに表参道の街を歩いてきました。毎年のように日本に来ていても、表参道に立ち寄るのは、本当に久しぶりだったのです。

 駅の構内のとあるお店で待ち合わせをしたのですが、もう表参道に行くのも10年以上ぶりで、全くもって、おのぼりさん状態なので、駅の構内で、さまよい歩くのも嫌だと、予め、ネットで表参道の駅の構内をチェックしてみました。

 すると、駅の構内の見取り図には、いくつかのスペースに分類されていて、そのネーミングが、ESPACE TOUJOURS(エスパス・トゥジュール)、MARCHE DE METRO ( マルシェ・ドゥ・メトロ )、ESPACE APPÉTIT(エスパス・アペティー)、ESPACE MODE(エスパス・モード)、ESPACE BEAUTÉ(エスパス・ボーテ)と全て、フランス語になっているので、ビックリしました。

 これまで、帰国した際にもデパートを歩いていたりすると、やたらとフランス語の名前のお店があり、名前だけでなく、フランスのお店も多いことには、気付いていましたが、まさか、久しぶりの表参道で、駅の構内までに、フランス語が使われていることに、驚かされたとともに、ちょっと嬉しい気持ちがしたのです。

 今回も、日本に帰ってきて以来、毎日のように美味しいものを食べ歩き、今日も表参道の街を歩きながら、美味しいお蕎麦を食べ、日本を満喫して、私は、どっぷり日本に浸かっているような気になっていたのです。

 表参道は、フランスのブランドの路面店も多い中、適当に外からウィンドーを眺めながら、歩いていると、フランスの冷凍食品のお店、PICARD(ピカール)があるではありませんか?

 「話には、聞いていたけど、日本のピカールは、どんな感じなんだろう?」と思い、思わず、立ち寄ってしまいました。

 すると、お店に入るなり、フランス人の店員さんが、「パン・オ・ショコラの試食は、いかがですか?」と近づいて来たのです。ここは、日本ですから、店員さんも、日本語で話しかけてくださったのですが、この人は、間違いなく、フランス人だ!と思い、「フランス人ですか?」と思わず聞いてしまいました。

 すると、彼女は、嬉しそうに、「はい!フランス人です!」と答えてくださったので、そこからは、自分もなんだか、嬉しくなって、フランス語で少し彼女とお話をしました。

 友人も一緒だったので、ほんの短い会話でしたが、なんだか、思わぬところで、フランス人に遭遇して、知らない人ながら、少し話せて、なんだか、とても嬉しくなっている自分にビックリしました。

 日頃、フランスでは、なかなか文句もタラタラで、ましてや見知らぬフランス人と話したからといって、別に何の感情も持たないのですが、日本という場所で、不意に、日本で生活をしているフランス人と話をちょっとしただけで、不思議な嬉しさが湧いてくることに、自分でも、ちょっと驚いたのです。

 現在、日本に一時帰国していて、今日は、久しぶりに学生時代の友人に会い、これまた、久しぶりに表参道の街を歩いてきました。毎年のように日本に来ていても、表参道に立ち寄るのは、本当に久しぶりだったのです。

 駅の構内のとあるお店で待ち合わせをしたのですが、もう表参道に行くのも10年以上ぶりで、全くもって、おのぼりさん状態なので、駅の構内で、さまよい歩くのも嫌だと、予め、ネットで表参道の駅の構内をチェックしてみました。

 すると、駅の構内の見取り図には、いくつかのスペースに分類されていて、そのネーミングが、ESPACE TOUJOURS(エスパス・トゥジュール)、MARCHE DE METRO ( マルシェ・ドゥ・メトロ )、ESPACE APPÉTIT(エスパス・アペティー)、ESPACE MODE(エスパス・モード)、ESPACE BEAUTÉ(エスパス・ボーテ)と全て、フランス語になっているので、ビックリしました。

 これまで、帰国した際にもデパートを歩いていたりすると、やたらとフランス語の名前のお店があり、名前だけでなく、フランスのお店も多いことには、気付いていましたが、まさか、久しぶりの表参道で、駅の構内までに、フランス語が使われていることに、驚かされたとともに、ちょっと嬉しい気持ちがしたのです。

