2019年9月30日月曜日

アフリカにいた日本人の美容師さん




 私がアフリカで、生活をしていた中で、困ったことの一つが美容院でした。

 なぜならば、一度、アビジャン市内の美容院に行ったら、どういうものか、カットの前のシャンプーで、シャンプーをひと瓶まるまる使い切るが如く、髪をゴシゴシと何度も洗われて、髪の毛からは最低限必要な油分も全て洗い落とされて、頭皮はカサカサになり、髪の毛がガビガビになってしまい、カットの出来がどうとかいう以前の問題で、これなら、自分で、切った方がマシ!二度と行くまい!と思ったからです。

 そこで、知り合いのツテをたどって、自宅に出張で髪を切りに来てくれるという日本人の美容師さんを知り、それからは、彼女に来てもらうことになったのです。

 彼女は、日本の公的機関に勤める現地の男性と結婚し、子供を二人持ちながら、自宅を廻る出張美容師さんをしていました。

 当時、アフリカで出会う日本人といえば、駐在員の奥さん連中(私は、あまりお付き合いはありませんでしたが・・)か、フランス語の勉強のために通っていた大学で知り合った、海外青年協力隊の一員として来ている人くらいでしたので、彼女の存在は、そのどちらにも当てはまらず、アフリカで仕事をしながら、しっかりと家庭を持って、強く、生きている女性でした。

 アフリカは、パリなどとは違って、日本人を含めて、外国人の多くは、長期で滞在している場合でも、期間限定の転勤族です。私自身の場合もそうでした。

 今から思うに、転勤族と、その土地に根を張って、家庭を持ち、子供を育てている人は、意識も生活の仕方も違うのは、当然です。

 しかも、アフリカのように外国といえども、治安も行政も日本とはかけ離れた発展途上国での厳しい暮らしの中では、なおさらでしょう。

 よほどの覚悟と強さがなければ、そう簡単にできることではありません。

 小柄な彼女は、明るく、バイタリティーに溢れ、非常に大らかな女性でしたが、その芯には、確固とした強さが感じられる素敵な女性でした。

 その方は、私の髪の毛を切りながら、ご主人との馴れ初めや、ちょうど妊娠中だった私に、自分が子供を産んで、まるで、自分自身も生まれ変わったようで、自分の表情が変わったことが自分でもわかるほどだと、少し興奮気味に話をしてくれました。

 当時、初めての出産、しかも、アフリカでの出産に少し不安を感じでいた私は、彼女の言葉に元気をもらいました。

 私が、アフリカを去ることが決まったとき、彼女は、お別れにと言って、自分でしめた鶏を丸焼きにして、わざわざ家に届けてくれました。

 その後、フランスに来てしまってからは、お付き合いは、続いていませんが、フランスとはいえ、その後、転勤族ではない、海外暮らしを長くしてきた今の私だったら、もっともっと彼女と話したいことがあったと、最近になって思うのです。

 

 

 

 

2019年9月29日日曜日

イクメンと家族サービス




 最近、日本では、「イクメン」という言葉が生まれて、フランスで子育てをしてきた私には、とても、妙な印象を受けます。

 だいたい、「イクメン」という、育児という当然のことをしている男性のことを褒め称えるような言葉自体に、とても違和感を持っています。

 少なくとも、フランス語で「イクメン」に当たるような言葉はありません。

 私が、「イクメン」と同じくらい嫌いなのが、「家族サービス」という言葉です。

 たとえ、女性が働いていたとしても、家族に対してすることを「家族サービス」という言い方はしないと思います。それを男性側から「家族サービス」などと言われたら、気分が悪いことこの上ないでしょう。

 「家族サービス」は、家族と一緒に出かけたり、旅行に出たり、父親が自分も一緒に楽しむはずのことを、どこか、上から目線で、まるで、自分は、家族の一員であるというよりも、どこか違う位置付けにいる人のような言い方です。

 フランスは、ダメダメなところもたくさんありますが、こと家庭、家族のあり方に関しては、個人差はあるにしても、育児に男性が関わることも、家族で出かけたり、家族としての過ごし方も、父親も同じように家族の一員であり、家族みんなで楽しんでいます。

