2019年9月12日木曜日

パパのダイエット メガネをかけた大きなねずみ




 私の主人は、体格が良くて・・というのは、かなり、控えめな言い方ですが、要するに、ダイエットが必要な体型です。

 とにかく食べることが大好きで、また、好きなものが高カロリーのものが多く、そして、フランス人らしく、ことさら好きなものがチーズとパンで、食べるとなると、半端ない量を食べてしまうので、チーズの買い置きなどは、全くもって出来ません。

 私は、自分の父が食べ物に関しては、とても、うるさくこだわる人で、自分の口に合わないものがあると、クソミソにけなすので、一緒に食卓についていた私たちまで、嫌な気持ちになるような環境で育ったので、とにかく、何でも、美味しい美味しいと言って、楽しく食事ができる主人のような人は、とても、いいなぁと思ったのです。

 しかし、主人は、その度を越しており、健康に差し障りのあるレベルになってしまったのです。

 もともと、主人は、私と出会うずいぶん前に、大きな交通事故に遭っており、その際に脾臓を摘出している上に、輸血の際に肝炎にかかってしまっていたのです。

 その上、これは、家系から来ていると言っていましたが、糖尿病でもあり、インシュリンの注射もしていました。

 ですから、本当は、ワインもダメ、塩分、糖分なども、かなり抑えなければならず、厳しいダイエットをお医者さまからも言い渡されていました。

 体調を崩して入院した後には、病院の管理栄養士の方から、指導を受け、何やら、サーモンピンクの色をしたお皿を買ってきて、これに少しずつのポーションに分けて食べるようにと言われたとかで、最初のうちは、子供のように、満足そうにそのお皿を使って、得意げに食事をしていましたが、そのうち、それでは、飽き足らずに、野菜スープをせっせと作っては、カサ増しをしていました。

 私も、紫のキャベツが良いと言われれば、せっせと紫キャベツを細かく刻んで茹でて用意したり、味の薄い肉なしポトフのようなものをお鍋いっぱいに、作り置きをしたりしていました。

 その、あまりの量に、私は、動物園の飼育員にでもなったような気持ちでした。

 それでも、育ち盛りの娘には、そんな食事をさせるわけにもいかず、私としても、和食が恋しかったりして、同じテーブルを囲んで、違うものを食べたりするのも気まずく、何と言っても、大の大人に食べ物の制限をするのは、とても嫌なことでした。

 しかし、夜中になると、主人は、ゴソゴソと冷蔵庫を漁ったりしていましたので、その度に、翌朝になって、「あ〜!また、ネズミにやられた〜!!」などと、半分怒りながらも、家では、笑い話にしていました。

 ある日、娘の幼稚園で、親子面談があり、主人と娘が二人揃って、出かけて行きました。その席で、ひとしきり、先生が、幼稚園での娘の様子などを話したあとで、主人に対して、「ご家庭で、何か問題になっていることは、ありますか?」と尋ねられたのです。

 すると、すかさず、娘が先生に向かって、大真面目な顔をして、「うちには、大きなネズミが出るんです!」と言ったのです。

 先生は、困惑して、黙ってしまったそうです。

 内心、なんて、不衛生な家なのだろうと思ったのかもしれません。

 困惑している先生に、主人は、「メガネをかけた、大きなネズミなんです。」とバツ悪く白状したそうです。

 











2019年9月11日水曜日

義兄夫婦のフランス人の家族




 主人には、血の繋がりのない歳の離れた兄がいて、パリ郊外に暮らしています。

 血の繋がりがないというのは、主人のご両親に長いこと子供ができずにいたため、養子縁組をしたお兄さんだからなのです。

 ところが、養子を迎えて、しばらくした後に、ひょっこり子供ができたのだそうです。それが、主人です。ですから、主人とお兄さんは、全く似ていません。

 主人は、大きくて、体格も良く、(良すぎて多少問題あり)どちらかというとイカつい感じなのですが、お義兄さんは、小柄で優しい感じの人です。

 フランスでは、子供のいないカップルが養子を取るケースは、日本に比べると、少なくありません。娘の高校まで、仲良くしていたクラスメイトにも、養子として引き取られて育った女の子がいます。

