2019年8月31日土曜日

パリの日本人コミュニティ




私の元同僚の日本人の女性に、パリ近郊に住みながら、日本にどっぷりと使ったような生活を送っている人がいました。彼女は、アラブ系の男性との国際結婚でフランスにやってきたのですが、在仏歴30年以上になります。

 もうすでに、リタイアしていていますが、今でも付き合う人は、ほぼ、日本人で、彼女は、パリの日本人コミュニティーの中で暮しています。

 そんな彼女は、パリの日本人コミュニティの中では、顔も広く、日本人エリアと言われているオペラ界隈を歩けば、数メートルごとに知り合いの日本人に出くわします。

 彼女のバイブルは、日本の週刊誌。日本を行き来する知り合いから手に入れては、大事そうにいつも週刊誌を何冊も抱えています。

 人当たりもよく、とても、親切でいい人なのですが、口を開けば、人の噂話なので、私は、あまり、親しくなることは、ありませんでした。

 私の数少ないパリでの日本人の友人が亡くなった時、私は、その当日に彼女の訃報を聞いて、病院に駆けつけて、霊安室で長いこと、二人きりでお別れをさせて頂き、精神的にもかなり、参ってしまったので、その日の夜のお通夜には、遠慮させていただくことにしていました。

 ところが、日本から駆けつけていた彼女のご家族が、彼女のお通夜がわりにフランスで、彼女の知り合いだった日本人の人とお食事をしたいと仰っているから、ぜひ、来て!と、彼女と共通の友人から連絡があり、重い腰をあげて、出かけて行きました。

 亡くなってしまった友人は、あまり好んで日本人と付き合うタイプでもなく、友達を混ぜるタイプの人ではなかったので、集まった人たち同士は、それほどお互いを知る訳でもなく、ワインが好きだった彼女のさし飲み友達数名だったようです。

 それでも、世間は、狭いもので、そこに来ていた初対面の女性が、たまたま、私の仕事で関係のある方と知り合いだったりして、その方の生活ぶりなども話題に上がりました。

 その方も、もうリタイアして、長い、在仏歴も長い女性だったのですが、日常、ほぼ、毎日を日本人の友人だけで集まって食事をしているといい、それが、この上なく、楽しいのだとか・・。

 まあ、彼女たちは、長い間、フランスで働いてきて、年金もフランスから支給されていますから、老後をパリで日本人の気のおけない友人と楽しく暮らすのもまた、一つの生き方かもしれません。

 フランスに住む日本人の数は、約3万人と言われています。
その過半数は、パリ、パリ近郊に住んでいるのです。

 フランスの美しい街並みやイメージに憧れて来た人から、日本が息苦しくなって、飛び出てきてしまった人、芸術を志してきたけれど、現実には、それが生業にはならずに他の仕事についている人、志を持って、仕事をしにきている人、留学生、研修生、ワーキングホリデー、国際結婚など、フランスに住む日本人は、多種多様です。

 私自身は、フランス人との国際結婚でフランスにおり、子育てと仕事でいっぱいいっぱいで、ほぼほぼ、仕事場と娘の学校と家の往復。休みの日も家族と過ごすことがほとんどで、もともと、人とつるむこともあまり好きではないので、日本人とのお付き合いはほとんどありません。

 ですから、そんな風に日本人コミュニティーにどっぷり浸かっている人が結構いて、そんな生活をしている人の話を聞く機会もほとんどありませんでしたので、こういう生活をしている人もけっこう、パリにはいるものなのだなあと思ったものです。

 パリは、美しい街で、華麗なイメージの国ですが、反面、不便なことも多く、フランス語、フランス人の中に溶け込んで暮らすのは、かなりハードルの高い国でもあります。

 そんな中で、暮らす日本人の暮し方も様々で、日本人との繋がりで生きている人もけっこういるのです。


 








