2019年11月26日火曜日

日本を知らない日本人




 日本人とフランス人のハーフの場合、多分、圧倒的にお母さんの方が日本人だというケースの方が多いような気がします。

 私の周りにいたフランス人と結婚している日本人女性は、子供が小さい時、特に、夏休みなどの長いお休みの期間は、子供を連れて里帰りをしていた人が多かったので、日本を知らずに育つ日本人というケースをあまり聞いたことがありませんでした。

 女の子の方が、結婚してからも、その実家と近いというケースが多いと聞きますが、日本とフランスと離れて暮らしている場合、なおさら、男性の方が実家と遠ざかってしまうケースが多いかもしれません。

 娘の学校には、フランス人と日本人とのハーフの女の子がいて、名前も、あゆみちゃんという日本の名前なのですが、まるで、日本語を話せず、日本にもほとんど行ったことがないという日本人の女の子がいました。

 その子の場合は、お母さんがフランス人で、お父さんが、日本人なのですが、お父さんも、ほとんど家でも日本語をほとんど話さない上に、日本の実家とも疎遠になっていて、日本にもほとんど行かないような人だったので、あゆみちゃんは、日本人でもありながら、日本を知らずに育ちました。

 しかし、お母さんが日本人の女性でも、日本には、ほとんど行かずに、子供ともフランス語で暮らしているという人も知っています。

 子供は、日常は、彼女と生活しているのですが、フランス人の夫とは、現在、離婚協議中で、週末は、別居中のフランス人の夫の元で過ごしています。

 彼女は、かなり、バリバリと仕事をしている女性で、夏休みなどの学校が長期のバカンスに入る期間中は、全て、パパの実家の方に子供を預けてしまうのだそうです。

 日本へ行くのは、それなりに時間もお金もかかるし、実家との関係などにも、それぞれの事情があるでしょうから、一概に彼女のやり方を否定は出来ません。

 しかし、この子の場合も、日本を知らずに育つ日本人確定です。

 こんな話を聞くと、私は、残念でなりません。

 普段、私は、そんなに愛国心旺盛なタイプではありませんが、たとえ、半分でも、せっかく日本人として生まれたのに、なぜ、自分の国に少しでも触れさせようとしないのか?

 せっかく、二つの国に触れる機会を持って生まれてきた子供が、フランスで暮らしているからといって、日本という国や、日本の文化を全く知らずに大人になってしまうのは、もったいないではありませんか?

 私は、日本にいる時よりも、海外にいる時の方が自分が日本人であるということを自覚し、意識することが多いのです。

 日本の良いところも悪いところも、海外にいるからこそ、わかることも沢山ありますが、色々な国から来ている外国人の話を聞いても、日本は、やはり、なかなか誇らしい国でもあります。

 ハーフとして生まれた子供たちにとって、たとえ、生活の基盤がフランスにあっても、日本のことを少しでも、知ることは、マイナスなことは、何もないと思うのです。







2019年11月25日月曜日

日本の変化とフランスの生活習慣から生まれた自分自身の変化





 日本は、ほんの2〜3年行かないだけでも、いつの間にか、新しいビルが建っていたり、どんどん新しい場所や新しいシステムが生まれ、どんどん変わっていて、驚かされます。

 コンビニなども、私が海外に出てから、みるみる店舗が増え、あっという間に24時間営業になり、他のスーパーなどまで、24時間営業がチラホラしだしたと思ったら、今度は、24時間営業廃止の方向へ動きつつあります。

 その間、フランスは、あいも変わらず、コンビニどころか、日曜日は、たいていのお店は、お休みです。

 フランスに来た当初は、一旦工事を始めたら、いつまでも、「ま〜だ工事中??」、なんていう感じに呆れていましたが、今や、逆に、日本へ行くと、その変化の速さに、目が回る気がしてしまう私は、自分の祖国でありながらも、やはり、どこか、少しずつ、居心地の悪さを感じてしまうところがあります。

