2019年10月7日月曜日

個性的なおしゃれとドギツいメイクに走るパリの日本人マダム 


   


 パリの街を歩いていると、遠くからでも、バスの中からでも、” あっ!!あれは、日本人だ!!”というのがわかるようになりました。服装、歩き方、物腰、雰囲気から、たいてい、当たります。

 以前は、地図を片手に帽子をかぶって、ウェストポーチ、あるいは、ポシェットを肩からかけて・・というスタイルでしたが、最近は、そんな、一目で観光客だとわかりやすい、不用心な人もあまり見かけなくなりました。

 それでもなお、日本人独特の、やんわりとした、ものごしや、たたずまいから、日本人らしさを感じるのです。

 しかし、それは、観光客のことで、長くパリに住んでいる人からは、その日本人オーラを感じることは、あまり、ありません。

 人の第一印象というのは、あながち、おろそかにはできないもので、最初、見かけたときに、” おや? この人、なんか、変だな?・・とか、妙な感じがするな?・・” と感じたことが、少し、知り合いになると、その妙に感じた感覚は、薄れてしまって、忘れてしまったり、消え去ってしまうことも多いのですが、後々になってみて、” ああ〜、そういえば、最初に会った時に、この人は、妙な感じがしたのだったな・・・” と思うことも少なくないのです。

 以前、私の勤め先の会社に出入りしていたお金持ちの日本人のマダムがいました。

 彼女には、最初、” んっ? ” と、思ったものの、話してみると、案外気さくで、話しやすくもあり、よく、手作りのケーキを差し入れてくれたりして、いつも、きれいにメイクをして、おしゃれな服装をしていて、いつの間にか、彼女は、好感の持てる方という印象になっていました。

 しかし、何年か経ち、彼女も年齢を重ねていくうちに、最近、彼女、少しメイクが濃くなったみたい・・と、思うようになりました。服装も、明らかに、危険なパリの日常を歩くような服装ではなくなっていきました。

 気がつけば、冬には、毛皮のコートを羽織って、つばの広い帽子をかぶってみたり、メイクと言ったら、まるで、舞台用のメイクのような濃さになり、周りのフランス人の同僚たちからは、あれでは、マイケルジャクソンみたいだ・・とまで、言われるまでになっていました。

 本当のパリのマダムを勘違いしているようで、もはや、パリに染まっていくというより、かなり、浮いてしまっています。

 慣れというのは、恐ろしいもので、そんな彼女を見ても、何とも思わなくなっていた私も、ある日、その異様さに気がついた時には、自分でも、ハッとさせられたくらいです。

 そして、それは、彼女に限ったことではなく、ごく少数ではあるものの、個性的なパリの日本人マダムは、存在します。それは、ガイドさんや、駐在員の奥様の中にもお見かけすることもあります。(逆に、国際結婚をしていらっしゃる方には、なぜか、あまり、お見かけしないような気がするのも不思議なことでもあります。)

 そんな、彼女らからは、もはや、日本人らしい、たたずまいを感じることはありません。

 パリが彼女をそう駆り立てるのか? それとも、彼女自身が本来、持っていたものが、開花したものなのか? それは、わかりません。

 一般的には、パリに住んでいる日本人の女性は、おしゃれではあっても、パリの治安を鑑みてか、比較的、大人しく、品の良い出で立ちで、ナチュラルな感じのメイクの方が多いのですが・・・。

 その人となりは、その様相に現れるといいますが、私は、どんな顔をしているのかな?と時々、思います。

 品の良いおしゃれは、難しいのです。その人の内面も表れますから・・。

 

 



 

 

 










 

2019年10月6日日曜日

パピーとマミーの愛情




 フランス語では、おじいさん、おばあさんのことをパピー、マミーと呼びます。

 娘は、アフリカで生まれ、フランスで育ち、私の父と母に初めて会ったのは、彼女が2歳になったときだったので、初めから、娘は、私の父や母のことを何のためらいもなく、「パピー」「マミー」と呼んでいました。

 娘が、無邪気に、パピー!マミー!と呼ぶ、その呼び方に、最初は、多少、戸惑っていた二人も、ジージとか、バーバとか呼ばれるよりも、パピーやマミーと呼ばれるその呼ばれ方の方が年寄り扱いされている気がしないなどと言い出して、いつの間にか、すっかり、パピーとマミーという呼ばれ方にも馴染んで、結構、気に入っていました。