2019年8月30日金曜日

フランスのシェアハウスでいつの間にか寮長のようになっていた娘




 娘は、昨年から、自宅から通学が不可能な場所にある学校に入学したために、生まれて初めての一人暮らしを始めました。

 一人暮らしといっても、シェアハウスのようなところです。

 大家さんが階下に住んで、一応の監督下にはあるものの、シェアしている上の階は、別になっています。

 上の階には、部屋が5つあり、それぞれの部屋には鍵もかかり、個人のスペースはプライバシーが保たれるようになっていますが、キッチン、バスルーム、トイレ、テラス、洗濯物を干したり、アイロンをかけたりする部屋は、共有となっています。

 娘以外の4つの部屋には、男性4人が住んでいて、

 1) 31才のフランスの大手企業の経理の仕事をしている社会人。なぜか、冷蔵庫の彼のスペースには、大きなペットボトルに入った水だけ。
 冷やした水だけで、水風呂に入るというこだわりを持つわりには体臭がきつく、毎朝、毎晩、壁越しにも聞こえるような大きな深呼吸を続ける健康法実践者。

 2)23才の縫製の専門学校生、でも学校には、ほとんど行っていない。でも、将来は、スケボーのウェアのブランドを作りたいという人。ウーバーイーツのアルバイト中。でも、マリファナを使用していることが発覚し、大家さんから、お母さんにマリファナのことを注意されて、大家さんと大げんかして退去。

 3)25才 当初はカーフールの夜中の在庫整理のアルバイト。でも、契約が切れて、契約延長されずに、うちでダラダラと無職。

 4)32才 将来は、映画監督志望の映像関係のAD、シナリオライター。
ヴィーガン、オーガニック、出張が多く、あまり家にいない。

 娘は、高校卒業後、一人暮らしを始める前の二年間は、クラス・プレパラトワール・オ・グランゼコール(グランドエコールのための準備機関のような学校)に行っており、とても授業の進み方が早く、かなり、根を詰めて勉強していたため、私自身もこの2年間だけはと娘に家のことはやらせずに過ごしてしまっていました。

 そのため、一人暮らしで、まあ、なんとかなるだろうとは、思いつつ、内心では、一体どうなることやら?と思っていました。

 最初の引越しの時だけは、私も引越しを手伝いがてら、大家さんにも挨拶をして、一応、どんな環境なのか、様子を見てきましたが、同居人たちは、その時は不在で会うことはできませんでした。

 娘も新生活を始めて、しばらくは、お料理をするにも、ラインで、”肉じゃがってどうやって作るの?” とか、出来た料理の写真を送ってくれたりしていました。

 そして、新しい学校に通い始め、自分の生活も動き始めた頃に、少しずつ、同居人の様子が見え始めたようでした。

 周りは、全てフランス人のしかも、彼女より年上の男性ばかりです。

 しかし、他人と生活したことのなかった彼女の中には、共同生活の不満がムクムクと湧き上がってきたようです。

 ゴミをちゃんと捨てない。大きな音で音楽を聴く。食器、調理器具を洗わない。片付けない。一応、共同スペースの掃除は交代で週末にやることになっているのにやらない・・などなど・・。

 そこで、黙っていないのが、フランスで育った彼女のたくましいところです。

 年上の男性たちに向かっても、臆することなく、掃除をサボった人には、きっちりと注意し、当番制を徹底し、トイレットペーパーや共同で使うものの買い物のお金の徴収や分配をしたり、WIFI の契約を一本化して、みんなで分配して支払うことにしたりとシェアハウスを仕切り始めたのです。

 そして、半年も経つ頃には、彼女は、いつの間にか、そのシェアハウスの寮長のような存在になっていました。

 「掃除当番を苦しい言い訳をしながら、なんとかサボろうとする人に、感情的にならずに注意するのに、苦労をしたんだ。本当は、どなりつけたかったけど・・。」と言う彼女は、家にいたままでは、学べなかったことを学び、社会への一歩を踏み出した自信を持ち始めていました。

 しかし、家に帰ってくると、相変わらず、な〜んにもせず、そんな、寮長ぶりを私には、微塵も見せてはくれないのです。

 

 




2019年8月29日木曜日

フランスのテロの報道と対応




 私は、日頃、あまりテレビを見ないので、フランスで、テロなどの事件がおこったりしても、日本にいる友人などからの、” 大丈夫?” というメッセージで、初めて事件を知り、慌ててテレビをつけたりして確認したりすることも少なくありません。