 それは、また、日本の社会が変化していることに加えて、私自身も色々な習慣や自分の言動や考え方の変化に気づかされることも多いのです。

 どうでもいいような、小さいことなら、エスカレーターの右側につい立ってしまうことや、少しの雨なら、傘をささなかったり、車が通らなければ、信号を渡ってしまったり、知らない人に気安く挨拶したり、話しかけたりしている自分に、そういえば、かつての自分は、日本では、そうではなかったと気付かされることがあります。

 しかし、そういった表面的なことだけでなく、フランスで生活していくうちに、自分自身の考え方や、人との付き合い方なども、自分でも気がつかないうちに変わっていることも認めざるを得ません。

 一時、日本に帰国時に、父から、「お前は、いつからそんなにキツい物言いをするようになったんだ!」と言われて、ビックリしたことがありました。

 その時点では、私は、自分自身の変化にあまり自覚がなかったのです。

 しかし、そんな父も亡くなった今になって、ここ数年、父や母というクッションが無くなってしまったせいもあるのかもしれませんが、はっきりと言わないと暮らしていけなかったりするフランスモードに自分自身が、変わってきているのだと、改めて、気付かされることが多いのです。

 しかし、日本では、そのフランスでのモードを敢えて、変えていかないと、日本では、逆に過ごしにくくなりそうで、日本に帰る時には、改めて、日本モードに自分の中のスイッチを変換して合わせていこうとしている自分に気がつくのです。

 ホンネとタテマエ、ハッキリ言わない、とか、儀礼的な贈り物をしあうとか、周りにこう思われるから、こうした方が無難だとか、他人に異常に干渉するとか・・以前には、当たり前のものとして受け入れていたことが、正直、とても苦痛になり始めています。

 美味しいものがたくさんあって、便利で、どこへ行っても親切で、応対も感じよく、何をするにもスムーズにことが運び、やっぱり日本は、スゴい!楽しい!と思う反面、対人関係には、どこかモヤモヤが残り、ドッと疲れます。

 以前は、それが、当たり前のことと思って生活していた私でさえ、感じる日本の不思議な面を、そのプラスの面もマイナスの面も含めて、全く初めての外国人から見たら、さぞかし、日本は、独特で、不思議な国に見えるのだろうな・・と思うのです。












2019年11月24日日曜日

10年近く暮らしたパリでの生活を断ち切って日本へ帰って行った彼女




 彼女は、最初、日本からスタージュに来ていて、そのまま、パリで現地採用となり、パリで働いている30代半ばの女の子でした。

 独身で、パリで働きながら、それなりにパリでの生活を楽しんで送っているようでした。パリでの新しい流行などにも敏感で、とても上手におしゃれを楽しんでもいました。

 かといって、彼女には、チャラチャラしたところはなく、あれこれと工夫しながら、まめに自炊などもして、堅実な生活を送っていました。

 そんな、彼女には、長く付き合っているフランス人の彼がいました。

 長身でスタイルの良い二人が並んで歩いていると、とてもカッコいい二人でした。

 彼女は、お料理や編み物などもプロ並みに上手だし、優しくて、人当たりも良く、海外暮らしの日本人にありがちな、キツさもなく、おっとりとしていて、いかにも育ちの良さそうな女の子でした。

 年頃で独身の彼女は、このまま、フランスで生活していくのか? ある程度で見切りをつけて、日本へ帰った方がいいのか? ずっと、考えていたことは、知っていました。

 こちらにいたフランス人の彼とは、一緒に暮らしていたわけではありませんでしたが、彼の実家とも行き来をしていて、彼のママに教わったラタトゥイユの作り方・・などを私も教えてもらったりしたこともありました。

 お誕生日には、彼のママからプレゼントをもらって・・などという話を聞いたこともあったので、きっと、彼のママは、とても彼女のことを気に入っていたのだと思います。

 しかし、けっこう、尽くしてしまうタイプの彼女に対して、けっこうなわがままを言っている彼の様子なども聞いてはいました。

 仕事上も、ある転換期を迎えた頃、10年近くいたパリでの生活を断ち切って、彼女は、日本へ帰国することを決めました。彼女は、若い頃に父親を亡くしており、日本にいるお母様とは、特に絆が強かったようで、そんなことも彼女の帰国の理由の一つには、あったのかもしれません。

