2019年6月30日日曜日

海外生活中、もし、ガンにかかったら、あなたは日本に帰りますか?



 私は、フランスに来て以来、ほとんど、仕事場と娘の学校、お稽古事の送り迎えの繰り返し、おまけに仕事も忙しかったので、時間もあまりなく、もともと、人付き合いも良い方ではないので、友人も多くないし、知り合いも主人の友人関係が少しと、娘の学校やお稽古事の関係の方や私の仕事上での付き合いがあった方くらいで、私がパリに来て以来の知り合いは、そう多くはありません。

 それでも、20年もいれば、そこそこの知り合いはそれなりには、いるので、日本人の知り合いの中にも、残念ながら、亡くなられた方も数名おられます。事故などの場合は、別として、ガンで亡くなった方が多いです。(これは、あくまで私の周囲での話ということですが・・)

 まあ、今までのところ、日本人の平均寿命からするとかなり早い旅立ちの方が多いので、海外生活は、寿命を縮めるのかも!?などと思ってしまいます。

 やっぱり、海外生活ならではの緊張や、日本に住んでいたら、決してないであろうストレスも結構ありますから・・そんなことの積み重ねもあったりするのかな?・・となどと、思ったりもします。
 また、家族がいるかどうかも大きく関係しているような気もします。

 実際に、亡くなった方々は、一人を除けば、皆、独身の方だったのは、偶然だったのでしょうか?

 自分がガンだと宣告されて、日本に帰られた方も、中には、何名かいらっしゃいます。やはり、いざとなると、言葉の問題もあるし、こちらの病院では、不安なので、日本で・・と思う心情も、とてもよくわかります。その方々も最初は、治療のために帰られたのに、結果、亡くなられたというものです。

 一度、私が怪我をして、病院の救急に行った時、延々と待たされて、怒った主人が、いつまでも放っておくなら、ここから、電話して、救急車を呼ぶぞ!!と怒鳴って、ようやく見てもらえたことがありました。でも、これが命に関わるような病気だったらと思うとちょっと考えてしまうところもあります。

 ちょっと、話は逸れてしまいました。

 私が親しかったある女性は、ガンが見つかって、手術をして、5年後に再発して、それから、放射線治療、抗ガン剤、そして、さらに2回の手術。(フランスの場合、ガンの場合は、セキュリテソーシャル(国の健康保険)が100%カバーしてくれます。)プラス、失敗してやり直した手術が一回。

 そして、とことん、ガンと闘いましたが、結局、彼女は、亡くなりました。

 彼女は、とても強い女性で、痛みを感じたら、自分でボタンを押して、点滴でモルヒネをどんどん打つことができるようになっていたのですが、その結果、何度か、幻覚を見てしまい、私は、自分自身を失いたくないからと、痛み止めの点滴も断り続け、痛みに耐えながらも頑張っていました。
 そんな中、病院内での盗難事件などもありました。(検査中に病室に置いてあった彼女のバッグが盗まれたのです。病気で苦しんでいる人にこんなことってある!?)
 
 彼女は、最後の最後まで、決して諦めずに、こんなに苦しんだから、絶対に治らなくちゃ!と頑張っていましたが、とうとう最期には、力尽きてしまいました。

 彼女の訃報を聞きつけて、ちょうど、その日が、お休みだった私は、病院に飛んでいき、日本から、いらしていたご家族が色々な準備をなさる間、その時の霊安室の係のおじさんが、とても優しい方で、” 本当は、長時間はダメなんだけど、特別に好きなだけ、いていいよ・・” と言ってくださり、半日くらい、病院の霊安室で彼女との最後の時間を過ごさせて頂きました。
 あの病院の静かな霊安室での時間を私は、一生忘れることはないでしょう。

 彼女の遺言により、遺体は火葬されて、ペーラシェーズ(パリの東部にある、エディットピアフやショパンなど著名人が眠っている有名な墓地)の遺骨を散骨する場所に蒔かれ、彼女はパリの土になりました。
 パリが大好きだった彼女らしい選択だったように思います。