 大概、日本の報道は大げさで、独特で不安を煽るような報道の仕方をするので、実際には、現地では、そんなに騒いでいないのに・・ということも多々あります。現地では、よほどでない限り、日本の報道のように過剰に反応することは、ありません。

 でも、2015年に起きたパリ同時多発テロが起こった時には、さすがにフランス国内も震撼とし、少しのことでも過剰に反応し、ピリピリとしていました。

 あれは、2015年11月13日、パリ市街と郊外のサン・ドニ地区において、複数のイスラムの戦闘員と見られる複数のグループによる銃撃や爆発が同時多発的に発生し、死者130名、負傷者300名以上を出した大事件でした。

 ちょうど、金曜日の夜だったこともあり、逃走したと見られる犯人がなかなか確認されなかったこともあり、土日にわたり、政府が外出を控えるように声明を出したりする異例の事態で、土日は、家にこもって、テレビの報道を固唾を呑んで見守っていました。

 翌週の月曜日に出勤するために、外に出るのも、なんだか少し怖かったことを覚えています。

 その後、しばらくの間は、パリの街は人出も少なく、ゴミ箱が撤去されたり、四六時中警官や長い銃を持った憲兵隊が巡回していたり、駅でも不審物が見つかるとすぐ閉鎖されたりと緊迫した状態が続いていました。

 私の職場は、パリの中心の大きな通り沿いにあったのですが、ちょうどその建物の前にバス停がありました。

 ある時、大勢の警官が、「この建物から、一刻も早く、退去して、出来るだけ遠くに走って逃げてください!!」と大声をあげながら、突入してきて、慌てて、取るものも取らずに、みんなで汗だくになって、走って逃げたことがありました。

 職場の同僚と共に、一体、どこまで逃げたらいいのか、わけもわからず、とても不安な思いをしました。

 ちょうど、一台のバスがそのバス停で停まったところで、バスの中で不審物が発見され、爆発物と判断されたのだそうです。

 結局のところ、それは、ただの乗客の忘れ物だったようで、事無きを得ましたが、後から考えてみると、なぜ、先にバスからその不審物を撤去してくれなかったのか? もし、それが、本物の爆発物だったとしたら、パリのど真ん中で、沢山のガソリンを含んだバスごと爆発して、大炎上していたはずです。

 危険物から離れるというのもわかるのですが、後になってから思うと、妙な対応だと思ったものです。

 長くパリにいると、色々なことに遭遇するものです。

 









 
 

2019年8月28日水曜日

レイシスト 差別的な言動






 私の会社には、マルティニーク(以前、フランスの植民地だったところ)出身のファムドメナージュ(お掃除のおばさん)がいました。
 
 普通、ファムドメナージュといえば、朝だけ、お掃除をして帰る場合が多いのですが、その他の雑用などもやってくれていたので、彼女は常勤で、一日の勤務でした。

 当然、接する機会も多く、子供好きだったりして、娘の成長なども一緒に喜んでくれたりしていたので、写真を見せ合ったり、彼女の子育ての話を聞いたりと、顔を合わせれば、軽い世間話などをしたりもしていました。

 彼女は、体格のいい、気のいいおばさんで、フランス人はもちろん、日本人とも長く仕事をしてきたためか、とても親日家で、日本人にも、好意的で優しく、陽気なおばさんでした。

 でも、おしゃべり好きで、ついつい仕事を放りがちになってしまったりすることもあり、そんな時に、注意されたりすると、「あなたたちは、レイシスト(差別的な言動を行う人)だ!」と、烈火のごとく、怒り出すので、困ってしまいます。

 それは、ただ、仕事の仕方を注意しただけであって、別に差別用語を使ったわけでもなく、彼女を差別しているわけでもありません。

 しかし、「あなたは、レイシストだ!」と言われては、たとえ、こちらはそうではないにしても、” そうじゃないでしょ!” と思いながらも、” レイシスト" という言葉に対する返答には、デリケートになってしまいます。

