2019年7月14日日曜日

フランス人は、女を捨てない! パリのジムでの大らかなパリジェンヌたち





 ある程度、子供も大きくなってきて、娘と二人で旅行する機会ができ、旅行先で、ふと、自分の体力の衰えを感じ、そういえば、日頃、身体を動かしていないな・・これでは、好きな旅行も楽しめなくなる・・と、危機感を覚え、旅行から戻って、スポーツジムに通い始めました。

 自宅と仕事場とのちょうど、通勤の中継点にあるジムに申し込み、仕事が早く終わった日は、30分でもいいから、身体を動かす習慣を持とうと、決意したのです。

 ジムは清潔で、おしゃれで、みんなが黙々と身体を鍛えて、汗している、そんな、静かな空間は、とても心地よいものでした。また、全く子供がいない空間というのも、日常とは、異なる空間にいることを感じさせてくれ、どこか、私をホッとつかせてくれました。

 そこは、以前は、ワイン蔵であったところを上手く残した作りのプールなどもあり、パリならではのとても素敵な作りになっていました。

 最初は、トレーナーの方がついて、身体をほぐす簡単なメニューを作ってくれたので、3〜4個のマシーンをそれぞれ、少しずつ使うトレーニングを始めました。身体がどれだけ、固まってしまっているのか、身体がギシギシいっているようで、それを身に沁みるように感じました。

そして、また同時に、ジムに来ている人たちの様子を見ているのもなかなか、楽しいものでした。
 
 筋肉をつけたくて、やたらと鏡をのぞきながら、満足気にトレーニングする人たち(男性も女性も)、自分のスタイルを誇示するようなウェアーに身を包み、練り歩くように振る舞う女性、また、自分の身体を愛おしげにいたわるようにゆっくりゆっくり身体を動かしている上品な年配の女性などなど、それぞれの人の暮らし様が見えるようでした。

 しかし、実際は、よほど、時間がある時でない限り、結局、ジムに寄っても、今日は、サウナだけ・・ハマムだけ・・ということになってしまう方が多く、私の折角のジム通いも、結局は、お風呂屋さんのようになってしまうことも多かったのです。
 
 まあ、汗を流して、日常では、会わない人たちと会って、スッキリ気分転換をできるのは、とても良いことでした。

 女性用の更衣室では、また、別の、驚きもありました。

 フランス人の女性たちが、けっこう、あっけらかんとしていて、たいそう脱ぎっぷりがいいというか? あまり、ご自分たちの身体をお隠しにならないことです。あけっぴろげというか、なんというか、慣れるまでは、ちょっと目のやり場に困るような感じでした。

 私の行っていた時間帯からか、(学校のお迎えの時間にかかっている時間帯で、小さい子供がいる方が来れるような時間でもなかったためか、)若い女性よりも、ある程度の年齢の方が多いような印象でしたが、まあ、女同士とはいえ、まあ、あの、おおらかな様子は、日本のジムとは、明らかに異なった光景でした。

 また、僅かに身につけていらっしゃる、小さな下着も、明らかに、” ああ、この方々は、けっこうお年を召されても、女を捨てていないのだなあ・・" と思わされ、さすが、恋愛大国フランス!と思うと共に、自分自身を深く反省するものでもありました。

 また、スポーツジムならではの、真っ赤に灼けて、シワシワになった満面の笑顔でのバカンス自慢に興ずるパリジェンヌたち。彼女たちには、美白などという観念はありません。真っ赤に灼けて、象のようになった肌をリッチにバカンスを過ごしている証として、誇らしげにしています。

 私は、美しいでしょ!こんなにリッチにバカンスを楽しんでいるのよ!という、オーラを全開にして。

 また、ハマムの中では、全身を手作りのゴマージュでケアーする女性も・・。私は、出来るだけ、空いている時間帯を狙って行っていたので、ハマムの中で、そんなお肌のケアーをしている女性もいました。

 その方が、”匂い、気になりませんか? 大丈夫ですか?”と気を使っておっしゃって下さったので、” 大丈夫です。そのゴマージュは何ですか?” と聞くと、待ってましたとばかりに、” 朝、飲んだビオのコーヒーの粉を一晩、干して、アルガンオイルにつけたものなの!無駄がないビオでしょ!” と誇らしげに説明してくれました。

 その女性は、美しさのためなら、努力は惜しんではダメよ!とでもいいたげな感じでした。

 パリのジムは、そんな、日常では、うかがい知れない、パリジェンヌの一面をのぞける面白い場所なのです。















 

2019年7月13日土曜日

海外生活と日本の家族 母からの最期の手紙




 日本から離れて、海外生活をすると、日本の両親からは、言わずもがな、遠く離れることになります。日本から離れて暮らす娘を母は、どう思っていたのでしょうか?

