2019年8月21日水曜日

美しく歳を重ねる同じアパートのフランス人のマダム




 彼女は、私と同じアパートの住人で、今の住まいに引っ越して来て以来の付き合いなので、もう、ずいぶんと長い付き合いになります。

 彼女とは、付き合いといっても、顔を合わせた時に少し、話をする程度です。

 もう多分、60も過ぎていると思いますが、小柄な彼女は、出勤の際にも、いつも、きっちりとお化粧をして、髪の毛もキレイにセットして、香水の香りを漂わせながら、ニッコリと笑顔で挨拶をしてくれます。

 そして、アパートのエントランスを出ると、振り返って、ベランダから手を見送るご主人に手を振りながら、華やかな笑顔で投げキスを送っていきます。

 その姿は、ただただ、華やかで、見事としか言いようがありません。

 下手をすると、あれだけキッチリとお化粧をしたら、下品でケバケバしい感じになりかねないところですが、彼女からは、そんな印象はまるで受けません。

 実は、彼女の職場は、家からバスで5分のところにオフィスがあり、彼女はれっきとしたキチキチの公務員なのです。その5分の通勤と事務所での仕事のために、彼女は毎朝、きっちりとメイクを施し、髪をキレイに整え、美しい身なりをして出かけているのです。

 彼女は、一生、女として現役、そのための努力には、頭が下がります。

 朝は、遅めに出勤して、昼食は、体型維持のために取らないのだそうです。

 週末には、時々、お孫さんが来ていて、その時は、ノーメイクで近所でお買い物をしていたりしますが、また、ノーメイクの時に会っても、彼女は溢れんばかりの笑顔で、スッピンを堂々と臆することなくさらしています。

 彼女は、自分自身と同様、家族をとても大切にしているのです。

 オンオフをしっかり分けて、それを自然にやってのけている彼女は、歳を重ねても、とても美しいのです。

 むしろ、若い子にはない気品とゆとりが備わっています。

 彼女がキッチリとメイクをして、着飾っても決して、下品にならないのは、毎日の日常をしっかりと生きているからに他なりません。

 家族を愛し、愛され、地に足がついた彼女の生き方が、彼女の美しさを作り上げていると思うのです。

 生き様は、容姿に表れるものなのです。

 とかく、女性は、男性に比べて、年齢とともに、容姿の劣化を指摘されがちですが、彼女を見ていると、こうやって、堂々と美しく年齢を重ねることができるのだと思わせてくれるのです。

 

 

 










 

2019年8月20日火曜日

フランス人は、意外と長生き




 言わずと知れた平均寿命が世界一の長寿国である日本ですが、フランス人も意外と長生きなのです。

 最近のデータによると、フランス人の平均寿命は、男女を合わせた平均だと、82.9歳で世界4位、女性だけだと、85.7歳と日本に次いで、世界第2位の長寿国なのです。

 フランスは、日本ほど、健康のためには、これを食べるといいとか、食生活などでも日本ほど、健康を心がけているような感もないのに、不思議です。

 日本は、少子化、高齢者社会と問題になっているので、ひたすらに、長寿が目立つ感がありますが、フランスには、少子化の問題はないとはいえ、高齢の親の介護の苦労話はよく聞きます。

 私の周りでも、夫婦揃って90代後半のご両親の様子を定期的に見に行っているとか、高齢のお母様がどうやら一人暮らしが危険になってしまったために介護施設を姉妹で、必死に探しているとか、その施設もやたらと高額なのだとかという話を耳にします。

 私が住んでいる地域は、富裕層の老人が多く、老人用の介護施設などもいくつかあり、街中でもお年寄りをよく見かけます。

 老夫婦が寄り添って、買い物をしている姿などは、とても微笑ましいものです。

 シニア層の人々の外出の多さも目を惹きます。
もしかしたら、健康寿命は、日本よりも長いのではと思ってしまうほどです。

 でも、平均寿命の数値の男女差が物語っているように、カップルではない老人は、圧倒的に女性が多いことにも、あらためて気付かされます。

 また、その女性たちの強いことと言ったら、ありません。
フランス人は、男性よりも女性の方が圧倒的に強い感があります。

 それが寿命の差にも表れていると思うのです。

 近所を通るバスなどに乗って、うっかり座っていようものなら、堂々と年配の女性がやってきて、” 席を譲りなさい!” と言われたことも、一度や二度ではありません。

 もうちょっと、言い方があるだろうと思いつつも、気まずい思いで、席を立つことになるので、私も席に座るときは、周囲を注意して座るようにしているくらいです。

 それは、もはや、おばさんが狭いところにお尻を割り込ませてくるような、図々しさとは違った威厳すら感じられるから不思議です。

 そこには、なんの遠慮も迷いも感じられないのです。

 その迷いのなさこそが、フランス人の女性の長生きの秘訣なのではと、私は、密かに思っています。

 














