それでも、パリにいる日本人の先輩ママなどの話を聞き、フランスは、他言語に対して、かなり排他的であることや、パパがフランス人、ママが日本人とはいえ、放っておいたら、日本語は、どんどん、面倒臭い言語になってしまう、だって、こちらの生活では、必要ないんだから・・などという話を聞くにつれ、これは、私、一人だけで、日本語を教えるのではなく、誰か、他人の手を借りた方がいいと思うようになりました。
私が、娘に望んでいたのは、ただ、日本語が話せるだけではなく、きちんと文章も読めて、書けるようになって欲しかったのです。
周りの助言もあり、フランスの学校(実際には、幼稚園ですが、2才から始まります)で、フランス語を始める前に、(多少なりとも日本語を始めた方が、日本語を億劫に感じにくいだろう)ということで、2才から、娘を公文の日本語教室に通わせ始めました。
当時は、公文は、シャンゼリゼにあった、日本人会の中の一室にあり、そこへ、毎週、土曜日、週一回、通い始めました。本当は、同じ料金で、水曜日と土曜日、どちらも行くことができるのですが、さすがに、私も仕事をしながら、両方は、無理なので、土曜日だけにしていました。
最初は、本当に、鉛筆の持ち方から、線をなぞるような、お遊びのようなものでしたが、それでも、他に、日本人の子供に会う機会、私以外に日本語を話している人に会う機会のなかった娘にとっては、良い刺激になったと思います。
そのうち、オペラ近辺にも教室があることがわかり、教室を変わりましたが、それこそ、幼稚園から上は、中高生まで、一緒の教室で、それぞれが違うレベルのプリントを黙々とやる中、数名の先生が、生徒の間をまわって、少しずつ見て下さるのです。
大半は、日本語を学びに来ている現地校に通う小学生でしたが、中には、数学と日本語の二本立てをこなし、日本語とともにスラスラと計算問題をこなして行く子もいたりして、内心、舌を巻いていました。
本当なら、数学もできたらとも思ったのですが、消化不良を起こしては、いけないと日本語だけをお願いしていました。毎週、土曜日の14時から17時までの時間帯の好きな時間に行って良いので、午後、バレエのレッスンが終わると、飛ぶようにして、公文に移動していたものです。
土曜日の授業の他に、次の一週間分の宿題のプリントをもらうので、一週間、毎日、学校から帰ると公文の宿題をするのが日課になっていました。
それでも、大きくなるにつれて、駐在でパリに来ている人の子供たちは、日本へ帰ってしまったりして、いつの間にか消えていき、フランスの学校の授業が大変になってくるとやはり続かないのか、高学年になるにつれて、生徒さんは、少なくなっていきました。
結局、娘は、10年間くらい通ったでしょうか? 一時、日本語の勉強は、ストップした時期もありましたが、高校生になってから、再び、バカロレア(高校卒業資格試験のようなもの)の第二外国語のオプションを日本語で取ることに決めてから、再び、別の日本語の教室で勉強を再開しました。
しかし、継続は力なりとは、よく言ったもので、毎日、少しずつでも、10年間、続ければ、おかげさまで、そこそこの読み書きもできるようになりました。
親子二人きりでは、ここまで続けることは、できなかったと思います。
お世話になった先生方には、とても感謝しています。
今では、公文もすっかり立派になり、全世界に50ヶ国以上の国にあるそうで、パリ市内には、4ケ所、パリ近郊を合わせると6ヶ所もあるようです。
以前は、日本人の生徒がほとんどでしたが、今は、数学、英語なども加えて、フランス人に向けても、METHOD KUMON (公文メソード)として、手広く、生徒を集めているようです。
海外にお住いの方は、それぞれの国で、公文にお子さんを通わせている方も多いと思いますが、あまり、無理せず、続けられることが一番です。
私は、公文のまわし者ではありませんが、本当に、CMどおり、「やってて良かった!公文!」です。