 私自身も祖父母、特に祖母には、ことの外、可愛がってもらって育ってきましたが、父や母にとっても、孫の存在は、格別だったらしく、私が、母の仕事や、家の事を手伝ったり、看病をしたり、病院に付きそったりと親孝行のようなことをどんなにやろうとも、孫の存在や笑顔に触れた時のような、彼らの嬉しそうな顔は、見たことがありませんでした。

 父は、私が子供の頃などは、いわゆる昭和初期の世代の男で、口数も少なく、仕事仕事で、一緒に遊んでくれるというなどということもありませんでしたが、孫とは、楽しそうに遊び、あれこれとちょっかいを出してはかまって、娘との会話を楽しんでいました。

 母に至っては、それこそ、娘のやることなすこと全てをプラスに捉え、いちいち感心しては、娘のことを褒め、自分自身までもが無邪気に、孫といると、本当に楽しいね〜と公言して憚りませんでした。

 そして、それは、それぞれの最期の瞬間まで続き、母が危篤状態で、人工呼吸器をつけられて、もう瞳孔も開いていると医者に言われていた時でさえ、孫の呼びかけには、目を覚まし、父ももう、何も食べられなくなり、衰弱しながらも、自分の感情が抑えきれずにイライラと過ごしていた状態になっても、孫からの手紙には、穏やかな笑顔を取り戻していました。

 こう考えると、私がしてあげられた一番の親孝行は、両親に孫という存在を与えられたことだったのかもしれません。

 親と子の関係と、祖父母と孫の関係というものは、全く違うのかもしれません。

 自分自身が主体となって子供を育てていく親子関係とは違って、自分が歳を重ねて、人生も終盤にさしかかっている時、消えていくであろう自分の命と、これから育っていく新しい命である孫の存在とその関係は、自分の血を引いた命がこれからも、どこか自分と繋がって続いていく希望のようなものであったのかもしれません。

 

 

 

 













2019年10月5日土曜日

入国審査 世界最強と言われる日本のパスポートでも起こる悲劇




 日本のパスポートは、世界最強のパスポートと言われています。

 2019年のグローバルランキングでも世界1位となっています。

 日本のパスポート保持者が、ビザなしで渡航できる国は、現地空港などで、アライバルビザが取得できる滞在先も含め、190ヶ国にも及びます。

 私たちは、その便利な最強のパスポートを生まれながらにして、持つことができるのですから、それは、それは、ラッキーなことだと思います。

 実際に、私もこれまで、20ヶ国近くの国を旅してきましたが、入国審査で止められたことは、一度もありません。

 私自身が、入出国が一番多い、フランスでさえ、こちらに在住しているからという理由ではなく、滞在許可証すら求められないことがあるくらいです。

 しかし、以前、私がイギリスに留学中に、悲惨なことに遭遇したことがありました。

 私のロンドンでの友人から、日本から友だちが来るので、一緒に食事をしないかと誘われて、その友人の家で、一緒にその友だちの到着を、今か今かと待っていたのです。

 ところが、待てど暮らせど、その友だちからの連絡はなく、こちらからの連絡もつかず、到着便を調べてみると、飛行機は、とっくに到着している模様。

 仕方なく、ひたすら待っていると、何やら、動揺した様子で、電話をかけてきたと思ったら、入国審査で止められ、すったもんだの挙句に、このまま、日本へ帰国することになってしまったというのです。

 その人は、英語がほとんど話せずに、相手の言っていることも、よくわからず、途中で、通訳の人が入ってくれたというものの、通訳の人が、正確に通訳をしてくれたとも考えづらい感じでした。

 考えられる理由は、いくつかあります。

 飛行機が東南アジア系の航空会社の経由便であったこと。
 チケットが帰国期日の入っていないオープンチケットであったこと。
 その人の職業が料理人であったこと。
 そのために、入国後、イギリスで労働ビザなしで働く可能性があると思われた模様。

 結局、その人は、ロンドンには、着いたものの、空港の外に出ることなく、自分の持っていたオープンチケットの帰路の分のチケットをその場で、日時を入れられ、その日の夜の便で、日本へ帰ることになってしまったのです。

 私たちも空港に電話をしてみたのですが、その担当者とは、直接、話す事は出来ずに、こちらの事情を話すと、電話の応対に出てくれた人は、とにかく、結論として、「私たちには、入国を拒否する権利がある!」と言うのみで、私たちは、何もできず、ただただ、呆然としたものでした。

 空港の税関や、入国審査の担当官などは、当たる人によって、多かれ少なかれ、対応が違うことも多く、たとえ、日本のパスポートを持ってしても、こんな悲惨なこともあったのだということを、日本のパスポート最強説を見かけるたびに思い出すのであります。