 

2019年8月19日月曜日

アフリカは、アフリカでいい




 私が住んでいたのは、西アフリカのコートジボアールという国で、アフリカのパリと言われるアビジャンという都市でした。

 そこは、どうしてアフリカのパリと呼ばれるのか、アフリカ初心者の私には、到底、理解できない世界でした。まあ、中心部には、ビルが立ち並んでいたりして、ある程度は、都会的で、フランス領だったことからパリと形容されているのかもしれません。

 私にとっては、初めてのアフリカは、ほんとうにカルチャーショックを通り越して、現実のアフリカの世界が3Dで飛び込んでくるような迫力でした。

 住まいは、フランス人の集まっているレジデンスで、現地の人々の世界とは、隔絶された世界でしたし、多くの海外から赴任している方々も、そのような生活を送っておられるのだと思います。

 しかし、少し、中心部を外れれば、現地のアフリカの人々がひしめき合うように暮らしており、出かける側から、お金を求める人々が群がります。

 それは、もはや、格差社会とかいう範疇の違いではありません。

 海外から赴任してくる人々は、現地のボーイさんやメイドさんを雇うように義務付けられていますが、賃金は驚くほど安く、使う側(フランス人など)の、その言葉遣いなどからも、こんな、酷な言い方ができるのか? とギョッとさせられもし、また、使われる側もそれに慣れてしまっているようなところがあり、歴史を色濃く感じさせられます。

 極端な人間関係は、双方の人間を腐らせます。

 ほぼ、一年中が厳しい夏の気候の中で暮らすのは、本当に大変ですし、いくら、外国が援助の手を差し伸べても、国内の古くからの悪い体質で、政治家やマフィアがそのほとんどを吸い上げてしまい、貧しい人々の暮らしは変わらない負の連鎖が続いています。

 アビジャンから車で1時間半くらい行ったところにある小さな村のお祭りに行ったことがありました。主人の職場にいた現地の職員の人に頼み込んで、現地の人以外は、一切いない、地元の長寿の人々を讃えるお祭りでした。

 長老たちが、現地の美しい生地で作られた服を身にまとい、周りの皆が素朴な楽器を奏でながら、歌を歌い、リズムをとり、まだ、ヨチヨチ歩きのような小さい子供までが驚くほどのステップを刻みながら踊る、その様子は、本来、あるはずの彼らの生活であるような気がしました。
  
 それは、彼らなりの幸せを見せつけられているような感じでした。

 外国から、よそ者が入ってきて、引っ掻き回すことで、混乱させていることもあるのではないかと私は、思うのです。それは、最低限の生活というものは、必要でしょう。

 しかし、あの気候の中で、そこに住む人なりの生活があるのではないか?

 私は、思うのです。

 アフリカは、アフリカでいい・・と。



 












2019年8月18日日曜日

フランスのドクターストップの制度





 主人の実家の近くのドクターのところに彼が行くと、第一声が、” Tu veux arreter ? " (ドクターストップにする?)なのだそうです。
 
 ドクターストップは、お医者さんに、ほぼ全ての権限があり、このお医者様は、極端ではありますが、気軽に書いてくれる先生とそうでない先生がいて、ずいぶんと差があるようです。

 あまり、ドクターストップの安売りをしている医者には、チェックが入るそうなので、それを恐れて、なかなか、出してくれないお医者さんもいます。

 私の元同僚であった友人がガンで闘病中だった時に、逆に、手術後、しばらくすると、ドクターストップを解かれてしまい、まだ、体調も万全ではないにも関わらず、仕事に復帰せざるを得なくなってしまったというようなケースもありました。

