2019年10月25日金曜日

フランス人と車




 フランス人の車の運転の荒さは、有名です。

 特に、信号なしに複数の方角から、車が合流する地点などは、事故なしに、割り込んで車を進めていくところなどは、フランス人の性格の悪さが出るな・・と思われるほど、強引に前へ前へ出ていかなければ、前に進めません。

 中でも、パリの凱旋門の周りの車線なし、信号なしの道路から、放射状に伸びている12本の通りと繋がる通りから、入ったり出たりする車を縫って運転するのは、初めて見た時には、一生、ぐるぐると凱旋門の周りを走り続けるのではないかと思ったほどです。

 また、パリの路上の駐車スペースに、時には、バンパーで、前の車と後ろの車をぶつけながらでも、器用に?車を停める光景は、まるで、バンパーは、そのために存在するものとでも言いたげに見えます。(確かに、そう思っている人は、いるはず・・。)

 だからだとばかりも言えませんが、フランス人の多くは、中古車をよく利用します。

 この辺にもフランス人の経済観念、締り屋具合がよく現れています。車は、ある程度、走行距離を重ねたものの方が車の調子がいい・・などということをとうとうと語り出したりします。

 しかし、この点においては、パリでは、最近は、大気汚染対策のために、数年以内の新車でなくてはならない、さもなくば、毎年の車検などの厳しい規制が敷かれています。

 また、マニュアル車を好むのも、フランス人の車好きの特徴です。

 そして、愛国心旺盛なフランス人は、ルノー、シトロエン、プジョーなどのフランスの車を好みます。また、パリ市内は特に、駐車スペースの問題もあり、小型車が多いのにも驚かされます。

 パリ市内ならば、バスやメトロなどの交通機関が張り巡らされているので、(故障やストライキは多いですが・・)本当は、車など必要ないのですが、何よりもバカンスを大切にする彼らには、たとえ、中古車であっても、車は、必需品なのです。

 まるで、引っ越しをするが如く、たくさんの荷物を車に詰め込んで、自転車まで屋根に積んで、長期のバカンス、または、週末にセカンドハウスに出かけたりするのです。

 また、パリという街は、実際は、小さい街で、パリを少しだけ外れるだけでも、たちまち田園風景が広がります。郊外に住む人にとっては、車は、買い物に行くのも、通勤するのにも必需品です。

 最近は、日本では、運転免許をとる若者が減ったという話を聞きますが、こちらの若者は、現在でも、運転免許を取る人は多く、18歳になって、早々に、高校を卒業する前から、免許を取ってしまう人もいます。

 特に、地方の学生などは、質素な暮らしをしながらも、古い車を買って、乗っています。

 そもそも、昨年から、世間を騒がせている「黄色いベスト運動」のデモも、一年近く経つ今では、論点がずれてきている感もありますが、元はと言えば、燃料価格の上昇に端を発しているもので、フランス人と車の関係の深さが垣間見えます。

 

 

2019年10月24日木曜日

アフリカでの出産で・・・陣痛促進剤2日間の産みの苦しみ




 私は、初めてのお産を、言葉も満足に伝わらないアフリカでという、かなり冒険的な体験をしました。言葉が満足に伝わらないと言っても、フランス語は、通じるので、単に、当時の私のフランス語力が足りなかっただけの話です。

 初めての出産、しかも、海外、そして、よりによってアフリカ・・・。
なのに、私は、出産に関して、あまり不安を感じていませんでした。

 病院も一応、フランス人や現地の政府高官が使うという、総合病院で、先生もフランスとアフリカのハーフのとても聡明な感じのベテランのど〜んと構えている、頼もしい感じの女医さんでした。

 とはいえ、日本でのお産のように、母親学級のようなものがあるわけでもなく(日本でお産をしたことがないので、詳しくは、わかりませんが・・)、月一回の定期検診と、出産前に2回くらい、出産の時の呼吸法の練習に行ったくらいでしょうか??