 







2019年10月4日金曜日

母がパリに来てくれた時のこと





 私が、パリに引っ越した頃には、母は、もうすでに、心臓病を発病していたので、ヨーロッパまでの長旅は、単に長距離の移動ということだけでなく、飛行機の中の気圧の変化等の問題もあり、到底、無理だろうと思っていました。

 本来の母は、社交的な性格で、英語も堪能で、時代が時代なら、もっと海外を自由に行き来していただろうと思われる人でした。ですから、娘が海外で暮らしているなどという環境にあれば、健康であったなら、毎年のように、パリにもやって来ていただろうと思います。

 それが、娘がまだ3歳くらいの頃だったでしょうか? 突然、母から、来月、パリに行くから・・と連絡をもらって、私は、嬉しい反面、本当に大丈夫なのだろうか?と、何よりも、彼女の健康が心配になりました。

 もちろん、お医者さまとも相談の上だったと思いますが、私は、無理をしないで欲しいという気持ちの方が強かったのです。

 これが、心臓の病気の厄介なところで、はた目からは、病状がわかりづらいので、ついつい無理をしてしまうのです。

 しかし、こうと決めたら、とにかく、やってしまう母ですから、自分で友人を誘い、友人とともに、パリへやってきたのです。

 とにかく、一度は、娘や孫の住んでいるところを自分の目で見ておきたいという気持ちが強かったのだろうと思います。

 そういえば、ロンドンに留学していた時も、母は、(あの頃は、全然、ピンピンしていましたが・・)ここぞとばかりに、突然、ロンドンに来てくれたこともありました。

 あの時も本当に突然で、クリスマス時期で身動きが取れなくなるロンドンから抜け出そうと、私は、友人とカナリー諸島への旅行の計画をしていて、母が日本へ帰る前に出かけてしまうという事態になっても、母は、お構いなしにロンドンを楽しんでいました。

 パリにやってきたのは、孫とのフランスでの時間を持ちたかったということもあったのでしょう。主人もお休みの日には、彼女が行きたいというジヴェルニー(モネの家がある場所)や、ベルサイユ、パリの街中を細かい路地を通って、車で案内してくれて、バトームーシュに一緒に乗ったりして、母も主人も娘も、明らかに興奮状態で、母の健康状態を心配する私が、興奮する周りを抑えるのに必死だった気がします。

 パリ市内は、メトロを使って、観光やショッピングを楽しんだ母は、フルコースでしっかりとメトロでスリにまで遭い、私が帰宅したと同時にホテルにいる母から電話があり、私も、再び、ホテルに戻って、その後、警察に被害届をもらいに行ったり、カードを止めたりなど、ひと騒動でした。

 母が来てくれたのは、初夏のことで、夏には、私たちもバカンスで日本に行くことになっていましたから、孫とも、しばしのお別れと言って、母は、元気に日本へ帰って行きました。

 私も、なんとか、母が無事に日本に帰って、ヤレヤレといった気持ちでした。

 あの旅行自体が母の病状にどれだけの負担となったのかは、わかりませんが、あの時の楽しそうな母の様子を考えると、やれることをやりたいうちにやれて、本当に良かったと思います。

 結局、それから5年後に、母は、亡くなりましたが、それでも、パリに来てくれた後の5年間の母の病状の変化を考えると、あの頃が、母がパリへ来る最後のチャンスだったのだろうと思うのです。

 母がどのくらい、自分の病気の進行を予測していたのかは、わかりませんが、自分が動けるうちに、どうしてもやりたいことを命がけででもやるという彼女の選択は、きっと、彼女にとっても、私たちにとっても悪くない選択だったのではないかと、最近になって思うのです。

 寝たきりで、安静にしていれば、もしかしたら、彼女の寿命は、もう少し長くなったかもしれません。もちろん、どんな状態でも、生きていてくれれば・・と思うこともあります。
 しかし、少し長くなった寿命をベッドの上で過ごすより、やりたいことをやって生きた彼女の人生の方が幸せだったのではないかと、今は、思うのです。

 今日、その時に、母と一緒に見た、モネの睡蓮の池を、その頃の娘が描いた可愛らしい絵を見て、母がパリに来てくれた時のことを思い出したのでした。

 

 

 

 

















 