 母は、英語が好きで、私や弟に小さい時から、英語を教えてくれていました。私たちに英語を教え始めたことをきっかけに、近所の子供を集めて子供に英語を教え始め、やがては、大学の先輩と共著で英語のワークブックを出版したり、英語のカードやカセットテープを作ったり、しまいには、英語教育に携わる人への講演会までするようになりました。

 出版や講演会などを行うようになっても、常に自宅で近所の子供を教えることは、亡くなる1〜2年ほど前までは、続けており、真面目な母でしたが、おしゃべりで、世話好きで、社交的で、人懐っこいところもあり、近所でも顔が広く、片時もじっとしていない人でした。

 ですから、元気だった頃は、私が海外に出ることも、寂しがるというよりも、むしろ、喜んでくれていて、あちこちで、私たちがパリにいることを触れ回り、近所の人もみんな私がパリにいることを知っていましたし、”おかげさまで、フランスでも、英語、褒められるよ!” などと言うと、とても、嬉しそうにしてくれていました。

 しかし、母は、拡張型心筋症という病気にかかり、発病してから、10年の間に、少しずつ弱っていきました。それでも、家で続けられる英語のクラスだけは、なんとか、ギリギリまで、続けており、それが可能な頃は、それなりに身体が辛いことがあっても、自分の好きな、半分は趣味のように楽しんでやっていた仕事が生きがいのようになっていましたが、いよいよ、それも、無理、家の中でも階段の上り下りは、控えるようにと言われて、寝室を一階の部屋に移した頃からは、弱気が垣間見えるようになりました。

 一度、弟が実家に立ち寄った時に、(その頃は、彼はまだ、日本に住んでいました)実家から電話をしてきて、" 日本に帰って来れるってこと(一時帰国ではなく)は、ないかなあ?” と、聞かれました。
 その時の私は、あまり深く考えることもなく、” 私は、主人と娘と三人で暮らしているのが、一番、しあわせ〜!” などと答えてしまっていました。

 後になって、ああ、これは、きっと、母が心細くなって、弟にボヤいたのではないかと思い至り、それから、毎週金曜日の朝、早めに家を出て、パリの時間で朝9時半頃、(日本時間で夕方)出勤前に会社の近くの電話ボックスから電話をするようになりました。
(その頃は、まだ、今のように、スマホもなく、ラインなどで、簡単に連絡が取れる環境には、なかったのです。)

 遠く離れている親不孝娘には、当時、そのくらいのことしかできなかったのです。

 それでも、じかに、声が聞けて、話ができるということは、母にとっても私にとっても楽しい時間でした。

 私が、話す、娘の様子などを母は、ケラケラ笑いながら聞いてくれ、その話題をネタに父や自分の姉妹たちとも楽しく電話で話したりしていたようで、それは、亡くなる直前まで続いていました。

 母が亡くなった後、母をなぐさめるつもりでしていた電話に、実は、私自身が大きく、なぐさめられていたことに気がつきました。

 母が最期にくれた手紙には、こう書いてありました。
 
 それは、私のお誕生日に当ててくれた手紙でした。

 「お誕生日、おめでとう。◯◯年間、生きてきてくれてありがとう。世界のどこにいようが、存在しているというだけで、私にとっては、うれしいことです。あなたも、そろそろ人生の折り返し地点です。今までの生き方を見返して、ゆとりを持てる生活、時間と労力を簡素化していって下さい。私は、気がつくのが遅かったことを反省しています。でも、夢は持って下さい。” 生活は簡素に、志は高く” (最近、読んだ本の一説)」

 海外生活をして、寂しい思いをさせてしまった母の気持ちは、もう、距離ではなく、存在自体を喜んでくれる高みに達していたのです。

 