 彼女には、彼女の生まれ育った環境や人種の問題で、今まで、そのような歴史的背景を背負ってきたので、何か、自分を否定されたと感じると、すぐに、「レイシスト!」という言葉がついて出てくるのでしょうが、こちらとしては、あまりに度重なると、仕事をしないための常套文句のように思えてきてしまいます。

 しかし、それは、多分、彼女がこれまで受けてきた「差別」に対するコンプレックスからくるものなのです。

 どの社会においても、「差別」というものは、存在します。

 フランスにおいても、面と向かって日本人を差別して扱うようなことは少ないとは、思いますが、差別が全くないとも言えません。アジアの人を十把一絡げにして、両手の人差し指を目尻において横に引っ張った動作をして、アジア人を揶揄することもあります。

 それは、差別とは呼ばないかもしれませんが、決して良い気持ちではありません。

 私自身は、主人がフランス人で付き合うフランス人も主人繋がりの人であったりすることも多いため、差別を感じることは、ほとんどありません。仕事上においても相手に対して、誠実な態度で仕事をしていれば、そのようなことも生まれません。

 レストランやカフェでは、見知らぬアジア人は、黙っていると、角の方の席に配置されてしまうという話を耳にすることもあります。しかし、そんな時は、どこに座りたいか、ハッキリと頼んでみるか、あらかじめ、場所を指定して席を予約すれば、良いのです。

 ただ、〇〇人だから・・とか、経済的あるいは、社会の認識が下の国の人たちに対して、自分たちの方が、上級国民だとかいうバカげた露骨な差別をする人がいたとしても、そういう人の方が、おかしなわけで、どこの国の人にも優れた良い人はいるし、また、逆に低俗なバカげた人もいるのです。

 そんなこともわからずに、ただ、生まれ育った国によって人を差別するなどナンセンスです。そういう人とは、静かに距離を置けば良いのです。

 人の好き嫌いや相性の良し悪しは、別としても、人と人との関係は、国の違いを越えて、それぞれが築いていくものだと思うのです。
















 

2019年8月27日火曜日

フランスの駅とトイレの先進国とは信じ難い臭さ




 ロンドンからユーロスターでパリ北駅に着くと、ロンドンのセント・パンクラス駅とのあまりの違いに、フランス人でない私でさえ、ガッカリしてしまいます。

 人一倍プライドが高いはずのフランス人のトップである大統領や政治家は、ロンドン⇆パリ間のこの路線を利用して、ロンドンとのこの差を何とも思わないのだろうかと思ってしまいます。

 駅舎自体がどうとかということよりも、その汚さ、臭さが、何より、信じ難いのです。

 駅のトイレなどが少ないこともありますが、その少ないトイレでさえ、汚物が散らばっていたり、汚れたままになっていたり、便座がないことも少なくありません。

 残念ながら、この便座のないトイレを見て、パリに来たと感じるという人もいるくらい、パリのトイレのみすぼらしさは、象徴的なひとつとなってしまっています。

 日本人は、パリには、ウォシュレットがないのか? などと驚く方もいらっしゃるようですが、パリのトイレ事情は、ウォシュレットの有無を語る次元ではありません。

 そして、極め付けは、トイレだけでなく、駅自体が臭いのです。
 今どき、臭い駅などというものが、日本のどこに存在するでしょうか?

 ある時、私が駅の構内を歩いていて、前を歩いていた普通のスーツを着た男性が、急に立ち止まったかと思うと、おもむろに壁の方を向き、用を足し始めたのに、驚いたことがありました。

 なるほど、それ以来、駅の構内の壁を見ると、それらしいシミが結構あり、そのような行為が日常的に行われていることを物語っています。

 それが駅の悪臭の原因なのです。

 それが、ホームレスなどの人だけではなく、ごく普通の人までなのですから、先進国と言われるフランスの衛生観念、道徳観念が欠如している現状は、まことに理解しがたいことです。

 だいたい、駅の中も街中も、トイレが少ないことも原因のひとつです。街中には、公衆トイレがたまにあることもあるのですが、故障中のことも多いのです。

 最近は、自動洗浄が行われる公衆トイレなども見かけるようになりましたが、床から天井までを丸ごと洗浄するシステムになっており、うっかり閉じ込められたら、大変なことになってしまいます。