 今回も、日本に帰ってきて以来、毎日のように美味しいものを食べ歩き、今日も表参道の街を歩きながら、美味しいお蕎麦を食べ、日本を満喫して、私は、どっぷり日本に浸かっているような気になっていたのです。

 表参道は、フランスのブランドの路面店も多い中、適当に外からウィンドーを眺めながら、歩いていると、フランスの冷凍食品のお店、PICARD(ピカール)があるではありませんか?

 「話には、聞いていたけど、日本のピカールは、どんな感じなんだろう?」と思い、思わず、立ち寄ってしまいました。

 すると、お店に入るなり、フランス人の店員さんが、「パン・オ・ショコラの試食は、いかがですか?」と近づいて来たのです。ここは、日本ですから、店員さんも、日本語で話しかけてくださったのですが、この人は、間違いなく、フランス人だ!と思い、「フランス人ですか?」と思わず聞いてしまいました。

 すると、彼女は、嬉しそうに、「はい!フランス人です!」と答えてくださったので、そこからは、自分もなんだか、嬉しくなって、フランス語で少し彼女とお話をしました。

 友人も一緒だったので、ほんの短い会話でしたが、なんだか、思わぬところで、フランス人に遭遇して、知らない人ながら、少し話せて、なんだか、とても嬉しくなっている自分にビックリしました。

 日頃、フランスでは、なかなか文句もタラタラで、ましてや見知らぬフランス人と話したからといって、別に何の感情も持たないのですが、日本という場所で、不意に、日本で生活をしているフランス人と話をちょっとしただけで、不思議な嬉しさが湧いてくることに、自分でも、ちょっと驚いたのです。

 日本にいるフランス人とフランスにいる日本人、真逆の環境ではありますが、なんか、日本の社会の中で、幾ばくかの居心地の悪さを感じつつも、順応している彼女の姿が、妙な同士のような感覚が一瞬、芽生えて、私は、妙に、嬉しかったのです。










2020年2月21日金曜日

日本の買い取り業社いろいろ




 父が亡くなった後に、空き家になった実家の片付けにあたって、これまで、日本の出張買い取り業者に随分と家に来て頂きました。おそらく、これまでに、10社以上は、来て頂いたと思います。

 まず、ネットで検索して、ある程度、あたりをつけて、種類別に、絵画・骨董、食器、着物、家電、家具、などなど、お店によって、買い取り品目にも、それぞれの得意分野があり、特典や持ち味も違います。

 少しずつ、処分していく場合は、お店に持ち込みをするということもできますが、我が家のように、ほとんどを処分したい場合で、私のように一時帰国をしている限られた期間の中で処分しようと思う場合は、買い取り業社に自宅に来て頂くのが一番効率的です。

 ほとんどのものが、二束三文になる場合が多いのですが、その年によって、時代の潮流というものもあるので、前年は、もっと高い値段で査定されていたのに、今年になったら、ガックリ値が下がってしまった・・なんていうものもあります。

 要は、需要と供給の関係なのですが、トレンドで、こういうものを大量に買いたがっている中国人が多い・・などとなったりすると、少し値段が上がったりするので、同じものでも、値段は、年によって、変動します。

 中には、他のものを(例えば、着物や食器類などと)、ネット上の広告で歌っていても、結局は、貴金属狙いの買い取りであったりする場合も多いので、その見分けは、必要です。

 また、電気製品などは、最近の法律で、購入してから、5年以上経っている電気製品については、規制があり、なかなか、買い取ってもらうのが、難しく、たとえ、ほとんど使っていない製品であっても、買い取ってもらうのは、大変です。

 しかし、出張に来てくださる方から、少しずつ、情報を仕入れて、だんだんと買い取りの相場や、逆に、これは、フランスで売った方が良い・・こういうものは、ここの買い取り屋さんに頼んでみた方がいいなどと教えてもらえたりもします。