 また、ある女性は、亡くなるギリギリまで、ほぼほぼ、普通に暮らしておられ、ある時、急激に痩せたな・・あの痩せ方は・・?? と思っていたら、それから、少しして、彼女が亡くなったという報せを受け、その際もペーラシェーズでのお葬式に行きました。
 日本人の場合、火葬を望まれる方が多いので、パリで火葬のできる場所はそれほど多くなく、ペーラシェーズが選ばれる場合が多いのです。

 後になってから、彼女の知人にお聞きしたのですが、ガンが発見された時には、かなり病状は進んでおり、最後まで、普通の生活を送りたいという彼女の希望で、積極的な治療は一切、断っていたそうです。そして、彼女は、自分自身の旅立ちの準備をできる限り、自分で済ませ、あとは、全て知人に託していたそうです。
 これはこれで、見事な最期ではありませんか?

 誰もがガンにかかるわけではありませんが、海外にいる場合においても、いつかは必ず訪れる旅立ちの時のことをあなたは、考えていますか?

 置かれている状況や家族の環境もそれぞれですから、一概には、言えませんが、ある程度の覚悟は、必要なのだと、私は、今まで見てきたパリで亡くなった方々から、色々と考えさせられ、自分自身の場合はどうしようかと少しずつ考えるようになりました。

 

 

 

2019年6月29日土曜日

娘の初めてのボーイフレンド 




 私たちは、パリに引っ越してくる前は、RER(パリの郊外線)でパリまで一時間ほどの郊外に住んでいました。例えば、日本だったら、通勤圏一時間以内なら、御の字でしょうが、こちらは、交通事情が日本のように、正確でもなく、四六時中、故障だのストライキだのと問題が多いため、一時間の通勤は、長い方ではないかと思います。(電車の連絡が悪かったりすると、最悪です。)

 実際、この通勤時間で、小さい子供がいるとなると、職探しにも、なかなか、苦労しました。

 それでも、私たちが住んでいた場所自体は、緑も多く、パリより少し、離れているだけで、のどかで、人も少し、ゆったりした感じの方々が多く、娘の行っていた保育園などは、家の近くの巨大な公園の中にある、空気も良い、自然環境抜群の保育園でした。

 エコールマテルネル(幼稚園)に入った時も、学校のフェット(お祭りのような催し物)があると、みんなが大きな親戚のように、親しく集まって、みんながお菓子を焼いてきたり、私も巻き寿司を作って持って行ったりしました。

 中には、バンドをやっているミュージシャンのお父さんなどがいたりして、フランス人のある程度の年代の人なら誰でもが知っているであろう、ジョルジュ・ブラッサンスの Les copains d'abord (レ・コパン・ダボー)という曲をみんなで大合唱して、とても、暖かく、楽しい時間を過ごしたりした思い出があります。

 毎朝、幼稚園に送りに行くと、コートとリュックサックを決まった場所にかけ、室内履きに履き変えたところで、私は、娘をおいて、帰ります。

 娘が4歳くらいの時だったでしょうか? 

ある朝、私がいつものように、娘を幼稚園に送っていくと、一人の可愛い男の子が私の前に現れ、姿勢をただして、スッと手を出して、握手を求めながら、私に言いました。

”ボンジュール、マダム” と。

 いきなり現れた小さな可愛い男の子に、”この子は、多分、娘の同級生なのだろうなぁ〜” と思いながら、私も”ボンジュール ムッシュー” と返しました。

 すると、次の瞬間、彼は、スッと背筋を伸ばして、娘の背中にそっと手を回して、一歩前に出て、”Elle est ma copine. 僕の彼女です。”と礼儀正しく、私に挨拶したのでした。

 これには、私は、度肝を抜かれました。

 フランスの子供ってこういうもんなのか!?って・・・。
あまりのその子の礼儀正しさに、こちらの方が圧倒され、目がまんまるになりました。

 それにしても、あの子は、なぜ、私にわざわざ挨拶に来てくれたのでしょうか?

