2019年9月7日土曜日

入学式も卒業式もないフランスの学校





 フランスの学校の新年度は、9月に始まります。

 8月に入ると、スーパーマーケットなどでは、新年度用の学用品売り場のコーナーが設けられ、子供連れの親たちが、学校から、配られている学用品のリストを片手に買い物する光景が見られます。

 フランスでは、ノートや筆記用具等の文房具類を学校で一律に揃えるということはなく、各自が○ページある○行のノートとか、マス目が○ミリの用紙だとか、○色のボールペンだとか、それは、細かく指定されている新年度の学用品集めは、ひと仕事です。
 
 一定の量の同じものが必要ならば、まとめて学校が仕入れるか、業者が参入しても良さそうなものに思いますが、いつまでも変わらない、長い間のフランスのしきたりのような行事の一つです。

 そんな、フランスの学校には、入学式も卒業式もありません。
しれ〜っと、始まって、いつの間にか終わっている・・。そんな感じです。

 娘の小学校の入学のときは、私は、そんなことも知らずに、学校が始まる当日の朝に、主人と学校まで娘を送って行って、ちょっと顔を出して、そのまま、仕事に行くつもりでいました。

 学校の門の前には、先生が数名、” ここから先は、子供以外は入れません ! " と、父兄の前に立ちはだかっていました。

 ちょうど、その時、娘は、よりにもよって、顔が赤くかぶれてしまっていて、不憫に思っていたこともあり、さぞかし、心細いだろうと、私の方が、うるうるしてしまいました。

 主人も前日から、娘の洋服にアイロンをかけたり、学校へ持っていくものを揃えたり、靴を磨いたりと大張りきりだったのに、娘があっさりと、すたすた、こちらを少しも振り返ることもなく、学校へ入って行ったのには、大いに、物足りなさそうな感じでした。

 考えてみれば、フランスの学校には、日本の学校にある、入学式、卒業式はもちろんのこと、始業式、終業式、というものもありません。

 合理的といえば、合理的です。

 逆に考えてみれば、日本は、やたらと式典が多いですね。

 最初は、なんだか、区切りがつかない感じだと思っていましたが、慣れてしまえば、いちいち親が顔を出すこともなく、かえって、楽チンだと思うようになりました。

 その度に、仕事の休みをとったり、遅刻をしたりというのもなかなか大変ですから。

 フランスの学校では、特別な行事の時以外は、親ですら、気軽に学校に立ち入ることは、できません。授業参観というようなことも一度もありませんでした。

 ただ、二回だけ、ブルベ(中学卒業時の試験)とバカロレア(高校卒業時の試験)の成績優秀者の表彰式というのだけは、親も参加できました。

 特に、バカロレアのときは、娘の学年がその学校で始まって以来の高成績で、なんと、半数以上がトレビアン(5段階の最高の成績)をとり、親よりも生徒よりも、校長先生が有頂天だったのが印象的でした。

 こう考えると、こちらに慣れてしまえば、日本の学校の式典の多さだけでも、それを準備する先生とその度に参加する親の負担がいかに大きいかがわかります。

 フランスは、実にシンプルで、日本では、親までもが、子供の入学式コーデなんていう特集がファッション誌を飾ったりしているのが、不思議なほどです。

 お国柄といえば、それまでですが、国が違うと学校のあり方もずいぶんと違うものです。学校の入学式や卒業式などのセレモニーなどは、学校の始めに見せつけられるフランスと日本の大きな違いです。

 

 





















2019年9月6日金曜日

フランスの雇用問題






 昨年末、フランス全土に拡大した黄色いベスト運動(gilets jaunnes ジレ・ジョンヌ)と呼ばれるデモが世間を騒がせ、一部は、暴徒化し、大問題となりました。

 もともとは、自動車燃料税の引き上げに反対するものでしたが、次第に反政府デモへの様相を呈したデモへと変貌していきました。

 失業率の高い事でも有名なフランスですが、特に、若者の失業率が高いのもまた、特徴的で、このデモの暴徒化の中心となっていったのも、その若年層であるとも言われています。

 フランスでは、雇用形態や労働者の処遇、賃金、労働時間、解雇に至るまで、厳しい労働法の規制があります。

 この厳しい労働法の規制から、アルバイトのような職でさえ、安易に得ることも、また、賃金と物価の兼ね合いも、若者同様、外国人である私たちにとっても、とても厳しいものであることに違いありません。