 お義兄さんの奥様、つまり、お義姉さんは、彼女が若い頃に、彼のお母様に見初められてお義兄さんと結婚したのだそうです。

 ですから、主人は、学生の頃から、独立するまでの間、ご両親とお義兄さん夫婦と、長いこと、一緒に暮らしてきたので、ある意味、お義姉さんは、主人にとっては、お母さんのような存在で、歳をとってもなお、お母さんに対して、わざと偉そうに振る舞いながらも甘えているダメ息子のようでもあり、また、お義姉さんの方も何かと主人を甘やかすようなところがありました。

 私が主人と出会った頃には、もう、主人のご両親は亡くなられていたので、私にとっても、お義兄さん夫婦の家は、主人の実家のような存在でもありました。

 お義兄さんは、主人と顔かたちが似ていないだけでなく、生活の仕方もまるで違っていました。

 主人と義兄が歳がかなり離れていた上に、主人と私もわりと歳が離れているので、主人の甥や姪が私と同じ年頃でした。

 海外を飛び回って仕事をしていた主人とは違って、義兄は、工場勤めで、フランスをほぼ出ない生活で、お義姉さんは、事情で親が育てられない子供を家で預かる仕事をしていました。

 二人で広い庭のある大きな家を構えて、今はもう独立している自分の子供たち4人を車ですぐの場所に住まわせて、日曜日や事あるごとに、家族みんなが子供を連れて、集まってくるというような生活を送っていました。

 子供たちは、皆、学校を卒業とともに、地元の銀行やRATPや警察官といった手堅い安定した仕事につき、早々に結婚し、子供を持ち、それぞれの家を構え、両親を囲むように、さらに大きな家族になって幸せに暮らしています。

 私たちも、フランスに来て、しばらくの間は、彼らの家の近くに住んでいました。

 フランスに来たばかりで右も左もわからなかった私も、まだ赤ちゃんだった娘を抱えて、主人も体調が悪かったりもして、辛かった頃、何かとお義兄さん夫婦の家にお邪魔しては、ご馳走になったり、お料理を教わったりして、どれだけ彼らに救われたかわかりません。

 特にお義姉さんは懐が大きく、とても暖かい人でした。
 いつも、たくさんの食事を用意して、淡々と家事をこなし、いつも笑顔で、少しも威張ることがなく、私たちが行くと、いつも、” 食べなさい!食べなさい!” と食事を促し、自分も一緒に食事をとり、なぜか、バゲットは中の白い部分さえ食べなければ太らないと思っているような可愛いところもある人でした。

 ですが、私が仕事を始めてしばらくして、私も主人も勤め先がパリだったこともあり、フランスの交通事情もあり、通勤が大変で、娘の学校や教育のことなども考え、今の家に引っ越してからは、彼らの家に行く機会も減ってしまいました。

 主人とお義兄さんは、同じ家庭に育ちながら、生活の仕方も子供の教育に対する考え方などもまるで違います。しかし、決して、仲が悪いわけでもなく、何かあれば、連絡をとって、お互いに、支え合っていました。

 生活や考え方などが違っても、そして、たとえ本当は、血縁関係さえなくとも、やっぱり、家族であるということを思うに、家族というものは、血のつながりではなく、一緒に過ごしてきた時間なのではないだろうか?と、義兄と主人との関係を見る度に、つくづく思わされるのです。












2019年9月10日火曜日

外交官生活の後にうつ病になったフランス人の夫 普通のおじさんになれなくて・・




 私の夫は、長いこと外地勤務をしていたフランス人の外交官で、私が主人と出会った時も、彼は、日本のフランス大使館に勤務していました。

 とはいえ、外務省からの外交官ではなく、財務省から派遣されている一人の公務員で、いつかは、フランスに戻らなければならない身でした。

 と言っても、外国勤務の間の肩書きは、外交官なわけで、外交官待遇の生活を長くしてきていたのです。

 日本勤務を終えた後は、アフリカの勤務になったわけですが、数年のアフリカ勤務の後には、元のフランスの財務省に戻ることになったのです。

 私自身が、大使館勤務をしていたわけではないので、詳細は、はっきりとは、わかりませんが、大使館というのは、外国にありながら、本国同然の治外法権の領域であり、その中での外交官特権と言われるものは、外国にいながら、かなり、特別な位置付けになるのです。