 また、お話していると、買い取りとは、関係のない、その人の人となりが覗けて、なかなか、それぞれに個性豊かで、やはり、人と人とのやりとりですから、相性もあり、会社自体のやり方は、もちろんですが、買い取りに来てくださるその人によって、関係性も変わってくるので、良い人に当たると、楽しくなります。

 私は、このところ、エコリングという会社のAさんという方をとても頼りにしており、帰国するたびに、ご指名で、自宅に来て頂いています。

 エコリングの良いところは、とにかく、かなり、広範囲のものを引き取ってくださることで、どんなものでも捨てずに無駄にしないで済むので、使えるものを捨てるという罪悪感から救われます。また、色々な業者から見ても、価格のつけ方も、なかなか妥当で、信頼できます。

 ご本人の専門でない分野に関しては、写真をとって、本部の鑑定士に送って、鑑定してもらえるのも、便利です。(これは、どこの買い取り業者も同じ方法をとっていますが・・。)

 彼は、とても、誠実な人で、どちらかというと、一見、いじられキャラのような感じを受けますが、なかなか芯はしっかりしていて、人当たりも良く、ここ数年で、みるみる成績をあげているらしく、地方から出てきて、都内の店舗を担当するようになり、我が家の近辺の担当になったと思ったら、現在は、渋谷、松濤への進出を請け負っており、どんどん、出世しています。

 今では、もう、帰国するたびに、会える友人のような、親戚のような、そんな気分です。

 今日、彼が家に買い取りに来てくれている間にも、他の買い取り業者からのセールスの電話があり、買い取り業者もなかなか生き残り競争が激しく大変なようです。

 買い取り業者は、5〜6年前に全盛期を迎え、その数も爆発的に増えましたが、ここ数年は、減少の傾向にある中、エコリングは、まだまだ、店舗を増やしていて、なかなか、頑張っています。

 中には、買い取り業者を名乗って、なんとか家に入り込み、詐欺を働いたりする事例もあるので、決して、油断はできません。

 実家の片付けから、思わぬ世界を垣間見て、また、新しい人との繋がりができて、それなりに楽しんでいます。

 今は、Aさんに、なんとか、会社の藩領を拡大して、なんとか、パリに来てくれるように頼んでいます。(笑)(調べてみたら、エコリングは、すでにフランスに進出している模様で、パリに帰ったら、フランス支社に連絡してみようと思っています。)

 他の買い取り業者さんから聞いた、フランスの方が高く売れると聞いた結城紬などの着物は、毎回、持って帰りたい莫大な量の食料に負けて、私の帰国の荷物には、入れず、なかなか、フランスに飛び立つことができずにいます。

 

2020年2月20日木曜日

メルカリは、フランスでは、不可能だ。




 前回に、日本に帰国した際に、メルカリに初チャレンジして、売れ残ったものは、出品停止にして、そのまま、アカウントをキープしたままにしていったので、そのまま、そのアカウントが使えるのかどうか、定かではなかったので、特に、今回は、メルカリに出品するための品物を持ってきてはいませんでした。

 それでも、前回、売れ残ったものは、そのまま、実家に置いておき、今回、日本に来た際に、メルカリのサイトを開いて、自分のアカウントを再公開して、データとして残っていた商品を再度、出品しておきました。

 数日間は、何の反応もなかったので、出品している商品を一つ一つ、「編集する」として、値段をほんの少し下げたりして、再出品したところ、あっという間に、セリーヌのバックとモノプリのエコバッグが売れました。

 どちらも自分のいらないものを、他の人が同じようなものをメルカリに出品している値段を参考にして、値段を設定し、大して、期待もせずに、載せていたのです。

 これで、何食かまた、美味しいものが食べられます。(笑)

 日頃、パリでも、メルカリと似たようなシステムの leboncoin(ルボンカン)というサイトを使って、不用品を売っているのですが、やはり、メルカリは、システムが上手くできていて、leboncoinに比べると、非常に楽で、簡単です。

