2019年10月10日木曜日

交換留学生のドイツ人の女の子 




 娘が中学生の時だったでしょうか? 

 彼女は、第二外国語にドイツ語を選択していたため、希望者には、1週間の短期ではありましたが、学校からの交換留学の制度がありました。

 私も、これは、娘にとっても、良い経験になると思い、迷わず希望を出しました。

 期間は、ずれてはいましたが、娘も一週間、ドイツの家庭にホームステイさせていただく代わりに、ヴァネッサというドイツ人の女の子が家にやってきました。

 それぞれの子供の配置は、学校側が一応、それなりに、ドイツの提携している学校からの書類を見て、考慮してくれていたようです。
 そのドイツ人の女の子が日本のマンガやアニメ好きということで、おそらく、学校側は、彼女を我が家に送ってくれたのだと思われます。

 しかし、実のところ、うちの娘は、ほとんど、日本のマンガにもアニメにも、ほとんど興味がなく、私もほとんど知識がありません。
 うちの娘は、どちらかというと、身体を動かすことが好きで、どちらかというと、オタク気質だった彼女とは、あまり、気が合わないという悲劇が起こってしまったのです。

 最初は、初対面のために、緊張して、あまり、話さないのかと思いきや、時間が
経っても、自分からは、決して話そうとはしない、かなり、内気な女の子で、夕方、家に着いた途端に、食欲がないから、食事も食べないと言い出す始末。

 学校でフランス語を選択しているとは言え、ほとんど、フランス語も通じません。
娘のドイツ語も満足に会話できるレベルではありませんでした。だいたい、フランスにわざわざ、来ているのに、ドイツ語で話しても意味がありません。

 それでも、ゆっくりゆっくり、フランス語を話して、時には、英語を交えながら、なんとか、とりあえず、長旅の後に、何も食べずに寝るというのは、良くないから、少しでも、食べたら・・と言って、どうにか、一緒に夕食を取ることにこぎつけたのです。

 昼間の時間帯は、娘と一緒に、娘の通っている学校へ一緒に行って、学校で授業を受けていましたので、夜の時間帯と週末だけでしたが、なかなか打ち解けられずに、苦労しました。
 
 次の日の夜は、食事が終わると、あまり、大人が介入しない方が話しやすいのかも・・と思い、二人で過ごしなさいと、娘の部屋に二人で入っていったのですが、しばらくして、様子を見にいくと、二人とも、離れたところに座って、それぞれに別の本を読んで、全く、口も聞かないで、黙っているのです。

 これではいけないと、二人を部屋から連れ出して、では、みんなでゲームをしようとゲームをしたりして、なんとか、二人を交流させようと努めたのです。

 中学生くらいだと、ある程度、分別はつき始めているものの、そんなところは、まだまだ子供なのです。せっかくの機会にお互いにフランス語、ドイツ語を上達させようという気があまりないのには、全くもって、困惑してしまいました。

 週末には、どこか、パリで行きたいところがあったら、連れていってあげるから・・と言っても、以前にパリには、家族と来たことがあって、大抵のところは行ったことがあるから、強いて言えば、パリにあるマンガを売っているお店に行きたい、マンガに出てくるラーメン屋さんというものに行ってみたいと言うので、マンガを売っているお店に行き、ラーメン屋さんに連れて行き、その後に、少し、パリの街を歩きました。

 一週間という期間は、内気な彼女にとっては、打ち解けるには、あまりに短く、私が期待していたようには、うまくいきませんでした。

 それから、しばらくして、今度は、うちの娘の方がドイツの彼女の家に滞在させて頂いたのですが、出発前には、ヴァネッサのように、黙ってばかりいては、意味がないから、出来るだけ、家族の人ともニッコリお話しするようにしなさいよ!と娘には言い含めて出かけていったのですが、さて、実際には、どうだったのかは、本当のところはわかりません。

 ただ、彼女には、兄弟がいて、弟さんは、比較的、活発な子で、その子とは、仲良く遊べた、と言っていたので、少しはましだったのかもしれません。

 しかし、留学やホームステイなどというものは、親がいくらその気になっても、本人がある程度のモチベーションがないとダメなんだとつくづく実感しました。

 