子供っぽい無邪気な感じでもなく、小さいのに、とても紳士的だったのが、凄く印象的でした。

 そして、これがまた、すごい美少年だったものですから、そのあと、こちらも何となく、ニンマリしてしまいました。

 あれ以来、その子の話題は全く上がらず、いつの間にか忘れかけていました。

 今になってみると不思議ですが、その少年が挨拶したのが、ヤキモチ焼きのパパでなく、私で良かった・・と同時に思ったことを鑑みるに、意識的に主人がその話題を避けていたのかもしれません。

 それ以来、娘が進級する度に、クラスの集合写真に写る子供を、くまなくチェックするのですが、あの時以来、全くもって、娘のクラスには、美少年が存在していないことを母の私としては、とても残念に思う次第であります。

 












2019年6月28日金曜日

日本はフランス人になぜ愛されるのか? フランス人は日本をどう見ているのか? 





 多くのフランス人にとって、日本といえば、世界に名だたる先進国でありながら、実際には、フジヤマ、サムライ、ハラキリ、トヨタ、くらいのイメージしかなかった時代が長く続いていましたが、今や、日本の印象は、ここ数年で、うなぎ登りで急上昇中です。

 ちょっと前までは、圧倒的に、日本の知名度の根源は、漫画とアニメ、NINTENDO などのゲーム類が主流でした。いわゆるオタクと呼ばれる人たちを中心に広まり、日本のアニメは、フランスの一般家庭でも、テレビで見られる身近な存在となり、19歳以下のフランス人の51%は少なくとも1日に一時間は日本のアニメを見ていると言われており、おそらく、ポケモンを知らない子供はいないでしょう。

 ラーメンなどの日本食の流行も日本の漫画に登場した食べ物を実際に食べてみたいというところから、火がついたようです。

 年に一度、フランスで開催されるジャパンエキスポなどでは、アニメの主人公などのコスプレをしたフランス人で溢れかえり、昨年の来場者数は24万人を超えています。

 しかし、現在の日本ブームの圧倒的なきっかけとなったのは、YouTube です。

 フランス人のユーチューバー シプリアン(Cyprien)は、チャンネル登録者1400万人(ヒカキンの倍以上)を抱えるフランスの大人気ユーチューバーです。

 彼は、1989年、ニース生まれのフランス人で、大の日本好きとして知られています。

 彼が自分の YouTube 動画で、実際に、自分が日本へ行って、彼自身が見た、フランス人の目線での、日本の街の様子や食べ物、日本の面白いグッズなどを紹介してくれていて、そこから若者を中心に現在のナマの日本の様子がフランスの何千万という人に拡散されているのです。

 元来、フランスという国は、伝統的なものへの畏敬の念を持っています。

 日本は、その伝統(美しい庭園や神社仏閣など)と、美しい自然(富士山や日本の山並みや温泉)、世界に誇れる食文化、超近代的な高層ビルが連立している様や、生活の隅々までがハイテクノロジーで覆われている未来都市のような街、パリでは考えられないような人混みが行き交う渋谷のスクランブル交差点など、現代と美しい自然と伝統が共存している、とても魅力的な国なのです。

 羽田空港に着いて、まず、フランス人は驚きます。”トイレが喋る!!”と。
 そして、その清潔さにも、きっと、ビックリしているはずです。

 また、日本人が礼儀正しく、勤勉、かつ、信頼のおける人々であることにも、実際に日本に行ったことがあるフランス人から、口コミのように広まっています。

 日本に初めて観光で訪れて、タクシーに乗って、お財布をタクシーに忘れてきたフランス人の男性の談。

 パリなら99.99%、まず、出てくることはありません。
 普通に持ち歩いていても盗られるくらいですから。(笑)

 しかし、その置き忘れたお財布が、見つかったどころか、タクシーの運転手さんが、お財布に入っていたホテルのカードを見て、ホテルまで届けてくれたとか・・。
 これには、このフランス人にとっては、感激を通り越して、もはや、驚きでしかなかったようです。
 この国は、いったい、どうなっているのか?と。

 日本人の私としては、親切な運転手さんで良かったね・・くらいには、思うのですが、日本なら、まあ、ありえないことではないな・・と思います。しかし、フランス人にとったら、まさに、これは、あり得ないことなのです。

 こうして、フランス人から、日本の評判を聞くにつけ、私は日本人で良かったと思うとともに、日本人であることを誇りに思うことができています。



 