 メルカリは、仲介手数料が取られますが、手数料を考えても、あまりある便利さ、簡単さ、安全さで、改めて、メルカリがフランスにもできてくれないかと切に思いました。

 しかし、メルカリの便利さの大きな要因の一つは、セブンイレブンなどのコンビニで、24時間発送を受け付けてくれることで、手続きをスマホで済ませると、携帯にQRコードを読み込んで、相手の住所やこちらの住所なども知らせることなく、すぐに発送できることで、支払いも、ある程度の金額が貯まると銀行口座に振り込まれることになっている点です。

 フランスの場合は、この郵送にまず、問題があり、スムーズに郵便物が届く可能性がかなり未知数だということです。メルカリがもし、フランスに参入しても、日本のようなスムーズなやり取りは、この郵送の時点で、はっきり言って、無理です。

 実際に、メルカリは、イギリスに進出して、失敗しています。それには、やはり、この流通の問題が大きく日本と異なっていることも大きいと思います。日本の流通事情は、世界的にもかなり優れているのです。

 ユニクロがフランスに出店した際に、日本のような、スムーズなレジのシステムや店内の整頓やストックの管理を浸透させるのには、大変な努力をして、フランス人の教育をしたと言われています。

 実際に、一般のフランスの店舗に比べて、ユニクロのレジは、現在は、非常にスムーズに日本に近い形になっていますし、店内も整頓されて状態を保っているのは、フランス人のスタッフをとことん教育したすごい結果だと思います。当初は、ユニクロに入社しても、すぐに音を上げて辞めてしまうフランス人が続出して、四六時中、スタッフを募集していました。

 しかし、メルカリの場合は、底辺で働くことになるのは、郵便局、または、配送会社の人たちです。その膨大な人材をメルカリのために教育し直すことなど、ハッキリ言って、不可能です。

 たまに日本に帰ってくると、改めて、感心することに溢れていますが、このメルカリのシステムに再び触れて、改めて、日本ってスゴいと思ったのです。

2020年2月19日水曜日

母が亡くなった日の夜




 時差ボケで、夜中に目が覚めて、キッチンのテーブルに座ったら、母が亡くなった日の夜のことを思い出しました。

 あの日も私は、夜中に、ここに、こうして座っていたことを。

 母が例年どおり、夏の間、父と山荘に出かけていて、その山荘で倒れ、山荘の近くの病院に運ばれて、どうにか、すぐに致命的なことには、ならずに取り敢えずは、落ち着いているという報せを受けて、夏休みの前半に日本に帰国し、新学期が始まったばかりだった私は、心配しながらも、再帰国することをためらいながら、様子を伺っていました。

 アメリカに転勤になったばかりだった弟は、すぐに帰国して、母の容態を見守り、どうにか、東京の病院に転院させるまでしてくれて、アメリカへ帰って行きました。

 しかし、元から、心臓病を患っていた母の心臓は、もはや限界状態で、私は、パリで日常生活を送りながらも、心配で、心配で、毎日、泣きながら過ごしていました。当時、8才だった娘に、「そんなに心配なら、どうして、行かないの?」と言われ、職場の上司にも、電話をして、相談したところ、「まだ、お嬢さんも、少し学校を休んでも、それほど学業にダメージを受ける年齢でもないし、仕事は、休んでいいから、お母様の元へ行ってあげなさい。」と言われて、ようやく、私も決心がつき、急遽、日本行きのチケットをとり、娘を連れて、日本へ行くことにしたのでした。

 本当に、それは、ギリギリのタイミングで、一時は、強心剤により、回復しかけたかに見えた母も、私が飛行機に乗っている間に、再び、病院で心筋梗塞の発作を起こし、意識不明の状態になっていたのです。

 その頃は、パリー成田便しかなく、成田に着いた途端に空港のアナウンスで呼び出され、叔母からのメッセージで、すぐに、叔母の家に電話するようにとのこと。慌てて電話をすると、母が意識不明の状態で、何とか、人工呼吸器で生命は、保たれているものの、残念ながら、もう時間がないから、成田から、タクシーで病院に直行しなさいとのことでした。

