2019年8月28日水曜日

レイシスト 差別的な言動






 私の会社には、マルティニーク(以前、フランスの植民地だったところ)出身のファムドメナージュ(お掃除のおばさん)がいました。
 
 普通、ファムドメナージュといえば、朝だけ、お掃除をして帰る場合が多いのですが、その他の雑用などもやってくれていたので、彼女は常勤で、一日の勤務でした。

 当然、接する機会も多く、子供好きだったりして、娘の成長なども一緒に喜んでくれたりしていたので、写真を見せ合ったり、彼女の子育ての話を聞いたりと、顔を合わせれば、軽い世間話などをしたりもしていました。

 彼女は、体格のいい、気のいいおばさんで、フランス人はもちろん、日本人とも長く仕事をしてきたためか、とても親日家で、日本人にも、好意的で優しく、陽気なおばさんでした。

 でも、おしゃべり好きで、ついつい仕事を放りがちになってしまったりすることもあり、そんな時に、注意されたりすると、「あなたたちは、レイシスト(差別的な言動を行う人)だ!」と、烈火のごとく、怒り出すので、困ってしまいます。

 それは、ただ、仕事の仕方を注意しただけであって、別に差別用語を使ったわけでもなく、彼女を差別しているわけでもありません。

 しかし、「あなたは、レイシストだ!」と言われては、たとえ、こちらはそうではないにしても、” そうじゃないでしょ!” と思いながらも、” レイシスト" という言葉に対する返答には、デリケートになってしまいます。

 彼女には、彼女の生まれ育った環境や人種の問題で、今まで、そのような歴史的背景を背負ってきたので、何か、自分を否定されたと感じると、すぐに、「レイシスト!」という言葉がついて出てくるのでしょうが、こちらとしては、あまりに度重なると、仕事をしないための常套文句のように思えてきてしまいます。

 しかし、それは、多分、彼女がこれまで受けてきた「差別」に対するコンプレックスからくるものなのです。

 どの社会においても、「差別」というものは、存在します。

 フランスにおいても、面と向かって日本人を差別して扱うようなことは少ないとは、思いますが、差別が全くないとも言えません。アジアの人を十把一絡げにして、両手の人差し指を目尻において横に引っ張った動作をして、アジア人を揶揄することもあります。

 それは、差別とは呼ばないかもしれませんが、決して良い気持ちではありません。

 私自身は、主人がフランス人で付き合うフランス人も主人繋がりの人であったりすることも多いため、差別を感じることは、ほとんどありません。仕事上においても相手に対して、誠実な態度で仕事をしていれば、そのようなことも生まれません。

 レストランやカフェでは、見知らぬアジア人は、黙っていると、角の方の席に配置されてしまうという話を耳にすることもあります。しかし、そんな時は、どこに座りたいか、ハッキリと頼んでみるか、あらかじめ、場所を指定して席を予約すれば、良いのです。

 ただ、〇〇人だから・・とか、経済的あるいは、社会の認識が下の国の人たちに対して、自分たちの方が、上級国民だとかいうバカげた露骨な差別をする人がいたとしても、そういう人の方が、おかしなわけで、どこの国の人にも優れた良い人はいるし、また、逆に低俗なバカげた人もいるのです。

 そんなこともわからずに、ただ、生まれ育った国によって人を差別するなどナンセンスです。そういう人とは、静かに距離を置けば良いのです。

 人の好き嫌いや相性の良し悪しは、別としても、人と人との関係は、国の違いを越えて、それぞれが築いていくものだと思うのです。
















 

2019年8月27日火曜日

フランスの駅とトイレの先進国とは信じ難い臭さ




 ロンドンからユーロスターでパリ北駅に着くと、ロンドンのセント・パンクラス駅とのあまりの違いに、フランス人でない私でさえ、ガッカリしてしまいます。

 人一倍プライドが高いはずのフランス人のトップである大統領や政治家は、ロンドン⇆パリ間のこの路線を利用して、ロンドンとのこの差を何とも思わないのだろうかと思ってしまいます。