2019年10月9日水曜日

パワハラか? 商談か? 退職してしまったニナリッチのおじさん




 私の勤めていたフランスの会社には、色々な業者の人が出入りしていました。

 色々なメーカーの営業の人が、新製品が出ると、その売り込みにやってきていました。

 それこそ、口八丁手八丁で、口が達者で、いかにも調子の良さそうな、それでいて、なかなか押しの強い人が多いのです。

 ただでさえ、口のへらないフランス人ですから、それは、もう、うまいものです。

 中には、ハンサムな人や、美女を営業に送り込み、斜めから切り込んでくる会社などもありました。

 営業の人は、新商品を携えて、新製品の売り込みをすると同時に、これまでに自分が売った製品の管理や、問題のあったものに関しての処理をも請け負いながら、値段の交渉をして行くので、そのあたりの駆け引きも、通常、お手のものです。

 売る方は、出来るだけ高く売りたいし、買う方は、出来るだけ安く、買いたいのは、当然のことです。製品を買う側は、基本、「何なら、買わない・・」となるので、どちらかと言えば、強い立場ではあります。

 しかし、フランスのメーカーの場合、強気で、「何なら、おたくには、売らない・・」という態度が通ってしまうメーカーもあります。
 こうなってくると、もうどちらがお客かわからない状況にまでなってしまいます。

 その中に、きっと、この人は、この仕事、あんまり向いていないかも・・と思われる、いかにも気の弱そうな、フランス人のアラフォーくらいのおじさんがいました。

 その人は、ニナリッチの製品を売りに来ていた人でした。

 ある日、そのおじさんは、うちの担当者とアポをとって、新製品を持ってきていました。

 その時、応対に当たった、うちの担当者は、なかなかのツワモノで、その女性の強烈さは、誰もが知っていましたので、営業に来る人は、誰もが、一応、身構えて、かかっていました。

 交渉が進んでいく中、だんだんと声のトーンが上がっていくのがわかりました。

 うわっ!と思いながら、段々とエキサイトしていく様子を、私は、遠くから見ていました。詳しい話の内容は、わかりませんでしたが、うちの担当者は、やたらと、カッカして、怒り始め、ニナリッチのおじさんは、みるみるうちに、顔が紅潮して、日汗をかき、手がぶるぶると震え始めたのです。

 多分、彼は、「上司と相談します。」とでも、言ったのでしょう、彼女に、この場で、しかも、彼女の目の前で電話するように詰め寄られ、自分の携帯を取り出し、上司に電話を始めました。

 それでも、電話で、自分の上司に対しても、言い淀んでいる彼の携帯を取り上げ、直接、彼の上司と話を始めたうちの担当者の彼女の強さに対して、彼の気の毒な様子は、もう見ていられない感じでした。

 今のご時勢、世間では、何かあると、すぐに、セクハラだのパワハラだのと、ネット上でも、炎上し、テレビなどでも、大きく取り上げられ、報道されます。

 しかし、報道されていることは、決して、特別な出来事ではなく、実は、結構、私たちの、ごく日常にも、あちこちで、似たようなことが起こっていることではないかと思うのです。

 このニナリッチのおじさんの場合、営業に来ていたわけですし、彼の方にも、もう少しやり方は、あったであろうとも思うので、必ずしもパワハラとは言えないかもしれません。

 けれど、私は、パワハラの報道を目にするたびに、あの、ニナリッチのおじさんのことを思い出すのです。

 あれから数ヶ月後、あの事件も忘れかけていた頃に、「そう言えば、あのニナリッチのおじさん、最近、来ないね〜。」と何気で、同僚に、呟いたら、「あの人、ニナリッチのおじさん、会社、辞めてしまったんだって・・」と一言。

 なにも、辞めなくても、担当を変えてもらえばよかったのに・・と思いつつ、余程のトラウマになってしまったのか、それとも、彼自身、この仕事が向いていないと踏ん切りがついたのかは、わかりません。