 そこには、「家族サービス」という観念はありません。

 それでも、日本でも、昭和世代の家庭よりは、改善されてきて、実際に「イクメン」も増えてはいるのでしょうが、「イクメン」という言葉が生まれるあたり、やはり、それは、「イクメン」ではない人が多いからこそ生まれる言葉なのだと思ってしまいます。

 また、日本でも、女性の社会進出が増えているとはいえ、やはり、女性に対してのハンディは大きく、ましてや仕事をしながら、子育てをするとなると、さらにハードルは上がります。

 子供を預ける保育施設なども充分ではないのでしょう。

 私の日本の実家の近くに、ほんの小さなスペースのみの保育所がずいぶん前にできて、こんなに狭い、施設としても、粗末なもので、すぐに潰れてしまうだろうと思っていましたが、現在でも、その施設は続いています。

 それだけ、正規の保育園が足りていないということだと思います。

 その上、日本の教育費は、驚くほどに高額です。

 子供を育てていくために、また、子供の将来の教育費のためにも、富裕層でなければ、女性も働かずに子供を育てていくことは、大変な事だと思います。

 フランスでも、より豊かな教育を子供に受けさせようと思えば、それなりにお金はかかりますが、特に大学などに関しては、フランスの教育費は、日本に比べると桁違いに安いのです。

 それに加えて、フランスは、各家庭の子供の数が増えれば、(特に三人以上の子供を持った場合)働いている親に対しても税制上の大きなメリットがあります。

 この日本とフランスの子育て環境、事情を比べてみただけでも、なぜ、日本が少子化の一途を辿り、フランスが少子化の問題を克服したのかもうなずけます。

 女性の社会進出を推進する一方、男性も育児を含めた家事を負担すべきであるということが、社会的な責務であるとされる風潮はある一方、それは、どこか、中途半端で、女性側に、より負担が大きくなる傾向があるように思えてなりません。

 そもそも、育児や、家庭を築くことは、手伝うことでも、サービスでもなく、男性も女性も主体的に関わるべきものだと思うのです。

 


2019年9月28日土曜日

ハーフの娘の祖国 アイデンティティーの帰属




 アフリカで生まれ、フランスで育ち、フランス人の父を持ち、日本人の母を持つ娘の祖国は、どこなのでしょうか?

 祖国を生まれた国とするならば、アフリカですが、育ってきた国とするならば、フランスです。

 祖国と母国という言葉は、似ているようで、微妙にニュアンスが違います。
 
 彼女の母国はフランスです。
 
 母国語という言葉がありますが、彼女はバイリンガルではありますが、彼女の母国語は、フランス語です。

 それに対して、祖国というのは、その人の家族である祖先も含んだ歴史的、文化的な背景も多く含みます。

 フランスでは、主人の両親がすでに他界していたこともあり、彼女が物心ついてからは、祖先、親戚といえば、日本にいる私の家族や親戚との関わりが多く、日本に住んだことはないものの、幼い頃から日本語も話し、日本語の勉強も続け、日本にいる祖父母や親戚とも関わり、日本の絵本も読み、日本のテレビ番組を見て(これは、私が日本語を覚えさせるために意図的に、テレビは、一部のフランスの番組を除いて、日本の番組のみとしていました)、日本食も食べて、育ってきた娘の中での日本という国は、彼女にとって、大きな位置付けを持ってきたと思います。

 ですから、彼女にとっての祖国は、フランスであると同時に、その一部は、日本でもあるのです。

 彼女のキャラクターを見る限り、フランス人のキャラクターが濃いと思うのですが、彼女は、フランス人に対しても、日本人に対しても、その良いところも悪いところも、どこか、客観的に、冷静に、眺めているようなところがあります。

 それは、人種的、文化的なアイデンティティーの帰属感を二つの国に対して持っている人間のサガのようなものなのかもしれません。

 私の両親も他界してしまった今、私より上の世代や、私の世代は、どんどんいなくなっていくことを見越している娘は、自ら、日本にいる、自分と同世代の人とのつながりを繋ぎ、保っていこうとしています。