 駅舎自体がどうとかということよりも、その汚さ、臭さが、何より、信じ難いのです。

 駅のトイレなどが少ないこともありますが、その少ないトイレでさえ、汚物が散らばっていたり、汚れたままになっていたり、便座がないことも少なくありません。

 残念ながら、この便座のないトイレを見て、パリに来たと感じるという人もいるくらい、パリのトイレのみすぼらしさは、象徴的なひとつとなってしまっています。

 日本人は、パリには、ウォシュレットがないのか? などと驚く方もいらっしゃるようですが、パリのトイレ事情は、ウォシュレットの有無を語る次元ではありません。

 そして、極め付けは、トイレだけでなく、駅自体が臭いのです。
 今どき、臭い駅などというものが、日本のどこに存在するでしょうか?

 ある時、私が駅の構内を歩いていて、前を歩いていた普通のスーツを着た男性が、急に立ち止まったかと思うと、おもむろに壁の方を向き、用を足し始めたのに、驚いたことがありました。

 なるほど、それ以来、駅の構内の壁を見ると、それらしいシミが結構あり、そのような行為が日常的に行われていることを物語っています。

 それが駅の悪臭の原因なのです。

 それが、ホームレスなどの人だけではなく、ごく普通の人までなのですから、先進国と言われるフランスの衛生観念、道徳観念が欠如している現状は、まことに理解しがたいことです。

 だいたい、駅の中も街中も、トイレが少ないことも原因のひとつです。街中には、公衆トイレがたまにあることもあるのですが、故障中のことも多いのです。

 最近は、自動洗浄が行われる公衆トイレなども見かけるようになりましたが、床から天井までを丸ごと洗浄するシステムになっており、うっかり閉じ込められたら、大変なことになってしまいます。

 しかし、いくらトイレが少ないからといって、犬じゃあるまいし、あちこちで用を足すのは、どういうものでしょう。

 あれほどプライドの高いフランス人が公共の場で用を足すこと、そしてその衛生観念は、全くもって理解できません。

 パリでは、散歩中の犬のフンを飼い主が始末していないところを見つかると罰金が課せられるのに、人間があちこちで用を足しても罰金を課せられないのは、どういうことなのでしょう。

 犬のフンの放置に対する罰金勧告のポスターはあちこちで見られるのに、人間用の罰金勧告のポスターは見たことがありません。

 フランスは、素晴らしい香水の宝庫である、香りの国などと言われているのに、現実は、アンモニア臭の漂う、花の都、パリなのであります。

 

 











2019年8月26日月曜日

フランス人の夫の買い物




 娘が小さい時に、「けっこんするって、どういういみかしってるよ!!」と、得意そうに言ったので、「じゃあ、結婚するって、どういうことなの?」と、聞き返したら、「けっこんするって、いっしょにおかいものにいくことでしょ!」と可愛いことを言っていた時期がありました。

 しかし、結婚が娘のいう通りとするならば、我が家はとっくに崩壊しています。

 確かに、一緒に行くこともあるのですが、お買物に関しては、全く趣味が合わず、夫が立ち止まるところと私の立ち止まるところは、全く違い、そのうち、一緒にお買物に出かけても、特別な家具などを除いては、別行動を取るようになり、ある一定の時間をとって、待ち合わせの時間を決めて、私と娘は、別行動を取るようになっていきました。

 もともと、私は、お買物というものが、あまり好きではなく、人と一緒に買い物をして歩くことも、あまり、好きではありません。自分のペースでさっさと見て歩き、即決、即買い、驚くほど、早く、時間をかけません。

 夫は、私とは、違って、お買物が大好きなのです。

 ひとつひとつ立ち止まっては、遠くから眺めてみたり、説明書きを丁寧に読んでみたりと、時間がかかる上、およそ、実用的なものには、興味がなく、必要なものを買ってきたためしがありません。

 夫が好きなのは、アンティークといえば、聞こえは良いですが、古い置物や飾り物、
食器類などなど。蚤の市などを見て歩くのも大好きで、外地を転々としていた頃に買い集めたものなどは、どうしていいものやら・・・。