 しかし、いくらトイレが少ないからといって、犬じゃあるまいし、あちこちで用を足すのは、どういうものでしょう。

 あれほどプライドの高いフランス人が公共の場で用を足すこと、そしてその衛生観念は、全くもって理解できません。

 パリでは、散歩中の犬のフンを飼い主が始末していないところを見つかると罰金が課せられるのに、人間があちこちで用を足しても罰金を課せられないのは、どういうことなのでしょう。

 犬のフンの放置に対する罰金勧告のポスターはあちこちで見られるのに、人間用の罰金勧告のポスターは見たことがありません。

 フランスは、素晴らしい香水の宝庫である、香りの国などと言われているのに、現実は、アンモニア臭の漂う、花の都、パリなのであります。

 

 











2019年8月26日月曜日

フランス人の夫の買い物




 娘が小さい時に、「けっこんするって、どういういみかしってるよ!!」と、得意そうに言ったので、「じゃあ、結婚するって、どういうことなの?」と、聞き返したら、「けっこんするって、いっしょにおかいものにいくことでしょ!」と可愛いことを言っていた時期がありました。

 しかし、結婚が娘のいう通りとするならば、我が家はとっくに崩壊しています。

 確かに、一緒に行くこともあるのですが、お買物に関しては、全く趣味が合わず、夫が立ち止まるところと私の立ち止まるところは、全く違い、そのうち、一緒にお買物に出かけても、特別な家具などを除いては、別行動を取るようになり、ある一定の時間をとって、待ち合わせの時間を決めて、私と娘は、別行動を取るようになっていきました。

 もともと、私は、お買物というものが、あまり好きではなく、人と一緒に買い物をして歩くことも、あまり、好きではありません。自分のペースでさっさと見て歩き、即決、即買い、驚くほど、早く、時間をかけません。

 夫は、私とは、違って、お買物が大好きなのです。

 ひとつひとつ立ち止まっては、遠くから眺めてみたり、説明書きを丁寧に読んでみたりと、時間がかかる上、およそ、実用的なものには、興味がなく、必要なものを買ってきたためしがありません。

 夫が好きなのは、アンティークといえば、聞こえは良いですが、古い置物や飾り物、
食器類などなど。蚤の市などを見て歩くのも大好きで、外地を転々としていた頃に買い集めたものなどは、どうしていいものやら・・・。

 まったく、「家を博物館にでも、したいのかい!」という感じなのです。

 日本にいた頃に買い集めたものだけでも、大きいものは、階段簞笥や屏風、日本画、掛け軸、大きな扇子、漆塗りの舟型などの和食器、刀、鎧兜、花瓶など、アフリカでは、そこそこの大きさの木像(象や人のものがいくつも)、銅像、マスク(お面)、ボンゴなどの楽器類、アフリカの村のメダルを集めた額、民族衣装から豹の皮まで・・。

 大豪邸に住んでいるならいざ知らず、一般庶民の私たちのアパートは、物にあふれているのです。

 シンプルな生活を心がけている私としては、夫が何か、買い物をしてくるたびに、” また〜〜〜!” と、ため息をつくのであります。

 











2019年8月25日日曜日

イギリスのホスピスにいた、ある青年とお母さんの話




 私は、二十歳になるまで、身近な人の死を経験したことがありませんでした。

 私が初めて経験した身近な人の死は、祖父の死でした。
祖父は、最後をチューブに繋がれた状態で、家族も近づかせてもらえない、寂しい最期でした。

 祖父の死に方に疑問を抱いたことをきっかけに、私は死生学の勉強を始め、何年かのちに、現在のホスピスムーブメントの牽引となっていたシシリー・ソンダースのオープンしたセントクリストファーホスピスをはじめとしたホスピス大国であるイギリスのホスピスにスタージュに行きました。

 私がスタージュをさせていただいたのは、ロンドンの北部に位置するベルサイズパーク駅から5分ほど、道幅の広い、緑に囲まれた静かな住宅街の中にある EDENHALL MARIE CURIE CENTRE というマリーキューリー記念財団の運営するホスピスでした。