 慌てて、病院に走り込んだ私と娘は、病院の入り口で待っていてくれた叔父と叔母に誘導されて、スーツケースも入り口に放り出したまま、母のいる集中治療室に駆け込みました。

 集中治療室に案内される時に、医師からは、「もう意識もなく、瞳孔も半分開いている状態です。」と説明を受けました。

 それでも、聴覚だけは、最後まで残るということを本で読んで、信じていましたので、母のそばに駆け寄り、娘にもせっついて、二人で、「ママ〜!!マミ〜!!」と何度も叫びました。すると、意識不明と言われていた母は、急にパッチリと目を開けて、何かを私たちに、言おうとしましたが、呼吸器が繋がれていたために何を言おうとしているのかは、わかりませんでした。

 それから数日間、午前、午後の20分間の面会に通いましたが、心臓の機能を安定させる薬を投薬されていた母は、目を覚ますことはありませんでしたが、その間、手をさすったり、足をさすったりしながら、一生懸命に母に話しかけていました。

 最後に面会できた際には、弟の再帰国が決まっていたので、「もうすぐ、弟が帰ってくるから、もう少し、頑張って!」と声をかけました。すると、母は、眉をしかめて、涙をツーっと流しました。母にしてみれば、初めて外国に転勤になったばかりの弟に、いきなり日本に二度も帰国させ、迷惑をかけることを辛いと思っていたのだと思います。

 その日の晩に、病院から電話で、「危篤状態です。すぐに来てください。」という連絡があり、父と娘、隣に住んでいる従姉妹に運転を頼んで、病院に駆けつけましたが、もう、母の最後には、間に合いませんでした。

 あっという間に大勢の親戚も病院に駆けつけてくれましたので、母の遺体を家に連れて帰るか、病院に解剖を頼んで、預かってもらい、直接、母の通っていた教会に葬儀の段に直に運んでもらうかの話し合いになりましたが、結局、父が母の解剖と教会への直の搬送を希望したため、母がこの家に再び、帰ってくることは、ありませんでした。

 その後、一人で、この家で生活しなければならない父にとって、亡くなってしまった母の残像がこの家に残ることは、父にとって、それはそれは酷なことだと思いましたので、私もそれに賛成しました。

 その夜、家に戻って、父は、自分の寝室に入り、娘も寝てしまった後に、私は、このキッチンのテーブルに座り、母の魂がどこか、このキッチンに帰って来ているような気がして、悲しみに少し、気持ちが高ぶらせながら、一人で、少し、上の方を眺めながら、心の中で、母に話しかけながら、しばらく、お酒を飲んでいました。

 今日、夜中に目を覚まして、なぜか、その時のことを鮮明に思い出しました。

 





2020年2月18日火曜日

来る度に、みるみる景色が変わっていく日本 ー世代交代ー




 つい最近、銀座線の駅の移転が週末のうちに完了したというニュースに驚いたばかりですが、ここのところ、帰国するたびに、実家の近所の景色がみるみる変わっていきます。

 当主が亡くなり、それまで、一軒家だった家が、みるみる小綺麗なマンションになっていきます。これまで、ひと家族で住んでいた場所がマンションのような集合住宅に変わっていくのですから、日本全体は、少子化問題を抱え、人口は、減少しているにも関わらず、明らかにうちの実家の近所は、人口が増えていると思います。

 今回も、当主が亡くなり、家が壊され、長いこと空き地になっていた場所にマンションの建設が始まり、今年の4月には、完成の予定だそうです。

 日頃、パリにいて、工事がなかなか進まない様子を見ながら、暮らしている私にとっては、日本の工期の速さには、改めて、驚かされるばかりです。

 また、長いこと、うちの母も贔屓にしていたお肉屋さんが、忽然と消えていて、近くの商店の人に尋ねたら、今年の3月にお引越しをなさいました・・とのことで、帰国するたびに、必ず食べていた、そのお肉屋さんの美味しいコロッケが、もう食べられなくなりました。