 まったく、「家を博物館にでも、したいのかい!」という感じなのです。

 日本にいた頃に買い集めたものだけでも、大きいものは、階段簞笥や屏風、日本画、掛け軸、大きな扇子、漆塗りの舟型などの和食器、刀、鎧兜、花瓶など、アフリカでは、そこそこの大きさの木像(象や人のものがいくつも)、銅像、マスク(お面)、ボンゴなどの楽器類、アフリカの村のメダルを集めた額、民族衣装から豹の皮まで・・。

 大豪邸に住んでいるならいざ知らず、一般庶民の私たちのアパートは、物にあふれているのです。

 シンプルな生活を心がけている私としては、夫が何か、買い物をしてくるたびに、” また〜〜〜!” と、ため息をつくのであります。

 











2019年8月25日日曜日

イギリスのホスピスにいた、ある青年とお母さんの話




 私は、二十歳になるまで、身近な人の死を経験したことがありませんでした。

 私が初めて経験した身近な人の死は、祖父の死でした。
祖父は、最後をチューブに繋がれた状態で、家族も近づかせてもらえない、寂しい最期でした。

 祖父の死に方に疑問を抱いたことをきっかけに、私は死生学の勉強を始め、何年かのちに、現在のホスピスムーブメントの牽引となっていたシシリー・ソンダースのオープンしたセントクリストファーホスピスをはじめとしたホスピス大国であるイギリスのホスピスにスタージュに行きました。

 私がスタージュをさせていただいたのは、ロンドンの北部に位置するベルサイズパーク駅から5分ほど、道幅の広い、緑に囲まれた静かな住宅街の中にある EDENHALL MARIE CURIE CENTRE というマリーキューリー記念財団の運営するホスピスでした。

 そこで、私は、約一年間、死を目前にひかえた人々にたくさん接し、彼らとお話をし、色々な場面を目の当たりにしてきました。

 死を目前に控えた人のための施設ということで、初めて、足を踏み入れるまでは、私は、もっと緊迫したような空気を想像していました。

 ところが、そこは、私の想像とは、かけ離れた、ゆっくりとした暖かい空気の流れる空間でした。そして、私のような外人の拙い英語にも関わらず、患者さんは、意外にも色々な話をしてくれるのでした。

 人が最後に話したいことは、何なのか? 人の心に最後まで宿り続けるものは何なのか? 私には、とても興味のあることでしたが、それは、家族の話でした。

 可愛い妖精のような娘の話とか、料理上手な妻の話とか、優しい夫の話とか、それは、たとえ、もうその家族が亡くなっていたとしても、彼らの心を占めているものは、家族だったのです。

 その中でも、最も印象的だったのは、ピーターという、まだ二十代半ばの青年とそのお母さんでした。

 彼は、個室に入っていましたが、ほぼ、彼のお母さんがつきっきりで彼の看病をしていました。看病しているというよりは、一緒の時を過ごしていたという方が正しいかもしれません。

 まだ、私がホスピスに通い始めてまもない頃、他のキャサリンというスタッフに付き添って、彼の部屋を訪れた時のことでした。

 ”初めまして、日本から勉強に来ています。よろしくお願いします。”と言った私は、いきなり、キャサリンに注意されました。

 彼は、まったく耳が聞こえず、口がきけないのでした。

 私は、彼のベッドサイドへ近寄り、ただ、ニッコリと手を差し出して握手をしました。窓からたくさんの光の差し込むベッドの中から、ゆっくりと手を差し出す彼の穏やかな眼差しは、彼の若さとは裏腹に、また、言葉がない分、私には、余計に深いものに感じられました。

 日焼けした彼の顔からは、ガンの末期だなどとは想像もつかない感じでした。

 しかし、彼と彼のお母さんは、なぜ、こんなにもこの人たちばかりに・・と思ってしまうほど、考えうる不幸を思い切り背負い込んだような二人でした。

 彼は、生まれた時から耳が聞こえず、口がきけず、彼の父親は彼が5才の時に亡くなり、彼のお母さんは、女手一つで、彼を育ててきたのです。ここに来る前までは、ROYAL SOCIETY OF DEAF という施設に通って生活していましたが、肺ガンにかかり、2ヶ月ほど前にガンが発見された時には、もうすでに、末期の手遅れの状態で、やむなくここに入院してきたのでした。