 そこで、私は、約一年間、死を目前にひかえた人々にたくさん接し、彼らとお話をし、色々な場面を目の当たりにしてきました。

 死を目前に控えた人のための施設ということで、初めて、足を踏み入れるまでは、私は、もっと緊迫したような空気を想像していました。

 ところが、そこは、私の想像とは、かけ離れた、ゆっくりとした暖かい空気の流れる空間でした。そして、私のような外人の拙い英語にも関わらず、患者さんは、意外にも色々な話をしてくれるのでした。

 人が最後に話したいことは、何なのか? 人の心に最後まで宿り続けるものは何なのか? 私には、とても興味のあることでしたが、それは、家族の話でした。

 可愛い妖精のような娘の話とか、料理上手な妻の話とか、優しい夫の話とか、それは、たとえ、もうその家族が亡くなっていたとしても、彼らの心を占めているものは、家族だったのです。

 その中でも、最も印象的だったのは、ピーターという、まだ二十代半ばの青年とそのお母さんでした。

 彼は、個室に入っていましたが、ほぼ、彼のお母さんがつきっきりで彼の看病をしていました。看病しているというよりは、一緒の時を過ごしていたという方が正しいかもしれません。

 まだ、私がホスピスに通い始めてまもない頃、他のキャサリンというスタッフに付き添って、彼の部屋を訪れた時のことでした。

 ”初めまして、日本から勉強に来ています。よろしくお願いします。”と言った私は、いきなり、キャサリンに注意されました。

 彼は、まったく耳が聞こえず、口がきけないのでした。

 私は、彼のベッドサイドへ近寄り、ただ、ニッコリと手を差し出して握手をしました。窓からたくさんの光の差し込むベッドの中から、ゆっくりと手を差し出す彼の穏やかな眼差しは、彼の若さとは裏腹に、また、言葉がない分、私には、余計に深いものに感じられました。

 日焼けした彼の顔からは、ガンの末期だなどとは想像もつかない感じでした。

 しかし、彼と彼のお母さんは、なぜ、こんなにもこの人たちばかりに・・と思ってしまうほど、考えうる不幸を思い切り背負い込んだような二人でした。

 彼は、生まれた時から耳が聞こえず、口がきけず、彼の父親は彼が5才の時に亡くなり、彼のお母さんは、女手一つで、彼を育ててきたのです。ここに来る前までは、ROYAL SOCIETY OF DEAF という施設に通って生活していましたが、肺ガンにかかり、2ヶ月ほど前にガンが発見された時には、もうすでに、末期の手遅れの状態で、やむなくここに入院してきたのでした。

 そんな、辛い境遇の中、この二人、特にピーターのお母さんは、とても明るい人でした。最初に病室を訪れた時も始終、笑顔で「今日は、私たち、これをいただくのよ!」と、シャンパンの瓶を大事そうに抱え、「よかったら、ご一緒にいかが?」と朗らかに言いました。(そのホスピスでは、アルコールもタバコも禁止ではありませんでした。)

 それから、何回か病室をのぞきましたが、彼女は常にピーターと共にいました。

 彼女たちに振りかかっている苦悩に満ち溢れた現実とは裏腹に、なんだか、たわいもないことをしているのに、彼の部屋は暖かい幸福な空気に包まれ、実にゆっくりと時が流れているようでした。
 それは、暖かい陽だまりのような、不思議な空間でした。
 彼の部屋はもう、すでに彼らの家のようでした。

 彼らは、決して孤立しているわけではありませんでしたが、スタッフも彼らとの距離をとても上手に保っているようでした。

 それから約一週間後、私がホスピスに行くと、真っ赤に泣きはらしたピーターのお母さんに会いました。彼女は、泣いていましたが、このホスピスにいる間にできる限りのことをスタッフにサポートを受けながら、やり遂げた・・そんなことを言っていました。

 それから、私は、自分が死ぬ時に、自分の心を占めていてくれるような、自分の家族を持ちたいと思うようになりました。