 出産間近の検診の際に、「じゃあ、この日は、祝日だから、その翌日の○日、出産にしましょう!朝、8時までに病院に来て下さい!」「はっ・・ハイ・・。」

 こんな感じに誕生日が決まるものなのか?とも思いましたが逆らえず、そのままになりました。

 それでも、私には、一人だけ、強い味方の日本人の助産婦さんだった方が付いていてくれたのです。彼女は、ちょうど、現地に赴任している日本人の男性と結婚したばかりで、まるで、私の出産に合わせるがごとくのタイミングでアフリカにやってきてくれたのです。

 約束の出産の日に、私は、主人に付き添ってもらって、病院へ行きました。

 当時は、10キロ以上体重が増えるとお産がキツくなるというので、私は、何としても、10キロ以上は増やすまい!と心に決めて、体重の増加を10キロ以内に留めてきました。

 苦しい思いをするのは、嫌だったので・・。

 そのせいか、出産前のエコーの検査では、「少し小さめの赤ちゃんかもしれませんね。」などと、言われて、内心、「よしよし・・」と思っていたのです。

 当日、陣痛促進剤を打たれて、お腹が痛くて痛くて、ずっと、のたうちまわりました。しかし、よほど、私のお腹の居心地が良かったのか、赤ちゃんは、1日経っても、産まれてきませんでした。

 夕方になって、女医さんもあきらめて、「じゃあ、また、明日の朝から、頑張りましょう!」などと言われて、彼女は、さっさと帰って行きました。陣痛促進剤がおさまると、痛みはスーッとひきましたが、一日、のたうちまわった疲れから、その晩は、疲れ切って、グッスリ眠りました。

 翌朝、叩き起こされるようにして(アフリカの看護婦さんは、日本の看護婦さんのようにソフトに起こしてはくれない)目覚めて、また、陣痛促進剤。

 正直、昨日の苦しみを、またかと思うともう、本当に気が進まなかったのですが、このまま病院にいる訳にもいかなので、仕方ない・・という、感じでした。

 それから、また二日目の陣痛促進剤を打つと、再び、痛みが始まりました。ようやく赤ちゃんの頭が出かかって、それからがまた、長くかかり、本当に途中でやめられるものなら、やめたいと思いましたが、そうはいきません。

 しまいには、吸引機のようなものを赤ちゃんの頭に当てて出てきたので、しばらく、娘の頭はちょっと、とんがっていました。

 それでも、午後、2時過ぎにやっと、娘は、産まれてきました。

 産まれてきた赤ちゃんは、ちっとも小さめではなく、3400グラムもありました。
私の体重も10キロ以上は、増えていなかったし、お腹だって、そんなにすごく大きくなっていたわけでもなかったのに、一体、どうやって入っていたの? という感じでした。

 とにかく、小さく楽にお産をしようと思っていたのに、それどころか、二日間も苦しむ羽目になって、一緒に付いていてくれた日本人の助産婦さんに、「これ、難産って言うよね!」と聞いたら、「これは、難産ってほどでは、ないと思うよ。」とあっさり。

 一緒に立ち会ってくれると言っていた主人は、身体に合うサイズの手術着のようなものがなく、結局、入れず仕舞いで、待ちぼうけでした。

 それでも、結果的には、主人よりも、助産婦さんだった彼女が付いていてくれたことの方がどれだけありがたかったことか・・。

 赤ちゃんが出てきて、女医さんが、「おめでとう。女の子ですよ。」と私のお腹の上に赤ちゃんを乗せて見せてくれて、何だか、まだ、ベチョベチョに濡れていて、「えっ??なんだか、赤いサルみたい・・赤ちゃんて、ホントに赤いんだなぁ・・」などと思いながらも、なぜか、手と足の指がちゃんと5本ずつあるかを数えたことを覚えています。

 そして、その翌日、私は、早々に退院しました。

 2週間後の病院の赤ちゃん検診で、新生児黄疸の症状が出ていると、言われて、あわや、入院かという大騒ぎになりました。新生児黄疸は、日本人に特有のもので、ほとんど、黒人、たまに白人の赤ちゃんしか、扱ったことのない病院は、そのことを知らなかったのです。(私も知らなかったけど・・)