 そんな、辛い境遇の中、この二人、特にピーターのお母さんは、とても明るい人でした。最初に病室を訪れた時も始終、笑顔で「今日は、私たち、これをいただくのよ!」と、シャンパンの瓶を大事そうに抱え、「よかったら、ご一緒にいかが?」と朗らかに言いました。(そのホスピスでは、アルコールもタバコも禁止ではありませんでした。)

 それから、何回か病室をのぞきましたが、彼女は常にピーターと共にいました。

 彼女たちに振りかかっている苦悩に満ち溢れた現実とは裏腹に、なんだか、たわいもないことをしているのに、彼の部屋は暖かい幸福な空気に包まれ、実にゆっくりと時が流れているようでした。
 それは、暖かい陽だまりのような、不思議な空間でした。
 彼の部屋はもう、すでに彼らの家のようでした。

 彼らは、決して孤立しているわけではありませんでしたが、スタッフも彼らとの距離をとても上手に保っているようでした。

 それから約一週間後、私がホスピスに行くと、真っ赤に泣きはらしたピーターのお母さんに会いました。彼女は、泣いていましたが、このホスピスにいる間にできる限りのことをスタッフにサポートを受けながら、やり遂げた・・そんなことを言っていました。

 それから、私は、自分が死ぬ時に、自分の心を占めていてくれるような、自分の家族を持ちたいと思うようになりました。

 

 

 





















2019年8月24日土曜日

旅の醍醐味はハプニング イタリアの旅




 以前、私がまだ、日本にいた頃、イタリア好きの日本人の女の子と二人でイタリアを旅行したことがありました。楽しかった旅行も今になっても思い出すのは、日汗もののハプニングばかりです。

 東京から、ローマ経由でシシリー島へ飛び、パレルモで車を借りて、を途中、アグリジェント、シラクーサなどを周り、何泊かしながら、タオルミーナまで行き、その後、フィレンツェに寄って帰りました。

 まず、最初のハプニングは、ローマに着く飛行機が遅れて、ローマからシシリー行きの飛行機に乗り遅れたことから始まりました。

 ローマの空港に着くなり、空港の中を走って、次の飛行機に乗ろうとしたのですが、間に合わず、チケットを次の便に切り替えてもらい、まずは、一息。

 次の飛行機は、翌日の早朝で、もうすでに夜遅くなっており、今の時間から、ローマの街に出て行くのは、危険だと判断した私たちは、女二人で、ローマの空港のベンチで夜を明かすことにしました。

 夜も更けて行くにつれ、空港にいる人はどんどん減っていき、警備のための長い銃を持った憲兵隊が現れ始め、パスポートのチェックを受け、残っている人は、空港の中央に集まって座るように促されました。

 お気楽な私たちは、”これは、安心だね!” と言い合いながら、交代で仮眠をとり、翌朝、パレルモへと発ったのでした。女二人で、あの一夜を明かした、レオナルドダビンチ空港の赤いベンチを私は一生忘れることはないでしょう。

 そして、パレルモに着いて、車を借りて、さあ、出発!となったところで、運転できると言っていた友人が " あれ?エンジンがかからない!” と言い出し、結局、彼女は運転が危ういことが判明。私がずっと運転する羽目になりました。
 でも、彼女は、イタリア語も堪能で、見事なナビゲーターを務めてくれました。

 日本人の女の子二人の車での珍道中で、美味しいものを食べては移動し続ける中、シラクーサに寄ったところで、日本人の女の子に出会いました。

 すっかり、私たちと意気投合した彼女は、イタリア人の男性とシラクーサでもう何年も暮らしていて、日本人に会うのも日本語を聞くもの久しぶりとのこと、ぜひ、夜、うちにご飯を食べに来て!と言われて、彼女の家に招待してくれて、その彼の友人(一日の患者さんがたったの三人という歯医者さん!)も交えて楽しい食事の時間を過ごしました。