 しかし、女性が将来の生活を考えるとき、30代半ばに差し掛かる頃というのは、一つの区切りの時期でもあるのかもしれません。

 彼女から、日本へ帰国すると打ち明けられた時、私は、何の不思議も感じませんでした。何か、決定的なことがあったということではないのかもしれませんが、日本人が、パリで暮らしていて、日本に帰りたくなる理由は、たくさんあるでしょうし、その気持ちもよくわかります。

 何しろ、生活を送っていく上での一つ一つにストレスが満載していますから・・。

 すでに、子供がいたりする場合は、また、別でしょうが、無理して、パリで暮らす必要もないのです。

 そんなわけで、彼女は、少しずつ、荷物を処分し始めて、私も、いらなくなった本や、お鍋などの日用品をもらったりしました。

 そして、彼女は、会社の仕事もきっちりカタをつけて、退職し、日本へ帰って行きました。彼女の実家は、横浜だということは、聞いていましたが、特に、連絡先を聞いたりすることもありませんでした。

 彼女が日本へ帰ってしばらくして、彼女の付き合っていた彼が、血相を変えて、突然、会社にやってきました。彼女からは、彼とは、別れたと聞いていたので、そこまで、必死な様子で彼女が元いた会社にやってくるのには、ちょっとビックリしました。

 しかし、誰も、彼女の日本での連絡先を知りませんでした。

 たとえ、知っていたとしても、彼女がそこまでして、彼のことを振り切って日本へ帰ったのに、誰も、彼女の許可なく安易に彼に伝えることはできなかったでしょう。

 以来、彼女は、パリにいる誰にも連絡してくることはなく、日本での彼女の様子を伺い知ることはできません。

 でも、ある程度以上、長く続けてきた生活を変えるというのは、なかなか勇気のいる決断です。よくよく考えて彼女が決めた日本への帰国ですから、きっと、日本での新しい生活を幸せに送っていると思っています。
 













2019年11月23日土曜日

パリの救急外来とアクシダン・ド・トラバイユ




 ある時、私は、仕事中に、会社の階段を踏み外して、階段から転げ落ちたことがありました。全くの私の不注意なのですが、休日出勤などが重なって、疲れていたこともありました。

 公衆の面前で、転んだりした時には、よっぽどの怪我でない限り、痛いよりも、その不恰好に転んだことの方が恥ずかしくて、バツが悪くて、慌てて、立ち上がったりしませんか?

 私もその時は、まさにそんな感じで、ブザマに転んだことの方が恥ずかしくて、必死に立ち上がり、特に外傷もなかったため、「大丈夫、大丈夫・・」と、そのまま、終業時間まで働いて、家に帰りました。

 後から思えば、その時に、救急車を呼んでもらっておけば、事は早かったのです。

 しかし、外傷がなかったために、少し、足を挫いたくらいだと、私も軽く考えていたのです。

 時間が経つにつれて、足は、みるみる腫れ上がり、家に着く頃には、ちょっと、かなりの痛みになっていました。夜になって、耐えきれずに、夫に頼んで、車で、救急外来のある病院に連れて行ってもらいました。

 当時、娘は、まだ小さくて、一人、家に置いておくわけにも行かず、娘も連れて、夫に頼んで、家から比較的近い、パリの夜の病院に連れて行ってもらいました。

 夜の救急外来というのは、こんなにも混んでいるものかというほど、次から次へと病人、怪我人がやってきます。とりあえず、受け付けだけして、順番を待っていました。

 しかし、混乱している病院の中で、待てど暮らせど、私の順番は、回ってきません。途中、何度か、声をかけてみたのですが、「ハイハイ!」と生返事だけで、延々、2時間くらい待たされたでしょうか? 