 また、職を得ることが難しい反面、一旦、正規雇用として、雇われてしまえば、その労働者の権利というものも、その法律によって、大きく守られていることも現実なのです。

 公務員などは、その最たるものです。

 私は、フランスで、雇用主になったことはありませんが、自分の処遇に関しても、少なからず不満があったものの、同時に、同じ会社にいる、長くいることで、高給を取りつつも、ロクに働かずに、年金の計算ばかりしている人間を容易に解雇することもできずに、高給を払い続けなければならない、雇用主側の現実にも、憤りを感じたものです。

 雇用主は雇用主で、税金や保険料などで、労働者が実際に受け取る額を遥かに上回る金額を支払わなければならず、うっかり解雇しようものなら、たちまち訴えられて、その多くは、労働者側の勝訴になるのです。

 つまり、正当に働く権利を守るはずの労働法は、現実は、働かない労働者をも守る労働法になってしまっているのです。

 すでに職を得ている労働者が、法律に守られて、気に入らないことがあると、デモだ、ストライキだ、裁判だ!と、のうのうと暮らしている一方で、新規に参入してくる若者や、弱い立場の人たちが、その分のしわ寄せをまともに受けているのです。

 フランスの場合、新卒者を採用すると同時に、あくまで個人の能力や職務経験によって採用される即戦力重視の採用方法にも重きを置いています。

 しかし、そう事は、単純ではありません。

 弱い立場の人々が、職務経験を重ねて、キャリアを積んでいく一方で、高学歴の人は、それを何段も飛び越して、卒業して、いきなり管理職に着くのもフランスの超学歴社会の現実でもあります。

 高学歴の人には、それはそれで、一般のフランス人には、想像もつかない努力をして勝ち得た学歴でもあるので、その格差に歩み寄る気持ちが、本当は、ないのが正直なところだという現実が、今回のデモのような摩擦に繋がるのでしょう。

 何れにせよ、外人の私から見ても、フランスの労働法、雇用形態が社会全体を上向きにするために、うまく機能しているとは、到底、思えないのであります。













2019年9月5日木曜日

宅配便をしてくれていた大学教授の叔父






 うちの家族は、両親ともに兄弟が多く、それぞれに、なかなか結束も硬く、仲が良く、皆、都内のそれほど遠くない距離に住んでいることもあって、親戚の集まりも多く、子供の頃には、けっこう、それが煩わしくもありました。

 父の兄弟は、ほぼ、全滅してしまいましたが、その下の世代の従姉妹たちとも、相変わらず仲良くお付き合いが続いています。

 母の兄弟姉妹の方は、母以外は、まだ、全員、なんとか健康で暮らしており、叔父、叔母とも、変わらずにお付き合いを続けて頂いています。

 特に、母方の親戚は、私の祖父母が存命の頃から、祖父母の兄弟に亘ってまでの、付き合いがあり、子供の頃は、もう誰が誰だかわからず、引っ込み思案だった私は、とても、そんな集まりが苦痛でした。

 それでも、祖父母を中心とした家族の繋がりは、今から思い返せば、ありがたいものだったと思っています。

 誰かの誕生日、父の日、母の日、こどもの日、敬老の日、お正月などなど、事あるごとに、祖父母の家の庭でみんなでバーベキューをしたり、どこかのレストランを予約して、みんなで食事をしたりと、頻繁に顔を合わせていたおかげで、祖母が亡くなる時には、皆で交代で約半年、看病しあい、こうして今でも、お付き合いが続いているのです。

 特に、母の一番下の妹の叔母は、母よりも私の方が年が近く、私にとっては、どこか、姉のような存在ですらありました。

 娘が生まれた時も自分の孫のように可愛がってくれ、娘の洋服などは、ほとんど彼女が用意してくれていましたし、母の病状が思わしくない時、母の様子を逐一、知らせてくれたのも、私の帰国のタイミングを測ってくれたりしたのも彼女でした。

 そんな彼女の夫は、ある私大の理系の教授で、フランスの大学の教授と交流があり、研究室の生徒を連れて、学生に論文発表の機会を設けるために毎年、フランスに来ていました。