 















2019年7月12日金曜日

いい加減は、良い加減ということ 海外生活の秘訣は良い加減に生きること 



 
 不思議なことに、たいていの日本人は、同じセリフで話を切り出します。

 私は、パリで長いこと、観光客に接する仕事をしてきたので、日本人観光客とも、お話しをする機会が多くありました。
 
 そんな中、たいていの日本人は、” もう、長いんですか?” と、決まり文句のように、話しかけてくださるのです。

 長いんですか?というのは、パリに住んで・・長いんですか?” ということらしいです。

”はい、いつの間にか、まあまあ、長くなりました。・・”と、私は、答えます。

 このように、観光でパリに来てくださる日本人の方の中には、少なからず、海外に暮らしている日本人の生活に興味がある方も多いようでした。
 どうして?どんな風に、海外で生活しているのか?ということを。

 そして、その次に来る質問は、
” え〜!?、じゃあ、ご主人がフランス人なんですか?” です。
” はい。” と答えると、
" わ〜素敵!!" と、主人の顔も知らずに、その人は、言います。

 フランス人だからといって、皆、必ずしも、フランス映画に出てくるようなハンサムな人ばかりではなく、結構、残念な方もいらっしゃいます。(笑)

 うちの主人はどちらかというと、その残念なタイプなのです。(笑)
でも、外見が残念だからといっても、中身まで残念というわけではありません。

 私自身も、まさか、自分が将来、長く、外国で暮らすようになるとは、思ってもみませんでした。海外旅行は好きで、独身生活も長かったので、色々な国を旅しました。

 しかし、旅行をするのと生活をするのでは、全く違います。日々、生活するとなれば、日本のような便利で安全な国に生まれ育った者には、華やかな先進国のイメージとは裏腹な、厳しい現実の暮らしが待っています。

 私は、特に、フランスが好きだったわけでもありませんし、むしろ、フランスというより、フランス語だけは、嫌だ!と思ってきました。それが、どういうわけか、フランスに住むことになってしまったのですから、人生は、わかりません。

 だから、どうして、私が海外に住んでいるのか? それを続けていられるのか? 正直のところ、私自身にもわかりません。
 まあ、強いて言うなら、出会った相手がフランス人だったということくらいです。
 
 でも、振り返って、改めて考えると、思い当たる理由は、あります。

 その一つは、留学経験があったことです。一度でも、長期で海外で過ごした経験は、実際の海外生活に飛び込むハードルを大きく下げる気がします。しかし、留学には、期限がありますし、仕事をするわけでもありません。自分一人がなんとかなれば良いのです。

 しかし、いざ、パートナーを持ち、仕事を持ち、子供を育てていくとなると、それは、全く違うものになります。最初は、異文化の生活に、いちいち疑問に感じたり、腹を立てたりすることを繰り返しながら、少しずつ、海外での生活に適応していきました。

 子供がいれば、なおさらのことです。言うべきことは、ハッキリ言わないと暮らしていけません。母は強しです。
 そして、それは、同時に、自分の家族を築いているという喜びでもあったからです。

 もう一つ、思うことは、あまり、固定観念に縛られないという事かもしれません。
日本に住んでいたなら、日本人として持つであろう固定観念も、海外に出れば、私も一人の外人です。いつまでも、それを引きずらずに、柔軟になることが求められます。

 それは、自分の中で、どうしても譲れない部分は、ぶれずに持ちつつも、あとは、状況に応じて、ある程度、いい加減にできるということかもしれません。

 いい加減というのは、ふつう、無責任というような悪い意味で捉えられていることが多いと思いますが、いい加減というのは、本来は、良い加減なのだということを以前、本で読んだことがあります。

 良い加減に、いい加減にできること、これが、海外生活の秘訣のひとつなのかもしれません。

 

 

 

 






2019年7月11日木曜日

夏の一時帰国時の日本の学校への編入体験 バイリンガル教育の生体験







 私は、娘が生まれた時から、いや、生まれる前から、娘にパパの母国語であるフランス語と私の母国語である日本語をしっかりと話せる人になってほしいと思っていました。

 ですから、娘が生まれてから、すぐにフランスに引っ越して、いよいよ、娘の母国語の基盤は、フランス語となっていきましたが、私は、娘には、常に日本語で話し、”ママは、日本語しか話しません。” を通してきました。