 また、本人も仕事に対しても、かなりの力の入れようで、日本にいる間などは、本当に日本人以上に昼夜なく働き、自分の仕事にもやりがいと誇りを持っていたのだと思います。

 パスポートも一般人とは違い、車も日本で言えば、ブルーのナンバープレートを付けている車は、外交官の特権で守られた車で、税金などの扱いも違っています。

 アフリカにいた頃には、DIP(DIPLOMA)SHOPという外交官専用の、食料品から食器、電気製品などの広範囲にわたる外国の製品を多く扱うお店があり、一般の人は、買い物をすることが出来ません。

 とにかく、そんな生活を長くしてきた主人は、フランスの財務省に戻ることがショックなのと同時に、普通の一般人に戻るのに酷く抵抗があり、側にいる私としては、” なんて不遜な人なの?"、 ” 一体、あなたは、なに様のつもりなのですか?” と、どれだけ、夫と話し合いをしたことでしょうか?

 フランスに戻って、半年から一年くらいの間は、主人は、うつ病のような状態で、普通のおじさんの生活に戻るのには、かなりの時間がかかりました。

 娘が産まれたばかりだというのに、主人は、鬱々として、夜中に息苦しさを訴え、救急車騒ぎで入院したりしたこともありました。病院では、鬱状態からくる呼吸困難との診断で、本人も苦しかったと思います。

 仕事も休みがちで、それに輪をかけるように、娘の国籍のことなど、アフリカでの出生証明書の不備などもあって、難航し、外国で産まれたフランス人の子供の国籍の扱いは、全て、ナント(フランスの西部、ロワール川河畔に位置する都市)の管轄で、なかなか進まない手続きに業を煮やして、ナントまで、夫の兄夫婦と共に車で出かけたこともありました。

 問題は、山積みで、主人が鬱状態から回復するには、それなりに時間がかかりました。

 それでも、娘は、まだ、赤ちゃんで、毎日毎日の生活は、淡々と続いていきました。

 娘は、そんな中でも、無邪気に成長し、そんな娘の成長が私たちを救ってくれました。

 娘の国籍問題が解決して、私もどうにか仕事を見つけた頃から、ようやく主人は、普通のおじさんの生活に戻り始めました。

 娘の保育園、学校などに顔を出すようになると、すっかり元のフランス人のおじさんに戻っていきました。

 人間、特別扱いを受けるには、本当に心して、自分を戒めなければならないと身をもって感じさせられた次第です。

 普通が一番。

 普通の生活を当たり前に送れることが一番、幸せなのです。

 
















2019年9月9日月曜日

パリに住む外国人の同僚たち




フランス、特にパリには、もはや、純粋なフランス人よりも、外国人の方が多い気さえするほど、外国人の多い国ではありますが、あえて、ここでは、国籍というよりも、出身としてお話しすることにさせて頂きます。

 ちなみに、やたらとフランス国籍を取りたがる外国人が多いのにも、驚きでした。
(特に中国人は、フランス国籍を取ることが前提、当たり前というような感覚なのには、驚きました。)

 もちろん、フランスに住んでいれば、確かに、フランス国籍を持っていた方が暮らしやすいということもあるのですが、私は、国籍、パスポートは一つで充分です。
 日本は、二重国籍が認められていませんし、日本で充分に満足しています。

 私の職場には、フランス人だけではなく、やはり、多くの外国人が働いていました。
ですから、みんなの共通語はフランス語ですが、一緒に仕事をしていると、それぞれのお国柄が垣間見れることが、多々ありました。