2019年6月27日木曜日

国際結婚の家事・育児の分担ーフィフティフィフティ




 夫婦の役割分担として、よく、フィフティーフィフティーという言い方をしますが、客観的に見ると、フィフティーフィフティーという関係は、なかなか、あり得ないもので、やはり、どちらかに偏ってしまっているように思います。

 とはいえ、これは、客観的に見たらの話であって、もちろん、それぞれの夫婦には、それなりの分担と、それぞれにできることと、できないことがあるので、何を基準にそのパーセンテージを測るかは、その夫婦にもよるので、一概に言うことはできませんが・・。
 まあ、お互いに納得していれば良いのですよね・・。

 海外で暮らしている国際カップルの様子を見ていると、(夫が外人で、妻が日本人の場合は特にそうだと思うのですが・・)確かに、こちらの男性は、日本人男性に比べると、抵抗なく、子供の送り迎えや家のことなどをしてくれていると思いますが、それでも、たいていの女性が自分の仕事を持っていることを踏まえると、特に、日本人の女性は、家庭の中でも本当によく動いています。

 結局、忙しければ忙しいほど、効率よく、結果的にたくさん動いてしまうのかもしれません。また、それができてしまう女性たちがどんなに多いことか!
 海外で、家庭を持って生活している日本人の女性には、本当に頑張り屋さんが多いです。

 食事もなかなか、手の込んだものをちゃんと栄養のバランスを考えて、工夫して作っていたり、子供の教育にも、とても熱心です。本当にはたから見ていても、本当にスゴいなあと思います。

 そして、実際に、私の周りで見る日本人のハーフの子供は、かなりの割合で、優秀な子供が多いように思います。これは、常に子供の頃から、二か国語以上を話すことが脳に与える影響もあるのかもしれないとも思っていますが・・。

 昔、イギリスでホームステイをしていた時のご家庭では、奥さまが専業主婦にも関わらず、圧倒的にご主人がよく働く方でびっくりしたこともありました。とにかく、その家のご主人は、仕事に行く前も、帰ってきてからも、3人の子供と犬と猫の世話をずっとしているのです。とにかく、大忙しです。
 薄くなっている髪の毛が一層、悲哀を感じさせていました。
 一方、奥さまの方は、1日中、部屋着で、子供や犬、猫を四六時中、叱りつけているばかりです。

 食事の支度は、さすがに、奥さまがなさるのですが、それも冷凍食品か缶詰か出来合いの食品を温めてお皿に盛るだけです。逆に、この人は、こんな風に生きていて、楽しいのかな?と思ったほどです。
 
 これでは、ご主人があまりに気の毒だなあ〜と思っていると、案の定、ある日、ご主人が、風邪でダウンしてしまったのです。一日経っても、しんどそうなご主人に、”まだ、良くならないの?”と追い討ちをかけるような言葉。
 海外生活が初めてだった私は、イギリス人の女性って怖いなあと思ったものでした。
 まあ、この場合も逆ですが、明らかに、フィフティフィフティではありませんでしたね。

 我が家の場合は、子供を学校へ送っていくのは主人、迎えに行くのは、私。
 料理や掃除、洗濯などの家事全般は私ですが、アイロンかけやブリコラージュ(大工仕事や電化製品などのメンテナンス)、車関係は、主人。

 子供の教育に関しては、フランスの学校に関しては、主人。日本語教育担当は私。バレエと水泳に関しては、私。その他のスポーツに関しては、主人。
 また、税金やその他の公的な書類関係や交渉ごとは全て主人に任せていましたので、まずまず、フィフティフィフティに近かったかと思っています。

 まあ、一般的に言う夫婦関係におけるフィフティフィフティーというのは、それを心がけるという時に使うのであって、それを測る場合には、なかなか容易には使えない言葉なのかもしれません。



 


2019年6月26日水曜日

国際結婚の夫婦喧嘩





 国際カップルの家庭は、どちらの言語で会話しているのでしょうか?
 