 それは、きっと、これから将来、彼女がどこで生活しようとも、彼女の中での、フランス以外のもう一つの祖国をどこか繋ぎとめておきたい気持ちの現れなのだと私は、どこかしんとした気持ちで見つめています。

 








 

2019年9月27日金曜日

子供の可能性を遮る親になってはいけない




 私には、一緒に、イタリアを旅行した友人で、イタリアが大好きで、イタリア語も独学で勉強してマスターし、イタリアの文化や歴史も熟知してる人がいます。

 でも、彼女は、イタリアに留学経験や長期滞在の経験があるわけでもないのです。

 彼女は、日本で仕事をしながらも、あまりに頻繁にイタリアへ旅行するので、彼女ほどのイタリアへの愛情と、イタリア語のレベルをもってしたら、イタリアでの生活もありえるのではないか?と思い、それをしない理由を尋ねたことがありました。

 すると、彼女は、自分自身を吹っ切るように答えたのです。
” うちの母親は、私がいないとダメになってしまうから・・” と。

 一度、彼女がせっせと貯金をして、イタリア留学を試みた時のこと、彼女の母親が半狂乱になって、彼女を止めたのだそう。彼女曰く、その時の母親の反応から、母親の人格崩壊への恐怖と懸念を抱いたのだそうです。

 それ以来、彼女は、留学や移住の長期の海外滞在は、母親のために、諦めて、代わりに短期の旅行は、思う存分することにしたのだとか・・。

 ですから、彼女は、自分の境遇の中での彼女の道を選んで、彼女なりの人生を歩んでいるのです。それもまた、彼女の生き方ですし、何が正解なのかは、わかりません。

 私自身も、なんだか、他人事ながら、モヤモヤとしたのを覚えています。

 というのも、そんな話を聞くのは、彼女が初めてではなかったからです。
 そういう親というのは、結構、いるものなのです。

 私が最初に留学したいと母親に話した時、私の母は、自分自身も、若い頃に、留学願望があったため、” どうぞ、いってらっしゃい!” と、寛容に私のやりたいことを受けとめてくれました。今となっては、そんな母には、感謝ばかりです。

 留学に関わらず、子供の可能性を狭めて、遮ってしまう親というのは、結構いるものです。大切に育てた我が子、自分のそばにいて欲しい気持ちは、痛いほどわかります。

 それでも、私は、イタリアに行くことを断念した彼女と彼女の母親の話を聞いて、思ったのです。” これは、いけない!!・・” と。

 経済的な問題等のある場合は別として、若いうちにしか出来ない経験を親が遮ってはいけない、すべきではないと、親となった今、私は、誰よりも自分自身を戒めているのです。

 逆に、私の従姉妹の家庭では、母親の方が、子供たちに留学してみたらと勧めているにも関わらず、頑として、日本を離れたくないと言うのだそうです。まあ、これは、これで、その子たちの選択なので、もったいないなぁ・・と思いつつも、私が口を挟むことでもありません。

 可愛い子には、旅をさせよ!と言いますが、今は、旅をしたがらない子供も少なくないようなのです。



 

 



 











2019年9月26日木曜日

海外在住の日本人の子供には優秀な子が多い




 パリに住んでいる、私の知っている日本人の子供は、なぜか、進学先も軒なみレベルのかなり高い学校に進んでおり、結果、医者、法律家、エンジニアなどのいわゆるエリートになっている場合が多いのです。

 フランスで生まれ育ち、フランスで大学を出てから、日本の大学や、大学院を卒業した子供(もはや子供ではないが・・)も数名、知っています。日本の大学や大学院に入学できるということは、日本語のレベルも日本に住んでいる日本人と変わりないほどなのでしょう。

 日本人は、あまり、努力を表に見せないので、はたからは、一見、その努力がわかりづらいのですが、その努力は、相当なものだったと思います。

 これは、やはり、日本人の生真面目な生活ぶりと、親の教育への向き合い方のような気がするのです。

 また、外国で暮らしても、たとえ、読み書きは危うくても、子供をバイリンガルに育てようとしている場合も多く、バイリンガルの子供たちが、他の学業においても優秀である確率が少なくありません。