 また、単に会話だけではなく、読み書きもきちんとできるように、日本語を学ぶことが億劫に感じないように、フランス語の読み書きを学校で習い始める前に、日本語の読み書きも教え始めました。

 だいたい、フランスに普通に暮らしている分には、日本語は必要ないわけですから、娘が日本語なんて、いらない!と思わないように、先手先手を打っていきました。

 小学校就学の学年になると、日本国籍を持っている子供は、義務教育の間の9年間は、予め申し込みをしておけば、日本の教科書を無料でもらうことができます。一年に2回、(教科書の上巻と下巻)9年間に亘って、大使館に受け取りに行っていました。

 これは、日本のすごいところです。一体、世界中のどのくらいの国がこのような、教科書の無料配布を海外在住者にも行っているでしょうか?

 さて、話は、小学校の編入体験についてに戻ります。
手続きは、簡単でした。通わせたい学校(私の場合は、実家の学区域内の近所の小学校でした)の教頭先生に、予め、連絡をとり、子供の名前、年齢、学年、住んでいる国、言語、通わせたい期間等の連絡をします。

 当日、学校へ行って、所定の用紙に書き込みをしたり、登校する日にち分の給食費を支払い、登下校時に着用が義務付けられている帽子と防犯ブザーを買い、準備は、ほぼ完了。教科書などは、フランスで頂いていた教科書とは、違うものだったので、その期間だけ、学校から貸していただきました。

 私は、先生との打ち合わせの中で、フランスの学校にはない、給食係や、掃除当番などもお客様扱いはせずに、やらせてほしいとお願いしました。些細なことではありますが、給食係や掃除当番などの仕事は、フランスの学校にはなく、(フランスでは、給食は、キャンティーンの仕事をする大人が、また、お掃除は、お掃除の仕事をする大人がやるので、生徒は一切関わることがありません)これも、日本の文化の一つだと思ったからです。

 それは、ほんのわずかなことですが、後になって、たとえ、外からでも日本人を見るときに、日本人がこのように教育されて育ってきている人たちなのだということが何か一つのヒントとして、わずかでも、娘の中に刻まれていればと思ったのです。

 実際に、教頭先生も最初から、とても、好意的、良心的で、最初にお話をした時も、快く、受け入れてくださり、逆に、”フランスですか〜 フランス語かあ〜 英語ができる教師はいるんですが・・”と、あくまで、寄り添ってくださる姿勢で、こちらの方が恐縮し、”  日本語は、話せますから、大丈夫です。日本語での生活を同世代の子供たちと経験するために、お願いするのですから・・全て、日本語でお願いします。”とお話ししたのでした。

 実際の学校生活では、日本語で困ることは、なかったようですが、近所の同じ学校に通う子供が一緒に登校してくれたり、クラス内で、”ボンジュール!”という挨拶が流行ったりと、クラスのみんなも半分フランス人の娘が珍しいのもあってか、ともに楽しい時間を過ごしてくれたようです。

 こうして、娘は、日本の同学年の子供たちが、どんな風に学校生活を送っているのか、名前を苗字で呼び合うことや、給食や体育の着替えや授業までを全て同じ教室でやることなど、フランスではない生活を日本語で身をもって体験させていただいたのでした。

 そこから、彼女の中に何が残ったのかは、わかりませんが、違う国の学校を体験することなんて、そうそうできるものではありません。夏の間にお子さんを連れて、日本に帰るご予定の皆さま、ぜひ、体験させてあげては、いかがですか?