 私と主人は、日本で出会ったので、その頃から、基本、英語で会話していました。
そして、その後、アフリカに転勤になり、私がフランス語の勉強を始めてからは、フランス語も少しずつ混ざるようになりました。

 そして、娘が生まれてからは、さらに複雑になり、娘は私とは、日本語、パパとは、フランス語、主人と私は、英語。基本、娘は、フランスの学校に行っているので、フランス語は良しとして、娘の日本語、英語の習得を基本に考えていました。
 
 ですから、5〜6才の頃からは、私と主人の英語での会話にも、娘はフランス語で参加するようになっていました。最初は、娘には聞かれたくない話をする時には英語にしていたのですが、すっかりわかるようになってしまったのです。反面、パパに聞かれたくない話は、娘とは日本語でしていましたが、主人は結局、大して、わかるようにはなりませんでしたが・・。
 こんな具合でしたので、しまいには、一体、自分が何語で話していたのか、わからなくなることもありました。

 主人は、転勤で、日本に4〜5年住んでいましたが、仕事上は、ほぼ、英語かフランス語で済ませることができていたので、ほとんど日本語が必要ではなかったため、日常の最低限の日本語が少しわかるくらいでした。そんな感じだったので、フランスに戻って、主人の日本語はいよいよ危ういものになっていきました。
 娘を朝、学校に送って行ってくれるのは、パパでしたが、ある朝、二人でアパートの玄関を出るのを見送る私に、二人揃って、大きな声で、”いっただっきまーす!” と元気に大声で挨拶してくれた時には、思いっきり、ズッコけたものでした。

 しかし、これが夫婦喧嘩になると、また、話は違います。
 
 もともと、私は、どういうわけか、日本語で話す時よりも、英語やフランス語で話す方が口調がきつくなりがちで、これは、やはりその言語を使う国での生活の仕方や国民性にも関係があるのだと思うのです。(欧米では、物事はハッキリ言わないと暮らしていけないし、逆に日本では、あまり、ハッキリ言うことがはばかられるような風潮もありますよね。)

 まあ、単に私の語学力が圧倒的に日本語 対 英語・フランス語となると、語彙力から何から格段の差がありますから・・どうしても少ない語彙力で話すとストレートになりがちなのかもしれませんが・・・。

 そんなわけで、いつの間にか、私たちの喧嘩は、それぞれの母国語で言い合うことになっていきました。怒ると思わず辛辣な言葉で相手を傷つけてしまうこともありますよね。そのうち、私は、喧嘩する時は、日本語で、主人は、フランス語になるようになっていきました。結局は、お互いが言いたいことを言い合っても、ちっとも相手の話を聞いていない・・というか、理解できない・・だから、相手を傷つけない、傷つかない。だからこそ、私たちは、別れずに済んできたのかもしれません。

 もちろん、話し合いが必要な時には、冷静に話しますが、喧嘩の時は、お互いが怒っているということがわかれば、お互いに、言いたいことを言って、一晩寝たら、スッキリする。翌日には、持ち越さない。

 だいたい、私たちの夫婦喧嘩なんて、大した原因でもないのです。後になったら、何が原因だったか思い出せないことさえあります。

 芯のところで、しっかり、繋がっていれば、それで良いのです。相手を深く傷つけることもなければ、傷つくこともありません。私は、口数は多い方ではありませんが、どうにも日本語だと、一言で、相手を刺すようなことを言ってしまいそうな気がするのです。その点では、相手が日本人でなくて良かったのかもしれません。

 しかし、気の毒なのは、娘です。私たちは、興奮して、言いたいことを言ってスッキリするのですが、それを側で聞いている娘だけが、冷静に、日本語もフランス語も完全に理解して聞いているのですから・・。

 後日、娘は私に言うのです。”パパもママも全然、違うこと言ってるんだよ!”と。
ハーフに生まれ育った娘の苦労はこんなところにもあるのです。

 反省。

 
 





 

2019年6月25日火曜日

フランス語力ほぼゼロだった私のフランス人外交官の夫とのアフリカ生活 





 フランス人の外交官とアフリカのプール付きのアパートで、フランス語でボーイさんを使う生活? なんだか現実感がわかなくて、想像もつかない!?。私がアフリカに行ったばかりの頃、友人からの手紙に書いてありました。(外交官といっても、財務省からの派遣外交官)