 脳科学的にバイリンガルが脳の働きにどう影響するのかというような、専門的なことは、わかりませんが、あながち、無関係とも言えないのではないかと思うのです。

 少なくとも、一日の時間は、限られているわけですから、子供といえども、現地の学校の勉強に加えて、日本語の勉強をするわけですから、自ずと、効率よく、勉強をする習慣がつくのです。

 それは、大きくなればなるほど、色々な教科の勉強を効率的に、こなしていかなければならないうえで、とても重要なことです。

 たとえば、誰かに、仕事を頼む時に、忙しい人に頼んだ方が、素早く、的確に仕事が進むのと似ているような気がします。

 なかには、例外的な場合もあるでしょう。

 しかし、海外にいて、フランス人をはじめ、様々な国の人と接しているからこそ思うのは、日本人の教育に対する意識の高さと真面目さなのです。








 











 

2019年9月25日水曜日

子供の急病




 娘は、幸いにも、とても健康に生まれて、健康に育ち、どんなに動いても疲れるということを知らず、虫歯の一本もなく、どちらかというと、溢れるエネルギーを発散させるのに苦労するほど元気に育ちました。

 ただ、一度だけ、あわや、入院!?という病気にかかったことがありました。

 それは、娘がまだ5歳くらいの頃でした。

 そのころ学校では、なわとびが流行っていて、暇さえあれば、ぴょんぴょんと家でも、なわとび、また、学校でも大流行していたようで、なわとび片手に通学し、休み時間になると、こぞって、みんなで、なわとびをやっているようでした。

 ある朝、起きたら、娘が足が痛いと言いだして、私たちは、てっきり、なわとびのやり過ぎだろうと思っていましたので、なわとびは、いい加減にしておきなさい!と注意して、そのまま、学校へ行かせました。

 ところが、なわとびをやめても、娘の足の痛みは治ることなく、治るどころか、翌朝、起きた時には、まるで、小児麻痺の子供のような、独特な足の引きずり方で歩くようになっていたのです。

 娘の歩き方を見て、焦った私たちは、慌てて、近所のかかりつけのお医者さんに連れて行きました。すると、彼女は、厳しい顔をして、”これは、救急で、病院に行った方がいいから・・”と言って、パリの12区にある小児病院への紹介状を書いてくれました。

 救急で、小児病院へなどと、思ってもみないことを言われて、私たちは、ビックリして、娘を車に乗せて、慌てて病院の救急へ向かいました。

 症状を見たお医者さまが、検査のために、軽い麻酔をしますからと、娘の口に、プラスチック性の簡易マスクを当てた時には、私よりも主人の方が動揺していました。

 私も、それなりにショックでしたが、娘の病状とともに、大きななりをして、娘が麻酔用のマスクを当てられただけで、卒倒しそうになってしまう主人にも、情けないと思う気持ちと、心底、娘を大切に思っている主人の気持ちの深さとが交錯する複雑な気持ちでした。

 結局、娘は、リュームダンシュという、日本語にすると腰風邪という病気で、風邪のウィルスが体内の腰の部分に入って引き起こされる病気で、投薬治療と、できる限り安静にということでした。

 お医者さまに、入院しますか?ご自宅に帰られますか?(まあ、どちらでもいいですよということだったのだとは思いますが・・。)と聞かれて、当然、私は、病院で見ていただいた方が安心だと思っていたのですが、主人が、まるで、不本意に娘を取り上げられるとでも言わんばかりに、半ば、強引に家に連れて帰ると言い張り、お医者さまも、”それでは、薬をちゃんと飲んで、できるだけ、歩かせないように・・。”とおっしゃって下さり、その日のうちに、娘を連れて、家に帰ってきました。

 タダでさえ、動き回ることが好きな娘も、さすがに、なわとびどころではなく、学校も一週間は、休み、家の中でさえ、できるだけ、歩かない生活を強いられました。

 私と主人も交代で休みを取りながら、なんとか、娘についていましたが、1日だけ、どうしても、数時間、娘が一人でいる時間ができてしまったのです。

 その日は、休みを取るはずだった主人が、どうしても空けられない仕事が入り、午後の数時間、私が早めに退社するまでの時間だったので、まあ、大丈夫だろうと思いつつも、私が、急いで、家に帰ってみると、珍しく、娘は、リビングの大きなソファに座って、” 寂しい・・” と言いながら、一人でシクシク泣いていました。