 ロシア人は、比較的、大人しくて、日本人と遠くないものがあるなという印象を持ちました。彼らは、意外にもフランス語が上手な人が多いことと、(これは、ロシアの学校教育によるものらしい)反面、英語があまり得意ではないこと、美しい人が多いこと、DVの被害にあっているらしい人がいたことが印象に残っています。
(これは、たまたまかもしれませんが、何人か同じ会社にいたロシア人の中で数人見かけたので、そんな印象を持ってしまいました。)

 中国人に関しては、入れ替わりも激しかったので、特に印象に残っている人たちに関してですが、私が一緒に働いていたのは、いわゆる中国での一人っ子政策時代の人たちだったためか、とても大切に育てられてきた感じで、優秀でもありました。
 とても前向きで、我慢強く、頑張り屋さんのイメージです。

 ブラジル出身の人は、大らかで、姉御肌の人で、とにかく明るく、感情表現が派手。

 そんな、色々な国から来ている人たちが集まる職場では、お昼どきになると、皆、ランチを、持参してくる人が多かったので、各国のお料理にもずいぶんとお目にかかる機会がありました。

 日頃、レストランでは、お目にかかれないような、各国の家庭料理のようなものにお目にかかれて、とても楽しい時間でした。

 だいたい皆、忙しく働いているので、持参するのは、前日の食事の際に多めに作ったものが多いのですが、やはり、フランスに住んでいても、自分の国の食事を食材などを、何とか苦労して手に入れたり、工夫したりしながら、自分たちで作っているのだということを目の当たりにして、何だか、ほっこりするような気持ちでした。

 それぞれが、”それ何? ちょっと、それ、味見させて! どうぞどうぞ、食べてみて!” とか言いながら、和気あいあいとしながら、食事の時間を楽しんでいました。

 タイ人などは、ビックリするくらい辛いものを平気で食べ、ほんの小さな子供の頃から、辛いものを食べているのだとか・・・。

 そんな光景を見ていると、外国に来て働いていても、皆、それぞれが、その国のコミュニティーに少なからず、依存し合いながら、特に食事に関しては、そのルーツを追求しつつ、懸命に生きていることを愛おしく感じます。

 そして、どこの国の人がどうということではなく、同じ、外国人としてフランスに住む者同士の連帯感さえ感じることもあります。だって、外人として他の国に住むということは、それぞれ、皆、多少の差はあるにせよ、色々な苦労があるからです。

 例にもれず、私も工夫しながら、フランスでも日本食をせっせと作っています。

 そんな中にいると、フランスでは、当たり前に手に入るもので、見慣れているせいもあるのかもしれませんが、フランス人の持ってくるランチが、一番つまらなく感じたりもするのであります。









2019年9月7日土曜日

入学式も卒業式もないフランスの学校





 フランスの学校の新年度は、9月に始まります。

 8月に入ると、スーパーマーケットなどでは、新年度用の学用品売り場のコーナーが設けられ、子供連れの親たちが、学校から、配られている学用品のリストを片手に買い物する光景が見られます。

 フランスでは、ノートや筆記用具等の文房具類を学校で一律に揃えるということはなく、各自が○ページある○行のノートとか、マス目が○ミリの用紙だとか、○色のボールペンだとか、それは、細かく指定されている新年度の学用品集めは、ひと仕事です。
 
 一定の量の同じものが必要ならば、まとめて学校が仕入れるか、業者が参入しても良さそうなものに思いますが、いつまでも変わらない、長い間のフランスのしきたりのような行事の一つです。

 そんな、フランスの学校には、入学式も卒業式もありません。
しれ〜っと、始まって、いつの間にか終わっている・・。そんな感じです。

 娘の小学校の入学のときは、私は、そんなことも知らずに、学校が始まる当日の朝に、主人と学校まで娘を送って行って、ちょっと顔を出して、そのまま、仕事に行くつもりでいました。