 私も頭にきていましたが、私以上に腹を立てた夫が、医者を捕まえて、「かれこれ、もう2時間以上も待たされている!これ以上、待たせるなら、ここから電話して、救急車を呼ぶぞ!」と、半ば、脅しに近い抗議をしたら、ようやく、診てもらえたのです。

 こういう時は、パリでは、黙っていたら、ダメなのです。黙っていたら、どんどん後回しにされますから、夫のように、「ここから救急車を呼んでやる!」は、いざという時に、パリでは、なかなか使える文言かもしれません。

 もし、私一人だったら、いつになったことか、全くわかりません。

 私は、骨折でもしているかもしれないと思い始めていたのですが、実のところは、打ち身から、私の足のふくらはぎには、血栓ができてしまい、ともすれば、骨折よりもややこしいことになりました。

 それから、しばらくは、私は、毎日、血栓を溶かす薬を飲みながら、毎日、血液検査に通い、薬の量を調節しながら、結局、一ヶ月近く、仕事を休むことになりました。

 足の痛みと腫れは、一週間もすれば、引くからと痛み止めの薬とクリームをもらい、その日は、家に戻りました。

 これが、仕事中の怪我だったので、フランスの法律によるアクシダン・ド・トラバイユ(仕事中に起こった怪我や病気の場合は、100%保険が適用になります)に当たるから、24時間以内に保険の手続きの書類を送るように言われ、その書類には、その場にいた事故を目撃していた人のサインも必要になるため、夫が代わりに私の職場に行って、私の同僚のサインをもらってきてくれました。

 ここが、フランス人だったら、大きな顔をして、休むところだと思うのですが、日本人の生真面目さを持っていた私は、一刻も早く、職場に復帰しなければ、と焦ってもいたのです。

 ところが、医者は、なかなか、2週間くらい経っても、ドクターストップは解いてくれませんでした。

 医者の方も仕事に行きたがる私を半分は、理解できない面持ちで、しまいには、「血栓がどんなに危険かわからないの? あなたは、死にたいの?」とまで言われ、さすがの私も、「死にたいのか?」とまで言われて、ようやく観念したのでした。

 今の私だったら、もっと、図々しく、休んでいると思いますが、あの頃は、まだまだ、全てにおいて、気持ちにも余裕がなかったのです。

 しかし、パリの救急病院の様子を垣間見て、できることなら、一生、お世話になりたくないと、心底、思わされたのでした。


2019年11月22日金曜日

フランスの職場での同僚のケンカ




 彼女は、私よりも、かなり、年配の、ふっくらとした、人の良さそうな、いかにも、おばちゃんという感じの人で、とても親切で、パリでの生活も長く、フランス語の環境の中で、子供を育てあげた経験もある、とても頼りになる女性でした。

 ですから、彼女と知り合った当初は、まだ小さかった娘のことも、とても可愛がってくれていましたし、子供と遊ぶのが上手というか、よく娘の相手になってくれたりもし、学校のことや、フランスでの日本語の教育についても随分とアドバイスをいただいたりしていました。

 彼女のご主人は、日本人でしたが、とてもリッチな人で、別々の職場ではありましたが、二人とも働いていましたので、パリにアパートを何軒ももつ、お金持ちの奥様でもありました。

 ですから、いつもおしゃれで、身綺麗にしており、気前もよく、威勢も良い人でした。

 彼女の話すフランス語は、決して上手ではないのですが、臆することなく、堂々と話すので、勢いに圧倒されて、何んとなく、そのまま通ってしまうようなところがありました。

 明るく、おしゃべりな彼女ですが、自分の素性については、あまり話すことはありませんでしたので、彼女が日本のどこから来た人なのか? どんな暮らしをしていたのか? 私は、一切、知りませんでした。

 私は、基本的に、人のことを詮索するのが好きではありません。

 会話から、自然と出てくることで知りうる情報以外は、個人的なことは、聞きません。

 おそらく、もう、彼女は、日本で暮らした年数よりも、パリに住んでいる年数の方が長くなっているので、今さら、日本での生活の影は、あまり見えなくなっていたのかもしれません。