 そして、途中、エトナ山の白ワインやマグロを堪能し、タオルミーナでは、念願だったグランブルーの撮影に使われたホテルに泊まり、エンゾが映画の中で食べていたパスタも思いっきり食べ、大満足な時を過ごしました。

 シシリーからフィレンツェに行く飛行機は、これまで乗ったこともない小さなプロペラ機のような飛行機で、アットホームな雰囲気で、手作りのクッキーのようなお菓子が出てきたのが印象的でした。

 フィレンツェでは、滞在が短かったこともあり、1日目は二人で歩きましたが、二日目は、何回も来ている私の友人は、プラダのバーゲンに行くといい、プラダには、興味のなかった私は、行きたいところを一人で回りました。

 フィレンツェの街を一人で歩いていると、まあ、イタリア人の男性が女性にこれだけ声をかけるものかとビックリするほどで、私があんなにモテたのも後にも先にもないくらいでした。また、引き方もスマートで、あっさりしたもので、これもまた、見事なものでした。

 一人で登って行ったドゥオモの最上階で働いていたお兄さんは、ドゥオモから見えるフィレンツェの景色の絵をわざわざ目の前で書いて、プレゼントしてくれたり、ウフィッツイ美術館で、チケットを買うのに手間取っていた私のところに、すっと現れた美術館の男性がチケットなしで、美術館内を案内してくれたりで、至るところでガイドをしてくれる人がいました。

 夜は、友人と食事をすることになっていたので、ひととおりの観光を済ませて、ホテルへ向けて、歩いているところに、また、一人の男性から声をかけられました。

 私は、友人と約束があるからと断ったのですが、では、ホテルまでの道を一緒に歩いて案内するからと、ホテルまでの道を二人でおしゃべりをしながら歩きました。

 自分の仕事のことや、家族のこと、そして、宗教のことに話が差し掛かった時に、私が自分が無宗教だということを話したら、その人は、とてもビックリして、私に言ったのです。” 宗教がないなんて!だったら、死ぬとき、どうするの ???” と。

 気軽に女性に声をかける男性ながら、宗教なしに死ぬときどうするのか?という純粋な目をして、疑問を投げかける一面に、なぜか、ドッキリしてしまった私でありました。

 















2019年8月23日金曜日

子育てをして、改めてわかる親の有り難み




 私が幼い頃は、とても厳しい母でしたが、成長するに連れて、母は、” こうしなさい!” とか、” こうするべき!” とか、そういったことは、言わなくなりました。

 ただ、母は、” やっぱり、子育ては、できたら、した方がいい " とだけは、常々、言っていました。

 そして、そんな、母の言葉がどこかに染み付いていたのか、私の中にも漠然と、子育てをしてみたい・・という気持ちが、どこかに、いつも潜んでいたように思います。

 そんな私は、主人と出会い、子供を授かり、なぜか、思ってもみなかった海外で子育てをすることになりました。

 周りに、子育てを助けてくれる人もなく、その代わりにうるさく言われることもなく、自分の感じるように、思うように、子供を育ててきました。

 でも、振り返って考えると、私が娘にしてきたことは、国や環境が違っても、基本的には、母が私にしてくれてきたことをなぞってきたことに気付かされます。

 毎回、栄養のバランスを考えた食事から、あいさつ、人への思いやり、日本語の読み書き、英語、ピアノ、学校選び・・などなど、母が私に教えてくれていたことは、数え切れないほどです。

 そして、そんな母が私にしてくれてきたことを私が自分の子供にするのは、当然のことのような、思い込みが、知らず知らずのうちに、私の中に埋め込まれていたのです。

 私が子供に対して、当然するべきことと思っていた一つ一つのことは、母が私にしてくれていたことで、その子の個性もありますから、全く同じではないにしろ、いざ、自分がやってみると、そのひとつひとつがどんなに大変なことだったのかが、事あるごとに、改めて、しみじみと感じさせられます。