 確かに、その言葉面からは、なんだか、一瞬、優雅な響きに感じられるかもしれませんが、実際は、とんでもありません。

 何といっても、私にとっては、初めてのアフリカ。私たちの生活していたコートジボアールのアビジャンという街は、西アフリカの中心のようなところで、アフリカのパリなどと呼ばれています。

 しかし、パリはパリでもアフリカのというところがメインなわけで、とてもパリとは似ても似つかないのが現実です。

 しかも、フランス語圏での生活にもかかわらず、当時の私は、ほぼほぼフランス語力ゼロに限りなく近く、夫とは、以前から英語で会話していたものの、その夫以外は、ほぼフランス語のみの生活です。
 もちろん、家にいるボーイさんともフランス語で会話しなければなりません。その上、治安があまり良いとは言えないため、気軽に一人で外出、というわけにもいきません。

 私は、アフリカに着くなり、現地の大学のフランス語科に通い、とりあえずしばらくは、フランス語の勉強に明け暮れる毎日を送っていました。

 外地での勤務、特に発展途上国に赴任する場合は、現地のボーイさんかメイドさんを雇う義務があります。実際に私たちの生活していた、コートジボアールでは、なぜか、家に雇うのはメイドさんではなく、ボーイさんでしたが、うちにいたのは、ブルキナファソーから出稼ぎに来ているボーイさんでした。

 彼は、運転も簡単な料理もこなす人で、外出の際も現地の人との交渉ごとは、彼に間に入ってもらう方がスムーズに行くのでした。(彼の給与は月額、約300€程度、それでも、彼には、アビジャンに一人、ブルキナに一人と二人の奥さんを養っているのでした。)

 とはいっても、家の中に四六時中、ボーイさんとはいえ、他人がいることは、そんな生活に慣れない私には、なかなかのストレスでさえありました。

 主人の仕事上、お客さんを招いたり、招かれたりすることが週3〜4回はあり、そのためのセッティングをしたり、音楽を選んだり、時には日本食を作ったりして、それなりに忙しい毎日でした。それでも、今まで会った事のない、色々な人に会える機会を私は、それなりに楽しんでもいました。

 それでも、たいていのお客様は、親切に英語で話をして下さいました。フランス大使館の元スパイだったという方にもお目にかかりました。スパイといえば安直に007のイメージだった私は、全然、スパイっぽくない、目立たない人でびっくりしたりしました。考えてみれば、スパイが目立ってどうする!?って話ですよね。

 主人は、仕事で、ラグーン沿いの工場に視察などに行ったり、出張も多く、度々、マラリアにかかって、体力的にもとてもきつい思いをしていました。
 家にプールがあっても、マラリア(蚊に刺されて感染する)にかかる危険があり、朝、早い時間か、夜、遅い時間にしか泳ぐことはできません。

 なんといっても、一年中、夏、というのもこたえました。朝、起きて、曇っていると、心の底からホッとしたのを覚えています。アフリカに来て、初めて四季のありがたみをつくづく感じたものです。

 物事がすんなり運ばないのは、パリ以上というか、やはり比較にはなりません。朝は、皆、早いのですが、昼食後、14時も過ぎると挨拶はボンソワール・・もう、ほとんど働きません。あの気候では、致し方ないのも事実です。

 例えば、家のサロンの冷房が壊れた時、7〜8人の修理屋がやってきます。そして、ほとんど半日かかって、やっと直して帰っていくのですが、またその一ヶ月後くらいには、故障します。全てがこんな感じです。

 ああ、そうそう、それから、猫好きの私のために、子猫を買った(?)時も、ボーイさんに頼んだら、生きた鶏2羽と交換という事で、マルシェで鶏を買って、交換してきてもらいました。そして、猫に予防注射を打ってもらう時も現地人価格と外人用価格は違うからとボーイさんが猫を連れて、予防注射をして、証明書をもらってきてくれました。

 アビジャンには、日本政府が多額の寄付をして、建てられたは、いいけれど、結局、医療従事者の人材がいないために使われていない病院もありました。病院には大きな立て看板に日本とコートジボアールの国旗が描かれ、コ・オペレーションと銘打ってありましたが、一体、どこが?・オペレーションなのか? まるで、一方通行です。