2019年10月3日木曜日

フランスの異母兄弟


私には、子供は娘一人だけなのですが、娘には、お兄さんが三人います。

 お兄さんといっても、異母兄弟で、お兄さんたちは、主人の前の奥さんとの間の子供なので、年齢もかなり離れています。

 一緒に暮らしたこともないので、ガッチリと、兄弟というわけでもないのですが、もう成人している今でも、彼らは、時々、家を訪ねてくれたり、メッセージを送ってくれたりしています。

 異母兄弟といえば、私は、日本では、もう少し、暗いイメージを持っていたのですが、彼らは、実にさっぱりとフランクに付き合ってくれています。

 離婚・再婚の多いフランスでは、こういうケースも少なくないからなのかなぁ・・と、私は、勝手に思っています。

 相手がさっぱりとしていてくれれば、こちらも、意外と気楽なもので、彼らがいなければ、娘は、一人っ子のような状態でもあるので、先々、私に何かあっても、何かと頼りになるかもしれないと思うと、彼らの存在は、今となっては、少し、心強くもあります。

 ところが、一番上のお兄さんは、パリの経済系の大学を卒業後、フランスの大手の銀行に一旦は、就職したのですが、せっかく務めた銀行も数年で辞めてしまいました。主人は激怒していましたが、私が口を挟むことでもありません。

 というのも、彼は、母親の影響で、かなりの熱心なクリスチャンで、彼の生活は、宗教が中心になっていってしまったからなのです。今では、教会の関係の子供たちに勉強を教えたり、その他の教会関係の活動で、収入も少ないようなのに、本人は、とても使命感と強い信仰からか、充実している様子で、何やら、いつも忙しそうにしています。

 真ん中のお兄さんは、それこそ、高校卒業後は、何かの学校に行っては、やめてしまい、結局は、何か建築関係の仕事をしていると聞いていますが、何やら、会うたびに、いつも、違うシチュエーションです。
 彼のすごいところは、そんな今ひとつの状況にも関わらず、いつも自信満々で、妹である娘に対しても、堂々としているところです。

 一番下のお兄さんが、一番、娘とも年が近く、(と言っても、結構、離れていますが)彼が小学生の頃などは、週末には、家に泊まりに来ていたりしたので、一番、身近な感じがするのです。

 しかし、彼は、グランドエコールを卒業後、スイスでエンジニアとして働いているため、今となっては、一番、会う機会は少なくなってしまいました。

 それでも、それぞれのお兄さんたちは、今でも、ノエルや娘の誕生日などには、家に来てくれたり、時々、娘をどこかに連れて行ってくれたりと、付かず離れずといった感じの付き合いが続いています。

 異母兄弟という、一見、難しそうな関係ではありますが、意外とさらっとした感じで、でも、どこか、繋がっているという不思議な関係なのであります。

 











 

2019年10月2日水曜日

下町のお節介おじさんのようなフランス人の夫





 同じアパートの5階の住人の家族には、二人の男の子がいました。

 私が見かけるのは、朝の出勤時と、夕方の帰宅時でしたが、その家のお母さんは、一体、いつ家にいるのかと思うほど、四六時中、アパートの外で、誰かをつかまえては、延々と立ち話をしていて、なんとなく、落ち着かない人だなぁという印象を持っていました。

 私は、仕事が終われば、バタバタと娘を迎えに行って、帰ってきて、娘の公文の宿題を見ながら食事の支度・・と、家に帰ってからの時間は、特に、忙しく、いつもそんな時間帯に外で誰かとおしゃべりをしている彼女を、この人は、自分でお料理をしないのだろうなぁ・・くらいにしか思っていませんでした。

 そんな彼女とは、顔を合わせれば、挨拶する程度でしたが、アパートを出入りする彼女の子供たちの成長も、それとなく、見ていました。

 最初に会った頃は、小学生くらいで、娘より少し年上だったでしょうか? 近所の公立の小学校に通う、ふつうの少年でした。

 それが、中学生になった頃からでしょうか? みるみる生活の様子が崩れ始め、見るからにヤバい感じの友人がアパートに出入りするようになり、アパートの前には、ヤバい少年たちがたむろするようになっていったのです。

 そのヤバそうな少年たちも、何をするわけでもないのですが、あまり、感じのいいものではありませんし、娘も怖がり始めました。当然、他のアパートの住人も同じことを思っていたようで、他の住人からの話も耳に挟んだ主人が5階の住人に話をしに行きました。

 そして、彼女と彼女のご主人と話をするうちに、これは、タチの悪い友人関係を早い段階で、断ち切る必要があるということになり、主人も手伝って、その少年のための全寮制の学校探しを始めたのです。