 そこは、頼りになる助産婦さんの彼女が、お医者様に、これは、日本人特有のものだと説明してくれて、事なきを得たのです。

 出産は、日本の方が・・などと言われたりもしたのですが、私は、最初から、主人と二人で子育てをしたかったので、頑として、アフリカでお産をすることにこだわったのです。

 結局は、私にとって、女神のような、日本人の助産婦さんの存在もあり、無事に娘は、産まれてきたのです。

 お産が終わってすぐに、女医さんに、どうだった?と言われて、私は、うんざりした顔をして、「もう、懲り懲りです。」と言いましたが、彼女は、笑って、「みんな、そう言いながら、また、戻ってくるわよ!」と余裕の笑顔で仰いました。

 しかし、今になって思うと、私もずいぶんと無茶なことをしたものです。


 














 

2019年10月23日水曜日

娘のアルバム




 娘が生まれて、私にとっては、初めての子供で、やたらと写真を撮っていました。

 娘は、平成生まれですが、それでも、彼女が生まれた頃は、まだ、カメラにフィルムを入れて、写真を撮ると、フィルムをカメラから出して、写真屋さんに現像をしてもらい、その中でよく撮れているものを選んで、焼き増ししてもらうという、今では、考えられないようなことをしていたわけです。

 母がよく、娘の洋服を送ってくれていたので、その洋服を着せては、写真を撮って、郵便で送るということをずっとしていたわけです。普段は、会えない孫の写真が郵便で届くのを日本の両親や家族は、とても楽しみにしていました。

 そんなわけで、娘の幼少期の写真は、やたらと沢山あり、アルバムも随分とたくさんあります。

 ところが、カメラはみるみる進化し、カードに保存して、メールなどで送れるようになって、それから間も無く、スマホで写真が撮れるようになり、そのまま、すぐにスマホで写真が送れるようになり、写真を現像するということもなくなり、アルバムは、スマホやパソコンの中に保存するものになりました。

 ですから、娘の現像した写真のアルバムもパッタリと途中で途切れて、それ以降の彼女の人生の大半の写真は、スマホのアルバムの中に保存されています。

 最近で、現像した写真といったら、証明写真以外は、成人式で着物を着せた時に写真屋さんで撮った写真くらいです。

 しかし、アルバムの写真というものは、実際、見やすくて、家族の歴史としては、やはり、積み重なっていく感じが良いなぁ・・と感じる私は、古い人間なのでしょうか?

 写真の現像とともに、消え去りつつあるのは、手紙です。

 スマホやメールにより、こと足りてしまうどころか、遠い国に住んでいても一瞬のうちにメッセージを送れてしまうのですから、今では、時差の方が気になるくらいです。

 その上、早くて便利で安上がりですから、どうしても、メールやメッセージになってしまいます。

 私は、海外で生活し始めてからは特に、随分と手紙を書いていましたが、今では、ペンを持って字を書くということ自体も稀になってしまいました。

 字は、書かなくなると、書けなくなり、特に一筆書きで書けるような、アルファベットの文字ばかり書いていると、漢字という画数の多い複雑な文字を書くのがとても億劫になってしまいます。

 ペンを取って、思い入れを込めて、手書きで手紙を書くというのは、時代遅れなのかもしれませんが、その人の字体などにも人柄や気持ちが表れていて、なかなか味のあるものです。

 最近、母の残してくれた手紙を見ていて、私の一時期の手帳に書いてある文字にあまりにそっくりで、これ、確かに私が書いたんだよな〜、まさか、母が書くわけないしな〜、と考え込んでしまったほどです。

 でも、親子で、いつしか同じような字を書いていたことにも何かホッコリとしたものを感じるのです。

 いつか、私が旅立った時、娘が私を思い出してくれるものは、全て、スマホの中というのは、なんだか寂しい気がするのです。

 











 

2019年10月22日火曜日

ストライキ大国・フランス




 言わずと知れたストライキ大国であるフランス。

 公共交通機関であるパリの営団地下鉄や国鉄、飛行機、タクシーなどから、学校まで、四六時中、どこかがストライキをやっているような印象があります。

 私もフランスに住んで長くなり、一通りのストライキによる被害を被ってきました。

 だいたい、フランスの交通機関などは、ストライキをやらずとも四六時中、テクニカルプロブレムだとか、危険物があるとか言って、ストップするし、TGV(フランス国鉄の新幹線)などでさえも、大幅に時間遅れがあたりまえで、電車が2〜3分遅れただけで、「深くお詫び致します。」などとアナウンスの入る日本から考えたら、通常の状態がもうすでに、ストライキのような状態なのです。