 フランスでは、厚生省が定めた、いわゆるどドクターストップのシステムの基準が大きく分けて、二つのものがあります。

 一つは、一般的な怪我や病気の場合などは、いわゆるアレットドトラバイユ といって、ドクターストップがかかり、その間のお休みは本人の休暇として換算されることはありません。また、その間のお給料は、半分くらい、日割りの計算で支給されます。
(ただし、ガンなどの特別な疾病に関しては、100%保証されます。)

 これに対して、アクシダンドトラバイユというのは、仕事中、もしくは、通勤・退社途中に起きた場合の疾病・事故に限定するドクターストップです。

 これについては、2名の証人のサインが必要になり、セキュリテソーシャル(フランスの健康保険機構)に24時間以内に提出が義務つけられています。
 また、この場合は、仕事場で起こった疾病・事故ということで、お給料も100バーセント支給されます。

 ですから、フランスに在住の方は、もし、職場で何かあったら、早急に証人を誰かに頼んで、手続きをすることをお勧めします。

 私は、一度、仕事中に会社の階段を踏み外して、転んで、足を怪我して、一ヶ月強、アクシダンドトラバイユで、休んだことがありました。

 転んですぐには、恥ずかしさもあって、” 大丈夫、大丈夫!” と言っていたのですが。その夜、家に帰るとみるみる足が腫れ上がり、どうにも我慢できないくらい痛みが増してきたので、主人に頼んで、救急病院に連れて行ってもらいました。

 そのころの病院は、暴動があったすぐあとで、夜遅くだというのに、病院は猛烈に騒がしくて、混んでいて、待てど暮らせど順番は回ってきませんでした。

 腹に据えかねた主人が、” もう、これ以上見てもらえないなら、ここから救急車を呼ぶからな!!” と怒鳴り込んでくれて、ようやく、見てもらえたくらいでした。

 結果、骨折ではなく、転んだ箇所に血栓ができてしまっていたため、しばらくは、ドクターストップ、最初は、1週間の予定が結果的になかなか血栓が消えずに、結局、一ヶ月強、休むことになりました。

 その間、毎日、血液検査をしては、お医者さんのことろに通うのですが、仕事に早く復帰しなければと焦っていた私は、お医者様からガツン!と、” あなたは、死にたいの!?” と脅され、仕方なく休みました。

 仕方なく休んだ・・というところが、我ながら、いかにも日本人です。
しかし、まともに歩けもしない間、完治するまで有給で休ませてもらえて、本当に助かりました。
 
 また、子供が病気の場合にも、親の分のドクターストップも書いてくれます。病気の子供を放って仕事に行くことはできないからです。

 財務省で働いている知人などは、今年は、もう、バカンスないでしょ!?この間も休んでいたし・・などと言うと・・この間のあれは、アレットドトラバイユ(ドクターストップ)だったから、まだ、バカンスはたっぷり残っているわよ〜” てな調子です。

 どんな、システムでも、それを自分の都合よく、使いこなしていく人って、いるものなのです。

 また、そういう人は、当然の権利だと深く信じて、主張するところが、フランス人のスゴいところなのです。
































2019年8月17日土曜日

日本にいる親の介護問題




 海外で生活していて、両親が歳をとってくれば、年々、気にかかるのは、親の介護問題です。

 母は、心臓の病気を抱えていましたが、最後のギリギリまで、家での生活を何とか続けていくことができていましたので、看病らしい看病をする間もなく、亡くなってしまい、介護の問題といっても、私が帰国した際に訪問介護の手続きをしたり、家の内装を整えたりといったことは、できましたが、そこまで深刻な状況にはなりませんでした。

 私は長いこと海外暮らしでしたし、弟もちょうど、母が倒れる直前に海外赴任になり、側にいることは、できませんでした。

 母が亡くなって以来、父は、一軒家に一人で暮らしていましたが、同じ敷地内に父の兄家族が住んでいましたので、父、本人も、まるで、ひとりぼっちという気分ではなかったようです。

 ところが、晩年になって、父が次第に弱ってきた頃に、問題は、勃発したのです。

 弟は、それでも、日本から比較的、近い国、しかも、日本企業での勤務でしたので、出張で日本に来る機会もあったりしたので、その際には、顔を出して、宅配の食事の手配などをしてくれたりしていました。