 こうやって書いていて、ああ、そういえば、彼女も泣いたことがあったんだな・・と思うくらい、普段は、明るく元気な娘でしたので、あの時の彼女の様子は、彼女自身も、急に足が痛くなったり、大きな病院に急に連れて行かれたり、自分の周りで大人たちがバタバタしたりと、それなりに不安定な気持ちだったのでしょう。

 幸いにも、その後は順調に回復し、以来、これまで、大きな病気もせずに元気に育ってくれました。

 子供は、やっぱり、元気すぎるくらいの方が良いと、心底、思わさせられた出来事でした。

 それにしても、あの時の主人の情けない動揺ぶりは、一生忘れません。

 









 

 

















2019年9月24日火曜日

フランス人と日本人のハーフの青年




 私がフランスで仕事を始めた時に、同じ日に入社した青年がいました。

 その青年は、当時、20代後半くらいだったでしょうか? お母さんは、日本人で、お父さんは、フランス人のハーフの青年でした。

 お母さんが日本人で、お父さんがフランス人のハーフということで、私は、最初、どこか、娘の将来をダブらせるような目で彼の様子を見ていました。

 彼は、親元を独立して、パリで一人暮らしをしているということでしたが、予想に反して、なんだか、ふらふらした青年で、日本語も、ほとんど話せず、(まあ、ここは、フランスなので、別に日本語ができないことは、本当は、問題ではないのですが、)忘れ物をしたら、母親が職場まで届けに来たり、何かあると、トイレにこもって、携帯をいじっているような青年でした。

 そんな様子でしたから、彼は、数ヶ月で、すぐに会社を辞めていきました。

 私は、そんな彼を見て、強い危機感を感じたのです。

 言い方は悪いですが、娘がこんなになってしまったら、大変だ!!と。

 放っておいたら、彼のように日本語も話せなくなってしまうし、甘やかしていたら、こんなにフラフラとした人間になってしまうのだと・・・。

 彼の容貌は、明らかに日本人ではなく、背も高くスラッとしていていて、見た目は悪くないのです。

 そして、親元を離れて、一見、自立しているようにも見えます。

 しかし、実のところは、家賃は親がかりで、ブランド物のバッグなどをチャラチャラと持ち歩いて、口から出るのは、ヨーロッパのデザイナーの話ばかりで、ロクに働かずに職を転々とし、ふらふらと生きているのです。

 最初は、お母さんが日本人なのに、日本語が話せないことにビックリした私でしたが、実は、彼のダメなところは、単に、日本語が話せないだけでなく、生き方からして、ダメダメなのでした。

 私は、実際には、彼とは、仕事上の接点は、ほとんどなかったので、あまり、直接話した記憶もほとんどないくらいなので、詳しい彼の生い立ちはわかりませんが、経済的には、かなりゆとりのある家庭なのでしょう。

 しかし、私は、彼を見るに、フランスと日本の間で、ちょうど悪い具合に掛け合わさって、育って来たように思えてならないのです。

 フランス人のように、イッパシの主張と言い訳は、ハッキリとし、親とは、同居せずに、独立している風でありながら、実のところは、親が甘やかして、いい歳をした子供にお金を出し続けているのです。

 どこの時点で、彼がそうなっていってしまったのかは、わかりませんし、現在、彼がどうしているかもわかりません。

 ただ、私は、彼と出会えたことをとても感謝しています。

 なぜなら、彼の存在は、反面教師として、私の子育てに大きな警鐘を鳴らしてくれたからです。

 私は、娘に、読み書きも含めて、しっかりと日本語を教え、「高校以上は、勉強をしたくなければ、しなくてもいい。けれど、何もせずにふらふらとしていてはいけない、しっかり、働いてもらいます!」と、小さい時から、きっぱりと言い続けて来ました。

 そんな娘は、現在、大学院大学に通っています。