 学校の門の前には、先生が数名、” ここから先は、子供以外は入れません ! " と、父兄の前に立ちはだかっていました。

 ちょうど、その時、娘は、よりにもよって、顔が赤くかぶれてしまっていて、不憫に思っていたこともあり、さぞかし、心細いだろうと、私の方が、うるうるしてしまいました。

 主人も前日から、娘の洋服にアイロンをかけたり、学校へ持っていくものを揃えたり、靴を磨いたりと大張りきりだったのに、娘があっさりと、すたすた、こちらを少しも振り返ることもなく、学校へ入って行ったのには、大いに、物足りなさそうな感じでした。

 考えてみれば、フランスの学校には、日本の学校にある、入学式、卒業式はもちろんのこと、始業式、終業式、というものもありません。

 合理的といえば、合理的です。

 逆に考えてみれば、日本は、やたらと式典が多いですね。

 最初は、なんだか、区切りがつかない感じだと思っていましたが、慣れてしまえば、いちいち親が顔を出すこともなく、かえって、楽チンだと思うようになりました。

 その度に、仕事の休みをとったり、遅刻をしたりというのもなかなか大変ですから。

 フランスの学校では、特別な行事の時以外は、親ですら、気軽に学校に立ち入ることは、できません。授業参観というようなことも一度もありませんでした。

 ただ、二回だけ、ブルベ(中学卒業時の試験)とバカロレア(高校卒業時の試験)の成績優秀者の表彰式というのだけは、親も参加できました。

 特に、バカロレアのときは、娘の学年がその学校で始まって以来の高成績で、なんと、半数以上がトレビアン(5段階の最高の成績)をとり、親よりも生徒よりも、校長先生が有頂天だったのが印象的でした。

 こう考えると、こちらに慣れてしまえば、日本の学校の式典の多さだけでも、それを準備する先生とその度に参加する親の負担がいかに大きいかがわかります。

 フランスは、実にシンプルで、日本では、親までもが、子供の入学式コーデなんていう特集がファッション誌を飾ったりしているのが、不思議なほどです。

 お国柄といえば、それまでですが、国が違うと学校のあり方もずいぶんと違うものです。学校の入学式や卒業式などのセレモニーなどは、学校の始めに見せつけられるフランスと日本の大きな違いです。

 

 





















2019年9月6日金曜日

フランスの雇用問題






 昨年末、フランス全土に拡大した黄色いベスト運動(gilets jaunnes ジレ・ジョンヌ)と呼ばれるデモが世間を騒がせ、一部は、暴徒化し、大問題となりました。

 もともとは、自動車燃料税の引き上げに反対するものでしたが、次第に反政府デモへの様相を呈したデモへと変貌していきました。

 失業率の高い事でも有名なフランスですが、特に、若者の失業率が高いのもまた、特徴的で、このデモの暴徒化の中心となっていったのも、その若年層であるとも言われています。

 フランスでは、雇用形態や労働者の処遇、賃金、労働時間、解雇に至るまで、厳しい労働法の規制があります。

 この厳しい労働法の規制から、アルバイトのような職でさえ、安易に得ることも、また、賃金と物価の兼ね合いも、若者同様、外国人である私たちにとっても、とても厳しいものであることに違いありません。

 また、職を得ることが難しい反面、一旦、正規雇用として、雇われてしまえば、その労働者の権利というものも、その法律によって、大きく守られていることも現実なのです。

 公務員などは、その最たるものです。

 私は、フランスで、雇用主になったことはありませんが、自分の処遇に関しても、少なからず不満があったものの、同時に、同じ会社にいる、長くいることで、高給を取りつつも、ロクに働かずに、年金の計算ばかりしている人間を容易に解雇することもできずに、高給を払い続けなければならない、雇用主側の現実にも、憤りを感じたものです。

 雇用主は雇用主で、税金や保険料などで、労働者が実際に受け取る額を遥かに上回る金額を支払わなければならず、うっかり解雇しようものなら、たちまち訴えられて、その多くは、労働者側の勝訴になるのです。

 つまり、正当に働く権利を守るはずの労働法は、現実は、働かない労働者をも守る労働法になってしまっているのです。

 すでに職を得ている労働者が、法律に守られて、気に入らないことがあると、デモだ、ストライキだ、裁判だ!と、のうのうと暮らしている一方で、新規に参入してくる若者や、弱い立場の人たちが、その分のしわ寄せをまともに受けているのです。