 私も、仕事も家庭も放り出して、日本に帰ることは、できませんでした。

 父は、子供の頃から住んでいる場所に並々ならぬ執着があり、再三再四、説得しても、介護施設に入ることは、受け入れてはくれませんでした。” 俺は、ここで、野たれ死にしてもいいから、ここからは、動かない!” と、言い張っていたのです。

 とはいえ、隣に住んでいる親戚からしたら、そうは言っても、段々と弱ってくる父を真近に見ていては、放っておくことはできないと言うのも当然のことです。その家族も高齢者を抱える一家で、次第に、そうそう面倒を見られない状況になっていたのです。

 また、厄介なことに、弟は、単身赴任で海外駐在しており、お嫁さんは、娘の学校の関係で、日本と弟のいる国とを行ったり来たりする生活をしていたのです。

 父は、気難しい性格で、誰もが気安く近寄れるような存在ではありませんでした。弟のお嫁さんも時々は、顔を出して、買い物や家のことをしてくれてはいたようですが、父とは、あまり、折り合いが良くありませんでした。

 しかし、隣に住む親戚からしたら、日本に嫁がいるのに、何で、もっと、世話をしに来ないのか?と思うのも、わからないではありません。
 
 結局、お嫁さんと親戚との板挟みになって、弟が悲鳴を上げて、私のところに電話をしてきました。

 ”何とか、一週間でもいいから、帰ってきてくれないか?” と。

 滅多に電話をしてくることがない弟の悲痛な叫びに、私は、一週間だけ、急遽、休暇をもらって、日本へ行くことにしました。

 ちょうど、娘は、夏のコロニー(合宿)でスペインに行っていましたが、その帰りを待って、娘がスペインから戻った翌日に娘を連れて日本へ行きました。

 必死だった弟は、介護施設を探し、いくつか候補を見つけて、見当をつけてくれていて、何とか、体調が回復するまでという条件で、介護施設に入ることで父を説得してくれていました。

 その時ばかりは、私も、日本へ行っても、病院と介護施設の下見と父の介護だけと、心に決めて、またとない機会だと、娘にも父の介護を手伝わせ、一緒に父の身体を拭いたり、足湯をしたり、食事の世話をしたりと一週間ほどの父との濃密な時間を持ちました。

 少し見ない間に、父は、痩せて、朝、起きて、ベッドに横たわる父は、本当に生きているのかどうか心配になるような顔色でした。

 それでも、まるっきり食べなくなってしまったと聞いていた父でしたが、私が食事の支度をすると、娘と張り合って食べるほどの食欲を見せてくれました。

 付き添って行った、病院でも、お医者様と相談して、ワーファリン(食べ物に規制がある)という薬をやめて、もう好きなものを召し上がるようにした方がいいということになり、嬉しそうに、長いこと食べることができなかった納豆ご飯を食べていました。

 色々なことは、重なるもので、ちょうど、その年は、娘の大学進学の学年と重なっていましたので、大学が決まるまでは、来れないから、何とか、それまでは、頑張って欲しいと思っていましたし、父の方にもそう伝えました。

 最後に、帰り際、父にその旨を伝えると、父は、珍しく、” 来てくれて、ありがとう。こんな幸せな一週間は、なかったよ。” と言ってくれました。口が悪くて、憎まれ口ばかりきいている父のそんな言葉に、私は、返す言葉もありませんでした。

 結局、これが、私が最後に聞いた父の言葉となってしまいました。

 父は、私たちが帰ってすぐに、介護施設に入り、その5ヶ月後に亡くなりました。

 家の冷凍庫には、私が夏に来た時に作り置きをして、小分けにして、冷凍していった、ひじきの煮物が残っていました。

 従姉妹の話によると、もったいないから、全部は食べないと父が言っていたそうです。

 ほんとうに親不孝な娘で申し訳ないと、残されたひじきの煮物を見て、あらためて、深く深く、思わされた私であります。

2019年8月16日金曜日

イギリスの不思議、ヨーロッパの不思議




 私が初めて海外生活を送ったのは、イギリス、ロンドンでした。

 初めての海外生活に不安と期待でドキドキ、ワクワクしながらも生の英語での生活に慣れるのに必死でした。

 英語なら、なんとかなるだろうと、タカをくくっていた私は、実際に思うことが思うように言葉にならず、また、同じ英語でもアメリカの単語だとわからないふりをされたり、いちいち直されたりで、ウンザリもしました。