 これだから、パリに通勤するとなると、日本なら、一時間以内の通勤圏は、余裕で大丈夫なところですが、しょっちゅう起こるストライキのことを考えると、郊外線などは、1時間に1〜2本のみという間引き運転になるため、車内は大混乱、通常、一時間の通勤時間のところが、その倍近く、時間を見積もって出かけなければならないのです。

 ましてや満員電車に慣れていないフランス人のすし詰め状態は、恐ろしいものです。

 それでも、パリは、家賃が高く、郊外に住んでいるフランス人はたくさんいるのです。

 私もパリに引っ越してくる前までは、郊外線を使って通勤しており、一ヶ月近く、ストライキが続いた時には、本当にヘトヘトになりました。

 SNCF(フランス国鉄)やRATP(パリ営団地下鉄)の職員よりも、ずっと悪い条件で働いている人たちが苦しめられて、どうなっているの? と思います。
 
 周りの乗客も長く続くストライキに積み重なる疲労と怒りでストレスが溜まりきっていました。

 そのストライキが終わって、すぐに、涼しい顔をして、検札にやってきた国鉄の職員は、乗客に「お前ら、さんざんストライキをやっておいて、検札とは、何事だ!!」と周りを囲まれて袋叩きにあい(手を出されていたわけではありませんが)、次の駅でトボトボと降りていったのを目撃したこともありました。

 また、娘が幼稚園(公立)の頃に、幼稚園が一ヶ月近く、ストライキで閉まり、子供を預けるのに右往左往したこともあります。

 そのおかげで、小学校からは、絶対にストライキをやらない私立の学校に入れました。

 日本にエアフランスで行った際、ストライキの予定の日にちをずらして、チケットを取ったのに、数日前のストライキの煽りを受けて、取っていたはずの直行便が変更になり、経由便になってしまったこともあります。

 また、日本から帰ってきた際に、空港からの交通機関は、全てストップ、タクシーですら、ストライキをやっていた・・ということもありました。

 どうにもならなくて、知り合いの運転手さんに電話をして、急遽、奥さんの車で迎えに来てもらったこともありました。

 もし、個人でフランスに旅行に来ている人だったら、そんな時はどうするのでしょうか? 考えただけでも恐ろしいことです。

 本当に、ありとあらゆることを予測して、対応できなければ、フランスで生活するのは、大変です。

 それでも、私がフランスに来たばかりの頃に、主人の友人に会った時、フランスの印象は? と聞かれて、「ストライキ!」と言った私の答えに、彼は、大変、満足そうに得意げな様子だったことは、今でも、忘れられません。

 その主人の友人だって、少なからず、ストライキの被害を被っているはずなのに、そうして、あくまで「主張」することを、どこか、誇りにしているフランス人なのです。

 











2019年10月21日月曜日

旅行先に着いた途端にスリ被害で一文無しになったらどうするか?




 パリでは、日常茶飯事のように起きているスリ被害ですが、私は、パリでスリの被害にあったことは、ありません。

 パリでの行動には、もう、周りの話をさんざん聞かされているので、注意して歩くことが習慣になっているのかもしれません。

 一度、母がパリに来てくれた時に、母がメトロの中で、ショルダーバッグから、お財布を抜かれたことがありましたが、それ一回のみ、しかも、私ではありません。

 しかし、そんな私も一度だけ、スリにあったことがありました。

 それは、リスボンへ旅行した時のことでした。

 ホテルへチェックインするには、少し、時間が早かったので、ホテルに行くまで、少し、観光しようとベレンの塔へ行った時のことです。

 早朝の飛行機で、パリを出発し、一旦、ホテルへ寄って、荷物を預けて、一息ついてから出かければ良かったのですが、小さなキャリーバッグとはいえ、荷物をゴロゴロと転がしながら、観光していたのです。

 これでは、旅行者丸出しですよね。

 途中、橋の上で、偽ブランド物を売りつける人が寄ってきて、頑なに、断り続けたのは、良かったのですが、多分、その時にやられたのだと思います。

 お財布を丸々、擦られてしまったのです。

 気が付いた時には、私は、一文無しで、飛行機の中で、お金も一部は、別に分けて持っておこうと思っていたのに、それも忘れていて、丸々、カードも現金も一切合切、取られてしまったのです。