 何よりも、彼女が隠したかったらしいのは、彼女の年齢で、周りのみんなが何気に話していれば、出てくる年齢の話題になると、普段は、おしゃべりな彼女も、微妙に避けるので、まあ、女性だし、ある程度の年齢になれば、歳の話は、したくないものなのだろうくらいに思っていました。

 しかし、だんだんと時が経つにつれて、彼女のあの威勢の良さや雰囲気から、何か、表面とは、違うものも感じていました。

 日頃は、温和な彼女ですが、ある時、職場で、同僚と、もの凄いケンカを始めて、その迫力に、息を飲みました。

 ケンカになった相手も、最初は、対等に話していたのですが、そのうちに、彼女の迫力に押されて、プイッと、休憩室へ去っていこうとしたのです。

 すると、頭に血が上っていた彼女は、相手を追っかけていき、「このアマが!!」と叫んだのです。

 「このアマ・・・」始めてライブで聞いた言葉でした。

 なかなか、日本にいても聞かない彼女の言葉に、私が、うっすらと感じ始めていた、何か、表面とは、違う彼女の一面を見た思いがしたのです。

 












 

2019年11月21日木曜日

パリに住む不思議な日本人のゲイのおじいさん




 パリには、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーをはじめとするセクシュアルマイノリティの総称)の人が多いような気がします。

 もしかしたら、特に多いわけではないのかもしれませんが、そのことを隠さずに堂々と生きている人が多いので、LGBTの人が住みやすく、日本人でもパリの方が居心地が良いのかもしれません。

 実際に、同性で婚姻関係を結んでいるカップルも、いくつか知っています。

 そんな中でも、私が多く知っているのは、もっぱら、ゲイの人が多いのですが、皆、とても、インテリで、礼儀正しく、おしゃれで、レベルの高い暮らしをしています。

 ですから、仕事の関係で、ご一緒することがあったりしても、とても、頭の回転もよく、気働きもよく、博学なので、話をしていても、とても興味深く、大変、勉強になります。

 いわゆる女装などをしているわけではないので、ちょっと見には、わかりませんが、少し、話していると、だいたい、すぐにわかります。(本人も隠していないので・・)

 その中でも、私が知るゲイの人の中に、強烈な印象のとても、おもしろい、日本人のおじいさんがいました。

 私が勤めていた会社の役員の人と知り合いで、自宅には、ファックスを置いていないからと、ファックスの受信や送信をうちの会社でやったりして、事務所がわりのようにしていましたので、彼宛にファックスが届いたりすると連絡してあげたりしていました。

 彼は、80も過ぎていたと思うのですが、とても元気で、饒舌で、いつもエネルギーに満ち溢れ、非常に博識で、ブローカーのような仕事をしていたのか、交友関係もとても広く、芦田淳やジョエルロブションとは、特に親しい様子で、よく、彼らの話を聞かせてくれました。

 ロブションのところで、食事をしたりしても、決して、バスやメトロには乗らずに、健康のためと、必ず、歩いてやってくるのです。

 また、フランスやイギリス、アメリカの財界人、日本の芸能人などにも知り合いが多く、普通の人は、とても足を踏み入れる機会がないような、晩餐会のメニューやミシュランなどにもきっちり意見をする人で、その常に前向きな姿勢には、度々、舌を巻きました。

 古い時代の人ですから、パソコンなどは、一切、使わない代わりに、驚くほどに筆まめで、また達筆で、日本語はもちろん、英語やフランス語の手紙なども、美しい文章と美しい文字で綴り、よく、彼の書く手紙をコピーさせてもらって勉強させていただきました。

 多方面にわたる手紙を全て、保管し、また、驚くほど、記憶しているので、以前の記憶から、保管していた手紙や写真をすぐに引き出してくることができるのにも、感心させられるばかりでした。