 ほんとうに、家族で地道にやっている昔ながらのお肉屋さんで、スーパーマーケットが隆盛の中、どうやって、やっていけるのかと思っていましたが、近所の公立の小学校の学校給食等に卸しているとかで、それならば、ずっと続けてやっていけるのだろうと安心していたところでした。

 せいぜい、一年に1〜2度しか、帰ってこない私が文句を言える立場ではありませんが、それでも、母が長いこと通って、私たちのことまで、おしゃべりしていたらしく、私が娘を連れて買い物に行くと、「パリにいらっしゃるお嬢さんとお孫さんですね。」などと、歓待してくれていたので、残念でなりません。

 その同じ通りにあった、長いこと閉店したままになっていた薬屋さんも、いつの間にか、さら地になっていて、何か、新しいものが建設される兆し。昨年、来た時には、あったのに・・。きっと、次回、帰国する際には、また、新しいものができていることでしょう。

 そうやって消えていく店舗の代わりには、介護センターや保育園ができ、個人商店は、消えていきます。

 我が家は、父が子供の頃から住んでいて、それなりに、ご近所さんも残ってはいるのですが、留守中にどんどん変わっていく地元の街の様子にどこか、寂しさを感じます。

 そこへ行くと、パリには、一軒家というものは、ほとんどなく、古くからのアパートがそのまま残されていて、外観もほとんど変わることがないので、街の景観が極端に変わるということはありません。

 街自体が綺麗に区画整理されて、旧建築も残されていくので、改めて、こうして、外に出てパリを思うと、工期が遅かろうと何だろうと、日頃、文句タラタラに暮らしていても、パリのそんなところは、悪くないなと思うのです。















2020年2月17日月曜日

時差ボケの苦しみと胃の容量を上回る食欲との闘い




  日本とフランスの時差は、冬時間で8時間。夏時間で7時間です。

 フランスで、夏時間から、冬時間に変わる、たった1時間でも、それはそれで、大変で、私など、慣れるのに、約一週間かかります。

 それが、日本に来た時には、8時間ズレるわけですから、それはもう、しんどくて、もうヘロヘロです。それが、年齢のせいか、年々、酷くなる気がします。

 パリからの直行便で、約12時間、パリを現地時刻の夕方に出て、日付を超えて、だいたい、翌日の夕方に日本に到着します。

 ですから、飛行機に乗って、一杯飲んで、食事をして、一息ついてから寝て、日本に着いたら、夜、食事をしてから寝れば、比較的、スムーズに時差を克服しやすいはずなのですが、このところ、年々、時差ボケが酷くなり、到着した翌日には、早朝?3時とか4時に目覚め、その日の午後のある時間帯に猛烈に眠くなります。

 眠いだけではなく、脳が膨張して、前頭葉から視神経にかけて鈍い痛みとともに、どよーんとした感じで頭がボーッとして、身の置き所がないような感じに襲われます。その時間帯が時差どおりに8時間ズレて起こるわけではなく、日によって、違う時間帯に起こるのが時差ボケたるところ、もう、ボケ対応に本当にしんどい思いをします。

 日本では、期間が限られているために、バカンスというよりも、用事が立て込んでいて、なんとか、滞在期間中に済ませなければならないことも多いので、眠くなったら、寝る・・ということもできずに、スケジュールに追われることになるので、とても、しんどいのです。

 娘が小さい頃には、着いた途端に、現地時刻にあっさり順応していたのを見て、本当に感心しましたが、その娘でさえ、年齢とともに、人並みに時差ボケを感じるようになり、年齢は、時差に順応していく能力を奪っていくのではないかと思います。

 また、日本に来れば、どうしても食べて帰りたいものの予定も立て込んでおり、時差ボケでボーッとしつつも、もう、常に満腹状態。

 それでも、気持ちは、逸って、胃が食欲に追いつかない状態。この際は、多少の体重の増加は、後にパリに戻ってから調整することで、目をつぶるのですが、あれも食べたい、これも食べたいという食い意地に胃が追いつかなくなってきて、地団駄をふむ状態に陥ります。