 あのおじさんは、今頃、どうしているのだろうか? と、私は、今でも、時々、思い出すのです。

 

 

 

2019年10月8日火曜日

言語は使いつけないと錆び付く フランス語と日本語を混同する現象





 海外で生活していると、日常の生活を送るためには、外国語(フランス語)で生活しているため、たとえ、日本語で考えていたとしても、無意識のうちに、頭の中は、フランス語をあたかも外来語のように使ってしまっていることがあります。

 たとえば、買い物をして、これは、リブレゾン、グラチュイだから!(配達は無料)とか、ドゥーズィエム、モアチエプリだ!(二個目は半額)とか・・。
(無料とか、半額とか、そういう例が、すぐさま思い浮かぶのは、つい、日頃の生活ぶりが表れてしまいます。(笑))

 また、例えば、フレンチのレストランに行くと、お店によっては、たまに、お店の人が日本人だと思って、気を使ってくれて、英語のメニューを出してくれたりすることがあります。

 ところが、フレンチのメニューに関しては、フランス語でお料理を覚えているため、英語に訳されていると、かえって、ピンとこなくて、よくわからないことがあります。

 これは、私自身がバイリンガルではないから、フランス語=日本語=英語と、すんなり変換できないためなのかと思っていたのです。ところが、それは、バイリンガルである娘にも起こるようなのです。

 普段は、今でも、私と娘は、フランス人が混ざることがない限り、日本語で会話をし、スムーズに話していますが、現在の娘の日常は、一人暮らしになって以来、ほぼ、100%、フランス語の生活です。

 しばらく、日本語を使わない環境になると、日本語の滑らかさが鈍ります。

 というより、娘の場合は、もっと、そのゴチャ混ざり具合が、微妙です。

 フランス語だけで話しているつもりが、急に日本語の言葉が混ざったり、また、逆に、日本語の中にフランス語が混ざったりすることがあるのです。

 例えば、「J'ai oublié mon saifu. 」(ジェ・ウーブリエ・モン・財布)
(お財布、忘れちゃった。)とか、

「下の階の人には、jamais (ジャメ) 会う」
(下の階の人には、全然、会わない。)とか・・。

 これでは、フランス語版、「ルー大柴」みたいではないですか?

 せっかく、頑張って、バイリンガルに育てた娘が、「ルー大柴」のような日本語とは・・これは、ちょっと笑えません。

 特に、日本に行った時に、これが出ないように、日頃から、日本語もフランス語も正しく使うように、親子ともども、心がけなければと、最近、とみに思います。

 やはり、言語は使っていないと、たちまち、錆びついてしまうのです。


<関連YouTube アップしました>
 よろしかったら、ご覧ください。
 https://www.youtube.com/watch?v=L2h3TIdJl9c&feature=youtu.be





2019年10月7日月曜日

個性的なおしゃれとドギツいメイクに走るパリの日本人マダム 


   


 パリの街を歩いていると、遠くからでも、バスの中からでも、” あっ!!あれは、日本人だ!!”というのがわかるようになりました。服装、歩き方、物腰、雰囲気から、たいてい、当たります。

 以前は、地図を片手に帽子をかぶって、ウェストポーチ、あるいは、ポシェットを肩からかけて・・というスタイルでしたが、最近は、そんな、一目で観光客だとわかりやすい、不用心な人もあまり見かけなくなりました。

 それでもなお、日本人独特の、やんわりとした、ものごしや、たたずまいから、日本人らしさを感じるのです。

 しかし、それは、観光客のことで、長くパリに住んでいる人からは、その日本人オーラを感じることは、あまり、ありません。

 人の第一印象というのは、あながち、おろそかにはできないもので、最初、見かけたときに、” おや? この人、なんか、変だな?・・とか、妙な感じがするな?・・” と感じたことが、少し、知り合いになると、その妙に感じた感覚は、薄れてしまって、忘れてしまったり、消え去ってしまうことも多いのですが、後々になってみて、” ああ〜、そういえば、最初に会った時に、この人は、妙な感じがしたのだったな・・・” と思うことも少なくないのです。