 おしゃれにも行き届いた人で、その日の服装に合わせた靴はもちろん、靴下から、時計や一緒に持つ紙袋まで、しっかりとコーディネートされていました。

 また、地方に住む現在の恋人との逢瀬も欠かすことなく、定期的に彼の元へと訪れていました。

 今となっては、芦田淳もジョエルロブションも亡くなってしまいましたが、彼は、きっと元気に、今日もパリの街を歩いていることと思います。

 











2019年11月20日水曜日

フランスにもいる困ったママ友




 私は、日本で子育てをしたことがないので、日本のママたちの公園デビューとか、ママ友同士のお付き合いというものを知りませんが、ママ同士のお付き合いが子供同士の関係にも影響するとかいう話を聞いたりすると、なかなか大変そうで、そんな時は、パリで良かった・・と密かに思います。

 日本にいる私の従姉妹などは、息子が大学生だというのに、野球部のお手伝いに行っていたなどというので、ひっくり返ってびっくりしました。

 だいたい、パリの場合は、ほとんどのママが働いていますので、夏休みなどバカンス期間中は、別として、通常の保育園、幼稚園、小学校の拘束時間も長く、平日に子供を公園で遊ばせるということも、あまり、ありませんし、週末は、平日にできない買い物や家事に忙しく、あとは、家族で過ごすことが多いので、あまり、ママ友同士のお付き合いというものをしてきませんでした。

 それでも、娘は、小・中・高校と同じ学校に通っていたので、小さい時からの顔見知りのママたちは、少数ですが、いますし、小さい頃は、それこそ、しょっちゅう、誰かのお誕生日会があったり、子供がお友達の家に遊びに行ったりといったことがあったので、顔を合わせれば、立ち話などをしたり、また、窮地に陥った時には、(フランスの小学校は、水曜日がお休みで、急に、どうしても、休めなくなってしまった時など)自分の家の子供と一緒に子供を預かってくれたママもいました。

 ですから、お互いが、そんなに深入りはせずに、適度な距離を保っていて、必要な時だけ、適度に助け合う感じが、私には、ちょうど良かったのです。

 それでも、中には、なかなか、困ったママもいました。

 家も近所で、娘とは、どういうわけか、幼稚園から、ず〜っと一緒のクラスで、バレエのレッスンまで一緒でした。あちらも一人娘さんで、ご両親は、教育熱心な方でした。

 当然、お誕生日会などに呼ばれても、一緒にお呼ばれすることも多く、年齢とともに、お家でパーティーをするだけでなく、主催者のファミリーが、子供たちを連れて、アスレチックに招待したり、映画を見に連れて行ったりと行動範囲も広くなっていきました。

 その日も、誰かのお誕生日会で、集合場所には、移動のための2台の車が子供たちをピックアップしにきていたのです。

 彼女は、遅れてやってきて、「自分の子供が乗る場所がない!」と、ヒステリックに怒り出して、周囲を凍りつかせたのです。

 他の親が気を使って、「じゃあ、うちの子どもたちは、別に連れて行くから・・」と、その場は収まりましたが、自分の子供のことだけに目の色を変えて、怒る彼女に、みんな、ちょっとビックリしたようでした。

 自分の子供可愛さのあまりに、自分の子供のことしか見えなくなるタイプです。

 私が、どうにも都合がつかなくて、別のママに子供を預かってもらった時も、どうして、うちの子は、入れてくれないの?と割り込んできて、文句を言われたこともありました。

 また、人のうちの子供の成績などがやたらと気になるようで、私も知らないのに、「オタクのお嬢さんは、今回も、○位で良かったわね〜」などと、外で顔を合わせると、度々、言われたりして、ギョッとしたりもしました。

 それでも、それぞれ、高校を卒業し、別々の学校へ進学して、しばらくして、久しぶりにバス停で、ばったり彼女に会いました。

 なんだか、もう、色々なことが吹っ切れて、なんだか、ひと時代をともに過ごした戦友に久しぶりに会ったような、ホンワリとした懐かしさを感じました。

 たしかに、ひと時代が過ぎたのです。