 そんな、叔父は、私たちにとっては、サンタクロースのような存在で、叔母が山のように用意してくれる日本の食料品を、その度に私たちの元に運んできてくれました。

 偉い大学教授の叔父も、私たちにとっては、宅配便のような存在でしたが、こちらで、娘がどうやら理系の道を選ぶとなってから、こちらの大学の事情にも詳しい叔父には、色々と相談に乗ってもらうようになりました。

 叔父がパリに荷物の宅配にパリに来てくれた時は、彼の滞在している、私たちが普段は、立ち寄ることのないような立派なホテルに荷物を受け取りに行き、一緒にお食事をし、パリの街を歩きました。

 娘の将来を見据える進路の選択に差し掛かった折、叔父は、こう言いました。

 「進路の選択は、将来、どんな形で、自分が社会に貢献できるかということを考えたらいいんだよ。」と。

 宅配便だった、叔父の教育者としての立派な一面を思い知らされた、彼の賢明なアドバイスでした。

 

 



























 

2019年9月4日水曜日

フランス人の夫のヤキモチ




 以前、同じ会社に勤めていた30代半ばくらいのロシア人の女性の同僚がいました。

 彼女は、結婚していましたが、まだ、子供はおらず、退社時刻になると、毎日、毎日、少し年の離れたロシア人のご主人が会社までお迎えに来るのでした。

 普通なら、子供がいてもおかしくない年代で、もし、そうなら、普通は、自分が子供を迎えに行く立場です。

 まあ、子供もいないことだし、ご主人が毎日毎日、お迎えに来ると言うことは、さぞかし夫婦円満で、ラブラブなのかなあと思っていました。

 でも、日を重ねるに連れて、周りのみんなも、いくらラブラブでも、毎日、お迎えって、なんか、ちょっと、じと〜っとしたものを感じるね・・と言い始めました。

 私も、家に帰って、彼女のお迎えの話を主人にしたところ、” それは、間違いなく、ジェラシー、物凄く嫉妬深い男なんだよ!” と即答していました。

 そんな夫も、けっこう妙なヤキモチの焼き方をする人で、一緒に外出したりして、周囲の人が私のことを ” ちょっとあの子いいね!" などと、褒めてくれたりするのをとても、めざとく聞いています。

 お世辞半分なことにも、とても、敏感に反応して、喜んでみたかと思うと、勝手に、それがヤキモチに変わっていたりするのです。

 私が、娘と二人で楽しそうにしていたり、友達と電話で話したりしていても、除け者にされた気がするのか、ちょっかいを出してきたりします。小学校5年生男子くらいのレベルです。(失笑)

 以前、私が、お気に入りだった日本の俳優さんのドラマのDVD を友人に借りてきては、家でよく見ていたことがありました。

 最初は、私は、何も気にせずに、ウキウキしながら、楽しく見ていたのですが、そのうち、私がそのドラマを見ていると、主人の機嫌が露骨に悪くなるようになりました。

 なんと、主人は、その俳優さんにヤキモチを焼いていたのです。

 それからというもの、私は、なんだか、こそこそと、悪いことでもしているように、DVDを見るようになってしまいました。

 DVDを見ている最中に主人が帰ってくると、” あ!パパが帰ってきたよ!” と娘まで気を使うようになる始末。

 ある日、主人が、何やら思いつめた様子で、私のところにやってきて、” 食事だけなら、僕が招待するから、行ってきてもいいから・・” と言い始めたのです。

 最初は、なんのことだかわかりませんでした。

 しかし、すぐに、それが、あのドラマの中の彼であることがわかって、返す言葉も見つかりませんでした。

 本当に、できるものなら、彼と一緒にお食事に招待していただきたいものです。

 












 

2019年9月3日火曜日

フランス人は、不器用なのか?