 まるで、近所の悪ガキにも容赦無く、口を出す、下町のお節介おじさんのようです。

 それでも、彼らも、彼らなりに、自分たちの息子の様子に危機感を抱いていたようで、息子の転校話はどんどんと進み、少年は、全寮制の学校へと転校して行きました。

 近所の少年の不良化のおかげで、むかしは、日本にも、こんな風に、人さまの子供のことも放っておけない、お節介なおじさんやおばさんがいたんだろうなぁ〜〜と思いつつ、主人の意外な一面を見た気がしたのです。

 

 

 

 

 





2019年10月1日火曜日

未だに霜取りが必要なフランスの冷蔵庫

                                       



 電化製品には、なぜか、当たりハズレがあるようで、もうそろそろ、新しいのに変えたいと思うのに、なかなか壊れないくらい長持ちするものと、定期的にちゃんと壊れてしまうものとがあります。

 我が家の場合は、例えば、炊飯器、これは、まだ、パリに引っ越して来たばかりの頃に夫が、” 日本人なら、これは、絶対にいるでしょ!" と、どこかから、買ってきてくれたもので、まるで、昭和初期に存在していたような、いでたちの炊飯器なのです。

 とてもシンプルな作りで、炊き上がるとカチッと音がして、スイッチが上がり、炊き上がります。保温もできなければ、もちろん、予約タイマーなんていうものもついていません。

 これが、もうかれこれ20年以上、壊れずにいるので、なんとも買い替えるのも忍びなくて、こうなったら、骨董品になるまで使い倒そうと思っている次第です。
 他に、壊れないのは、掃除機、電子レンジ です。これは、当たりだったというべきなのか、ずーっと壊れません。

 それに比べて、洗濯機、冷蔵庫は、定期的に壊れてしまうので、これらは、いつもハズレです。もう、それぞれ、パリに来てから3台目になります。

 しかも、冷蔵庫は、色々といわく付きです。

 電気屋さんに行って、新しい冷蔵庫を選び、配達と壊れた冷蔵庫の引き取りを頼みました。配達の日時を指定しましたが、これがなかなか時間通りには来ないのは、まあ、フランスなら、よくあることです。                             

 さんざん待たされた挙句にやっと、あと10分くらいで着きますと電話があり、やれやれと、古い冷蔵庫の電源を切り、冷蔵庫の中のものを出して待っていました。

 ところが、10分待っても来ません。30分ほどして、ようやく再び電話がかかってきたと思ったら、ちょっと問題があるので、アパートの下まで降りてきてくださいと言われました。

 降りていくと、運ぶ途中で、冷蔵庫に穴が開いてしまったので、値引きしますから、これで、良いですかというのです。あまりのことに、呆れて、内心、” 良いわけねーだろ!”と思いながらも、お断りし、また後日に配送ということになったのです。

 フランスの冷蔵庫には、もう一つ問題があり、それは、未だに定期的に霜取りが必要なことです。日本に住んでいらっしゃる方なら、冷蔵庫の霜取りなど、それこそ、昭和の初期ならまだしも、現代の冷蔵庫で霜取りなど、ありえないことでしょう。
 きっと、今の日本の子供は、霜取りという言葉の意味すらわからないのではないかと思います。

 最初は、冷蔵庫の霜取りなんて、うちの冷蔵庫だけがポンコツなのかと思っていましたが、どうやら、会社の同僚に聞くと、かなり良い冷蔵庫を買っても、みんな冷蔵庫の霜取りをしているらしいことが判明しました。

 一番、最近、冷蔵庫を買った際には、これが、もしかしたら、私が買う最後の冷蔵庫になるかもしれないなどと、理由をつけて、かなり奮発して良いものを買いました。内心、日々、技術は進んでいるし、今度こそ、霜取りが必要なくなるかもしれない・・と期待していました。

 ところが、冷蔵庫が配達されてきて、使い始める前から、その期待は、見事に裏切られたのです。なんと、新品の冷蔵庫には、” どうだ!” と言わんばかりに、霜取り用のプラスチックのヘラが付いてきたのです。


霜取り用に冷蔵庫についてきたヘラ
         


 冷蔵庫を運んできたおじさんが、得意そうに冷蔵庫の使い方と合わせて、得意げにそのヘラまで説明する様子を、ニッコリしながらも、内心、” そこじゃねーだろ!” と突っ込んでいました。

 冷蔵庫の霜取りの解決策を霜ができなくなるような冷蔵庫を作ることは考えずに、霜を取るためのものをつけることで解決しようとするフランス人の考え方が、どうにも理解できません。