 その年頃にしか、できない、貴重な経験となると思います。

 












 

 













2019年7月10日水曜日

日本に帰ると猛然と食べまくる!帰国時の海外在住日本人の姿




 海外在住の方なら、誰でも、日本に帰国する際には、日本での美味しい食事を楽しみにしておられることと思います。私たちも例に漏れず、もの凄い、意気込みで日本の食事に臨んでおります。そして、恥ずかしながら、その執着の様子は年々、激しくなっているような気がします。

 特に、娘は、半分フランス人でありながら、フランス料理には、苦手なものが多く、大の日本食党で、その鼻息の荒さと、それにかける努力と情熱には、毎回、驚かされます。

 日本行きが決まると、まず、日本で思いっきり食べるための、ダイエットから、その行程は始まります。まあ、3キロを目安にダイエットを開始。そして、日本での食事を夢見ながら、着々と痩せて行きます。

 そして、日本に行ったら、食べたいもののリストを作ります。お寿司、天ぷら、中華、とんかつ、洋食・・・。ぜひ、行きたいお店もピックアップして、フランスにいるうちに、サイト等で探したり、友人に聞いたりして、目安をつけておきます。

 そんな、グルメじみたことを言ってはいるものの、もう、実家の近所のスーパーに行っただけで、大興奮!周囲の目も気にせず、野菜一つをとっても、ひゃ〜っわ〜っ!!おいしそう!!と目の色が変わります。傍目からは、”何だ!アイツら?” と見られているに違いありません。

 食事も、日本で、済ませなければならない用事に合わせて、スケジュールを組みます。
例えば、帰国時には、必ず通っている美容院が恵比寿にあるので、恵比寿近辺で美味しいお店を探したりします。

 例えば、2週間の滞在なら、朝食は、まあ、自宅で取るとして、昼と夜の食事14日間×2で28回の食事のチャンスがあります。全て外食というわけではありません。食べたい食材もリストの中には含まれているので、季節によって、食べたい野菜や魚などもあり、食材を買ってきて、家で好きにお料理して食べることもあります。
 
 前回は、冬の帰国でしたので、おでんをたくさん食べました。おでん種もパリで買えないこともないのですが、高いし、そんなに豊富にも揃いません。だいたい、大根が・・日本の大根は美味し〜い!!

 とにかく、娘たるや、その28回の食事の、ただ一度さえも、余計なものは、食べたくないのです。ちょっとお腹が空いたから、まあ、これでも食べておこうか・・なんてことは、許されません。また、お腹がいっぱいであっても、次の食事を美味しく食べられるように、夜、ひたすら、何キロも歩いたりします。偶然、夜、見かけた近所に住む従姉妹からの、娘があまりの勢いで歩いていたから、通り過ぎてから、気がついた・・という目撃談まであります。(笑)

 だいたい、胃の具合が自分の食い意地に付いて行けずに、日本にいると、常に満腹状態。常に胃腸薬を携帯。一年分の恨みを食い尽くすが如く、”ああ、これが、こんなに焦る事なく、小分けにちゃんとお腹が空いているときに食べられたら、どんなに美味しいだろうか?” と思いながらも、次の食事の事を考えています。
 この意地汚さには、我ながらも、ちょっと引いてしまうこともありますが、ここは、日にちに制限があるゆえ、自分を省みている場合ではありません。

 また、考えているのは、次の食事の事ばかりではありません。フランスに持って帰る食材についても重さを考えながら、優先順位を考えながら、買い物にも、余念がありません。他の買い物をする場合も、”これを買ったら、この分の食料を持てなくなってもいいのか?” という基準で選びます。預ける荷物は大抵、一人当たり23キロのスーツケース2個、×二人分で、92キロ。手荷物にする分を合わせると、合計100キロ以上の荷物の大部分は食料品です。

 羽田でチェックインの際も、毎回、”お引越しですか? 大変ですよね〜。” などと言われつつも、これは、いつものことで、”え〜、ま〜〜” と苦笑いしながら、スルー。日本の美味しいお米を始めとして、茅乃舎のだし、乾燥しじみ、あさりパウダー、ゆずの皮、昆布、お蕎麦、明太子、干物、佃煮、お漬物、季節の野菜、おせんべいなどの日本のお菓子類、などなど・・もう、持って帰りたいものに限りはありません。

 周りの親戚や友人からは、もはや、同情にも似た、”可哀想に・・”という目で見られます。”フランスにも美味しいものがいっぱいあるじゃない!!”と言われるたびに、二人揃って、”いやいやいやいや〜〜〜〜” 日本食が一番!!と。

 そんなに日本食がいいなら、日本に住んだらいいじゃない?とも思うのですが、これが日常になってしまったら、この感動は、味わえなくなるのです。何とも自虐的な喜びではありますが、そんな風に私たちは、帰国時には、思う存分、日本食を味わっているのであります。