子供が小さい頃は、やたらと頻繁にお呼ばれするお誕生日会。
その度に、プレゼント持参で、何かと気も使うし、お金も使います。

 ある、お誕生日会に行く時に、娘のお友達と、そのママ友と一緒に行こうということになり、私たちは、すでに、プレゼントは、用意していたのですが、そのママは、まだプレゼントを用意していなかったので、プレゼントを買いに寄りたいから、一緒に付き合って!というので、おもちゃ屋さんに一緒に寄りました。

 プレゼントを選んで、会計を済ませて、急いでいるから(プレゼント用に包装を頼むとすごく時間がかかって、待たされるので)自分で、包むからと言って、包装紙をお店でもらって、プレゼント用の包装を始めたのです。

 (日本は、とかく、包装過剰と言われますが、フランスでは、特別に頼まないと包装はしてくれません。)

 そのおもちゃ屋さんには、自分でパッケージする人のためのスペースも設けられていました。

 一応、子供用とはいえ、プレゼントなのですから、私は、家で、工夫して、可愛いリボンなどをつけて、パッケージをしてきていました。

 ところが、そのママさん、(ちなみに彼女の職業はお医者さんです)、なんとも、雑!
ハッキリ言って、キタナい!とりあえず、包む・・という感じなのです。

 せっかくのプレゼント、紙は歪んで、テープも斜めにはみ出しでいます。
 それでも、本人は、さっぱりしたもので、” ハイ!出来上がり!じゃあ、行こうか!”と 言うので、” それ、ちょっとヒドくない?” と言うほどには、親しくもなかったので、この人、ホントにお医者さんなの?と、ただただ呆気にとられたものでした。

 また、フランスでは、教科書を借りるという形を取っているため、年度始めには、本を汚さないように、その年に使う、全ての本にプラスチックでカバーをしなくてはなりません。
 年度終わりには、そのプラスチックを剥がして、返却しなければならないからです。

 これは、フランスでは、子供が学校に行っている間の年中行事のようなものです。

 これも、いつだったか、娘のお友達が家にやってきて、一緒にやったことがあるのですが、これまたヒドい!何だかうるさい小姑のようですが、返す時に本をキレイな状態のまま、返すのが目的なのに、プラスチックをかける段階で、もう、すでに本にダメージを与えている感じなのです。

 キレイにきちんとやろうという気持ちがないのか? はたまた、不器用なのか?
 あまり、細かいことには、こだわらない、よく言えば、大らかなのです。

 しかし、おしゃれには、気を使うのに・・。

 大して、几帳面でもない私でさえ、こんなの、日本人だったら、ありえない・・と思うのですが、それで、何の問題もないのがフランス。

 まあ、それくらいのユルさが、今の日本には、必要なのかな?と、頭をかすめたりもするのであります。












2019年9月2日月曜日

フランス人特有のジェスチャー




 以前、日本人だけれど、お父様が外交官だった関係で、世界を転々と暮らし、ほとんど日本に住んだことがない、海外暮らしの長い、従兄弟の奥さんに会った時、彼女は、日本語が苦手で、あまり、周りの日本人と話そうとしませんでした。

 彼女の両親は日本人なので、日本語もわかるは、わかるのですが、どうも、話す方は、あまり、自信がなかったようです。

 しかし、うちの娘が相手だと、娘も似たような立場だったこともあって、まだ小さかった娘を相手に、日本語で話をしてくれていました。

 彼女は、普段は、英語圏で暮らしているので、母国語は、英語なのですが、フランスでも暮らしていたことがあったらしく、そんな彼女が私に言いました。

「お嬢さん、日本語も上手だけど、日本語を話していても、身振り手振りがフランス人でかわいい!」と。

 世界を転々としていた彼女だからこそ、娘の身振り手振りがフランス人特有のものであることに、すぐに気が付いたのです。

 それまで、私は、毎日、あたりまえのように、娘と過ごし、周りのフランス人とも普通に接していて、フランス人独特のジェスチャーというものを、特に意識はしていなかったのです。

 ところが、考えてみたら、フランス人のジェスチャーは、第二のフランス語ともいうべく、共通にフランス人が使っているものであったのです。

 きっと、日本で一番有名な、フランス人のジェスチャーは「ノンノンノン!」と垂直に伸ばした人差し指を左右に振る相手の発言を打ち消すポーズかもしれません。

 また、「アタンシオン!(気をつけなさい!)」など、相手に注意を促す時には、同じく垂直に伸ばした人差し指を相手に向けて、2〜3回、縦に振ります。
 きっと、慣れていない人は、威圧感を感じることでしょう。

 「まあまあ・・・」特に良いとも悪いとも言えない時、「コムスィ・コムサ」、ギリギリ、スレスレであることを示す時には、「セ・アンプ・ジュスト」と指を伸ばした手のひらを下に向けて、右に左に幾度か半回転させます。