 以前、私の勤め先の会社に出入りしていたお金持ちの日本人のマダムがいました。

 彼女には、最初、” んっ? ” と、思ったものの、話してみると、案外気さくで、話しやすくもあり、よく、手作りのケーキを差し入れてくれたりして、いつも、きれいにメイクをして、おしゃれな服装をしていて、いつの間にか、彼女は、好感の持てる方という印象になっていました。

 しかし、何年か経ち、彼女も年齢を重ねていくうちに、最近、彼女、少しメイクが濃くなったみたい・・と、思うようになりました。服装も、明らかに、危険なパリの日常を歩くような服装ではなくなっていきました。

 気がつけば、冬には、毛皮のコートを羽織って、つばの広い帽子をかぶってみたり、メイクと言ったら、まるで、舞台用のメイクのような濃さになり、周りのフランス人の同僚たちからは、あれでは、マイケルジャクソンみたいだ・・とまで、言われるまでになっていました。

 本当のパリのマダムを勘違いしているようで、もはや、パリに染まっていくというより、かなり、浮いてしまっています。

 慣れというのは、恐ろしいもので、そんな彼女を見ても、何とも思わなくなっていた私も、ある日、その異様さに気がついた時には、自分でも、ハッとさせられたくらいです。

 そして、それは、彼女に限ったことではなく、ごく少数ではあるものの、個性的なパリの日本人マダムは、存在します。それは、ガイドさんや、駐在員の奥様の中にもお見かけすることもあります。(逆に、国際結婚をしていらっしゃる方には、なぜか、あまり、お見かけしないような気がするのも不思議なことでもあります。)

 そんな、彼女らからは、もはや、日本人らしい、たたずまいを感じることはありません。

 パリが彼女をそう駆り立てるのか? それとも、彼女自身が本来、持っていたものが、開花したものなのか? それは、わかりません。

 一般的には、パリに住んでいる日本人の女性は、おしゃれではあっても、パリの治安を鑑みてか、比較的、大人しく、品の良い出で立ちで、ナチュラルな感じのメイクの方が多いのですが・・・。

 その人となりは、その様相に現れるといいますが、私は、どんな顔をしているのかな?と時々、思います。

 品の良いおしゃれは、難しいのです。その人の内面も表れますから・・。

 

 



 

 

 










 

2019年10月6日日曜日

パピーとマミーの愛情




 フランス語では、おじいさん、おばあさんのことをパピー、マミーと呼びます。

 娘は、アフリカで生まれ、フランスで育ち、私の父と母に初めて会ったのは、彼女が2歳になったときだったので、初めから、娘は、私の父や母のことを何のためらいもなく、「パピー」「マミー」と呼んでいました。

 娘が、無邪気に、パピー!マミー!と呼ぶ、その呼び方に、最初は、多少、戸惑っていた二人も、ジージとか、バーバとか呼ばれるよりも、パピーやマミーと呼ばれるその呼ばれ方の方が年寄り扱いされている気がしないなどと言い出して、いつの間にか、すっかり、パピーとマミーという呼ばれ方にも馴染んで、結構、気に入っていました。

 私自身も祖父母、特に祖母には、ことの外、可愛がってもらって育ってきましたが、父や母にとっても、孫の存在は、格別だったらしく、私が、母の仕事や、家の事を手伝ったり、看病をしたり、病院に付きそったりと親孝行のようなことをどんなにやろうとも、孫の存在や笑顔に触れた時のような、彼らの嬉しそうな顔は、見たことがありませんでした。

 父は、私が子供の頃などは、いわゆる昭和初期の世代の男で、口数も少なく、仕事仕事で、一緒に遊んでくれるというなどということもありませんでしたが、孫とは、楽しそうに遊び、あれこれとちょっかいを出してはかまって、娘との会話を楽しんでいました。

 母に至っては、それこそ、娘のやることなすこと全てをプラスに捉え、いちいち感心しては、娘のことを褒め、自分自身までもが無邪気に、孫といると、本当に楽しいね〜と公言して憚りませんでした。