 パスポートは無事だったものの、まだ、着いたばかりで、無一文でバスやタクシーにさえ乗れない!これから数日間、どうやって過ごしたらいいのか、娘を連れて、私は、途方に暮れました。

 トボトボと娘とリスボンの街を歩きながら、ジェロニモス修道院のあたりで、ようやく警察官をつかまえて、事情を話すと、とりあえず、街の中心にある警察署まで、パトカーで送ってくれました。

 戻ってくることはないと思いつつも、一応、保険等のために、被害届を作ってもらい、その担当をしてくれた警察官の人に、タクシー代の5ユーロを借りて、ホテルにどうにか、たどり着きました。

 ネット予約していたために、すでに、ホテル代は、支払いが済んでいましたので、最悪、ホテルに缶詰になっていれば、どうにか、帰りの飛行機までは、過ごすことはできますが、それでは、食事もできません。

 ホテルのジムにおいてあるリンゴを食べて過ごそうかとまで、一瞬、考えたぐらいです。

 そこで、私は、ホテルのフロントの人に事情を話して、控えてあったカードナンバーから、ホテルで、お金を引き落としてもらって、現金を手に入れてから、カードを止めることを思いついたのです。

 ホテルのフロントの人がとても、親切な人で、カードの手数料がかかるので、その分を負担していただければ・・ということで、快く引き受けて下さいました。

 そして、彼は、「ポルトガル人として、この国に訪れて下さったの方の中に、こんな被害に会う方が出てしまうことをとても恥ずかしく思います。」と言ってくれました。

 翌日、借りた5ユーロを返しに、警察に行き、前日に貸してくれた警官にお金を返しました。彼は、「お金を貸したと言っても、本当に返しに来てくれるとは、思っていなかった・・」と言い、お金もなんとか、カードから引き出すことができたと言ったら、そのことをとても、喜んでくれました。

 取られたカードもカード会社に電話して、ストップした時点で、使われている形跡はないことが確認できて、その後の観光は、なんとか、続けることができたのです。

 それにしても、日頃、パリでは気をつけていたのに、旅行先では、やはり、旅行者として、狙われてしまうのだと、旅行の際もますます、気を引き締めなければと学んだ、高い授業料でした。

 


























2019年10月20日日曜日

お金は、人を幸せにできるのか? ナタリーの話

 


 私の勤めていた会社のフランス人の社長は、とても、女癖の悪いことで有名な人で、結婚は、しているものの、常に複数の女性がいて、家庭は、崩壊状態のようでした。

 彼には、私とほぼ、同じくらいの年齢のナタリーという娘がいました。

 ナタリーのお母さんは、そんな旦那との日常の生活のストレスからか、アル中で、身体を壊して、亡くなってしまい、ナタリーは、軽い障害を抱えていることもあり、仕事には、付いていませんでした。

 しかし、金銭的には、何の不自由もなく、パリにアパートを持ち、一人で暮らしていましたが、彼女には、友人らしい友人もなく、孤独で、自殺未遂騒ぎを起こしたこともありました。

 そんな、彼女の孤独を紛らわせていたのは、買い物でした。

 羽振り良く買い物をすれば、店員は、機嫌をとって、その時だけは、優しくしてくれるからです。彼女の部屋には、買い物をして、持て余して、部屋に収まり切らなくなり、封さえ切られていない、山のような洋服や、バッグや小物類などが、あったのです。

 近づいてくる男の人も、明らかにお金が目当てで、たまに、ナタリーは、ここが私のお父さんの会社だと、妙な男性を会社に連れてくることもありました。

 それでも、男性とは、長続きするわけはなく、結局は、一人になってしまうのでした。

 そうなると、相手にしてくれるのは、父親の会社の人くらいで、彼女が会社に来れば、ある程度、皆、挨拶くらいはするし、会社に電話をしてきたりもするので、たまたま、電話を取ってしまえば、私も時々は、世間話の相手になったりもしていました。

 もう、とっくに成人している彼女ですから、父親が彼女に積極的に関わらないのも、わからないではありませんが、お金だけ無尽蔵に与えて、彼女に向き合おうとしない親子というのも、理解できません。

 現在は、もう社長も引退し、アメリカで別の女性と暮らしているそうで、パリにも滅多に現れることはありません。ナタリーが自殺未遂を起こしてからは、彼女の相手をしてくれる彼女より少し年下の女性を父親が雇い、それからは、少し彼女も落ち着いたようです。

 しかし、彼女は、このまま、一生をそんな風に送って行くのでしょうか?