 フランスの場合、新卒者を採用すると同時に、あくまで個人の能力や職務経験によって採用される即戦力重視の採用方法にも重きを置いています。

 しかし、そう事は、単純ではありません。

 弱い立場の人々が、職務経験を重ねて、キャリアを積んでいく一方で、高学歴の人は、それを何段も飛び越して、卒業して、いきなり管理職に着くのもフランスの超学歴社会の現実でもあります。

 高学歴の人には、それはそれで、一般のフランス人には、想像もつかない努力をして勝ち得た学歴でもあるので、その格差に歩み寄る気持ちが、本当は、ないのが正直なところだという現実が、今回のデモのような摩擦に繋がるのでしょう。

 何れにせよ、外人の私から見ても、フランスの労働法、雇用形態が社会全体を上向きにするために、うまく機能しているとは、到底、思えないのであります。













2019年9月5日木曜日

宅配便をしてくれていた大学教授の叔父






 うちの家族は、両親ともに兄弟が多く、それぞれに、なかなか結束も硬く、仲が良く、皆、都内のそれほど遠くない距離に住んでいることもあって、親戚の集まりも多く、子供の頃には、けっこう、それが煩わしくもありました。

 父の兄弟は、ほぼ、全滅してしまいましたが、その下の世代の従姉妹たちとも、相変わらず仲良くお付き合いが続いています。

 母の兄弟姉妹の方は、母以外は、まだ、全員、なんとか健康で暮らしており、叔父、叔母とも、変わらずにお付き合いを続けて頂いています。

 特に、母方の親戚は、私の祖父母が存命の頃から、祖父母の兄弟に亘ってまでの、付き合いがあり、子供の頃は、もう誰が誰だかわからず、引っ込み思案だった私は、とても、そんな集まりが苦痛でした。

 それでも、祖父母を中心とした家族の繋がりは、今から思い返せば、ありがたいものだったと思っています。

 誰かの誕生日、父の日、母の日、こどもの日、敬老の日、お正月などなど、事あるごとに、祖父母の家の庭でみんなでバーベキューをしたり、どこかのレストランを予約して、みんなで食事をしたりと、頻繁に顔を合わせていたおかげで、祖母が亡くなる時には、皆で交代で約半年、看病しあい、こうして今でも、お付き合いが続いているのです。

 特に、母の一番下の妹の叔母は、母よりも私の方が年が近く、私にとっては、どこか、姉のような存在ですらありました。

 娘が生まれた時も自分の孫のように可愛がってくれ、娘の洋服などは、ほとんど彼女が用意してくれていましたし、母の病状が思わしくない時、母の様子を逐一、知らせてくれたのも、私の帰国のタイミングを測ってくれたりしたのも彼女でした。

 そんな彼女の夫は、ある私大の理系の教授で、フランスの大学の教授と交流があり、研究室の生徒を連れて、学生に論文発表の機会を設けるために毎年、フランスに来ていました。

 そんな、叔父は、私たちにとっては、サンタクロースのような存在で、叔母が山のように用意してくれる日本の食料品を、その度に私たちの元に運んできてくれました。

 偉い大学教授の叔父も、私たちにとっては、宅配便のような存在でしたが、こちらで、娘がどうやら理系の道を選ぶとなってから、こちらの大学の事情にも詳しい叔父には、色々と相談に乗ってもらうようになりました。

 叔父がパリに荷物の宅配にパリに来てくれた時は、彼の滞在している、私たちが普段は、立ち寄ることのないような立派なホテルに荷物を受け取りに行き、一緒にお食事をし、パリの街を歩きました。

 娘の将来を見据える進路の選択に差し掛かった折、叔父は、こう言いました。

 「進路の選択は、将来、どんな形で、自分が社会に貢献できるかということを考えたらいいんだよ。」と。

 宅配便だった、叔父の教育者としての立派な一面を思い知らされた、彼の賢明なアドバイスでした。