 そして、それは、それぞれの最期の瞬間まで続き、母が危篤状態で、人工呼吸器をつけられて、もう瞳孔も開いていると医者に言われていた時でさえ、孫の呼びかけには、目を覚まし、父ももう、何も食べられなくなり、衰弱しながらも、自分の感情が抑えきれずにイライラと過ごしていた状態になっても、孫からの手紙には、穏やかな笑顔を取り戻していました。

 こう考えると、私がしてあげられた一番の親孝行は、両親に孫という存在を与えられたことだったのかもしれません。

 親と子の関係と、祖父母と孫の関係というものは、全く違うのかもしれません。

 自分自身が主体となって子供を育てていく親子関係とは違って、自分が歳を重ねて、人生も終盤にさしかかっている時、消えていくであろう自分の命と、これから育っていく新しい命である孫の存在とその関係は、自分の血を引いた命がこれからも、どこか自分と繋がって続いていく希望のようなものであったのかもしれません。

 

 

 

 













2019年10月5日土曜日

入国審査 世界最強と言われる日本のパスポートでも起こる悲劇




 日本のパスポートは、世界最強のパスポートと言われています。

 2019年のグローバルランキングでも世界1位となっています。

 日本のパスポート保持者が、ビザなしで渡航できる国は、現地空港などで、アライバルビザが取得できる滞在先も含め、190ヶ国にも及びます。

 私たちは、その便利な最強のパスポートを生まれながらにして、持つことができるのですから、それは、それは、ラッキーなことだと思います。

 実際に、私もこれまで、20ヶ国近くの国を旅してきましたが、入国審査で止められたことは、一度もありません。

 私自身が、入出国が一番多い、フランスでさえ、こちらに在住しているからという理由ではなく、滞在許可証すら求められないことがあるくらいです。

 しかし、以前、私がイギリスに留学中に、悲惨なことに遭遇したことがありました。

 私のロンドンでの友人から、日本から友だちが来るので、一緒に食事をしないかと誘われて、その友人の家で、一緒にその友だちの到着を、今か今かと待っていたのです。

 ところが、待てど暮らせど、その友だちからの連絡はなく、こちらからの連絡もつかず、到着便を調べてみると、飛行機は、とっくに到着している模様。

 仕方なく、ひたすら待っていると、何やら、動揺した様子で、電話をかけてきたと思ったら、入国審査で止められ、すったもんだの挙句に、このまま、日本へ帰国することになってしまったというのです。

 その人は、英語がほとんど話せずに、相手の言っていることも、よくわからず、途中で、通訳の人が入ってくれたというものの、通訳の人が、正確に通訳をしてくれたとも考えづらい感じでした。

 考えられる理由は、いくつかあります。

 飛行機が東南アジア系の航空会社の経由便であったこと。
 チケットが帰国期日の入っていないオープンチケットであったこと。
 その人の職業が料理人であったこと。
 そのために、入国後、イギリスで労働ビザなしで働く可能性があると思われた模様。

 結局、その人は、ロンドンには、着いたものの、空港の外に出ることなく、自分の持っていたオープンチケットの帰路の分のチケットをその場で、日時を入れられ、その日の夜の便で、日本へ帰ることになってしまったのです。

 私たちも空港に電話をしてみたのですが、その担当者とは、直接、話す事は出来ずに、こちらの事情を話すと、電話の応対に出てくれた人は、とにかく、結論として、「私たちには、入国を拒否する権利がある!」と言うのみで、私たちは、何もできず、ただただ、呆然としたものでした。

 空港の税関や、入国審査の担当官などは、当たる人によって、多かれ少なかれ、対応が違うことも多く、たとえ、日本のパスポートを持ってしても、こんな悲惨なこともあったのだということを、日本のパスポート最強説を見かけるたびに思い出すのであります。


 







2019年10月4日金曜日

母がパリに来てくれた時のこと





 私が、パリに引っ越した頃には、母は、もうすでに、心臓病を発病していたので、ヨーロッパまでの長旅は、単に長距離の移動ということだけでなく、飛行機の中の気圧の変化等の問題もあり、到底、無理だろうと思っていました。