 彼女にお金をかけるなら、彼女自身にお金を与えたり、その場しのぎの、退屈を紛らわす世話係のような人を雇うのではなく、まずは、彼女の精神的なケアーをしてくれる病院や専門家を探すことだったろうに・・と思うのです。

 社長は、先見の明も商才もあり、経営者としては、莫大な財産を築きましたが、幸せな家庭は、築くことができませんでした。彼は、お金に頼り、人任せにして、自分で家族と向き合わないことで、家族を傷つけ続けてきたのです。

 いくら、お金があっても、そのお金を上手に使えなければ、幸せにはなれません。
むしろ、お金がありすぎるから、不幸になることもあるのです。

 お金があるからこそ、不幸になることもあるのだというような話を聞くたびに、私は、ナタリーのことを思い出すのです。

 

 

 

  











2019年10月19日土曜日

日本の母からの小包




 私がフランスに来て以来、母は、毎月一度、小包を送ってくれていました。

 そして、母の体調が悪くなってからは、母の妹である叔母が、ずっと、その代わりをしてくれていました。

 当初は、フランスの郵便事情の悪さも、あまりピンと来ていなかったので、自宅宛で、日中は、仕事で家にいなかったため、その多くは、留守中に、不在通知が入っていて、休みの日に、郵便局に取りに行くことが多かったのです。

 私も娘も、とても、日本からの小包を楽しみにしていましたので、私が、お休みの日に、娘に、「今日は、どこに、お散歩に行きたい?」と尋ねると、迷わず、「郵便局!」と答えるほどでした。

 小さい頃の娘は、郵便局をドラえもんのポケットのように思っていたのです。

 毎月のことでしたので、大きな小包ではありませんでしたが、それでも、母は工夫して、娘の大好物の高野豆腐やひじき、切り干し大根、佃煮、おせんべいなどの日本の食品、日本のテレビ番組を録画したDVD、娘の洋服など、どれも、重量軽減のために、箱などは、取り除かれていて、クッションがわりに鰹節のパックや靴下などが使われていて、
小さいスペースにギッシリと詰められていました。

 小包には、必ず、母の短い手紙、時には、その時に庭に咲いていた花のスケッチなどが添えられていました。

 だんだんと、フランスの郵便事情などがわかり始め、紛失して届かなかったりしてしまったこともあり、小包は、私の勤めていた会社宛に送ってもらうようにしました。

 日中は、必ず、誰かがいるし、パリの中心地にある会社宛ての方が、国際郵便物の取り扱いにも慣れていて、紛失したりすることが、少なくなりました。

 それでも、クリスマスの時期などは、無くなってしまったこともありましたが・・。

 私の方からも、毎月とは言えないまでも、ずいぶんと母に小包を送りました。

 新しいシリーズの母に良さそうだと思われるお化粧品や、新作のスカーフ、マフラー、セーターなど、母に似合いそうなものを見つけると、必ずストックしておいたものです。

 そして、母や叔母の送ってくれた娘の洋服などを娘に着せては、せっせと写真を撮って、小包に忍ばせておきました。

 母の方も、出かける時などは、それを身につけて、娘が送ってくれたのよ!と嬉しそうに、孫の写真とともに、自慢していたのだそうです。

 今では、母も亡くなって、日本に帰国するたびに、少しずつ、実家の片付けをしています。私が母に送った洋服やスカーフ、マフラーなどを見つけるたびに、その頃のことを思い出しています。

 そして、私が母に送った走り書きのような手紙や、娘の写真なども残らず、大切に、箱に収められてあり、胸が熱くなりました。

 私の方も、母が小包にしのばせてくれていた手紙は残らずとってあります。

 私と母の往復書簡ならぬ往復小包でしたが、それは、離れていても、お互いのことを思って、品物を選び、短い言葉を手紙にしたためていた、親子の大切な軌跡のようなものであったのだと、実家の片付けをしながら、しみじみと思うのであります。