 実際に子育てをしてみて、改めて、親のありがたみを感じている方も少なくないと思います。

 親にしてもらってきたことは、感謝しつつも、どこか、当然のこと、あたりまえのことと思ってしまいがちです。

 しかし、子育てに関することだけではありませんが、あたりまえだと思っていることは、実は、あたりまえではないのです。

 あたりまえのことなど、本当は、一つもないのです。

 何でも、”そんなのあたりまえだ!" と思ってしまっては、感謝の気持ちも生まれません。感謝の気持ちを感じられなければ、本当の喜びも感じられないのです。

 先日、母が書いてくれていた育児日記を見つけました。

 私が生まれてからの様子が細かく記されていました。今、改めて読み直してみると、それは、私自身の成長の記録だけでなく、小さなことにも一喜一憂しながらも、愛情深く育ててくれた母自身の記録としても読み取れます。

 私は、愛されていたということをその日記によって、改めて確認することができていることに、とても感謝しています。

 そして、母の教育の中で、一番感謝していることは、子供を持ちたい、育てたいという気持ちを知らず知らずのうちに私の中のどこかに植え付けてくれたことです。

 私は、特別なことは、何もしてこなかったけれど、子供を産んで、育ててきたということで、自分が生まれてきてよかったと思えるからです。

 いつか、娘が子供をもって、彼女自身の育児日記をつけてくれる日がくることを私は、楽しみにしています。

 

 
























 

2019年8月22日木曜日

フランスのモードの世界 




 パリは、モードの発信地として、世界的にも、誰もが認めるところとなっています。

 他の色々なことが、なかなか、改善されず、古いままなのに、モードの世界だけは、なぜか、新しいものが、どんどん、遅れることなく、次々と出てくるのは、一見、とても不思議なことでもあります。

 モードの世界では、毎年、春夏、秋冬、と、シーズン毎の新作のコレクションが発表され、店頭に並ぶ、およそ一年くらい前から、デザインは、出来上がっており、個々のお店が新作の注文をするのも、9ヶ月ほど前になります。

 ですから、モードの世界を追っていると、ふと、なんだか生き急いでいるような気さえしてしまいます。

 その年、その年の流行には、共通するものがありながら、それぞれのメゾンで独自のデザインを発表しています。

 そしてまた、それぞれのメゾン、中でもグランメゾンといわれる、一流のメゾンのプライドたるや、相当なものです。

 あたかも、それにふさわしい人以外には売らないと言わんばかりに、デザインを壊すサイズのものは、敢えて作らなかったりもするのです。
 
 まあ、当然といえば、当然です。
 デザインを壊してしまっては、ブランドのデザインは、崩れてしまいますから・・。
 その毅然とした態度は、あっぱれとしか言いようがありません。

 そんな風に、ファッション、化粧品、香水の類は、およそ、フランスの現実とは、かけ離れた速度で着々とシーズン毎に素晴らしい新作、新商品を発表していくのです。

 また、新作の買い付けも、グランメゾンに関しては、華やかにパーティー形式を取っているものや、化粧品などの説明会などは、本社の美しくデザインされた研修センターや一流ホテルの大広間を貸し切っての朝食のビュッフェから、昼にはコース料理が振舞われ、1日がかりの華やかなプレゼンテーションの中で行われています。

 しかし、そんな、モードの最先端を走ることが可能なのは、モードの世界も、フランス文化の古い歴史と基盤の上に成り立っているからなのです。

 そして、それは、また、フランス人の美的感覚、色彩感覚の鋭さでもあり、フランス人のプライドでもあるのです。

 いみじくも、あるフランスの歴史学者が、” 一見したところの美しさとは、多くの場合、ふたたび見出された過去にすぎない " と言っていますが、それは、モードの世界にも言えることなのかもしれません。

 住んでいれば、トラブル満載のパリではありますが、やはり、パリの街並みは美しく、街の中に掲示されている広告でひとつひとつもまた、パリの街並みに溶け込むようなセンスの良いものばかりです。

 そんなパリの街で育まれているモードの世界は、やはり、フランスのイメージそのものとなって、世界に発信されているのかもしれません。