 本来の母は、社交的な性格で、英語も堪能で、時代が時代なら、もっと海外を自由に行き来していただろうと思われる人でした。ですから、娘が海外で暮らしているなどという環境にあれば、健康であったなら、毎年のように、パリにもやって来ていただろうと思います。

 それが、娘がまだ3歳くらいの頃だったでしょうか? 突然、母から、来月、パリに行くから・・と連絡をもらって、私は、嬉しい反面、本当に大丈夫なのだろうか?と、何よりも、彼女の健康が心配になりました。

 もちろん、お医者さまとも相談の上だったと思いますが、私は、無理をしないで欲しいという気持ちの方が強かったのです。

 これが、心臓の病気の厄介なところで、はた目からは、病状がわかりづらいので、ついつい無理をしてしまうのです。

 しかし、こうと決めたら、とにかく、やってしまう母ですから、自分で友人を誘い、友人とともに、パリへやってきたのです。

 とにかく、一度は、娘や孫の住んでいるところを自分の目で見ておきたいという気持ちが強かったのだろうと思います。

 そういえば、ロンドンに留学していた時も、母は、(あの頃は、全然、ピンピンしていましたが・・)ここぞとばかりに、突然、ロンドンに来てくれたこともありました。

 あの時も本当に突然で、クリスマス時期で身動きが取れなくなるロンドンから抜け出そうと、私は、友人とカナリー諸島への旅行の計画をしていて、母が日本へ帰る前に出かけてしまうという事態になっても、母は、お構いなしにロンドンを楽しんでいました。

 パリにやってきたのは、孫とのフランスでの時間を持ちたかったということもあったのでしょう。主人もお休みの日には、彼女が行きたいというジヴェルニー(モネの家がある場所)や、ベルサイユ、パリの街中を細かい路地を通って、車で案内してくれて、バトームーシュに一緒に乗ったりして、母も主人も娘も、明らかに興奮状態で、母の健康状態を心配する私が、興奮する周りを抑えるのに必死だった気がします。

 パリ市内は、メトロを使って、観光やショッピングを楽しんだ母は、フルコースでしっかりとメトロでスリにまで遭い、私が帰宅したと同時にホテルにいる母から電話があり、私も、再び、ホテルに戻って、その後、警察に被害届をもらいに行ったり、カードを止めたりなど、ひと騒動でした。

 母が来てくれたのは、初夏のことで、夏には、私たちもバカンスで日本に行くことになっていましたから、孫とも、しばしのお別れと言って、母は、元気に日本へ帰って行きました。

 私も、なんとか、母が無事に日本に帰って、ヤレヤレといった気持ちでした。

 あの旅行自体が母の病状にどれだけの負担となったのかは、わかりませんが、あの時の楽しそうな母の様子を考えると、やれることをやりたいうちにやれて、本当に良かったと思います。

 結局、それから5年後に、母は、亡くなりましたが、それでも、パリに来てくれた後の5年間の母の病状の変化を考えると、あの頃が、母がパリへ来る最後のチャンスだったのだろうと思うのです。

 母がどのくらい、自分の病気の進行を予測していたのかは、わかりませんが、自分が動けるうちに、どうしてもやりたいことを命がけででもやるという彼女の選択は、きっと、彼女にとっても、私たちにとっても悪くない選択だったのではないかと、最近になって思うのです。

 寝たきりで、安静にしていれば、もしかしたら、彼女の寿命は、もう少し長くなったかもしれません。もちろん、どんな状態でも、生きていてくれれば・・と思うこともあります。
 しかし、少し長くなった寿命をベッドの上で過ごすより、やりたいことをやって生きた彼女の人生の方が幸せだったのではないかと、今は、思うのです。

 今日、その時に、母と一緒に見た、モネの睡蓮の池を、その頃の娘が描いた可愛らしい絵を見て、母がパリに来てくれた時のことを思い出したのでした。