 きっと、フランスの街中で、何かを尋ねた時、一番、多く目にする機会があるのは、口をちょっとすぼめて、両肩をすくめるようにちょっと上げて、両手の平を上にして、相手に向けるポーズ。

 相手や自分の期待通りにできない状況に置かれて、仕方がないと諦めたり、「ジ・プ・リアン」「セ・パ」など、どうしろというのだと開き直るポーズでしょう。

 その開き直るジェスチャーなどは、フランス人の感じの悪さをより一層、引き立てている気がします。

 とにかく、フランス人は、話をする時に身振り手振りが多く、そのひとつひとつに言葉なみの表現が含まれていて、気をつけて見ていると、とても、面白いものです。

 だから、娘のように、たとえ、日本語を話していても、言語自体は切り替わっていても、身振り手振りは、フランス仕様のままという現象が起こるのです。

 フランスに長く生活している方や、バイリンガルのお子さんなどは、日本語を話している時にも、無意識にフランス仕様のジェスチャーになっているかもしれません。

 「知らない!」と思ったりした瞬間に、両肩をすくめて上げたりしていませんか?

 私は、時々、そんな自分の無意識の動作に気づいて、ハッとしたりしています。
 

 


































 

2019年9月1日日曜日

ピンクのお年頃


ピンクが何より好きだった頃の娘


 3〜4才くらいの女の子にありがちの、とにかく可愛くしたい願望。

 髪の毛を結んで欲しいとか、こんな洋服が欲しいとか、こんな組み合わせにしたいとか、とにかく世界で一番、かわいくしたいと思っている、ちょっぴりナルシストが入った微笑ましくも厄介なお年頃です。

 そんな中でも、彼女は、色へのこだわりが強く、色の組み合わせにもうるさく、とにかく、基本、ピンク色のものがお好みで、また、あま〜い、日本にいるマミー(おばあちゃん=私の母)などが、娘がピンクが好きだということを知ると、ピンク色のものをせっせと送ってくれたりしていたので、娘のピンク狂に拍車がかかることになりました。

 なにかというと、” ローズ "。(ピンク色のことをフランス語では、”ローズ”と言います。)その頃の彼女から、自信満々の ”ローズ!" という言葉をどれだけ聞いたことでしょう。その頃の彼女の持ち物は、何から何までローズで、彼女の部屋はピンク色のもので溢れていました。

 また、洋服の組み合わせにも強いこだわりがあって、毎日の洋服は、自分で選び、自分で着たい年頃でした。

 それは、スカート、Tシャツ、セーターから、靴下、タイツ、靴からパンツに至るまで、何やら自分で好きなようにコーディネートをしたがっていたので、私も彼女のやりたいようにさせていました。

 とはいえ、まだまだかわいいもので、洋服の着方などは、親に言われたとおりに素直に従っていました。

 例えば、どんどん成長して、洋服も、あっという間に小さくなってしまうため、私は、セーターなどの比較的、融通のきく服は、いつも大きめのものを買って、腕まくりをさせて着させていました。

 なので、たまにちょうどいい袖丈の服を頂いたりすると、” ママ!これ、折るとこないよ!” などと、言い出すので、苦笑してしまうこともありました。

 それは、日本に一時帰国した際に、親戚の家に出かけた時のことでした。
日本に持ってきている限られた服の中から、彼女は、自分で服を選んで、自分で着替えて家を出たのです。

 家の中で、おてんばを始めた娘に、睨みを効かせた時、私は、目を疑ったのです。

 おてんばをして、チラッとスカートがめくれたのです。
 
 なんと、彼女は、スカートとパンツの色が合わないからとパンツを履いてきていなかったのです。慌てて、叔母が買い置きしてあったパンツを借りて、履かせて、” いくら色が合わないからといっても、パンツは履いてでるもの!” と言い聞かせたのでした。

 ピンクを世界一かわいい色だと信じて、世界一可愛くしたいと思っていた彼女は、色のあうパンツがないからといって、パンツを履かずに出かけてしまうという奇行に走ってしまったのです。

 大きくなった今はもう、彼女のワードローブは、地味な色の服が大半をしめ、逆に、私がたまには、いいんじゃない?と頼んでも、彼女はピンクの服などは、着てはくれなくなりました。

 ピンクへの憧れは、多くの女の子が通る、あの年頃の麻疹(はしか)のようなものだったのかもしれません。