 ですから、日本帰国時は、少しでも消化を助けてくれる胃薬を常に携帯しているのです。

 忙しい日程の中、時差ボケと、胃の容量を上回る食い意地に苛まれながら、胃薬を飲みながら、次の食事の予定を考える。

 あさましいなぁと思いながらも、美味しい日本を時差ボケでヘロヘロしながら、楽しんでいます。






















2020年2月16日日曜日

遺産相続




 父の死亡に伴い、遺産の相続手続きの必要がありました。

 父は、特別に遺言書も残しておらず、私も弟も、とりあえず、父の暮らしていた家があることは、承知していても、その他に、一体、父の財産が、どこに、どれだけあるのかもわからず、また、二人とも海外で生活していることから、容易に手続きを進めることも、なかなか困難で、相続手続きには、一応、相続税の申告期限があるために、そのまま、なあなあにして、放置することもできずに、親戚の伝手を辿って、大手の信託銀行にお願いすることになりました。

 また、私たちには、相続に関する法律的な知識もなく、また、その法律も度々、変わるため、その時の法律や優遇措置など、まずは、父が所有していた財産の把握ですら、個人で滞りなく進めることは、とても難しいことです。

 私も弟にも、日本には、持ち家がないため、家を相続する場合の優遇措置があることもその時に、銀行の方に教えていただきました。

 相続にまつわる、家族間での相続争いなどという話も世間では、よくある話と聞きますが、我が家の場合は、そんなに、大金持ちの相続ではないので、もともと、揉め事になる心配もないのですが、事務的に、法廷どおりに、私と弟は、きっちりと半分ずつ父からの遺産を相続しました。

 幸いにも、プロに手続きをお願いしたために、トラブルもなく、滞りなく、相続手続きは、進み、その間には、一度、銀行からの説明や相談のために一度、帰国しただけで、あとの書類は、銀行からパリの自宅へ郵送してもらってサインしたり、必要な書類は、大使館で発行してもらって、それを郵送することで、全て、完了しました。

 やれやれとホッとしていると、しばらくして、日本の税務署から、パリの自宅宛に弟と半々に相続した実家の固定資産税の請求が来ました。税務署がパリの自宅まで把握していることにも驚きましたが、税金には、支払い期限もあり、銀行に問い合わせるよりも、直接、税務署に一度は、出向いて、きっちりと自分も状況を把握した上で、自動引き落としにしてもらった方が良いと、その際は、慌てて、日本に帰国したこともありました。

 いくばくかの財産を相続させてもらえたことは、とても有り難いと思っていますが、なかでも、私が、両親に最も感謝していることは、何よりも、親戚とのつながりを私たちに繋いで、残していってくれたことです。

 我が家は、両親ともに兄弟が多く、父方、母方ともに、叔父や叔母、従姉妹、従兄弟もたくさんおり、子供の頃から、頻繁に親戚付き合いをしてきました。私は、子供の頃は、どちらかというと、引っ込み思案で、親戚づきあいというのは、はっきり言って、あまり好きではありませんでした。

 それでも、今、家に残された写真を片付けて、眺めていたりするにつけ、親戚の集まりの食事会や旅行などの写真が山ほど残されており、それなりに楽しい時間を共有してきたことを改めて、思い起こします。

 それなりにお金もかかっていただろうし、そのための時間も多く費やして来れたことは、今になってみると、とても有り難い、大切な積み重ねであったと思います。

 こうして、同じ時間を過ごしてきた従姉妹たちや、叔父や叔母たちが、両親のいなくなった今も、私や娘を支えてくれています。

 彼らは、私たちが、日本に帰ってくるたびに、ここぞとばかりに美味しいものを用意して、振舞ってくれたり、困ったことがあれば、親身になって、相談にも乗ってくれます。

 私たちが、両親が残してくれた、最も貴重な遺産相続は、これまで両親が積み重ねつつ、私たちに繋いでくれた、一日にしては、築くことができない、親戚との繋がりであったと思っています。