2024年8月23日金曜日

アラン・ドロンは日本での驚異的な人気を誇りにしていた

  


 アランドロンの訃報が聞こえてきて以来、アランドロンに関する逸話が続々と語られているなか、アランドロンが日本で驚異的な人気があったということについての話があったので、少し興味深い気がして読みました。

 実のところ、アランドロンの全盛期、日本で最も人気のあった頃を私は知らないのですが、それでも、なんとなく美形の代名詞のように語られている感じは知っている・・それくらいだったので、当時の日本でのアランドロン人気について、彼の没後にフランスで語られているのを見て知るという、不思議な感じでした。

 私の記憶にはなんとなく彼の全盛期のイメージの面影があったので、フランスに来たばかりの頃、初めてフランスのテレビ番組(なんかのトークショーのような番組だったと思う)で彼を見かけて、あまりの変貌ぶりに驚いた記憶がありますが、それも20年くらい前の話、今から考えれば、あの時は、まだまだ良い方だったのです。

 ある、フランスの番組でのインタビューで、「あなたは、世界的なスターですが、とりわけ日本では驚異的な人気があることについてどう思いますか?」などと尋ねられたりもしていて、彼はフランスでも日本で驚異的な人気を得ていることが有名であったことがうかがえます。

 フランスでは、一時、彼はフランスよりも日本での方が人気があると言われることもあったようで、また、彼自身も自分を「日本における生きる神」のような存在であることを公言することを好んでいたとも言われています。

 彼自身はインタビューの中で、自分が日本で人気がある理由について、「日本人にはある種の白人に対する憧憬のようなものがあり、それに自分の美貌と理想的な男性像、映画の成功が重なった結果であり、人々は私の手に触れるだけで、私が指にキスするだけで、大きな喜びを感じている・・」というようなことを語っています。

 これだけ冷静に聞くと、ちょっと小馬鹿にされているというか、鼻もちならない嫌みな感じがしないでもありませんが、彼はまた、映画「太陽がいっぱい」の成功によって、その容姿と神秘的で野心的な側面だけでなく、哀しく孤独で冷笑的でもある暗い側面が、敗者を励ますことを好む日本の観客にとって非常に魅力的に映った結果でもあると、日本人の国民性も考慮した分析もしています。

 彼は日本での人気を映画の興行だけではなく、ビジネスとしても充分に活用し、1970代には、日本で販売するフレンチ シックの大使のような存在となり、日本のメンズスーツブランド・ダーバンやマツダ車のCMに登場し、後には、自身のブランド「アラン・ドロン」を立ち上げ、ファッションアイテムやアクセサリーを自分の名前で販売しました。

 彼は度々、訪日していますが、当初は映画の宣伝のためであったものが、のちには、彼自身の人気を日本で維持し続けるために、また彼自身のブランドを盛り立てるために、テレビのバラエティ番組や社交イベントに参加、1980年代と1990年代には、日本の旅行会社が企画したアランドロンも出席するパリでの晩餐会​​ツアーなどもあり、有料オプションとして、花束を贈ったり、一緒に記念写真を撮ったりできるサービスもあり、これには、5万人以上の日本人が参加したと言われています。

 当時は日本も景気が上向きの時代で、彼の人気は日本のそんな時代にハマったのだなぁと思います。

 彼の没後、彼の子どもたちの間の諍いの種の大きな原因の一つであると思われる彼の巨額な遺産の詳細については、公表されないながらも、相当なものであると思われますが、彼が築いた財産の一部は確実に日本で稼いだ部分も大きいのではないか?と思ったりもします。


アランドロンと日本


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