<写真は、自由ヶ丘・九品仏近くの「こばやし」のランチ>
 ここは、お魚がとても美味しい著名人もよく訪れるお店です。
 

 











2019年7月9日火曜日

人生の勝ち負け、勝ち組、負け組  ー駐在員の妻の社会ー




 時々、耳にする、勝ち組、負け組という言葉が私は大嫌いです。

ある日、私は、職場の同僚に、”あなたは、勝ち組だからいいわよ・・” と言われて、耳を疑いました。というより、勝ち組という言葉を使う、その人に猛烈な嫌悪感を感じたのです。

 何を根拠に、その人が、私を勝ち組だといったのか? 全然、わかりませんが、その時に改めて、私は、自分自身がその言葉に対して、物凄く、嫌悪感を感じることに気がついたのです。

 人の人生、勝ち組とか、負け組とか、何を基準に言ってるのか知らないが、勝手に判断するな!・・勝手にお前の枠にはめて、人の人生を勝ちとか負けとかいう言葉でくくるのは、やめてくれ!という気持ちです。

 それと、似た類の思いを別の機会にしたことがありました。

 それは、日本人の海外駐在員の妻の世界です。私は、どっぷりとそれに浸かったことはないし、国や、構成メンバーによっても違うかもしれないので、これは、あくまで、私が目にした特別な世界でのお話ですので、ニューヨーク、パリ、ロンドンなどの大都市とは、別だと思いますので、悪しからず。

 日本とは違う意味での海外という不自由な世界で、また、海外駐在員の妻という、旦那の肩書き=自分の肩書きのような、妙なプライドもあります。旦那の会社や役職のランクによって、妻のランクも変わるのです。また、大使館、金融、商社、メーカー、公的機関によってもランク付けは違うそうです。
 私は、主人がフランス人でしたので、ランク圏外でしたが。

 私が目にしたアフリカの駐在員妻の会は、大使夫人を中心とし、そのお取り巻きが数名おられ、それを取り囲むように、一見、和やかに行われていました。そして、大使夫人のお世話係が毎日、当番制になっていて、朝8時から麻雀、午後には、お茶会などが行われているということでした。
 家には、家事等をしてくれるボーイさんやメイドさんが各家庭にいるために、時間が有り余っているのです。私は、初めての、しかも、アフリカでのお産を控えて、助産婦さんだった方をご紹介いただけるとのことで、そのお茶会に一度だけ参加させていただいたのです。

 何部屋もある広いアパートに住み、ボーイさんやメイドさん、運転手さんもいて、一見、優雅で豪華な生活だけど、このよそよそしい妙な雰囲気は何なのでしょうか?

 私がその会にお邪魔していた時、たまたま、誰かの黒人の運転手さんが玄関先で待っていたのです。すると、会の中の一人の女性が、”だあれ? ここにいる人? なんで、こんなところにいらっしゃるの? この方?” と、嫌味満載な言い方で、周りの人に呼びかけたのでした。一瞬、その場の空気が固まりましたが、すぐに、その後始末にまわる、別の方が、その運転手さんを玄関の外に連れて行ったのです。

 人間、こんな風に暮らしていたら、腐るな・・。というのが、私の実感でした。

 ただでさえ、アフリカという辺境? 偏狭?の地で、言葉も不自由、行動も不自由な世界ですから、日本人同士で協力し合うのは、わかりますが、これも、ある意味では、協力なのかもしれませんが、とても異様な世界でした。

 私は、早々に、大学に通うことにして、その大学のクラスメイト(同じクラスといっても、たった3人か4人のクラスでしたが、アメリカ人や韓国人などがいました。)と仲良くしていました。

 そういう、一種、特別な環境に置かれると、元来、日本人にありがちな、他人と違うことを許さない、ましてや、自分たちより下のものを遠回しに裏で隠れて噂話で、非難して、自分たちの価値観の枠にはめようとするような、ある種の島国根性のようなものが、限られた日本人社会になると、さらにそれが凝縮され、それに迎合できなければ、生きづらくなるような環境が生まれるのです。