 しかも、お金だけ出して建物だけを建てている日本は、結局、多くの税金をドブに捨てているようなものです。お金で寄付するのは、もっと最悪で、全て、国の官僚か、カカオ等を扱うマフィアに吸い上げられてしまいます。

 吸い上げられる・・で思い出しました。娘が生まれて、現地のお役所に出生証明書を頼みに行った主人は、カラーテレビを一台持ってこいと言われたそうです。(もちろん、持っていきませんでしたが)税関でも、警察でも、お金で何でも通ってしまい、規則などあって無きの如しです。

 そんなこんなで、私たちのアフリカ生活は、約2年間続き、娘が生まれて3ヶ月ほどで主人がフランスに転勤になり、主人の外交官生活の終わりとともに幕が引かれました。

 
 

2019年6月24日月曜日

子供が生まれて思ったことーアフリカでの出産 




 母は、私に常々、言っていました。一度は、子育てを経験した方がいいわよ・・と。

 子供を持つことで、自分の中の欠落している部分が少しずつ埋まり、今まで知らなかった世界が広がるから・・違う視点でものごとを見ることができるようになるから・・と。

 その母の言葉は、常に私の中のどこかにいつも潜んでいました。
 私が、子供を産むなら、これくらいまでかな?と思っていた年齢に出会ったのが、主人でした。それは、私にとっての大きな人生の転機でした。

 そして、私が、子供を出産したのは、よりにもよって、主人の転勤に付いて行った先、アフリカでのことでした。

 分娩台の上で、あまりにも痛くて、こんなに痛いんだったら、やめときゃ良かったと思ったと同時に、頭が出かかっているけど、なかなか出てこない赤ちゃんに、引っ込みがつかないと言うけれど、これこそ、引っ込みがつかないと言うことだと思い、痛みに耐えながらも、一人、心の中では、苦笑してしまいました。

 と同時に、これは、大変なことをしてしまったと思ったのです。それは、私が産み落とした命、一人の人間に対して、大変な責任を負ったということを、なぜか、その時、まさに分娩台の上で実感したのでした。

 それは、この子を心身ともに健康に育てる責任ということです。
 
 子供が身体的に健康に育つことはもちろん、例えば、その子がたいへんな犯罪を犯したりしたら、人を殺してしまうようなことがあったら、それが正しいことかは別としても、私はこの子を殺して私も死ななければならない、そうならないようにしっかりと子供を育てなければならないという責任と決意のようなものでした。

 それまで私の周りには、小さな子供や赤ちゃんはいなくて、赤ちゃんを触るのも初めても同然で、おっかなびっくりでした。しかも、そこはアフリカで、日本のように病院で母親学級のように丁寧に子供の扱いを教えてくれる訳ではありません。

 でも、アフリカには、別の意味で子育てを教えてくれるものがありました。それは、アフリカの現地の人の子育てでした。アフリカでは、”街が、道が、子供を育てる。”と言います。
 
 路上で子育てをしている人もたくさんいました。離乳食には、自分たちの食事の中から赤ちゃんでも食べられそうなものを選んでクスクスなどを食べさせていました。

 私が彼らから学んだのは、極端な話、子育てにはこれが正解というようなものはなく、人と比べて神経質になることはないということでした。天気がいいので、(良過ぎるほどでした)いくらでも洗濯ができるので、しばらくは、オムツも布のものを使っていました。

 そうして子供を育てる中で、私は、自分自身よりも大切な存在ができたということに気付き、何だか、自分以上に大切なものがあることに尊さと誇りと幸せを感じました。

 そして、それは、私自身を大きく変えてくれました。私は、自分の子供だけでなく、他人の子供も可愛いと思うようになっていたのです。それらの変化は、私が意識的に変わったのではなく、むしろ、もっと本能的なものでした。何だか、変な言い方ですが、自分も動物の一種なんだなと感じたものです。

 いかにせよ、これは、人生において、とても楽しくて嬉しい変化でした。そして、子育ては、大変なこともたくさんあるけれど、私の人生において、子供がいなければ、絶対に沸き起こらないような感情を呼び起こし、何よりも私に幸せと喜びをもたらしてくれたことをとても嬉しく思っています。