 街で見る景色も人々も新鮮で、不思議なことは、たくさんありました。

 人々が寒さに異様に強いことも不思議でしたし、雨が降ってきても、誰も傘をささないことも不思議でした。

 信号が赤でも、みんな平気でどんどん渡っていくし、地下鉄のシートは汚く、駅の時計などは、まともに動いている方が珍しい感じでした。

 地下鉄では、何かあるたびに、” All change please ! " とすぐに降ろされ、テロ騒ぎがあっても、慣れているのか、すぐに、その場は片付けられ、皆、わりと平然としているように見えました。
 
 そんな地下鉄の中には、ギターを持って大声で歌を歌って、歌い終わるとお金を集め始める人もいました。

 見ず知らずの人にでも、気安く話しかけることも妙な気がしたし、やたらと時間や道を尋ねられたりしました。まったく、外人の私になんで聞くの?と思ったものですが、あとから考えれば、外人だらけの街なのです。

 食べ物も、その質素なことにも、なんでもグチャグチャに柔らかく煮込んでしまうのにもウンザリしました。缶詰のスパゲティーにソースだけかと思ったら、スパゲティー自体が入っているのにもビックリしました。

 まだまだ、充分に人が乗れる場所があると思われるバスでも満員だからと通り過ぎて行ってしまうことも、運転中にトイレに行くと言って、バスを止めて、マクドナルドに入って行ってしまった運転手さんに唖然とさせられたこともありました。

 回送中のダブルデッカー(赤い二階建てのバス)の運転手さんに声をかけられ、断ると、そのまま、バスごと追いかけられたりしたこともありました。こんなダイナミックなナンパはきっと、もう二度とお目にかかることはないでしょう。

 あれから、ずいぶんと時は経って、イギリスよりもフランスでの生活が長くなりましたが、あの頃、ビックリした一つ一つのことは、ほぼ、フランスにも当てはまることで、今や、私自身が、何の驚きも感じ得ないようになっていることに、時の流れを感じさせられるのであります。

 












 

2019年8月15日木曜日

私がフランスで、未だに小切手を使う理由




 さすがに、最近は、スーパーマーケットなどで、小切手で支払いをしている人を見かけることは、(これをやられると、ただでさえ時間がかかるレジで、身分証明書を確認したり、サインしたりする作業などが加わるので、一層時間がかかり、行列を招きます。)
減りましたが、私は、時々、いくつかの支払いに未だに小切手を使っています。

 それは、以前に edf(フランス電力会社)の支払いの際、自動引き落としにしていて、二桁も間違えられて、引き落とされた際の苦い思い出や、支払いの際の、払った、払っていないという問題が生じた場合に、小切手で支払えば、小切手のナンバーで、支払ったことを通知しやすいからです。

 あくまでも、全て、ミスが起こることを前提として、考えているからです。
出来るだけ、ミスが起こらないように、そして、起こった場合に対処しやすい方法を考えるようになるのです。

 edf の引き落としミスは、銀行からの残高が赤になっているという知らせでわかりましたが、そんな大金を使った覚えはなく、調べてもらったところ、edf からの引き落としミスで起こったことがわかりました。

 即刻、edf に連絡して確認したところ、引き落としの桁を2桁も間違えられていたことがわかり、驚愕しました。また、その上、一言の謝罪もなく、逆ギレされ、間違えて引き落とした金額の再入金に驚くほど時間がかかったのです。

 我が家は、その時の苦い経験がトラウマのようになっていることから、自動引き落としは、できる限りしないようになりました。とはいえ、今の時代、自動引き落としでなくては、利用できないサービスもたくさんあるので、それは、自動引き落としにして、毎月、チェックするようにしています。

 日本では、小切手というのは、あまり一般的ではありませんが、フランスでは、未だに小切手社会が存在しています。

 今、普通に買い物をするときには、現金もほぼ使わず、カードで済ませてしまいます。
その方がいちいち現金をおろす必要がないし、その方が早くて間違いがないからです。

 この間違いというのが、人間が介在すればするほど起こりやすいものなのですが、フランスの場合は、その確率が高いのです。

 常にトラブルを前提として、出来るだけ、トラブルにならない方法をこちらから取る必要があるのです。こちらもその度に嫌な思いをしたくないのです。

 こんなわけで、私は、前時代的とは、思いつつ、私は、未だに小切手を利用しているのであります。