 せっかく、海外に出て色々な経験ができるのだから、もう少し、ひろ〜い心と目を持てたらいいのにな、と思った次第であります。


海外駐在員の妻の社会









2019年7月8日月曜日

お稽古事の向き不向きーピアノの鍵盤を数えて覚えようとした娘




 私の幼少期には、物心ついた頃から、母が英語とピアノを教えてくれていました。

 ピアノは、小学校に入学した頃からは、別のピアノの先生に習いに行きましたが、英語は、小学生の間は、母が教えてくれていました。

 母は、英語が好きな人でしたので、英語を教えるのが趣味のような感じでした。後には、近所の子供を集めて英語を教えたり、ついには、英語のワークブックを出版したり、カセットテープを作ったり、自動英語教育をする人に講演をするまでになりました。
それもこれも、もともとは、私に英語を教えようとしたことが、きっかけでした。

 小さい頃の私は、英語のお話のカセットテープを聴きながら、寝かしつけられていました。英語で読まれた ”グルンパの幼稚園” などは、暗唱できるくらい何度も何度も聞いていましたし、英語の単語カードなどを使って、楽しく英語を教えてもらっていました。

 そんな、母が私にしてきてくれたことは、別に何を言われたわけでもないのに、母親が子供に当然やるべきこととして、私の中に自然と刷り込まれていたのです。ですから、私は、大して考えることもなく、私は、娘には、英語+日本語を教え、(まあ、私の場合は、状況も違ったので、英語も少しは、教えましたが、日本語を教えることの方が、圧倒的に優先していましたが・・・。)ピアノも教えるつもりでした。

 日本語の教育については、以前、バイリンガルの教育として、書かせていただきましたので、ここでは、私が娘にピアノを教えようとした時のことについて書きます。

 それでも、最初は、娘がピアノが好きになるかどうかもわからないので、小さいキーボードを買いました。そして、まず、それこそ、バイエルの上巻からです。右手の練習から・・。と始めようとすると、娘は、まず、鍵盤を数え始めたのです。???と、しばらく見ていると、娘はピアノを数えて覚えようとしていたのです。

 これには、ビックリしました。ピアノを弾くのに音で覚えようとしないで、数えて覚えようとする子供、いや人を私は、初めて見ました。これは、おかしいぞ・・と思いました。私は、どちらかというと、適当になんとなく、楽譜もよく見ずに弾いて、よく先生に怒られたものでした。娘は、その真逆でした。

 そして、決定的に絶望的な事実が判明したのです。

 主人はビックリするほど、音痴で、カラオケなどでも、聴くに耐えない酷いもので、(しかし、本人はそんなことは、いにも介さず、朗々と歌い上げるので周りは堪りません。)見事に娘もその残念な遺伝子を引き継いてしまっていたのです。

 しかも、何でもやりたがりの娘が、ピアノの練習は10分もすると、”おててが痛くなっちゃった〜” と始まるのです。どんなに走り回っても、足は全然、痛くならないし、疲れもしないのに、ピアノは10分もすると、おててが痛くなってしまうのです。

 しかも、彼女は音を音で覚えるのではなく、数で数えて覚えようとするという音楽へのアプローチ。これは、向いていない!と、バッサリ、ピアノは諦めました。

 私も自分の仕事もあり、無駄な時間もお金もありません。別にピアニストにするつもりで教えようとしていたわけではありませんが、あまりに才能のないものに無駄な努力を強いても、音楽が嫌いになるだけです。

 結局、ピアノの代わりのお稽古事は、バレエになりました。バレエもあまり、上手とは、言えませんでしたが、それでも基本的に身体を動かすのが好きで、本人は楽しくやっ
ていて、結局、10年くらいは続けたでしょうか?

 親がやらせたいからといって、明らかに才能のないお稽古事は、時間と労力とお金の無駄です。ある程度の期間で見極めをつけて、きっぱり諦めるのが賢明だと思います。

 そして、これは、お稽古事に限らないことなのかもしれません。子供があまりにも嫌がることを無理にやらせても、良い結果にはならないと思うのです。

 やたらとたくさんのお稽古事をさせている人もいますが、子供が好きで、得意なことを見つけて、ある程度、絞ってやらせてあげるのが、良いと思います。